売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『地球最後の男――永遠の命』 第3回

2015-06-29 14:12:56 | 小説
 掲載する間隔が少し開いてしまい、申し訳ありません。『地球最後の男――永遠の命』第3回を掲載します。
 最近、また新作の執筆を再開しました。先日、短編を仕上げ、今少し長めの短編、中編とでもいいましょうか。それを書いています。
 『幻影』シリーズの美奈や『ミッキ』の美咲もまた活躍させたいと考えています。
 しばらく体調を崩していましたが、これから頑張りたいと思います



 事故から一ヶ月が経った。田上はすっかり快復し、もう出社している。手術のときに剃られた髪は、だいぶ伸びている。病院に担ぎ込まれたときは、医師ももう絶望的だと考えていたのだが、信じられないほどの早さで回復したのだった。頭部の損傷による後遺症が心配されたが、杞憂に終わった。
事故以来、亜由美と田上の仲は急速に接近した。田上はもともと亜由美のことを好いていた。亜由美も田上がひょっとしたら死ぬかもしれない、という事態に陥り、それまで単なる職場の同僚だとしか思っていなかった田上が、実は自分にとって、特別な存在だったということに気付いたのだった。
 事故から復帰した田上は、非常に仕事ができるようになった。今までは可もなく不可もなし、という成績、勤務状況だったのが、事故を境に、熱心に仕事に打ち込むようになった。同僚たちは、「ひょっとして臨死体験をして、人生への価値観が変わったんじゃないのか? そういう話って、よく聞くよな」とからかった。
「別にそんなことではないけどな。ただ、事故に遭って人事不省になっているときか、その前だったかよくわからないけど、夢の中で悪魔に会ったみたいな気がするんだが。どんな夢だったかは、覚えていないんだ。まあ、そんな夢はどうでもいいけど」
「へえ、臨死体験だと天使や、死んだ家族や友人に会うと聞いていたけど、田上の場合は悪魔なのか。だから悪運が強いんだな」
 同僚たちは冗談を言いながらも、彼の変容ぶりには驚き、一目置いていた。亜由美はそんな田上にますます惹かれていった。

 一年後、田上と亜由美は結婚した。かねてから亜由美に好意を持っていた田上は、天にも昇るような気持ちだった。その結婚は、会社の上司からも、同僚たちからも、そして二人の両親、家族からも祝福され、田上は幸福の頂点にいた。
新婚当時の田上は、確かに幸せだった。亜由美は田上に恋をして、ますます美しさに磨きがかかり、一緒に歩いていると、すれ違った男たちが田上に羨望のまなざしを向けていることがよくわかった。亜由美は性格がきついところがあるが、それもやや気弱な田上を補っていて、まずは幸福な家庭だった。
 亜由美は結婚後二年は盛東商会に勤めていたが、出産に備えて退職した。M市内にマンションを購入し、そこに移り住んだ。
 だが、二人には子供ができなかった。結婚後五年経過しても亜由美は妊娠しなかった。それで、病院で検査を受けると、不妊の原因は田上のほうにあった。子供ができないことにより、二人の心は少しずつ離れていった。一〇年もすると、単なる同居人でしかなかった。それでも二人は離婚をしなかった。盛東商会では田上はどんどん昇進し、三〇代の若さで、常務取締役にまで出世した。盛東商会では、異例の早期昇進だった。彼は生死をさまよう事故に遭って以来、別人のように働き、社内でどんどん地位を上げていった。また、その昇進に見合うだけの実力も備えていた。
 だから亜由美は経済的な理由からも、決して田上とは離婚をしようとはしなかった。最初のうちは子供ができないことを寂しく思っていたが、やがてどうでもよくなった。
 田上は夫婦としての愛情は徐々に冷めていったが、外見がいい亜由美が自慢の種だった。夫婦連れだって歩いているだけでも、街ゆく人の目を奪う亜由美に不満はなかった。
 しかし、三〇代の後半になると、亜由美は加齢による容姿の衰えがだんだんと目立ってきた。それに引き換え、田上は結婚当時とほとんど変わらない若さを保っている。亜由美は自分だけが年を取っていくことが不条理に思え、金に糸目をつけず、エステティックサロンに通ったり、高価な化粧品を使ったり、いろいろなサプリメントを試したりした。服装や装飾品にも金を使った。そんな亜由美を、田上はやんわりとたしなめた。
「雄一、何であなたばかりが年を取らないのよ。まさかこっそりドラゴンボールを集めて、神龍(シェンロン)に不老不死でも願ったんじゃないでしょうね?」
 亜由美は冗談を交えながらも、田上に食ってかかった。自分だけが年を取り、田上がいつまでも若々しい外見を保っていることが、亜由美には不満だった。
「さあ? 特にこれといったことはしていないけどね。まあ、多少は個人差があるんじゃないかな? 俺もそのうち、さえない中年のオジサンになるよ」
 田上は当たり障りのない返事をしておいた。しかし亜由美はその言い方がいつも気に入らず、若返りのために、金を湯水のように使った。いくら会社の重役となり、経済的に余裕があるとはいえ、妻のそのような浪費は気になった。
「人間、年を取るのは自然の摂理だから、仕方ないじゃないか。もちろん俺だって、妻には若くいてほしいんだけど、あまり無駄に金を使わないでほしいな。いくら稼いでも、それじゃあたまらないよ」
ときどき田上は、亜由美に意見した。
「あなたも一緒に年を取っていくならいいわよ。でも、あなたはいつまでも若々しさを保っているわ。それが私には我慢がならないのよ。子供もいないし、多少の贅沢はさせてよ。子供ができないのは、あんたのせいだからね」
 あなたがあんたに変わり、亜由美は不満をぶちまけた。

 さらに何年かが過ぎた。亜由美はだんだん太っていった。しかし田上の体型は引き締まっている。そんな田上を見て、亜由美はさらにいら立った。若々しい夫を誇る気持ちには、全くならなかった。
  「あんたは化け物よ」と亜由美は田上をなじった。田上はあえて相手にならないでいた。
 四〇代の半ばになっても二〇代と全く変わらない若々しさを保っている自分に、田上はさすがにおかしいと考えるようになった。最近受診した人間ドックでも、田上は医師から、二〇代の体力だと折り紙をつけられた。彼は本当にどこにも異常はないのかと念を押した。
  「異常といえば、四五歳だというのに、二〇歳でも通用するぐらいの、あまりにも若々しい肉体だということぐらいかな」
医師はそう笑うだけだった。
 田上は乗ったバスが事故を起こした日の未明に見た夢のことを思い出した。もう二〇年以上前のことで、記憶は曖昧になっているが、そのとき悪魔だと名乗る黒い影に、不老不死を願ったように思う。以前亜由美が冗談半分に、人気アニメに登場する神龍に願ったのではないでしょうね、と言ったことがあるが、神龍ではなく、悪魔だったのだ。不老不死と共に、亜由美と結婚をしたいということも願ったようだ。そしてその何時間か後に事故に遭い、絶望的な状況から奇跡的な快復がかなったのである。その事故が縁となり、亜由美とも急接近し、やがて結婚した。
 しかしまさかその夢が事実だとは思えなかった。悪魔などこの世に存在するはずがなく、それ以上に不老不死などあり得ない。それは単なる夢でしかないはずだ。事故で死ななかったのも、たまたま運がよかったからだ。若い体型を維持しているのは、自分が老けにくい体質なのだからだろう。田上にはそれを確認するために、わざと瀕死の重傷を負ってやろうと考えることもあったが、とても実行する勇気はなかった。
その夢が事実ならいいが、もし単なる夢でしかなかったのなら、大変なことになる。それに痛いのもいやだった。もし不老不死になっているのなら、やがてそのことがはっきりするので、ここでわざわざ危険を冒して試す必要はない。
 亜由美は夫への当てつけか、浪費はさらに激しくなった。いくら会社の重役となり、収入が多くなったとはいえ、盛東商会も大企業ではない。常務取締役といっても、収入は知れている。田上はそんな亜由美に、嫌悪感を抱いた。
「そんなに年を取らない俺がいやなら、もっと君にふさわしい男(ひと)を探すほうがいいんじゃないか? 子供もいないんだし。もちろん君が経済的に困らないよう、十分な配慮をするよ」
田上はそれとなく離婚をほのめかした。そのほうがお互いにとっていいのではないか、と田上は考えた。しかし亜由美は頑として離婚には応じなかった。亜由美は若作りの夫を困らせることに、意地のわるい悦楽を感じているようだった。結婚した当時は、気が強い面はあったものの、人をいたわる優しさを持っていた亜由美はどこへ行ってしまったのか、と田上は嘆いた。せめて子供でもいれば、こんなことにはならなかっただろう。子供ができないのは、自分に原因があるのだから、と田上は亜由美のわがままに耐えた。


『地球最後の男――永遠の命』 第2回

2015-06-20 21:42:18 | 小説
 このところ九州や関東では激しい雨のニュースをよく聞きますが、なぜか私が住んでいる名古屋近辺では、あまり雨が降っていません。天気予報で雨が降ると言っても、あまり降らず、最近傘をさすこともありません。
 梅雨もこれからが本番なので、大雨には警戒しなければならないとは思いますが。

 今回は『地球最後の男――永遠の命』の2回目の掲載です。


           1 塞翁が馬

 田上雄一(たがみゆういち)は目を覚ました。何か変な夢を見たような気がする。あまりすっきりしない気分だった。どんな夢か思い出そうとしたが、思い出せそうで思い出せない。何となくいらいらするような気分だ。まあ、夢のことなど、どうでもいいや、と田上は思った。
 田上は朝食をトーストとコーヒーで済ませ、洗顔や整髪など、身だしなみを整えて家を出た。田上は勤めているOA機器の商社に向かった。徒歩と路線バス、私鉄の乗車時間を合わせ、職場まで一時間以上かかる。もう少し勤務先に近いところに住みたいとは思うが、今田上が入居しているA県F市の郊外のアパートは、2DKの間取りで、けっこう家賃が安かった。スーパーマーケットや診療所なども近くにあり、住み心地はわるくないので、なかなか引っ越そうという踏ん切りがつかなかった。
 田上は自宅の近くのバス停に立った。
 それほど待つこともなくバスが来て、田上は乗り込んだ。乗車するのは一〇人ほどだ。サラリーマンや高校生など、顔ぶれはほぼ決まっている。田上が乗るバス停は起点の近くで、駅から遠いため、まだ席は空いている。田上は座席にかけた。昨夜はなぜか熟睡できなかったような気がして、田上は頭が重かった。だから、田上は座席に着いて、目を閉じた。
 バスが私鉄の駅に近づいたころ、大きなクラクションの音や急ブレーキのショック、そして激しい轟音がした。バスの乗客は悲鳴をあげた……。

 A県の県都、M市の都心からやや外れた盛東(せいとう)商会では、田上が出勤していないことに、重役たちはいらだっていた。今日は朝九時半より、販売促進のための会議がある。それなのに、田上はまだ出社していなかった。遅刻や休暇の連絡もない。
 販売部第二課長の吉川(よしかわ)は、田上抜きで会議を始めることにした。田上は資料を用意することになっていたが、これ以上待ってはいられなかった。重要度では、田上の資料はそれほど高くはなかった。しかし、吉川の不機嫌は収まらなかった。
 会議が終わったとき、第二課で庶務を担当している谷村亜由美が、「課長、大変です」と会議室に飛び込んできた。
 「どうした? 谷村君」
 「先ほど、田上君が乗っていたバスが、トラックとぶつかり、多くの死傷者を出したようなんです。私もテレビのニュースを確認しましたが、たぶん田上君が乗っているバスです。だから、今日は連絡もできなかったんです」
 亜由美は血相を変えて、課長の吉川に報告をした。
 「なに、田上が乗っていたバスが事故だと?」
 吉川も少なからず驚いた。
 「はい。田上君の通勤経路を確認しましたが、間違いなさそうです。まだ警察からは連絡がありませんが、乗客の身元が確認できれば、おそらく照会が来ると思います。課長、どうしましょうか? これからF市の警察署に行きましょうか?」
 亜由美は一刻も早く田上の安否を確認したかった。
 「いや、まだ田上が事故に遭ったかどうか、わからないのに、Fまで行くことはできん。風邪か何かで休んでいるのかもしれんし。田上かどうか、警察から連絡があるまで、待つしかないな」
 はやる亜由美に対し、吉川は冷静だった。
 「でも、田上君が自宅にいないことは確かです。私も田上君の自宅に何度も電話してみました」
 田上は単身でアパートに住んでいるため、同居家族はいない。そのころはまだ携帯電話がなかった。
 亜由美はF市の警察署に問い合わせてみた。けれども現在犠牲者等の身元を確認中で、まだ問い合わせに応じることができないとのことだった。
 亜由美は田上雄一の身の上が心配で仕方なかった。なぜこんなに田上のことが気にかかるのだろうか? 確かに同じ課の所属で、いつも気軽に話をする仲ではある。しかしそれは単に職場の仲間としての関係でしかない。これまで田上のことを、特定の異性として意識したことはなかった。だが、ひょっとして田上がバスの事故で死んだのではないか、と思うと、気が気でないのだ。ただ、亜由美は同じ課の仲間が死んだのかもしれないという状況なので、気になるのは当然だと思い込んでいた。

 それから一時間ほど経過した。盛東商会の販売部第二課に一本の電話がかかってきた。
 「こちらはF警察署の者ですが、先ほど貴社の谷村亜由美さんより田上雄一さんのことで問い合わせがあった件について、お答えいたします」
ちょうど電話を受け取った亜由美が、「はい、私が谷村ですが、田上はどうだったのでしょうか?」とはやって尋ねた。その後のニュースでは、死者一二名、重軽傷者二五名と言っており、田上のことが心配だった。田上が乗り込んだときには、バスはまだ乗客は少なかったが、終点近くでは満員となっていた。テレビのニュースで、死者の中に田上の名前がなかったので、亜由美は一縷(いちる)の望みを抱いていた。
 「お尋ねの田上雄一さんですが、最も被害が大きかったバスの真ん中あたりに座っていたため、意識不明の重体で、予断を許さない状態です。ただいま、事故現場近くの城山病院の集中治療室で治療を受けていますが、面会謝絶となっております」
ここまで聞くと、亜由美は受話器を落とし、その場にへたり込んで、放心状態となった。その状態を見て、何事かと怪訝(けげん)に思った吉川は、受話器を拾い、電話に対応した。警察からの電話のようだったが、田上の身に何かよくないことが起こったのだろうか。
 「私は田上の上司で、吉川と申します。田上に何があったのでしょうか?」
吉川は亜由美を見て、田上はよほどひどい状態となっているのだろうと覚悟した。ひょっとして、死んだのかもしれない。そのように事前に心構えができたので、亜由美より冷静に対応することができた。
吉川は係長の結城(ゆうき)に、F市の城山病院に、電話で田上の様子を確認させた。かなり待たされた後、担当医より状況は楽観できないことを知らされた。特に頭部の損傷が深刻で、緊急手術を終えたところだということだった。吉川はG県に住む両親に、田上のことを連絡した。電話に出たのは母親だった。彼女は吉川の報告に、かなり取り乱していた。夫が戻り次第、城山病院に駆けつけると言った。

 一時は絶望的な状態だった田上だが、信じられないほどの生命力で、ぐんぐん回復した。そして一週間後には、退院ができるほどだった。田上の治療を担当した医師は、奇跡としか言いようがないと驚嘆した。
 亜由美は事故が起こった日の午後、会社を早めに出させてもらい、城山病院に状況を聞きに行った。電話で問い合わせるより、直接聞くほうがいいだろうと課長の吉川も判断し、亜由美を病院に向かわせた。そのころには、亜由美も平静を取り戻していた。
 亜由美は病院のナースセンターで、田上の会社の同僚であると身分を告げ、状況を尋ねた。主任の看護師は、田上は驚異的な生命力で危険な状態を脱し、もう何の心配もいらないことを告げた。それを聞いた亜由美は、安心して身体中の力が抜けてしまい、危うく倒れそうになった。看護師の一人が、亜由美に「大丈夫ですか?」と声をかけた。
 亜由美はなぜ自分は田上のことで、こんなにも動揺しているのだろうと思った。午前中、警察から田上のことを、「予断を許さない状態」と言われたときは、全身の力が抜けて、思わずその場で尻餅をついてしまった。今度は、もう何の心配もいらないと聞き、安堵の念で放心して、一瞬気が遠くなった。
 これまで、仲がいい同僚という以上でも以下でもないと思っていた田上なのに。
 亜由美は課長の吉川に、田上の手術はうまくいき、もう大丈夫だということを報告した。
亜由美は看護師の許可を得て、田上がいるICUに入った。そこには田上の両親が来ていた。田上はまだ麻酔が効いているのか、眠っていた。頭に巻かれている包帯が痛々しかった。亜由美は田上の両親に、自分は会社の同僚で、いつも親しくしてもらっていると告げ、挨拶をした。
「雄一のことでわざわざ来てくださり、ありがとうございました。雄一はもう大丈夫です。今はまだ麻酔が効いていて、眠っていますが。本当に運がいいやつですよ」
 父親が亜由美ににこにこ笑いながら言った。イントネーションに少し訛りを感じた。父親はどうやら亜由美のことを、恋人と勘違いしているようだ。しかし今の亜由美は、本当にそうなってもいいな、と考えていた。今回の事故で、自分の田上に対する素直な気持ちがわかったような気がした。これまでは仲のいい同僚ではあっても、恋愛対象だとはあえて考えていなかった。
結局その日は田上はずっと眠っていて、話すことはできなかった。しかし、亜由美は田上の安らかな寝顔を見ただけで満足だった。夕方、課長の吉川も病室に田上の様子を見に来て、両親と話し合っていた。

『地球最後の男――永遠の命』 第1回

2015-06-10 00:17:42 | 小説
 今年も梅雨入りし、うっとうしい季節になりました。でも、今の時期、雨が降らないと、農業に支障が出ますし、水不足にもなります。
 最近、体調が優れなかったので、昨日、病院で検査を受けました。詳細な結果が出るのは少し後になりますが、胃にいくつかポリープができていたようです。良性だったので、一安心でしたが

 今日から週1回ぐらいのペースで、『地球最後の男――永遠の命』を掲載します。
 昨年文庫本で出版して、まもなく一年になります。
 

 なお、このブログに掲載する文章は、加筆修正などしてあり、文庫本のものとは一部相違した部分があります。

 

            プロローグ 不思議な夢


 男の前に、何か影のようなものが飛んできた。突然目の前に現れた黒い影に、男は思わず後ずさりをした。
 「心配することはない。私はおまえに危害を加えるつもりはない。私はおまえと取引するためにやってきたのだ」
 その影は言った。
 「取引だと? そもそもおまえは誰なんだ?」
 「私は悪魔だ。おまえの魂と引き替えに、どんな望みでも三つかなえてやろう。どうだ、私と契約する気はないか?」
 「悪魔だと? 三つ望みをかなえるだと? 魂と引き替えだと? 願いをかなえてもらった場合、魂はどうなるのだ? いっときの願いがかなう代わりに、永遠に地獄で苦しむのでは、わりが合わないぞ。まあ、俺の場合は死後の生とか、魂や霊の存在など、信じてはいないが」
 その男は悪魔と名乗る影に言った。
 「魂や死後の存在を信じていないなら、いいではないか。私と取引をしないか?」
 「そのありもしない魂をおまえに与えることと引き替えに、どんな望みでも三つかなえてくれるというのか。悪くはない話だな。しかし、もし本当に魂があった場合、ちょっと不安だな。死後、おまえにやるといった魂はどうなるのかね?」
 「死後の生を信じていないなら、説明する必要はないだろう。しかしお望みなら教えてやってもいいぞ」
 悪魔は男に問いかけた。
 「ああ、いちおう聞いておきたいな」
 男は悪魔に要求した。
 「死後、おまえは私の忠実な僕(しもべ)となり、私のために働くのだ。神との戦いなどにも従事してもらう。悪魔も肉体を持っているので、直接神と戦っても歯が立たない。肉体を持たない神と戦うには、どうしても魂だけになった存在が必要なのだ。私が死ねば、魂は解放される。それまでは少し辛抱してもらうことになる。まあ、悪魔の寿命は、人間よりははるかに長いがな。しかし、悪魔に魂を売ったものは、解放されても、地獄行きだ。もっとも人間の多くは死後、地獄行きだから、どうせ地獄に堕ちるなら、生きている間に少しでもいい思いをする方が賢明というものだ」
 「悪魔でも死ぬのかね?」
 「そりゃ、肉体を持って生きているものはいつかは死ぬときが来る。たとえ悪魔や天使でもね。肉体がない神や霊は永遠の命を持っているがね。願いの一つはかなえた。残るはあと二つだ」
 「おい、待てよ。今ので一つか、それじゃあひどいじゃないか。詐欺みたいなものだ」
 「おまえがどうなるか聞いておきたいと言ったので、願いの一つとして、教えてやったまでだ。一つかなえたことにより、もう契約は成立している。残りの願いをあと二つ言うがよい」
 「そんな、勝手なことを。まだ契約するとは言っていなかったのに。しかし、もう契約が成り立ってしまったのなら、悪魔に逆らっても仕方ない。それなら今いちばん望んでいることは、亜由美と結婚したいということだが。彼女は俺に好意は持っているが、その好意も職場の同僚としてのもので、恋人としては意識していないようだ。だが俺はどうしても彼女と一緒になりたい。できるか?」
 「そんなことはたやすいことだ。これでおまえは近いうちに彼女とうまくいくようになるだろう。では、最後の望みはどうする? 今思いつかないなら、また後日でもいいぞ」
 悪魔にそう言われ、男は少し考えた。かなえられる望みはあと一つ。よく考えてみると、亜由美との結婚は少しまずかったかなと思った。確かに亜由美は魅力的な女性だが、この世にはさらに魅力的な女性がいくらでもいる。悪魔の力を借りれば、どんないい女でも、お望み次第だったのだ。最初の願いはくだらないことに使ってしまった。まさに詐欺だと文句を言いたいぐらいだ。残された願いはあと一つ。今度こそくだらないことに使わないようにしたい。
大金持ちになるか、それとも世界の支配者にしてもらうか。悪魔が示唆したように、今思いつきで望みを言うのではなく、時間をおいてじっくり考えるべきだろう。
 男は、それではよく考えて、後ほど願いを言おうと悪魔に告げようとした。
 そのとき男はふと気がついた。「後ほど」と考えたとき、時間の観念が頭の中をよぎった。人間はいくら幸福になったとしても、とどのつまりは死ななければならない。どんな願いをかなえたところで、いつかは死んでしまうのだ。そして、自分の場合は、死んだ後は、永遠といわないまでも、かなり長い間魂は悪魔の奴隷になってしまうという。それに、解放されたとしても、地獄行きだ。
 そのことを考えると、恐怖が男の全身を突き抜けた。男は死にたくないと思った。
 そうだ。人間の最大の望みは、いつの時代でも不老不死。秦の始皇帝も不老不死を求め、結局はかなわなかったのだ。始皇帝に命じられ、不老不死の霊薬を探し求めた徐福(じょふく)の伝説は、日本にもある。いつかは自分自身も必ず死んでしまうのだ、と思うと、恐ろしい。自分がこの世から消えてなくなってしまう、全くの無に、永遠の闇になってしまうと考えると、気が狂いそうになる。たとえ地獄があろうがあるまいが、死にたくはない。男は不老不死を手に入れようと思った。
 しかし、先ほど悪魔は言った。「肉体を持って生きているものはいつかは死ぬときが来る。たとえ悪魔や天使でもね」と。悪魔でさえ、肉体がある以上は、いつかは死ななければならないのだ。それでも悪魔のように長い間生きていられればいい。悪魔の肉体が滅するまで自分も生きていれば、悪魔に俺の魂を奴隷のようにこき使われなくてもすむ。
 「待ってくれ。最後の願いを言おう。三つ目の願いは、俺を不老不死にしてくれ。できるか?」
 「不老不死。できないことはない。だが、それはやめておいたほうがいい。いつかきっと後悔する。私ですら、不老はともかく、不死になりたいとは思わないのだから。死というものは、ある意味、究極の救いなのだ。たとえ地獄に堕ちることになったとしても。地獄に堕ちても、長い年月はかかるが、いつかは抜け出して、高い霊界に行ける。せめて不老長寿にしておけ。これは私の良心から言っているのだ。悪魔が良心というのも矛盾しているかもしれないが」
 悪魔は男に不老不死だけはやめるように忠告した。
 「一つ目、二つ目の願いなら、それはかなえよう。なぜならば、残りの願いで、死なせてくれ、という願いをかなえることができるからだ。だが、おまえの場合は、死にたくなったとしても、もう死ぬという願いをかなえることはできないのだ」
 悪魔は男を説得しようとした。だが、男は聞き入れなかった。
 「いや、不老不死こそ、人間究極の願いではないか。なぜ後悔するのだ? そもそも本来なら三つあるはずの願いが、二つになってしまったのは、おまえの詐欺みたいな話術のせいではないか。ひょっとしたら、不老不死にすれば、魂をおまえのものにすることができないから、そう言うのではないか? 俺は決めたぞ。最後の願いは不老不死にする」
 男は悪魔にそう宣言した。
 「わかった。私はおまえのためを思って忠告してやったのだが、聞き入れようとはしなかった。おまえの願いはかなえるが、どんなことになろうとも、決して私を恨むなよ」
 悪魔はそう言い残して消えた。
 不老不死になって、後悔するはずがない。これこそ人類究極の願いなのだ。永遠の生命さえ手に入れば、どんなことでもできる。時間をかけさえすれば、世界を征服することさえ可能かもしれない。なんといっても、戦争を起こして失敗しても絶対死なないのだし、時間はいくらでもあるのだ。