犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(9) 幻の書評

2014-06-08 23:18:26 | 慰安婦問題


 世宗大学の朴裕河教授が、本書の書評を書き、自身のフェイスブックに載せているので、訳出・紹介します。(→リンク


掲載されなかった書評―朴裕河

 ある雑誌の依頼を受けて書いた書評を載せます。なぜ雑誌に掲載せず、こちらに載せることになったのかについては、いずれまた書く機会があるだろうと思います。少し長いので、眠くならない人向けかもしれません。^ ^

 夏に本を出して以降、関係のある文や記事の掲載を、私自身が拒否したり、相手側から拒否されて、載らなったことがもう三回目です(ファイルをコピペしているうちに、注釈の番号が消えてしまいました。該当の場所がわからなくなっていますが、最後に参考文献も載せておきます)。

〈皇国臣民〉朝鮮人の帝国協力
-「日本軍慰安所管理人の日記」

1

 20年以上、日韓の間で対立の原因を作ってきた慰安婦問題についての理解を深めさせてくれる重要な資料が現れた。ソウル大学の安秉直教授の研究チームが発掘した、「日本軍慰安所管理人の日記」(2013/8、イスプ)。

 この本は、京畿道坡州市の私設博物館のタイムカプセルから発見された、26冊の日記のうち、1943年と1944年の分を翻訳し、原文と一緒に収録したものだ。安教授による詳細な解題とともに、末尾にビルマで捕虜になった業者と慰安婦を対象に、米国が作成した資料(米国戦時情報局心理作戦班の「日本人捕虜尋問報告」第49号、および連合国最高司令部連合翻訳通訳局調査報告、『日本軍慰安施設』第2節慰安施設9慰安所 bビルマ(1)」も翻訳・収録されており、「朝鮮人慰安婦」について多角的に理解できるようになっている。

 1905年、韓国が日本の保護国となった年に生まれた「管理人」の日記は、実は全体的にはきわめて単調である。ただ食べて遊んで寝たという、小学生の日記のような内容が繰り返されていて、その合間に現れる、他の業者たちや慰安婦たちが爆撃で負傷したり、死亡したという話だけが、彼がいるビルマが「大日本帝国」の戦闘の地であるという事実を想起させてくれるにすぎない。

 単調さを破る話の中の圧巻は、元日に天皇の万寿無疆(長寿)を祈りながら、「敵の死命を決する決戦の年」(142)という調子の誓いの羅列だ。言うなればこの本は、そんなふうに完全に教育された一人の人間、「朝鮮人皇国臣民」の日記でもある。そして、そのような部分とともに、慰安所についての、朝鮮人と慰安所、日本軍と慰安所、さらには植民地時代の日本人と朝鮮人の関係そのものの再考を迫る本でもある。

 日記に現れる慰安所の風景は、管理人だけでなく慰安婦も出席する慰安所組合会議だとか、「使用人のビルマ人」を連れて「インド人電器商」を訪ねる占領者=「帝国人」としての朝鮮人(実際、彼らはそこで「日本人」であった)の姿(69)、慰安婦たちの到着と帰国に必要な手続きのための軍部隊との接触、日々の慰安所の収入計算、慰安婦たちの代わりに行なった貯金や送金などの様子を中心に記述される。

 そして、慰安婦の出産だとか(207)、廃業や帰国(169、182、185、193、206、209)の話もしばしば登場する。これは、慰安婦は妊娠すれば強制的に中絶され、廃業の自由もない奴隷のような生活をしていたという、われわれ韓国人の常識がくつがえされる場面でもある。それに加えて慰安婦たちは、映画を見に出かけたり、管理人と一緒に「救急法(応急処置)」を学んだり、国家の記念式典に出席したり、日本軍人の墓地を掃除したりもしている。

2

 このように、この日記に見られる慰安所の日常は、私たちに馴染み深い「監禁と抵抗」の姿とはずいぶん違っている。言い換えれば、この本は、私たちに馴染み深い慰安婦の「悲惨と苦痛」を語ることをしない。

 もちろん、記録されなかったことが、そのまま「存在しなかった」ことにはならない。したがって、そのような「不在」から、ただちにこの慰安所を悲惨でなかったと見なすことはできない。たとい送金できるほどのお金を稼ぎ、ときには映画観覧が許されている生活だったとしても、この慰安所は、やはり女性たちにとっては、基本的に悲惨な空間だったにちがいない。

 ところが、このような「悲惨」を最もよく見ることができたはずの、この管理人は、なぜそのような部分を記録しなかったのだろうか。

 彼の沈黙は、慰安婦問題をめぐる「業者」の位置と軍との関係の本質を明確に示しているように見える。つまり、彼の「懐疑なし」(叙述の不在)は、この管理人が特別な親日派や例外的な悪漢ではなく、「国家の戦争」に協力した当時の「国民」=「普通の人」であったということを物語ってくれているのではないか。言い換えるなら、彼が朝鮮人女性を日本軍に提供しながら、特別良心の呵責を感じなかったとすれば、そこでの行為ㅡいわゆる「慰安」が、私たちが思っていたのとは別の意味を持っていたためだった可能性が高い。

 したがって、彼を、「日本対朝鮮」というフレームで、単純に同胞を「敵」に引き渡した加害者だとか、逆に「しかたなく」軍の指示に従った被害者としてだけ見ることは、「管理人」の沈黙と位置を十分に説明できない。そのように分ける見方そのものが、解放後に「作られた」ものである可能性が大きいからだ。彼が、ただ沈黙したまま慰安所の業務を執り行っていくのは、彼が「帝国日本」が作った「皇国臣民」であり、その作業が、彼にとっては「国家のための」ものだったからであった公算が大きい。

 そのように見たときに初めて、慰安婦が負傷軍人のための応急措置を学んだり、兵士たちの墓をきれいにしたりする(157、211、227、266)行為が理解できるのではないか。つまり、業者と慰安婦は、日本との関係において、被支配者という意味での被害者ではあるが、ただ単純な「被害者」だったのではないという事実を、この本は、明瞭に示している。彼が時折、別の慰安所に行って遊んできたり(167)、捕虜収容所を監視する軍属が慰安所を利用したことが「憲兵に発覚して調査中」(208)という話は、(当時の捕虜収容所の監視員がほかならぬ朝鮮人男性だったことを考えれば、)「慰安所」とは朝鮮人たちも利用する場所だったということ、言い換えれば朝鮮人も「日本人」として「日本軍慰安所」を利用したというアイロニーに、読者を直面させる。

 安教授もやはり、業者の中に朝鮮人が多かった朝鮮の地では、「憲兵や警察が直接慰安婦を動員するのではなく、慰安所業者たちが慰安婦を募集」(23)したと、はっきり説明しているように、この日記は「日本軍が強制連行」したという国民的常識をくつがえす、画期的な内容でもある。

3

1) 「広義の強制動員」という理解枠の限界

 ところで安教授は、慰安婦は「営業手段として、個別に募集されたものではなく、日本軍によって計画的に動員」(16)された、とも言う。日記に出てくる「第4次慰安団」という言葉に注目し、「何回も動員していったとすれば、それは単純な関与ではなく、徴用、徴兵、挺身隊のような、日本政府の戦時動員として理解するほかないため」(16)だという。結論として安教授は、「日本軍部が朝鮮軍司令部と協力し、朝鮮から何回も慰安団を組織して、慰安婦を海外に送り出したのだろう」と言う。

 しかし、問題は「慰安団の組織」までの過程で、軍がどの程度介入したのかにかかっているだろう。慰安婦の証言集を見ると、各地から連れて来た女性を業者が船に乗せて引率していく様子がうかがえる。そして、そこに集まった女性たちの中には、この本の付録にも出てくるように、自発的に「応募」(408)した女性も混じっていた。例えばある慰安婦は、船に乗ったばかりの時の状況を、次のように描写する。

 最初は釜山に行って、だいたい一週間ぐらいいた。そのあと、集められた女の下半身の検査をした。(中略)船に乗った瞬間、私は、ああ騙されたと思った。でも看護婦の養成課程に通っていたんだけど、見る目がないからだろうね。でも、船に乗ってから、女たちが、性悪そうにうろついていた。そんな女が多かった。十人中八人はそう見えた。私には、すごく汚く見えた。口紅を塗って、眉もあんなに濃く描いて、それにタバコもたくさん吸っていた。最近はそんなに化粧をしないけれど、そのときはしていたわ。それで私は考えたの。ああ、業者のおばさんとおじさんに騙されたんだわ。あんな女たちを連れて金を稼ごうとしているのね。当時、私は処女じゃなかったのに、そんなに良心がとがめるなんて。(「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦3」244頁)

 
募集の依頼は軍部がしたといっても、後に慰安婦になった人々が船に乗るまでの過程は、決して同じではなかったということを、この証言は示している。したがって、たとえ騙されてきた人がいたとしても、「慰安団」自体は、一方的に連れて行かれる集団というより、「国家のために」出陣する兵士の集団のように、表面的な自発性と内部的な強制性が作った集団であったというべきだ。

 日本軍が、一部の業者を「軍属」として扱った場合があるという事実は、慰安婦問題における軍の役割が、「関与」にとどまらず、「管理」であったことを示している。その意味では、「広義の強制動員」という安教授の結論は、概ね間違っていないが、問題はそのような説明が、「慰安」をめぐる多様性――時期と場所によって、慰安所と慰安婦をめぐる状況が千差万別に多様であったこということが見えなくなるというところにある。「前借金」の10%を軍部が提供した(27)場合があったからといって、「広義の強制動員」という表現は、軍部が求めた正式契約ではない形の人身売買的な状況や、貧困その他の理由で「自発的に参加」した女性たちの存在を排除する機能を果たしてしまうのである。たとえば安教授は、「ビルマ全土に分布」(30)していた慰安所を、すべて「日本の組織的動員」(32)によってできたものとみなすが、戦争とともに「普及」していった慰安所以外に、戦争以前からアジア地域に進出していた既存の売春施設の場合まで、おしなべて同じ「広義の強制動員」と言うことはできないのだ。ところが、私たちの前に現れた慰安婦ハルモニの中には、そうした施設にいた人々が少なくない。

 日本軍は、既存の売春施設を「将校のための慰安所」として戦争末期まで利用した。部隊内の軍慰安所は、ほとんど兵士たちのためのものだった。桜倶楽部とか勘八倶楽部とかいう名前の将校用慰安所を、「営業手段としての個別的な募集ではない」と言えるだろうか。

 軍部による慰安婦動員は、国家による「やわらかい国民動員」であることは確かだが、すべての状況を「組織的動員」と規定することになれば、他の体系的で意図的な「合法的」動員――たとえば、徴用や徴兵との違いが見えなくなってしまうという問題も生じる。

 開戦後の動員の中で、慰安婦動員は、朝鮮が「日本人」になった結果、従わなければならなくなった「法」に基づく動員ではなかった。また、「慰安団」の人数合わせのために行われた「甘言や詐欺」は、軍の意志によるものではなく業者によるものである可能性が高い。「組織的な動員」、もしくは「強制動員」という言葉は、こうして業者の犯罪を免罪するという問題が生じるのである。

2)軍の統制の二つの側面

 本書は、慰安所が軍の厳格な管理下にあったことを明白に示している。しかし、慰安所の形態によって、その関係の緊密性には違いがあった。軍が利用できるように指定しただけの民間慰安所と、部隊内に存在した慰安所の統制内容が違うのは当然のことだ。慰安所が慰安婦の解雇同意書や廃業同意所を「交付」されたのは、軍の統制と権力を物語るものだが、同時にそのような統制の外側に存在した慰安所の存在と、そこで働いていた慰安婦の存在を無視することはできない。

 何よりも、軍の「管理」は両義的な面があった。たとえば安教授は、一度結婚して、出ていった慰安婦が、「兵站の命令で再び慰安婦」になったことを、「強制により再就業(38)」したものであり、「廃業が難しかった」(38)証拠とみるのだが、「兵站の命令」というものは、必ずしも慰安婦たちにとって抑圧的な面だけをもっていたわけではない。慰安婦たちは、ときには軍人に対して、自分がもっといい所へ行けるように、業者に「命令」してくれるように頼むこともあったからだ。したがって、帰国できたはずの女性たちが「たやすく説得」されたということを、必ずしも「軍の抑圧」としてのみ見ることはできない。「従軍慰安所」が、たいてい兵站の「命令に従って」移動したのは事実だが、「命令」を、軍の利益だけのためのものと判断することは、その「命令」を利用した業者や慰安婦自身の意志を排除してしまう。帰国する慰安婦の話が出てくるのに、「廃業が難しかった」(42)という、安教授の断定は、日記の内容に反しているのではないだろうか。

 実際に、軍部が業者から慰安婦を守ったこともあるということは、慰安婦の証言集の至る所に見いだされる。本書にも出てくるように、憲兵は、慰安所で軍人が「泥酔や喧嘩が起こらないように」(420)したし、暴行はいうまでもなく、業者の不当な搾取をも監視した。収入報告書を出させたことや、酌婦に対する「認可書」などの関連書類を出させた(224)のは、そうした文脈で理解されなければならない。慰安婦が到着すると、業者がその女性に関するしかるべき書類を持っているかどうかを、軍がチェックしたのは、女性が業者の「詐欺」によって連れて来られたのではないかを確認するためであったと見るべきだ。

 たとえば、軍の上層部が慰安婦をある部隊に派遣すると、部隊が業者に、予想される売上相当のお金を渡し、「慰安」活動なしに、自由に過ごさせた場合もあった。戦場という空間を支配していた軍の「統制」は、ときにはそのように業者からの慰安婦の解放として機能した側面もあったのだ。

 慰安所が軍部の統制下にあったことは事実であり、それが帝国権力下の植民地としての被害であったことは言うまでもないことだ。けれども、そのような「管理」活動に、業者の搾取を防ぐ側面もあったことを見なければ、慰安所に対する正確な理解を妨げるだけだ。

 「某所の部隊長が来て、行こうというけれど。慰安婦一同は絶対に反対して、行けそうもない」(61)と言ったという話も、慰安婦たちの意思が、ある程度尊重されていたということを示す例だ。また、管理人が軍の将校に「女たちの周旋方を依頼」(103)する場面は、居場所のない慰安婦たちのために、軍人が身の置き所を提供したことを連想させる。

3)軍隊と慰安婦

 日本軍と朝鮮人慰安婦の関係を正しく捉えるためには、朝鮮が当時、植民地になった結果として、朝鮮人もまた「日本人」になっていたという点を、まず考慮に入れるべきである。そうしてはじめて、慰安婦が日本軍の墓の雑草をとったり、掃除をしたり、勤労従事作業をしたり、決起大会に出る場面を理解することができるからである。「広義の強制動員」という概念は、「慰安」が「愛国」行為でもあった状況を、説明できない。

 安教授は「廃業が難しかった」ということを前提にして、既存の「性奴隷説」を支持しているが、前に見たように、その根拠は十分ではない。「慰安婦が軍編制の末端組織に編入され、軍部隊とともに移動するしかなかった」(42)のは、慰安婦が「軍の奴隷」だったからというよりは、「業者の奴隷」だったからだ。日本の責任を正しく問うためにも、その違いをはっきりさせるべきだ。

 ちなみに、朝鮮人慰安婦が多かった背景には、陸路で移動可能だったためという地理的な条件もあったとみられる。特に戦争末期には、海を挟んだ日本との移動が容易ではなかったからだ。

 慰安婦と業者に対する軍隊の権力は、両義的だった。つまり、日本軍が慰安婦を「下部組織」に編制するというやり方の管理と統制は、慰安婦を保護するという矛盾した機能も持っていた。加害者としての軍隊権力とともに、そのような相反する機能を一緒に見ていなかったせいで、画期的な資料発掘が、既存の慰安婦の理解を補完するにとどまったのが残念だ。

1上の文章で断りなしに書いた内容の典拠は、特に言及がない限り、朴裕河著『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘争』(2013年8月、プリワイパリ)に書いた内容だ。
2英国軍捕虜の手記『歴史和解と泰麺鉄道』(ジャック・チョーカー、朝日選書、2008)巻末の対談での朴裕河発言
3倉橋正直は、『従軍慰安婦と公娼制度』(共栄書房、2010)で、日本軍の進出にともない、軍部隊の周りに各種商業施設が立ち並び、売春施設が多かったことを明らかにしている。
4谷川美津枝『青年将校と慰安婦』(みやま書房、1986年)
5長沢健一『漢口慰安所』(図書出版社、1983年)

 前回、要約をご紹介した安教授の解題と、今回全訳した朴教授の書評についての考察は、次回書きます。


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2 コメント

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Unknown (松井)
2014-06-24 11:07:16
慰安婦問題については韓国、日本双方の主張に違和感を覚えていたが、このブログの内容は十分受け入れられる内容である。戦争という異常事態の中では様々なことが起こると思うが、その中でも日本は日本として自らを裁き過去に決着をつけるべきだと思う。
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コメントありがとうございます (犬鍋)
2014-06-27 00:59:07
韓国の主張は一枚岩ですが、日本にはいろんな論者がいますね。私はたぶんやや右寄りなんだと思います。
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