8月も今日を含めてあと3日。今年の夏も暑かったのですが、暑い中にも、秋の気配も漂い始めました。
あれだけ騒がしかったセミの鳴き声も、最近はややおとなしくなり、ツクツクボウシの鳴き声が混じってきました。
最近夜は部屋の気温が連日30℃を切り、今月初めのように暑くて眠れない、ということもなくなってきました。
しかし長期予報では、9月は残暑が厳しいようです。
今回は『幻影』第14章を掲載します。
14
その年の末、ケイは卑美子のスタジオで、背中の左側、肩胛骨のあたりに、羽を広げた青いアゲハチョウを入れた。美奈が左足に華麗な鳳凰を彫るところを見学したときに、予約を取ったのだった。
美奈は図柄のことで、卑美子のスタジオに、ケイと一緒に打ち合わせに行った。応対したトヨに、まだ自分の身体に入っていない新しい絵がいい、と希望を告げた。美奈のイメージとしては、鳥を考えていた。
ハチドリや鷲、アメリカンタトゥーふうのツバメなどの下絵を見せてもらったが、今ひとつピンとこなかった。
「こんなのもどうですか?」
トヨが和風の図柄の中から、鳳凰を集めたファイルを持ってきた。
いろいろな鳳凰の絵を見ているうちに、美奈は是非これを彫ってみたい、という絵を見つけた。サイズは最初に考えていた鳥の図柄よりはずっと大きくなりそうだ。足首に、と思っていたが、その鳳凰だと膝の関節の下から足首まで達してしまいそうだった。もちろん大きさは多少小さくすることはできるとはいえ、せっかく鳳凰を彫るのなら、堂々としたものを彫りたかった。美奈はその旨をトヨに告げた。
卑美子は休憩時間に待合室に来て、美奈の希望を聞いてくれた。そして、美奈の左足のサイズに合わせた下絵を準備しておく、と言った。運よく二週間後の月曜日の夜六時からが空いていたので、そこに予約を入れてもらった。三時間の枠では完成は無理なので、深夜まで延長してくれるという。二回に分けると、その次はずっと先になってしまう。
卑美子のスタジオは、営業時間としては、正午から午後九時までだが、客の都合に合わせて、かなり融通してくれる。
最近、タトゥー雑誌に卑美子の特集やインタビューが何度も掲載されて、卑美子の名声が全国に広まり、なかなか予約が取りにくくなっている。今や近県からのみではなく、関東や関西から彫りに来る客も珍しくはなかった。予約はもう二ヶ月先まで、大部分が埋まっていた。夜九時以降の予約も多い。
月曜日は美奈は、四日連続勤務の後なので、祝日以外は必ず公休日にしている。今は金曜日も毎週出勤している。ケイは月曜日に出勤することも多い。予約の日はケイも公休日になっていたので、一緒に行くことができた。ケイはもう自分の身体に、タトゥーを入れることを決意していた。
予約した日、美奈ははやる気持ちで卑美子のスタジオに行った。すでに身体中に大きく彫っていても、新しい絵を入れるとなると、心がときめいた。
ケイと近くの喫茶店で待ち合わせて、スタジオに行った。軽くサンドイッチで食事を済ませてきた。終わるのは深夜になる。
下半身下着だけになり、左足の産毛を剃毛した。美奈は体毛はそれほど濃いほうではないが、タトゥーの施術のときには、産毛をきれいに剃毛する。それから足に下絵を合わせた。新たに描き起こした、翼を広げて舞い上がる鳳凰の絵は十分満足のいく出来栄えだった。大きさは膝の関節の下から、足首まで達するものだった。
下絵ができたという連絡をもらい、美奈は事前に絵を見せてもらっていた。大きさも拡大、縮小コピーしたものをいくつか足に当て、もう決めてあった。だから、その日は彫る位置を確定し、そのまま転写シートで肌に写し取るだけでよかった。転写された鳳凰は、一部手描きで修正された。
ケイはしばらく美奈が彫られている場面を見学していたが、彫る図柄や場所を相談するために、トヨと奥の洋室に行った。最近はトヨが力をつけてきているので、デザインなどの相談はまずトヨが受けることになっていた。事前にトヨが客の彫りたい絵のイメージを引き出し、卑美子との打ち合わせを円滑に進めるためだ。そして休憩中や施術後など、卑美子が空いている時間に、客と卑美子、トヨの三人で話し合って彫る場所やデザインを決めるというシステムにしていた。それは卑美子が多忙になり、十分に相談に時間が割けないときがあるからだった。そして、トヨに経験を積ませるためでもあった。ただ、最終的に下絵を作るのは、卑美子自らがやっていた。
トヨは空いている時間には、奥の部屋で絵の勉強をしていた。
ケイは肩の後ろのあたりに花か蝶を彫りたい、と希望を言った。また、セクシーな女性の天使や人魚の絵なども候補に挙げていた。
トヨから花や蝶、天使などの下絵のファイルや写真を見せてもらい、天使や人魚より、カラフルなアゲハチョウがいいかな、と思った。天使や人魚だと、若い今はいいが、年をとると、似合わなくなりそうだ。その点、牡丹や菊、蝶のほうが、年齢を重ねても、図柄として普遍性を持っているのではないか、とケイは考えた。トヨもその意見には賛成してくれた。
トヨは鉛筆と色鉛筆を使い、三種類の蝶をデザインした。大まかな絵とはいえ、目の前でさっと仕上げてしまったトヨの手際のよさに、まだ勉強中ではあるが、さすがにうまいものだと、ケイは感心した。
「よろしかったら、ちょっと服脱いでもらえますか?」とトヨは言った。
ほぼ輪郭に沿って絵を切り抜き、鏡の前に後ろ向きに立たせたケイの、はだけた肩の後ろに絵を押し当てた。
「こんな感じでどうですか?」
三種類の蝶の絵を左の肩胛骨のあたりに透明性の高い絆創膏で固定したりして、トヨはケイに訊いた。ケイは大きな姿見と手鏡を使い、自分の背中を見つめた。
「最初のがいい感じです」
最初のというのは、羽を広げた、真上から見た、青を主体にしたアゲハチョウだった。美奈が初めて下腹部に彫ったアゲハチョウを、真上から見たような感じの蝶だった。
「赤より、青系の蝶が好きなので、私の希望にぴったりです」と満足げにケイは言った。
「大きさはどうですか?」
「もうちょっと大きめでもいいですよ。せっかく彫るのなら、見栄えのいい、大きいのを彫りたいですから」
「では、先生に伝えて、相談してみますね」
施術室に戻ったとき、美奈の鳳凰はもう三分の一近くまで色が入っていた。
ビービーとうなるマシンの針に、青いインクを含ませ、それが無情に肌に突き刺されていく様を見て、「痛そう。私、我慢できるかしら」と見ていたケイが不安げに言った。
美奈は慣れているせいか、あまり痛そうな表情はしていないが、肌に一秒間に数十回もの高速で上下する針を突き立てられ、傷口にインクを流し込まれて、青や赤に染まっていく自分の肌を想像すると、ケイはめまいがしそうな気分だった。
「大丈夫ですよ。意外と頑張れるものですから。それに痛みに耐えて、完成したときの感激って、すごいですよ。痛みに弱い私にだって、我慢できちゃったんです」とトヨは励ますように答えた。
「それに女性は男性より、痛みに対してはずっと我慢強い、っていいます」
休憩のとき、トヨは先ほど描いた絵を卑美子に見せ、「こんな感じがいいそうです」とケイの希望を伝えた。卑美子はその絵をもとに、あれこれケイの要望を訊いて、その場で大まかなイメージ画を描いた。
「では、これを参考に幾つか下絵を作っておきます。できたら連絡しますので、できれば事前に見に来てください」
彫る日にちを相談したが、年末にかけて、特に予約がいっぱいだった。それで卑美子の好意で年末の休みに入ってから時間を融通してくれた。
「おなか空きましたね。近くのファミレスでお弁当を取りましょう」
ケイとの話が終わると、卑美子は写真入りのメニューを持ってきて、美奈たちに言った。
もう二時間以上も針に攻められ続けている美奈は、あまり食欲がなかったが、「こんなときこそ空腹のままではいけないですよ」と卑美子にたしなめられ、軽いものを取ることにした。
みんなメニューを見ながら、それぞれ好みのものを注文した。ケイはスタジオに来る前に、軽くサンドイッチを食べてきたとはいえ、もう三時間も経っているので、空腹を感じていた。トヨが取りまとめ、ファミレスにパソコンのウェブページから注文した。
弁当が届き、美奈とケイが代金を払います、と言うと、卑美子は「二人ともうちのお得意さんだから、これぐらいサービスしますよ」と、受け取らなかった。二人は好意に甘えることにした。
それから三時間施術は続いた。さすがの美奈も、我慢の限界に近かった。
「私、大丈夫かな。痛みに耐えられるかしら」
痛ましそうな美奈を見て、ケイはまた弱音を吐いた。
「大丈夫ですよ。ケイさんの場合は、ミクちゃんの半分ぐらいの時間でできるから。それに、いざ覚悟が決まれば、意外と頑張れるものです」
卑美子はケイの前で、美奈のことを店での名前で呼んだ。
最近は卑美子もトヨも、美奈の仲間の前では、美奈のことをミクと呼んでいる。二人はケイとルミの本名も知っているが、仕事での源氏名で呼んでいた。美奈だけ本名で呼ぶのもおかしいので、みんなでいるときは、なるべくミクの名で呼ぶようにしていた。
二人がスタジオを辞したときには、午前〇時を過ぎていた。ケイはファーストタトゥー、どうかよろしくお願いします、と卑美子に別れの挨拶をした。
美奈はタクシーで帰るからいいよ、と辞退するケイを、マンションまで車で送っていった。地下鉄はとうに最終電車が出てしまっている。
「ミク、六時間も彫られて、疲れてるでしょう。無理しないで、早く家に帰ればよかったのに。いつも送らせちゃって、ごめんね。ミクには感謝してる。仕事の後、ファミレスに寄ると、いつもみんな当たり前のようにミクに送ってもらってるけど、でも、みんなすごくミクに感謝してるのよ」
ケイは五歳年下の美奈に頭を下げた。
「いいえ。私こそケイさんにはお世話になって、感謝しているんです。ケイさんも、ミドリさんも、ルミさんも、ほんとにいい人で。私、この世界に入るの、最初はとても不安だったし、背中に騎龍観音を彫るお金が貯まったら、辞めるつもりでした。でも素晴らしい先輩と出会えて、ずっと続ける気になりました。とても感謝しています」
美奈の目は涙で潤んでいた。
「本当にミクっていい子。私としては、風俗とかじゃなくて、もっとミクの長所が発揮できる仕事に就いてほしいんだけど。何でミクみたいないい子が、タトゥーがあるというだけで、社会的な差別を受けなければならないのかしらね」
美奈の能力を高く評価しているケイは、美奈が風俗業界に埋もれている人材ではない、と思っている。今からでも大学に進み、何か資格を取って、美奈の能力を生かせる仕事をするべきだと考えている。しかし日本の現状は、タトゥー、入れ墨があるだけで、多くの部門で門戸を閉ざしてしまっている。たかが肌の上に絵があるだけのことなのに。
「でも、厳しくなることがわかっててタトゥーを入れたんだから、私は不平は言いません。初めて彫ったときでも、事前に卑美子先生から、タトゥーを入れれば、社会的な不利益を被ることが多いけど、それでもいいですか、と強く念を押され、了承したのですから」
ケイにそう答えはしたが、できることなら、いつかは自分の特長を生かせる仕事をしてみたい、と美奈も考えていた。
一時期非行に走り、背中に観音様と蛇のいれずみをした女性が、一念発起し、猛勉強して司法試験に合格し、弁護士等の立派な活躍をしている。そのような素晴らしいお手本になる人だっているのだから、私も頑張ればできるんだ。美奈は決して自分の可能性を諦めまいと思った。
ケイがファーストタトゥーを入れる日が来た。ケイが初のタトゥーを入れるということで、その日はミドリとルミも、ケイが痛みに耐えきれず、泣くところを見たい、とついてきた。
四人は卑美子のスタジオ近くの喫茶店で待ち合わせ、揃ってスタジオを訪れた。
玄関のチャイムを鳴らすと、トヨが出てきて、四人を施術室に案内してくれた。
図柄については、ケイはすでに卑美子が描き起こした蝶の絵を確認しており、もう決定していた。
最初に運転免許証のコピーを取り、誓約書にサインした。
ケイは上半身裸になり、蝶の絵を入れる場所を正確に決めるため、卑美子の前で姿勢を正した。
「いよいよ一生消えないタトゥーを自分の身体に入れるのだと思うと、すごく緊張します」
ケイは素直な気持ちを吐露した。
肌を石けん水で拭いてから、使い捨ての剃刀で産毛を剃り、消毒用のエタノールを噴霧した。肌が乾いてから、転写用のシートを肌に当てた。なるべく大きめがいい、というのがケイの希望だったので、両手を合わせたぐらいの大きさの、見事な蝶だった。羽を広げた蝶を真上から見た絵なので、ルミの乳房に彫ってある蝶の、二倍以上の大きさだった。ルミの蝶は、飛んでいるところを斜め横から描いたもので、握り拳より少し大きい程度だ。
卑美子は慎重に位置を決め、絆創膏でシートを固定して、「こんな位置でどうですか?」とケイに確認した。
ケイは二枚の鏡を使い、蝶の絵を入れる場所を見た。左の肩胛骨から背骨にかかるあたりだ。
「はい、この場所でいいです」とケイは答えた。
蝶の絵が肌に転写された。いよいよケイの肌に初めてのタトゥーが入れられることになった。
「ああ、すごく緊張する。ルミもミクも、初めてのときはこんな気持ちだったんだろうね」
「はい、私はおへその下のバラと蝶でしたが、すごく緊張しました」
「私はわくわくしたけど。でも、緊張もしたかな。彫ったの、ちょうど心臓の上の辺だったから、彫るとき、胸がどきどき動いてたのが彫り師さんにわかったかもしれないな」
ケイの肌に最初の針が下ろされた。背中に剃刀を突きつけられたような気がした。これでとうとう私もやっちゃったんだな、もう二度と後戻りはできないんだ、とケイは観念した。
四回の休憩を挟み、三時間以上ケイは苦痛に耐え、見事な青いアゲハチョウが完成した。卑美子は美奈に彫るときに比べ、休憩を多めに取った。
鏡で自分の肌に刻まれた優美な蝶を見て、ケイはうっとりした。
「痛かったけど、それだからこそ、私はすごいことやっちゃったんだ、と実感します」
ケイはファーストタトゥーを入れた感想を、卑美子に述べた。ケイの目には涙が浮かんでいたが、それは痛みのためばかりではなかった。
「これで私たち仲良し四人組のうち、タトゥーがないのは私だけになっちゃったのね」とミドリが言った。
「ミドリも入れたみたら? とても感動するよ」とケイが勧めたが、「私はやめとく。きれいだし、やってみたいという気持ちもないではないけど、でも今はやっぱりやめとく。もし入れるんなら、彼の許可を得てからにしなくちゃね」とミドリは断った。
「こんなときにおのろけね。熱い熱い。いいなあ、彼氏がいる人は」とケイが茶化した。
「一度彫ったら、もう二度と消せないのだから、彫るときはよほどよく考えたほうがいいですよ。ミクちゃんも将来のことを考えると、もうこれ以上は増やさないほうがいいかもしれないね。彫る側の私がこんなこと言うのも何ですけど」
卑美子も安易な気持ちでは彫らないほうがいい、と戒めた。
四人は「よいお年をお迎えください」と年末の挨拶をして、卑美子のスタジオを辞した。
あれだけ騒がしかったセミの鳴き声も、最近はややおとなしくなり、ツクツクボウシの鳴き声が混じってきました。
最近夜は部屋の気温が連日30℃を切り、今月初めのように暑くて眠れない、ということもなくなってきました。
しかし長期予報では、9月は残暑が厳しいようです。
今回は『幻影』第14章を掲載します。
14
その年の末、ケイは卑美子のスタジオで、背中の左側、肩胛骨のあたりに、羽を広げた青いアゲハチョウを入れた。美奈が左足に華麗な鳳凰を彫るところを見学したときに、予約を取ったのだった。
美奈は図柄のことで、卑美子のスタジオに、ケイと一緒に打ち合わせに行った。応対したトヨに、まだ自分の身体に入っていない新しい絵がいい、と希望を告げた。美奈のイメージとしては、鳥を考えていた。
ハチドリや鷲、アメリカンタトゥーふうのツバメなどの下絵を見せてもらったが、今ひとつピンとこなかった。
「こんなのもどうですか?」
トヨが和風の図柄の中から、鳳凰を集めたファイルを持ってきた。
いろいろな鳳凰の絵を見ているうちに、美奈は是非これを彫ってみたい、という絵を見つけた。サイズは最初に考えていた鳥の図柄よりはずっと大きくなりそうだ。足首に、と思っていたが、その鳳凰だと膝の関節の下から足首まで達してしまいそうだった。もちろん大きさは多少小さくすることはできるとはいえ、せっかく鳳凰を彫るのなら、堂々としたものを彫りたかった。美奈はその旨をトヨに告げた。
卑美子は休憩時間に待合室に来て、美奈の希望を聞いてくれた。そして、美奈の左足のサイズに合わせた下絵を準備しておく、と言った。運よく二週間後の月曜日の夜六時からが空いていたので、そこに予約を入れてもらった。三時間の枠では完成は無理なので、深夜まで延長してくれるという。二回に分けると、その次はずっと先になってしまう。
卑美子のスタジオは、営業時間としては、正午から午後九時までだが、客の都合に合わせて、かなり融通してくれる。
最近、タトゥー雑誌に卑美子の特集やインタビューが何度も掲載されて、卑美子の名声が全国に広まり、なかなか予約が取りにくくなっている。今や近県からのみではなく、関東や関西から彫りに来る客も珍しくはなかった。予約はもう二ヶ月先まで、大部分が埋まっていた。夜九時以降の予約も多い。
月曜日は美奈は、四日連続勤務の後なので、祝日以外は必ず公休日にしている。今は金曜日も毎週出勤している。ケイは月曜日に出勤することも多い。予約の日はケイも公休日になっていたので、一緒に行くことができた。ケイはもう自分の身体に、タトゥーを入れることを決意していた。
予約した日、美奈ははやる気持ちで卑美子のスタジオに行った。すでに身体中に大きく彫っていても、新しい絵を入れるとなると、心がときめいた。
ケイと近くの喫茶店で待ち合わせて、スタジオに行った。軽くサンドイッチで食事を済ませてきた。終わるのは深夜になる。
下半身下着だけになり、左足の産毛を剃毛した。美奈は体毛はそれほど濃いほうではないが、タトゥーの施術のときには、産毛をきれいに剃毛する。それから足に下絵を合わせた。新たに描き起こした、翼を広げて舞い上がる鳳凰の絵は十分満足のいく出来栄えだった。大きさは膝の関節の下から、足首まで達するものだった。
下絵ができたという連絡をもらい、美奈は事前に絵を見せてもらっていた。大きさも拡大、縮小コピーしたものをいくつか足に当て、もう決めてあった。だから、その日は彫る位置を確定し、そのまま転写シートで肌に写し取るだけでよかった。転写された鳳凰は、一部手描きで修正された。
ケイはしばらく美奈が彫られている場面を見学していたが、彫る図柄や場所を相談するために、トヨと奥の洋室に行った。最近はトヨが力をつけてきているので、デザインなどの相談はまずトヨが受けることになっていた。事前にトヨが客の彫りたい絵のイメージを引き出し、卑美子との打ち合わせを円滑に進めるためだ。そして休憩中や施術後など、卑美子が空いている時間に、客と卑美子、トヨの三人で話し合って彫る場所やデザインを決めるというシステムにしていた。それは卑美子が多忙になり、十分に相談に時間が割けないときがあるからだった。そして、トヨに経験を積ませるためでもあった。ただ、最終的に下絵を作るのは、卑美子自らがやっていた。
トヨは空いている時間には、奥の部屋で絵の勉強をしていた。
ケイは肩の後ろのあたりに花か蝶を彫りたい、と希望を言った。また、セクシーな女性の天使や人魚の絵なども候補に挙げていた。
トヨから花や蝶、天使などの下絵のファイルや写真を見せてもらい、天使や人魚より、カラフルなアゲハチョウがいいかな、と思った。天使や人魚だと、若い今はいいが、年をとると、似合わなくなりそうだ。その点、牡丹や菊、蝶のほうが、年齢を重ねても、図柄として普遍性を持っているのではないか、とケイは考えた。トヨもその意見には賛成してくれた。
トヨは鉛筆と色鉛筆を使い、三種類の蝶をデザインした。大まかな絵とはいえ、目の前でさっと仕上げてしまったトヨの手際のよさに、まだ勉強中ではあるが、さすがにうまいものだと、ケイは感心した。
「よろしかったら、ちょっと服脱いでもらえますか?」とトヨは言った。
ほぼ輪郭に沿って絵を切り抜き、鏡の前に後ろ向きに立たせたケイの、はだけた肩の後ろに絵を押し当てた。
「こんな感じでどうですか?」
三種類の蝶の絵を左の肩胛骨のあたりに透明性の高い絆創膏で固定したりして、トヨはケイに訊いた。ケイは大きな姿見と手鏡を使い、自分の背中を見つめた。
「最初のがいい感じです」
最初のというのは、羽を広げた、真上から見た、青を主体にしたアゲハチョウだった。美奈が初めて下腹部に彫ったアゲハチョウを、真上から見たような感じの蝶だった。
「赤より、青系の蝶が好きなので、私の希望にぴったりです」と満足げにケイは言った。
「大きさはどうですか?」
「もうちょっと大きめでもいいですよ。せっかく彫るのなら、見栄えのいい、大きいのを彫りたいですから」
「では、先生に伝えて、相談してみますね」
施術室に戻ったとき、美奈の鳳凰はもう三分の一近くまで色が入っていた。
ビービーとうなるマシンの針に、青いインクを含ませ、それが無情に肌に突き刺されていく様を見て、「痛そう。私、我慢できるかしら」と見ていたケイが不安げに言った。
美奈は慣れているせいか、あまり痛そうな表情はしていないが、肌に一秒間に数十回もの高速で上下する針を突き立てられ、傷口にインクを流し込まれて、青や赤に染まっていく自分の肌を想像すると、ケイはめまいがしそうな気分だった。
「大丈夫ですよ。意外と頑張れるものですから。それに痛みに耐えて、完成したときの感激って、すごいですよ。痛みに弱い私にだって、我慢できちゃったんです」とトヨは励ますように答えた。
「それに女性は男性より、痛みに対してはずっと我慢強い、っていいます」
休憩のとき、トヨは先ほど描いた絵を卑美子に見せ、「こんな感じがいいそうです」とケイの希望を伝えた。卑美子はその絵をもとに、あれこれケイの要望を訊いて、その場で大まかなイメージ画を描いた。
「では、これを参考に幾つか下絵を作っておきます。できたら連絡しますので、できれば事前に見に来てください」
彫る日にちを相談したが、年末にかけて、特に予約がいっぱいだった。それで卑美子の好意で年末の休みに入ってから時間を融通してくれた。
「おなか空きましたね。近くのファミレスでお弁当を取りましょう」
ケイとの話が終わると、卑美子は写真入りのメニューを持ってきて、美奈たちに言った。
もう二時間以上も針に攻められ続けている美奈は、あまり食欲がなかったが、「こんなときこそ空腹のままではいけないですよ」と卑美子にたしなめられ、軽いものを取ることにした。
みんなメニューを見ながら、それぞれ好みのものを注文した。ケイはスタジオに来る前に、軽くサンドイッチを食べてきたとはいえ、もう三時間も経っているので、空腹を感じていた。トヨが取りまとめ、ファミレスにパソコンのウェブページから注文した。
弁当が届き、美奈とケイが代金を払います、と言うと、卑美子は「二人ともうちのお得意さんだから、これぐらいサービスしますよ」と、受け取らなかった。二人は好意に甘えることにした。
それから三時間施術は続いた。さすがの美奈も、我慢の限界に近かった。
「私、大丈夫かな。痛みに耐えられるかしら」
痛ましそうな美奈を見て、ケイはまた弱音を吐いた。
「大丈夫ですよ。ケイさんの場合は、ミクちゃんの半分ぐらいの時間でできるから。それに、いざ覚悟が決まれば、意外と頑張れるものです」
卑美子はケイの前で、美奈のことを店での名前で呼んだ。
最近は卑美子もトヨも、美奈の仲間の前では、美奈のことをミクと呼んでいる。二人はケイとルミの本名も知っているが、仕事での源氏名で呼んでいた。美奈だけ本名で呼ぶのもおかしいので、みんなでいるときは、なるべくミクの名で呼ぶようにしていた。
二人がスタジオを辞したときには、午前〇時を過ぎていた。ケイはファーストタトゥー、どうかよろしくお願いします、と卑美子に別れの挨拶をした。
美奈はタクシーで帰るからいいよ、と辞退するケイを、マンションまで車で送っていった。地下鉄はとうに最終電車が出てしまっている。
「ミク、六時間も彫られて、疲れてるでしょう。無理しないで、早く家に帰ればよかったのに。いつも送らせちゃって、ごめんね。ミクには感謝してる。仕事の後、ファミレスに寄ると、いつもみんな当たり前のようにミクに送ってもらってるけど、でも、みんなすごくミクに感謝してるのよ」
ケイは五歳年下の美奈に頭を下げた。
「いいえ。私こそケイさんにはお世話になって、感謝しているんです。ケイさんも、ミドリさんも、ルミさんも、ほんとにいい人で。私、この世界に入るの、最初はとても不安だったし、背中に騎龍観音を彫るお金が貯まったら、辞めるつもりでした。でも素晴らしい先輩と出会えて、ずっと続ける気になりました。とても感謝しています」
美奈の目は涙で潤んでいた。
「本当にミクっていい子。私としては、風俗とかじゃなくて、もっとミクの長所が発揮できる仕事に就いてほしいんだけど。何でミクみたいないい子が、タトゥーがあるというだけで、社会的な差別を受けなければならないのかしらね」
美奈の能力を高く評価しているケイは、美奈が風俗業界に埋もれている人材ではない、と思っている。今からでも大学に進み、何か資格を取って、美奈の能力を生かせる仕事をするべきだと考えている。しかし日本の現状は、タトゥー、入れ墨があるだけで、多くの部門で門戸を閉ざしてしまっている。たかが肌の上に絵があるだけのことなのに。
「でも、厳しくなることがわかっててタトゥーを入れたんだから、私は不平は言いません。初めて彫ったときでも、事前に卑美子先生から、タトゥーを入れれば、社会的な不利益を被ることが多いけど、それでもいいですか、と強く念を押され、了承したのですから」
ケイにそう答えはしたが、できることなら、いつかは自分の特長を生かせる仕事をしてみたい、と美奈も考えていた。
一時期非行に走り、背中に観音様と蛇のいれずみをした女性が、一念発起し、猛勉強して司法試験に合格し、弁護士等の立派な活躍をしている。そのような素晴らしいお手本になる人だっているのだから、私も頑張ればできるんだ。美奈は決して自分の可能性を諦めまいと思った。
ケイがファーストタトゥーを入れる日が来た。ケイが初のタトゥーを入れるということで、その日はミドリとルミも、ケイが痛みに耐えきれず、泣くところを見たい、とついてきた。
四人は卑美子のスタジオ近くの喫茶店で待ち合わせ、揃ってスタジオを訪れた。
玄関のチャイムを鳴らすと、トヨが出てきて、四人を施術室に案内してくれた。
図柄については、ケイはすでに卑美子が描き起こした蝶の絵を確認しており、もう決定していた。
最初に運転免許証のコピーを取り、誓約書にサインした。
ケイは上半身裸になり、蝶の絵を入れる場所を正確に決めるため、卑美子の前で姿勢を正した。
「いよいよ一生消えないタトゥーを自分の身体に入れるのだと思うと、すごく緊張します」
ケイは素直な気持ちを吐露した。
肌を石けん水で拭いてから、使い捨ての剃刀で産毛を剃り、消毒用のエタノールを噴霧した。肌が乾いてから、転写用のシートを肌に当てた。なるべく大きめがいい、というのがケイの希望だったので、両手を合わせたぐらいの大きさの、見事な蝶だった。羽を広げた蝶を真上から見た絵なので、ルミの乳房に彫ってある蝶の、二倍以上の大きさだった。ルミの蝶は、飛んでいるところを斜め横から描いたもので、握り拳より少し大きい程度だ。
卑美子は慎重に位置を決め、絆創膏でシートを固定して、「こんな位置でどうですか?」とケイに確認した。
ケイは二枚の鏡を使い、蝶の絵を入れる場所を見た。左の肩胛骨から背骨にかかるあたりだ。
「はい、この場所でいいです」とケイは答えた。
蝶の絵が肌に転写された。いよいよケイの肌に初めてのタトゥーが入れられることになった。
「ああ、すごく緊張する。ルミもミクも、初めてのときはこんな気持ちだったんだろうね」
「はい、私はおへその下のバラと蝶でしたが、すごく緊張しました」
「私はわくわくしたけど。でも、緊張もしたかな。彫ったの、ちょうど心臓の上の辺だったから、彫るとき、胸がどきどき動いてたのが彫り師さんにわかったかもしれないな」
ケイの肌に最初の針が下ろされた。背中に剃刀を突きつけられたような気がした。これでとうとう私もやっちゃったんだな、もう二度と後戻りはできないんだ、とケイは観念した。
四回の休憩を挟み、三時間以上ケイは苦痛に耐え、見事な青いアゲハチョウが完成した。卑美子は美奈に彫るときに比べ、休憩を多めに取った。
鏡で自分の肌に刻まれた優美な蝶を見て、ケイはうっとりした。
「痛かったけど、それだからこそ、私はすごいことやっちゃったんだ、と実感します」
ケイはファーストタトゥーを入れた感想を、卑美子に述べた。ケイの目には涙が浮かんでいたが、それは痛みのためばかりではなかった。
「これで私たち仲良し四人組のうち、タトゥーがないのは私だけになっちゃったのね」とミドリが言った。
「ミドリも入れたみたら? とても感動するよ」とケイが勧めたが、「私はやめとく。きれいだし、やってみたいという気持ちもないではないけど、でも今はやっぱりやめとく。もし入れるんなら、彼の許可を得てからにしなくちゃね」とミドリは断った。
「こんなときにおのろけね。熱い熱い。いいなあ、彼氏がいる人は」とケイが茶化した。
「一度彫ったら、もう二度と消せないのだから、彫るときはよほどよく考えたほうがいいですよ。ミクちゃんも将来のことを考えると、もうこれ以上は増やさないほうがいいかもしれないね。彫る側の私がこんなこと言うのも何ですけど」
卑美子も安易な気持ちでは彫らないほうがいい、と戒めた。
四人は「よいお年をお迎えください」と年末の挨拶をして、卑美子のスタジオを辞した。