「では、半年前のお話の続きと言うことで・・・」
大きくたわんだ腹を揺らしながら、編集者という肩書きをもったKは、僕がしゃべり始めるのを促す。
座ったままで人に指示するというのも結構失礼な話だとは思うのだが、
どうもこういう肩書きの人種には、滅多にお目にかからないせいかどうしても卑屈になってしまう。
それに、半年前、確かに約束したのは僕の方だ。
「中年が伝説を作る半年。山ほど艱難辛苦を耐え、そして輝かしい成果をあげる」
はずたっだ。
もちろん、うまくいっていたらKに言われるまでもなく、自分で先に出版社へ押しかけていたことだろう。
後悔先に立たず、さあどう言い逃れようかと迷った。
その矢先。
「私はね、中学の頃、100mを12秒で走ったんですよ。体育の授業でしたけど」
ありえない。だって、その腹。
どう頑張ったって、50m全力で走ることさえ難しそうだ。
とまどいがすぐ表情に表れるのが自分最大の弱点。すぐさま見て取られた。
「まさか、と思ってるんでしょ。でも私だって45歳。30年前にどんなスタイルをしてて、
どれだけ速く走れたかなんてあなたにわかるわけがない」
編集者というのは相手にかかせる職業だと想像していたが、どうやら違うらしい。
自分がしゃべって優位に立って、相手が書くしかないように丸め込むのだろう。
その通りで、間髪入れずしゃべり続ける。
「あれは高校に入ってすぐのころだったな。私、体重55キロ、身長173センチ。箱根駅伝にすぐに出ても
おかしくないくらいのスタイルだったんですよ。細マッチョでね。長距離よりも瞬発力が上で、
細身でもぽんぽん跳ねることができたんですね。
位置についてよーい、どん。好きでしたよ、滅多なことで人の背中を見ることはなかったから。
すーぅっと先に出ると、体がリラックスして、雲に乗るような気分になって、
あとは機械的に足をブン回したら12秒後にゴールにいるって感じ。」
ちょっと待て。よしんば今は100キロ超級で身長は173センチというのが30年の時間がなせるいたずらで、
高校生の頃はスリムだったとしよう。
だけどそれでも、授業で12秒。
出身は鳥取の田舎町だと聞いている。30年前の地方の学校なんだから、グラウンドは土で、
陸上部でもない高校生なら、スパイクなんかははいておらず、底つるつるの運動靴で
走ったはずだ。
そんな格好で12秒で走るのなら、陸上部スタイルで装備を調えればすぐに11秒だ。
だとしたら、半年前に、Kと知り合った居酒屋で僕がくだを巻いていた、
中年陸上競技の話に彼がすっと名刺を出して食いついてきたのは、それなりに理由があるのだろう。
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落ちを考えずに話を始めては行けないというのが関西人のルールではありますが、
通勤時間20分で代々木公園のそばを歩いている間に思い描けるのは
こんなところ。落ちも付かずに終わって、一日の仕事が始まります。
そして、何も続かずに終わり・・・・・
こうして、長い物語を書き続けられる、小説家というひとびとに大いなる尊敬をだくのでありました。