写真:『ユンボギの日記』海賊版(クルポッ社)
ユンボギの不幸(貧困)の元凶は両親でした。
父親の飲酒、遊び(賭け事、女)、家庭内暴力のせいで、母親は4人の子どもたちを捨てて家出しました。
「少年家長」として父を含め家族5人の家計を支えたのが「ガム売り少年」のユンボギでした。
「日記」を読んだ担任の柳英子先生は、ユンボギに同情し、励まし、ときには自分の弁当を与えるなどしましたが、それ以上のことはできませんでした。
同僚の金東植先生は、日本の『にあんちゃん』をヒントに、「日記」を本にすることを思いつき、出版社に持ち込んだところ、本はベストセラーになり、映画化もされました。
本と映画は、ユンボギにとって救世主になりました。印税と映画の原作料により、ユンボギ一家は極貧状態から抜け出し、家を買うことができ、ユンボギは中学・高校に進学できました。
この意味で、「日記」を世に出した金東植先生は恩人でした。
しかし、ユンボギは有名になりすぎました。本人は、いつまでも「ガム売り少年」というレッテルでもてはやされるのが重荷になり、内心、「もうほうっておいてほしい」と思っていたはずです。しかし、世間はそれを許しませんでした。
周囲からは、「あんなに本が売れて、映画にもなって、さぞ大金持ちになったのだろう」と思われましたが、実際にユンボギの手に渡ったお金はそれほど多くありませんでした。
金東植先生と作家の朴進錫は、「夢をもう一度」と、ユンボギに日記を書き続けるように言い、二冊目の本を出しましたが、ユンボギがその印税を受け取ることはできませんでした。
『ユンボギの日記』には何種類も海賊版が出ましたが、ユンボギとの間で出版契約は結ばれず、印税も入りませんでした。
たとえば、1984年に児童図書出版社「クルポッ社」から子供向けにアレンジされた版がでましたが、『ユンボギが逝って』によれば、この本は出版契約が結ばれていなかったということです。
ネットを調べると、複数の出版社から漫画版など、多くの『ユンボギの日記』が出ていたことがわかります。
映画のほうも、1965年版以後、複数のリメイク版が出ましたが、ユンボギに原作料は入りませんでした。
『ユンボギの日記』は日本でも利用されました。
朝鮮総連系の太平出版社は、「韓国の貧困」を日本に伝えるために、この本を翻訳出版しました。
日韓は互いに相手国の著作権を保護していなかったので、韓国が国際著作権条約に加盟するまで、印税は支払われませんでした。
一方、ユンボギを発掘した金東植先生は、映画の中で「理想の教師」として描かれ、教師として、またMRA(道徳再武装運動)の幹部として出世していきました。
ユンボギは、映画の原作料で家を買いましたが、これについても、疑惑が残ります。
家は、李潤福(ユンボギのフルネーム)の名義で登録されていたのではなく、登記名義は、「明徳国民学校」、「李潤福」、「朴正煕(大統領)」から1文字ずつとった「明福煕」になっていたそうです。
ユンボギが長じてその事実を知ったとき、金東植先生に「自分の名義にしてほしい」というと、 金東植は「この家が君の家だと思っているのか」と突然怒り出したそうです。
金東植先生は、ユンボギを有名にし、お金を儲けさせてやったのは自分だ、という意識から、ユンボキに対して暴君のように振舞ったのです。
こうした経緯を見ると、私は、1990年代に勃発した慰安婦問題を思い出します。
日韓の運動団体が元慰安婦を発掘して、証言をさせ、それをさまざまな人々が利用した、あの問題です。
慰安婦の中には表に出たくない人たちも多かったのに、それを無理やり世間の目に晒し、自分たちは善意の支援者ぶっていましたが、その裏で、寄付金や補助金を着服していたことが明らかになりました。
慰安婦保護施設、「ナヌムの家」の所長は今、獄中にいます。元挺対協代表の尹美香は、一時国会議員に上り詰めましたが、横領で起訴され、直近の選挙には出馬できず、現在公判中です。
慰安婦は多くの人々に利用されました。
証言集が編まれ、映画が製作され、彫像が次々と建立されて、彫刻家は巨利を得ました。
高校生たちは、日本大使館前の「水曜集会」に参加したことを内申書の特別活動欄に書き込み、大学進学を有利にしようとしました。
他人の不幸を利用したビジネスが、根絶されることを願っています。
反日ビジネスの終焉
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます