今日から週1回ぐらいのペースで、『ミッキ』 を掲載します。
今回はプロローグと、第1章の第1節です。
高校生の美咲と愛犬のジョン、その仲間たちが活躍します。
プロローグ
私が住んでいるところは、学生寮の管理人室だ。
父の事業が失敗し、家も財産も、すべてを失い、この寮にやってきた。
父は名古屋市内で、自動車部品を作る、小さな下請け工場を経営していた。しかし親会社から、無理な単価引き下げを強要され、なかなか利益が出せず、とうとう倒産に追い込まれた。
ちょうど私が高校受験の頃で、私は高校に行かず、働くと両親に申し出たが、学費は何とかするから、せめて高校だけは卒業しなさい、と説得され、進学したのだった。
最初は名古屋市内の県立高校を受験する予定だった。しかし、春日井市のこうぞうじ高蔵寺駅の近くに転居することになったので、公立高校の願書を提出する直前で、志望校を春日井市内の公立高校に変更した。絶対に学費が安く済む公立高校に入学しなければならないので、今の鳥居松高校を選んだのだった。
最初の志望校とは違うが、鳥居松高校はけっこういい学校だと思う。あるいは、こちらの学校を選んでよかったのかもしれない。
名古屋市ちくさ千種区で自動車部品工場を経営していた父は、昨年暮れ、経営が行き詰まり、もうどうにもならなくなってしまった。経営上の詳しいことは、私にはよくわからないが、銀行からの資金も調達できず、負債の支払い不能に陥り、家や工場を処分して、借金の返済に充てざるを得なくなったようだ。
折よく両親は、大学生や専門学校生を対象とした、学生寮の寮長・寮母の募集を見つけた。それに応募し、採用されたので、幸い失職だけは免れた。私たち一家は、住み慣れた千種区の家を手放し、春日井市高蔵寺駅近くの学生寮に引っ越した。本来なら、二月中にも家を出て行かなければならなかった。しかし両親の新しい仕事が四月から――引き継ぎなどもあるので、寮に入るのは三月下旬――で、それまで住むところがなくなるため、債権者の特別な計らいで、三月下旬までは前の家に住むことができた。それで、私も中学校には卒業まで通うことができた。
私は通学に便利なように、JR中央本線春日井駅近くの鳥居松高校に志望校を変更したのだった。
けれども、小学五年生になる弟の慎二は、通い慣れた学校を転校するのがいやだと、ずいぶんだだをこねた。
それをなだめすかして、何とか春日井市の小学校に転入させた。最初は学校には行きたくない、と毎朝ぐずっていたが、ようやく友達もでき、新しい学校にも慣れてきたようだ。学校から帰ると、毎日のように、友達と自転車で駆け回っている。
高蔵寺は名古屋市千種区の住宅密集地とは違い、まだ豊富な自然が残っており、その自然も慎二を慰めたようである。
私も高蔵寺周辺の緑の多さには、満足している。
第一章 新たなるスタート
1
三月最後の日曜日に、家族そろって市の植物園へ行き、その近くのハイキングコースを歩いた。父は車を手放してしまったので、高蔵寺駅からJRバスで行くことにした。寮の車を使おうと思えば使えたのだが、私用に使うのは気が引けるといって、公共のバスを利用したのだった。
私たちは高蔵寺駅南口から出ているJRバスに乗った。春休み中の日曜日だというのに、バスは空いていた。
バスは住宅街を抜けて、田畑が多い郊外に出た。途中、自衛隊前というバス停があり、こんな団地の近くに自衛隊の大きな基地があることを知って驚いた。航空自衛隊の基地は、隣の小牧市にあるということは知っていたが、ここは航空自衛隊岐阜基地の分屯基地だと父が教えてくれた。この基地には大規模な弾薬庫があるそうだ。団地のすぐ近くなので、ちょっと物騒な気がする。地元の革新系の市民団体などが、危険な弾薬庫を団地の近くから撤去させようという運動をしているという。
右手の方には、愛知県と岐阜県の県境をなす標高四〇〇メートル程度の山々が連なっていた。新しい家のすぐ近くに、こんないい景色があるなんて、思ってもみなかった。
小学生のとき、遠足で中央本線の電車に乗って、定光寺(じょうこうじ)に来たことを思い出した。あまりはっきりとは覚えていないけれど、小さな川に沿って、かなりの山の中を歩いたような記憶がある。山道を登り切った上の方には、大きな池があったことを覚えている。その定光寺もこの近くだ。
私たちは終点の植物園でバスを降りた。バス停は池のすぐそばだった。
バス停からすぐのところに、植物園の入り口がある。門のところには〝春日井市都市緑化植物園〟とあった。グリーンピア春日井とも表示してある。中に入って、そのまままっすぐ行くと、緑の相談所という建物があった。私たちはまずそこに入った。
緑の相談所のすぐ横手には、大久手池があり、サイクルボートに乗ることができる。池には何艘かのボートが、人を乗せてゆっくり動いていた。慎二がボートに乗りたいというので、父と二人でボート乗り場に行った。乗り場には順番待ちの人が並んでいたが、あまり待つことなく、番が回ってきた。ボートに乗るときは、黄色の救命胴着を着用しなければならない。
母と私は、ボートに乗らず、池の畔(ほとり)をのんびり歩きながら待っていた。私はときどき父と慎二が乗っているボートに向かって、手を振ってみた。
池にはカモがたくさん群れて泳いでいた。メスは茶色っぽい地味な色だが、オスは頭がダークグリーン、首には白いラインが入っていて、おしゃれな感じだ。動物は人間と違い、オスの方がきれいに着飾っていることが多い。鵜(う)やアオサギもときどき飛来するそうだ。
二人がボートに乗っている間、母と池の東側にある梅園を覗いてみた。いろいろな種類の梅がある。残念なことに、もう花の盛りを過ぎていた。それでもまだ遅咲きの梅を楽しむことができた。
父と慎二は三〇分の時間いっぱいボートに乗っていた。慎二がハンドルを握り、父がペダルをこいでいた。ボートは運転席だけではなく、隣に乗っている人もペダルをこげるようになっている。父は少し疲れたようだった。それに、三月下旬とはいえ、池の上でボートに乗るには、まだ風が冷たいと父は言っていた。もっとも父はペダルをこいでいたので、少し汗ばんでいた。
そのあと、緑と花の休憩所というところに入った。ガラス張りの、しゃれた感じの大きな建物だった。日の光がそのまま入るためか、それとも空調によるものかはわからないけれど、中は温室のように暖かかった。
中は花壇や庭園のようになっており、たくさんの草花や木が植えられていた。二階にはサボテン類が多く、見たこともない種類のものもあった。サボテンの出荷量は春日井市が全国一だそうだ。椅子とテーブルがあり、そこで少し休憩した。天井もガラス張りで、太陽光がさんさんと降り注ぎ、とても明るい雰囲気だ。
バラ園や大谷池の花菖蒲園は、まだ時期が早すぎて楽しめない。花の時期にぜひ訪れてみたい。
お昼になったので、私たちは芝生広場でお弁当を広げた。春休みの日曜日なので、芝生広場のあちこちで、多くの家族がお弁当を楽しんでいた。
芝生広場の近辺には、アスレチックなどの遊具やログハウス風の建物がある。桜の木も多く、花がちらほら咲きかけている。緑の木々や淡いピンクの桜の上に、県境をなす山並みがでんと鎮座している。心安らぐ風景だった。
最近は辛い思いばかりだったので、今日ぐらいはちょっと贅沢しようと、かなり豪華なお弁当を作ってきた。
炊き込みご飯に巻き寿司、いなり寿司、唐揚げ、卵焼き、焼き鮭、ウインナーソーセージ、サンドイッチ、サラダなど盛りだくさんだった。私も作るのに、少しは協力している。
父はビールを持ってきたがっていたが、アルコールは帰ってからにしなさい、と母に反対された。
私たちはお弁当を囲んで、盛り上がった。
お弁当を食べ終わって、「今日は本当に久々に楽しい思いをしたわ」と母がしみじみと言った。
「そうだな。工場がだめになって、一時は一家心中まで考えたんだが、死なずにいてよかった」
父がびっくりするようなことを言った。
「美咲と慎二が寝たあと、母さんと二人で、おまえたちを殺して、二人とも死のうかと話し合ったこともあってな」
父のその言葉に、私は驚いた。まさに天地がひっくり返るような驚き、と言ったら、大げさだろうか。
「おまえたち二人だけを残していくのもかわいそうだから、みんなであの世に行こうか、なんて、真剣に考えたものだ」
「僕はいやだよ。絶対死にたくない」と慎二が叫んだ。
「大丈夫だ。もう死のうなんていう気はないから。母さんがさっき言ったように、今日は本当に楽しい思いができた。生きていてよかった、と実感したよ。今の仕事なら、以前の工場ほどは儲からないけど、十分生活していけるしな」
「ごめんね。おまえたちを道連れにして、死のうだなんて考えて。だけど、もう大丈夫だからね。これから、みんなで力を合わせて、どんどん幸せを築いていこうね」
母は涙を流しながら言った。
少ししんみりとした雰囲気となった。そんな気分を吹き飛ばすように、父が「あそこに動物園がある。ちょっと行って、どんな動物がいるか、見てこよう」と私たちを誘った。
動物園といっても、〝動物ふれあい広場〟という小さな動物舎だった。柵の中には馬や羊などがいた。大きな禽舎(きんしや)には、クジャクやシチメンチョウ、オシドリ、バリケン、ウコッケイ、チャボ、アヒルなど、私でもよく知っている鳥たちがいた。
小学生のとき学校で、ウサギ小屋にバリケンを同居させていたら、生まれたばかりのウサギの子供が、いなくなってしまうという事件が起きた。ウサギの赤ちゃんはどうなったんだろうと追及していたら、バリケンが生まれたばかりの小さな子供を、丸呑みしていることが判明した。それで慌ててバリケンをウサギ小屋から引き離した、ということがあった。バリケンにとっては、ウサギの子供は貴重な動物性タンパク源でしかなかったのだろうが、児童、特に低学年の子供たちには大きなショックだった。先生は「これが弱肉強食の自然の掟なんだ」とクラスの児童に、苦々しく説明をした。
クジャクは私たちにサービスしてくれたのか、青緑色の美しい尾羽を広げて、私たちを歓迎してくれた。
父はコンパクトデジタルカメラで尾羽を広げたクジャクを写そうとした。しかしオートフォーカスだと、禽舎の金網にピントが合ってしまい、なかなかうまく写らないとぼやいていた。こういうときはマニュアルでピントが合わせられる一眼レフが欲しいな、と母にそれとなくいいカメラをねだっているようだった。
父は車とカメラが趣味で、カメラも一眼レフの銀塩カメラを二台所有していた。一台はプロのカメラマンが使うような、かなり高価なものだった。交換レンズも何本も揃えていた。白い大きなレンズがかっこよかった。
工場が休みの日は、車で出かけ、いろいろな写真を撮っていた。ときどき家族も一緒に連れて行ってくれた。しかし、今ではその趣味の車もカメラも、売り払ってしまっていた。
代わりに父は、子供でもお小遣いを貯めて買えるような、安っぽいコンパクトデジタルカメラを買った。以前は、「画像を細切れのデータにするようなデジタルカメラなんか使えるか」と言って、フィルム派を貫いていた父も、自慢のカメラやレンズを手放さざるを得ず、やむなく安いデジカメを買ったのだった。安物のカメラでも、腕でカバーしていい写真を撮ってみせる、と父は豪語した。父はデジカメのことを、わざとカメデジ、なんて言っていた。
最近は安いコンパクトデジタルカメラでも、六〇〇万画素を超えるものが出てきて、解像力は以前のフィルムカメラにも劣らなくなったので、父も妥協したようだ。
いつかはまた自分の車や高級な一眼レフカメラを持ちたい、と父は言っている。
動物舎には、本格的な動物園にはとても及ばないものの、いろいろな動物がいた。マーラという大きなネズミの仲間もいた。私が好きな作曲家のグスタフ・マーラーとよく似た名前だったので、印象に残った。ネズミというより、ウサギに似ている。
グリーンイグアナは怪獣のようなグロテスクな姿ではあるが、けっこうユーモラスで愛嬌があり、見ていて飽きなかった。こういうのをきも可愛いというのだろうか。怪獣や恐竜が好きな慎二も、グリーンイグアナが気に入ったようだった。
「こんなの飼ってみたい」と慎二が母にねだると、母は「こんな大きなトカゲ、気色わるい」と、気味悪がった。頭から尻尾の先まで、優に一メートル以上はありそうだ。ペットとしてグリーンイグアナを飼う人もいるが、大きくなりすぎて、持て余すこともあるという。グリーンイグアナは爬虫類とはいえ、思った以上に知能が高く、飼い主になつく、という話を聞いたことがある。きちんとしつければ、トイレも覚えるそうだ。
「じゃあ、その代わりに犬を買って。犬ならいいでしょ。小さい犬でいいから」と、今度は犬を欲しがった。
「だめだめ。寮では動物は飼えないから。せいぜい小鳥か金魚ぐらいかしらね」
「どうしてもだめなの? もし会社の人に訊いて、いいと言ったら、飼ってよ」
「だめに決まっているでしょう。普通の家じゃないんだから。アパートなんかでも、犬や猫はだめでしょう」
「ちぇー。犬、飼いたいのに」
慎二は残念そうに口をとがらせた。
植物園は〝みろくの森〟という、標高四〇〇メートルほどの愛知、岐阜県境の山並みへと続くハイキングコースにつながっている。県境の山並みは東海自然歩道となっている。家族連れでも歩ける、手軽なハイキングコースということだ。しかし、みろくの森の案内板を見ていると、やはり山の頂上まで行くのは大変そうだ。
特に母は五年ほど前に、交通事故で膝を傷めている。怪我自体はたいしたものではなかったが、後遺症でときどき膝がひどく痛むことがあるそうだ。気温が低いときや、梅雨などでじめじめしたときに痛みが出るという。階段を上るとき、膝に激痛が走り、思わず顔をしかめたりする。
それより築水池(ちくすいいけ)方面のコースの方が楽そうだ。そちらのコースの西高森山は、標高が県境の山の半分の二一五メートルとなっている。山がきつければ、池を一周するだけでもいい。
結局、今日は築水池の方を歩くことにした。
私たちはいったん北側のゲートから植物園を出て、少年自然の家の方に向かった。そして築水池という表示に導かれ、坂道を下っていった。ややきつい階段になっており、しょっぱなから母は辛そうだった。
金網の柵の向こうに、大きな池が見えた。それが築水池だ。池の反対側は林となっていて、木の名前を示す名札がついていた。コナラ、ソヨゴ、タカノツメ、アベマキ、アズキナシ、ナツハゼなど、いろいろな名札がかかっている。木にはあまりなじみがない私には、なかなか覚えきれない。
少し行くと、野鳥観察コーナーというものがあった。大きな木製の衝立(ついたて)に開けた窓から、そっと野鳥たちを覗くようになっている。そこには「築水池の鳥たち」という解説があった。鳥の絵に名前、体長などが記されてあった。カワセミやヤマセミも見られるようで、父が「いいカメラと望遠レンズを買ったら、一度野鳥を狙ってみるか」と言った。
築水池の西の端に出た。私たちは大きなみろくの森案内図を見ながら、これからどこへ行くかを相談した。右へ行けば、そこからすぐの築水の小屋を経て、池を一周するコース、まっすぐ行けば、西高森山に通じる道だ。西高森山は、弥勒山(みろくさん)等と比べれば、標高は約半分だ。それでも山はちょっとしんどいので、池をぐるっと一周しよう、と母が主張した。
築水の小屋は、大きなテーブルが三つあり、その周りを木のベンチが囲んでいる、立派な小屋だ。天井まで届く壁はなく、木の柱で屋根を支えてはいるが、四阿(あずまや)というには、大きく立派だった。
小屋で少し休憩を取り、飲み物を飲んだり、おやつを食べたりした。
小屋の前から眺める弥勒山、大谷山は堂々としていた。築水池を前景に、深い森の上にそびえる山の姿は美しかった。
池の水際から、木立が茂って森をなし、スギやヒノキの森、雑木林の上に、二つの山が頂を持ち上げていた。池に倒影している山の姿もよかった。左が弥勒山で春日井市の最高峰四三七メートル、右は大谷山(おおたにやま)四二五メートルだそうだ。大谷山は四二九メートルの道樹山(どうじゅさん)に次いで、市内で三番目に高い。道樹山は、この位置からだと大きな松の木と重なり、わかりにくかったが、大谷山の尾根からちょろっと頭を覗かせていた。そのような知識は、小屋で休憩していたハイカーに教えてもらった。
父がデジタルカメラで何枚も山と池の写真を撮った。三脚を使い、きれいな景色を背景として、家族みんなが揃った写真も写してくれた。父は写した写真を液晶モニターに表示して、私たちに見せてくれた。フィルムを現像してみないと、どのように写っているかわからない銀塩カメラと違って、デジタルカメラは、写してすぐその場で画像を見られるのが便利だ。
私たちは小屋を出発し、池を一周するコースを歩いた。五月ごろなら、山ツツジがたくさん咲いていそうだ。池に沿って歩くルートとはいえ、上り下りが多かった。小さな丸木で作られた階段が多い。足元には注意が必要だった。
築水池の付近には、ところどころ湿地帯が点在している。小さな沢の流れが湿地を作っている。
「お願い この付近の湿地には、大切な植物が生育しており植生保護のため次の事項を守ってください。
・歩道から観察し、湿地には絶対入らないこと。
・草木を採取したり、持ち込んだり、傷つけたりしないこと。
・たばこの吸殻やゴミなどを捨てないこと。
愛知県」
「湿性植物保護のため 湿地への立ち入り禁止」
そんな立て札が、何か所かに立っていた。
湿地帯には、木の切り株を模したコンクリート製の飛び石が置いてあり、その上を歩くようになっているところもある。その足場の間隔がやや大きめで、母はこの上を跳んで渡るのが、難儀そうだった。また、切り株様の飛び石でなく、木道になっている道もあった。
「あんな切り株みたいなのより、こういうふうに木で道を作ってくれればいいのに」と母がこぼしていた。
築水池一周は三キロ程度の道のりだ。私たちは一時間以上かけてゆっくり歩いた。道はよく整備されてはいるものの、池の周囲なので平坦な道だと思ったら、意外と起伏が多く、けっこう運動量が大きかった。膝を傷めている母にとっては、ややハードなコースだったようだ。
荷物はすべて父の大きめのザックに入れてあったので、母も私も慎二も、ほとんど手ぶらだった。私はウエストポーチにペットボトルに入った飲み物と、フェイスタオル、ティッシュ、それからメガネが入ったケース等を入れている。私はあまり視力がよくないので、きれいな景色を見るときには、メガネをかけることがある。
散策道には鬱蒼と樹木が茂り、晴天とはいえ、日陰が多く、やや暗い雰囲気だった。それでも歩いていると暑くなり、汗がだらだらと流れた。父と慎二はそれほどでもないが、母と私は汗かきだ。私はウエストポーチからフェイスタオルを取り出して、汗を拭いた。
ときどき視界が開け、池が見渡せた。しかし、私は築水小屋の前から見た、弥勒山、大谷山を背景にした眺めがいちばんいいと思う。
道は少年自然の家の多目的広場に出て、私たちのハイキングは終わりとなった。自然の家の駐車場から県道を超えて、バス停に戻った。
駐車場は何か所かあるが、ほとんど満車に近かった。春日井市民の憩いの場として、植物園は人気が高いようだ。みろくの森から、東海自然歩道へのハイキングが手軽に楽しめることもポイントだといえる。
「お母さん、辛そうだったけど、大丈夫?」と私は母に尋ねた。
「ちょっと疲れたけど、大丈夫。たまには歩かないと、足腰が弱っちゃうからね。今日はいい運動だった。また来てみたいね」
母は流れ落ちる汗を拭きながら言った。
母は少し太り気味なので、もう少し運動しなくっちゃ、とも付け加えた。
こんな辛い思いをして、もう二度と行きたくない、と言われるのじゃないかと心配したが、母なりに楽しんでいたようで、よかったと思った。
帰りは名鉄バスがすぐ発車するので、そちらに乗った。名鉄バスは高蔵寺駅北口行きだ。往路のJRバスとは違うルートで、途中、高蔵寺ニュータウンの団地の中を走った。四角いコンクリートの建物がたくさん続き、高蔵寺ニュータウンは本当に広い団地なのだな、と改めて感じた。
父の事業の失敗で暗い日々を過ごしてきた私たち家族にとって、久々の楽しいひとときだった。
今回はプロローグと、第1章の第1節です。
高校生の美咲と愛犬のジョン、その仲間たちが活躍します。
プロローグ
私が住んでいるところは、学生寮の管理人室だ。
父の事業が失敗し、家も財産も、すべてを失い、この寮にやってきた。
父は名古屋市内で、自動車部品を作る、小さな下請け工場を経営していた。しかし親会社から、無理な単価引き下げを強要され、なかなか利益が出せず、とうとう倒産に追い込まれた。
ちょうど私が高校受験の頃で、私は高校に行かず、働くと両親に申し出たが、学費は何とかするから、せめて高校だけは卒業しなさい、と説得され、進学したのだった。
最初は名古屋市内の県立高校を受験する予定だった。しかし、春日井市のこうぞうじ高蔵寺駅の近くに転居することになったので、公立高校の願書を提出する直前で、志望校を春日井市内の公立高校に変更した。絶対に学費が安く済む公立高校に入学しなければならないので、今の鳥居松高校を選んだのだった。
最初の志望校とは違うが、鳥居松高校はけっこういい学校だと思う。あるいは、こちらの学校を選んでよかったのかもしれない。
名古屋市ちくさ千種区で自動車部品工場を経営していた父は、昨年暮れ、経営が行き詰まり、もうどうにもならなくなってしまった。経営上の詳しいことは、私にはよくわからないが、銀行からの資金も調達できず、負債の支払い不能に陥り、家や工場を処分して、借金の返済に充てざるを得なくなったようだ。
折よく両親は、大学生や専門学校生を対象とした、学生寮の寮長・寮母の募集を見つけた。それに応募し、採用されたので、幸い失職だけは免れた。私たち一家は、住み慣れた千種区の家を手放し、春日井市高蔵寺駅近くの学生寮に引っ越した。本来なら、二月中にも家を出て行かなければならなかった。しかし両親の新しい仕事が四月から――引き継ぎなどもあるので、寮に入るのは三月下旬――で、それまで住むところがなくなるため、債権者の特別な計らいで、三月下旬までは前の家に住むことができた。それで、私も中学校には卒業まで通うことができた。
私は通学に便利なように、JR中央本線春日井駅近くの鳥居松高校に志望校を変更したのだった。
けれども、小学五年生になる弟の慎二は、通い慣れた学校を転校するのがいやだと、ずいぶんだだをこねた。
それをなだめすかして、何とか春日井市の小学校に転入させた。最初は学校には行きたくない、と毎朝ぐずっていたが、ようやく友達もでき、新しい学校にも慣れてきたようだ。学校から帰ると、毎日のように、友達と自転車で駆け回っている。
高蔵寺は名古屋市千種区の住宅密集地とは違い、まだ豊富な自然が残っており、その自然も慎二を慰めたようである。
私も高蔵寺周辺の緑の多さには、満足している。
第一章 新たなるスタート
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三月最後の日曜日に、家族そろって市の植物園へ行き、その近くのハイキングコースを歩いた。父は車を手放してしまったので、高蔵寺駅からJRバスで行くことにした。寮の車を使おうと思えば使えたのだが、私用に使うのは気が引けるといって、公共のバスを利用したのだった。
私たちは高蔵寺駅南口から出ているJRバスに乗った。春休み中の日曜日だというのに、バスは空いていた。
バスは住宅街を抜けて、田畑が多い郊外に出た。途中、自衛隊前というバス停があり、こんな団地の近くに自衛隊の大きな基地があることを知って驚いた。航空自衛隊の基地は、隣の小牧市にあるということは知っていたが、ここは航空自衛隊岐阜基地の分屯基地だと父が教えてくれた。この基地には大規模な弾薬庫があるそうだ。団地のすぐ近くなので、ちょっと物騒な気がする。地元の革新系の市民団体などが、危険な弾薬庫を団地の近くから撤去させようという運動をしているという。
右手の方には、愛知県と岐阜県の県境をなす標高四〇〇メートル程度の山々が連なっていた。新しい家のすぐ近くに、こんないい景色があるなんて、思ってもみなかった。
小学生のとき、遠足で中央本線の電車に乗って、定光寺(じょうこうじ)に来たことを思い出した。あまりはっきりとは覚えていないけれど、小さな川に沿って、かなりの山の中を歩いたような記憶がある。山道を登り切った上の方には、大きな池があったことを覚えている。その定光寺もこの近くだ。
私たちは終点の植物園でバスを降りた。バス停は池のすぐそばだった。
バス停からすぐのところに、植物園の入り口がある。門のところには〝春日井市都市緑化植物園〟とあった。グリーンピア春日井とも表示してある。中に入って、そのまままっすぐ行くと、緑の相談所という建物があった。私たちはまずそこに入った。
緑の相談所のすぐ横手には、大久手池があり、サイクルボートに乗ることができる。池には何艘かのボートが、人を乗せてゆっくり動いていた。慎二がボートに乗りたいというので、父と二人でボート乗り場に行った。乗り場には順番待ちの人が並んでいたが、あまり待つことなく、番が回ってきた。ボートに乗るときは、黄色の救命胴着を着用しなければならない。
母と私は、ボートに乗らず、池の畔(ほとり)をのんびり歩きながら待っていた。私はときどき父と慎二が乗っているボートに向かって、手を振ってみた。
池にはカモがたくさん群れて泳いでいた。メスは茶色っぽい地味な色だが、オスは頭がダークグリーン、首には白いラインが入っていて、おしゃれな感じだ。動物は人間と違い、オスの方がきれいに着飾っていることが多い。鵜(う)やアオサギもときどき飛来するそうだ。
二人がボートに乗っている間、母と池の東側にある梅園を覗いてみた。いろいろな種類の梅がある。残念なことに、もう花の盛りを過ぎていた。それでもまだ遅咲きの梅を楽しむことができた。
父と慎二は三〇分の時間いっぱいボートに乗っていた。慎二がハンドルを握り、父がペダルをこいでいた。ボートは運転席だけではなく、隣に乗っている人もペダルをこげるようになっている。父は少し疲れたようだった。それに、三月下旬とはいえ、池の上でボートに乗るには、まだ風が冷たいと父は言っていた。もっとも父はペダルをこいでいたので、少し汗ばんでいた。
そのあと、緑と花の休憩所というところに入った。ガラス張りの、しゃれた感じの大きな建物だった。日の光がそのまま入るためか、それとも空調によるものかはわからないけれど、中は温室のように暖かかった。
中は花壇や庭園のようになっており、たくさんの草花や木が植えられていた。二階にはサボテン類が多く、見たこともない種類のものもあった。サボテンの出荷量は春日井市が全国一だそうだ。椅子とテーブルがあり、そこで少し休憩した。天井もガラス張りで、太陽光がさんさんと降り注ぎ、とても明るい雰囲気だ。
バラ園や大谷池の花菖蒲園は、まだ時期が早すぎて楽しめない。花の時期にぜひ訪れてみたい。
お昼になったので、私たちは芝生広場でお弁当を広げた。春休みの日曜日なので、芝生広場のあちこちで、多くの家族がお弁当を楽しんでいた。
芝生広場の近辺には、アスレチックなどの遊具やログハウス風の建物がある。桜の木も多く、花がちらほら咲きかけている。緑の木々や淡いピンクの桜の上に、県境をなす山並みがでんと鎮座している。心安らぐ風景だった。
最近は辛い思いばかりだったので、今日ぐらいはちょっと贅沢しようと、かなり豪華なお弁当を作ってきた。
炊き込みご飯に巻き寿司、いなり寿司、唐揚げ、卵焼き、焼き鮭、ウインナーソーセージ、サンドイッチ、サラダなど盛りだくさんだった。私も作るのに、少しは協力している。
父はビールを持ってきたがっていたが、アルコールは帰ってからにしなさい、と母に反対された。
私たちはお弁当を囲んで、盛り上がった。
お弁当を食べ終わって、「今日は本当に久々に楽しい思いをしたわ」と母がしみじみと言った。
「そうだな。工場がだめになって、一時は一家心中まで考えたんだが、死なずにいてよかった」
父がびっくりするようなことを言った。
「美咲と慎二が寝たあと、母さんと二人で、おまえたちを殺して、二人とも死のうかと話し合ったこともあってな」
父のその言葉に、私は驚いた。まさに天地がひっくり返るような驚き、と言ったら、大げさだろうか。
「おまえたち二人だけを残していくのもかわいそうだから、みんなであの世に行こうか、なんて、真剣に考えたものだ」
「僕はいやだよ。絶対死にたくない」と慎二が叫んだ。
「大丈夫だ。もう死のうなんていう気はないから。母さんがさっき言ったように、今日は本当に楽しい思いができた。生きていてよかった、と実感したよ。今の仕事なら、以前の工場ほどは儲からないけど、十分生活していけるしな」
「ごめんね。おまえたちを道連れにして、死のうだなんて考えて。だけど、もう大丈夫だからね。これから、みんなで力を合わせて、どんどん幸せを築いていこうね」
母は涙を流しながら言った。
少ししんみりとした雰囲気となった。そんな気分を吹き飛ばすように、父が「あそこに動物園がある。ちょっと行って、どんな動物がいるか、見てこよう」と私たちを誘った。
動物園といっても、〝動物ふれあい広場〟という小さな動物舎だった。柵の中には馬や羊などがいた。大きな禽舎(きんしや)には、クジャクやシチメンチョウ、オシドリ、バリケン、ウコッケイ、チャボ、アヒルなど、私でもよく知っている鳥たちがいた。
小学生のとき学校で、ウサギ小屋にバリケンを同居させていたら、生まれたばかりのウサギの子供が、いなくなってしまうという事件が起きた。ウサギの赤ちゃんはどうなったんだろうと追及していたら、バリケンが生まれたばかりの小さな子供を、丸呑みしていることが判明した。それで慌ててバリケンをウサギ小屋から引き離した、ということがあった。バリケンにとっては、ウサギの子供は貴重な動物性タンパク源でしかなかったのだろうが、児童、特に低学年の子供たちには大きなショックだった。先生は「これが弱肉強食の自然の掟なんだ」とクラスの児童に、苦々しく説明をした。
クジャクは私たちにサービスしてくれたのか、青緑色の美しい尾羽を広げて、私たちを歓迎してくれた。
父はコンパクトデジタルカメラで尾羽を広げたクジャクを写そうとした。しかしオートフォーカスだと、禽舎の金網にピントが合ってしまい、なかなかうまく写らないとぼやいていた。こういうときはマニュアルでピントが合わせられる一眼レフが欲しいな、と母にそれとなくいいカメラをねだっているようだった。
父は車とカメラが趣味で、カメラも一眼レフの銀塩カメラを二台所有していた。一台はプロのカメラマンが使うような、かなり高価なものだった。交換レンズも何本も揃えていた。白い大きなレンズがかっこよかった。
工場が休みの日は、車で出かけ、いろいろな写真を撮っていた。ときどき家族も一緒に連れて行ってくれた。しかし、今ではその趣味の車もカメラも、売り払ってしまっていた。
代わりに父は、子供でもお小遣いを貯めて買えるような、安っぽいコンパクトデジタルカメラを買った。以前は、「画像を細切れのデータにするようなデジタルカメラなんか使えるか」と言って、フィルム派を貫いていた父も、自慢のカメラやレンズを手放さざるを得ず、やむなく安いデジカメを買ったのだった。安物のカメラでも、腕でカバーしていい写真を撮ってみせる、と父は豪語した。父はデジカメのことを、わざとカメデジ、なんて言っていた。
最近は安いコンパクトデジタルカメラでも、六〇〇万画素を超えるものが出てきて、解像力は以前のフィルムカメラにも劣らなくなったので、父も妥協したようだ。
いつかはまた自分の車や高級な一眼レフカメラを持ちたい、と父は言っている。
動物舎には、本格的な動物園にはとても及ばないものの、いろいろな動物がいた。マーラという大きなネズミの仲間もいた。私が好きな作曲家のグスタフ・マーラーとよく似た名前だったので、印象に残った。ネズミというより、ウサギに似ている。
グリーンイグアナは怪獣のようなグロテスクな姿ではあるが、けっこうユーモラスで愛嬌があり、見ていて飽きなかった。こういうのをきも可愛いというのだろうか。怪獣や恐竜が好きな慎二も、グリーンイグアナが気に入ったようだった。
「こんなの飼ってみたい」と慎二が母にねだると、母は「こんな大きなトカゲ、気色わるい」と、気味悪がった。頭から尻尾の先まで、優に一メートル以上はありそうだ。ペットとしてグリーンイグアナを飼う人もいるが、大きくなりすぎて、持て余すこともあるという。グリーンイグアナは爬虫類とはいえ、思った以上に知能が高く、飼い主になつく、という話を聞いたことがある。きちんとしつければ、トイレも覚えるそうだ。
「じゃあ、その代わりに犬を買って。犬ならいいでしょ。小さい犬でいいから」と、今度は犬を欲しがった。
「だめだめ。寮では動物は飼えないから。せいぜい小鳥か金魚ぐらいかしらね」
「どうしてもだめなの? もし会社の人に訊いて、いいと言ったら、飼ってよ」
「だめに決まっているでしょう。普通の家じゃないんだから。アパートなんかでも、犬や猫はだめでしょう」
「ちぇー。犬、飼いたいのに」
慎二は残念そうに口をとがらせた。
植物園は〝みろくの森〟という、標高四〇〇メートルほどの愛知、岐阜県境の山並みへと続くハイキングコースにつながっている。県境の山並みは東海自然歩道となっている。家族連れでも歩ける、手軽なハイキングコースということだ。しかし、みろくの森の案内板を見ていると、やはり山の頂上まで行くのは大変そうだ。
特に母は五年ほど前に、交通事故で膝を傷めている。怪我自体はたいしたものではなかったが、後遺症でときどき膝がひどく痛むことがあるそうだ。気温が低いときや、梅雨などでじめじめしたときに痛みが出るという。階段を上るとき、膝に激痛が走り、思わず顔をしかめたりする。
それより築水池(ちくすいいけ)方面のコースの方が楽そうだ。そちらのコースの西高森山は、標高が県境の山の半分の二一五メートルとなっている。山がきつければ、池を一周するだけでもいい。
結局、今日は築水池の方を歩くことにした。
私たちはいったん北側のゲートから植物園を出て、少年自然の家の方に向かった。そして築水池という表示に導かれ、坂道を下っていった。ややきつい階段になっており、しょっぱなから母は辛そうだった。
金網の柵の向こうに、大きな池が見えた。それが築水池だ。池の反対側は林となっていて、木の名前を示す名札がついていた。コナラ、ソヨゴ、タカノツメ、アベマキ、アズキナシ、ナツハゼなど、いろいろな名札がかかっている。木にはあまりなじみがない私には、なかなか覚えきれない。
少し行くと、野鳥観察コーナーというものがあった。大きな木製の衝立(ついたて)に開けた窓から、そっと野鳥たちを覗くようになっている。そこには「築水池の鳥たち」という解説があった。鳥の絵に名前、体長などが記されてあった。カワセミやヤマセミも見られるようで、父が「いいカメラと望遠レンズを買ったら、一度野鳥を狙ってみるか」と言った。
築水池の西の端に出た。私たちは大きなみろくの森案内図を見ながら、これからどこへ行くかを相談した。右へ行けば、そこからすぐの築水の小屋を経て、池を一周するコース、まっすぐ行けば、西高森山に通じる道だ。西高森山は、弥勒山(みろくさん)等と比べれば、標高は約半分だ。それでも山はちょっとしんどいので、池をぐるっと一周しよう、と母が主張した。
築水の小屋は、大きなテーブルが三つあり、その周りを木のベンチが囲んでいる、立派な小屋だ。天井まで届く壁はなく、木の柱で屋根を支えてはいるが、四阿(あずまや)というには、大きく立派だった。
小屋で少し休憩を取り、飲み物を飲んだり、おやつを食べたりした。
小屋の前から眺める弥勒山、大谷山は堂々としていた。築水池を前景に、深い森の上にそびえる山の姿は美しかった。
池の水際から、木立が茂って森をなし、スギやヒノキの森、雑木林の上に、二つの山が頂を持ち上げていた。池に倒影している山の姿もよかった。左が弥勒山で春日井市の最高峰四三七メートル、右は大谷山(おおたにやま)四二五メートルだそうだ。大谷山は四二九メートルの道樹山(どうじゅさん)に次いで、市内で三番目に高い。道樹山は、この位置からだと大きな松の木と重なり、わかりにくかったが、大谷山の尾根からちょろっと頭を覗かせていた。そのような知識は、小屋で休憩していたハイカーに教えてもらった。
父がデジタルカメラで何枚も山と池の写真を撮った。三脚を使い、きれいな景色を背景として、家族みんなが揃った写真も写してくれた。父は写した写真を液晶モニターに表示して、私たちに見せてくれた。フィルムを現像してみないと、どのように写っているかわからない銀塩カメラと違って、デジタルカメラは、写してすぐその場で画像を見られるのが便利だ。
私たちは小屋を出発し、池を一周するコースを歩いた。五月ごろなら、山ツツジがたくさん咲いていそうだ。池に沿って歩くルートとはいえ、上り下りが多かった。小さな丸木で作られた階段が多い。足元には注意が必要だった。
築水池の付近には、ところどころ湿地帯が点在している。小さな沢の流れが湿地を作っている。
「お願い この付近の湿地には、大切な植物が生育しており植生保護のため次の事項を守ってください。
・歩道から観察し、湿地には絶対入らないこと。
・草木を採取したり、持ち込んだり、傷つけたりしないこと。
・たばこの吸殻やゴミなどを捨てないこと。
愛知県」
「湿性植物保護のため 湿地への立ち入り禁止」
そんな立て札が、何か所かに立っていた。
湿地帯には、木の切り株を模したコンクリート製の飛び石が置いてあり、その上を歩くようになっているところもある。その足場の間隔がやや大きめで、母はこの上を跳んで渡るのが、難儀そうだった。また、切り株様の飛び石でなく、木道になっている道もあった。
「あんな切り株みたいなのより、こういうふうに木で道を作ってくれればいいのに」と母がこぼしていた。
築水池一周は三キロ程度の道のりだ。私たちは一時間以上かけてゆっくり歩いた。道はよく整備されてはいるものの、池の周囲なので平坦な道だと思ったら、意外と起伏が多く、けっこう運動量が大きかった。膝を傷めている母にとっては、ややハードなコースだったようだ。
荷物はすべて父の大きめのザックに入れてあったので、母も私も慎二も、ほとんど手ぶらだった。私はウエストポーチにペットボトルに入った飲み物と、フェイスタオル、ティッシュ、それからメガネが入ったケース等を入れている。私はあまり視力がよくないので、きれいな景色を見るときには、メガネをかけることがある。
散策道には鬱蒼と樹木が茂り、晴天とはいえ、日陰が多く、やや暗い雰囲気だった。それでも歩いていると暑くなり、汗がだらだらと流れた。父と慎二はそれほどでもないが、母と私は汗かきだ。私はウエストポーチからフェイスタオルを取り出して、汗を拭いた。
ときどき視界が開け、池が見渡せた。しかし、私は築水小屋の前から見た、弥勒山、大谷山を背景にした眺めがいちばんいいと思う。
道は少年自然の家の多目的広場に出て、私たちのハイキングは終わりとなった。自然の家の駐車場から県道を超えて、バス停に戻った。
駐車場は何か所かあるが、ほとんど満車に近かった。春日井市民の憩いの場として、植物園は人気が高いようだ。みろくの森から、東海自然歩道へのハイキングが手軽に楽しめることもポイントだといえる。
「お母さん、辛そうだったけど、大丈夫?」と私は母に尋ねた。
「ちょっと疲れたけど、大丈夫。たまには歩かないと、足腰が弱っちゃうからね。今日はいい運動だった。また来てみたいね」
母は流れ落ちる汗を拭きながら言った。
母は少し太り気味なので、もう少し運動しなくっちゃ、とも付け加えた。
こんな辛い思いをして、もう二度と行きたくない、と言われるのじゃないかと心配したが、母なりに楽しんでいたようで、よかったと思った。
帰りは名鉄バスがすぐ発車するので、そちらに乗った。名鉄バスは高蔵寺駅北口行きだ。往路のJRバスとは違うルートで、途中、高蔵寺ニュータウンの団地の中を走った。四角いコンクリートの建物がたくさん続き、高蔵寺ニュータウンは本当に広い団地なのだな、と改めて感じた。
父の事業の失敗で暗い日々を過ごしてきた私たち家族にとって、久々の楽しいひとときだった。
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