毎日暑い日が続きます。最近はセミも元気に鳴いています。
飴玉で作ったアイスクリームは、暑いときにおいしいです。最近はけっこうおいしく作れます。
ただ、塩飴で作ったのは、失敗でした。やはりアイスクリームは甘いほうがいいですね。塩飴のアイスは、少し塩辛く、今ひとつでした。残った飴玉は、登山の時に持っていき、塩分補給用にしようと思います。スイカキャンディーで作ったアイスクリームは、ほのかにスイカの味がして、よかったです。
今日も弥勒山に登ってきました。下山途中で、小さなクワガタムシに会いました。
大谷川の畔に、ユリが咲いていて、きれいでした。
池に映った弥勒山、大谷山、道樹山です(左から)。
今回は『幻影』第8章です。幽霊に会った美奈ですが……
8
美奈は昨夜のことを卑美子に話しておこうと思い、電話をかけた。今仕事中で手が離せないので、申し訳ありませんが、三時ごろかけ直してくれませんか、と言われた。
美奈は三時になるのを待って再度かけてみた。この日は美奈は公休日だ。
「はい、卑美子ボディアートスタジオでございます。あ、美奈ちゃん。こんにちは。さっきはすみません。予約ですか?」
「あ、はい。今度は胸にまた牡丹の花、お願いします」
電話ではやはりこんな話はできないと思い、とっさに予約を取ることにしてしまった。彫ってもらった後にでも話をするつもりでいた。
「牡丹が好きですね。たまには別の図柄もどうですか? でも、牡丹のほうが統一感があって、いいかもしれませんね。いつがいいですか?」
「できれば、早いほうがいいですが。今夜は空いてませんか?」
「急ですね。それじゃあ、今夜九時、来れますか? 前のお客さんが大きいのを彫るので、ひょっとしたら少し待ってもらうことになるかも知れませんが」
「そんな遅い時間に、大丈夫ですか?」
卑美子のスタジオは、ふだんは九時には仕事を終える。だからそんな遅い時間にお願いすることは心苦しいと思った。六時からの時間が空いていればいいなと思い、今夜空いていませんか、と希望したのだが、九時から、実際はさらに遅くなりそうだと聞いて、あまりわがままを言っては申し訳ないと思った。
それでも卑美子は、「かまいませんよ。午前様になることはよくありますから。旦那様もそのへんのことには理解がありますからね。それより、美奈ちゃんのほうが家が遠いのに、大丈夫ですか?」
卑美子は軽いおのろけを交えながら答えた。
卑美子のスタジオは営業時間の正午から午後九時までだ。だが客の都合に合わせ、フレキシブルに変更する。午前の早い時間からやることもあれば、深夜まで彫ることもある。美奈も何度となく、遅くまで時間を延長してもらったことがある。スタジオと自宅は近いし、遅くなって帰るのがおっくうになれば、スタジオに寝泊まりすることもある、と卑美子は言っていた。
「はい、では、九時にお願いします」
想定外に彫ることになってしまったが、胸に牡丹一輪増える程度なら、どうということもない。というより、胸にも入れてみたかった。とにかく、早く卑美子に話したかった。
九時に卑美子のスタジオに行ったら、やはりまだ前の客に彫っているところだった。女性客が多い卑美子のスタジオでは、彫っている場面を他の客から見られないように、後から来た客は別室で待つようになっている。二〇分ほど延長して、前の客は帰っていった。客は男の人だった。卑美子のスタジオは女性客が多いが、男性客もけっこういる。男性客は和柄などの大きな絵を彫ることが多いので、時間がかかることがある。
「お待たせしました。前のお客さん、ずいぶん早めに来たので、すぐ始めたのに、二〇分も遅くなっちゃったわ」
「いえ、私が急がせたのでいけなかったのです。すみません」
「では、遅くなったので、急いで準備しますね。でも、急いでいても、準備はおろそかにはできないから。今日は車? それなら帰りの電車の時間、気にしなくていいですね」
さっそく見本帳から牡丹の花を選んだ。卑美子は客の希望を聞きながら、絵を起こしていくという流儀をとっている。しかし見本帳にもたくさんの絵が用意してあり、客は見本帳の絵から選んで図柄を決めることもできる。美奈が選んだ牡丹は、以前からこの牡丹の花を入れたい、と目をつけておいたものだった。
左乳房の上に、葉をあわせて、掌から指の先までぐらい、一五センチほどの大きさの牡丹を彫ることにした。色は赤や黄色ではなく、紫系統を希望した。
筋彫りが終わり、花に紫の色を入れているとき、美奈は、「そういえば千尋さんはこの場所に赤いバラを入れていたんですね」と、そろそろ本題に入ろうとした。
「ええ。背中に彫る前、最初に彫ったのが、その赤いバラですよ」
「千尋さん、まだ連絡ないのですか」
「まだ子供さんが小さいから、とてもタトゥーを再開するどころじゃないのでしょうね。小さいときは手がかかりますから。まだ当分無理なんじゃないですか? 私もそろそろ子供を作りたいと思っているんですけどね。もう三五ですから。私より、旦那のほうが子供を欲しがっているんです。でも、そうすればやはり二、三年はスタジオを休まなきゃいけないし。せっかく軌道に乗ってきたスタジオですからね」
「彫り師さんにも産休、育休が必要ですね」と美奈は相づちを打った。今はこれ以上話すのはやめにした。もし幽霊の話になって、卑美子が動揺してしまってはいけない。続きは施術が終わってからにしようと思った。
三時間もかからず、牡丹は完成した。左の乳房から鎖骨の下のあたりまで、大きな面積を占める、堂々たる牡丹の花だ。紫を主に、藤色、青、白のグラデーションは相変わらず見事だった。まったく予定外のタトゥーだったが、美奈は満足だった。メインの場所には鮮やかな赤や黄系統が多い美奈にしては、目立つところに紫系統の牡丹を彫るのは、珍しかった。
衣服を着ていても、少し襟がずれれば、見えてしまう位置なので、気をつけなければいけない。ふだんから襟を正しなさい、ということかな、と美奈は考えた。胸が明いている服は、もう着ることが難しくなる。
「写真ができましたよ」と、卑美子はアルバムの、美奈の騎龍観音の写真があるページを示してくれた。A4判の大きな写真だった。
「こうしてみると、ほんとに千尋さんの騎龍観音と瓜二つですね」
「同じ原画から彫った絵ですからね。でも、手描きの龍の胴体の部分を、ちょっと変えてありますよ」
そう言われて二人の写真を見比べれば、龍の胴体のうねりが、少し違っている。
「こんなことを言うのは何ですが、実は昨夜、夜中に私、千尋さんに会ったんです」
とうとう美奈は要件を切り出した。
「え、夜中にですか?」
「こんなこと信じてもらえないかも知れませんが、昨夜寝ていたら、金縛りにかかって。動こうにも全然身体が言うことをきかず、足の方を見ていたら、白いものがぼうっと浮かんでいて。それがだんだん人の顔になり、やがてはっきりと千尋さんになったんです。胸には、赤いバラのタトゥーがありました」
思い出しただけで、美奈は身体が震えてきた。
「まさか。夢でも見たのでは?」
「私もそう思いました。でも、絶対夢なんかじゃないんです」
「夢じゃなく、本物の幽霊なら……」
「千尋さんは、もうこの世にいない、ということになります」
「いやですよ。そんなこと。でも、千尋さんが連絡をくれない、ということは、連絡できない状態にある。つまり、死んでいる……」
「私もそう思うんです。それで、そのことで先生の意見をお伺いしたくて」
「それでわざわざ今日、彫りに来てくれたんですか?」
「いえ、ちょうど胸にも彫りたかったんです。お客さんからよく前に何もないと、寂しいから、胸にも何か彫ったら、って言われるし」
「お客さん? やっぱり美奈ちゃん、ソープで働いているんですね」
「あ、余計なこと言っちゃった。でも、先生はもうご存じだったんですね」
「ええ、うすうす察していましたけどね。やっぱり彫り代稼ぐためでしょう? 私、ときどき美奈ちゃんに彫ったことにより、美奈ちゃんの人生を変えてしまったのじゃないかな、と思うことがあるの。まあ、美奈ちゃんだけでなく、大きな彫り物入れれば、たいていその人の一生は変わってしまうのだけれど。そう考えると、私たち彫り師は非常に大きな責任を背負っているのよ。だからこそ、どんな小さなタトゥーでも、私は真剣に取り組まなきゃ、と考えるんですけどね」
「先生が気にされることないですよ。もし先生に会えなければ、きっとほかの彫り師さんに彫ってもらってたでしょうし。でも私、先生の絵だからこそ、よかったんです。先生の絵を彫ってもらえて、とっても幸せなんです。とてもきれいで。子供のころからの憧れが、先生に出会えて、叶ったんだと思うんです」
思わぬ失言から、ちょっと話がずれてしまった。話を千尋さんのことに戻さねば、と美奈は思った。
「ところで、先生のほうから千尋さんに連絡されたことはありませんか?」
「そうですね。美奈ちゃんが初めて来たときより少し前に、おなかの赤ちゃんは順調に育っているかと思って、こちらから携帯にかけたことがあったけど、その番号は、もう使われていませんでしたね。おととし一昨年の一〇月の中ごろだったと思うけど」
「先生、ここでタトゥーを入れるとき、身元確認のために、免許証などのコピーをとりますよね。もしよろしかったら、私に千尋さんの免許証にある住所、教えてもらえませんか?」
「聞いてどうするんですか? 訪ねていくつもり?」
「はい、そうしようと思います」
「でも、お客さんのプライバシーは漏らすわけにはいきませんよ」
そう言って卑美子はしばらく考え込んだ。
「そうですね。実は、私も美奈ちゃんが見たのは、本物の幽霊だと思えるようになってきました。ということは、千尋さんはもうこの世にいない、ということ。わかりました。美奈ちゃんを信用して、千尋さんの住所を教えてあげましょう」
卑美子はファイルを調べ、千尋の住所をメモして、美奈に渡した。
橋本千尋 昭和五三年八月一〇日 生 名古屋市中村区松原町〇〇 サンハイツ本陣五〇三号室
「あら、私のお店の近く。あ、また余計なこと言っちゃいました。もうバレバレですね。近いうちに訪ねてみます。たぶんもうその住所にはみえないと思いますが、もし転居先がわかれば、連絡します」
「千尋さんの勤めていたオフィスが駅西(名古屋駅の西)にあり、通勤に便利で、家賃も安い、と言っていましたけどね。どっかの会社の事務をしてたそうです。普通の会社のOLさんでも、ファッションでワンポイントなんかを入れる女性が増えてきましたが、あれだけ大きいのを彫るのはちょっと珍しいですね。よほど好きだったんでしょうね」
「そうなのですか。私も同じだから、千尋さんの気持ちはよくわかります。今では風俗のお仕事してるけど、私も最初は普通の会社員でしたから」
「とにかく、何かわかったら、連絡ください。私も千尋さんのことは、非常に気になっていますから」
美奈が卑美子のスタジオを出たのは、もう午前一時を大きく回っていた。美奈が店を出て、帰路につくのは、さらに遅くなることもあるので、美奈にとっては特に遅い、という時間帯ではなかったが。
美奈は愛車の赤いミラで、国道一九号線を時速八〇キロを大きく超えるスピードで飛ばしていた。ふだんは夜中、いくら一九号線が空いていても、そんなに飛ばすことはなかった。今夜は、運転中に隣の席に千尋の幽霊が現れたらどうしよう、という恐怖感から、ついついスピードが上がってしまった。
すると、「危ない! スピードを落としなさい。次の信号で、右折車が突っ込んできますよ」という声が頭の中に響いた。それで、美奈は慌ててブレーキを踏んだ。
そのときだった。前方の信号が青からちょうど黄色に変わった。右折車が、突然突っ込んできた。右折車は信号が黄に変わったので、前方を確認せず、赤信号になる前に行ってしまおうと、そのまま右折してきたのだ。
普通なら、交差点に入る直前で黄信号に変わったのだから、スピード違反ということを除けば、直進車がそのまま走行することは、特に問題はない。信号が黄に変わったからといって、急停車しようものなら、後続車に追突されてしまう。右折車のほうが、直進車が通り過ぎるのを待っていなければならない。
しかし右折車は、直進車があるかどうか、前方を確認することなく、そのまま右折してしまった。とにかく赤にならないうちに右折してしまおうということしか、頭になかったようだ。矢印信号になっているので、慌てなくても、ゆっくり落ち着いて右折すればいいのだが、深夜で眠く、注意力が散漫になっていたのか、運転者は前方を確認せず、右折した。
スピードを落としたおかげで、間一髪、美奈の車は右折車をかわすことができた。幸い、後続車がなく、追突をされることもなかった。
スピードを落としなさい、という声が聞こえなければ、美奈はそのまま交差点に突っ込み、間違いなく猛スピードで右折車とぶつかっていた。間一髪で大事故を免れたのだ。
事態を理解した美奈は、青くなり、車のスピードを法定速度以下に落とした。そして、その後は慎重に運転した。
翌日、美奈は体調が悪いからと電話して、店を休んだ。電話を受けたフロントの沢村は、「最近ミクちゃんは忙しいですからね。無理しないで、今日はゆっくり休んでください。店長には伝えておきます」とねぎらってくれた。
体調が悪いというのは嘘ではなかった。熱もあった。
広範囲にタトゥーを彫れば、発熱するのは、珍しいことではなかった。だが、この身体のだるさは、昨夜胸に彫ったタトゥーのせいではないと思われた。美奈は夕方まで横になっていた。
病院に行こうかとも考えたが、全身のタトゥーを医者や看護師に見せるのがためらわれた。そういえば、タトゥーを彫ってから、一度も医者に診てもらわなければならないほどの病気をしていないことに、美奈は気がついた。せいぜい軽い風邪や腹痛、下痢ぐらいだ。病院に行くのは、オアシスで義務づけられている、月に一度の検診だけだった。
昨夜の、美奈を事故から救ってくれたあの声は、何だったのだろう。重い頭で、美奈は考えた。思い当たるのは、あの幽霊、橋本千尋の声ではなかったか、ということだ。高いソプラノのような声だった。千尋さんは私を助けてくれた。幽霊だけど、私に注意を促し、命を助けてくれた。
夕方になって、ようやく身体が楽になった。近所のスーパーで買い物をしたり、本屋に行って立ち読みしたりした。
食欲があまりないので、スーパーで買ってきた総菜で簡単に食事を済ませた。
入浴のとき、刺激の少ないベビー用石けんを使って、胸の牡丹の、ごわごわに固まったリンパ液をそっと洗い流した。浴室の鏡で自分の全身を映してみる。本当にきれいだな、と思う。このような美しい身体を手に入れられたのは、最高の喜びだ。子供のころから、全身にきれいな絵を描いてみたい、と憧れ続けてきた。私は、幼いころからの夢を完全に叶えることができたのだ。
風呂から出てから、しばらく裸のまま大きな姿見の前で自分の身体を眺めていた。少し離れたところから、自分の全身を映してみる。腕、背中からお尻、太股にかけて描かれている騎龍観音と色とりどりの牡丹。自分の身体であって、自分の身体ではないような気がする。全身にタトゥーを彫って、本当によかったと思える自己満足の瞬間だった。その意味で、美奈はナルシシストといえた。
美奈はまた夜中に目が覚めた。今度も身体が動かない。足元を見ると、今夜も現れた。千尋の幽霊だ。強度の近視である美奈だが、メガネがなくても、顔がはっきり見える。これは目で見ているのではなく、一種の霊眼で見ているからなのだろうか。今日は一昨夜のような、悲しげな顔ではなく、こころもち微笑んでいるようにも見える。
「千尋さん、あなたですね。昨夜、私を助けてくれたのは。それなのに、怖がって、ごめんなさい。もう千尋さんのこと、怖がりません。助けてくれて、本当にありがとうございました」
美奈は心の中でそう語りかけた。千尋はにっこり微笑んだ。そして消えた。
金縛りが解かれ、手足が動くようになった。
夢でも幻覚でもない。やはり本物の幽霊だ。しかし、美奈はもう千尋の幽霊が怖いとは思わなかった。
飴玉で作ったアイスクリームは、暑いときにおいしいです。最近はけっこうおいしく作れます。
ただ、塩飴で作ったのは、失敗でした。やはりアイスクリームは甘いほうがいいですね。塩飴のアイスは、少し塩辛く、今ひとつでした。残った飴玉は、登山の時に持っていき、塩分補給用にしようと思います。スイカキャンディーで作ったアイスクリームは、ほのかにスイカの味がして、よかったです。
今日も弥勒山に登ってきました。下山途中で、小さなクワガタムシに会いました。
大谷川の畔に、ユリが咲いていて、きれいでした。
池に映った弥勒山、大谷山、道樹山です(左から)。
今回は『幻影』第8章です。幽霊に会った美奈ですが……
8
美奈は昨夜のことを卑美子に話しておこうと思い、電話をかけた。今仕事中で手が離せないので、申し訳ありませんが、三時ごろかけ直してくれませんか、と言われた。
美奈は三時になるのを待って再度かけてみた。この日は美奈は公休日だ。
「はい、卑美子ボディアートスタジオでございます。あ、美奈ちゃん。こんにちは。さっきはすみません。予約ですか?」
「あ、はい。今度は胸にまた牡丹の花、お願いします」
電話ではやはりこんな話はできないと思い、とっさに予約を取ることにしてしまった。彫ってもらった後にでも話をするつもりでいた。
「牡丹が好きですね。たまには別の図柄もどうですか? でも、牡丹のほうが統一感があって、いいかもしれませんね。いつがいいですか?」
「できれば、早いほうがいいですが。今夜は空いてませんか?」
「急ですね。それじゃあ、今夜九時、来れますか? 前のお客さんが大きいのを彫るので、ひょっとしたら少し待ってもらうことになるかも知れませんが」
「そんな遅い時間に、大丈夫ですか?」
卑美子のスタジオは、ふだんは九時には仕事を終える。だからそんな遅い時間にお願いすることは心苦しいと思った。六時からの時間が空いていればいいなと思い、今夜空いていませんか、と希望したのだが、九時から、実際はさらに遅くなりそうだと聞いて、あまりわがままを言っては申し訳ないと思った。
それでも卑美子は、「かまいませんよ。午前様になることはよくありますから。旦那様もそのへんのことには理解がありますからね。それより、美奈ちゃんのほうが家が遠いのに、大丈夫ですか?」
卑美子は軽いおのろけを交えながら答えた。
卑美子のスタジオは営業時間の正午から午後九時までだ。だが客の都合に合わせ、フレキシブルに変更する。午前の早い時間からやることもあれば、深夜まで彫ることもある。美奈も何度となく、遅くまで時間を延長してもらったことがある。スタジオと自宅は近いし、遅くなって帰るのがおっくうになれば、スタジオに寝泊まりすることもある、と卑美子は言っていた。
「はい、では、九時にお願いします」
想定外に彫ることになってしまったが、胸に牡丹一輪増える程度なら、どうということもない。というより、胸にも入れてみたかった。とにかく、早く卑美子に話したかった。
九時に卑美子のスタジオに行ったら、やはりまだ前の客に彫っているところだった。女性客が多い卑美子のスタジオでは、彫っている場面を他の客から見られないように、後から来た客は別室で待つようになっている。二〇分ほど延長して、前の客は帰っていった。客は男の人だった。卑美子のスタジオは女性客が多いが、男性客もけっこういる。男性客は和柄などの大きな絵を彫ることが多いので、時間がかかることがある。
「お待たせしました。前のお客さん、ずいぶん早めに来たので、すぐ始めたのに、二〇分も遅くなっちゃったわ」
「いえ、私が急がせたのでいけなかったのです。すみません」
「では、遅くなったので、急いで準備しますね。でも、急いでいても、準備はおろそかにはできないから。今日は車? それなら帰りの電車の時間、気にしなくていいですね」
さっそく見本帳から牡丹の花を選んだ。卑美子は客の希望を聞きながら、絵を起こしていくという流儀をとっている。しかし見本帳にもたくさんの絵が用意してあり、客は見本帳の絵から選んで図柄を決めることもできる。美奈が選んだ牡丹は、以前からこの牡丹の花を入れたい、と目をつけておいたものだった。
左乳房の上に、葉をあわせて、掌から指の先までぐらい、一五センチほどの大きさの牡丹を彫ることにした。色は赤や黄色ではなく、紫系統を希望した。
筋彫りが終わり、花に紫の色を入れているとき、美奈は、「そういえば千尋さんはこの場所に赤いバラを入れていたんですね」と、そろそろ本題に入ろうとした。
「ええ。背中に彫る前、最初に彫ったのが、その赤いバラですよ」
「千尋さん、まだ連絡ないのですか」
「まだ子供さんが小さいから、とてもタトゥーを再開するどころじゃないのでしょうね。小さいときは手がかかりますから。まだ当分無理なんじゃないですか? 私もそろそろ子供を作りたいと思っているんですけどね。もう三五ですから。私より、旦那のほうが子供を欲しがっているんです。でも、そうすればやはり二、三年はスタジオを休まなきゃいけないし。せっかく軌道に乗ってきたスタジオですからね」
「彫り師さんにも産休、育休が必要ですね」と美奈は相づちを打った。今はこれ以上話すのはやめにした。もし幽霊の話になって、卑美子が動揺してしまってはいけない。続きは施術が終わってからにしようと思った。
三時間もかからず、牡丹は完成した。左の乳房から鎖骨の下のあたりまで、大きな面積を占める、堂々たる牡丹の花だ。紫を主に、藤色、青、白のグラデーションは相変わらず見事だった。まったく予定外のタトゥーだったが、美奈は満足だった。メインの場所には鮮やかな赤や黄系統が多い美奈にしては、目立つところに紫系統の牡丹を彫るのは、珍しかった。
衣服を着ていても、少し襟がずれれば、見えてしまう位置なので、気をつけなければいけない。ふだんから襟を正しなさい、ということかな、と美奈は考えた。胸が明いている服は、もう着ることが難しくなる。
「写真ができましたよ」と、卑美子はアルバムの、美奈の騎龍観音の写真があるページを示してくれた。A4判の大きな写真だった。
「こうしてみると、ほんとに千尋さんの騎龍観音と瓜二つですね」
「同じ原画から彫った絵ですからね。でも、手描きの龍の胴体の部分を、ちょっと変えてありますよ」
そう言われて二人の写真を見比べれば、龍の胴体のうねりが、少し違っている。
「こんなことを言うのは何ですが、実は昨夜、夜中に私、千尋さんに会ったんです」
とうとう美奈は要件を切り出した。
「え、夜中にですか?」
「こんなこと信じてもらえないかも知れませんが、昨夜寝ていたら、金縛りにかかって。動こうにも全然身体が言うことをきかず、足の方を見ていたら、白いものがぼうっと浮かんでいて。それがだんだん人の顔になり、やがてはっきりと千尋さんになったんです。胸には、赤いバラのタトゥーがありました」
思い出しただけで、美奈は身体が震えてきた。
「まさか。夢でも見たのでは?」
「私もそう思いました。でも、絶対夢なんかじゃないんです」
「夢じゃなく、本物の幽霊なら……」
「千尋さんは、もうこの世にいない、ということになります」
「いやですよ。そんなこと。でも、千尋さんが連絡をくれない、ということは、連絡できない状態にある。つまり、死んでいる……」
「私もそう思うんです。それで、そのことで先生の意見をお伺いしたくて」
「それでわざわざ今日、彫りに来てくれたんですか?」
「いえ、ちょうど胸にも彫りたかったんです。お客さんからよく前に何もないと、寂しいから、胸にも何か彫ったら、って言われるし」
「お客さん? やっぱり美奈ちゃん、ソープで働いているんですね」
「あ、余計なこと言っちゃった。でも、先生はもうご存じだったんですね」
「ええ、うすうす察していましたけどね。やっぱり彫り代稼ぐためでしょう? 私、ときどき美奈ちゃんに彫ったことにより、美奈ちゃんの人生を変えてしまったのじゃないかな、と思うことがあるの。まあ、美奈ちゃんだけでなく、大きな彫り物入れれば、たいていその人の一生は変わってしまうのだけれど。そう考えると、私たち彫り師は非常に大きな責任を背負っているのよ。だからこそ、どんな小さなタトゥーでも、私は真剣に取り組まなきゃ、と考えるんですけどね」
「先生が気にされることないですよ。もし先生に会えなければ、きっとほかの彫り師さんに彫ってもらってたでしょうし。でも私、先生の絵だからこそ、よかったんです。先生の絵を彫ってもらえて、とっても幸せなんです。とてもきれいで。子供のころからの憧れが、先生に出会えて、叶ったんだと思うんです」
思わぬ失言から、ちょっと話がずれてしまった。話を千尋さんのことに戻さねば、と美奈は思った。
「ところで、先生のほうから千尋さんに連絡されたことはありませんか?」
「そうですね。美奈ちゃんが初めて来たときより少し前に、おなかの赤ちゃんは順調に育っているかと思って、こちらから携帯にかけたことがあったけど、その番号は、もう使われていませんでしたね。おととし一昨年の一〇月の中ごろだったと思うけど」
「先生、ここでタトゥーを入れるとき、身元確認のために、免許証などのコピーをとりますよね。もしよろしかったら、私に千尋さんの免許証にある住所、教えてもらえませんか?」
「聞いてどうするんですか? 訪ねていくつもり?」
「はい、そうしようと思います」
「でも、お客さんのプライバシーは漏らすわけにはいきませんよ」
そう言って卑美子はしばらく考え込んだ。
「そうですね。実は、私も美奈ちゃんが見たのは、本物の幽霊だと思えるようになってきました。ということは、千尋さんはもうこの世にいない、ということ。わかりました。美奈ちゃんを信用して、千尋さんの住所を教えてあげましょう」
卑美子はファイルを調べ、千尋の住所をメモして、美奈に渡した。
橋本千尋 昭和五三年八月一〇日 生 名古屋市中村区松原町〇〇 サンハイツ本陣五〇三号室
「あら、私のお店の近く。あ、また余計なこと言っちゃいました。もうバレバレですね。近いうちに訪ねてみます。たぶんもうその住所にはみえないと思いますが、もし転居先がわかれば、連絡します」
「千尋さんの勤めていたオフィスが駅西(名古屋駅の西)にあり、通勤に便利で、家賃も安い、と言っていましたけどね。どっかの会社の事務をしてたそうです。普通の会社のOLさんでも、ファッションでワンポイントなんかを入れる女性が増えてきましたが、あれだけ大きいのを彫るのはちょっと珍しいですね。よほど好きだったんでしょうね」
「そうなのですか。私も同じだから、千尋さんの気持ちはよくわかります。今では風俗のお仕事してるけど、私も最初は普通の会社員でしたから」
「とにかく、何かわかったら、連絡ください。私も千尋さんのことは、非常に気になっていますから」
美奈が卑美子のスタジオを出たのは、もう午前一時を大きく回っていた。美奈が店を出て、帰路につくのは、さらに遅くなることもあるので、美奈にとっては特に遅い、という時間帯ではなかったが。
美奈は愛車の赤いミラで、国道一九号線を時速八〇キロを大きく超えるスピードで飛ばしていた。ふだんは夜中、いくら一九号線が空いていても、そんなに飛ばすことはなかった。今夜は、運転中に隣の席に千尋の幽霊が現れたらどうしよう、という恐怖感から、ついついスピードが上がってしまった。
すると、「危ない! スピードを落としなさい。次の信号で、右折車が突っ込んできますよ」という声が頭の中に響いた。それで、美奈は慌ててブレーキを踏んだ。
そのときだった。前方の信号が青からちょうど黄色に変わった。右折車が、突然突っ込んできた。右折車は信号が黄に変わったので、前方を確認せず、赤信号になる前に行ってしまおうと、そのまま右折してきたのだ。
普通なら、交差点に入る直前で黄信号に変わったのだから、スピード違反ということを除けば、直進車がそのまま走行することは、特に問題はない。信号が黄に変わったからといって、急停車しようものなら、後続車に追突されてしまう。右折車のほうが、直進車が通り過ぎるのを待っていなければならない。
しかし右折車は、直進車があるかどうか、前方を確認することなく、そのまま右折してしまった。とにかく赤にならないうちに右折してしまおうということしか、頭になかったようだ。矢印信号になっているので、慌てなくても、ゆっくり落ち着いて右折すればいいのだが、深夜で眠く、注意力が散漫になっていたのか、運転者は前方を確認せず、右折した。
スピードを落としたおかげで、間一髪、美奈の車は右折車をかわすことができた。幸い、後続車がなく、追突をされることもなかった。
スピードを落としなさい、という声が聞こえなければ、美奈はそのまま交差点に突っ込み、間違いなく猛スピードで右折車とぶつかっていた。間一髪で大事故を免れたのだ。
事態を理解した美奈は、青くなり、車のスピードを法定速度以下に落とした。そして、その後は慎重に運転した。
翌日、美奈は体調が悪いからと電話して、店を休んだ。電話を受けたフロントの沢村は、「最近ミクちゃんは忙しいですからね。無理しないで、今日はゆっくり休んでください。店長には伝えておきます」とねぎらってくれた。
体調が悪いというのは嘘ではなかった。熱もあった。
広範囲にタトゥーを彫れば、発熱するのは、珍しいことではなかった。だが、この身体のだるさは、昨夜胸に彫ったタトゥーのせいではないと思われた。美奈は夕方まで横になっていた。
病院に行こうかとも考えたが、全身のタトゥーを医者や看護師に見せるのがためらわれた。そういえば、タトゥーを彫ってから、一度も医者に診てもらわなければならないほどの病気をしていないことに、美奈は気がついた。せいぜい軽い風邪や腹痛、下痢ぐらいだ。病院に行くのは、オアシスで義務づけられている、月に一度の検診だけだった。
昨夜の、美奈を事故から救ってくれたあの声は、何だったのだろう。重い頭で、美奈は考えた。思い当たるのは、あの幽霊、橋本千尋の声ではなかったか、ということだ。高いソプラノのような声だった。千尋さんは私を助けてくれた。幽霊だけど、私に注意を促し、命を助けてくれた。
夕方になって、ようやく身体が楽になった。近所のスーパーで買い物をしたり、本屋に行って立ち読みしたりした。
食欲があまりないので、スーパーで買ってきた総菜で簡単に食事を済ませた。
入浴のとき、刺激の少ないベビー用石けんを使って、胸の牡丹の、ごわごわに固まったリンパ液をそっと洗い流した。浴室の鏡で自分の全身を映してみる。本当にきれいだな、と思う。このような美しい身体を手に入れられたのは、最高の喜びだ。子供のころから、全身にきれいな絵を描いてみたい、と憧れ続けてきた。私は、幼いころからの夢を完全に叶えることができたのだ。
風呂から出てから、しばらく裸のまま大きな姿見の前で自分の身体を眺めていた。少し離れたところから、自分の全身を映してみる。腕、背中からお尻、太股にかけて描かれている騎龍観音と色とりどりの牡丹。自分の身体であって、自分の身体ではないような気がする。全身にタトゥーを彫って、本当によかったと思える自己満足の瞬間だった。その意味で、美奈はナルシシストといえた。
美奈はまた夜中に目が覚めた。今度も身体が動かない。足元を見ると、今夜も現れた。千尋の幽霊だ。強度の近視である美奈だが、メガネがなくても、顔がはっきり見える。これは目で見ているのではなく、一種の霊眼で見ているからなのだろうか。今日は一昨夜のような、悲しげな顔ではなく、こころもち微笑んでいるようにも見える。
「千尋さん、あなたですね。昨夜、私を助けてくれたのは。それなのに、怖がって、ごめんなさい。もう千尋さんのこと、怖がりません。助けてくれて、本当にありがとうございました」
美奈は心の中でそう語りかけた。千尋はにっこり微笑んだ。そして消えた。
金縛りが解かれ、手足が動くようになった。
夢でも幻覚でもない。やはり本物の幽霊だ。しかし、美奈はもう千尋の幽霊が怖いとは思わなかった。