売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

秋の気配

2012-08-29 16:20:11 | 小説
 8月も今日を含めてあと3日。今年の夏も暑かったのですが、暑い中にも、秋の気配も漂い始めました。

 あれだけ騒がしかったセミの鳴き声も、最近はややおとなしくなり、ツクツクボウシの鳴き声が混じってきました。
 
 最近夜は部屋の気温が連日30℃を切り、今月初めのように暑くて眠れない、ということもなくなってきました。

 しかし長期予報では、9月は残暑が厳しいようです

 今回は『幻影』第14章を掲載します。




            14

 その年の末、ケイは卑美子のスタジオで、背中の左側、肩胛骨のあたりに、羽を広げた青いアゲハチョウを入れた。美奈が左足に華麗な鳳凰を彫るところを見学したときに、予約を取ったのだった。

 美奈は図柄のことで、卑美子のスタジオに、ケイと一緒に打ち合わせに行った。応対したトヨに、まだ自分の身体に入っていない新しい絵がいい、と希望を告げた。美奈のイメージとしては、鳥を考えていた。
 ハチドリや鷲、アメリカンタトゥーふうのツバメなどの下絵を見せてもらったが、今ひとつピンとこなかった。
「こんなのもどうですか?」
 トヨが和風の図柄の中から、鳳凰を集めたファイルを持ってきた。
 いろいろな鳳凰の絵を見ているうちに、美奈は是非これを彫ってみたい、という絵を見つけた。サイズは最初に考えていた鳥の図柄よりはずっと大きくなりそうだ。足首に、と思っていたが、その鳳凰だと膝の関節の下から足首まで達してしまいそうだった。もちろん大きさは多少小さくすることはできるとはいえ、せっかく鳳凰を彫るのなら、堂々としたものを彫りたかった。美奈はその旨をトヨに告げた。
 卑美子は休憩時間に待合室に来て、美奈の希望を聞いてくれた。そして、美奈の左足のサイズに合わせた下絵を準備しておく、と言った。運よく二週間後の月曜日の夜六時からが空いていたので、そこに予約を入れてもらった。三時間の枠では完成は無理なので、深夜まで延長してくれるという。二回に分けると、その次はずっと先になってしまう。
 卑美子のスタジオは、営業時間としては、正午から午後九時までだが、客の都合に合わせて、かなり融通してくれる。
 最近、タトゥー雑誌に卑美子の特集やインタビューが何度も掲載されて、卑美子の名声が全国に広まり、なかなか予約が取りにくくなっている。今や近県からのみではなく、関東や関西から彫りに来る客も珍しくはなかった。予約はもう二ヶ月先まで、大部分が埋まっていた。夜九時以降の予約も多い。
 月曜日は美奈は、四日連続勤務の後なので、祝日以外は必ず公休日にしている。今は金曜日も毎週出勤している。ケイは月曜日に出勤することも多い。予約の日はケイも公休日になっていたので、一緒に行くことができた。ケイはもう自分の身体に、タトゥーを入れることを決意していた。

 予約した日、美奈ははやる気持ちで卑美子のスタジオに行った。すでに身体中に大きく彫っていても、新しい絵を入れるとなると、心がときめいた。
 ケイと近くの喫茶店で待ち合わせて、スタジオに行った。軽くサンドイッチで食事を済ませてきた。終わるのは深夜になる。
下半身下着だけになり、左足の産毛を剃毛した。美奈は体毛はそれほど濃いほうではないが、タトゥーの施術のときには、産毛をきれいに剃毛する。それから足に下絵を合わせた。新たに描き起こした、翼を広げて舞い上がる鳳凰の絵は十分満足のいく出来栄えだった。大きさは膝の関節の下から、足首まで達するものだった。
 下絵ができたという連絡をもらい、美奈は事前に絵を見せてもらっていた。大きさも拡大、縮小コピーしたものをいくつか足に当て、もう決めてあった。だから、その日は彫る位置を確定し、そのまま転写シートで肌に写し取るだけでよかった。転写された鳳凰は、一部手描きで修正された。
 ケイはしばらく美奈が彫られている場面を見学していたが、彫る図柄や場所を相談するために、トヨと奥の洋室に行った。最近はトヨが力をつけてきているので、デザインなどの相談はまずトヨが受けることになっていた。事前にトヨが客の彫りたい絵のイメージを引き出し、卑美子との打ち合わせを円滑に進めるためだ。そして休憩中や施術後など、卑美子が空いている時間に、客と卑美子、トヨの三人で話し合って彫る場所やデザインを決めるというシステムにしていた。それは卑美子が多忙になり、十分に相談に時間が割けないときがあるからだった。そして、トヨに経験を積ませるためでもあった。ただ、最終的に下絵を作るのは、卑美子自らがやっていた。
 トヨは空いている時間には、奥の部屋で絵の勉強をしていた。
 ケイは肩の後ろのあたりに花か蝶を彫りたい、と希望を言った。また、セクシーな女性の天使や人魚の絵なども候補に挙げていた。
 トヨから花や蝶、天使などの下絵のファイルや写真を見せてもらい、天使や人魚より、カラフルなアゲハチョウがいいかな、と思った。天使や人魚だと、若い今はいいが、年をとると、似合わなくなりそうだ。その点、牡丹や菊、蝶のほうが、年齢を重ねても、図柄として普遍性を持っているのではないか、とケイは考えた。トヨもその意見には賛成してくれた。
 トヨは鉛筆と色鉛筆を使い、三種類の蝶をデザインした。大まかな絵とはいえ、目の前でさっと仕上げてしまったトヨの手際のよさに、まだ勉強中ではあるが、さすがにうまいものだと、ケイは感心した。
「よろしかったら、ちょっと服脱いでもらえますか?」とトヨは言った。
 ほぼ輪郭に沿って絵を切り抜き、鏡の前に後ろ向きに立たせたケイの、はだけた肩の後ろに絵を押し当てた。
「こんな感じでどうですか?」
三種類の蝶の絵を左の肩胛骨のあたりに透明性の高い絆創膏で固定したりして、トヨはケイに訊いた。ケイは大きな姿見と手鏡を使い、自分の背中を見つめた。
「最初のがいい感じです」
 最初のというのは、羽を広げた、真上から見た、青を主体にしたアゲハチョウだった。美奈が初めて下腹部に彫ったアゲハチョウを、真上から見たような感じの蝶だった。
「赤より、青系の蝶が好きなので、私の希望にぴったりです」と満足げにケイは言った。
「大きさはどうですか?」
「もうちょっと大きめでもいいですよ。せっかく彫るのなら、見栄えのいい、大きいのを彫りたいですから」
「では、先生に伝えて、相談してみますね」
 施術室に戻ったとき、美奈の鳳凰はもう三分の一近くまで色が入っていた。
 ビービーとうなるマシンの針に、青いインクを含ませ、それが無情に肌に突き刺されていく様を見て、「痛そう。私、我慢できるかしら」と見ていたケイが不安げに言った。
 美奈は慣れているせいか、あまり痛そうな表情はしていないが、肌に一秒間に数十回もの高速で上下する針を突き立てられ、傷口にインクを流し込まれて、青や赤に染まっていく自分の肌を想像すると、ケイはめまいがしそうな気分だった。
「大丈夫ですよ。意外と頑張れるものですから。それに痛みに耐えて、完成したときの感激って、すごいですよ。痛みに弱い私にだって、我慢できちゃったんです」とトヨは励ますように答えた。
「それに女性は男性より、痛みに対してはずっと我慢強い、っていいます」
 休憩のとき、トヨは先ほど描いた絵を卑美子に見せ、「こんな感じがいいそうです」とケイの希望を伝えた。卑美子はその絵をもとに、あれこれケイの要望を訊いて、その場で大まかなイメージ画を描いた。
「では、これを参考に幾つか下絵を作っておきます。できたら連絡しますので、できれば事前に見に来てください」
 彫る日にちを相談したが、年末にかけて、特に予約がいっぱいだった。それで卑美子の好意で年末の休みに入ってから時間を融通してくれた。
「おなか空きましたね。近くのファミレスでお弁当を取りましょう」
 ケイとの話が終わると、卑美子は写真入りのメニューを持ってきて、美奈たちに言った。
 もう二時間以上も針に攻められ続けている美奈は、あまり食欲がなかったが、「こんなときこそ空腹のままではいけないですよ」と卑美子にたしなめられ、軽いものを取ることにした。
 みんなメニューを見ながら、それぞれ好みのものを注文した。ケイはスタジオに来る前に、軽くサンドイッチを食べてきたとはいえ、もう三時間も経っているので、空腹を感じていた。トヨが取りまとめ、ファミレスにパソコンのウェブページから注文した。
 弁当が届き、美奈とケイが代金を払います、と言うと、卑美子は「二人ともうちのお得意さんだから、これぐらいサービスしますよ」と、受け取らなかった。二人は好意に甘えることにした。
 それから三時間施術は続いた。さすがの美奈も、我慢の限界に近かった。
「私、大丈夫かな。痛みに耐えられるかしら」
 痛ましそうな美奈を見て、ケイはまた弱音を吐いた。
「大丈夫ですよ。ケイさんの場合は、ミクちゃんの半分ぐらいの時間でできるから。それに、いざ覚悟が決まれば、意外と頑張れるものです」
 卑美子はケイの前で、美奈のことを店での名前で呼んだ。
 最近は卑美子もトヨも、美奈の仲間の前では、美奈のことをミクと呼んでいる。二人はケイとルミの本名も知っているが、仕事での源氏名で呼んでいた。美奈だけ本名で呼ぶのもおかしいので、みんなでいるときは、なるべくミクの名で呼ぶようにしていた。
 二人がスタジオを辞したときには、午前〇時を過ぎていた。ケイはファーストタトゥー、どうかよろしくお願いします、と卑美子に別れの挨拶をした。
 美奈はタクシーで帰るからいいよ、と辞退するケイを、マンションまで車で送っていった。地下鉄はとうに最終電車が出てしまっている。
「ミク、六時間も彫られて、疲れてるでしょう。無理しないで、早く家に帰ればよかったのに。いつも送らせちゃって、ごめんね。ミクには感謝してる。仕事の後、ファミレスに寄ると、いつもみんな当たり前のようにミクに送ってもらってるけど、でも、みんなすごくミクに感謝してるのよ」
 ケイは五歳年下の美奈に頭を下げた。
「いいえ。私こそケイさんにはお世話になって、感謝しているんです。ケイさんも、ミドリさんも、ルミさんも、ほんとにいい人で。私、この世界に入るの、最初はとても不安だったし、背中に騎龍観音を彫るお金が貯まったら、辞めるつもりでした。でも素晴らしい先輩と出会えて、ずっと続ける気になりました。とても感謝しています」
 美奈の目は涙で潤んでいた。
「本当にミクっていい子。私としては、風俗とかじゃなくて、もっとミクの長所が発揮できる仕事に就いてほしいんだけど。何でミクみたいないい子が、タトゥーがあるというだけで、社会的な差別を受けなければならないのかしらね」
 美奈の能力を高く評価しているケイは、美奈が風俗業界に埋もれている人材ではない、と思っている。今からでも大学に進み、何か資格を取って、美奈の能力を生かせる仕事をするべきだと考えている。しかし日本の現状は、タトゥー、入れ墨があるだけで、多くの部門で門戸を閉ざしてしまっている。たかが肌の上に絵があるだけのことなのに。
「でも、厳しくなることがわかっててタトゥーを入れたんだから、私は不平は言いません。初めて彫ったときでも、事前に卑美子先生から、タトゥーを入れれば、社会的な不利益を被ることが多いけど、それでもいいですか、と強く念を押され、了承したのですから」
 ケイにそう答えはしたが、できることなら、いつかは自分の特長を生かせる仕事をしてみたい、と美奈も考えていた。
 一時期非行に走り、背中に観音様と蛇のいれずみをした女性が、一念発起し、猛勉強して司法試験に合格し、弁護士等の立派な活躍をしている。そのような素晴らしいお手本になる人だっているのだから、私も頑張ればできるんだ。美奈は決して自分の可能性を諦めまいと思った。

 ケイがファーストタトゥーを入れる日が来た。ケイが初のタトゥーを入れるということで、その日はミドリとルミも、ケイが痛みに耐えきれず、泣くところを見たい、とついてきた。
 四人は卑美子のスタジオ近くの喫茶店で待ち合わせ、揃ってスタジオを訪れた。
 玄関のチャイムを鳴らすと、トヨが出てきて、四人を施術室に案内してくれた。
 図柄については、ケイはすでに卑美子が描き起こした蝶の絵を確認しており、もう決定していた。
 最初に運転免許証のコピーを取り、誓約書にサインした。
 ケイは上半身裸になり、蝶の絵を入れる場所を正確に決めるため、卑美子の前で姿勢を正した。
「いよいよ一生消えないタトゥーを自分の身体に入れるのだと思うと、すごく緊張します」
 ケイは素直な気持ちを吐露した。
 肌を石けん水で拭いてから、使い捨ての剃刀で産毛を剃り、消毒用のエタノールを噴霧した。肌が乾いてから、転写用のシートを肌に当てた。なるべく大きめがいい、というのがケイの希望だったので、両手を合わせたぐらいの大きさの、見事な蝶だった。羽を広げた蝶を真上から見た絵なので、ルミの乳房に彫ってある蝶の、二倍以上の大きさだった。ルミの蝶は、飛んでいるところを斜め横から描いたもので、握り拳より少し大きい程度だ。
 卑美子は慎重に位置を決め、絆創膏でシートを固定して、「こんな位置でどうですか?」とケイに確認した。
 ケイは二枚の鏡を使い、蝶の絵を入れる場所を見た。左の肩胛骨から背骨にかかるあたりだ。
「はい、この場所でいいです」とケイは答えた。
 蝶の絵が肌に転写された。いよいよケイの肌に初めてのタトゥーが入れられることになった。
「ああ、すごく緊張する。ルミもミクも、初めてのときはこんな気持ちだったんだろうね」
「はい、私はおへその下のバラと蝶でしたが、すごく緊張しました」
「私はわくわくしたけど。でも、緊張もしたかな。彫ったの、ちょうど心臓の上の辺だったから、彫るとき、胸がどきどき動いてたのが彫り師さんにわかったかもしれないな」
ケイの肌に最初の針が下ろされた。背中に剃刀を突きつけられたような気がした。これでとうとう私もやっちゃったんだな、もう二度と後戻りはできないんだ、とケイは観念した。
 四回の休憩を挟み、三時間以上ケイは苦痛に耐え、見事な青いアゲハチョウが完成した。卑美子は美奈に彫るときに比べ、休憩を多めに取った。
 鏡で自分の肌に刻まれた優美な蝶を見て、ケイはうっとりした。
「痛かったけど、それだからこそ、私はすごいことやっちゃったんだ、と実感します」
ケイはファーストタトゥーを入れた感想を、卑美子に述べた。ケイの目には涙が浮かんでいたが、それは痛みのためばかりではなかった。
「これで私たち仲良し四人組のうち、タトゥーがないのは私だけになっちゃったのね」とミドリが言った。
「ミドリも入れたみたら? とても感動するよ」とケイが勧めたが、「私はやめとく。きれいだし、やってみたいという気持ちもないではないけど、でも今はやっぱりやめとく。もし入れるんなら、彼の許可を得てからにしなくちゃね」とミドリは断った。
「こんなときにおのろけね。熱い熱い。いいなあ、彼氏がいる人は」とケイが茶化した。
「一度彫ったら、もう二度と消せないのだから、彫るときはよほどよく考えたほうがいいですよ。ミクちゃんも将来のことを考えると、もうこれ以上は増やさないほうがいいかもしれないね。彫る側の私がこんなこと言うのも何ですけど」
 卑美子も安易な気持ちでは彫らないほうがいい、と戒めた。
 四人は「よいお年をお迎えください」と年末の挨拶をして、卑美子のスタジオを辞した。

最近思うこと

2012-08-25 11:56:45 | 日記
 最近、日中、日韓の間でぎくしゃくしています。

 私は外交については素人なので、口を挟む問題ではないかもしれませんが、できれば隣国同士、仲良くしたいものです。

 こんなことを書いては中国、韓国の方々に叱られるかもしれませんが、歴史問題について、反省すべきところは反省した上で、もう半世紀以上前のことでもあるし、そろそろお互い許し合う、ということも考えるべきではないでしょうか。

 確かに当時の日本国家は、侵略戦争をしかけたのかもしれません。しかし、ある意味では、国際的に追い詰められた日本は、自国の権益を守るために、戦争という道を選択せざるを得なかったのかもしれません。当時は欧米列強も帝国主義に基づき、植民地政策を繰り広げていました。

 結果としては日本は戦争に負け、アジアの国々にも多大の犠牲者を出しました。その意味で、やはり戦争は悲惨だと思います。

 日本は原爆や都市への空襲を受け、多くの民間の犠牲者を出しました。しかし今は多くの日本人は、そのような行為をしたアメリカを憎むこともなく、友好国として交流しています。

 だからといって、中国、韓国の方に、当時日本国家がしたことを水に流せ、とはいえないかもしれません。しかし、感情的な応酬で負のスパイラルに陥り、泥沼状態になることは何とか避けたいと思っています。

 私は南京大虐殺については、かなり激しい戦闘があり、多くの戦死者が出たことは否定しません。しかし、30万人の犠牲者が出たとは、とても思えません。中国共産党も、もっと冷静に事実を検証するべきかと考えます。

 領土問題はまた別の次元で、私などの浅い考えを披露するべきではないのかもしれませんが、隣国同士として、何とかよくなる道を探っていきたいと思います。ただ、領土は国の基礎なので、守る必要があり、安易な妥協は避けるべきだと考えます。やはり領土問題というのは、むずかしいですね。

 『ミッキ』  では、高校生の歴史研究課題として、戦争責任などの問題提起もしています。
 

ヒグラシ

2012-08-21 19:37:52 | 小説
 うちの近くでは、アブラゼミとクマゼミが主で、それ以外のセミの声はあまり聞けません。8月下旬になれば、ツクツクボウシが鳴き出しますが、今年はまだあまり鳴いていません。

 昨日、弥勒山の方に行ったら、珍しくヒグラシがたくさん鳴いていました。それも1匹だけではなく、少なくとも3匹以上いたようです。

 先月、南木曽岳に登ったときはずっとヒグラシが鳴いていました。キツツキが木をつつく音も間近で聞こえました。

 今回は『幻影』第13章です。これでやっと3分の1です。原稿用紙換算では、600枚以上になります。




             13

 卑美子の一門のタトゥーコンベンションの日が来た。
 その日はミドリ、ケイ、ルミ、美奈の四人組は出勤し、仕事が上がった後、一緒にタクシーで栄まで行った。会場のバーの名前を言ったら、運転手は知っていた。有名なバーだそうである。もう一〇月も下旬だった。美奈はつい先日、二一歳の誕生日を迎えたばかりだった。誕生日には、仲のいい三人がささやかなお祝いをしてくれた。美奈の誕生日だけではなく、仲間の誕生日はみんなで食事会をすることにしている。先月はルミの誕生会を行った。ルミの星座は乙女座だ。
 地下の会場の入り口でチケットを渡して中に入ると、もわっとする暑さとともに、すさまじい音楽が響いた。CDによる演奏だが、上等なオーディオ機器、とりわけ大きなスピーカーから流されるロックの音響はすさまじかった。
 会場にはまだおのおののブースで、タトゥー、刺青の実演をしている彫り師もいた。
「先生、今日はお招きくださり、ありがとうございます」
 美奈は卑美子を捜して挨拶した。
「最近、仕事が忙しくなって、なかなかスタジオに挨拶にも行けず、すみません」
「よく来てくれましたね。あ、さくらさんですね。お久しぶり」
 卑美子はルミを本名で呼んだ。
「ときどきお仕事見せていただき、ありがとうございました。腰の蘭の花、すごく気に入ってます」とルミも卑美子に挨拶した。
 美奈は初めて卑美子に会うミドリとケイを、「お店の先輩です」と紹介した。
 卑美子の横に、若い女性がいた。
「こちらは最近アシスタントとしてうちに来ているトヨです」と卑美子はその女性を紹介した。髪が短く、ボーイッシュでかわいい感じの女性だった。ルミや美奈より少し年上、というところだろうか。
 トヨは美奈が胸に紫の牡丹を入れてしばらくしてから、弟子として入門した。だからもう入門して、五ヶ月になる。タトゥーの勉強をする傍ら、アシスタントとして卑美子の仕事を手伝っている。
 卑美子に弟子入りする前、トヨは卑美子に腕や背中にタトゥーを彫ってもらい、卑美子に憧れて弟子入りを願い出た、という。
 卑美子は何度も断ったが、トヨの熱心さに根負けし、また多忙になってきて、電話番や客の接待などの手伝いも欲しいと思っていたので、最初は弟子というよりアシスタントとして、トヨを受け入れたのだった。何よりも、自慢の長い髪をばっさり切ってまで、弟子入りの決意を示した、トヨの心意気に打たれた。
「トヨです。美奈さんのことは先生から聞いてます。よろしくお願いします」
 トヨと紹介された女性は四人に名刺を渡して挨拶をした。
「実は私、弟子入りする前、お客として背中に彫りに来たとき、一度美奈さんに会っているんですよ」
「そうなんですか? 私、全然覚えてないです」
「美奈さんがトイレに行こうと、裸で施術室を出てきたときです。あの頃は髪を長く伸ばしていたので、感じが違って見えたかもしれませんが」
 トヨがそう説明すると、美奈の記憶がよみがえった。
「ああ、あのときの方ですね。あのときは失礼しました。でも、初めての出会いが、おしっこ漏れちゃう、だなんて、いやだわ、私」
 美奈は頬を赤らめた。傍らで聞いていたミドリたちが笑った。
「まだ完成前でしたが、美奈さんの背中を見せてもらって、きれいだな、ととても感動しました。それを見て、やっぱり私が弟子入りする人は卑美子先生しかいない、と思ったものですよ」
「そうですよ。トヨがうちに押しかけてきたのは、美奈ちゃんにも責任の一端があるんですよ」と卑美子は笑いながら横から口をはさんだ。
 トヨは今は客の接待を主に行いながら、タトゥーの絵の勉強などをしているそうだ。卑美子が仕事をしているとき、客の許可を取って、卑美子が彫るところを見学させてもらうことも多い。自分の太股などでタトゥーを彫る練習もしているという。
「タトゥーってほんと難しいです。線もきれいに引けず、かすれたり歪んだりするし、色を入れればむらむらだし。先生に憧れてこの世界に飛び込んだけど、私って、タトゥーの才能あるのかしらって、よく不安になります」
 トヨは卑美子は普通に絵を描くように、手際よく簡単に彫っているように見えるが、いざ実際自分がやってみると、タトゥーを彫ることがいかに難しいかを話した。
「自分で自分の太股に彫るなんて、痛そう」とルミが顔をしかめながらトヨの話を聞いていた。
「でも、最近トヨはぐんとうまくなってきたので、今は練習台になってくれる人を探して、彫らせてもらっているのですよ」と卑美子が補足した。
「それじゃあ、私、トヨさんに何か彫ってもらおうかしら」と美奈は練習台になることを申し出た。
「だめですよ。先生がきれいに彫ってくれたのに、そのそばに私の拙(つたな)い絵なんて、とても彫れません」
 トヨは謙遜して、美奈の申し出を辞退した。
「トヨさんの名前は、やっぱり邪馬台国(やまたいこく)の女王からきているのですか?」と美奈はトヨに尋ねた。
「ええ、そうなんです。卑美子先生の弟子、ということで、卑弥呼の後、女王になった台与(とよ)からつけてもらったんです。でも、美奈さん、歴史詳しいですね」
「いえ、たまたま卑美子先生のことがあって、邪馬台国のことを調べたから知っていただけです」と美奈は謙遜した。
「ミク、というのは美奈さんのお店での名前ですか?」
 今度はトヨが美奈の名前のことを話題にした。トヨは美奈たちの仕事について、おおよその察しがついているようだった。
「実は私も先生のところに行く前、同業者だったんですよ。だから、私よりすごいいれずみした人がいる、という噂は聞いてました。それが美奈さんだったんですね」
「難しいことを言ってないで。ここではタトゥーが入っている人は、脱ぐことがルールなんですよ。さあさ、あなたたちも自慢のタトゥーを見せてやってください」
 話が一段落ついたところで、卑美子はおどけた言い方で、タトゥーを披露することを勧めた。
 周りには多くの男女が下着や水着姿になっていて、タトゥーを披露していた。
「ミク、脱ぎなよ」とルミが促した。
「先輩からどうぞ、脱いでください」
「だめよ。私のタトゥーなんて、ミクに比べると、恥ずかしくって」
「でも、卑美子先生が渾身の力を込めて彫ってくれた蘭の花ですよ」
「何ごたごた言ってるの? 譲り合ったりしないで、二人とも、早く脱いでお披露目しなさいよ」とリーダー格のミドリが命じた。
 二人はおどおどしながら服を脱ぎ、水着姿になった。裸にされることを予想して、あらかじめ下着の代わりに、水着を着込んでいた。職業柄、裸になるのは慣れているはずなのに、タトゥーコンベンション会場の熱気に少し物怖じした。
 二人が水着姿になると、多くの人の目を引きつけた。
「わ、すげえ」
 男も女も美奈の全身のいれずみに引かれ、二人の周りに集まってきた。あちこちでフラッシュが光った。何人もの人が「一緒に写真写させて」と言って、二人と並んだ。
「パンツも脱いじゃって」と注文する人も多かった。
『タトゥーワールド』というタトゥー専門誌の女性カメラマンがやってきて、名刺を渡し、「写させてもらえますか?」と言った。タトゥーワールドは、美奈もときどき買うことがある。ルミもその雑誌を知っていた。日本各地のタトゥーコンベンションの状況をたくさんの写真で紹介していた。
「本に出ちゃうんですか?」
「はい、ぜひ掲載させてください。見事なタトゥーですね。女性では文句なく今日のナンバーワンですよ。卑美子先生の作品ですか」
「はい。私のは全身すべて卑美子先生です。彼女の腰の蘭の花も卑美子先生です」
「あ、これも素晴らしいですね。あなたのもお願いします」とカメラマンの長谷川はルミにも挨拶した。
 結局長谷川に押し切られ、二人は他の見物客にじゃまされない場所に連れていかれて、キヤノンのEOS20Dで、何十枚もの写真を撮られた。ミドリとケイも一緒についてきた。
 ただ写真を撮られるだけではなく、いろいろインタビューされた。どこで彫ったか、彫ってみてどう思ったか、周りの反応はどうだったか、彫って不便に思ったことはあるのか、これから増やすつもりはあるか、などである。二人の言葉はICレコーダーに記録された。
 美奈の背中の写真は、全裸の状態で写された。日本全国に自分のお尻丸出しの写真が出回ってしまうのか、と思うと、さすがに恥ずかしい、という気分になった。
「いいえ、素晴らしい作品だから、全然恥ずかしいことなんてないですよ。本当に見事な作品です。ルミさんの蘭や蝶々もすてきです」と長谷川は二人のタトゥーを賞賛した。
「もしよろしかったら、後日別の場所で撮らせてもらいたいのですが、連絡先を教えてもらえますか?」
 長谷川は尋ねた。美奈はどうしようか迷ったが、自分の携帯電話の番号を伝えた。
「すっごーい。ミク、これで全国区ね」とルミが叫んだ。
「私のタトゥーも雑誌に載るよね」
「はい、蘭の花も蝶々も、ぜひとも載せたいです。でも、卑美子先生は素晴らしい才能をお持ちですね。東海地区の女性アーティストの中では、文句なくナンバーワンです。男性彫り師を含めても、間違いなくトップクラスですよ」
 ルミの胸の蝶も、有名なアーティストの作品で、素晴らしいですよ、と長谷川が言った。
 このコンベンションの記事が載るのは、来年三月中旬発売の号の予定とのことだ。美奈のタトゥーの写真が、家族の目に触れるとまずいとも思ったが、タトゥー専門誌は、まだ限られた読者しかいないので、実家に知られることはないだろう。
 雑誌の取材から解放されると、また会場にいた人たちの被写体にされた。ある程度撮影に付き合うと、もう服を着た。会場内は、裸になる人も多いので、暖房がきつかった。服を着ると少し暑い。今度は他のタトゥーを入れている人を見学する側に回った。
 時間が経つに従って、観客もだんだん減っていった。
 午前五時に会は終了した。しかし一〇月下旬の朝は、まだ暗かった。
 歩きながら話していては寒いから、ちょうど通りかかった深夜営業の喫茶店に入った。
「何だか変な気分になっちゃった。タトゥーがあるのが当たり前で、ないと気が引けるような、そんな倒錯の世界に行ったみたい」
 喫茶店で落ち着くと、開口一番、ケイが感想を述べた。
「私も小さいの、入れてみようかな。私も入れたくなっちゃった」
 ケイはルミや美奈のタトゥーを見ているうちに、自分の肌にもきれいな絵を刻んでみたい、と思うようになっていた。ケイはもともとボディピアスに興味を持っており、タトゥーが好きになる素地はあった。
「私はコンベンションは楽しかったけど、自分に入れようとまでは思わないわ」とミドリが言った。
「入れるともう一生消せないから、よく考えたほうがいいですよ。レーザーで消える、なんてよく言われますが、実質完全には消えませんから」と美奈は注意を促した。一時の勢いで、安易に入れるべきではない、とたしなめた。
「レーザーは傷跡もケロイド状になって残ることもある、といいますしね」とルミが引き継いだ。
「でも、私は絶対後悔しないつもりだけど。まあ、これ以上増やすことはやめたほうがいいかなーとは思ってはいます。今のままで満足してるし。でも、そう言いながらも、思い切って背中一面にやっちゃいたいな、という気持ちがあるのも否定できないかな。私、前から背中に彫るんなら、天女にしようと決めているんです」
「ミクはどう? まだ何か入れる気あるの?」とケイが訊いた。
 美奈はこれ以上はもう入れないようにしようかとも考えていたが、もっとたくさん彫ってみたいという気持ちも強かった。タトゥーは一つ入れると、またどんどん増やしたくなってしまう魔性があるとよく言われる。まさに美奈はその魔性に魅入られていた。
 ケイに訊かれ、もう一つぐらいは増やしてみてもいいかな、と思った。それで、「そうですね。足首なんかに、何か彫ってみようかな、とも考えていますが」と答えた。
「もし、彫りに行くなら、私も連れてって。ミクが彫ってもらっているとこ、一度見てみたい。ルミは何度か見に行ったんでしょう」
 美奈は近いうちに卑美子に予約を入れ、そのときケイも一緒に行くことになった。
「でも、入れるときはその場の勢いでやるんじゃなく、よく考えてからにしてくださいね。入れたら、人生変わっちゃうことだってあり得るんだから。私の場合は子供のころから、ずっと入れたいと思い続けていましたが」

2012-08-17 20:04:08 | 日記
 昨日、天気がよかったので、弥勒山に行きました。

 

 午後から大気が不安定になり、雷雨の可能性もあるとのことでしたが、昨日は天気は崩れませんでした。写真でもきれいな青空です。オリンパスの一眼レフは、オリンパスブルーといって、青空がきれいに撮れるといいます。

 麓の水たまりで、蛇が泳いでいました。

 

 暗かったので、ISOを1600まで上げました。最近のコンパクトカメラは高感度の画質が向上したとはいえ、撮像素子が小さなFuji FinePix F600では1600は荷が重いようです。OLYMPUS E500も撮像素子が小さめのフォーサーズで、古いカメラなので、高感度は苦手です。最近の一眼レフはISO 3200も常用できるといいますが。E500がまだ十分使えるので、当分は最新の一眼レフは出番がありません

 次回は『幻影』第13章を掲載します。これで全体の3分の1になります。

天候不順

2012-08-15 18:44:35 | 小説
 最近は梅雨のような天気です。一昨日から昨日にかけては、近畿から東海にかけて大雨で、大きな被害もありました。

 うちの近くも、一昨日の夜、すごい雷で、何度も間近で落雷があり、大音響が鳴り響きました

 まだしばらく不安定な天気が続くということで、南木曽岳のリベンジに行くのはまだ先になりそうです。先月、取材で行った南木曽岳は、大変辛い目に遭ったので、今度は楽しい登山にしたいと思っています。

 今回は『幻影』第12章です。




             12

 久しぶりに卑美子から電話があった。一〇月下旬に、卑美子が所属する彫波一門でタトゥーコンベンションを行うので、見に来ないか、という誘いだった。タトゥー雑誌ではよく全国各地のタトゥーコンベンションの模様を紹介し、美奈もそれらの記事を何度も読んでいるが、参加したことはなかった。おもしろそうなので、一度見てみたいとは思っていた。一〇月下旬といえば、まだずいぶんと先のことだ。
 その日は日曜日で、仕事がある、と言ったら、明け方までやっているから、仕事が終わってから来るといい、と卑美子は答えた。もしよかったら、お店の人でタトゥーに興味がある人も誘ったらどうか、と卑美子は言った。
「さくらちゃんもコンベンション、興味を持っているんじゃないですか。来る人の分、チケット用意しておきますから、早めに人数教えてくださいね」
 さくらとはルミの本名である。美奈は卑美子が親友のルミのことも配慮してくれたことがうれしかった。
 タトゥーコンベンションの話をすると、ルミだけでなく、ミドリとケイも行ってみたい、と言った。日曜日は四人とも出勤だから、仕事が終わったら一緒に行きましょう、ということになった。場所は栄のバーを借り切って行うとのことだった。

「はい、ミクちゃん、ご指名だよ」
 接客が済んで、待機室に戻ろうとしたとき、フロントの沢村から声がかかった。電話で予約があったそうだ。
「加藤さん。ちょうど接客中だったから、八時半からになると言っておきました。それまでしばらく休んでいてね」
 沢村は予約の時間を少し遅めにして、休憩の時間を与えてくれた。沢村はコンパニオンに対し、いろいろ配慮してくれるので、コンパニオンたちの間で、評判がよかった。
「加藤さんって、安藤さんのことね」と美奈は声に出さずに呟いた。
 客との個人的付き合いがだめなら、もう客としては来ないから、電話してほしい、と携帯電話の番号を教えてもらっていた。しかし、その後、ケイたちに忠告され、安藤には連絡していなかった。
 先輩たちに注意されただけではなく、千尋の霊が、会わないでほしい、と言っているように思われたのが、気にかかっていた。
 いつまで経っても連絡がないので、しびれを切らして、来店したのだろうか。
 客はやはり安藤だった。安藤はあれから一ヶ月以上経つのに連絡がないので、待ちきれなくなって店に来たと言った。盆休みが終わって間もない頃だった。
 もっともオアシスは盆の期間も、店は休みにならなかった。休暇を取るコンパニオンが多く、手薄になるので、美奈は休みなしで出勤していた。
 盆の頃、実家の寺から帰ってくるように言われたが、暑い時期で、いれずみを隠し通すことができないと思い、美奈はやむを得ず、お盆休みには友達と旅行に行くので帰れないと、嘘をついた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ごめんなさい、電話もしなくて」
「ひどいじゃないですか。僕は毎日毎日一日千秋の思いで美奈さんからの電話を待っていたのに」
 個室に入ったので、安藤は店での源氏名のミクではなく、美奈と本名で呼んだ。
「すみません。実はあれから、あまりにもうれしいのが顔に出てしまって、先輩たちにばれちゃって、とっちめられたんです。それで連絡しにくくなったんです」
 美奈は弁解した。
「とにかく、一度外で会って、食事でも一緒にしませんか?」と安藤は誘った。
「お客さんと外で会うのはまずいんです。個人的に会うのは、禁じられていますし」
「君もわからない人だな。だから、ソープ嬢と客の関係ではなく、僕たちは純粋な恋人同士、と考えてください。僕は真剣なんです」
「わかりました。近いうちに必ず連絡します」
「いや、近いうち、ではなく、今、ここで日時等決めましょう。美奈さんの休みは月水金でしたね。でも、金曜日は出勤することも多いから、明日の水曜日の夜、一緒に食事、どうですか? 場所は名古屋駅や栄では、ひょっとして知った人の目につくかもしれないので、ちょっと遠いけど、藤が丘はどうです? しゃれた居酒屋が何軒もあります。居酒屋、といっても、けっこう雰囲気のいい店ですよ」
 藤が丘は名古屋の東の端で、かつては豊かな緑に囲まれていたが、今では若者の街として人気がある。地下鉄東山線の終点の街で、さらに愛知万博(愛・地球博)に合わせて、藤が丘から万博会場を経由して、愛知環状鉄道の八草駅まで、日本初のリニアモーターカーの路線が敷かれた。藤が丘の街は、まだ会期中の愛知万博に行く人で、連日ごった返している。今は特に夏休みで、平日でも来場する人たちが増えているそうだ。愛知万博には、美奈もルミたちいつもの四人で、二度見に行った。終わるまでにもう一度見に行こう、と約束している。
 二人は夜六時に地下鉄藤が丘駅で待ち合わせることにした。

予想していたことだが、美奈が深夜帰宅し、寝る前に大好きなモーツァルトのピアノ協奏曲二三番を聴き、くつろいでいたら、千尋が現れた。いつもはベッドに入り、うとうとしているときに現れるのだが、運転中に緊急の警告メッセージを送ってくれたとき以外、覚醒しているときに現れたのは初めてだった。リラックスしていて、いわゆるアルファー波状態になっているときだ。千尋はやはり悲しそうな表情をしていた。
「千尋さん、あなた、安藤さんの昔の恋人だったんですか? それで私が千尋さんの恋人を取り上げるようなことになるのが、悲しいのですか?」
 しかし千尋は悲しそうな顔をするばかりで、何も答えない。
「お願い、千尋さん、何か答えて。この前のように、テレパシーで何か言って。もし、どうしても、ということなら、私安藤さんとのことは、諦めます。まだ今なら安藤さんと別れられると思うんです」
 美奈は心の中で訴えた。今なら安藤のことを忘れることができる。けれども、これ以上深入りすると、たぶん美奈は安藤と別れることができなくなってしまうだろう。
 美奈の脳裏に、ひょっとしたら千尋は安藤に殺されたのかもしれない、という考えが浮かんだ。もし千尋がはっきりそう言えば、今なら安藤を見限ることもできる。だが、更に安藤への傾倒が深まれば、もう自分の意志ではどうにもならなくなってしまいそうだ。
 千尋の返事次第では、「明日」の食事は行かないでおこうと美奈は考えた。
 しかし、千尋は何も言わずに消えた。

 美奈は時間ぎりぎりまで行こうか行くまいかを迷った。千尋は何も言わなかったが、千尋と安藤が過去に恋人同士だったことは間違いない。安藤は千尋の死に関係しているのだろうか、と考えた。それでもまさか殺人ではないだろう、と思いたかった。
 愛する人の子供を宿して、新しい命の誕生を喜んでいたとき、突然千尋が病気か事故で亡くなった。それが真相ではなかろうか。
 安藤は初めてオアシスに来たとき、ホームページにある美奈の騎龍観音の写真に惹かれて指名した、と言った。最初はおそらくかつての恋人、千尋とよく似た騎龍観音のいれずみに惹かれて指名したのだろう。ひょっとしたら、安藤が魅了されたのは、美奈自身ではなく、背中のいれずみなのかもしれない。それとも、同じいれずみがあることから、千尋の代用として美奈を「愛して」くれているだけなのだろうか?
 千尋はそんな安藤について、美奈本人を真剣に愛しているわけではないから、やめておきなさい、と警告を発しているのかもしれない。
 でも、一度会ってみよう。もし千尋の代用でしかないなら、そのときはそのときだ。もう一年半も男性を接客する仕事をやってきて、うわべだけにはだまされないだけの眼識は持っているつもりだ。
 美奈はそう考えて、行くことにした。

 藤が丘には地下鉄で行った。地下鉄といっても、上社、本郷と藤が丘の三駅は高架の上にある。改札口を出たら、そのすぐ前の金属パイプの椅子に腰掛けて、安藤は待っていた。今日は役所を定時の五時一五分に出た、と言った。
「あれ、美奈さん、君、ふだんはメガネかけてるの?」と安藤が訊いた。美奈は銀色のメタルフレームのメガネをかけていた。化粧はあっさりしたものにして、服もどちらかといえば地味なものを選んだ。
「ええ、実は私、ど近眼のメガネ女子なの。お店では最初、コンタクトレンズしてたけど、何度も落として、なくしちゃったから、もうしなくなりました」
「店の中は薄暗いから、なしだと不便じゃないですか?」
「もう慣れてますから」
「近視だと、ぼやけて僕の顔も美男に見えるわけか」
「いいえ、安藤さんだけはお顔を間近で拝見させていただきましたから」と言って、美奈は顔を赤らめた。唇を許したのは、安藤だけだ、ということをほのめかした。
「メガネの美奈さんも、知的な雰囲気でいいですね。とてもソープ嬢だなんて、思えない」
「いやですわ。外ではお店の話はもうなしにしましょう」
 ときどき安藤が無神経にソープ嬢という言葉を使うことに対しては、美奈は抵抗を感じた。お客さんとしてならともかく、恋人というからには、その言葉は慎んでほしい。
「やあ、ごめんごめん。以後、気をつけるよ」と安藤は謝った。
 地下鉄の駅を出て、駅前のバスターミナルに出た。
 地下鉄東山線の沿線は、オアシスがある西部より、東の名東区の発展が著しい。二、三〇年前までは東部丘陵地として緑が多かったが、今はマンションなどが多く建ち、大きな街となっている。
藤が丘は、交通量が多い名古屋長久手線や東名高速道路、東名阪自動車道から少し離れているので、落ち着いたたたずまいだ。
 美奈は東山公園や星ヶ丘ぐらいまでは行ったことがあるが、地下鉄が高架になっている部分まで来るのは、初めてだった。愛知万博を見に行ったときは、四人で車に乗り合わせて行ったので、藤が丘の街は経由していない。
 美奈は初めての街だから、少し歩いてみたいと、安藤に提案した。二人は夜の藤が丘の街をしばらく散歩した。藤が丘は思っていたよりこぢんまりとした街だった。
 安藤はAという居酒屋の個室を予約しておいた。藤が丘は大学への通学バスの発着地でもあり、学生が多い街だが、その居酒屋にも大学生のコンパらしいグループが二、三組あった。万博の帰りに立ち寄る人も多い。
「今日の君は大学生といっても、十分通用するよ」
 個室に落ち着いて、安藤は言った。
 今日の美奈は服装もおとなしく、タトゥーはまったく見えないので、普通の若い女性だった。耳や小鼻のピアスもそれほど違和感はなかった。
 安藤は飲み放題のコースで予約をしていた。
「本当は高級なフランス料理にでも招待したかったけど、あいにく給料日前でしてね。今回はこれで勘弁してください」
 安藤はここでミスを犯している。N市職員は給料日が一八日であり、その日は給料日前ではない。一般の会社の給料日は二五日や月末が多いので、つい給料日前、と言ってしまった。安藤は市の給料日のことを知ってはいたが、無意識のうちに口から出てしまったのだろう。以前美奈が勤めていたマルニシ商会も、給料日は二五日だった。
 美奈は、マルニシ商会に勤めていた頃、取引先の学校で、事務職員から、県職員の給料日は一六日、市は一八日と聞いたことがあった。美奈も「公務員さんは早めにお給料がもらえて、いいですね」と対応していた。しかし、このときは公務員の給料日のことは、まったく頭になかった。もし気づいていたなら、安藤に対して、不信感を抱いていたかもしれない。
「いいえ、私もこんな雰囲気、好きですから。ときどき気のあったお店の人たちと飲みに行きます」
「それじゃあ、『とりあえずビール』で乾杯だ」と安藤はわざととりあえずビールという銘柄があるような言い方をして、美奈の生ビールが注がれたジョッキに自分のジョッキを当てた。美奈はビールは苦手だったが、最初の一杯は時間をかけて飲み干した。
「美奈さんは今どこに住んでいるのですか?」と安藤は尋ねた。
「私は高蔵寺ニュータウンの団地です。安藤さんは?」
「僕は南区の方です。工業地帯の近くで、空気がわるいので、そのうち転居したいと思っていますが。高蔵寺だと、緑も多く、空気がきれいなイメージですね」
「はい、山が近くて、ときどき運動のため登っています。四〇〇メートルぐらいの低い山ですが、なかなかいいですよ。一度一緒に登りませんか」
「んー、あの辺だと、多治見との県境の山か。残念ですが、僕は山登りは苦手でしてね。高いところが、ちょっと」
安藤は山登りと聞いて、一瞬顔がこわばった。
「え、安藤さんは高所恐怖症なんですか? でも、そんなに高いといった感じじゃないから、大丈夫ですよ。私の友達も、猿投山に登って、最初はきついと音をあげていたのが、今では山のよさに気づいて、ときどき一緒に登ってます」
 二人はお互いのことについて、いろいろ話をし合った。
 安藤がいれずみに興味を持ったのは、やくざ映画を観て、いれずみを背負った主人公たちのかっこよさに憧れたからだ、ということは、以前聞いていた。しかし自分自身の身体に入れるつもりはない、と言った。公務員という仕事の関係で、いれずみは絶対に入れられない。
「それなら、私みたいに全身に入っている女と結婚しても大丈夫なんですか? さんざん遊ばれて、いざとなったら、いれずみしてる女とは結婚できない、と捨てられるのはいやです」
 美奈はわざと絡んでみた。でも、そのことはしっかり確認しておきたかった。
「その点は信用してほしい。僕自身には彫れないから、代わりに女房に彫らせたい、と前からずっと思っていたんです。だから美奈さんは、僕にとっては理想の女性なんだ」
「何だか私より、背中の観音様に恋してるみたいですね」
 美奈はちょっとすねたように言った。
「そんなことないですよ。何度も言っていますが、僕は美奈さんの人柄が好きなんです。いれずみをした女性には何人も会ったことがありますが、僕は美奈さんしか考えられない」
 千尋さんはどうだったんですか? と美奈は訊いてみたかったが、それだけは決して口にしてはいけないと思った。
「美奈さんは外出するときは、いつも長袖なのですか?」と安藤は話題を変えた。
「去年は夏でも長袖でしたが、今年は自宅の近所では半袖のこともありました」
 半袖だと、どうしても肘の近くに彫ってある牡丹のタトゥーが袖からはみ出て、見えてしまう。昨年はまだマルニシ商会に勤めていたので、タトゥーを隠すために、暑い時季でも外出のときは長袖の服を着ていた。今年は三月末日でマルニシ商会を退社したこともあり、あまり隠そうという意識がなくなったので、特に暑いときには、半袖の服で出かけることもあった。
「タトゥーがちらちら見えると、近所の人に何か言われませんか?」
「そうですね。私はあまり言われたことはありませんでした。団地だと、お互い無関心の人が多いですから。近所のよく知っている人には、びっくりされたこともありましたが」
 美奈は近所に住んでいて、よく顔を合わせる人たちには、きちんと挨拶をしていた。美奈は近所でも真面目な礼儀正しい女性だと思われていたので、初めて腕のタトゥーを見て、驚く人が多かった。
「それ、どうしたのですか?」と尋ねられれば、美奈は「きれいなので、ファッションのつもりで入れました」と笑顔で答えていた。中には子供には見せたくない、と言って、美奈を遠ざける人もいた。けれども多くの人たちは、最初こそ少し驚きはしたものの、美奈が挨拶をすれば、あまり気にせずに挨拶を返してくれた。
 近所の店で買い物をするときには、レジの人に、袖から覗いている牡丹の花のことで、「きれいですね。それ、本物のタトゥーなのですか?」などと声をかけられることもあった。
 結局、近所の人たちには、美奈がタトゥーをしていることを知られてしまった。それでも一部の人を除いて、これまでどおり接してくれた。
 しかし、特に暑いときでなければ、できるだけ長袖の服を着るように心がけている。
 九時に居酒屋を出た。美奈は料金は割り勘で、と言ったが、男に恥をかかせないでください、と安藤が金を払った。
 その後、近くの喫茶店に入った。美奈は少し酔っていた。安藤と一緒にいるのが、心地よかった。
 安藤は、またときどき会ってください、と要求した。そして、美奈の携帯の電話番号を聞き出した。
 美奈はその後ホテルにでも誘われるのではないか、と思ったが、この日はそのまま別れた。
 地下鉄で、美奈が中央本線に乗り換える千種駅まで、一緒に行った。安藤は栄までの切符を買っていた。栄からは定期券が使える。栄で名城線に乗り換え、伝馬町まで行き、市バスに乗り換える、と説明した。名城線は前年に環状線になっていた。伝馬町なら、栄よりずっと手前の本山で乗り換えるほうが早いが、美奈は千種まで安藤と一緒にいたかった。

 その夜、千尋が現れると思っていたが、現れなかった。
 二週間後、また食事に誘われた。その日、美奈は仕事を離れて、安藤に身体を許した。美奈が仕事以外で身体を許したのは、これが初めてだった。
そのときも千尋は現れなかった。