「無関係な死」の時代がやって来る
以下、疲労困憊したおじさんのブログ記事紹介
原発日誌 広島原爆投下日 疲労困憊したおじさんのブログ 2016-08-06 08:29:05
http://ameblo.jp/masaya1015/entry-12187731399.html
71年前の今日、8月6日午前8時15分過ぎは広島に原爆が投下された日です。この原爆投下に関しては放射能が人体にどれくらいの影響を与えるかというような実験の一つでもありました。
また、この犠牲は軍人だけではなく多くの市民をまきこんだと事はいうまでもありません。
私としたら戦争の問題だけで片付けるべき事ではないと常に思っています。
昨年の8月6日に私は広島平和公園を訪れました。これには広島県人だけとしてではなく、私の生まれ育った郷里の人たちも多くの犠牲者を出しているからです。いわゆる、入市被爆者といわれる方たちです。
原爆が投下される以前の広島市内というのはB29の空爆により市内の公共施設、民家などが爆撃によって延焼していたのですが、その延焼を防ぐために私の郷里からも消防団などから自警団のような部隊が300名くらい編成され広島市内に出向かれ延焼の片付けなどに従事されていたのです。
時に8月6日午前15分過ぎ、宿舎から作業に出発しようと出たとたん、、、、ピカァ・・・・・ドーン
多くの命が失われた瞬間です。
そして、翌日から数日間は先に広島入りした人たちの親族の方たちが探しに広島入りをされたのです。
「おぉい、高蓋村の者はおらんか!おおぃ小畠村のもん、、、」焼跡の中をそう叫び探されたのです。
このように高い線量の中も当時ですからせいぜい手拭いなどで口鼻を押さえながらでしょうが、今のような全面マスクだとか防護服だとかはあるわけはありません。
とうぜん被ばくのリスクを抱えての捜索でしたから帰郷されてから数年後、数十年後に被ばくによるあらゆる症状が出られた事はいうまでもありません。
原発日誌(265)一握乃灰から見えてくるもの・・ 疲労困憊したおじさんのブログ 2014-09-03 05:02:20
http://ameblo.jp/masaya1015/entry-11919210440.html
この「一握乃灰」の中において入市被曝され、すなわち入市というのは前述したとおり原爆が投下された後、2週間以内に広島市の爆心地から2・5㌔範囲に入られた人のことを指すのですが、帰郷後10年や20年経ても内部被曝により発病され亡くなられた方も当然おられるのですが、その記録も綴られてあるので転載させていただきます。尚、最初の箇所は個人名が記されてあるので省略しました。
この記事は史実を元に書いています。コメントも是非お願いします。
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-(十年も経って赤い斑点)ー
夫が帰ったときは医者がいなかったので、塩野義のビタミン剤をのませたり、外用薬をぬったりしました。だんだん腫れがひいて、年末頃には三キロほど歩いて病院へ行くようになり、五年ぐらい後には体力も少し回復したかに見えましたが、十年も後の60年初め再発したので入院させました。病院では苦しみ通しで、昏睡状態に陥り入院後七十日ほどで死にました。家へ運んでから湯かんするため裸にしたら、全身に茶色の斑点があり、驚きました。病名はたしか慢性肝炎だったと思いますーと
-(二十年も経ってから)-
色いろ手を尽くした結果、帰ってから三年もして大体快くなったようでした。仕事らしいことはしませんでしたが畑などを少しつっついてくれたと思います。
ところが忘れもしない67年三月十六日突然発病し、高熱が続き歯が抜けて物もいえず食うこともできなくなり、ヨダレを流すようになり、五日くらい苦しんで死にました。
当座は悲しさで何も手につきませんでしたが、少し落ちついてから聞いてもらったところ、役所では何もしてくれませんでした。人並みなこともしてくれないのかと腹が立ったが、今はそれもあきらめてお墓詣りをして自分を慰めておりますーと
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下の人(二十年も経ってから)の場合には役所は何もしてくれないとありますが、いわゆる遺族扶助も拒否されておられるのです。このような人たちがたくさんおられるのですが、政府は被曝により発病死したと一切、認めようとしないのです。第五福竜丸で被曝された船員さんの中にも同じような例もあります。またこのような発症例はチェルノブイリ事故においても多く見られたことは云うまでもありません。
これらのことを踏まえた上で控訴された記録も綴られていますので転載します。
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-(小林控訴が意味するものについて)-
この訴えを起こした人(原告)は現在、東京都葛飾区亀有四丁目・・・に住む小林○○(62)という原爆未亡人。訴えの要旨は次の通りである。
夫○○はその年の四月、高崎三八部隊に応召し七月広島に転じ八月六日に被爆し、九月二二日頃自宅療養のため群馬県吾妻郡嬬恋村の本籍地に帰ったが、回復しないので翌年三月専心治療するため上京した。その頃三九・五度の発熱あり、食欲不振、全身倦怠、悪寒戦慄などの症状があり、四月四日片山医師の診察を受けたが原因不明のため四月九日夕国立国府台病院に入院したものの翌十日朝に死亡、その原因は発疹チブスとされた。
しかし、夫の死亡は発疹チブスがその契機ではあっても、その基礎疾患として原爆症があり、これが発疹チブス羅患の一因となりさらにこれを重症化し、短時日中に死亡したことの重要な因子となったものと解すべきであって、原爆症と死亡との間に因果関係を肯認することができる。
-(国側の抗弁)-
これに対し国=厚生省=の主張の要点は次の通りである。-
義雄の死亡は公務外の発疹チブスによるものであって、広島における原爆放射能により、生理的傷害を起こし、または生態防衛反応が低下しているとは考えられない。
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として、政府は一切認めず却下されているのです。この続きをもう少し明日に書きますが、ことごとく放射能による実害を認めないとする背景には核開発の存在があるわけで、またこれに関与する原爆被爆者の生体実験をしたABCCやそれを基軸にしているICRPの存在も歪めないのです・・・
2014・9・3 船橋市自宅より
ブログ管理:弓場清孝(実名)
原発日誌(266)ツイッターからの質問にお応えします 疲労困憊したおじさんのブログ 2014-09-06 21:34:43
http://ameblo.jp/masaya1015/entry-11921036459.html
ひまわり @powerpc970 4時間
.@roro101577 @ishiitakaaki @dotcom07 何を言いたいのかさっぱり。原爆による放射線障害は詐病とでも言いたいのでしょうか?でも推定被曝量と健康調査で増加はなさそうだと解っている話ですから。
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まず、私はリンチ呼びかけ人の@ishiitakaaki石井孝明などは、はっきり云わせていただくなら軽蔑させていただいております。ジャーナリストではないと考えています。面倒なので相手にしたくないのですが、あまりに善良な人たちの論調を罵倒するものですから時として怒りたくもなるのです。
ということでメンションを飛ばされたので簡単に上記の方の質問に簡単にお応えします。
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(諸悪の根源)
1945年8月30日、広島と長崎で、原爆の影響を調査するために科学者のチームを引率した。9月6日、東京の帝国ホテルで連合国の海外特派員向けに「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」とする声明を出した。
原爆放射能の後障害はありえない。広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ。
(トーマス・ファーレル[Thomas Francis Farrell]少将)
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このトーマス・ファーレルのことは多くの人が知りえてるので、人物の詳細はここでは書かないがこの発言は福島事故による放射能の後障害も過小評価あるいはなかったことにしたいのが今の政府の方針である(のと同じである)ことは言うまでもない。
広島原爆投下後の9月、米軍で最初の放射線サーベイを行ったのは、マンハッタン計画の調査チームで9月8日に広島市内で実施しているが、しかし、どのような測定器でどこを測定したのかなど、調査の細かいことは、なぜか公表されていない・・
年間の被曝線量が1ミリシーベルトと決められているのは我慢線量なのです。いわゆるここまでは我慢せえよ・・と云うのであって、100ミリシーベルトまでは安心しなさいと云うトンデモない安心神話を流しているのです。
そして、被曝地域の線引きをしたのも広島や長崎がのことを流用しているのです。原発の敷地内においても管理区域、保全区域、周辺監視区域としたのもこれと考えられるのです。壁一つ隔てれば被曝はしないと・・
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2014・9・6 船橋市自宅より
ブログ管理:弓場清孝(実名)
遠からず、日本全体が精神病棟になる日が来るのかも <この記事はいつか必ず役に立ちます> ずくなしの冷や水 2016年08月28日
http://inventsolitude.sblo.jp/article/176638905.html
「広島と長崎に測定可能な放射能なし」
http://satehate.exblog.jp/12097202/
以下、疲労困憊したおじさんのブログ記事紹介
原発日誌 広島原爆投下日 疲労困憊したおじさんのブログ 2016-08-06 08:29:05
http://ameblo.jp/masaya1015/entry-12187731399.html
71年前の今日、8月6日午前8時15分過ぎは広島に原爆が投下された日です。この原爆投下に関しては放射能が人体にどれくらいの影響を与えるかというような実験の一つでもありました。
また、この犠牲は軍人だけではなく多くの市民をまきこんだと事はいうまでもありません。
私としたら戦争の問題だけで片付けるべき事ではないと常に思っています。
昨年の8月6日に私は広島平和公園を訪れました。これには広島県人だけとしてではなく、私の生まれ育った郷里の人たちも多くの犠牲者を出しているからです。いわゆる、入市被爆者といわれる方たちです。
原爆が投下される以前の広島市内というのはB29の空爆により市内の公共施設、民家などが爆撃によって延焼していたのですが、その延焼を防ぐために私の郷里からも消防団などから自警団のような部隊が300名くらい編成され広島市内に出向かれ延焼の片付けなどに従事されていたのです。
時に8月6日午前15分過ぎ、宿舎から作業に出発しようと出たとたん、、、、ピカァ・・・・・ドーン
多くの命が失われた瞬間です。
そして、翌日から数日間は先に広島入りした人たちの親族の方たちが探しに広島入りをされたのです。
「おぉい、高蓋村の者はおらんか!おおぃ小畠村のもん、、、」焼跡の中をそう叫び探されたのです。
このように高い線量の中も当時ですからせいぜい手拭いなどで口鼻を押さえながらでしょうが、今のような全面マスクだとか防護服だとかはあるわけはありません。
とうぜん被ばくのリスクを抱えての捜索でしたから帰郷されてから数年後、数十年後に被ばくによるあらゆる症状が出られた事はいうまでもありません。
原発日誌(265)一握乃灰から見えてくるもの・・ 疲労困憊したおじさんのブログ 2014-09-03 05:02:20
http://ameblo.jp/masaya1015/entry-11919210440.html
この「一握乃灰」の中において入市被曝され、すなわち入市というのは前述したとおり原爆が投下された後、2週間以内に広島市の爆心地から2・5㌔範囲に入られた人のことを指すのですが、帰郷後10年や20年経ても内部被曝により発病され亡くなられた方も当然おられるのですが、その記録も綴られてあるので転載させていただきます。尚、最初の箇所は個人名が記されてあるので省略しました。
この記事は史実を元に書いています。コメントも是非お願いします。
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-(十年も経って赤い斑点)ー
夫が帰ったときは医者がいなかったので、塩野義のビタミン剤をのませたり、外用薬をぬったりしました。だんだん腫れがひいて、年末頃には三キロほど歩いて病院へ行くようになり、五年ぐらい後には体力も少し回復したかに見えましたが、十年も後の60年初め再発したので入院させました。病院では苦しみ通しで、昏睡状態に陥り入院後七十日ほどで死にました。家へ運んでから湯かんするため裸にしたら、全身に茶色の斑点があり、驚きました。病名はたしか慢性肝炎だったと思いますーと
-(二十年も経ってから)-
色いろ手を尽くした結果、帰ってから三年もして大体快くなったようでした。仕事らしいことはしませんでしたが畑などを少しつっついてくれたと思います。
ところが忘れもしない67年三月十六日突然発病し、高熱が続き歯が抜けて物もいえず食うこともできなくなり、ヨダレを流すようになり、五日くらい苦しんで死にました。
当座は悲しさで何も手につきませんでしたが、少し落ちついてから聞いてもらったところ、役所では何もしてくれませんでした。人並みなこともしてくれないのかと腹が立ったが、今はそれもあきらめてお墓詣りをして自分を慰めておりますーと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
下の人(二十年も経ってから)の場合には役所は何もしてくれないとありますが、いわゆる遺族扶助も拒否されておられるのです。このような人たちがたくさんおられるのですが、政府は被曝により発病死したと一切、認めようとしないのです。第五福竜丸で被曝された船員さんの中にも同じような例もあります。またこのような発症例はチェルノブイリ事故においても多く見られたことは云うまでもありません。
これらのことを踏まえた上で控訴された記録も綴られていますので転載します。
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-(小林控訴が意味するものについて)-
この訴えを起こした人(原告)は現在、東京都葛飾区亀有四丁目・・・に住む小林○○(62)という原爆未亡人。訴えの要旨は次の通りである。
夫○○はその年の四月、高崎三八部隊に応召し七月広島に転じ八月六日に被爆し、九月二二日頃自宅療養のため群馬県吾妻郡嬬恋村の本籍地に帰ったが、回復しないので翌年三月専心治療するため上京した。その頃三九・五度の発熱あり、食欲不振、全身倦怠、悪寒戦慄などの症状があり、四月四日片山医師の診察を受けたが原因不明のため四月九日夕国立国府台病院に入院したものの翌十日朝に死亡、その原因は発疹チブスとされた。
しかし、夫の死亡は発疹チブスがその契機ではあっても、その基礎疾患として原爆症があり、これが発疹チブス羅患の一因となりさらにこれを重症化し、短時日中に死亡したことの重要な因子となったものと解すべきであって、原爆症と死亡との間に因果関係を肯認することができる。
-(国側の抗弁)-
これに対し国=厚生省=の主張の要点は次の通りである。-
義雄の死亡は公務外の発疹チブスによるものであって、広島における原爆放射能により、生理的傷害を起こし、または生態防衛反応が低下しているとは考えられない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
として、政府は一切認めず却下されているのです。この続きをもう少し明日に書きますが、ことごとく放射能による実害を認めないとする背景には核開発の存在があるわけで、またこれに関与する原爆被爆者の生体実験をしたABCCやそれを基軸にしているICRPの存在も歪めないのです・・・
2014・9・3 船橋市自宅より
ブログ管理:弓場清孝(実名)
原発日誌(266)ツイッターからの質問にお応えします 疲労困憊したおじさんのブログ 2014-09-06 21:34:43
http://ameblo.jp/masaya1015/entry-11921036459.html
ひまわり @powerpc970 4時間
.@roro101577 @ishiitakaaki @dotcom07 何を言いたいのかさっぱり。原爆による放射線障害は詐病とでも言いたいのでしょうか?でも推定被曝量と健康調査で増加はなさそうだと解っている話ですから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず、私はリンチ呼びかけ人の@ishiitakaaki石井孝明などは、はっきり云わせていただくなら軽蔑させていただいております。ジャーナリストではないと考えています。面倒なので相手にしたくないのですが、あまりに善良な人たちの論調を罵倒するものですから時として怒りたくもなるのです。
ということでメンションを飛ばされたので簡単に上記の方の質問に簡単にお応えします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(諸悪の根源)
1945年8月30日、広島と長崎で、原爆の影響を調査するために科学者のチームを引率した。9月6日、東京の帝国ホテルで連合国の海外特派員向けに「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」とする声明を出した。
原爆放射能の後障害はありえない。広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ。
(トーマス・ファーレル[Thomas Francis Farrell]少将)
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このトーマス・ファーレルのことは多くの人が知りえてるので、人物の詳細はここでは書かないがこの発言は福島事故による放射能の後障害も過小評価あるいはなかったことにしたいのが今の政府の方針である(のと同じである)ことは言うまでもない。
広島原爆投下後の9月、米軍で最初の放射線サーベイを行ったのは、マンハッタン計画の調査チームで9月8日に広島市内で実施しているが、しかし、どのような測定器でどこを測定したのかなど、調査の細かいことは、なぜか公表されていない・・
年間の被曝線量が1ミリシーベルトと決められているのは我慢線量なのです。いわゆるここまでは我慢せえよ・・と云うのであって、100ミリシーベルトまでは安心しなさいと云うトンデモない安心神話を流しているのです。
そして、被曝地域の線引きをしたのも広島や長崎
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2014・9・6 船橋市自宅より
ブログ管理:弓場清孝(実名)
遠からず、日本全体が精神病棟になる日が来るのかも <この記事はいつか必ず役に立ちます> ずくなしの冷や水 2016年08月28日
http://inventsolitude.sblo.jp/article/176638905.html
「広島と長崎に測定可能な放射能なし」
http://satehate.exblog.jp/12097202/