犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語⑤

2021-02-04 23:33:36 | 
『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語①
『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語②
『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語③
『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語④

 私は、『多崎つくる』をセクシュアル・マイノリティの物語として読みましたが、この作品は重層的で、いろいろな読み方が可能です。

 たとえば、ここまでに取り上げた人物以外にも、「色彩を持った」特異なキャラクターが登場します。

 灰田の話に出てくる緑川です。

 灰田は、自分の父親が20歳の頃に体験したこととして、次のような話をします。

 大学紛争に嫌気がさした灰田の父は、大学を休学し、大分県の温泉宿で働いていた。そのとき、40代の宿泊客と話をするようになった。それが緑川だった。

 緑川はどこかピアノを弾けるところがないか、と尋ねた。灰田(父)が近くの小学校に案内すると、緑川はセロニアス・モンクのラウンド・ミッドナイトを見事に弾いた。その演奏には、緑川の優れた才能が表れていた。緑川は、演奏に際し、小さな布袋をピアノの上に置いた。灰田が中身を聞いた。「お守りだよ。俺の分身と言ってもいいかもしれない」

 別の日、緑川は灰田に奇妙な話をした。

 自分の余命があと一か月であること。病気ではないこと。自分は悪魔と取引し、死と引き換えに、特殊な資質、「真実の情景を見る力」を手に入れた。自分は今、「死のトークン」というべきものをもっている。これを誰かに譲れば、自分は死を免れることができる。これを譲り受けられるのは、ある種の光と色を持っている人間に限られる。そういう人間の数はそんなに多くない。おまえ(灰田)もその一人だ。しかし、自分はこのトークンを誰かに譲るつもりはないが。

 緑川は、この話をした二日後に宿を引き払い、姿を消しました。

 灰田(息子)もまた、つくるにこの話をした少し後に、つくるの前から姿を消します。

 あとになってつくるは、これは灰田の父の話ではなく、灰田自身の話ではないか、と思うようになります。

 また、つくるは駅のトイレにあった遺失物の中身が、多指症という障害を持った人の、切り取られた指だったという話をある駅長から聞き、緑川が大事にしていたお守りは、実は彼自身の「指」だったのではないか、とも。

 灰田(息子)は、緑川から死のトークンを譲り受けていたのではないか。

 灰田は、深夜に金縛り状態のつくるを凝視し、つくるから特別な光が発せられていないこと、死のトークンを譲れる相手ではないことを確認して、つくるのもとを去ったのではないか。

 そして、灰田は超常的な力で、つくるの「性夢」のなかに入り込み、そこにいたシロに、「ある種の光と色」を見出したのではないか。

 アカは、昔のシロを回想してこう言いました。「あの子は性格的には内気だったが、その中心には、本人の意思とは関係なく活発に動く何かがあった。その光と熱があちこちの隙間から勝手に外に洩れ出ていた…」

 そして、物語の終盤につくるが見た夢の中で、ピアノの譜面をめくっていたシロは、6本指でした。

 灰田は実際にシロに会い、トークンを譲ったのではないか。その結果、シロは「真実の情景」を見た後、死を迎える。

 クロが、「シロは悪霊にとりつかれて死んでいった」というのは、このことを指すのではないか。

 この小説は、緑川の逸話を軸に、死と芸術と才能の関係、天才だけに見ることを許された至福の境地の物語として読むことも可能かもしれません。

 私がこの作品を、なぜ「セクシュアル・マイノリティの物語」として読んだのか、なぜ最初に読んだときとは異なる読み方をしたのかについて、思い当たる節があります。

 ラトビアのロシア人が、この作品と並べて、三島由紀夫の『仮面の告白』に感動した、と言ったことは、直接的ですが、ささいなきっかけの一つです。言うまでもなく、『仮面の告白』は、三島が同性愛としてカミングアウトした、自伝的小説です。

 私は、『多崎つくる』を最初に読んだとき、セクシュアル・マイノリティについて、詳しくありませんでした。

 ところが、そのころ、私の娘の一人が大学でとったゼミの影響で、卒論のテーマに「同性婚」を選んだのです。当時、アメリカでは、同性婚を認める州が次々に現れ、ホットなテーマでした。

 娘が引用したアメリカの新聞記事の翻訳をチェックしたりしながら、私は、同性愛だけでなく、さまざまなセクシュアル・マイノリティについての知識を得ました。

 大きかったのは、3年ほど前に私が個人レッスンを受けていたインドネシア人の女性が、トランスジェンダー(性同一性障害)だったことです。彼女からは、セクシュアル・マイノリティに厳しいイスラム社会で、トランスジェンダーが生きていくことの難しさについて、いろいろな話を聞きました。

 こんなこともありました。私が通うバーで、土曜日だけ一人で店を任されていた女性バーテンダーと、ほかの客がいないときに話していて、トランスジェンダーの話題になりました。すると、「実は私もなんですよ。いや、どっちかというとLかな」と言って、同性愛者であることをカミングアウトしたのです。

 これらのことが積み重なって、同じ作品に対する私の読み方が変化したのではないか、と私は推測しています。

 ところで、さきほどのバーの女性は、好きな作家が湊かなえで、彼女の作品を私に勧めてくれました。それである時期、私は湊かなえのいわゆる「イヤミス」を立て続けに何冊も読みました。

 ミステリー小説は、ある事件をめぐって、さまざまな謎が物語られ、それに関連するいろいろな伏線が敷かれ、そして最後に、すべての伏線がすくいとられて、謎が解明される構造になっています。湊かなえは、そうしたミステリーの手法にきわめて長けています。

 一方、5回にわたり長々と論じてきた『多崎つくる』は、作品の中にさまざまな仕掛けや伏線が敷かれつつも、そのすべてが最後に回収されるわけではなく、読み終わってなお、謎が謎のままに残されます。

 そうした重層的な作品であるからこそ、作品の解釈や感想は人によって異なり、さらには初読時と再読時で、読み方が変わったりもするのです。

 これが、娯楽文学とは異なる、純文学の純文学たる所以かもしれません。

 (了)
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