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私が読者登録しているブログ~Enoの音楽日記~2019/07/20、2019/07/21の記載から~2019/08/04のプッチーニ「トゥーランドット」の予習に活用した

2019年08月11日 | メモ

私が読者登録しているブログ~Enoの音楽日記~2019/07/20、2019/07/21の記載から~2019/08/04のプッチーニ「トゥーランドット」の予習に活用した

 

Enoの音楽日記
オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。
トゥーランドット(1)
2019年07月20日 | 音楽
 「トゥーランドット」は問題作だろう。(1)まず未完の作品であること、(2)アルファーノの補筆に否定的な評価があること、(3)リューの死後トゥーランドットとカラフが結ばれるハッピーエンドに疑問の声があること、以上の3点が主な理由だ。

 リューの存在はたしかに扱いが難しい。女奴隷たるリューが、ひそかに愛するカラフのために命を捧げる。その時点で、観客の同情を一身に集める。では、その後のドラマ展開はどうすればいいのか。

 そもそもリューはプッチーニと2人の台本作者が作り出した登場人物だ。原作のカルロ・ゴッツィの戯曲には登場しない(正確にいえば、ゴッツィの戯曲に基づくシラーの翻案、そしてそれをイタリア語に訳したものが原作ということになるが)。さらに遡ると、ゴッツィの戯曲はペティ・ド・ラ・クロワの「千一日物語」の中の話が素材になっている(題名からわかるように、「千一日物語」は「千一夜物語」に倣った作品)。

 では、「千一日物語」の中ではどういう話になっているのか。幸いなことに、その翻訳が出ている。最上英明氏の「《トゥーランドット》と《妖精》」(アルファベータ社)の第5章がそれだ。それを読むと、リューの原型のアデルミュルク(他国の王女だが、今は捕らわれの身となり、トゥーランドットの侍女になっている)という登場人物がいて、その人物がどんな動機で、どんな行動をとるかがわかる。

 最後は自害するのだが、読者の同情はアデルミュルクには向かわず、トゥーランドットとカラフが結ばれることを素直に喜べる。

 だが、アデルミュルクをリュー(女奴隷で、カラフに叶わぬ愛を捧げる)に置き換えたとき、その破壊力は大きく、ドラマトゥルギーを根本的に変えた。

 しかもリューの最後のアリア「氷に包まれた貴女様」の歌詞は、台本作者ではなく、プッチーニが自ら書く念の入れようだ。

 当然その音楽にはプッチーニの想いが込められている。

 リューはそういう厄介な存在でもある。それを今回の新国立劇場での演出家アレックス・オリエは見事に解決した。

 第1幕の幕開き以来、女奴隷として地にひれ伏していたリューが、「氷に包まれた貴女様」で立ち上がり、トゥーランドットと対等に向き合い、愛の意味を説く。

 トゥーランドットは(そして周りのすべての人物も)、その事態に息をのむ。トゥーランドットはリューの言葉を理解し、その帰結としての結末を迎える(その間の心理の推移がアルファーノの補筆部分に重なる)。

 これがアレックス・オリエの読み解いたドラマトゥルギーで、わたしにはたいへん説得力があると思われた。(続く)
(2019.7.18.新国立劇場)


トゥーランドット(2)
2019年07月21日 | 音楽
(承前)新国立劇場の新制作「トゥーランドット」をめぐって、前回はアレックス・オリエの演出について書いたが、今回はその他のことを書いてみたい。

 まず歌手だが、主要な歌手はすべて高水準だった。タイトルロールのイレーネ・テオリンは声のコントロールが抜群だ。

 ワーグナー(ブリュンヒルデやイゾルデ)を歌うときより余裕をもって歌っているように感じた。

 カラフはテオドール・イリンカイという歌手が歌ったが、声の強さは文句なし。

 リューは中村恵理が歌ったが、歌の切れの良さと情感の豊かさが十分で、かつ演技では一頭地を抜いていた。

 その他の歌手では、アルトゥム皇帝を歌った歌手のイタリア語の発音に癖があるのが気になった。ピン、パン、ポンを歌った3人の歌手は、アンサンブルはいいのだが、弾けるようなコミカルさに欠けた。3人の出番は意外に多いので、その部分でドラマの流れが停滞するきらいがあった。

 指揮の大野和士は、オーケストラの掌握、歌手との一体感、ドラマの構築、安定感、そのどれをとっても一流のオペラ指揮だった。

 オーケストラは大野和士が音楽監督を務めるバルセロナ交響楽団が務めたが、弦の音色に独特の艶があり、また木管のソロも光った。

 特筆すべきは合唱かもしれない。新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブルの混成チームだが、幕開き早々、圧倒的な合唱を聴かせた。「『トゥーランドット』って合唱オペラだったっけ」と蒙を啓かれる思いがした。

 舞台装置は、高い壁が三方をふさぐ巨大な地下牢のようだった。その威圧感は息苦しくなるほどで、わたしはその晩、夜中に目が覚めて、眠れなくなった。地下牢の中にすっぽり入ったような感覚だった。

 その地下牢はトゥーランドットの専制支配の暗示だが、それは同時に、第一次世界大戦を経験したプッチーニが、やがて訪れる全体主義を予言するようでもあり、また(プッチーニの文脈から離れて)近未来に訪れる危険のある全体主義への警告のようでもあった。

 地下牢なので、舞台は暗いのだが、随所に差し込む光の美しさが印象的だった。照明はウルス・シェーネバウムという人だが、センスの良さを感じた。

 演出について細かい点を補足すると、ピン、パン、ポンは3大臣ではなく、飲んだくれの労働者になっていた。地下牢の住民の退廃の表現だ。また首切り役人のプーティンパオが6人もいて、視覚的な迫力があった。(了)
(2019.7.18.新国立劇場)

私は、4階席、ステージから遠い。
結末のどんで返しが、判然としなかった。
トゥーランドットの音楽を聴くだけ。
大野和士指揮 バルセロナ交響楽団は、響きが抜群に良かった。