売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

新刊発売

2012-09-28 19:37:23 | 小説
 近所の書店に行ったら、新刊『幻影2 荒原の墓標』 が店頭に並んでいました。その書店は著者の自宅の近く、ということで、特別に15冊置いていただけましたが、まだ初版の発行部数が少ないため、あまり書店には並びません。何とか重版してもらえるほど売れればいいのですが。なかなか厳しいです。
 自分としては、多少の自信作でありますので、買ってくださると嬉しいです。書店にない場合は、取り寄せていただくか、またはAmazonなどでも取り扱っています

 今回は『幻影』第21章を掲載します。いよいよ殺人事件として、警察も捜査を開始します



             21

卑美子より橋本千尋のデータをもらった三浦と鳥居は、まず区役所に行って、住民票を確認した。住民登録はまだ移動せず、当時の住所のままだった。本籍地は岐阜県大垣市で、近いうちに訪ねてみなければならない。
 それから、以前千尋が住んでいた賃貸マンションに聞き込みを行った。そして、千尋が勤めていたのは、名古屋駅の西にある足立商事という会社ということがわかった。駅西といっても、名古屋駅からはかなり離れており、中村区役所の近くだった。千尋が住居としていた松原町のマンションとは、距離としては近かった。
 二人は三階建ての社屋に入り、受付に行き、以前勤めていた橋本千尋さんの上司に会いたい、と言った。
 刑事の来訪ということで、受付の女性は緊張して、内線電話で人事課に問い合わせた。
 しばらく待たされた後、応接室に案内された。
 応接室でもしばらく待たされた。コーヒーを出され、それをすすりながら待っていた。五藤という五〇歳を超えているように見える男がやってきた。
「私が以前、橋本千尋の上司だった五藤ですが、警察の方がいったいどんな用件で?」
 おどおどした口調で言いながら、二人の刑事に名刺を渡した。名刺には経理部長という肩書きがあった。二人の刑事は、後藤ではなく、「五藤」と表記することを知った。
「橋本は平成一五年九月末日で当社を退職していますが」
「平成一五年九月というと、二年ちょっと前ですね。退職の理由は何ですか?」
 三浦が尋ねた。横で鳥居が五藤をにらみつけている。五藤は鳥居の視線に気圧されていた。
「そ、それは、確か結婚する、とか言ってましたね。俗に言う寿退職ですな」と少し冗談めかして言った。精一杯の虚勢だった。
「結婚ですか。それで、退職後の住所は聞いてますか?」
「いえ、特に聞いてません」
「退職後、雇用保険の離職票作成とか、退職金の連絡など、いろいろ連絡を取ったということはあるんじゃないですか?」
「いや、担当の者が、携帯も解約してしまったのか、もう連絡が取れない、と言っていたと思いますが」
 会社としても、退職後のことはまったくわからないようだった。
 住民登録はそのままになっていた。しかし、実際は一〇月上旬にどこかに越しているようだ。まだその足取りはつかめていない。
「ところで、何で今ごろ、橋本の件で?」
 五藤はそのことがずっと気になっていた。
「まだ橋本さんと確定したわけではありませんが、橋本さんと思われる遺体が発見されました。これは明らかに殺人事件と思われます。被害者の身元を確認するためにも、ぜひともご協力をお願いしたいのですが」
「さ、殺人事件ですか?」
 その言葉を聞いて、五藤は青くなった。
「検死では死後約二年を経過しています。退職した時期と、符合します。遺体が発見されたのは、死後かなり経過した後ですので、捜査が非常に難航することが予想されるのですが、当時の交友関係をまず徹底して洗いたいと考えています。橋本さんの婚約者の名前は知っていますか?」
「橋本の婚約者ですか? 特に何も聞いていませんが」
「橋本さんの上司だったのに、何も聞いて見えないのですか?」
「はあ、面目ない。何せ、急に退職したい、と申し出て。理由を訊いたんですが、結婚する、としか言いませんでした」
 五藤はハンカチで顔の汗をぬぐいながら弁解した。
「婚約者じゃなくても、当時親しくしていたような男はいましたか? または、険悪な関係とか」
「申し訳ないですが、私はプライベートなことまでは、把握していないのですよ」
「それじゃあ上司失格だがや。ところで、ガイ者の背中には、騎龍観音のいれずみがあったが、橋本さんはいれずみをしとったのかね?」と今度は鳥居がまったく別のことを尋ねた。
「ええー? 背中にいれずみですか? い、いえ、そんなことは知りませんが。まさか……」
 思いがけないことを訊かれ、五藤はうろたえた。
「会社なら社員の健康診断をするだろう?」
「いえ、そんなこと言われても。確かに毎年社員の健康診断はしていますが。そういえば、橋本は会社で健診を受けず、わざわざ他の病院で人間ドックを受けたから、とその健診結果のコピーをくれたことがありましたね。ひょっとしたら、会社では健診受けたくなかったからじゃないでしょうか」
「だろうな。背中や胸にいれずみが入っとっちゃ、会社で健康診断もできんわな」
「お仕事中、申し訳ありませんが、当時橋本さんと親しかった方に会わせていただけませんか?」と三浦は五藤に頼んだ。
「橋本と親しかった者ですか? ちょっとお待ちくださいよ」
 こう言って五藤は応接室を出て行った。
 数分して、五藤は三〇歳前後の女性を連れてきた。
「田中真佐美といいます。千とは同じ課にいました」
 その女性が自己紹介をした。
「せん?」と鳥居が訊いた。
「あ、橋本さんのことです。千尋ですから」
「ほう、それで千ね」
 真佐美はスタジオジブリの名作アニメからとった愛称だと言ったつもりだが、鳥居は単に千尋の千という字からつけられたあだ名だと解釈した。
「橋本さんは退職後、どこへ引っ越したか知りませんか?」と三浦は訊いた。
「いいえ、千、退職してから、携帯も解約しちゃったのか、連絡とれなくなっちゃったんです。千からも連絡はありませんでした」
「当時付き合っていた人のことは、何か聞いてませんか?」
「会ったことはありませんが、鈴木しげおとかいう、市役所に勤めている人だと聞いたことがあります。しげおはどういう字を書くか知りませんが。確か、千より二つ上だと言ってました」
「市役所、というと、N市役所ですか?」
「はい、N市役所だと聞きました」
 市役所勤務の鈴木しげお、当時二七歳ぐらい。後ほど市役所を当たってみるつもりだが、ありふれた名前だし、職員数が多いN市役所では、雲をつかむような話だと三浦は思った。
 N市はシステムが電算化されているので、鈴木しげおという名前を探すのはたいしたことではないだろうが、平凡な名前なので、おそらく何十人もヒットするだろう。一人ひとり当たって、犯人としての適合性を洗い出していかなければならない。
 それに、名前は偽名で、市役所勤務も虚偽の可能性は十分ある。しかし、何の手がかりもない今は、当たってみる価値はあるだろう。
「それ以外、何か気づいたことはありませんか? どんなことでもけっこうです。何が事件の解決に結びつくか、わかりませんからね」
「本当に千、いや橋本さんは殺されたのですか?」
「まだ橋本さんと確定したわけではありませんが、発見された遺体は、おそらく橋本さんではないかと見ています」
「そうなんですか。早く犯人が捕まるといいですね」
 三浦は、何か気づいたことがあれば、連絡ください、と言って、名刺に携帯電話の番号を書き加えて真佐美に渡した。
 三浦と鳥居は、千尋の履歴書と写真のコピーをもらって足立商事を後にした。
「あの狸親父、何も知らん知らんと言っとったが、なんか煮えきらんやっちゃなあ」と歩きながら鳥居が五藤のことを批判した。
「そうですね。何か隠しているような感じもしましたが」と三浦も相槌を打った。
「これから、被害者が以前住んでいたマンションの近くの歯医者を当たってみようと思います。ひょっとしたら職場に近いこの近所の歯科医に行っていたのかもしれませんが。歯に何本か治療の跡があるので、歯医者が見つかれば、カルテから遺体が千尋かどうか、確定できますからね」
「そうだな」
 とりあえずこの近所の歯科医を当たるため、近くの名駅署に行って、歯科医の場所を教えてもらうことにした。そのとき、三浦の携帯電話の着信音が鳴った。
「おい、おみゃー、そのあゆの着信音はやめときゃあ。刑事として、軽率だがや」と鳥居が嘆いた。鳥居としては警察と軽率を対比した、気が利いたしゃれのつもりだった。
 電話は田中真佐美からだった。千尋のことで話したいことがあるので、仕事が終わってから、どこかで会えませんか、という内容だった。会社から離れたところで話したい、というので、金山のBという喫茶店で午後六時に待ち合わせることなった。
 六時までは時間があるので、先に歯科医を当たることにした。住居の近くの歯科医で、千尋が治療したことがあることが判明した。三浦はカルテの提供を依頼した。最初は患者のプライバシーなので、と渋った歯科医も、殺人事件の被害者の身元確認のために必要だ、と鳥居に説得された。
「これで遺体の歯型と照合すれば、身元が確定だな」と鳥居が言った。
「おそらく遺体は橋本千尋に間違いないと思うが」

 金山のBという喫茶店は、すぐに見つかった。田中真佐美はすでに来ていた。
 金山はJR東海道本線、中央本線、名鉄、地下鉄が交差する、名古屋駅に次ぐ、名古屋第二のターミナル拠点である。中部国際空港の開港や、愛・地球博の開幕に前後して、金山総合駅の北側に、前年三月、アスナル金山という大規模な商業施設が開業した。
「わざわざ連絡くださり、ありがとうございました」
 三浦がまず礼を言った。鳥居は相変わらずむっつりした表情で黙っていた。
 ウエイトレスがオーダーを聞きに来たので、二人の刑事はホットコーヒーを、真佐美はホットコーヒーのケーキセットを注文した。
「上司の前では話しにくかったことですね。さっそくお話を伺います」
「はい。会社では部長から、余計なことは話すな、と釘を刺されていまして。でも、千、橋本千尋さんを殺した犯人を捕まえてもらいたいから。彼女、無口でおとなしい人だったけど、あんなことするなんて。きっと悪い男にだまされていたんだわ」
 真佐美は激高した。
「あんなこととは?」
 三浦は何かある、と感じた。
「実は、千、会社のお金を横領していたのです」
 やはりそのようなことが裏にあったのか。おそらく鈴木とかいう男に貢ぐためのものだろう。彼女を殺したのもたぶんその男。三浦はそう考えたが、最初からそんな先入観を抱くのは危険だと、自らを戒めた。
「彼女、経理担当だったから、多少の伝票操作で会社のお金をごまかすことぐらい、たいして難しくなかったはずです。彼女が辞めてから、会計の監査をしたとき、初めて横領が発覚したんです」
「その金額は、いくらぐらいだ?」と今度は鳥居が口をはさんだ。
「五千万円ぐらいだと思います」
「五千万か。けっこうやらかしたもんだな。まあ、あの程度の会社じゃ、一億なんて誤魔化せば、すぐわかってまうから、そんなもんか」と鳥居が言った。その言い方に、真佐美は少しむっとした。しかし、気を取り直して続けた。
「でも、あのおとなしくて人がいい千がそんなことするなんて、信じられません。絶対男に命じられて、仕方なくやったんだと思います」
「それで、会社は橋本さんの背任行為を告訴はしなかったんですか?」と三浦が尋ねた。
「いちおうしたと思います。近くの名駅署に話しているはずです。部長はたいした金額でもないし、会社の恥部を外部にさらすこともない、と反対していたようですが、社長や専務などに押し切られたようです」
「しかしあの五藤という部長、なんでそんな重要な話、俺たちに黙っとったんか? 何か後ろめたいことでもあるんか?」と鳥居が疑問を抱いた。
「そんなとこまで、私は知りません。殺人事件とは関係ないと思っていたんでしょう。私にも余計なこと話すな、と言っていましたから」
 鳥居に対しては、真佐美はつっけんどんに答えた。
「橋本さんが殺されたのは、その横領事件が関係しているのかもしれませんね。とても参考になりました。ところで、それ以外に橋本さんのことで気づいたことはありませんか?」
 真佐美は言うか言うまいか少し迷ってから、「実は、千、いれずみしてたので、びっくりしたことがあるんです。龍に乗った観音様の絵でした」と話し始めた。
「そのことは我々も知っています。遺体にいれずみの痕がありました」
「え、死体は白骨化してたんじゃなかったんですか?」
「遺体の一部が屍蝋化していて、いれずみが残っていました」
「そうですか。それなら、たぶん千に間違いないですね」
「橋本さんがいれずみをしてたことは、会社の人たちは知っていましたか?」
「彼女、いれずみのことは隠していたので、あまり知られていないと思います。私はたまたま更衣室で着替えのときに見てしまいましたが。彼女には絶対人には話さないでくれ、と頼まれましたし、私も誰にも言いませんでした」
「橋本さんはなぜいれずみを彫ったのか、聞いたことはありませんか?」
「彼女、昔からいれずみに興味があって、いつかきれいな絵を彫りたいと思っていた、ということは言ってました。それから……」
 真佐美はちょっと言いよどんだ。
「それから?」と三浦は先を促した。
「千の彼氏もいれずみが好きで、エッチするとき、いれずみがあるととても喜ぶのだそうです。最初、彼にいれずみのこと、知られたくないと悩んでいたそうですが、恋人なら隠し続けることなんてできないので、思い切って打ち明けたら、彼はきれいだ、と喜んでいた、と言ってました」
「変態だな、その男は」と鳥居が怒鳴った。
「私が知ってるのは、それぐらいです」
 鳥居が口を出したので、むっとしたのか、真佐美は口をつぐんだ。
「その相手の男について知っていることは、先ほどお聞きした、鈴木しげおという、当時二七歳、現在二九歳ぐらいの男、ということだけですか?」と三浦はさらに何かを引き出そうと思って、訊いた。
「人相とか、身長とか、声の特徴とかは?」
「すみません。さっきも言いましたが、私、千の彼には会ったこともないし、写真も見てないので、何も知らないのです」
 三浦は真佐美からできるだけ多くのことを引き出そうとしたが、現時点ではこんなものかと判断して、質問を打ち切った。
「それでは、何か思い出したことがあれば、どんな些細なことでもけっこうですので、連絡ください」
 二人の刑事はそう言い残して、喫茶店を後にした。

ヒガンバナ

2012-09-25 19:48:12 | 小説
 今日、久しぶりに弥勒山から道樹山を縦走しました。山はもう秋の気配が漂い始めています。ツクツクボウシの鳴き声もわずかになりました。麓でヒガンバナが咲いていました。1週間前はまだ蕾でした。

   

 夏の間は、透明度がわるく、中央アルプスなど、遠くの山が見られませんでしたが、今日はよく見えました。御嶽山は雲がかかり、裾野しか見えませんでした。中央アルプスと恵那山です。遠くの山が見やすいように、明るさを調整しました。写真は曇って暗いように見えますが、実際は雲は多かったのですが、明るく晴れていました

  

 今回は『幻影』第20章です。



          20

 月曜日、約束の時間より早く、三人は卑美子のスタジオに到着した。
「先日は大変でしたね。今日はよろしくお願いします」とケイが卑美子とトヨに挨拶をした。続いて、美奈とルミも深く礼をした。
 トヨはかえって恐縮し、「こちらこそお願いします」と頭を下げた。トヨはえんじ色の女性用作務衣を着ていた。
 トヨは、先日三人が選んだ絵を基にして描き直した下絵を、三人に見せた。注文どおり、三輪のマーガレットのうち、真ん中の花がピンクに彩色してあった。陰になる部分は赤、先端に行くにつれて、薄いピンクに変化していた。
「すてき。さすがにトヨさんだ。みんな、これでいいよね」とケイが二人に訊いた。
「異議なし! 最高です」
「はい、これでいいです。とてもきれいです」
 ルミと美奈の賛同が得られ、さっそく彫ることとなった。
 最初は誰から彫ってもらうか、という順番について話し合った。美奈は年長のケイから、と主張したが、ケイとルミに、「トヨさんのプロ第一号はやっぱりミクでしょう」と押し切られてしまった。
 卑美子がスタジオに使っている3LDKのマンションは、玄関から一番近い五畳相当の洋間を待合室、その隣の六畳の洋間を施術室としている。
 今年からトヨもアーティストとして活動するようになり、奥の六畳の洋間がトヨの施術室に割り当てられた。
 修業中のころは、トヨは待合室に客がいるときは、そちらで客に対応し、客がいないときは、卑美子の施術を見学していた。絵を勉強するときや、自分の身体に彫って練習するときは、奥の洋室を使っていた。この奥の部屋が事実上トヨの個室になっていた。夜遅くなり、この部屋で寝泊まりすることも多かった。
 その奥の部屋が正式にトヨの施術室として与えられたのだった。ときどきお金がないけど彫りたい、という客に、練習です、と了承を得た上で、無料で彫ってもいたので、すでに施術室としての整備はされていた。
 美奈は上半身下着だけになり、トヨの前で気をつけの姿勢をした。
 トヨは黒縁のメガネをかけた。ふだんはメガネをかけていないが、車を運転するときや、タトゥーを彫るときなどにはメガネを使用していた。美奈に比べれば、近視の度合いは幾分軽かった。
 トヨは美奈の背中を見て息を呑んだ。
「ミクさんのタトゥー、何度見ても本当にすごい。さすが先生。私がこの域に達するまで、何年かかるかしら。いや、一生先生には追いつけないかもしれない」とトヨは心の中で呟いた。
「こんなきれいなタトゥーの横に、私の絵なんか入れて、いいのだろうか」
 マーガレットの絵の転写のために、トヨはミクの脇腹の広範囲に石けん水をスプレーし、拭き取ってから、今度は消毒用エタノールをスプレーした。
「はい、まっすぐ立ってください」
 転写をするとき、背筋をピンと伸ばしていないと、絵がゆがんだりする。
 トヨは慎重に位置を決め、転写シートを貼り付けた。
「おへそのピアスもすてきですね。ピンクのジュエリーがかわいいです」と転写の出来具合を確認しながら、美奈のへそのピアスに目をやった。
「これ、宝石ではなく、ガラス製の安物です」と美奈は応じた。
 転写はうまくでき、いよいよ施術となった。
 トヨは施術のときはマスクを着用した。
 今日使用する予定の機材は、すでに人数分を高温高圧で滅菌し、一つひとつ密封されていた。タトゥーの施術には、肝炎などの感染のおそれがつきまとうが、衛生面もできる限りの対処がされていた。
「では始めますね。よろしくお願いします。いよいよ私のプロ第一号、やらせていただきます。ちょっと緊張します」
 事実、トヨはひどく緊張していた。胸はドキドキ、というより、バクバク、といった感じだった。腕もぶるぶる震えている。
 こんな状態で彫ったら、筋彫りのラインがめちゃくちゃになってしまう。
 トヨは何度も、私はうまいんだ、何ら恐れることはない、と自分に言い聞かせ、深呼吸をした。それから、下腹にぐっと力を入れた。
 さあ、やるぞ、と気合いをこめて、美奈の脇腹に、マシンの針を下ろした。美奈は目をぐっとつむり、激痛に耐えた。脇腹の痛みは、これまで経験したいれずみの施術の中でも、最も大きなものの一つと思われた。
 いったんマシンで線を引き始めると、腕の震えはぴたりと止まった。マシンはいつもの練習のときと同じように、トヨの意思のまま、自由自在に操ることができた。肌に転写された紫の線の上を、一定の太さで、精確になぞることができた。
 トヨのマシンの動きを、ケイとルミはじっと見守っていた。
 マーガレットの花のうち、二輪と蕾は白だった。部分的には薄い緑や青が入る。しかし用意されたインクの色は、白ではなく、わずかに青を混ぜた、淡い水色だった。
 美奈はすでに卑美子から聞いて知っていたが、トヨはケイとルミに、「日本人の皮膚は、メラニン色素という黄色っぽい色素を持っているので、白だけでは、皮膚の色素が混じり、どうしても黄色っぽくなってしまうんです。わずかに青を加えることによって、肌に入ると、きれいな白になるんですよ。ただ、青が多すぎると、水色っぽい色になってしまうので、加減が難しいですが」と説明した。
 実際、美奈の肌に入っている白は、黄色っぽくならず、きれいな白だった。
 二時間半ほどでマーガレットの絵は完成した。
 右の乳房のすぐ下から、へその右下にあるバラの横までかかる大きさだった。
「ああ、疲れた」
 美奈への施術が終わり、トヨは精も根も尽き果てたかのように呟いた。
 苦痛から解放された美奈は、施術用のベッドから降りて、まず直接自分の目で見てから、大きな姿見に自分の脇腹を映した。
「わー、すてき。思っていたよりずっときれい」と美奈は感想を言った。言葉は平凡でも、万感がこもっていた。
「ほんと。すてき。これが私たちの友情のマーガレットね」とケイも賛嘆した。
「トヨさん、プロ第一号の作品とはとても思えない。卑美子先生にも負けないですよ」とルミも言った。
「だめよ、先生と比較しては。先生に申し訳ない。でも、私なりに全力は尽くしたわ。こんなこと言っちゃあミクさんには申し訳ないけど、ケイさん、ルミさんにはもっといい絵が彫れるよう、さらに頑張ります」
「ううん、全然申し訳ないことない。それでこそプロだと思います」と美奈はそんなこと当然とばかりに言った。
「消毒のため、アルコールをスプレーします。染みますけどごめんなさい」
 トヨは美奈の新しいタトゥーにアルコールをスプレーし、ティッシュペーパーで血やインクの汚れをきれいにぬぐった。消毒用のエタノールを吹きつけられ、タトゥーを彫った部分がじんじんと染みた。美奈は思わず顔をしかめた。
 デジタルカメラで何枚も写真を撮ってから、タトゥーを彫った部分にワセリンを塗り、ラップを貼り付けて事後の処置は終わった。二〇分ほどかけて後片付けをして、次の施術の準備をした。もう慣れているのか、後片付けや準備は手際がよかった。
 デジカメで写した美奈のタトゥーの写真をA4判に印刷し、それを目の前のコルク製の掲示板に、見本としてピンで貼り付けた。
 次はケイが、それからルミが左の太股に彫ってもらった。
 美奈に彫るときは二時間半近くかかったのが、ケイのときは少し短くなり、ルミのときはさらに早く、二時間もかからず完成した。同じ図柄なので、だんだん慣れてきて、彫る時間も短くなっていった。
「とうとうやったわね、私たちの友情のマーガレット。すばらしいわ」とケイが言った。
「次は自分の脚に彫りますが、みなさん、どうします? かなり時間がかかったんで、疲れてるでしょう。もう帰りますか。明日は仕事ですし」とトヨが三人に訊いた。
「何言ってるんですか。私たち四人の友情のタトゥーですよ。トヨさんが終わるまで、みんな付き合いますよね」
「ええ。私たちより、彫っているトヨさんのほうがずっと疲れているはずですものね。私たちは平気です」と美奈も相づちを打った。ルミももちろん異論はなかった。
「ありがとうございます。それじゃあ、私も自分に彫っちゃいます。でも、その前に腹ごしらえしませんか。おなか空きました。ファミレスで弁当頼みますから」
「それも大賛成」と食いしん坊のルミがすぐさま賛成した。
 メニューを見てオーダー品を決め、トヨがパソコンを使って、インターネットで注文した。
 弁当が届くまでにトヨはルミに彫った機材などの後片付けをし、さらに自分に彫るための準備もした。
 弁当を食べ終え、いよいよトヨは自分の太股に彫ることになった。
「自分の脚に彫るなんて、大変でしょう」と美奈は訊いた。
「いえ、いつも自分の脚に彫って練習してましたから、慣れてます。初めてのころは、人様の肌を彫るわけにはいかないから、自分の身体で練習するんですよ。おかげで私の脚や左腕は、下手なタトゥーだらけです」
 そう言いながら、トヨは左腕の肘まで袖をまくった。手首から肘まで、花や蝶、四つ葉のクローバー、スカルなど、いろいろな絵が彫られていた。
「これ、全部自分で彫ったのですか?」とケイが感心して言った。
「はい、そうですよ。右腕には彫れないので、左腕に彫って練習しました。でも、腕の場合は、右手一本しか使えないので、皮膚をぐっと伸ばすことができないから、脚のほうが練習にはいいんです」と言いながら、今度は作務衣のズボンを脱いだ。左の太股から足首まで、右は膝から足首まで、自分の手が届くところには、びっしりタトゥーが入っていた。
「わ、すごい。これもみんな自分で練習したんだ」
 ルミも目を見張った。
「彫り師の身体は、自分で彫ったり、弟子同士で彫り合ったりするから、汚いんです。先生も修業時代、自分の脚に彫って練習したそうです。でも、右の腿だけは、うまくなってから、自分できれいなのを入れようと思って、残しておいたのです」
「私ももしタトゥーアーティストになるなら、全身タトゥーで埋め尽くす覚悟が必要ですね」
 漫画家かタトゥーアーティストを目指しているルミが、トヨに確認した。
「そうですね。うちで修業する場合は、全身練習で彫り尽くす覚悟が必要ですよ。先生もルミさんの絵はいい線行っているって言ってますから、頼めば一門で弟子にしてくれるかもしれないです」
「一門って、この前のコンベンションに見えた方たちですよね。でも私、卑美子先生のところがいいです。ほかのところ、怖そうです」
 ルミは一〇月下旬に行われた、彫波一門のタトゥーコンベンションの光景を思い浮かべた。その中には卑美子以外にも、女性アーティストがいた。
「いえ、怖そうに見えますが、みんな気さくで優しい人たちですよ。うちは今、私一人で手一杯だから、難しいかもしれないですね。私よりルミさんのほうが先に先生の弟子になりたい、と言ってたそうですが、私が無理矢理、先生のところに押しかけてしまったから」
 トヨは済まなさそうにルミに言った。実際、ルミは美奈が背中を彫ってもらうとき、何度か見学させてもらい、弟子になりたいという意志があることは卑美子に伝えていた。意志の表明ではルミのほうが早かったのに、行動ではトヨが先だった。
「でも、私からも先生に働きかけておきますね」とトヨは請け合った。
 トヨは自分の腿の産毛を剃り、アルコールで拭いた。
 水分をよく拭い取ってから、背筋を伸ばして立ち、転写シートを太股に当てた。
「どうですか? 絵、傾いてないですか?」
 トヨは三人に尋ねた。
「ちょっと傾いてますよ」
「少し右」
「そんな感じです」
 三人は転写する位置を細かく修正した。この位置がいい、と結論したところで、印をつけた。一度転写シートを剥がしてから、水を含ませたティッシュペーパーで肌を湿らせた。それから慎重に印に合わせて、転写シートを肌に当て、密着させた。そして湿ったティッシュペーパーで、転写シートの上をとんとんとはたいた。
 しばらく経ってからシートを剥がすと、肌にはきれいに紫の絵が転写された。
 トヨは鏡を見て、絵をチェックした。
「ありがとうございます。みんなのおかげで、きれいに転写できました」
 トヨは椅子にかけて、三人が見守る中で、自分の太股に彫り始めた。自分に彫るときでも、きちんとマスクをし、ニトリルの薄い手袋をつけた。
「自分に彫るのは、辛くないですか?」と美奈が質問した。
「痛いです。自分で自分に拷問してるようなもんです」
 自分に彫るときにはさすがに時間がかかった。二時間半かけて、ようやく彫り終えた。
「ああ、地獄だった。さすがにまいったな。もう限界。私はマゾではない、ということがよくわかりました」とトヨは冗談を言った。
 四人、生涯消えない友情の絆として、同じマーガレットの絵を入れたのだった。
「このタトゥーが一生消えないように、私たちの友情も一生消えないのよ」とケイが感無量といった感じで言った。
「最初はちょっとした思いつきだったけど、こうして仲間四人、同じタトゥーを入れた、ということは、すごく重いことなのね。これからはどんなことがあっても、ずっと友達! 花言葉のとおり、真実の友情よ」
 ルミも興奮していた。美奈は涙がこぼれそうだった。
 帰る支度をして、「お金払います。おいくらですか」とケイが訊いた。
「あ、お金、けっこうです。私のわがままでプロ第一号、二号、三号を彫らせてもらったんだから。こっちが感謝したいぐらいです」
「だめですよ、そういうことはきちんとしなくては。遠慮しないで、取ってください」
「いえ、ほんとにいいですよ」
 トヨは代金を受け取ろうとしなかった。
「でも、お金取らないと、プロといえないから、プロ第一号にはなりません」とルミが諭した。
「そうですよ。それに、私たちと友情のタトゥーを彫る許可をもらったとき、卑美子先生は馴れ合いはだめだ、とおっしゃったわ。だから、一線を引くためにも、料金は取るべきだと思います」と美奈も加わった。
「私たち、お店ではトップクラスの売れっ子だから、お金持ちなの。だから、遠慮しないで。ちなみに、ミクがお店のナンバーワンだけど。ちょっと嫉妬感じちゃうな」
 ケイが冗談を交え、雰囲気を和らげた。
「そうですね。私、考えが甘かったです。ありがとう。では、一万五千円ずついただきます」
 別れる前、美奈がトヨの背中の天女を見せていただけませんか、と頼んだ。
「そういえばまだ私の背中、見せたこと、なかったですね」
 トヨは快く了承して、作務衣を脱いだ。
 背中から臀部にかけて、羽衣を纏って、今にも天に向かって飛び立とうとしている天女が鮮やかに描かれていた。卑美子の作品だけに、優美で繊細な天女だった。天女を見せられた三人は、その美しさに目を見張った。左の二の腕には龍、右には虎が彫られていた。これらも見事な出来映えだった。
「ちょうどミクさんが先生のところで背中に観音様を彫っていた時期、私も彫ってもらっていたんですよ。龍がない分、私の絵のほうが小さいから、ミクさんより早く仕上がりましたけど」
「私が彫ってもらっているとき、トヨさんとトイレの前でばったり出会ったんですね。そのときの言葉が、おしっこ漏れちゃう、だったので、いまだにみんなにからかわれるんですよ」
 美奈は恨めしそうな顔をして、ケイとルミを睨んだ。
「あら、まだそんなことで? 現場にいたわけでもないのに。女は執念深いですね」とトヨは笑った。
「当時私、サンライズという店に勤めていたから、ミクさんの噂も聞いてましたよ。お客さんが、オアシスに私よりもっと大きないれずみした女の子がいる、って言ってましたから。図柄が騎龍観音だというので、ひょっとしたら先生のところで彫ってもらっている人なのかな、って思ってました」
「サンライズなら、オアシスのすぐ近くですね。あの辺、同業の店が多いから。それだと、私たち、知らずにトヨさんとどこかで会っていたかも知れませんね」
 ケイも気づかないところでトヨとは縁があったんだ、と感慨深げに言った。
「ほんと、そうですね。きっと私たち、どこかで出会ってますよ」とトヨも笑顔で応えた。
「さすがに卑美子先生の天女ですね。とてもきれいです。私も観音様じゃなく、天女にしてもよかったかな」
 美奈が話題をトヨの背中の天女に戻し、天女の絵を賛嘆した。美奈も背中に彫るとき、観音様か天女か、どちらかにしようと考えている、と卑美子に相談を持ちかけた。結局千尋の背中の写真を見て、騎龍観音に決めたのだった。
「ミクさんの観音様もすてきですよ。先生が私の最高の作品の一つ、と言ってます。ほんとに、神々しいぐらいだから」
 トヨも美奈の背中の騎龍観音を絶賛した。
「いいな。私も背中に入れたくなっちゃった。トヨさんに天女をお願いしようかしら」
 ルミがうらやましげに言った。
「こんな私でもよければ、ぜひ彫らせてください。でも、正直言ってまだ先生にはとても及びませんけど」とトヨは謙遜した。しかしそれは本音でもあった。
「背中に彫る決心ついたら、連絡します」
「はい、お待ちしてます。ぜひ」
 仕事を終えて、トヨの部屋にやってきた卑美子に、三人は今日彫ってもらったマーガレットのタトゥーを見せた。卑美子はトヨの作品に対し、「それだけ彫れれば、合格点ね。これからプロとして頑張ってください」と励ました。
 実はこの日は卑美子の三六歳の誕生日だった。トヨには告げていなかった。しかしトヨがプロとして、この日に第一歩を歩み始めてくれたことが、卑美子にとっての最高の誕生日プレゼントであった。
三人がスタジオを辞したのは、夜一一時に近かった。

メマトイ

2012-09-20 19:10:47 | 小説
 弥勒山に登るとき、顔の周りを小さな蠅のような昆虫がたくさんつきまとい、不快な思いをします。メマトイという、ショウジョウバエの仲間の昆虫のようです。メマトイというのは、固有の種の名称ではなく、顔の周りにつきまとう、小さなショウジョウバエのような虫の総称だそうです。メマトイのことは、『幻影』『ミッキ』にも取り上げました。『幻影』で、美奈がメマトイを鼻孔から吸い込んでしまい、しばらくして口から吐き出した、というエピソードは、私が実際に体験したことです。

 家庭にもゴミ箱などを飛び交う、コバエがたくさんいますが、これもショウジョウバエの仲間です。今年の夏は、コバエ用の捕獲器を置いたら、ほとんどコバエが出なくなりました

 それで、同じショウジョウバエの仲間なら、メマトイもこの捕獲器で捕まえられるかなと思い、山歩きの時に、持って行きました。

 しかし、メマトイはほとんど捕獲器には反応しませんでした。2匹、捕獲器に迷い込んだだけでした。

 今回は『幻影』第19章を掲載します。後半に、【「あのオジン、公権力で嵩にかかって。あの態度、許せない。今度会ったら、ぶっ飛ばしてやりたい」
 ルミはまだ憤懣やるかたない、という感じだった。
「あんたには無理」とケイがルミに言った。】
という場面がありますが、この部分は、ドラゴンボールの、セルを倒したあと、ヤムチャが18号に捨て台詞を放った部分のパロディです。この部分、著作権や盗作などの問題にならないか、担当編集者の方に相談したところ、この程度のパロディなら問題ない、とアドバイスをいただきました。




             19

 翌日、美奈、ケイ、ルミの三人は、指定の時刻前に喫茶店に集合してから、卑美子のスタジオに向かった。
 スタジオに入ると、開口一番、三人はトヨに向かって、「プロデビュー、おめでとうございます」と合唱した。
「実は先生がケイさんにアゲハチョウを彫った後、みんなが帰ってから、私、先生のおなかに鳳凰を彫ったんです。前々からミクさんに彫った絵を基にして、先生のおなかに収まるように、私自身のオリジナルを作るように言われてて。おへそにかからないようにデザインする、というのが、けっこう難しかったけど。結局それが私のプロへの試験だったわけ。それで、一昨日、今年からお金を取ってお客さんに彫ってよい、と許可が出たんです」
 トヨは満面の笑みだった。
「おなか、痛そうですね」とルミが顔をしかめた。
「先生は背中にも手足にもびっしり入っているから、おなかしか残ってなかったですからね。それに、おなかなら鏡を使わなくても、自分の目で直接見て採点できますから。脇腹がけっこう痛かったそうですよ」
 トヨは試験のことをかいつまんで話した。
「そういえば、卑美子先生の背中には、どんな絵が入っているんですか?」と美奈がトヨに尋ねた。美奈は卑美子の腕と脚のタトゥーしか見たことがない。
「先生の背中は、母子の二匹龍が入っていますよ。龍といっても、子供を慈しむお母さん龍が、とても優しそう。彫波師匠の作品です。額彫りといって、周りも黒く染めてあるので、迫力があります」
「へえ、母子龍ですか。かっこいいですね。昔、オアシスにも背中に龍を彫っている人、いましたけど」
 ケイは以前の同僚だったアカネは今、どうしているのかしら、と思いながら言った。アカネとはけっこう話をする仲だったが、ルミが入店してまもなく、連絡もなく店に来なくなってしまった。その後、一度も会っていない。
 トヨはすでに何枚かのマーガレットの絵を用意していた。
「花の図鑑やインターネットの画像を参考に描きました」と言って、トヨは絵を見せてくれた。絵はみなすばらしいものだった。ふつうの一重咲きの花だけでなく、八重咲きのものもあった。中には中心の蕊の部分に顔を描いた、少し漫画ふうに表現された絵もあったが、それはそれでよかった。
「ルミはこれがいいんじゃない?」
 ケイがその漫画ふうの絵を選んでルミに勧めた。
「うん、私、この絵気に入ってる。でも、みんな同じ絵にするんだよ」
「あ、そうだった。みんな同じ絵を彫るんだったわね」
 三人でしばらくどれにするかを話し合った。
「ここにある絵にこだわらず、要望があれば、どんどん描きますから言ってください。遠慮なく注文つけてくださいね。色もピンクや黄色、その他の色でもいいですよ。色鉛筆で塗って、イメージサンプルを作りますから」
 トヨは絵に関してはいくらでも変更できると言った。
 三人が選んだ絵は、長径五センチから六センチの花が三輪、小さな蕾と切れ込みが入った葉が二枚ついた絵だった。花の色は白が基調で、部分的に薄い緑色や青が使ってあった。花は真上から見たものではなく、やや斜め上から見たものであり、陰になる部分が淡い緑色で、立体的に仕上がっていた。
「この中で、真ん中の一輪だけピンクにしてもらえませんか?」とケイが注文した。
「はい、いいですよ。では、後でちょっと塗り直してみます」
「三人、同じ絵でお願いします。みんなで同じ絵を彫ることが、今回一番大事な意義ですから」
「同じタトゥーが友情の絆、花言葉は真実の友情、ですね。ほんと、すてきな試みだと思います。人間が彫るんですから、寸分違わず、というのは無理でも、極力同じになるよう心がけます」
「ごめんなさいね。デビュー作だというのに、難しい注文つけて」とケイが申し訳なさそうに言った。
「いえ、かまいませんよ。何事も勉強です。それより、そんなすてきな意味のあるタトゥーを一番最初に彫れるなんて、とても光栄です。みんなの友情が一生続くよう、祈りを込めて彫らせていただきます」
「ありがとうございます」
「彫る場所はもう決まってますか?」
「ほんとは三人同じ場所に彫れればいいんですけど、ミクはもうずいぶん埋まっちゃってるので。ケイさんと私は左の太股、ミクは右脇腹にする予定です」
 ルミが代表して答えた。
「いちおうどんな感じになるか見るため、彫る場所に大雑把な絵を転写してみましょうか」と言って、トヨは手際よく転写用シートを三枚作った。大雑把と言いながら、かなり細密に描かれていた。
 転写をしようというところで、「そういえば今日はみなさん、夕方からお仕事でしたね。転写しちゃうと、インクがなかなか消えないから、やめといたほうがいいですよ」とトヨが気づいた。
「大丈夫です。仕事前によく洗っておきますから。それより、どんな感じになるか、早く見てみたいです」と美奈が頼んだ。他の二人も転写してみたい、と言った。
 トヨは希望の場所を確認して、慎重に位置を決めた。転写する前にトレーシングペーパーに描き写した下絵を肌に当てた。転写シートを直接使うと、汗などでインクが肌についてしまうので、最初の位置決めはトレーシングペーパーに描き写した絵を使った。
 ケイとルミは左の太股の前の部分、腿の付け根のやや下のところから、幅一二センチ、長さも茎の部分を入れると、一二センチほどのマーガレットの花が紫色に転写された。
 美奈は右脇腹、みぞおちの右あたりからへその少し下まで、最初に入れたバラの花にかからないように転写してもらった。
「ミクさん、このバラと蝶が初めて彫ったタトゥーなんですね」
 転写が終わってから、美奈の下腹に彫られた絵を見て、トヨが言った。
「みなさん、大きさ、どうですか? 大きすぎるようなら、もう少し縮小します」
 トヨがサイズを尋ねた。
「最初考えてたのより、心持ち大きいけど、でもこれぐらいのほうが見栄えがあっていいですね。みんな、どう? 大きさも三人同じにしたいよね」とケイが二人に訊いた。
「私、これでいい」
「私もいいです」
 ルミと美奈もその大きさで同意した。
「ではこれでお願いします」とケイが三人を代表して言った。
 施術の日は、三人が公休日の次の月曜日と決まった。一人二時間以上かかりそうなので、少し早めに、正午から始めることした。三人とも一日で仕上げる予定だ。
「三人も続けて大丈夫ですか?」と美奈がトヨを気遣った。
「平気ですよ。プロになれば、一日三、四人は彫る覚悟ですから。三人とも同じ絵なので、かえって楽ですよ。一生懸命やりますので、どうかよろしくお願いします」
 トヨは深々と頭を下げた。
「こちらこそお願いします」
 三人も礼を返した。
「さ、おなか空いた。食事に行きましょう。もう一時を回ったので、空いてると思いますよ」
 トヨは三人を促した。

 そのときだった。インターホンのチャイムが鳴った。
「はい、どなたですか? スタジオの営業は明日からですが」とトヨが応えた。
「県警のものですが、ちょっとお訊きしたいことがありますので、お時間いただけますか?」
 若い男の声だった。お時間いただけますか、と言いながら、今から食事に出かけますから、後にしてください、と断れる相手ではないことは明らかだった。さすがのトヨも、県警、という言葉に、緊張した。
 ドアを開けると、男が二人立っていた。一人は五〇年配の、がっしりした体型の男。もう一人は若く背が高い、刑事としてはややひ弱な感じの男だった。
 二人は身分証明として、警察手帳を見せた。
「僕は県警の三浦といいます。こちらは篠木署の鳥居刑事」と若い、背が高いほうの刑事が自己紹介をした。
 三浦を見て、美奈ははっと思った。三浦も美奈を認めた。しかし、三浦は隣にいる年配の刑事の目を気にしてか、何も言わなかった。
 いれずみという仕事は、正確にいえば、医師法違反を犯している。医師の免許もないのに、他人の肌を針で傷つける行為は医師法に反していた。トヨはその取り締まりかと思い、不安で軽いめまいを覚えた。先生がいないときに、どう対応すればいいのだろうか。
 そんな様子を察した美奈は、「大丈夫です。刑事はある事件のことについて訊きに来たのだと思います」と、そっとトヨに耳打ちした。
 刑事たちは待合室に入ってきた。鳥居という年配の刑事は、待合室をきょろきょろ見回した。部屋の中は、先ほど美奈たちが見ていたマーガレットの下絵が散らかっているほかは、きちんと整頓されていた。
「なんだね。あんたらのような若い女の子でも、いれずみなんかするのかね」と鳥居は美奈たちを睨んだ。
「いれずみは、やくざ者がすることだ。とーれーことはやめときゃー」と怒鳴り始めた。
 なによ、それじゃあ営業妨害じゃないの、今はタトゥーもファッションなのよ、と怒鳴ってやりたかったが、さすがに気が強いルミも、この年配の刑事に気圧(けお)されて、何も言い返すことができなかった。
「ちょっと、鳥居さん、今日はそんな説教をしに来たんじゃありませんよ」
「それはそうだが、こんな若い女の子たちが、いれずみするなんて、刑事としてはほかっとけんがや。いれずみは犯罪だぞ」
 ルミは「なんだよ、こいつは。戦前じゃないんだぞ」と心の中で呟いた。
「違いますよ。今は一八歳未満の未成年にでも入れない限り、犯罪ではありません。まあ、医師法違反には目をつぶるとしてですけど。それより、訊くことがありますから」と三浦という若い刑事が年配の刑事をなだめた。
「今日我々が来たのは、ちょっと伺いたいことがありましてね。ある事件の関係で、背中に大きないれずみ、たぶん人物と、それに絡む龍の絵だと思いますが、二年以上前にそんな絵を彫った女性で、今、行方不明になっている人に心当たりはありませんか?」
 トヨはスタジオ自体に問題があったのではない、ということがわかり、少しは安心した。まさに美奈の言うとおりだった。しかし、美奈はなぜそんなことがわかったのだろうか、疑問に思った。
 ケイとルミは、スタジオの問題ではないとわかったものの、突然の刑事の来訪に怯えていた。仕事柄、タトゥースタジオも特殊浴場も警察の介入を嫌う。もっとも、特殊浴場を取り締まるのは、捜査一課ではなく、風紀係なのだが。
 やはりその件だったのだ、と美奈は思った。どうするべきか、と迷ったが、先日千尋が出てきたのは、たぶん自分の遺体のことを知らせて、供養をしてほしい、ということだと思う。そして、できれば事件を解決してほしいのだろう。
 自分がここにいるとき、刑事が訪ねて来たのは、おそらく千尋の導きだろう。
 千尋も二年間も山の中に埋められたままで、生死不明で供養もしてもらえず、苦しかったのだろう。そんな千尋のことを考えると、涙が出そうだった。
 鳥居はともかく、若い三浦なら、話を聞いてくれそうだ。この刑事に話してみよう。そう美奈は心を決めた。
「あの、刑事さん」
 美奈は三浦に声をかけた。
「何だ、おみゃーさんは。俺たちはこちらの彫り師のセンセに訊いとるんだがや」と鳥居は美奈を睨んで言った。
「まあまあ、鳥居さん」と三浦は年配の刑事を牽制して、「何だい?」と美奈の方を向いた。
「刑事さんたちが言っていた女性、おそらく橋本千尋さんという人だと思います」
「なに!」「何だって?」と二人の刑事は同時に叫んだ。
「おみゃー、何でそんなこと知っとるんだ?」と鳥居が怒鳴った。
「詳しく話してもらえませんか」と三浦は優しく頼んだ。三浦は一昨日すでに美奈に会っていることは、あえてこの場では言わなかった。その話に触れれば、鳥居が何を言い出すか知れたものではなかった。遺体遺棄の現場に現れたのは怪しい、ということで、そのまま美奈をしょっぴきかねなかった。美奈は三浦のその配慮がありがたかった。
 美奈は、自分は千尋と同じ騎龍観音のいれずみを背中に彫っていること、自分がその図柄を選んだ理由は、卑美子の下絵が非常に美しかったことに加え、その図柄が彫られた千尋の背中の写真を見て、自分もこの絵をぜひとも背中に欲しくなったためであることを告げた。
 美奈としては、この若い刑事には、自分の身体にいれずみがあることを隠しておきたかったが、場所がタトゥースタジオだけに、話さざるを得ないように思われた。
「ほう、おみゃーさんみたいなかわいい女の子が、背中一面に彫っとるんか。まったく最近の若い女は何を考えとるんだ」とわざとらしく大声で嘆いた。
「鳥居さん、まだ話の途中ですよ。話の腰を折らないでください」と鳥居に注意し、それから美奈に向かって「すまない、気分を害したら、許してください」と謝った。
 美奈は年配の刑事は気に入らなかったが、若い三浦には好感を持った。
 美奈は話を続けた。自分と同じ図柄を彫っている千尋に興味を抱き、ぜひ一度会ってみたいと思った。本来なら、客のプライバシー、情報は他の客には絶対教えないことになっているが、美奈を信頼している卑美子は、千尋と連絡が取れれば、千尋の許可を得た上で、会えるように取り計らってあげる、と言ってくれた。だが、赤ちゃんを産むから、しばらくいれずみはお休みします、という連絡を受けて以来、ずっと千尋から連絡が途絶えている、ということを話した。
「なるほど。連絡がなくなってから二年以上なのか。遺体も死後約二年と符合しますね。それに、テレビや新聞では報道していませんが、遺体は妊娠していました。それも符合します。いれずみもありますし、あなたの言うように、遺体は橋本千尋さんである可能性は十分考えられます」
 三浦は美奈の話に納得した。遺体はおそらく美奈が言うように、橋本千尋のものだろう。
「その橋本千尋という女の写真、あるなら、提供してもらおう。おい、おみゃあ、写真、持ってこやあ」
 鳥居はトヨに命じた。おまえ、持ってこいと言うより、名古屋弁でおみゃあ、持ってこやあ、と言ったほうが、多少は柔らかく聞こえた。
「写真は先生が保管しているので、私にはどこにあるか、わかりません」
「それなら、そのセンセーとやらを、ここに来るように呼んでちょう」
「先生は今日お休みを取っています。明日は来ますので、明日出直してもらえませんでしょうか」
「たーけか! これは殺人事件の捜査なんだがや。すぐ来るように連絡するんだ」
 鳥居はトヨを怒鳴りつけた。
「これは殺人事件の捜査なんだ、という台詞は推理小説の常套文句だけど、本物の刑事も使うんだ。しかも名古屋弁丸出しで」
 はたで聞いていたルミが、変なことに感心して、小声でケイに話しかけた。
「でも、あのオジン、なに威張ってるのよ、権力の横暴だわ」
「鳥居さん、そんな居丈高に言わなくても。トヨさん、すまない。でも、鳥居刑事が言ったように、これは殺人事件なんです。申し訳ないですが、その先生に、連絡取っていただけませんか?」
 三浦は無礼を詫び、トヨに依頼した。
「わかりました。先生に連絡してみます」
 携帯電話でトヨが卑美子に連絡すると、卑美子はすぐに行く、と返事をした。卑美子はスタジオにしているマンションの近くに、サラリーマンの夫と二人で、一戸建ての家を建てて住んでいる。歩いても二〇分ほどの距離だ。
 それからすぐ、卑美子はバイクで駆けつけてきた。
 スタジオに着いた卑美子は、鳥居の顔を見て、ちょっと驚いたような表情をした。鳥居も一瞬目を見張った。二人は旧知の間柄のようだった。
 卑美子は千尋の写真と免許証のコピーを刑事に提供した。卑美子の供述も、先ほどの美奈の話とおおよそ合致した。三浦は卑美子に千尋の勤め先を知らないかと尋ねたが、会社員で、オフィスが駅西にある、ということしか聞いていない、と答えた。
 三浦は「また訊くことがあるかもしれないから、連絡先を教えてくれませんか」と美奈に尋ねた。三浦は鳥居から見えないように、口の前に右手の人差し指を立てた。すでに話してあるのだが、鳥居の手前、わざわざ訊いているのだということを、美奈は理解した。美奈は住所と携帯の電話番号を伝えた。

「先生、すみません。せっかくのお休みだったのに」
「いえ、トヨのせいではないわ。でも、千尋さん、やっぱり殺されていたのですね。むごいことをする人がいるもんです」
 卑美子の目は潤んでいた。
「私もちょっと出過ぎた真似をしました。すみませんでした」と美奈は卑美子に頭を下げた。
「いいえ、警察に協力するのは国民の義務ですから、ミクちゃんも気にすること、ないですよ。どうせ遅かれ早かれ刑事は聞き込みに来たでしょうから。千尋さんも早く事件を解決してもらって、成仏したいでしょうし。それより、みんな災難でしたね。せっかく友情のタトゥーの打ち合わせをしていたのに。トヨもデビュー作で張り切っていたんですけどね」
 卑美子は一呼吸置いてから、「あの鳥居という年配のほうの刑事さんね、もう二〇年近く前になるかしら、私がレディースやってたころ、世話になったことがあるのよ。私より、当時ゾクのヘッド張ってた私の今の旦那のほうが、もっと世話になったけど」と、青春時代を回想した。
「先生、昔レディースやってたんですか?」と美奈が訊いた。
「トヨには話したことあるけど、これでも昔は突っ張っちゃって、ずいぶん無茶もやったもんですよ。特に旦那は暴走行為だけでなく、悪逆の限りを尽くして暴れ回っていた、という感じ。あの刑事さんには、さんざんお世話になってるの。今は立ち直って真面目なサラリーマンになってるけどね。あの刑事さん、あれでけっこういいところがあるんだから。私も旦那もネンショー送りになったことがあるけれど、特に旦那の更正には力になってくれたわ。あの刑事さんがいなければ、旦那はたぶんどこかの組に入ってやくざになっていたでしょうね。私と結婚することもなかったと思う」
 卑美子が過去暴走族に入っていて、少年院にも送られたことがある、ということを、美奈は初めて知った。今の物静かな卑美子からは、とても考えられなかった。
「へえ、あのデカさん、とてもいいところがあるなんて、思えませんけど、人は見かけによらないんですね」とルミが口を出した。
「ちょっと見た感じでは、刑事というより、まるでやくざですからね」と卑美子も笑った。
「どうしましょうか? なんか、ケチついちゃいましたが、月曜日、やりますか?」
 トヨが恐る恐る三人に尋ねた。
「当然よ、あんな権力のイヌに邪魔されたからといって、やめるようなヤワな友情じゃないわ」とルミが憤然として言った。
「そうよ、負けてなるもんですか。月曜日、ぜひともお願いします。ミクもいいよね」
「もちろんです。私たちの友情の証、絶対彫りましょう」
 三人は断固として結束した。
「それで、お願いなんですが、私にもその友情のタトゥー、彫らせてもらえますか?」
 トヨは三人に頼んだ。しかし一瞬、三人はトヨの言わんとしていることが、わからなかった。
「もちろん、私たち、トヨさんに彫ってもらいたいんですが」とケイが言った。
「いえ、私の身体にも、みんなと同じ友情のマーガレットを彫りたいんです。私も友情の仲間に入れてください。本当は彫り師とお客さんがあまり馴れ馴れしくするのはよくないけど、みんなとはこれから親友として付き合っていきたいんです。私だって、三年間、みんなと同じ仕事してきたんですし。先生、いいでしょう?」
「仕方ないですね。本来ならタトゥーアーティストとお客さんとは一線を引いてほしいんですけど、ケイさん、ルミちゃん、ミクちゃんとなら、許可してあげましょう。ただし、彫るときは、馴れ合いは厳禁ですよ」
「ありがとうございます。先生の許可も出たので、どうかよろしくお願いします」
「もちろんです。トヨさんが友情の輪に入ってくれるなんて、とてもうれしいですよ」とケイが三人の総意をまとめた。
「トヨさん、タトゥーは自分で彫るのですか?」とルミが尋ねた。
「はい、右の腿に彫れるスペースが残っているから、自分で彫ります。転写のときだけ、手伝ってくださいね。自分の身体に自分一人で転写すると、傾いたりしますから」
「うわ、自分で自分に彫るなんて、想像しただけでも痛そう」とルミが顔をしかめたので、みんなが大笑いした。
 予想外の刑事の来訪で、もう二時を回っていた。ファミレスで食事をする時間はなかった。
「お昼抜きで仕事なんかしたら、ぶっ倒れちゃう。あまり時間がないから途中で吉牛か松屋でも寄っていこうよ。マックでもいいけど、やっぱりお米のご飯が食べたい」とルミが提案した。

 その夜、勤務を終え、ミドリを加えた四人は、いつものファミレスで軽く食事をしながら話し合った。
「そう、そんなことがあったの? 大変だったね」
 ミドリが驚いた。
「殺人事件がこんなに身近で起こっていたなんて、日本の安全神話は崩壊ね」
「今日のミク、かっこよかった。私とルミは、オジンの方のデカが怖くて、何も言えなかったけど、ミク、堂々としてたから。見直しちゃった」
「あの三浦という若い刑事さんは話しやすかったからです。オジンのほうはやっぱり怖かったけど」
 美奈もみんなにつられ、オジンという言葉を使ってしまった。
「あのオジン、公権力で嵩にかかって。あの態度、許せない。今度会ったら、ぶっ飛ばしてやりたい」
 ルミはまだ憤懣やるかたない、という感じだった。
「あんたには無理」とケイがルミに言った。
「それに、卑美子さんがあれで意外といいところもある、と言ってたし」
「あの刑事さん、すてきだったな。背が高くてかっこよくて、優しそうで。浅見光彦みたい」
 美奈は斜め上に視線を向けて、うっとりしたような口調で言った。
「え、今のミクの台詞、みんな、聞いた? なんかミクらしくない」とケイは意外そうな顔をした。
「うん、聞いた聞いた」と二人は頷いた。
「ミクったら、もう唾つけてたの? 隅に置けないね」とケイが言った。
「無理無理、全身いれずみの泡姫とデカさんでは、絶対結ばれっこない」
 ルミが現実的なことを言って茶化した。
「そんなんじゃないですぅ、ただすてきだと思っただけです。それに、もう結婚してるかもしれないし」と美奈は顔を赤らめてムキになって否定した。美奈は三浦が指に結婚指輪をはめていないことに気づいていた。

 赤いミラで三人を家に送ってから、家路を急いだが、高蔵寺の自宅に着いたのは午前三時を回っていた。最近は夜中の三時過ぎに寝て、朝九時から一〇時に起きる、という生活パターンになっている。勤務のシフトをもっと早い時間にずらそうか、と思いながらも、遅い時間のほうが客も多く、店からも今のシフトで続けてほしい、と要望され、変更できないでいる。
 ケイたちも同じシフトで働いているので、職場で顔を合わせられるし、終わった後、みんなでファミレスやバーにも行ける。
 店に近い名古屋市内に引っ越そうと思わないでもないが、美奈は緑が多い高蔵寺の自然が気に入っていた。山歩きが趣味の美奈は、道樹山から弥勒山を縦走する東海自然歩道のコースが好きで、ときどき歩いていた。美奈は道樹山、大谷山、弥勒山の四〇〇メートルを超える山に、弥勒三山と名付けていた。この三つの山は、愛岐三山と呼ばれることもある。
 しばらくはこのままで行こう。完全に生活が昼夜逆転しているわけでもないし。
 美奈は歯磨きと洗顔を済ませ、すぐ布団にもぐり込んだ。一月の夜中の寒さは、布団にもぐっても、すぐには身体を温めてくれなかった。
 うとうとし始めたとき、また何かが近くにいる、という気配を感じた。千尋さんだ、と直感した。
「今日(正確には昨日)、刑事さんたちに、千尋さんのことを話したけど、あれでよかったでしょうか?」
 美奈は心の中で千尋に話しかけた。すると、千尋はにっこり微笑んだ。心の中に、かすかに「ありがとう」と響いたような気がした。
 きっとあの三浦という刑事が、犯人を捕まえて、事件を解決してくれる。美奈はそう信じることにした。

柳条湖事件

2012-09-18 20:17:28 | 日記
 今日は柳条湖事件から81年目です。
 中国では多くの地域でデモなどの反日行動があったようです。

 柳条湖事件は、関東軍による謀略事件で、満州事変の発端となりました。当時の日本国家は、確かに侵略行為で、中国、アジアの方々に迷惑をかけました。そのことは素直に反省し、アジアの中の日本として、友好を維持しなくてはならないと思います。

 しかし、最近の中国、韓国の行動には目を覆いたくなることもあります。もちろん、日本政府としても、不適切な行為もあったかもしれません。けれども、日本としては、中国も韓国も非常に重要なパートナーであり、領土問題、歴史問題を乗り越えていかなければならないと思うのです。

 確かに過去、不幸な歴史はありました。当時の軍国日本は、侵略行為といえることもしたと思います。森村誠一先生の『悪魔の飽食』などを読みましたが、石井部隊(731部隊)が犯したことは、人間として許せない非人道的行為だと思います。

 しかし、中国も韓国も、一方的に日本が悪だと言いますが、当時の世界情勢を考えれば、日本は祖国防衛のために、戦わざるをえなかったという一面もあると思います。黒船襲来で目を覚まされ、うかうかしていれば日本は欧米列強により、植民地にされそうな状態に怯えつつ、日本の国は国力をつけ、何とか列強に伍するまでになりました。当時は帝国主義対帝国主義、という時代で、日本も国際社会で生き残るために、帝国主義の道を突き進んで行きました。軍部の行き過ぎ、暴走もあり、その過程で、不幸な戦争に巻き込まれました。

 私もかつては共産主義に憧れ、左翼的な考え方を持っていたこともありました。自虐史観にとらわれ、日本はわるい国だった、中国、韓国などアジアの国々に本当にわるいことをしてしまった、いくらお詫びをしても、しきれるものではない、と考えてきました。けれども、自分が生まれ育った国がそんなにわるい国だと考えると、とてもやりきれない思いでした。

 今では少し考えを変えました。もう少し歴史というものを考え直してみようと、今では思っています。

 憧れていた共産主義ですが、結局地球上に本当の共産主義、労働者のための国など、存在してはいません。旧ソ連も、現在の中国も、共産党一党独裁で、真の共産主義とはかけ離れたものになってしまいました。とても労働者のための政府とは思えません。今の中国の状況を見れば、明らかです。

 また、中国、韓国の反日教育も、見直してほしいと思います。子供を立派な人間に育てるべき学校で、他の国を恨め、憎め、という教育は、おかしいと思います。それに今の日本は、軍国主義の国ではありません。中国を再び侵略するということは、決してあり得ません。

 日本に歴史の見直しを迫るのなら、中国、韓国ももっと素直に歴史を見直し、その上で新しい信頼を築いていければと願ってやみません。

 そんな思いから、拙著『ミッキ』  では、主人公たちに高校の歴史研究を通して、問題提起をしてみました。
 

『幻影』第18章再掲

2012-09-14 00:28:55 | 小説
 前回掲載した『幻影』第18章が、途中で途切れてしまっていました。先ほど、お詫びの文章と共に、切れていた部分を掲載しましたが、また最初の2行を残して、消えてしまっていました。

 これまで、小説の部分のフォントを青にしていましたが、第18章に関しては、色を変えると、同じ部分で切れてしまうようです。何か原因があるのでしょうか? 
 それで、今回はあえて黒のフォントで掲載します。




「とても嬉しいです/(^^)\。友情のマーガレット、すばらしいですね(^_^)。私には負担が大きくて、プレッシャーを感じてしまいます(>_<)が、でも全力で彫らせていただきます(^o^)/。ありがとうございますm(_ _)m。打ち合わせの日にちなど連絡ください。スタジオの営業は六日からですが、私は明後日五日からスタジオに出ています。私もいくつか、イメージを絵に描いておきます(^_^)v」

 三人は五日、出勤の前にスタジオに寄ることにした。トヨが近くのファミレスで一緒に昼食を食べませんか、と提案したので、午前一一時にスタジオ集合となった。

 四日、オアシスに新年の初出勤をした。この日は四人組は全員出勤だった。
 待機室で、さっそくケイの肩に入れたアゲハチョウのタトゥーを見せてもらった。かさぶたも剥がれ、きれいに治っていた。
「さすが卑美子さんの蝶ね。私の胸の蝶より、ずっときれい。私も最初から卑美子さんにやってもらいたかったな」
「でも、ルミさんの蝶もいいですよ。男性アーティストらしく、卑美子さんにはない力強さがあるし」と美奈はルミの蝶を褒めた。
 ケイの肩にある卑美子の作品は、筋彫りの線が細やかで繊細、色遣いも微妙なグラデーションで仕上げてあり、女性アーティストの作品らしく美しかった。
 それに対し、ルミの胸の蝶は力強く、、躍動感がある。色も赤や黄色などの原色がそのまま使われている。色の塗りのむらもなく、それはそれで見事な蝶だ。ケイの肩に彫られた蝶とは、対照的な作品だった。全国的に有名なタトゥーアーティスト、G氏の作品だ。
 待機室にいた他のコンパニオンたちも寄ってきて、ケイのタトゥーを見て、「わあ、きれい。ケイもやっちゃったんだね」などと囃し立てた。
「ところで、ミク、お姉さんにタトゥー、見つかっちゃったんだって?」
 ミドリが心配そうに美奈に訊いた。他のコンパニオンたちには、聞こえないよう、声をひそめた。
 姉にタトゥーが見つかったことは、三人にメールで報告してあった。
「はい。ついにばれちゃいました。でも、お姉ちゃんはだれにも言わず、自分の胸の内にしまっておいてあげる、と言ってくれました。ただ、タトゥーをしたことで、どんなに辛いことがあっても、決して世間を恨んだり、ひねくれたりしないでね、って約束させられました」
「それなら大丈夫。ミクなら、そんなこと決してない。風俗の仕事やってるといっても、ミクほど純粋ないい子なんて、そうはいないから」
 ミドリは美奈の人柄に太鼓判を押した。美奈は買いかぶられているようで、何だか面映ゆい気がした。
「私は胸の蝶のことは父ちゃん、母ちゃんも知ってるけど、あまりよく思われてないんで、腰の蘭はまだ秘密にしてるよ。弟が私がタトゥーしたことや、ソープで働いてること、すっごく嫌ってるんだ。姉貴は不潔だといって。だから私は家を出て、今のワンルームマンションに引っ越しちゃった。弟も今は大学で京都に行っちゃったけど。少しでも姉貴と離れたいといって、地元じゃなく、京都の大学に行っちゃったんだ。私のこと、汚いものでも見てるみたいで。昔はあんなに仲がよかったのに」
 ルミが家族との軋轢(あつれき)を語った。ルミは淡々と話しているけれど、心の中は穏やかではないはずだ。その話はみんなもすでに知っていることだが、やはり家族といえども、タトゥーをしてしまうと、うまくいかないことがあるのだということを、再認識させられた。
「私も左肩の蝶、できるだけ家族にばれないようにしなくちゃあ。見つかったら見つかったときで、開き直るけど」
 ケイもなるべく家族にはタトゥーを隠しておくつもりだった。

 三が日が終わったばかりで、客足はやや鈍かった。それでもミクには三人の常連客があった。それ以外にもフリーの客が二人、店のアルバムを見て、ミクのタトゥーに惹かれ、指名した。その二人も、ミクの華麗なタトゥーと心をこめた接待に夢中になり、また指名する、と言ってくれた。
 客の口約束は、あまり当てにはできないが、ミクの場合、リピーターが多かった。
 正月早々五人も接客し、美奈はくたくただった。でも、五人のお客さんはみんな満足してくれた。私は日々の仕事や生活に疲れたお客さんの、砂漠の中のオアシスなんだ、とルミの言葉を借りて、仕事にプライドを持とうと思った。

 この日は四人とも、定時の午前〇時に店を出た。美奈の車で、よく利用する深夜営業のファミレスに行き、改めてミドリに挨拶をした。
「ミドリさん、勝手に卒業なんて、ずるい」とルミが口を尖らせた。
「ごめんね。実家の方で、付き合っている人がいて、先日、結婚しよう、と言ってくれたの。彼、静岡だし、結婚してこの仕事続けるわけにもいかないし。みんなには申し訳なかったけど、辞めて静岡に帰る決心をしたの」
「でも、急だったんで、電話をもらって、私もびっくりしたわ。ミクなんか、ミドリが辞めると聞いて、泣き出しちゃったのよ」
「ほんとにごめんなさいね。でも、オアシス辞めても、私たちの友情は変わらないわ。これからもときどき会いましょう。静岡は風光明媚なところだから、ぜひ遊びに来てね」
「私たち、これからもずっと親友、ってことで、友情の証に三人、同じマーガレットのタトゥーをすることにしたんだけど、ミドリさんもどうですか?」とルミが尋ねた。
「え、マーガレットのタトゥー?」
 ミドリは漫画雑誌のマーガレットを思い浮かべた。漫画のキャラクターでも彫るのかしら、と。
「花言葉は、『真実の友情』なんです」と美奈が説明した。
「あ、花のマーガレットね。真実の友情か。すてきじゃないの。でも、私は、彼のこと考えると、タトゥーはちょっとね。彼の許可が出れば、彫ってもいいけど」
「うん、無理することない。私たちはもうタトゥーが入ってるから、かまわないけど、これから結婚するミドリには無理言えないから」
「なんだか私だけのけ者にされそうね」
「そんなことないよ。そんなひがみっぽいこと言うなんて、ミドリらしくない。私たち四人、これからもずっと親友、仲間だよ。ところで、彼の名前、何ていうの?」
「彼、中村秀樹、というの」
「へえ、それじゃ、もうすぐ日野葵から中村葵になるんだ」
 葵というのは、ミドリの本名だった。青いという色からの連想で、店での源氏名をミドリ(美登里)と名乗っていた。
 ケイは西村恵(めぐみ)の恵を単純に音読みした。名刺の漢字表記では「圭」という字を使用している。
 ルミ(瑠美)は本名を高橋さくらという。同じ姓の人気漫画家の名前を借りた名前だった。仲間には、さくらという上品な名前より、活発なイメージがあるルミのほうが合っている、と言われている。
 ミク(未来)は美奈の幼いころの呼び名、ミー君からとった源氏名である。
 ミドリは実家に帰っているとき、彼と三保の松原や日本平、久能山東照宮に行ったことを話した。
「羽衣伝説のある三保の松原で、彼からプロポーズを受けたのよ。天女は羽衣を纏い、天に帰ってしまったけど、僕の天女はずっと僕のそばにいてほしい、って」
「わあ、すごいプロポーズ。妬ける妬ける」とケイがひがんでみせた。
「ミドリのおのろけ話はもういいわ。ご馳走様。そういえば、ミクの話って、どうなってるの?」
 他の三人は以前ミクから聞いた、客からプロポーズをされた、という話を気にしていた。人のいいミクが、海千山千の男に引っかかっているのではないか、と心配していた。
「安藤さんのことですね。ときどき誘いが来て、会ってますが、最近、どうもしっくりいかないんです」と美奈は答えた。
「彼が冷たくなったの?」とミドリが訊いた。
「いえ、彼は熱心に誘ってくれるんですが、最近私のほうが、何となく彼が信頼できなくなって」
「何かあったわけ?」とケイが言った。
「いえ、彼はいつも優しくしてくれるんですけど、なぜか素直に彼を受け入れられないんです」
 千尋の遺体が発見され、美奈はひょっとしたら安藤は殺人犯かもしれない、という疑惑を抱くようになった。しかし根拠は何もない。千尋の霊だって、はっきり私は安藤に殺された、と言ったわけではない。ただ、元日に外之原峠で発見された遺体が自分のものだ、という示唆をしただけだ。
 千尋はいつも悲しい顔をしている。にっこり笑うこともあるが、まれだった。言葉を発したのは、美奈が車で事故に遭いそうになったとき、直前にスピードを落とせと警告してくれたとき一度である。そのとき注意してくれなければ、おそらく美奈は今こうして生きてみんなと話をしていることはなかった。
 千尋が微笑んだのは、事故から救ってくれたお礼を言ったときと、遺体が見つかり、それは千尋さんのですね、と問うたときの二度だけだった。
 この微笑みを、肯定の返事だと美奈は理解した。それにあのとき、はっきりと頷いた。しかし、だからといって、安藤が千尋を殺して埋めた犯人だとは言っていないし、勝手に決めつけるわけにもいかない。にもかかわらず、ひょっとしたら安藤が……という疑惑がなぜか美奈の胸に湧き上がってくるのだった。
 もっとはっきり教えてください、と千尋に頼んでも、千尋は悲しそうな顔をするだけだった。千尋の霊は言葉を発することができないのだろうか。でも、自動車事故から救ってくれたときは、はっきりと、危ない、という言葉が頭の中に響いたのだ。だからこそ私もスピードを落とし、間一髪事故を免れた。だから千尋の霊はしゃべれないはずはないと思うのだが。それが口から出た言葉でなく、テレパシーのようなものだとしても。
 美奈はこの場で千尋の幽霊のこと、安藤への疑惑など、話そうかとも思ったが、やめておいた。はっきりした根拠もなく、安藤の殺人の疑惑を話すわけにはいかなかった。
「それならこの話、はっきり断ったほうがいいかもしれないね。もうミクも、ずいぶん成長して、人を見る目もできただろうし」
 ミドリのこの一言で、安藤の話は打ち切りとなった。
「ねえ、ミドリが卒業する前に、みんなでどこか泊まりで旅行に行かない? 私たち、まだ一度も泊まりがけで旅行に行ったことないからさ」とケイが提案した。
「賛成。私、みんなと高山の街を歩いてみたい」とルミが言った。
「私は京都や奈良に行きたいな。名古屋の小学校は、修学旅行で京都、奈良に行くことが多いけど、私の小学校では、静岡だったから、まだ奈良には行ったことがないの。一度古都奈良に行ってみたいな」とケイが別の案を出した。ケイは岡崎市の小学校を卒業しているが、その小学校では、修学旅行の行き先は浜松、静岡だった。岡崎にゆかりがある徳川家康に因んでの選択だった。
 それ以外にも、馬籠(まごめ)・妻籠(つまご)や鄙びた温泉地など、いくつか候補地が出されたが、「高山がいいわね。名古屋から比較的近いしね。高山にしない?」と主役のミドリが結論した。
「最近温泉はタトゥーお断り、っていうところ、多いから、今回は温泉地より、高山の街をのんびり散策しましょうよ」
 美奈は入社した年の夏に参加したマルニシ商会の社員旅行で、高山より手前の下呂(げろ)温泉に泊まったことがある。まだタトゥーを入れる前だった。だが高山まで足を伸ばしたことはなかった。だから、高山にはぜひ行ってみたかった。
 三月に、ケイの車で行こう、ということになった。ミドリが自分のクラウンで、と提案したが、「今度の旅行はミドリが主役なんだから、主役に運転なんてさせられないよ。私ので行こう」とケイが押し切った。
「それに、山道で雪も残っているかもしれないし。運転はへたっぴなミドリより私のほうが上よ」
「言ったなあ、こいつ。私の免許証、ゴールドなのよ」と、ミドリはケイの背中を軽くはたいた。
 美奈も「私の車、提供してもいいですよ」と申し出たが、「ミクの車は軽だから、四人で高山はちょっときついよね。いいよ、私のミニバン出すから」とケイが断った。
 旅行の日にちは近日中に決めるということで、ファミレスでの話はお開きとなった。
 美奈は三人を車で自宅に送ってから、高蔵寺の自宅へと向かった。