売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影』 第8章

2012-07-30 18:47:08 | 小説
 毎日暑い日が続きます。最近はセミも元気に鳴いています。

 飴玉で作ったアイスクリームは、暑いときにおいしいです。最近はけっこうおいしく作れます。

 ただ、塩飴で作ったのは、失敗でした。やはりアイスクリームは甘いほうがいいですね。塩飴のアイスは、少し塩辛く、今ひとつでした。残った飴玉は、登山の時に持っていき、塩分補給用にしようと思います。スイカキャンディーで作ったアイスクリームは、ほのかにスイカの味がして、よかったです。

 今日も弥勒山に登ってきました。下山途中で、小さなクワガタムシに会いました。

 

 大谷川の畔に、ユリが咲いていて、きれいでした。

 

 池に映った弥勒山、大谷山、道樹山です(左から)。

 
 
 今回は『幻影』第8章です。幽霊に会った美奈ですが……



             

 美奈は昨夜のことを卑美子に話しておこうと思い、電話をかけた。今仕事中で手が離せないので、申し訳ありませんが、三時ごろかけ直してくれませんか、と言われた。
 美奈は三時になるのを待って再度かけてみた。この日は美奈は公休日だ。
「はい、卑美子ボディアートスタジオでございます。あ、美奈ちゃん。こんにちは。さっきはすみません。予約ですか?」
「あ、はい。今度は胸にまた牡丹の花、お願いします」
 電話ではやはりこんな話はできないと思い、とっさに予約を取ることにしてしまった。彫ってもらった後にでも話をするつもりでいた。
「牡丹が好きですね。たまには別の図柄もどうですか? でも、牡丹のほうが統一感があって、いいかもしれませんね。いつがいいですか?」
「できれば、早いほうがいいですが。今夜は空いてませんか?」
「急ですね。それじゃあ、今夜九時、来れますか? 前のお客さんが大きいのを彫るので、ひょっとしたら少し待ってもらうことになるかも知れませんが」
「そんな遅い時間に、大丈夫ですか?」
 卑美子のスタジオは、ふだんは九時には仕事を終える。だからそんな遅い時間にお願いすることは心苦しいと思った。六時からの時間が空いていればいいなと思い、今夜空いていませんか、と希望したのだが、九時から、実際はさらに遅くなりそうだと聞いて、あまりわがままを言っては申し訳ないと思った。
 それでも卑美子は、「かまいませんよ。午前様になることはよくありますから。旦那様もそのへんのことには理解がありますからね。それより、美奈ちゃんのほうが家が遠いのに、大丈夫ですか?」
 卑美子は軽いおのろけを交えながら答えた。
 卑美子のスタジオは営業時間の正午から午後九時までだ。だが客の都合に合わせ、フレキシブルに変更する。午前の早い時間からやることもあれば、深夜まで彫ることもある。美奈も何度となく、遅くまで時間を延長してもらったことがある。スタジオと自宅は近いし、遅くなって帰るのがおっくうになれば、スタジオに寝泊まりすることもある、と卑美子は言っていた。
「はい、では、九時にお願いします」
 想定外に彫ることになってしまったが、胸に牡丹一輪増える程度なら、どうということもない。というより、胸にも入れてみたかった。とにかく、早く卑美子に話したかった。
 九時に卑美子のスタジオに行ったら、やはりまだ前の客に彫っているところだった。女性客が多い卑美子のスタジオでは、彫っている場面を他の客から見られないように、後から来た客は別室で待つようになっている。二〇分ほど延長して、前の客は帰っていった。客は男の人だった。卑美子のスタジオは女性客が多いが、男性客もけっこういる。男性客は和柄などの大きな絵を彫ることが多いので、時間がかかることがある。
「お待たせしました。前のお客さん、ずいぶん早めに来たので、すぐ始めたのに、二〇分も遅くなっちゃったわ」
「いえ、私が急がせたのでいけなかったのです。すみません」
「では、遅くなったので、急いで準備しますね。でも、急いでいても、準備はおろそかにはできないから。今日は車? それなら帰りの電車の時間、気にしなくていいですね」
 さっそく見本帳から牡丹の花を選んだ。卑美子は客の希望を聞きながら、絵を起こしていくという流儀をとっている。しかし見本帳にもたくさんの絵が用意してあり、客は見本帳の絵から選んで図柄を決めることもできる。美奈が選んだ牡丹は、以前からこの牡丹の花を入れたい、と目をつけておいたものだった。
 左乳房の上に、葉をあわせて、掌から指の先までぐらい、一五センチほどの大きさの牡丹を彫ることにした。色は赤や黄色ではなく、紫系統を希望した。
 筋彫りが終わり、花に紫の色を入れているとき、美奈は、「そういえば千尋さんはこの場所に赤いバラを入れていたんですね」と、そろそろ本題に入ろうとした。
「ええ。背中に彫る前、最初に彫ったのが、その赤いバラですよ」
「千尋さん、まだ連絡ないのですか」
「まだ子供さんが小さいから、とてもタトゥーを再開するどころじゃないのでしょうね。小さいときは手がかかりますから。まだ当分無理なんじゃないですか? 私もそろそろ子供を作りたいと思っているんですけどね。もう三五ですから。私より、旦那のほうが子供を欲しがっているんです。でも、そうすればやはり二、三年はスタジオを休まなきゃいけないし。せっかく軌道に乗ってきたスタジオですからね」
「彫り師さんにも産休、育休が必要ですね」と美奈は相づちを打った。今はこれ以上話すのはやめにした。もし幽霊の話になって、卑美子が動揺してしまってはいけない。続きは施術が終わってからにしようと思った。
 三時間もかからず、牡丹は完成した。左の乳房から鎖骨の下のあたりまで、大きな面積を占める、堂々たる牡丹の花だ。紫を主に、藤色、青、白のグラデーションは相変わらず見事だった。まったく予定外のタトゥーだったが、美奈は満足だった。メインの場所には鮮やかな赤や黄系統が多い美奈にしては、目立つところに紫系統の牡丹を彫るのは、珍しかった。
 衣服を着ていても、少し襟がずれれば、見えてしまう位置なので、気をつけなければいけない。ふだんから襟を正しなさい、ということかな、と美奈は考えた。胸が明いている服は、もう着ることが難しくなる。
「写真ができましたよ」と、卑美子はアルバムの、美奈の騎龍観音の写真があるページを示してくれた。A4判の大きな写真だった。
「こうしてみると、ほんとに千尋さんの騎龍観音と瓜二つですね」
「同じ原画から彫った絵ですからね。でも、手描きの龍の胴体の部分を、ちょっと変えてありますよ」
 そう言われて二人の写真を見比べれば、龍の胴体のうねりが、少し違っている。
「こんなことを言うのは何ですが、実は昨夜、夜中に私、千尋さんに会ったんです」
 とうとう美奈は要件を切り出した。
「え、夜中にですか?」
「こんなこと信じてもらえないかも知れませんが、昨夜寝ていたら、金縛りにかかって。動こうにも全然身体が言うことをきかず、足の方を見ていたら、白いものがぼうっと浮かんでいて。それがだんだん人の顔になり、やがてはっきりと千尋さんになったんです。胸には、赤いバラのタトゥーがありました」
 思い出しただけで、美奈は身体が震えてきた。
「まさか。夢でも見たのでは?」
「私もそう思いました。でも、絶対夢なんかじゃないんです」
「夢じゃなく、本物の幽霊なら……」
「千尋さんは、もうこの世にいない、ということになります」
「いやですよ。そんなこと。でも、千尋さんが連絡をくれない、ということは、連絡できない状態にある。つまり、死んでいる……」
「私もそう思うんです。それで、そのことで先生の意見をお伺いしたくて」
「それでわざわざ今日、彫りに来てくれたんですか?」
「いえ、ちょうど胸にも彫りたかったんです。お客さんからよく前に何もないと、寂しいから、胸にも何か彫ったら、って言われるし」
「お客さん? やっぱり美奈ちゃん、ソープで働いているんですね」
「あ、余計なこと言っちゃった。でも、先生はもうご存じだったんですね」
「ええ、うすうす察していましたけどね。やっぱり彫り代稼ぐためでしょう? 私、ときどき美奈ちゃんに彫ったことにより、美奈ちゃんの人生を変えてしまったのじゃないかな、と思うことがあるの。まあ、美奈ちゃんだけでなく、大きな彫り物入れれば、たいていその人の一生は変わってしまうのだけれど。そう考えると、私たち彫り師は非常に大きな責任を背負っているのよ。だからこそ、どんな小さなタトゥーでも、私は真剣に取り組まなきゃ、と考えるんですけどね」
「先生が気にされることないですよ。もし先生に会えなければ、きっとほかの彫り師さんに彫ってもらってたでしょうし。でも私、先生の絵だからこそ、よかったんです。先生の絵を彫ってもらえて、とっても幸せなんです。とてもきれいで。子供のころからの憧れが、先生に出会えて、叶ったんだと思うんです」
 思わぬ失言から、ちょっと話がずれてしまった。話を千尋さんのことに戻さねば、と美奈は思った。
「ところで、先生のほうから千尋さんに連絡されたことはありませんか?」
「そうですね。美奈ちゃんが初めて来たときより少し前に、おなかの赤ちゃんは順調に育っているかと思って、こちらから携帯にかけたことがあったけど、その番号は、もう使われていませんでしたね。おととし一昨年の一〇月の中ごろだったと思うけど」
「先生、ここでタトゥーを入れるとき、身元確認のために、免許証などのコピーをとりますよね。もしよろしかったら、私に千尋さんの免許証にある住所、教えてもらえませんか?」
「聞いてどうするんですか? 訪ねていくつもり?」
「はい、そうしようと思います」
「でも、お客さんのプライバシーは漏らすわけにはいきませんよ」
 そう言って卑美子はしばらく考え込んだ。
「そうですね。実は、私も美奈ちゃんが見たのは、本物の幽霊だと思えるようになってきました。ということは、千尋さんはもうこの世にいない、ということ。わかりました。美奈ちゃんを信用して、千尋さんの住所を教えてあげましょう」
 卑美子はファイルを調べ、千尋の住所をメモして、美奈に渡した。
 橋本千尋 昭和五三年八月一〇日 生 名古屋市中村区松原町〇〇 サンハイツ本陣五〇三号室
「あら、私のお店の近く。あ、また余計なこと言っちゃいました。もうバレバレですね。近いうちに訪ねてみます。たぶんもうその住所にはみえないと思いますが、もし転居先がわかれば、連絡します」
「千尋さんの勤めていたオフィスが駅西(名古屋駅の西)にあり、通勤に便利で、家賃も安い、と言っていましたけどね。どっかの会社の事務をしてたそうです。普通の会社のOLさんでも、ファッションでワンポイントなんかを入れる女性が増えてきましたが、あれだけ大きいのを彫るのはちょっと珍しいですね。よほど好きだったんでしょうね」
「そうなのですか。私も同じだから、千尋さんの気持ちはよくわかります。今では風俗のお仕事してるけど、私も最初は普通の会社員でしたから」
「とにかく、何かわかったら、連絡ください。私も千尋さんのことは、非常に気になっていますから」

 美奈が卑美子のスタジオを出たのは、もう午前一時を大きく回っていた。美奈が店を出て、帰路につくのは、さらに遅くなることもあるので、美奈にとっては特に遅い、という時間帯ではなかったが。
 美奈は愛車の赤いミラで、国道一九号線を時速八〇キロを大きく超えるスピードで飛ばしていた。ふだんは夜中、いくら一九号線が空いていても、そんなに飛ばすことはなかった。今夜は、運転中に隣の席に千尋の幽霊が現れたらどうしよう、という恐怖感から、ついついスピードが上がってしまった。
 すると、「危ない! スピードを落としなさい。次の信号で、右折車が突っ込んできますよ」という声が頭の中に響いた。それで、美奈は慌ててブレーキを踏んだ。
 そのときだった。前方の信号が青からちょうど黄色に変わった。右折車が、突然突っ込んできた。右折車は信号が黄に変わったので、前方を確認せず、赤信号になる前に行ってしまおうと、そのまま右折してきたのだ。
 普通なら、交差点に入る直前で黄信号に変わったのだから、スピード違反ということを除けば、直進車がそのまま走行することは、特に問題はない。信号が黄に変わったからといって、急停車しようものなら、後続車に追突されてしまう。右折車のほうが、直進車が通り過ぎるのを待っていなければならない。
 しかし右折車は、直進車があるかどうか、前方を確認することなく、そのまま右折してしまった。とにかく赤にならないうちに右折してしまおうということしか、頭になかったようだ。矢印信号になっているので、慌てなくても、ゆっくり落ち着いて右折すればいいのだが、深夜で眠く、注意力が散漫になっていたのか、運転者は前方を確認せず、右折した。
 スピードを落としたおかげで、間一髪、美奈の車は右折車をかわすことができた。幸い、後続車がなく、追突をされることもなかった。
 スピードを落としなさい、という声が聞こえなければ、美奈はそのまま交差点に突っ込み、間違いなく猛スピードで右折車とぶつかっていた。間一髪で大事故を免れたのだ。
 事態を理解した美奈は、青くなり、車のスピードを法定速度以下に落とした。そして、その後は慎重に運転した。

 翌日、美奈は体調が悪いからと電話して、店を休んだ。電話を受けたフロントの沢村は、「最近ミクちゃんは忙しいですからね。無理しないで、今日はゆっくり休んでください。店長には伝えておきます」とねぎらってくれた。
 体調が悪いというのは嘘ではなかった。熱もあった。
 広範囲にタトゥーを彫れば、発熱するのは、珍しいことではなかった。だが、この身体のだるさは、昨夜胸に彫ったタトゥーのせいではないと思われた。美奈は夕方まで横になっていた。
 病院に行こうかとも考えたが、全身のタトゥーを医者や看護師に見せるのがためらわれた。そういえば、タトゥーを彫ってから、一度も医者に診てもらわなければならないほどの病気をしていないことに、美奈は気がついた。せいぜい軽い風邪や腹痛、下痢ぐらいだ。病院に行くのは、オアシスで義務づけられている、月に一度の検診だけだった。
 昨夜の、美奈を事故から救ってくれたあの声は、何だったのだろう。重い頭で、美奈は考えた。思い当たるのは、あの幽霊、橋本千尋の声ではなかったか、ということだ。高いソプラノのような声だった。千尋さんは私を助けてくれた。幽霊だけど、私に注意を促し、命を助けてくれた。
 夕方になって、ようやく身体が楽になった。近所のスーパーで買い物をしたり、本屋に行って立ち読みしたりした。
 食欲があまりないので、スーパーで買ってきた総菜で簡単に食事を済ませた。
 入浴のとき、刺激の少ないベビー用石けんを使って、胸の牡丹の、ごわごわに固まったリンパ液をそっと洗い流した。浴室の鏡で自分の全身を映してみる。本当にきれいだな、と思う。このような美しい身体を手に入れられたのは、最高の喜びだ。子供のころから、全身にきれいな絵を描いてみたい、と憧れ続けてきた。私は、幼いころからの夢を完全に叶えることができたのだ。
 風呂から出てから、しばらく裸のまま大きな姿見の前で自分の身体を眺めていた。少し離れたところから、自分の全身を映してみる。腕、背中からお尻、太股にかけて描かれている騎龍観音と色とりどりの牡丹。自分の身体であって、自分の身体ではないような気がする。全身にタトゥーを彫って、本当によかったと思える自己満足の瞬間だった。その意味で、美奈はナルシシストといえた。
 美奈はまた夜中に目が覚めた。今度も身体が動かない。足元を見ると、今夜も現れた。千尋の幽霊だ。強度の近視である美奈だが、メガネがなくても、顔がはっきり見える。これは目で見ているのではなく、一種の霊眼で見ているからなのだろうか。今日は一昨夜のような、悲しげな顔ではなく、こころもち微笑んでいるようにも見える。
「千尋さん、あなたですね。昨夜、私を助けてくれたのは。それなのに、怖がって、ごめんなさい。もう千尋さんのこと、怖がりません。助けてくれて、本当にありがとうございました」
 美奈は心の中でそう語りかけた。千尋はにっこり微笑んだ。そして消えた。
 金縛りが解かれ、手足が動くようになった。
 夢でも幻覚でもない。やはり本物の幽霊だ。しかし、美奈はもう千尋の幽霊が怖いとは思わなかった。


暑いですね!

2012-07-28 10:37:10 | 日記
 県境の山を隔てた、隣の多治見市では、2日連続して暑さが国内最高だったそうです

 濃尾平野でも、各地で猛暑日が続いています。春日井市も、昨日、夕方5時過ぎに、国道19号線にある表示板に、37℃という表示がありました。

 岐阜県多治見市は、埼玉県熊谷市と並んで、日本一暑い都市といわれています

 私の部屋は、5階建ての最上階にあり、日中、屋上が太陽に照らされて、熱されます。夜、蓄熱した天井が高温を放つので、夜中になっても、30℃を下回ることはありません。

 ようやく校正原稿を出版社に送り、昨夜は早めに寝ようと思いましたが、暑くて眠れませんでした。

 夜中の2時ごろ、温度計を見たら、32℃を示していました。ずっと扇風機を回していました。ひんやりシートを使っていますが、最初のうちは冷たくて気持ちがいいのですが、暑くて寝苦しいので、寝付く前に、体温で暖まってしまいます。しばらく扇風機の風を当てていると、また冷えてきますが。

 『幻影2 荒原の墓標』を脱稿したので、また新作の構想を練ります。『ミッキ』の続編と、短編を1作構想しています

校正

2012-07-26 18:37:02 | 小説
 新作『幻影2 荒原の墓標』の校正もほぼ終わりました。

 明日には出版社に原稿を発送しようと思います。

 今最後の見直しをしています。

 昨日、大谷山(425m)に登りました。午前中、眼科に行き、時間がなかったので、大谷山のみに登りました。

 先週、南木曽岳に登り、かなり脚を痛めましたが、もう回復しました。

 今日は隣の多治見市で38℃になったそうです。山に登るときにも、熱中症対策が必要です。

 今日は多少セミが鳴いていましたが、まだ例年より少ないようです。

 今回は『幻影』7章を掲載します。

 プロローグに示した場面で、いよいよ『幻影』のタイトルになった“霊”が登場します。これから物語も急展開です。



 
          


「さあ、これで完成です」
「やったー、ついに完成ですね。ありがとうございます」
 全裸の美奈は立ち上がり、大きな姿見の前に、後ろ向きに立った。そして、体をねじって、鏡に映った自分の背中を眺めた。
「わあー、きれい。本当に素晴らしいです。先生、ありがとうございました」
 美奈は椅子にかけてたばこを箱から取り出そうとしている卑美子に、丁寧に頭を下げた。
「ミク、やったね。すごくきれいだよ」
 今日で完成の予定だというので、施術を見学するためについてきた親友のルミも、美奈の美しく彩られた背中に目を見張った。
「一度、千尋さん、といわれるのですか。私と同じ図柄を彫っている人に、ぜひお会いしたいです」
「そうねえ。彼女どうしているのかしら。もうあれから一年半になるけど、まだ連絡ないんですよ。けっこうまめな感じの人だったから、赤ちゃんが産まれれば産まれたで、電話か手紙で、連絡ぐらい来そうなもんですけどね」
 美奈は同じ図柄を彫っているという理由だけで、千尋という女性に親近感を覚えた。
 ルミも千尋の背中の写真を見せてもらい、「ほんと、ミクの騎龍観音とそっくりだ」と言った。
「私もいつか、背中にきれいな天女、彫ってもらおうかな。そのときは、先生、よろしくお願いします」
 ルミはもし自分の背中に彫るのなら、天女の絵と決めている。美奈の背中の完成したばかりの騎龍観音を見ていると、ルミは自分の背中も美しく飾ってみたいという欲求に駆られた。しかし今すぐ彫ろうという決心は、まだつかなかった。
「彫る決心がついたら、いつでも連絡してくださいね」と卑美子がルミを促した。
 卑美子は新たに描き下ろした下絵を、記念にと、美奈にくれた。美奈はその絵を大切に保管している。

 最後の施術のかさぶたもきれいに剥がれ、美奈の背中の絵も、ずいぶんと落ち着いてきた。
 背中一面にタトゥーを彫ったことに対する、客の反応もわるくはなかった。ミクは人気ではどうしても店のトップクラスには食い込めなかった。それでもそれに次ぐ程度の成績はあげていた。人気ランキングでは、常にベストテン入りしていた。客によるアンケートでは、「背中に大きなもんもん背負いながらも、ミクちゃんの素朴な感じが好きだ」という意見に代表される、ミスマッチな好感度が意外と高かった。
 特に指名がないフリーの客には、タトゥーオーケーということで、初めてミクをあてがわれ、背中一面の騎龍観音にびっくりした男性も多い。それでも、その何割かはリピーターとして、またミクを指名してくれた。
 自分の恋人や配偶者には、大きなタトゥーはあってほしくないが、一時のプレイとして、華やかなタトゥーがある女性を相手にするのなら、非常に刺激があっていい、というのだ。
 また、ホームページや店に置いてあるアルバムを見て、タトゥーに惹かれて指名してくれる客も多かった。ミクを指名してくれる客は徐々に増え、人気では上位に迫りつつあった。
 背中のタトゥーが完成し、事務用機器の商社も辞めたため、美奈には自由になる時間が増えた。それで、出勤日を火木土日の週四日とした。それ以外の曜日に出勤することも多い。特に金曜日に出勤することが多く、四日連続しての勤務は、若い美奈でもさすがに疲れた。そして、人気が高まるにつれて、美奈の収入もぐんと増えた。

 加藤と名乗る男が、初めての来店でミクを指名した。ゴールデンウィークの連休が終わった頃だった。加藤はオアシスのホームページで背中のタトゥーを見て、ミクを指名したと言った。背中の騎龍観音が完成してから、ホームページの女の子紹介のコーナーで、一枚だけ、背中を写した写真を掲載していた。
 加藤自身はまったく身体に墨を入れていないが、高倉健などのやくざ映画を観て、いれずみに興味を持った、と言った。たまたまオアシスのホームページを見てミクを見いだし、きれいないれずみをしたミクの身体に、非常に惹かれたので、指名したのだ、と気持ちを吐露した。
 加藤の態度は、親切で穏やかだった。帰りがけ、ミクが名刺を渡すと、またぜひ指名します、と言って帰っていった。
 その日は七人の指名があった。七人も相手をすれば、へとへとだった。休憩できる時間はほとんどない。マルニシ商会を退職しても、週四、五日出勤するようになってから、きつく感じるようになった。一日の勤務の拘束時間は、実質一〇時間近かった。休みの日は、何もしないで、部屋でごろごろしていることが多くなった。趣味の山歩きも以前ほど頻繁には行かなくなった。もう少し稼いだら、身体を壊さないうちに辞めるべきかもしれない。
 夜遅くなり、帰りの電車がなくなってしまうので、美奈は今は車で通勤している。中村区の店から高蔵寺まで、夜中は道路が空いているので、五〇分ほどで走れる。しかし疲れて眠くなることも多いので、運転には気をつけなければならない。

 高蔵寺の団地の自宅に着いて、風呂には入らず、洗顔と歯磨きだけして、美奈はベッドに入った。接客で何度も入浴しているので、新たに入浴し直す必要も感じられなかった。汗ばんだときは、ざっとシャワーを浴びる。寝る前に、寝付きをよくするため、少しだけ白ワインを飲んだ。
 眠っていて、何だか胸に圧迫感を感じる。少し息苦しい。何かに全身を押さえつけられているようだ。手足をばたつかせようにも、ぴくりとも動かない。
 金縛り。それとも夢を見ているのだろうか?
 ふと足元に目をやると、白っぽいものが見える。幽霊? そんな。
 美奈は霊的存在を信じている。人間は死ねばそれでおしまい、土に還るだけで、何も残らない、という考え方には、まったく同意できなかった。人間ほどの高い精神性を持った存在が、無から生まれ、死ねば何も残らない、なんてことは、絶対あり得ない。必ず肉体のコアになる精神的なもの、すなわち〝魂〟があるはずだ。美奈はそう信じている。
 それでは、自分の足元の白っぽいものは……? やはり幽霊?
 怖いながらも、なぜか美奈の目は、足元の白いもやのようなものに釘付けになった。
 じっと見ていると、白っぽいものがだんだん人間の形になってくる。目鼻立ちが徐々に整ってくる。胸のあたりに赤いものがあった。
 金縛りで、悲鳴すらあげることができなかった。
 目のピントが徐々に合ってきた。はっきりした顔が現れた。どこかで見たことがある顔。そうだ、美奈が一度会ってみたいと考えている、同じ絵を背中に彫っている……。そう。千尋さんだ。胸に赤いバラのタトゥーがある。
 しかしなぜ? なぜ千尋さんがこんなところにいるのだろうか?
 幽霊。またその言葉が頭に浮かんだ。身体はまったく動かない。全身から脂汗がにじみ出る。
「千尋さん?」やっとの思いで、美奈は口からその言葉を絞り出した。その瞬間、幽霊は消えた。美奈の身体は動くようになった。
 今のは何だったのだろう? 顔は間違いなく、卑美子のところで見た千尋だった。胸に赤いバラのタトゥーもあった。前しか見えなかったが、背中には、きっと美奈と同じ、騎龍観音のいれずみがあるのだろう。
 顔立ちがはっきり見えたのだが、美奈の視力では、足元にいる人の顔が、あんなにはっきり見えるはずがない。両眼とも〇・一を大きく下回る美奈の裸眼では、足元に立っていれば、ほとんど目鼻立ちがわからないのだ。今はメガネをかけていないし、コンタクトレンズは最近使用していない。
 接客中にコンタクトレンズを落として、なくしてしまって、あわてたことがあり、今ではコンタクトレンズを使っていない。店の模様には十分慣れたから、裸眼のままでもあまり不便はない。
 それに今は小さなナツメ球さえ点灯していないので、外から差してくるごくわずかな光があるだけの闇だった。それなのに顔やタトゥーがあんなにはっきり見えたのだ。
 やはり幽霊か。でなければ、夢?
 美奈は恐怖におののいた。

 美奈の実家は真宗系の寺で、怪談話には事欠かなかった。
 しかし僧侶であった美奈の亡き父親は、「この世に霊魂など存在しない。お釈迦様も霊の存在ははっきりと否定されている」と常々語っていた。
 霊魂は実在しないのなら、なぜ死後西方浄土で阿弥陀様に救われるのか? ありもしない霊魂を慰霊するために、少なからぬお布施を受け取って、法要を営むなんて、詐欺じゃないの?
 もっとも、美奈の生家の宗派も、死後の生を認めていないわけではない。人は亡くなれば、阿弥陀如来のお力により、念仏を唱えていた人はすぐに浄土に往生するため、霊魂という形で中有(ちゅうう)で迷うことはないと説いている。しかしそれでは、念仏に帰依していなかった人はどうなるのだろうか。浄土に行けず、霊としてさまよっているのではないか?
 美奈はいつもそのことに疑問を感じていた。それで、生家のお寺という〝職業〟が大嫌いだった。私は絶対にお寺の跡継ぎはしない、と心に決めていた。
 美奈は以前、ある新興宗教に分類されている教団の管長が書いた本を何冊も読んだ。
 それらの本には、釈尊入滅後、何百年も経ってから創作された、偽の経典に依って成立した、今の日本の伝統仏教には、本当の釈尊の教えはない、本当の釈尊の仏法は、釈尊直説の経典である阿含経(あごんぎょう)にしか説かれていない、と書かれていた。
 その教団の管長の話は、美奈に新鮮な感動を与えた。
 その管長の説によれば、釈尊は霊の存在をはっきりと認めておられる、という。阿含経には、霊についての記述も数多くあるそうだ。漢訳の阿含経典には「霊」という訳語は使っていないが、「異陰(いおん)」という言い方で釈尊は霊の存在を説いておられる、というのだ。
 また、その教団では、釈尊直説の阿含経にある成仏法を修行しない限り、人は絶対に成仏できない、と説いていた。
 南無阿弥陀仏を唱えるだけで、死後阿弥陀様がおられる西方浄土に往生できる、という生家の宗派の教えは、美奈にはいかにももの足らなく思えた。それで、父親にその教団の管長が書いた本を示し、問い質したら、ふだん温厚な父が、烈火のごとく怒りだした。
「そのようなインチキ教団によるでたらめな教えのことは二度と口にするな。その管長のTという男は、前科があるのだぞ」
 父はそのでたらめな教えには何ら反論することもせず、ただ頭ごなしに怒鳴り、何冊もの本を美奈から取り上げた。
 その管長に前科がある、ということは、著作にも書いてあり、美奈も承知していた。その罪を犯したことを心から悔い、罪障を滅するため、世の中の人を救いたいと、血みどろ、汗みどろになって修行したというその管長に、美奈は共感を抱かずにはいられなかった。
 美奈はもうその教団のことは二度と口にしなかったが、心の中では、その教団のほうが正しいと信じていた。
 その父も、その後しばらくして、交通事故で母とともに亡くなった。車を運転していて、居眠り運転で対向車線に飛び出したトラックに正面衝突されるという、悲惨な事故だった。
 寺はその後、九歳年上の兄が引き継いでいる。

 美奈は霊の存在を信じていた。お寺の怪談めいた霊がらみの話もよく聞いた。だが、これまで美奈は霊に会ったことも見たこともなかった。せいぜい子供のころ、恐怖心に駆られ、幽霊のようなものを見た程度だった。まさに〝幽霊の正体見たり、枯れ尾花〟であった。
 翌日、夜中に見た千尋のことを考えた。あのときは、それ以上考えるのが恐ろしく、もう何も考えないようにした。早く眠ってしまおうと思いながらも、明け方近くまで、眠れなかった。目を開ければ、また出てきそうな気がしたので、しっかり目をつむっていたが、眠ろうにも眠れなかった。
 幽霊。または夢。そのどちらか。
 しかし、夢ではなかった、という確信がある。ならば、幽霊しかない。
 卑美子はもう二年近くも千尋から連絡がない、と言っていた。まめな千尋の性格からいえば、子供が産まれれば、通知ぐらいはしてくれるはずなのに、それすらもしないのは、ちょっと腑に落ちない、とも言っていた。
 もう千尋さんはこの世にいない。私のところに現れたのは、私が千尋さんに会いたがったので、思いの架け橋が架かってしまったから。もしくは、同じ図柄のいれずみを彫ったので、それに感応した? そういえば、あのときの千尋さん、なぜか悲しそうな顔をしていた。
 美奈は千尋の悲しげな表情を思い出した。

セミ

2012-07-23 19:41:58 | 小説
 今年の夏は、セミが鳴き出すのが遅れているようです。

 例年なら、7月下旬になれば、うるさいほどの鳴き声が聞こえてくるのに、今年はあまり聞こえません。

 今日も午前中に、クマゼミが1匹鳴いていただけで、それもすぐに鳴き止みました。

 温暖化とか、大雨が降りやすくなったとか、最近は気候がおかしくなっていますが、そういうことも関係するのでしょうか?

 以前、何年かに1度、セミの発生が少なくなるようなことを聞いたことがあります。

 19日に南木曽岳に行ったときは、ずっとヒグラシの鳴き声が聞こえていました。


 今回は幻影の6章を掲載します。



            

 一〇月一六日の美奈の誕生日がやってきた。まもなく、初めてへその下にバラと蝶の絵を彫ってから、一年になる。
 二〇歳(はたち)となり、これで大人の仲間入りである。美奈は二〇歳になる記念として、背中に騎龍観音を彫ってみたい、と再度玲奈に申し出た。今度は玲奈も渋々ながら了承してくれた。入店から半年以上経ち、ミクには指名客も増えてきた。オアシスでは中位から上位を窺おうという売れっ子になっていた。上位一〇位までの人気ランキングにもしばしば顔を出していた。その人気は落としたくないが、どうしてもトップクラスに食い込みきれない現状を打開するために、タトゥーを増やしてみるのもわるくないかな、と玲奈も考えるようになった。それにミクを指名する客はタトゥー、いれずみが好きな人が多いから、タトゥーが増えたからといって、人気が急に下がることもないだろうと思った。
 美奈はすでに卑美子に予約を入れていた。最近卑美子はタトゥーアーティストとして人気が高く、予約を取りにくくなっていた。しかし九月の初めのうちに予約の連絡をしておいたので、幸い誕生日は空いていた。もし玲奈にだめだと言われても、既成事実を作ってしまうつもりだった。控えめな美奈としては思い切った決意だった。
 この日は初めて背中に彫るので、筋彫りはその日のうちに完成させたいと、二回分、六時間の枠を取ってもらった。会社は有給休暇が余っているので、午後から休暇を取った。どうせ閑職であり、どうしても出勤しなければならないこともない。
 図柄はもう決まっていた。見本帳にある騎龍観音の絵を、そのまま彫ってもらうつもりだ。卑美子は「変更したいところがあれば、遠慮なく言って。どれだけでも描き直すから」と言ってくれた。しかし、美奈としては、その絵を非常に気に入っていたので、改めて描き直す必要はなかった。
 未完成だが、同じ騎龍観音を彫っている女性の写真をまた見せてもらった。同じ図柄を彫った人がこの世にもう一人いる、と思うと、その女性に対して親近感を抱いた。龍の色はその人とは違えて、原画の通り、青にしようと思った。
 今日は前回見なかった、その女性の顔が写っている写真を見せてもらった。とてもきれいな人だった。彼女の左の胸には、大きな赤いバラの花とつぼみが入っていた。
「この人、まだ続きを彫りに来ないのですか?」と美奈は尋ねた。
「まだ赤ちゃんも小さいだろうし、彫りに来るのはとても無理じゃないですかね」
「もし会えたら、いろいろお話してみたいです」
「本来なら、お客さんのプライバシーは一切話せないし、お客さんを他のお客さんに紹介する、ということはできませんが、千尋さん、というのだけど、連絡あったら、美奈ちゃんのことを話しておきますね。彼女がいいと言えば、会えるように段取りしてあげます」
 卑美子はいちおう、千尋に話してくれると、請け合ってくれた。
 いよいよ施術となり、美奈は全裸になった。卑美子は美奈が希望した騎龍観音の絵を基に、新しい下絵を描き下ろしていた。龍の胴体のうねりが少し変えてあるが、それ以外はほぼ同じだった。
 美奈が風俗で働いていることはまだ聞いていないが、ときどきスタジオに遊びに来る美奈を見て、卑美子は女性だけに、美奈の変化に気づいていた。
 同僚のルミから「タトゥーを増やしたいから、ミクが入れたお店を紹介して」と依頼されたので、美奈はルミと一緒に卑美子のスタジオを訪れたことがある。まだ美奈がオアシスに入店して間もないころだった。
 そのときのルミは、何となく風俗で働いている、ということが伝わってくるような雰囲気だった。美奈がルミのことを職場の先輩です、と紹介したので、卑美子には美奈が風俗で働いていることは、それとなく察することができた。ルミが美奈のことをミクと呼ぶので、それが店での源氏名だと卑美子は推測した。
 ルミはその日に打ち合わせをして、おおよその図柄を決め、予約を入れた。後日また美奈と一緒に来て、右の腰に大きな赤と青の蘭の花を入れたのだった。
 ルミは新しいタトゥーについて、「お客さんからとっても好評よ。私の新しいチャームポイントだわ。前のアーティストに入れてもらった蝶より、ずっと気に入っている。すてきなアーティストさん紹介してくれて、ありがとう」と喜んだ。
 このことが契機となり、ルミは美奈のいちばんの親友といえる間柄になった。

 以前はたとえ女同士でも、裸になることに恥じらいを示していた美奈だが、全裸になっても、堂々としている姿に、わずかな間なのに美奈は変わったな、と卑美子は思った。ただ、変わったことが必ずしも悪いことではない、とも思い直した。
 卑美子は美奈に直立不動の姿勢をとらせた。まず、用意しておいた大きな転写シートを美奈の背中に当て、慎重に位置を合わせた。転写用のシートは、新しい絵をトレースしたものだった。彫る位置、角度を決定して、印をつけた。
 背中から臀部にかけ、石けん水をスプレーした後、石けん分をよく拭い、アルコールを噴霧した。その後、濡れたキッチンタオルで背中を拭き、適度な湿り気を与えた。
 それから、観音菩薩の大きな転写用シートを、先ほどつけた印に合わせて、慎重に背中に押しつけた。
 細心の注意を払い、濡れたティッシュペーパーでシートの上をはたき、しばらくしてから注意深く転写用シートをはがした。
 美奈の首の少し下から、お尻の割れ目の上あたりまで、背中一面に見事な観音菩薩の座像が転写された。
 卑美子は美奈の真後ろに立ったり、左右のサイドから眺めたり、立ったり腰をかがめたりして、いろいろな角度から転写された絵を見つめた。そして、納得したように、「いいでしょう。ばっちりいい位置に転写できました。少し休憩して、完全に乾いたら、始めましょう」と満足げに言った。
 卑美子は転写された絵を手描きで修正することも多い。平面に描いた絵を立体である肌に転写するのだから、そのままでは歪んでしまうこともあるからだ。しかし、今回の観音菩薩は、あえて手直しする必要は感じられなかった。
「転写がうまくいけば、八割方成功したようなものですよ」
 卑美子はたばこを一本吸った。その間、美奈は大きな姿見に自分の背中を映し、いろいろなポーズをとっていた。女性しかいないとはいえ、前をまったく隠そうとしない美奈に、本当にこの子は一年足らずの間に変わったな、と思った。へそ下に彫ったバラと蝶が、この子の人生を変えてしまったのかもしれない、と思うと、タトゥーを彫ったことはこの子に対して、果たしてよかったのかな、と疑問を生じてしまう。
 しかし、悪い方にばかり変わるというわけではない。この子の場合は、おどおどした引っ込み思案な性格から、かなり積極的になっている。その割に純朴さは失われていない。
 タトゥーを彫ったことにより、この子の人生がよい方に変わってくれれば、それでよい。私はきっかけを与えただけで、あとはこの子の努力次第だ。そう卑美子は考えた。
 また、タトゥーを入れることに関しては、お客さん自身が全責任を負っている。入れる前に、本当に一生消せない絵を肌に刻み込んでいいものかどうか、よく考えなさい、とくどいほどに助言はするが、彫ってしまった後のことは、お客さんの責任だ。だから私がとやかく心配する必要はない。もう十数年この仕事をやっているというのに、私はまだ青いな、と卑美子は苦笑した。卑美子にそう思わせてしまうほど、美奈は純真だった。

 たばこを吸い終えた卑美子は、「さあ、始めましょうか」と立ち上がった。
 卑美子はタトゥーを施術する部屋でたばこを吸うのは、衛生上好ましくないので、やめたいと思っている。だが、長い時間緊張を強いられるタトゥーの施術の前後には、どうしても気持ちをリラックスさせるために、吸わずにはいられなかった。卑美子は喫煙は必ず換気扇のすぐ下でするようにしている。たばこを吸う客にも、吸うときは換気扇の下で、とお願いしている。
 卑美子はベッドにうつ伏せになった美奈の上にかがみ込み、マシンのスイッチを入れた。
 ビーンというマシンの音がした直後に、美奈は右肩のあたりに激しい痛みを感じた。
 今まで彫ってもらった太股や腕に比べ、痛みはずっと厳しかった。背中、特に皮膚が薄い背骨の上などは、太股のような肉が豊富な部分に比べて苦痛が大きいと、事前に卑美子から聞いていた。だから、美奈もそれなりの心構えでいたのだが、想像以上に痛みは激しかった。久しぶりに彫ったので、痛みに対する忍耐力も弱くなっているのかもしれない、と美奈は考えた。
 美奈は歯を食いしばり、じっと激痛に耐えていた。
 右利きの卑美子は、彫るときには下絵の右側から彫り始める。これは彫るときに手が擦れて、転写した下絵が消えないようにするための配慮でもある。完璧といっていいほどうまく転写ができたのだから、あとはこの下絵を信じ、下絵の通り彫ればよい。
 卑美子はときどき彫っているとき、下絵の線とは変えて彫ることがある。そのときは、筆ペンで絵を描き直し、十分検討の上、そのほうがよければ、新たに描き直した線に沿って彫る。
 しかし、今回は下絵通りに、変更しないで彫ることに決めていた。先ほども述べたように、人間の身体は、平面ではなく、凹凸があるので、場合によっては転写した絵を肌の曲面に合わせて描き直さなければならないことがある。今回の場合は、いろいろな角度から転写された絵を見直してみたが、修正しなければならない必要はなかった。
 休憩をはさんで、三時間ほどで観音像の筋彫りが完成した。痛みには我慢強い美奈も、さすがに背中の筋彫りはこたえた。腕や太股より格段に痛かった。
 特に、背骨の上がきつかった。尾てい骨のあたりも痛かった。
 しばらく休憩ということで、ほっとした。
 次は左の臀部に大きな龍の頭を転写した。龍の右前足は転写ではなく、直接筆ペンで描き、その上を肌用のペンでなぞった。お尻の右の方は、宝珠を持った龍の左前足だった。そこまで転写すると、またベッドに横になった。横になる前に、美奈は姿見で転写された龍を見た。お尻の左側にある龍の頭は、座るとき、お尻の下になってしまう。お尻に敷くなんて、龍に対して申し訳がない気持ちだった。
 今度はお尻の肉が豊かなところなので、背中ほどの痛みはなかった。
 龍の頭と前足は一時間足らずで彫り終わった。
 これまでは転写だったが、龍の胴体は直接筆ペンで肌に描いた。卑美子は美奈に気をつけの姿勢を続けるように命じた。龍をどのように観音菩薩の周りに巻こうか、卑美子は描いては消し、消しては描いた。結局はほぼ原図の通りにした。
 筆ペンのままではすぐ消えてしまうので、筆ペンで描いた上を、肌用の紫のペンでなぞった。そのペンは、手術でマーキングするときに使うもので、肌への刺激が少ない安全なインクを使用してあるそうだ。ときには筆ペンの輪郭を何度も描き直し、その上で肌用のペンを使った。その線が一生消えずに肌に刻み込まれるので、卑美子は真剣そのものだった。
 手描きのラインに沿って、卑美子は細心の注意を払い、美奈の肌に龍の輪郭を刻みつけた。
「はい、今日はここまでにしておきましょう」という卑美子の言葉に、美奈はほっと一息ついた。さすがにタトゥーが大好きな美奈でも、背中に筋彫り六時間、というのは、我慢の限界だった。

 その後、美奈は隔週の月曜日の夜に、時間をとってもらった。時間はレギュラーの三時間ではなく、四時間、五時間と延長することもあった。卑美子のスタジオは、ラストは六時から九時までで、九時以降はあまり予約を受け付けない。だから、そのときの都合に合わせ、一〇時、一一時と延長することも可能だった。
 オアシスでの仕事は、金土日なので、間に三日あれば、背中の傷は、ある程度回復する。美奈はその三日間で、できるだけ傷が癒えるよう、可能な限りの努力をした。
 それでも、四日めに出勤するときは、まだ肌にかさぶたがついたままだ。美奈は客にお願いし、なるべくかさぶたに影響を与えないように仕事をした。美奈には、タトゥーファンの指名客が多いので、たいていは美奈を思いやってくれた。それに一回の施術で彫れる面積は小さいので、あまり大きな負担にはならなかった。

初回には彫れなかった龍の鱗の筋彫りを、二回めで終えた。右の臀部には宝珠を持った龍の前足と胴の一部が彫られているだけで、絵のない部分が多く残っているので、牡丹の花を彫り足した。左側の龍の頭の周りにも牡丹を彫り足し、結局左右とも大腿部の牡丹を上に向かって増やす格好となった。お尻から腰の側面、太股までほぼ全面が多彩な牡丹の花で埋まってしまった。
 背中もまだ絵が描かれていないところに、何輪もの牡丹の花を散らした。美奈の背面は、色が入れば、生まれついての白い肌の色は、ほとんど残っていない状態になりそうだった。
 左肩には、牡丹の花弁の中に、小さく「卑美子」と、彫り師の名前が刻まれた。
 筋彫りが終わると、いよいよ色を入れることになった。
 まず、観音菩薩の髪などの、黒い部分を先に入れてから、他の色を入れる。色は龍から入れることになった。最初は原画通り青い龍にするつもりだったが、結局千尋と同じ、緑色にした。緑色といっても、濃淡がある何種類かの緑を、巧みなグラデーションをつけて入れたのだった。龍の蛇腹には、濃淡をつけた赤を入れた。

 年が明けた。兄から正月は帰るのだろう、と問われたが、タトゥーが見つかるとまずいので、また会社の人たちと旅行に行くと嘘をついてしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、タトゥーが見つかることは避けたかった。兄には「あまり帰らないと、勝利がおまえのことを忘れてしまうぞ」と文句を言われた。
 また、成人式は会社で行うので、そちらに参加すると断った。晴れ着など着たら、首筋のタトゥーが丸見えになってしまう。マルニシ商会で成人式を行うというのは、嘘ではなかった。資料室の閑職に追いやられたとはいえ、同僚たちと完全に交際を絶ってしまったわけではない。美奈の美しいタトゥーは、同僚の女の子たちには、けっこう人気があった。だから、今年成人を迎える同僚たちと会社の成人式には参加することにした。式にはスーツ姿で参加した。多くが出身地の成人式に出席したので、会社の成人式に参加した社員は少なかった。会社も地元の成人式を優先することを咎めなかった。

 ルミがタトゥーの施術を見たいというので、卑美子の許可を取り、ときどき一緒に見学に来たこともあった。
 ルミは高校時代はよく漫画を描いていて、何度か漫画雑誌の新人賞に投稿したことがある。少女雑誌だけではなく、少年雑誌にも投稿した。絵は光るものを持っており、高校生のレベルを大きく超えているが、ストーリーの工夫が今一つで、読者を引きつける魅力に欠けると評価された。ストーリーに工夫が加われば、非常に完成度の高い作品になるから、頑張ってほしい、と選者に励まされた。ルミは物語の構成力をもっと身につけなくては、と反省した。
 親からは漫画を描く情熱のせめて半分でも勉強に注いでくれれば、としょっちゅう叱られていたそうだ。
 今は漫画は描いていないが、オアシスを辞めたらもう一度漫画家にチャレンジしてみたい、という夢を持っていた。
「でも、タトゥーアーティスト、という仕事にも憧れます。もともと絵を描くことが大好きだし、タトゥーも大好きだから、最近は漫画家よりタトゥーアーティストになってみたいという気持ちもあります」
 マシンの針で肌にインクを刺し入れられ、どんどんきれいに染まっていく美奈の背中を見ながら、ルミが卑美子に語った。
 ルミはタトゥーの下絵をいくつもデザインし、卑美子に見てもらったこともある。
「さすがに漫画を描いていただけあって、いい線行ってますね。今すぐには弟子を取るつもりはないけれど、そのうちアシスタントをお願いするかもしれませんよ」と卑美子はルミの絵を評価した。
 ルミは当分は今の仕事を辞める気はないけれども、いずれチャンスがあれば、タトゥーアーティストにチャレンジしてみたい、という意志を卑美子に伝えた。

 ある日、彫ってもらっている間に、美奈は尿意を催してトイレに行きたくなった。休憩となり、美奈は上着を羽織らず、慌てて下着姿のまま施術室を出た。ちょうどそのとき、トイレから出てきた、次の予約の女性客と鉢合わせになった。その日は卑美子は夜の九時から予約を入れていた。
その女性は、「こんばんは」と美奈に挨拶をした。美奈は全裸に近い格好をしていたので、相手が女性とはいえ、少しはにかんで、「こんばんは」と挨拶を返した。
「きれいな観音様ですね」とその女性が声をかけた。
「ちょっと見せてください」
 その女性はじっと美奈の背中を見つめた。
「さすがに卑美子先生、素晴らしいです。私も今、背中に天女を彫ってもらっていますけど、卑美子先生の絵は本当にきれいですね。私、先生に憧れちゃいます」
 美奈はしばらく彼女に背中を見せていたが、「ごめんなさい、ちょっとトイレに行かせてください。おしっこ、漏れちゃいそうで」と訴えた。実際もう我慢できなくなっていた。それに、裸に近い格好だったので、寒くなってきた。
「あ、ごめんなさい」
 彼女はお詫びと礼を言って、待合室に戻っていった。
 美奈がその日の施術を終え、施術室から出て行くとき、さっきの女性が待合室から出てきて、「さっきはありがとうございました。トイレに行きたいところ、引き留めちゃって、すみません。またお会いできるといいですね」とわざわざ挨拶をしてくれた。
 美奈は丁重な挨拶に恐縮して、「どうもご丁寧に。今度会ったときは、私に天女、見せてくださいね」と返礼した。
 その女性とは騎龍観音が完成するまで、会うことはなかった。しかし、後に再会することになる。

 背中の騎龍観音は半年かかり、翌年四月に完成した。
 美奈はマルニシ商会を三月末で退職した。資料室の長田が定年で退職し、資料室が廃止されたためだった。もう美奈の行き場がなくなり、これ見よがしに退職を迫られた。言われるままに退職するのもしゃくだとも思ったが、さりとて闘争してまで残るほど魅力がある職場でもない。それで年度末で美奈も退職した。退職金は、出るには出たが、わずかなものだった。

南木曽岳

2012-07-20 11:19:13 | 旅行
 昨日、長野県の南木曽岳に行きました。

 南木曽岳は、『幻影2 荒原の墓標』の舞台の一つになっています。

 梅雨明けし、今なら最後の校正に間に合うので、実際に見に行ってみようと思い立ち、急遽登りました。

 しかし、最近あまり体調がよくなく、弥勒山等の低い山しか登っていなかったので、結果的には少し無謀だったかと思いました。

 1時間ぐらい歩いていると、まず左脚のふくらはぎが吊りました。こむら返りです。

 激痛でしばらく歩けなくなりましたが、回復したので、登山を続けました。この時点で引き返すべきだったかもしれません。

 これ以上脚に負担をかけないようにと、ゆっくり歩きましたが、“巨大樹の森”を通るころには、大事にしようとして、不自然な歩き方をしたせいか、左右の太股の筋肉がけいれんを起こしてしまいました。その後、何度も太股の筋肉を痛めました。ここまで来ると、もう下りるに下りられないので、頂上付近の小屋で休憩し、マッサージをしようと、そのまま登山を続けました。

 頂上付近は非常に眺めがいいところです。中央アルプスを始め、北アルプス、南アルプス、恵那山などの景観が素晴らしいです。ただ、昨日は天気が下り坂で、雲が多く、眺めは今一歩でした。

 下山時、また太股の筋肉を痛めました。いくら脚に負担をかけないよう、ゆっくり注意深く歩いても、急峻な南木曽岳は、痛めた脚で登れるような甘い山ではありませんでした。

 おまけに下山途中から雷雨となりました。雨に対する準備はきちんとしてありますが、雨で登山道がぬかるみ、滑って転倒すると、今度こそアキレス腱を切るのではないかと、十分に注意して下りました。

 結果としては無事下山できましたが、あのような状態で、よく無事に下山できたと、自分でもあきれています。

 しかし、はっきり言って無謀な登山でした。何度も登っており、よく知っている山なので、何とかなるだろうと甘い判断でした。それに、以前は簡単に登れても、年齢による衰えはいかんともしがたいです。

 いきなり厳しい南木曽岳に登るのではなく、猿投山、鈴鹿の山と順を追って、慣らしておくべきだと思いました。

 一昨年の秋に、鈴鹿の入道ヶ岳に登りましたが、南木曽岳は入道ヶ岳よりはるかにグレードが高い山です。

 しかし南木曽岳に登ったことは、作品に反映し、よりよい作品にしたいと思っています。

  
 登山口にある表示です。いよいよ十数年ぶりの南木曽岳登山です。

   

 “巨大樹の森”です。樹齢400年(推定)のミズナラなど、巨木がたくさんあり、幻想的な雰囲気です。

  

 中央アルプス北部の山並みと、御嶽山です。残念ながら、雲が出てきて、眺望は今一歩でした。『幻影2』では、天気がよく、素晴らしい景観だった、ということになっています。

 

 頂上付近の展望台です。頂上(1677m)は樹林に囲まれており、展望はありません。昨日は脚を痛めていたので、さらに15分歩かなければならない頂上には寄りませんでした。頂上より、昨日行った展望台のほうが、わずかに高いようです。