今年は、1923年9月1日に発生した関東大震災から、ちょうど100年に当たります。
例年、9月1日が近づくにつれ、テレビなどで特集番組が放送されますが、今年の場合、「震災の被害」よりも「関東大虐殺」に焦点を当てたものが目につきます。
韓国がこの問題を、新たな「反日」の材料にするために騒いでいるためですね。
関東大虐殺というのは、震災の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言蜚語が広がり、警察や民間の自警団などにより多数の朝鮮人が殺害された事件の、韓国における呼称です。
犠牲者は、朝鮮人と誤認された中国人、日本人も含め、一説に6000人以上とも言われます。
何かにつけて、韓国と「共闘」したがる社民党も、この問題で政府を追及しています。
社民党党首の福島みずほ参院議員(会派=立憲民主・社民)は6月15日、参院法務委員会で、100年前の1923年9月に起きた関東大震災時の朝鮮人虐殺をめぐり、歴史的文書を提出。政府の責任をただした。(社民党ホームページ)
社民党が慰安婦詐欺事件の尹美香被告と連帯していたのは記憶に新しい。
尹美香と福島瑞穂の連帯
上記の文中にある歴史的文書というのは、内務省警保局が震災直後の9月3日、地方長官に宛てて打ったもの。
東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし (ウィキペディア)
韓国では、この文書が、「日本政府が流言蜚語を流した証拠」とされ、新聞各社が裏をとることなく報じたため、各地で「自警団」が生まれ、「虐殺」が行われた、と。
私の手元には、大正12年10月13日発行の渋田常太郎著『関東大震災實記-焦土と化したる大東京』(10月25日第四版)という古びた本があります(冒頭写真)。
家族の誰が、どういう経緯でこの本を買ったのか、刊行直後か、数年後、数十年後に古本屋で買ったのかは、明らかではありません。
著者渋田常太郎は『萬朝報』という新聞の記者。震災の混乱の中、新聞の発行が困難となり、その間に入手した各種資料を、震災の1か月後に本にまとめたものです。
この中で、「朝鮮人虐殺事件」に関わる記事は、一つだけ。日付はありませんが、記事内容からみて、9月6日のものと思われます。
【流言蜚語を放つ者は厳重に処分す】
(戒厳司令部公表)
今度の大震に当り往々無根の流言に迷はされたり、又甚しい無形の事を流布して人心を惑はす者がある。これはお互の遺憾とするところであつて其の著しい例を挙ぐれば四日東京から海路船橋町への避難者を不逞鮮人三百上陸し危険切迫すと云い触らしたり、昨五日の如きは何事もないのに、ことさら大崎町は焼失しその余勢は品川を舐めんとして居ると流言を放って居る。市民諸君は斯の如き流言に迷はず落着いた態度を持して貰ひ度い。尚流言を発する者に対しては治安維持の為め厳重に処分せらるる筈である。
当初、「流言蜚語」を事実と誤認した政府(内務省警保局)が、3日に地方長官あての文書を発信したが、その後、情報が虚偽であることが確認され、6日には「流言を発する者は処罰する」という方針を打ち出したものでしょう。
韓国版ウィキペディアやウィキナムでは、
「日本政府が流言蜚語を流した」
「日本政府は流言蜚語が事実ではないとわかっても、わざと放置した」
「日本の軍隊や警察が朝鮮人を殺害した」
「日本政府は事件を隠蔽した。犠牲者は6000人ではなく2万人以上だ」
「荒川と隅田川は殺された朝鮮人の血で赤く染まった」
「日本政府は事件の存在そのものを認めていない」
などの内容が見られます。
日本のウィキペディアには、犠牲者数について、各種の資料が載せられています。
巷間に流布している6,661人という数字は、上海の大韓民国臨時政府機関紙「独立新聞」が1923年11月5日付で報道した「朝鮮人調査団報告書」のもの。
日本の「司法庁報告書」では、民間で殺害し起訴された件数が朝鮮人233人、内地人58名、中国人3名。
「戒厳業務詳報」では、軍によって殺害された人数が朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者が朝鮮人約215名(うち約200は中国人との説あり)。
「内務省資料」では248名、「朝鮮総督府東京出張員」の見込み数は813名。
「弔慰金が支払われた朝鮮人犠牲者数」は、死因が災害か虐殺か区別せず、832名。
韓国では、最も数字の多い、「独立新聞」の6,661人が定説になっています。
「慰安婦」にしても、「徴用工」にしても、「三一運動の犠牲者」にしても、韓国は常に最も多い数字を定説とします。
日本のウィキペディアによれば、1920年(大正9年)の国勢調査で、日本の内地に居住していた朝鮮人は全国で40,755人(うち東京、神奈川、千葉、埼玉に計3,385人)。
1930年(昭和5年)の国勢調査では、419,009人(同計54,428人) 。
朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(1965年、未来社)に載っている統計によれば、1923年の国勢調査では、全国で112,051人となっています。
1923年に、関東地方に何人の朝鮮人がいたかはわかりません。1920年の関東1都3県の朝鮮人数の全国に対する比率は8.3%、1930年は12.9%。仮に、1923年の比率を10%と仮定すると11,200人になります。
もし、犠牲者を6,661人とすると、関東1都3県に居住していた朝鮮人の半分以上が殺害されたことになります。「大虐殺」といってもいいでしょう。
そんな大虐殺があったら、「日本は怖い、日本に行くと殺される」などの噂が広がって、日本に渡ろうとする朝鮮人は減るんじゃないかと思いますが、実際には1924年以降も朝鮮半島から日本への渡航者は増え続けました。
大震災の犠牲者総数が約10万5000人と推定されていることを考え合わせても、朝鮮人虐殺の犠牲者が6,661人というのは誇大な数字だと思います。
以下、私の推測を述べます。
1910年の日本による韓国併合以降、朝鮮から日本への渡航者が増えた。1919年に朝鮮で独立運動が起こり、運動家の一部は、社会主義運動と結びついて、「社会不安を煽る」というイメージができあがった。そこへ1923年9月1日、関東大震災が起こり、極度の混乱の中で、「朝鮮人が社会不安を煽る行為をしている」という流言蜚語が流れた。日本政府は当初、この流言を事実と誤認し、「朝鮮人を取り締まれ」という指令を出した。しかし、数日内にそれが虚偽であることを確認し、逆に「流言蜚語流すものを取り締まれ」というふうに方針転換した。当時、ラジオ放送はまだ開始されておらず、マスメディアは新聞だけだった。新聞は「流言蜚語」をそのまま、あるいは誇張して伝えたが、それが嘘だという訂正報道はなされなかった。その報道を真に受けた人々は不安に駆られ、各地で「自警団」が自然発生し、一部は「朝鮮人を殺害する」という凶行に走った。犠牲者数は、1,000人以下。
朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(1965年、未来社)に載っている統計によれば、1923年の国勢調査では、全国で112,051人となっています。
1923年に、関東地方に何人の朝鮮人がいたかはわかりません。1920年の関東1都3県の朝鮮人数の全国に対する比率は8.3%、1930年は12.9%。仮に、1923年の比率を10%と仮定すると11,200人になります。
もし、犠牲者を6,661人とすると、関東1都3県に居住していた朝鮮人の半分以上が殺害されたことになります。「大虐殺」といってもいいでしょう。
そんな大虐殺があったら、「日本は怖い、日本に行くと殺される」などの噂が広がって、日本に渡ろうとする朝鮮人は減るんじゃないかと思いますが、実際には1924年以降も朝鮮半島から日本への渡航者は増え続けました。
大震災の犠牲者総数が約10万5000人と推定されていることを考え合わせても、朝鮮人虐殺の犠牲者が6,661人というのは誇大な数字だと思います。
以下、私の推測を述べます。
1910年の日本による韓国併合以降、朝鮮から日本への渡航者が増えた。1919年に朝鮮で独立運動が起こり、運動家の一部は、社会主義運動と結びついて、「社会不安を煽る」というイメージができあがった。そこへ1923年9月1日、関東大震災が起こり、極度の混乱の中で、「朝鮮人が社会不安を煽る行為をしている」という流言蜚語が流れた。日本政府は当初、この流言を事実と誤認し、「朝鮮人を取り締まれ」という指令を出した。しかし、数日内にそれが虚偽であることを確認し、逆に「流言蜚語流すものを取り締まれ」というふうに方針転換した。当時、ラジオ放送はまだ開始されておらず、マスメディアは新聞だけだった。新聞は「流言蜚語」をそのまま、あるいは誇張して伝えたが、それが嘘だという訂正報道はなされなかった。その報道を真に受けた人々は不安に駆られ、各地で「自警団」が自然発生し、一部は「朝鮮人を殺害する」という凶行に走った。犠牲者数は、1,000人以下。
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