近代日本語の文法の成立事情については、イ・ヨンスク『「国語」という思想-近代日本の言語認識』が参考になります。
それによれば、日本で初めて「文法書」が書かれたのは馬場辰猪の『日本語文典』(1873年)だそうです。ただ、これが書かれたきっかけが面白い。
これに先立ち、駐米公使で後に文部大臣になった森有礼(もり・ありのり)が、アメリカの言語学者ホイットニー宛の書簡(1972年)や『日本の教育』(1973年)という英文の著書の中で、「英語を日本の公用語にすべきである」と主張したのです。「日本語は漢語・漢文の助けがなくては、教育にも近代的コミュニケーションにも用いることができない」、「日本語は英語に比べて劣った貧弱な言語である」、というのが理由です。
馬場辰猪はこれに対して反論します。「ある文化にない概念を外来語として取り入れるのは、どの言語にも見られ、英語も多くのラテン語を取り入れている」。「日本語の口語にも規則が認められ、普通教育の基礎を教えるのに十分完全な言語である」など。馬場はそれを証明すべく、日本語の文法(文語ではなく口語の)を記述しました。
馬場はロンドンに留学中に、イギリスのウェールズ、スコットランド、アイルランド、インドなどの地域における言語政策を見てきました。それらの地域で英語が押しつけられたことで、どのような弊害が起こるかを知っていたこともあり、森の「英語公用語論」を激しく批判したのです。
面白いのは、森の主張も馬場の反論も、ともに英語で行われたということ。
馬場は後に自由民権運動の雄弁家として名を馳せるのですが、実は教育をもっぱら英語で受けていたため、日本語の演説には秀でていても、日本語を「書く」ことはできなかったそうです。
実際、明治期の日本語の書き言葉は混乱状態にありました。昔ながらの古文体、あるいは漢文をそのまま読み下したような漢文訓読体、そして手紙などの候文などがありましたが、いずれも普段の話し言葉とかけ離れている点で五十歩百歩。文明開化の中で、英語やドイツ語が外来語としてそのまま借用されることもしばしばでした。
文字に関しては、「漢字」が槍玉にあがりました。漢字はあまりにも数が多く、書くのが難しいので、廃止するか、少なくとも数を減らそうという意見が強かったのです。日本の郵便制度の創始者として有名な前島密は、漢字を全廃してカナ文字だけで表記することを建議(1869年)。欧米の哲学用語などを翻訳し、和製漢語をたくさん作った西周(にし・あまね)は、漢字やカナの代わりにアルファベットによる「ローマ字」を使うのがよい、という「ローマ字論者」でした。
書き言葉の文体については、山田美妙、二葉亭四迷はどの小説家が、口語をなんとかして書き表そうと工夫を重ね、言文一致運動を展開しました。ロシア語が得意だった二葉亭四迷は、まずロシア語で書いてからそれをあらためて日本語に訳したと言われています。
このように混乱していた日本語の標準化を行ったのが上田万年。
上田は帝国大学を卒業後、ドイツに留学、欧州の最新の言語学を学びました。「言語の本質は文字ではなくて音声である」という基本原理を叩きこまれていた上田は、帰国後、国学者による日本語研究が古文の分析や解釈に偏っていることを強く批判。また、国字問題(漢字交じりか、カナか、ローマ字か)や、書き言葉の文体整備に先立って解決すべきは、「標準語の制定」であると考えました。
上田は1895年、「標準語に就きて」という講演で「今の東京語を標準語にすべき」と論じ、1900年には「内地雑居後に於ける語学問題」という論考で、
「一日も早く東京語を標準語とし、此言語を厳格なる意味にていふ国語とし、これが文法を作り、これが普通辞書を編み、広く全国到る処の小学校にて使用せしめ、之を以て同時に読み・書き・話し・聞き・する際の唯一機関たらしめよ。(…)而して一度之を模範語として後に、保護せよ、彫琢せよ、国民はこれをして国民の思ふままに発達せしむべきなり」
と提言します。
上田が「東京の言葉を標準語に」と主張したのには次のような理由がありました。
江戸時代の日本は、幕藩体制下、藩を越えての移動が制限されていたため、方言の偏差が激しく、方言同士では意思疎通ができないありさまでした。一方、東京の山の手にある屋敷町では、参勤交代制度で定期的に入れ替わる諸大名とその家臣たちが大勢暮らし、その交流の中で各地の方言の入り混じった、一種の共通語が形成されていました。それは国許でもある程度普及していた。全国的な「標準語」を制定するに際し、特定地方の方言ではなく、一種の混成語である東京山の手地方で使われていた言葉を採用することには、それなりの合理性があったわけです。
政府は上田の提言を受け、1901年、国語調査委員会を設置。委員長は加藤弘之でしたが、実質的には委員会主事である上田万年が取り仕切っていました。委員会はすぐさま次の4項目を決議しました。
1 文字は音韻文字(フォノグラム)を採用し、仮名、ローマ字等の特質を調査する。
2 文章は言文一致体を採用し、これに関する調査をする。
3 国語の音韻組織を調査する。
4 方言を調査して標準語を選定する。
その成果は、すぐさま初等学校の教科書に反映されました。日本で最初の国定国語教科書である『尋常小学読本』(1904年)はこんな感じ。
タロー ハ、 イマ、 アサ ノ アイサツ ヲ シテヰマス。
「オトウサン。オハヤウ ゴザイマス。
オカアサン。オハヤウ ゴザイマス。」
(山口仲美『日本語の歴史』岩波新書、2006より)
ただ、当時、この「標準語」をそのまましゃべっていた日本人はいない。たしか司馬遼太郎が書いていたと思いますが、「おとうさん、おかあさん」という日本語は当時存在せず、「おっとう、おっかあ」、「ちちうえ、ははうえ」、「ととさま、ははさま」など、たくさんの方言を折衷して新造された言葉なんだそうです。
上田万年は、もともと「ローマ字論者」で、学校教科書の仮名遣いも、徹底した表音主義を貫くつもりでした。たとえば、助詞の「を」も発音通り「お」と書き、長音は音引き(長音記号)を使うなど。
しかし、この急進的な改革は、歴史的仮名遣いを支持する保守派(その代表が森鴎外)の激しい反発にあい、結局、教科書は「言文一致」だが仮名遣いは旧来通りとする中途半端なものにとどまりました。
さきほどの文例でも、「タロー」には音引きが使われているのに、「おとうさん、おかあさん」には「う」「あ」が使われて、「おはよう」は「おはやう」になっている。
国語調査委員会は1913年に『口語法』を公にし、話し言葉の文法を確立しました。日本語の「標準語と文法」がまがりなりにも整備されるまで、明治維新から実に45年が経過していたのです。
こうして制定された「帝国の日本語」は、教育を通じて全国に広がり、方言地域では「方言撲滅運動」につながりました。沖縄などでは「罰札制度」(方言をしゃべると首に「方言札」をかけられ、それをはずすには方言をしゃべった別の生徒を見つけなければならない)などという極端なことが行われました。このアイデアは、フランスを参考にしたと言われますが、併合後の韓国でも、「国語=日本語」普及の手段として引き継がれました(→リンク)。
日本における「帝国の文法」は、海外進出、異民族支配のためというよりも、国内における標準語制定の目的で行われたわけですが、時あたかも日本は、北海道(アイヌ)、台湾、朝鮮、南洋群島と、海外に領土を拡大していく時期に重なったため、「帝国の文法」は、異民族を抑圧する手段としての役割を持たされるようになったのです。
それが最も顕著に現れたのが朝鮮です。朝鮮では、朝鮮時代、書記言語としてもっぱら漢文が使われていましたが、19世紀末になって固有の文字であるハングルを復興させる運動が活発化しました。ちょうど朝鮮半島に支配権を広げつつあったとき、日本は当初ハングルの正書法を整えたり、ハングル活字を作ったり、「漢字ハングル混じり文」による新聞を発刊するなど、ハングルの整備に貢献した面もあります。しかし、大韓帝国を併合し、朝鮮が日本の一部になると、教育においては日本語が「国語」として押し付けられ、韓国人からはしばしば「朝鮮語抹殺政策」として非難されます(→リンク)。
朝鮮半島における教授言語(授業で使われる言語)については、イ・ヨンスクによれば、「三次の教育礼をつうじて法的にはどこにも規定されていない」。これは、オーストリア=ハンガリー帝国のような多言語国家で、教授言語については必ず法的に規定されていたのと対照的だそうです。しかし、おそらく「皇民化政策」が本格化した1938年の教育令改正以降は、学校内での使用言語が日本語一色になっていたのでしょう。
しかし、「日帝」の支配は35年で終わったため、朝鮮語が抹殺されることはありませんでした。
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