華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「自分探し」と「自己実現」を嫌悪する(2)

2006-10-30 23:54:28 | 本の話/言葉の問題

 数日前に「自分探しと自己実現を嫌悪する」という記事を書いた(この日はエントリが2つあり、同記事は下の方)。この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。

〈(2)へ向けての序〉

 この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。

 今日はその異論を紹介しながら、もう1度私の考え方を整理してみたい。ただ、私がいったい何を書いたのかわからないと、多分話がよく見えないだろう。でも普通は「いちいち前の記事なんか読んでられるか、面倒臭い!」になるはずなので、記事の一部をコピーしておく。

《「自分探し」や「自己実現」。私はこの言葉を聞くたびに、嘘くささと嫌らしさを感じて鳥肌が立つ。自分探し? 探さないとみつからないなんてわけ、ないだろ。自分は今ここに、厳然と存在しているのだから。そして逆の言い方をすれば、「私は何ものであるか」「何のために生まれ、そして生きているのか」などという根源的な問いに対する答えなど、簡単に見つかるとはとても思えない。私も考えてみれば結構な年月生きてきたけれども、いまだに「自分という存在(と、その意味)」はよくわからないままだ。おそらく、死ぬまでわからないだろう。問うことそのものが、生きるということであるのかも知れない。(中略)自己実現」も同じことだ。私がいま、ここにある。私は私以外の何者でもない。それが即、自己の実現であり、日々生活し、自分の頭でモノを考えていくほかに自己を実現する方法はないはずなのに、なぜ蜃気楼を求めねばならないのか。》

〈「自分」は探せば見つかるのか〉

 以下、紹介するコメントも、途中を略してある。全文お読みになりたい場合は、10月25日のエントリのコメント欄を見てください)

【>いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分なのだ     まことにごもっともなんですけれど、(中略)いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分だと腑に落ちていない自分。そんな自分は、自分探しをするほかありません。そうせずにはいられないのではないでしょうか? それがたとえ嘘であっても、自分が空っぽであることを誤魔化すために塗り固めなければならない、自分。自分探しがダメなら、空虚な自分は誤魔化しようがなくなります。(中略)

>「庶民」の足腰が弱まりつつある     のはその通りでしょう。庶民が庶民いられる共同体が破壊され、人は孤独を強いられるようになってきています。人はそんなに強くありません。強くなるとすると、それは自分探しの旅路の中でです。(以下略)】(愚樵さん) 
 
【ここでは一刀両断の下に斬られた「自分探し」。 しかし、私は好きですね「自分探し」。 いえね。この歳になると「生きることと死ぬこと」がギリギリの接点でせめぎ合う時を肌で感じるのです。 そんな時ふと思うのです。 「人間ってなんだろう???
生きるとは何か? そして、今ここにいる自分とは何か」って。 そうしたら矢張り自分探しをするのです。 簡単に手放せない自分ってものと対峙します。(中略)  人は死ぬまで自分のことは分からない。 釈迦は分からないことは考えるな、討論するなと言われました。 が、釈迦でない私は迷うし、たゆたう。 そしてこんな自分が好きだと受け入れるために浅知恵でのたうちまわりながら自分を探している者がいるということも、どうぞお知りおきください。 】(せとともこさん

 う~ん。お二人の意見は、わかる気がする。確かにそうかも知れないと思う(私はひとの意見を聞くと、結構そうだなあと頷いてしまう人間なのだ)。おそらく私達は、 
死ぬまで見つからないとわかりつつも、 「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」「自分に生きる意味はあるのか」という問いを続けているのだろう。言葉を変えれば、探し続けなければいられないのだろう。

 だが、それは「自分探し」ではない――と私は思う。少なくとも、世の中で広く言われている類のものではない。「本当の自分」というものが何処かにあるから探しましょう、見つかったらおめでとう、というものではあるまいと思ってしまうのだ。

「今ここに存在している自分が、掛け値無しの自分」と私は書いた。とは言え、その存在が腑に落ちているわけでもない。違和感もあり、これが自分かよと情けない思いもある。しかしそれでもなお、「今ここに存在している自分」と向き合い、付き合ってやる以外、荒野を旅する旅も始まらないのである。影法師を無くしたり探したりすることはできないように、私達は「今ここにある自分」以外の自分を探し出すことはできないのだ。そして「今ここにある自分」が自分であると思うからこそ、「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」等々の問いも命を持つのではないだろうか。

〈不安を煽るかけ声〉

「自分探し」と並んで――というより、自分探し以上に嫌いなのが「自己実現」である。自己実現という「言葉」自体には、何の色も着いていない。プラス・マイナスどちらの意味もない、と言ってもよい。その点を取り上げたコメントもあった。

【これは言葉の定義の問題だと考えています。】 (村野瀬玲奈さん)

 村野瀬さんはいつも私の記事の不備を補うコメントを書いて下さったり、貴重な情報を教えて下さる方である。本当に感謝しているのだが、今回のコメントだけは頷けなかった。むろん、言葉というものは――特に抽象的なそれは、人によって定義やイメージがかなり違う。たとえば「焼きサンマ」と聞けば人によって思い浮かべるイメージは少しずつズレるだろうが、まるきり違うということは多分ない。「君が代」と聞けば、誰でもあの歌を思い浮かべるはずだ(好き嫌いなど、対象に抱く感情は別)。 だが、「愛」「信仰」「労働」といった抽象的な言葉は、人によっては天と地ほど違っていたりするのだ。

 だが、私が前回の記事で書きたかったのは、定義の問題とはあまり関係ない話である。「自己実現」という「言葉」には罪?はない。私もこの言葉自体が嫌いなわけではない。ただ、世の中で声を揃えて叫ばれる「自己実現」が、そして自己実現、自己実現と煽り立てる風潮が何ともおぞましいのだ。

 自己実現という言葉がこんなに広く使われるようになったのは、いつ頃だろう。少なくとも私の子供の頃は、日常的に使われる言葉ではなかった。学生の頃はどうだっろう? 時には使われていたかも知れないが、今ほど氾濫していなかったのは確かである。いつの間にか巷に溢れ、学校にも職場にも家庭にもテレビの画面にも溢れ、公園のベンチの隅やダイニング・テーブルの上やベッドの中にまで転がっているような感じになった。それにつれて軽く薄っぺらくなり、ほんの少し努力すれば誰でも出来る、出来なければおかしいもののようになった。そして、人を「自分は自己実現できていないのではないか」という不安に陥れる。不安に陥った人間は、何らかの「具体的な依りどころ」を示したい者達の格好の餌食になるのだが。

 最後にしつこく、前回も書いた文を繰り返しておこう……。 

《自分探しをしようよ、自己実現しようよ、と煽る根底には、「勝ち組/負け組」などという不潔な言葉でひとを選別するのと同じ思想が流れている。首尾良く自分をみつけられたら勝ち、自己実現できたら勝ち。これは露骨な競争である。 》

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教育「改革」って何だ

2006-10-27 23:16:07 | 憲法その他法律

 最近、教育改革国民会議の「トンデモ発言」(人間性教育の具体策に関する各委員の意見、提案)が話題に上っている。

 昨日はお玉さんも記事の中で触れておられたが、私は「美しい季節とは誰にも言わせまい……」(nizanさん)10月9日付けエントリでこれを初めて知り、大笑いしてしまった。おもしろいですよ。まだ見ておられない方は、冒頭でリンクした教育改革国民会議のサイトをぜひ覗いて御覧ください。有識者なる人々が真面目にこんなことを話していたのかと思うと、あほらしいやらナサケナイやら。既に多くの方が書いておられると思うので今さらだけれども、私もほんの一部を紹介して素朴な疑問・感想を付け加えておこう。

〈子供への方策の例〉

○団地、マンション等に「床の間」を作る ○学校に畳の部屋を作る ――→ 床の間は作りたい人は作ればいいし、畳の部屋もあれば何かと便利かも知れないが(板の間と比べればゴロ寝しやすいなど)、あったからといって子供の育成に役立つというものではないだろう……。もしかすると、日本の伝統文化を大切にするとか、そういう話につながっているのだろうか。それとも「床の間を背負って座るお父さん」の復活?や、畳で正座させることを夢想(妄想)しているのだろうか。

○遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の「我慢の教育」をする ――→ 軍隊や体育系のクラブなどの「しごき」を連想してしまう……。ついでに企業の「みそぎ研修」(寒中、裸で川の水に浸かる)を連想したり。いずれも精神力や体力を鍛えるためと称されているが、何のことはない、仮面をかぶったサディズムだと私は思っている。 

○スポーツを通じて人間性をはぐくむ ――→ 私は自分がスポーツに興味ないせいか、スポーツに何か特別な意味合いを付与されると居心地が悪くて仕方ない。スポーツでも何でもそうだが、人間性がはぐくまれることあるし、人間性が損なわれることもあるのです。 

○満18歳ですべての国民に1年ないし2年の奉仕活動を義務づける ――→ 奉仕活動? まさか勤労奉仕ではないでしょうね。各種のいわゆるボランティア活動を指しているのだろうが……あれは義務づけられてやるもんじゃないでしょう。言葉の意味から言っても、「任意の、自発的な行為」であるはず。義務づけられものは単なる「ただ働き」。 義務づけられたりしたら、「ボランティア活動」が可哀想だ。

〈地域や家庭で(大人が)取り組むことの例〉

○大人自身が反省する ――→ 真っ先に反省してもらいたい人達が……。 

○親が人生の目的を持つ ――→ 大きなお世話。誰だって目的を持っているとも言えるし、目的を模索しながら生きているとも言える。それに目的にもいろいろありますが、何でもいいのでしょうか、有識者の先生方?

 そして、極めつけは、以下の――

〈行政で取り組むことの例〉

○子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう ――→ へ? 子供って、飼い馴らすものだったんですか。この年になるまで知りませんでした。すごいなあ。まあ国家としては、飼い馴らされた国民が欲しいんでしょうけどね。

○家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して古来の諺などを呼びかける ――→ ことわざ……ねぇ。これも床の間や畳と同じで、発想が短絡的と言うか。第一、対話の土壌なんか、わざわざ行政に作ってもらわなくていいのです。

○一定レベルの家庭教育がなされていない子どもの就学を保留扱いする ――→ 家庭教育度のテストでもするんですか。まさか「家庭で君が代を教わっていない子供はダメ」だったりするんじゃあ、ないでしょうね。

○ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う ○教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする ――→ この言葉だけで、充分にショックです。

◇◇◇◇◇

 子供は社会の鏡、とやら。勝ち組だ負け組だと騒いだり、ワーキング・プアが増える一方であったりするような社会で、子供だけが「すくすくと」育つわけはありませんって。教育がどうのこうのという前に、することがあるのでは。

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教育基本法が危ない!

2006-10-26 02:22:23 | 憲法その他法律

 先日の衆院補選は、神奈川も大阪も自民党が勝利した。中川秀直幹事長は開票後の記者会見で「安倍政権が信任を得た」と語ったという。さらに「我が党は補選で教育基本法の改正などを訴えた。それに対する信任をいただいた」と強調。「重要法案」の成立へ向けて、自信たっぷりの様子がわかる。

 重要法案の中でも、特に最重要課題は教育基本法の改定。しゃにむに押し切ろうとしてくるだろうな、という不安で胃の具合がおかしくなりそうだ。ささやかな抵抗であるかも知れないが、「教育基本法に関する特別委員会」のメンバーに対して「改定反対」の意思表示をしたいと思う。

 お玉おばさんハムニダ薫さん などが、ブログに同委員会の名簿を載せておられる。そちらを参照していただくのが一番よいのだが、詳しすぎてプリントアウトするのが大変、などという方もおられるかも知れないので、それの簡易版を作成してみた。電話とFAXは原則として議員会館内直通番号のみ。直通番号やFAX番号を公表していない議員の場合のみ、地元の事務所の電話などをピックアップしてある。皆さん、どうぞお使いください。

 最も有効なのは直接電話することらしいし、メールよりはFAXの方が有効とも聞くが、自分が最も採りやすい手段でいいと思う。私の場合で言えば、落ち着いて作業できるのは主に夜遅い時間か早朝。電話しても相手はいないので(いたとしても、叩き起こすことになるので不愉快に思われて逆効果)、たいていFAXを利用する。FAXを持たない方や、FAX送信は手間がかかって……という方はメールだってかまわないと思う。ひとりでも多くの有権者が、手の空いた時にひとつでも多くの「意見」を届けることが最も重要であるのだから。

◇◇衆議院 教育基本法に関する特別委員会 名簿(2006年10月)簡易版◇◇

注=【】内が連絡先で、原則としてHPのURL、メールアドレス、電話、FAXの順番

森山 眞弓(もりやま まゆみ)自民、特別委員会委員長【http://www.mayumi.gr.jp/    webmaster@mayumi.gr.jp   TEL:03-3508-7527 FAX:03-3597-2753】

西 博義(にし ひろよし)公明、特別委員会理事【http://www7.ocn.ne.jp/~nishi-24/  g03339@shugiin.go.jp ; nishi-24@po.sphere.ne.jp    TEL 03-3508-7389 FAX 03-3508-3509】

馳 浩(はせ ひろし)自民、特別委員会理事【http://hasenet.org/   hase@po.incl.ne.jp   TEL(代表)03-3581-5111 内線5609 FAX 03-3508-3609】

岩永 峯一(いわなが みねいち)自民、特別委員会理事【http://www.iwanaga.gr.jp/   info@iwanaga.gr.jp   TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) FAX:03(3597)2743】

河村 建夫(かわむら たけお)自民、特別委員会理事 【http://www.tspark.net/   ymg@tspark.net   TEL:03-3581-5111 内線7209・8209】

町村 信孝(まちむら のぶたか)自民、特別委員会理事【http://www.machimura.net/   info@machimura.net   TEL:03-3581-5111 FAX:03-3502-5061】

鈴木 恒夫(すずき つねお )自民、特別委員会委員(以下、すべて委員)【http://www.tsunesan.net/   info@tsunesan.net   TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) TEL:045-474-1300 FAX:045-474-1515(鈴木恒夫事務所)】

松浪 健四郎(まつなみ けんしろう)自民【http://www.kenshirou.com/top.htm   info@kenshirou.com   TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) TEL:072-469-1800 FAX:072-469-1818(松浪健四郎事務所)】

石井 郁子(いしい いくこ)共産【http://www.ishii-ikuko.net/    http://www.ishii-ikuko.net/mailform/mailform.html   TEL:03-3508-7194 FAX:03-3508-3624】

井脇 ノブ子(いわき のぶこ)自民【http://www.yaruki-genki-iwaki.com/   info@yaruki-genki-iwaki.com   TEL: 03-3508-7741 FAX: 03-3508-3061】

奥村 展三(おくむら てんぞう)民主【http://www.okuten.com/   okumura@okuten.com   TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) TEL:0748-72-3883 FAX:0748-72-3884(奥村展三後援会 湖声の会 事務所) 】

野田 佳彦(のだ よしひこ)民主【http://www.nodayoshi.gr.jp/   post@nodayoshi.gr.jp   TEL03-3508-7141 FAX03-3508-3441,274-0077】

保坂 展人(ほさか のぶと)社民【http://www.hosaka.gr.jp/   info@hosaka.gr.jp   TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) TEL:03-5477-7377 FAX:03-5477-6067(保坂展人世田谷事務所) 】

牧 義夫(まき よしお)民主【http://www.makiyoshio.jp/ (メールはサイト内フォーム「メールを送る」から)   TEL:03-3508-7133 FAX 03-3508-3433】

松本 大輔(まつもと だいすけ)民主【http://www.dakara-daisuke.com/    http://www.dakara-daisuke.com/mail.html  TEL:03-3508-7475 FAX:03-3508-3355】

横山 北斗(よこやま ほくと)民主【http://webhokuto.com/    webmaster@webhokuto.com   TEL:03-3508-7026 FAX:03-3508-3826】

糸川 正晃(いとかわ まさあき)国民【http://www.itokawa-masaaki.jp/    info@itokawa-masaaki.jp   TEL:03-3508-7039 FAX:03-3508-3839】

田中 眞紀子(たなか まきこ)民主 【TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) 】

稲田 朋美(いなだ ともみ)自民【http://www.inada-tomomi.com/   TEL:03-3508-7035 FAX:03-3508-3835 】

稲葉 大和(いなば やまと)自民【http://www.inabayamato.com/    inaba-gosen@post.email.ne.jp   TEL:03-3508-7504 FAX:03-3506-8679】

猪口 邦子(いのぐち くにこ)自民【http://www.kunikoinoguchi.jp/   TEL:03-3508-7271 FAX:03-3508-3130 】

上野 賢一郎(うえの けんいちろう)自民【http://www.ueno-k.net/    office@ueno-k.net   TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) TEL:077-511-0139 FAX:077-511-0113(上野賢一郎後援会事務所)】

臼井 日出男(うすい ひでお)自民【http://www.usui.gr.jp/    http://www.usui.gr.jp/hp/message/message.html   TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) FAX:043-243-3337(うすい日出男事務所) 】

大島 理森(おおしま ただもり)自民 【http://www.morry.jp/    info@morry.jp    TEL 03-3508-7502 FAX 03-3502-5082】

海部 俊樹(かいふ としき)自民【http://www.anan.ne.jp/kaifu    g01205@shugiin.go.jp    TEL:03-3508-7450 FAX:03-3502-5859】

北神 圭朗(きたがみ けいろう)民主【http://www.kitagami.gr.jp/   info@kitagami.gr.jp    TEL:03-3508-7638 FAX:03-3508-3268】

北村 誠吾(きたむら せいご)自民【http://www.seigo.info/    momotaro@seigo.info    TEL:03-3508-7627 FAX:03-3508-3257】

斉藤 鉄夫(さいとう てつお)公明 【http://www.t-saito.com/    office@t-saito.com    TEL:03-3508-7308 FAX:03-3501-5524】

斉藤 斗志二(さいとう としつぐ)自民【http://toshitsugu.com/    104cafe@toshitsugu.com    TEL:03-3581-5111(内線5333) FAX:03-3501-7525】

坂口 力(さかぐち ちから)公明【http://www.s-chikara.com/    TEL:03-3508-7187 FAX:03-3508-3617 】

佐藤 剛男(さとう たつお)自民【http://www.satotatsuo.jp/    utsukushimafukushima@satotatsuo.jp    TEL:03-3508-7625 FAX:03-3592-5670】

島村 宜伸(しまむら よしのぶ)自民【http://www.shimamura-yoshinobu.com/menu/index.html    tokyo-office@shimamura-yoshinobu.com   TEL:03-3618-1414 】

土肥 隆一(どい りゅういち)民主 【http://www.d-wa.co.jp/doi/    g02967@shugiin.go.jp    TEL:03-3508-7288 FAX:03-3593-6266】

戸井田 とおる(といだ とおる)自民【http://www.toidatoru.com/    http://www.toidatoru.com/contact/    TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) TEL:0792-81-7700 FAX:0792-81-7707(戸井田とおる姫路事務所)】

中井 洽(なかい ひろし)民主【http://www.nakai-hiroshi.net/    info@nakai-hiroshi.net    TEL:03-3508-7263 FAX:03-3592-9044】

中山 成彬(なかやま なりあき)自民【http://www.nakayamanariaki.com/    http://www.nakayamanariaki-fan.com/inquiry.php    TEL:03-3508-7451 FAX:03-3597-2757 】

西川 京子(にしかわ きょうこ)自民【http://www.nishikawa-kyoko.jp/    TEL:03-3508-7150 FAX:03-3508-3640 】

西村 智奈美(にしむら ちなみ)民主【http://www.chinami.net/    http://chinami.net/contact+index.htm    TEL:03-3508-7404 FAX:03-3508-3884 】

羽田 孜(はた つとむ)民主【http://www.t-hata.com/    t-hata@nifty.com    TEL:03-3508-7324】

鳩山 邦夫(はとやま くにお)自民【http://hatoyamakunio.org/   TEL:03-3508-3843  FAX:03-3580-8001 】

保利 耕輔(ほり こうすけ )無【TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表) TEL:0955-73-6411 FAX:0955-70-1132(保利耕輔事務所)】

森 喜朗(もり よしろう)自民【http://www.mori-yoshiro.com/    TEL:03‐3508‐7059 】

やまぎわ 大志郎(やまぎわ だいしろう)自民 【http://www.yamagiwa-daishiro.jp/    http://www.yamagiwa-daishiro.jp/iken/index.html    TEL:03-3508-7298 FAX:03-3508-3508 】

若宮 健嗣(わかみや けんじ)自民【http://k-wakamiya.com/    TEL:03-3508-7436 】

渡部 篤(わたなべ あつし)自民【http://www.akina.ne.jp/~atushi/   atunao2002@yahoo.co.jp    TEL:03-3508-7607 FAX:03-3508-3987】

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「不安倍増内閣」だそうです

2006-10-25 19:52:24 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 私も参加しているUnder the Sunの本日のコラムに、実におもしろい一文があったのでご紹介したい。コラムのタイトルは「『不安倍増』内閣」、書かれたのは「再出発日記」のくまさんである。

◇◇◇以下、コピー

安倍首相が出てきて「みなさん、私の名前は安倍です。よく「安部」とか「阿部」と書き違える人がいます。注意してください。」 と言っている。
頑固風のおじいちゃんがそれに応える。
「あたしゃあ、すぐ覚えたよ。「不安倍 増」内閣と覚えりゃ間違いないよ。」

――コピーはここまで◇◇◇

 いや、笑った。笑いました。むろんこの後でくまさんはご自身の「倍増する不安」について書いておられるわけで、皆さんにはぜひそれをお読みいただきたいわけだが、それにしても……言い得て妙。

 私も書き間違えます、確かに。皆さん御同様だと思うが、「あべ」と入力するとまず阿部、安部などと変換されることが多く、うっかりそのまま確定してしまうんですよね。でも今日からは反射的にチェックする習慣がつきそうだ。はい、皆さんも今日から絶対に間違えませんね(笑)。

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「自分探し」と「自己実現」を嫌悪する

2006-10-25 01:18:49 | 本の話/言葉の問題

〈長い前書き――ブログを読む楽しみ〉

 何かを読むことの楽しさのひとつは、自分の頭(?)が刺激を受けることだ。自分の中でボンヤリとではあれ「考えてみる」課題が増えたり、新しい視点や道筋のたどり方に気付いたり……。読む対象は、以前はほとんど「本」だった。私はインターネットを比較的早く利用し始めた方で、さまざまなサイトを開いて読む習慣は結構長いのだが、最近まではネットは単なる情報源という意味合いが強かった。仕事の必要性から始めたため、そうなったのかも知れない。

 だが去年自分でブログなるものを始め、少しずつTBを送ったり送られたりするようになってから、本のほかにブログを読む楽しみも増えた。ひとのブログを読んでいると、「ああ、こういう問題があったのか」「こんな見方(や感覚など)もあるのか」等々、刺激になること夥しい。

 で、刺激されると私の中で自然とスイッチが入り、同じ問題、あるいは関連した問題をボーッと考え始める。今頭の中で渦巻いているのは、とむ丸さんの「『自分探し』雑感」を読んで引き出されたことども。忘れないうちに、それを簡単にメモ書きしておこう。

〈気持ちの悪い言葉たち〉

 私は嫌いなものの多い人間である。国旗・国歌も(何処の国のものであっても)嫌いだし、制服も嫌いだし(※1)、勇ましい言葉やマッチズモも嫌いだし、上から目線でモノ言う奴も嫌いだし、想像力の乏しい奴も嫌いだし、変にこまっしゃくれた子供も嫌いだし、松下政経塾も嫌いだし、……むろん戦争も人殺しも嫌いだ。ついでに言うと納豆とゲテモノ、そして亀の子記号も(これは私が化学が完璧に苦手だったせいもあるが……)嫌いである。

(※1余談的注=私はこの年になるまで君が代を歌ったことはない。制服も――実を言うと学生時代のバイトで制服?というかお仕着せを着せられたことがあるが、その時以外には着たことはない。君が代を歌わずにすみ、制服を着ずにすむ所を選んで生きてきたのだ。ささやかで、ある意味つまらない意地の張り方かも知れないけれども)

 その山ほどある「嫌いなもの」のひとつが、「自分探し」および「自己実現」という言葉だ。もともと私は「綺麗に聞こえる言葉」が気持ち悪く、かつ大っ嫌いである(※2)。キンキラキンの衣装に身を固めて厚化粧し、そのくせ相手を値踏みするような冷たい眼をした「美人」に、流し目されたみたいでゾッとする。「大義」しかり「命を賭ける」しかり「無私の愛」しかり、そして「愛国心」しかり、「美しい国」しかり。

(※2余談的注=これは単なる性癖なのだけれども、私は言葉というものに妙なこだわりを持っている。そのこだわりについては何度か書いてきた。たとえば「言葉を奪い返そう」など)

〈私とは何か?は生涯の課題〉

 そして……「自分探し」や「自己実現」。私はこの言葉を聞くたびに、嘘くささと嫌らしさを感じて鳥肌が立つ。自分探し? 探さないとみつからないなんてわけ、ないだろ。自分は今ここに、厳然と存在しているのだから。

 そして逆の言い方をすれば、「私は何ものであるか」「何のために生まれ、そして生きているのか」などという根源的な問いに対する答えなど、簡単に見つかるとはとても思えない。私も考えてみれば結構な年月生きてきたけれども、いまだに「自分という存在(と、その意味)」はよくわからないままだ。おそらく、死ぬまでわからないだろう。問うことそのものが、生きるということであるのかも知れない。

 私とは――人間とは何か、というのはヒトが生涯を費やして答えていく課題であるにもかかわらず、少しばかりの努力をすれば簡単に解答が得られるように見せかけている、そのこと自体に私は限りなく危うさを感じる。

「自己実現」も同じことだ。私がいま、ここにある。私は私以外の何者でもない。それが即、自己の実現であり、日々生活し、自分の頭でモノを考えていくほかに自己を実現する方法はないはずなのに、なぜ蜃気楼を求めねばならないのか。

〈煽る言葉に踊らされるな〉

 いや、求めているのではあるまい。求めさせられているのだ。本当の自分というものが何処かに存在し、それを見付けられないのはアホだと言わんばかりの風潮。自己実現なるものが存在し、それをするのがスバラシイことであると煽り立てる風潮。

 私は自分探しにも自己実現にも縁のない人間だが、それゆえに断言できる。「自分探し」や「自己実現」なんて何の値打ちもない。そんな言葉に踊らされるのはもうやめようよ、と。自分探しをしようよ、自己実現しようよ、と煽る根底には、「勝ち組/負け組」などという不潔な言葉でひとを選別するのと同じ思想が流れている。首尾良く自分をみつけられたら勝ち、自己実現できたら勝ち。これは露骨な競争である。

 少し話が逸れるが、私は「オリジナリテイー」だの「アイデンティティー」などという言葉も好きではない。少なくとも私の場合に限って言えば――「そんなもん、あるかよ」である。自分がもう少し優秀な人間であったならそれらにこだわったかも知れないが、私は自分がその他大勢、ひと山いくらの人間だということぐらいは知っている。私の考えることも思いつくことも、別段、驚天動地のものではない。大勢の人が、同じようなことを考え、思いつくはずだ。

 それに(同じことを多くの人が知っている・考えている・分析している……etc)耐えられない場合、ひとは「自分探し」や「自己実現」の幻想にしがみつくのだろう。他人とは違うことを言いたい&やりたい、他人よりも何メートルか先を走りたい、拍手喝采されたい。……そういう渇きと喘ぎが、自分探しなる言葉に煽られる。

〈「約束の地」は存在しない〉

 いまここに存在する自分は、本当の自分ではない。本当の自分はもっと生き生きとして、自分の能力を最大限に発揮しているはずだ。何処かに「約束の地」があるはずだ。――そういった幻想を利用して「おまえは特別」「おまえは選ばれた民」と囁き、脆い自尊心をくすぐる者達がいる。

 いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分なのだ。自尊心なんか無ぇ、その他大勢のいくじなしで結構だ、他者から保証される約束の地なんか関係ねぇ――いうある種の開き直りなしでは、世の中は変わらないかも知れない。

「自分探し」等々、類似の言葉の氾濫の中で、私は「庶民」の足腰が弱まりつつあることをひしひしと感じる。あるいは「弱められつつあることを……」と言うべきか。

(疲れているので今日はここまで。機会があれば後日また、ボンヤリ考えたことの続きをメモすることにしたい)   

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「拉致問題集中報道」要請と70年前の政府の指導

2006-10-23 23:59:06 | マスコミの問題

 御存知の方も多いと思うが、『資料 日本現代史』という13巻の本がある(発行は大月書店)。閣議決定されたナントカ要綱などのいわゆる公文書や、政府の調査、ナントカ局長の演説、といったものを集めた資料集である。

 難点の1つは高価なこと(約20年前の発行当時で1巻1万円近い定価が付いている。私は以前古書店でみつけたものの、さすがに全巻揃いは手が出ず、バラで出ていたものを一部だけ買った)だが、多分大きな図書館には置いてあるはずなので、暇な時に見掛けたらめくってみられては? もう1つの難点は……資料の多くが「漢字とカタカナ」であることだ。ひらがな混じり文の読み書きが習慣になっている現代人にとっては、かなり読みにくい……。これは私だけかも知れないが、普通の文章を読むのに比べてスピードが20~30%ぐらい落ちる感じがする。だから斜め読みでは頭に入りにくいのだけれども、正確に記憶しておこうなどとは思わず、現代史を理解する助けになれば程度の感覚で漠然と眺めるにはそれなりに結構おもしろい。

 それはさておき。ちょっと必要があって第10巻「日中戦争期の国民動員」をめくっていた時、偶然に「新聞指導要領」(1939年4月26日、内閣情報部)のページが開き、思わず本棚の前に座り込んで全部読んでしまった。これは日中戦争期の世論指導策の一環として、政府が新聞に対して「報道の基本方針」を示したものである。全文紹介する気はむろんないが、基本方針の第一は次のようなものである。(漢字は新漢字に改めてある。またこの文書は珍しくカタカナではなく平仮名を使用)

【新聞は政治、経済、社会、其の他各方面に於て(一)東亜新秩序建設の意義 (二)時局の多難複雑性 (三)時局打開の諸対策 (四)国民精神の昂揚 につき国民の理解啓発を促すことを編集の根本態度とすべきこと】

 そしてたとえば「新東亜秩序の建設は正義であり、それを完成するのが国民の栄光ある責務であること」、「列国(英米など)が我が国の国力の消耗を企画しつつあるため、国際関係が複雑・重大になる可能性があること」等々の趣旨に添って記事を作るようにという具体的な指導がなされている。また、海外のニュースの取り扱いや国際問題の解説については、「英米仏が日独伊の連帯を阻害するために宣伝謀略を用いて我が国の世論の分裂をはかっているので、それをよく考慮した上で扱うように」、「列国の干渉圧迫は断固として排撃するという世論の確立を目指すように」といった指導もあった。

 読みながらふと思い出したのが、総務省がNHKに対し、短波ラジオ国際放送で拉致問題を重点的に扱うよう要請したというニュースである。既に新聞各紙でも報道されているし、ハムニダ薫さんなどのブログでも扱われているので、皆さんよく御存知のはずだ。

 多くの方は「冗談じゃないぜ」と憤慨なさる、あるいは不快感を覚えられるはずなので私までシタリ顔で意見述べる気はない。ひとつだけ、感想を書いておくにとどめる――マスコミは原則として、何ものにも縛られない自由な立場であるはず。むろん政党や宗教団体の新聞雑誌もあるし、企業のPR誌というものもある。そういう「立場のはっきりした」媒体も存在してかまわないし、存在意義もあるけれども、ジャーナリズムというのは元来は「歪められない事実」の報道者であると共に記録者であり、権力の暴走に歯止めをかける役割を担っているはずだ(これは理想論であり、現在のマスコミがそうだと言っているわけではない。ただ、理想は失ってはいけない)。おかみから「これを報道せよ」「こういう方向で報道せよ」と言われ、それを受け入れた瞬間に、メディアは死ぬ。

(狭義でも広義でも)権力なるものを握っている者達は、必ず「報道」を制しようとする。およそ70年前の日本も、まさしくそうだった。いつか来た道という言葉があるが、私達は本当にその道を辿らされ始めているような、いやぁな感じがある……。

追記/拉致問題という言葉に反応して、反日がどうの、という人がおられるかも知れないのであらかじめお断りしておく。私は“拉致問題だから”政府が重点報道を要請するのがいけない、と言っているわけではない。ちょっと妙な話だが、今の政権がひっくり返って国旗と国歌が別のものになり、メディアに対してその新しい国旗・国歌に関する報道の要請がおこなわれたとしたら――? もちろん私はそれに反対する。当たり前ではないか。拉致問題などという、感傷をくすぐる話を真っ先に持ってくるなんて、ズルイよ。

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心臓に悪いニュース――えっ、共謀罪強行採決!?

2006-10-20 02:15:55 | 憲法その他法律

情報流通促進計画byヤメ記者弁護士」「とむ丸の夢」「喜八ログ」「川辺より」「dr.stoneflyの戯れ言」「薫のハムニダ日記」等、よく情報をいただくブログからTBが入っていた。

!!「共謀罪が10月24日の法務委員会で、法案審議冒頭に強行採決の可能性あり」!!

 なぬ??? ここ数日みょうに忙しくて世の中の情報が頭の上を素通りしている間に、何てこった。油断も隙もならないとは、全くこのことである。共謀罪に関する私の考え方などは去年何度か書いた。改めて何か書く気分的な余裕がないので、下に少し例を挙げておく。

 「治安維持法が甦る」、「芸は売っても身は売らぬ。もちろん心も売りませぬ」、「続・芸は売っても身は売らぬ――共謀罪がやって来る」、「しつこく――芸は売っても身は売らぬ」、「共謀罪――目をつけられたら最後」、「共謀罪の悪夢

 ともかくこんなトンデモナイ希代の悪法、通っちまったらそれこそ「目をつけられたら最後」になる。もの言えば唇寒い世の中になる。共謀罪に反対する皆さん、反対の意思を国会議員(法務委員)に伝えよう。FAXでも電話でも、どちらでも(採りやすい方法で)いいと思う。一人一人が、今できることを。ひとつひとつは小さな声でも、集まれば無視できない力になる。

◇◇安倍内閣 衆議院 法務委員会名簿◇◇

 とむ丸さん ハムニダ薫さんの所に、「転載大歓迎。ご活用下さい」という名簿が載っていたので、ありがたく転載させていただく。(ただし今回FAX・電話攻勢に使いたい方が簡単に利用しやすいように、各議員の住所・ホームページアドレスなどは省略した。詳しく知りたい方は、とむ丸さん、ハムニダ薫さんの所をご参照下さい)


○長勢 甚遠,(ながせ じんえん) 自民、  富山1, 法務大臣
衆議院第1議員会館407号室 TEL:03-3508-7107 FAX:03-3592-9048 

長勢甚遠富山事務所 TEL:076-421-3332 FAX:076-421-2676

○七条 明(しちじょう あきら)自民、四国、法務委員会委員長
衆議院第2議員会館614号室 TEL:03(3508)7614 FAX:03(5251)5200
七条明徳島事務所 TEL:088(623)6040 FAX:088(656)4660

○倉田 雅年(くらた まさとし) 自民、東海、法務委員会理事
TEL:03-3508-3320(議員会館直通電話)

○棚橋 泰文(たなはし やすふみ)自民、衆議院、岐阜2、 法務委員会理事
TEL:03-3508-7429(議員会館直通電話)

○早川 忠孝(はやかわ ちゅうこう) 自民、埼玉4、 法務委員会理事
衆議院第2議員会館719号室 TEL:03-3508-7469 FAX:03-3592-1747
早川忠孝朝霞事務所 TEL:048-466-1275 FAX:048-464-0166

○高山 智司(たかやま さとし) 民主、北関東、 法務委員会理事
衆議院第2議院会館236号室 TEL:03-3508-7036 FAX:03-3508-3836

高山さとし埼玉事務所 TEL:048-433-7389 FAX:048-433-2199

○平岡 秀夫( ひらおか ひでお) 民主、中国、法務委員会理事
衆議院第2議員会館341号 TEL:03-3508-7091 FAX:03-3508-1055
平岡秀夫岩国事務所 TEL:0827-21-4567 FAX:0827-21-4570

平岡秀夫下松事務所 TEL:0833-48-3232 FAX:0833-48-3232

○大口 善徳( おおぐち よしのり) 公明、東海、 法務委員会理事
TEL:03-3508-7017(議員会館直通電話)

○上川 陽子( かみかわ ようこ) 自民、静岡1、法務委員会理事
衆議院第2議員会館412号室 TEL:03-3508-7412 FAX:03-3508-4480
かみかわ陽子事務所 TEL:054-251-8424 FAX:054-251-8425

○松浪 健太( まつなみ けんた) 自民、大阪10、 法務委員会理事
TEL:03-3508-7266(議員会館直通電話)

松浪ケンタ事務所 TEL:072-685-7188 FAX:072-685-7189



以下、法務委員会委員

○保坂 展人(ほさか のぶと)社民、東京都
TEL:03-3581-5111(衆議院議員会館代表)
保坂展人世田谷事務所 TEL:03-5477-7377 FAX:03-5477-6067

○稲田 朋美(いなだ ともみ) 自民、 福井1
衆議院第2議員会館235号室 TEL:03-3508-7035 FAX:03-3508-3835
稲田朋美福井事務所 TEL:0776-22-0510 FAX:0776-22-0507

○森山 眞弓( もりやま まゆみ) 自民、栃木2
衆議院第2議員会館 543号室 TEL:03-3508-7527 FAX:03-3597-2753
森山眞弓鹿沼事務所 TEL:0289-64-2516 FAX:0289-64-1229
森山眞弓今市事務所 TEL:0288-30-7887 FAX:0288-30-7744
森山眞弓宇都宮事務所 TEL:028-621-3000 FAX:028-643-3266

○伊藤 渉(いとう わたる) 公明、東海

衆議院第2議員会館218号室 TEL:03-3508-7018 FAX:03-3508-3818
地元連絡先 TEL:052-823-9105 FAX:052-823-9107

○滝 実(たき まこと) 無、近畿
衆議院第2議員会館331号室 TEL:03-3508-7081 FAX:03-3508-3861
滝まこと大和郡山事務所 TEL:0743-55-7888 FAX:0743-55-7081

○赤池 誠章(あかいけ まさあき)自民、南関東
衆議院第1議員会館733号室 TEL:03-3508-7343 FAX:03-3508-3733
山梨フォーラム・赤池誠章事務所/自由民主党山梨県第1選挙区支部 TEL:055-244-1150 FAX:055-244-1151
山梨フォーラム・赤池誠章事務所/自由民主党山梨県第1選挙区支部 TEL:055-237-5523 FAX:055-237-5281

○近江屋 信広(おうみや のぶひろ) 自民、南関東
衆議院第2議員会館405号室 TEL:03-3508-7405


○笹川 堯(ささがわ たかし)自民、群馬2
衆議院第2議員会館 526号室 TEL:03-3508-7526 FAX:03-3502-8865
笹川たかし桐生事務所 TEL:0277-47-5121 FAX:0277-22-4919
笹川たかし伊勢崎事務所 TEL:0270-26-8020 FAX:0270-26-8030

○柴山 昌彦( しばやま まさひこ) 自民、埼玉8
衆議院第2議員会館624号室 TEL:03-3508-7624 FAX:03-3508-7715
柴山昌彦所沢事務所 TEL:04-2924-5100 FAX:04-2924-5335

○三ッ林 隆志(みつばやし たかし) 自民、埼玉14
衆議院第2議員会館219号室 TEL:03-3581-5111 内線7219・8219 TEL:03-3508-7019(議員会館直通電話)
三ッ林隆志幸手事務所 TEL:0480-42-3535 FAX:0480-43-3535

○保岡 興治(やすおか おきはる)自民、鹿児島1
衆議院第2議員会館411号室 TEL:03-3581-5111(内7411) TEL:03-3508-7411(議員会館直通電話) FAX:03-3506-8728
保岡興治鹿児島事務所 TEL:099-263-8666 FAX:099-263-8680

○柳本 卓治(やなぎもと たくじ)自民、近畿
TEL:03-3508-7167(議員会館直通電話)

○矢野 隆司(やの たかし) 自民、近畿
TEL:03-3508-7212(議員会館直通電話)

○石関 貴史(いしぜき たかし) 民主、北関東
衆議院第1議員会館 736号室 TEL:03-3508-7286

石関貴史伊勢崎事務所 TEL:0270-25-0073

○河村 たかし(かわむら たかし) 民主、愛知1
第1議員会館537号室 TEL:03-3508-7902 FAX:03-3508-3537
河村たかし事務所 TEL:052-711-0008 FAX:052-711-3333

○細川 律夫(ほそかわ りつお) 民主、北関東
衆議院第2議員会館513号 TEL:03-3508-7513  FAX:03-3593-7148
細川律夫越谷事務所 TEL:048-966-5115  FAX:048-965-8818
細川律夫草加事務所 TEL:048-921-4211  FAX:048-921-4212
細川律夫南越谷事務所 TEL:048-989-8788  FAX:048-989-5300

○今村 雅弘(いまむら まさひろ)無、佐賀2
衆議院第2議員会館610号室 TEL:03-3508-7610 TEL:03-3581-5111 内線7610
FAX:03-3597-2723

○山口 俊一(やまぐち しゅんいち)無、徳島2
第2議員会館304号室 TEL:03-3508-7054 FAX:03-3503-2138

山口俊一鳴門事務所 TEL:088-685-4850 FAX:088-685-3580

○横山 北斗(よこやま ほくと)民主、東北
衆議院第2議員会館 226号室 TEL:03-3508-7026 FAX:03-3508-3826
民主党青森第1区総支部・横山北斗事務所 TEL:017-721-2507 FAX:017-721-2537

○中井 洽(なかい ひろし)民主、東海
衆議院第1議員会館533号室 TEL:03-3508-7263 FAX:03-3592-9044

中井洽津事務所・民主党三重第1総支部 TEL:059-224-5111 FAX:059-224-7887
中井洽伊賀事務所 TEL:0595-23-4800 FAX:0595-23-4866
中井洽名張事務所 TEL:0595-63-6241 FAX:0595-63-6242

○奥野 信亮(おくの しんすけ) 自民、奈良3
衆議院第2議員会館423号室 TEL:03-3508-7423 FAX:03-3502-5002
大和政経懇談会・奥野信亮大和高田事務所 TEL:0745-24-5511 FAX:0745-24-5501
高田しんすけ会事務所 TEL:0745-24-5511 FAX:0745-24-5501

自由民主党奈良県第3選挙区支部・奥野信亮御所事務所 TEL:0745-62-4379
FAX:0745-62-5856
奥野信亮香芝事務所 TEL:0745-78-1375 FAX:0745-78-1375
奥野信亮奈良事務所 TEL:0742-23-8870 FAX:0742-23-8870

○後藤田 正純(ごとうだ まさずみ) 自民、徳島3
衆議院第1議員会館315号 TEL:03-3508-7315 FAX:03-3508-3315
後藤田正純徳島事務所 TEL:088-664-8555 FAX:088-664-3623
後藤田正純阿南事務所 TEL:0884-23-1730 FAX:0884-23-1666

○杉浦 正健(すぎうら せいけん)自民、愛知12
第1議員会館424 TEL:03-3508-7124 FAX:03-3597-2771
杉浦正健岡崎事務所 TEL:0564-25-2345 FAX:0564-25-3569

杉浦正健西尾事務所 TEL:0563-54-2744 FAX:0563-54-9840

○宮腰 光寛(みやこし みつひろ) 自民、富山2
衆議院第2議員会館311号室 TEL:03-3508-7061 FAX:03-5251-0866
宮腰光寛魚津事務所 TEL:0765-23-6150 FAX:0765-23-6151

○武藤 容治(むとう ようじ)自民、岐阜3
TEL:03-3508-7029(議員会館直通電話)

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「死刑廃止」バダンテール演説全訳について

2006-10-18 21:10:54 | 死刑廃止/刑罰

 1981年9月17日、フランス国民議会の死刑廃止法案審議におけるロベール・バダンテール法務大臣(当時)演説全訳がアップされています。ぜひご一読ください。

 

◇◇◇◇◇◇

  luxemburgさんから「死刑廃止」問題をリレー形式で考えてみないかという提起があり、それに参加させていただいた。

第1回「とりあえず

第2回「お玉おばさんでもわかる政治のお話

第3回「とむ丸の夢

第4回「華氏451度

第5回「doll and peace

第6回「薫のハムニダ日記

第7回「とりあえず」(村野瀬玲奈)――リレーエントリのまとめ

第8回「喜八ログ」――バダンテールの演説について

 このリレー・エントリは、以前から何度か死刑廃止問題に関する記事を書いておられたluxemburgさん宛てに、村野瀬玲奈さんがロベール・バダンテールの演説を訳して送付されたことに端を発する。死刑廃止の問題は社会のあり方や、モラルとは何か、命とは何か等々を考える時に避けて通れない問題のひとつであるが、私自身は自分のキャパシティを超えている気もしてこれまで積極的に触れたことがない。だから軽く声をかけられた時にも「はあ?」という感じだったのだが、紹介されたバダンテール著『そして、死刑は廃止された』(藤田真利子訳、作品社刊)を読んだり、雑誌等に載った論考や資料をひっくり返して読み直すうちに、「多くの方と一緒に考えるための手掛かりを提出」する目的で書いてみようか、という気になった。

 私のエントリはしばしば代理をさせる牡猫ムルなどを登場させてしまったので、不真面目だと顔をしかめる方もおられたかも知れない。現に「さまざまな死刑廃止論をオチャラケで紹介するのが目的なら……」といったコメントもあった。せっかくのリレーエントリの雰囲気をぶちこわしてしまったとすれば、他のかたがたに申し訳なく思う。ただ私は、重い問題を深刻な顔で語るばかりでは自分自身次第に気分的な余裕が失われるので、なるべく肩の力を抜き、できれば時にはつまらない冗談なども言いながら、日常的な表情で語りたいという思いも強いのだ。その試みのひとつということで、どうか御容赦いただきたい。

 ともあれ今回のリレーエントリはいったんゴールにたどり着き、村野瀬さんの好意で全訳が公開されることになった(冒頭で紹介したもの)。村野瀬さん、ありがとう。貴重な資料のひとつとして、皆さん、ぜひ参照していただきたいと思う。

◇◇◇◇◇

愚樵空論」「アルバイシンの丘」「美しい季節とは誰にも言わせまい……」「Die Weblogtagesschau laut dem Kaetzchen」などのブログでも、死刑廃止論が展開されている。リレーエントリのほか、これらのブログもお読み下さい。自分自身が考える手掛かりになります。

◇◇◇◇◇

 リレーエントリは、Under the Sun でも参加したことがある(私は人数合わせに誘われれば、何でもすぐ参加する腰の軽い人間なのだ。笑。いや、むろん私自身の中に課題として存在するテーマなら、ということであるが)。だが今回はその時と異なり、主題がするどく求心円的であったので、参加しながらもどうなることかとハラハラしていたが……まとめから全訳公開にまで至って、「これもブログの新しい試みだなあ」と幾分か確信めいたものを持った。

 皆さん、これからも時にはいろいろなテーマについて、複数でリレー風に書いていきませんか。

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続・死刑廃止は多数意見?&「誘導的な質問」というもの

2006-10-15 22:33:30 | 死刑廃止/刑罰

〈死刑存置は圧倒的多数意見ではない〉

 先日、「死刑存置は本当に多数意見か」という記事を書いた。これはその、いわば補足である。

 一般によく「死刑については存続を望む声が圧倒的に多い」と言われるが、記事の中で私は2004年に内閣府がおこなった世論調査に触れ、「必ずしもそうは言えないのでは」と疑問を呈した。詳しいことは前記のエントリを見ていただけばよいが――

「存続か廃止か」という二者択一の質問に対する答えだけ見れば、廃止は6.0%、存置は81.4%(残りは「わからない」または「一概に言えない」)。つまり圧倒的多数なのだが、私が注目したのは二者択一の後の、「将来的には死刑を廃止しても良いか」という質問に対する回答である。「将来も廃止しない」つまり「絶対に死刑は存続させるべき」という人は50.2%だった。そして、「すぐさま廃止」「将来的には廃止」の人は合計5.6%。「将来的に廃止してもよい」という人は25.9%(残りの18.3%は「わからない」「一概に言えない」)。

 何らの先入観も偏見も疑いも持たずに数字だけ見れば、誰でもこういうふうに読み取れるだろう。

○「死刑は絶対に無くしちゃダメ」という人は2人に1人。

○「将来的には廃止してもいいな」と思っている人は4人に1人。

○積極的な廃止論の人と消極的な廃止論の人を合わせると、「廃止の方向で考えている人」は3人に1人ということになる。

 同じことを繰り返すのは気が引けるが、「絶対存置が圧倒的多数意見」というのは明らかに間違いだし、廃止論が特異な意見でもないことがわかるだろう。残りの人は判断を保留しているわけだが、「まだ意見が固まっていない」人は、それぞれの意見をよく聞いてじっくり考えようという場合が多い(むろん中には、さまざまな事情や思想信条上の理由から、今この問題は論じたくないという人もいる)。死刑廃止は一部の人間のヘンな意見でも何でもなく、充分に話し合い考えていくことのできる課題なのである。

〈誘導的な質問というもの〉

 前出の記事の中で、私は「世論調査には質問自体に誘導性がある」という辻本衣佐氏の指摘を紹介した。その部分をもう1度掲載しておこう。

「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」(世論調査における質問)
●どんな場合でも死刑は廃止すべきである
●場合によっては死刑もやむを得ない
●わからない・一概に言えない
 
【死刑廃止の選択肢には、「どんな場合でも」、「すべきである」という表現を用いて、弱い死刑廃止支持者が排除されやすくなっているのに対して、死刑存続の選択肢には「場合によっては」、「やむを得ない」という表現を用いて、弱い死刑存続支持者も取り込まれやすくなっており、死刑存置への傾向が強い選択肢となっているといえる】(辻本氏)
 
 この後で私は「誘導性のある質問」の例をちょっと作ってみたりしたが、納得できない方もおられるようなので、もう1度だけ例を考えてみたい。
 
〈「必ず……べき」と言い切れる問題は少ない〉
 
質問1.癌などの病気を本人に知らせることについてどう思いますか
 
A.どんな場合であっても、必ずすべてのことを知らせるべきである  B.事情や状況によっては、知らせることができなくてもやむを得ない
 
質問2.日々の生活の中で嘘をつくことについて、どう思いますか
 
A.どんな場合であっても、嘘をつかず、必ず正直なことを言うべきである  B.事情や状況によっては、正直なことを言わなくてもやむを得ない
 
質問3.暴力についてどう思いますか
 
A.どんな場合であっても、人を殴ってはいけない  B.場合によっては、人を殴り倒してもやむを得ないことがある
 

質問4.借金の返済についてどう思いますか

A.どんな場合であっても、借りた金は必ず返すべきである  B.事情や状況によって、返せなくてもやむを得ない

 いかがですか。私はすべて「B」です。たとえば質問1.私は病気に関してすべて本人に知らせるのが当然だと思うが、それは言ってみれば「原則」。本人が認知症の場合はどうするんだとか、5歳の子供だったらとか考えると「必ず、すべて……」とは言えないよなあと思ってしまう。それに、世の中には「(自分の病気を)知らされない権利」を主張する人もいるのだ。

 質問2。嘘をつくのは悪いに決まっている。しかし、人に心配させないために嘘をつくっていうこともあるし、商店の人がお客に嘘に近いお世辞も言うなんてことはよくあるだろうし……なあ。ヤクザの兄ちゃんに「てめえ、オレのことを笑っただろう」とスゴまれた時、正直に「はい、笑いました」と言うのは怖いしなあ。

 質問3。私はむろん、人に暴力をふるうのはよくないことだと思ってる。しかし夜道でひったくりに遭ったら、殴り倒して奪い返すかも知れない。

 質問4。念のため言って置くが、私は借金を踏み倒したことはない(大金を貸してくれる人間はいないので、せいぜい財布落としたから1000円貸してくれ~という程度だが……)。でも、返そうと思って必死になっても、どうしても返せないこともあるだろうな、というぐらいはわかる。

 何だか妙な話になったが、言いたいのは人間にとって「どんな場合でも、必ず」と確信を持って言い切れる問題は少ない、ということである。特に普段あまり深く考えていない問題や、あまり身近でない問題の場合は、責任を持って「どんな場合でも必ず」と断言するのに躊躇する(もちろん、身近な問題として深く考えているがゆえに、言い切れないというものもあるが)。

 死刑についてであれば、私は「どんな場合でも廃止すべきである」と答える。しかし、そこまで強い言い方をされると迷ってしまう人が多いと思う。「死刑は廃止したほうがいい」と思っている人でも、「……やはり……例外もあるかも……」と、つい考えてしまうのではあるまいか。だから「場合によってはやむを得ない」になるのだ。その人達が81.4%。「死刑存置」は積極的な存置論者以外に、多くの「場合によってはやむを得ないかも派」を含んでいるのだ。

 以前、何度か「世論調査(の危険性)」について書いた覚えがある。調査というものは、常に答えを一定方向に誘導することが可能である。もっとも、私は「だから信用できない」と決めつけはしない。「結果」の読み方、数字に表れている以外のものの読み取り方で、私達は多くの情報を得ることも出来るのだから。

 

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当然予測されたことだが気が滅入る

2006-10-12 21:46:25 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 こういうニュースに接すると、いつものことながら気が滅入る。

【北朝鮮の核実験実施は、在日社会にじわりと影響を及ぼし始めた。核実験実施から3日目となる11日、全国の朝鮮学校にはこれまでに脅迫や嫌がらせ電話など16件の被害が相次いでいることが判明し、学校は警戒を強めて独自の対応を取り始めた。北海道朝鮮初中高級学校(札幌市)には、北朝鮮が核実験を実施した9日以降、「北朝鮮に帰れ」「バカ野郎」などという嫌がらせや無言の電話が計11件あったほか、東北朝鮮初中高級学校(仙台市)でも、10日に無言電話が3件あったという。また、栃木朝鮮初中級学校(小山市)にも9日、男の声で、「子どもの安全を考えるなら休校しろ」との脅迫電話がかかってきたという】(10月11日付・読売新聞)

 身近に敵視する相手を見出し、バッシングして溜飲を下げる。古今東西を問わず常に見られることだけれども、そういうバカらしさを互いに戒め合うのが「人類の発展」ではないのか。

 以前「テポドン騒ぎ――陰でほくそえむのは誰か」「世界の孤児を作ってはならない」という記事を書いた。今回の北朝鮮の核実験に関しても、私の基本的な考え方は同じである。 

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死刑存置の希望は本当に「多数意見」か

2006-10-10 00:45:58 | 死刑廃止/刑罰

 luxemburgさんの「とりあえず」で始まった「死刑廃止問題リレーエントリ」が、「お玉おばさんでもわかる政治の話」→「とむ丸の夢」→「華氏451度」→「doll and peace」→「薫のハムニダ日記」の順に続き、ほかに「愚樵空論」「アルバイシンの丘」その他のブログでも同じ問題についてそれぞれの意見を書かれている。死刑の問題は、社会のあり方を考える時に、好むと好まざるとにかかわらず1度は考えさせられてしまう問題。多くの方と共に考えていきたい。

 

〈死刑存続は本当に「多数意見」か?〉

「死刑存続は、日本の中では普通の意見」というコメントがあった。普通というのが何を指しているのか正確にはわからないが(注1)、おそらく「大多数の意見」ということだろう。

注1/私自身もよく「普通の」とか「庶民的な感覚では」などと書いてしまうのだが、本当は「普通とはどういう意味か」を考えた上で使わねばならないと、これは自分自身への戒めとしても考えている。ある事柄について全国民の50%以上の意見が一致すれば「普通の意見」なのか。もっと多く――3分の2なり80%に達してはじめて「普通の意見」と言えるのか。また過半数を占めたとしても「中高年層はほとんどが同意、若い層はほとんど非同意」だったとすれば、それは「普通の」と言えるのか。さらに言うと我々は自分のよく知らないことについては「いったん意見を保留」するわけだから、一般にまだあまり知られておらず、切実に考えている当事者の少ない問題の場合にはハッキリと賛否を表明する人は少なくなる。だがそのハッキリした意見を、賛否どちらであれ、一概に「普通ではない」と言えるのだろうか。

 ともかくそういうわけで、「大多数の意見なのかどうか」をちょっと考えてみたい。

 死刑に対する世論調査は、総理府または内閣府が今までに8回おこなっている。そのほか東京新聞、テレビ朝日、読売新聞、NHK、フォーラム90が実施した調査もある。政府による調査の結果は下記の通り(表は死刑廃止キリスト者連絡会のサイトからコピーさせてもらった)。

 年  廃止  存置 その他
1956年  18.0%  65.5%  17.0%
1967年  16.6%  70.5%  13.0%
1975年  20.7%  56.9%  22.4%
1980年  14.3%  62.3%  23.4%
1989年  15.7%  66.5%  17.8%
1994年  13.6%  73.8%  12.6%
1999年   8.8%  79.3%  11.9%
2004年 6.0% 81.4% 12.6%
 
【将来的死刑廃止について】
 年 すぐに廃止 将来に廃止 将来には廃止してもよい 将来も廃止しない その他
1989年  4.3%   10.3%  10.4%  51.1%  24.0%
1994年  5.9%  7.1%  39.3%  29.2%  18.6%
1999年  3.7%  4.6%  30%  44.8%  11.9%
2004年  2.4%  3.2%   25.9%  50.2%  18.3%
 
(枠にどうしても入りきらず、妙なところで数字が切れている。その他のところは上から24.0、18.6、11.9、18.3、である。読みにくくてすみません)
 
 確かに「廃止か、存続か」という点だけ見れば、廃止賛成者は少数である(ただし極端に少ない、特殊意見とは言えない。最も少数だった2004年の調査でも、100人中6人は廃止に賛成)。だが、同時に挙げた「将来的死刑廃止について」の方を見ていただきたい。「すぐに廃止」「将来は廃止」「将来、廃止してもよい」を合わせれば、31.5%の人が「廃止に賛成」または「よりよい方向を模索し、それがみつかれば死刑を廃止してもよい」(廃止について前向きに考えてみたい)と思っていると言える。
 逆に「将来的にも廃止してはいけない。存続させるべき」と思っている人は50.2%である。つまり2人に1人。やはり「ごく普通の意見」とは言い切れないだろう。少なくとも、圧倒的多数でも何でもない。
 
 
〈質問の誘導性〉
 
 2004年の世論調査については、死刑廃止委員会『年報・死刑廃止』2005年版(インパクト出版)に「死刑と世論――2004年世論調査を中心に」(筆者は明治大学法学部講師・辻本衣佐氏)という興味深い一文が掲載されていた。それによると、質問そのものに誘導性が見られるという。
 
 世論調査票の質問をそのままここに挙げると――
 
「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
●どんな場合でも死刑は廃止すべきである
●場合によっては死刑もやむを得ない
●わからない・一概に言えない
 
 辻本氏はこの点を取り上げて、次のように述べている。
 
【死刑廃止の選択肢には、「どんな場合でも」、「すべきである」という表現を用いて、弱い死刑廃止支持者が排除されやすくなっているのに対して、死刑存続の選択肢には「場合によっては」、「やむを得ない」という表現を用いて、弱い死刑存続支持者も取り込まれやすくなっており、死刑存置への傾向が強い選択肢となっているといえる】
 
 いわゆる調査の類が常に誘導性を含むことは、皆さんよくご承知だと思う。ごく身近な(かつ思想信条とは直接関係のない)ことで例を作ってみよう。「親が病気になった時、子供は面倒をみるべきか」という質問をして、できるだけ「みるべき」の方に票を集めたいと思ったら、私はたとえば次のような質問を作成する。
1.親が病気になったら、子供として、出来る限りのことをしてあげたい
2.親が病気になっても、子供が面倒をみる義務はない
3.わからない
 
 逆に「みるべきとは言えない」の方に票を集めたければ――
1.親が病気になったら、子供は何をさておき、面倒をみるべきである
2.親が病気になったとしても、状況によって必ずみるべきとはいえない
3.わからない
 
 咄嗟の思いつきで作ったのであまりいい質問ではないが、何となくわかるでしょう。
ともあれ、調査というのは質問の仕方ひとつで、かなりの程度に結論を左右することが出来るのだ。だから死刑廃止に関する世論調査に含まれた誘導性もよくわかる。世論調査の結果を踏まえてうんぬんする時は、質問項目自体にも言及する必要があるだろう。
 
 ただ、そういう誘導があってさえ――「絶対存置」論者が半数だったというのは、私には希望の持てる話のように思える。むろん「誘導性などない。そんなのは歪んだ見方だ」と主張する人もおられると思うが、そういう人でも最低、「死刑は絶対に廃止しちゃいけない」という人が圧倒的多数でないことぐらいは認めざるを得ないはずだ。
 
◇◇◇◇やや本論から離れて◇◇◇◇

〈想像力の欠如ということについて〉

 私の記事に対してもいろいろなご意見が寄せられた。気になる意見はいろいろあるが、それらに対してなかなか丁寧に返事できない。コメントを書いて下さった方々には御容赦いただきたいと思っているが、1つだけ、新しいコメントの中にあった言葉に対して返事を書いておく。

【不謹慎承知で言うけど、死刑反対論者の家族全員を、中世の拷問並みの惨たらしい殺しかたされても、そいつらは死刑に反対するのかねぇ】(久々さん)

上記のコメントに対して――
【そんなもんできるわけないでしょ。死刑制度の原点はここにあるんですね。反対論者は意識を相対化することが出来ねーんですよ。自分が被害者やその家族には絶対ならないという決め付けけが彼らをとても固い鎧で防衛してるのでしょう。つまり観念の世界でのみ自分が主人公になれるという、アレですよ】(ホワイトさん)

 記事を読んでコメントしてくださっているはずですが――私は記事の中で、池田浩士氏の次のような言葉を紹介しました。

「死刑廃止を考え、また口にも出すとき、そのつど逃げることの出来ない自分自身への問いがあるとすれば、それは、おまえの大切な人を無惨に殺害した犯人が死刑になる時も、おまえはそれに反対するか――という問いかも知れない」

 むろんこの問いは、何年かかってもすっきりとした答えを見つけられないほどに重いものです。私自身、他者に対して激しい憎悪を抱きやすい人間ですし、復讐心も強い。実生活でひどい目に遭えば、首絞めてやろうかと思うほど相手を憎みもします。大切な人を酷たらしく殺されれば、おそらく生涯許してやるものかと憎悪するでしょう。しかし……相手を死なせれば、それによって時間が事件の前に巻き戻され、殺された人間が生き返るわけではありません。

 自分が被害者やその家族には絶対にならない、などとは思っていません。いつ被害者になるかも知れない。たとえば自分の母親が、自分の親友が、強盗殺人や通り魔殺人の被害者になるところを、私は自分の中で何度も想像してみました。想像するだけで恐ろしい場面であり、それこそナイフ持って飛び出しそうな自分の姿にも想像が及びました。今でも正直なところ、そうなった時に相手を許せる自信はありません。ただ……「国家の手で殺して貰ったって、何も解決しない。私の憎しみも消えず、死んだ者は生き返らない」と髪をかきむしるでしょう。では自分も殺人者になって、相手に復讐するのか。それもまた、(殺した瞬間は激情のために喜びの声を上げたとしても)むなしい、かなしいことではないか。

「アレですよ」って、ホワイトさん、何が「アレ」ですか。人を小馬鹿にしたようなものの言い方は困りますね。他のブログなら、おそらく削除されるでしょう。私は意固地なのでまだ削除しませんが、コミュニケーションの場で使うのにふさわしい言葉とは思いません。 

 

 

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「教育学会市民賛同署名のお願い」

2006-10-09 16:50:25 | お知らせ・報告など

 kuroi-mazinさんkaetzchenさんから、「『教育基本法審議に向けての見解と要望』への市民賛同署名のお願い」のTBをいただいた。私も教育基本法の改定に反対する立場。さっそく署名したが、1人でも多くの方に知っていただきたいと思い、「お願い」をコピーさせてもらうことにした(コピー元はkuroiさんの『青空を待ちながら』)。全部コピーすると長いので、ちょっと覗いた方にもなるべく簡単に理解していただくため一部割愛したことをお断りしておく(全文は上記ブログのエントリをご参照ください)。

署名の第一次集約は10月15日。

◇◇◇◇以下、転載

署名のお願いです。
教育基本法「改正」情報センターが、日本教育学会歴代会長「教育基本法審議に向けての見解と要望」への市民賛同署名を始めました。第1次集約は10月15日です。

署名のご案内はこちらです。ごらんいただくとお分かりいただけますが、これは勉強会に参加された若い方が、どうしても市民向けの署名を集めたい!という思いで始められたものです。その方のメールを下に転載します。(ご本名が出ていますので、私がHNに変更しました。)

署名フォームはこちらです。匿名も選べますので、ぜひご協力をお願いいたします!

●詳細ののっているホームページ
教育基本法「改正」情報センターhttp://www.stop-ner.jp/

●趣旨説明
http://www.stop-ner.jp/061015shomei.pdf

●署名フォーム
http://www.fleic.dyndns.org/cgi-bin/gakkaisando.cgi

◇◇◇◇転載その2(資料)

教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望 (2006年8月26日)


 政府は今年4月28日、国会に教育基本法改正案を提出し、他方、民主党も日本国教育基本法案を提出し、衆議院特別委員会で審議が行われたが、審議未了により秋の国会で継続審議が行われることになった。
 この審議に鑑みつつ、私どもは、改正問題に関する本見解を纏め、ここに意見書として委員各位に送呈する。来るべき特別委員会における論議においてもぜひご考慮願いたいと考える。 それとともに私どもは、広く父母・市民・教師・学生等々に対しても、教育学専門家がどのように考えているかについて理解を得ることができればと願っている。

1 政府案は現行法の全面改正案であり、民主党案は、現行法を廃止し新法として提案された。いずれの案も、なぜいま改正の必要があるのか、しかも全面改正が不可欠なのか、その立法事実は不明確であり、提案理由は説得力を欠いている。新法あるいはそれに等しい全面改正ならば、廃止理由も含めて、立法事実にはより丁寧な理由説明が必要である。今後継続審議に充分に時間をかけ丁寧な審議がなされるならば、現行法に仮に限界や問題があるとしても運用によって解決される事柄は何か、改正によって事態はさらに悪化するのではないかといった問題点も明らかになるであろう。しかし既往の審議を見る限り、このような配慮をうかがうことはできない。世論の一部にある「教育基本法を変えなければできない教育改革があるのか」といった素朴かつ正当な疑問に対して、明確な説明がなされているとは見られない。

2 政府の改正理由には、改正が憲法改正と一体のものであることは明言されず、それゆえに立法理由はいっそう不鮮明なものとなった。しかし、教育基本法改正論の歴史をたどれば、それが憲法改正を先取りしての改正という位置を占めて来たことは明白である。今回わずかに残された「憲法の精神にのっとり」という文言はそのことを糊塗したものに過ぎないと判断される。 さらに、改正の要点は、後述するように現憲法の精神に反するところがあまりに多い。他方、民主党案は、憲法改正とワンセットの教育基本法改正であり、それだけに「憲法改正に先んじての現行法廃止・新法提出」という手続き自体、明白な自己矛盾を犯している。

3 特別委員会では、教育を含む戦後の諸改革が占領下に押しつけられたものであるにもかかわらず、 未だにそれに引きずられているのは「敗戦後遺症」であるという言葉すら出された。また、それと重ねて、教育勅語の賛美や「国体」美化の発言も繰り返しなされた。これらは教育基本法の成立を含めて戦後教育成立過程の歴史事実を歪曲しているだけではない。占領下に日本の真の独立を願い、人間性開花のための教育という営みを通じて、国民の知性と文化の創造に期待した先人たちの努力を無視した議論である。軽薄な判断によって戦前教育を無媒介に戦後に連ねることは許されない。戦後教育改革に関する教育史研究の成果に対して真摯な学習が行われることを期待する。

4 両法案ともに、法律に規定して行く際に抑制すべき諸点(前文、教育の目的、目標、新設の家庭教育など)についての自覚がない。必要なことはすべて法に規定し、しかも教育は法に従うべきこと(政府案新設16条)を強調している。また、教育は政治から自立していなければならず、法はそのための限界を定めるもので、教育への不当な支配をチェックするのが基本法なのだという現行法の精神(これは憲法の精神でもある)からも逸脱している。国家と教育、教育と「伝統」の関係をめぐる最近の論調に照らせば、以上のような改正が行われるならば、法によって国家道徳を定め、教育でこれを実施し、目標達成へ向けて学校と教職員評価を行うという事態が生まれるのではないかと危惧される。

また、政府案新設の17条(「教育振興基本計画」)は、新法を政府の教育基本計画の立案・実施・予算配分の根拠法としようとしているものであり、現行法はもちろん、憲法の精神(第13条、19条、23条、26条)に反するものである。しかも教育振興基本計画は国会に報告すればよしとされており、政府・行政官庁の恣意的政策も合法化される。競争と評価を軸とする管理主義的教育に拍車がかかる恐れが充分に予想される。条件整備およびそのための長期計画はもちろん行われるべきである。ただし、そのためには、現行法第11条の趣旨に基づいて、 新たな立法がなされればよい筈である。

5 私どもはまた両法案に示されている教育観に大きな疑問を感じざるを得ない。

 教育は本来、子どもの人間としての成長発達とそれに不可欠な生活と学びの権利の保障を任務とするものであり、「はじめに国家の統治作用としての教育ありき」ではないはずである。 その点、民主党案の学習権規定には積極的な意義が認められる。しかし、発達する権利・学習する権利を子ども・青年・成人の権利の中核とみる観点からすれば、同法案の前文や第1条の教育理念・目的の規定とは矛盾してこよう。すなわち「学習権」という文言は記されているものの、その内容は、国家による道徳教育(愛国心教育を含む)を学ぶに過ぎないことになるのではないだろうか。国あるいは政府は、すべての子ども・青年・成人の成長発達の権利と学習の権利を保障するための条件整備にこそ積極的な役割を果たすべきであって、「道徳の教師」になるべきではない。

6 国会で教育が本格的に議論されるのは貴重なことである。しかしそれは直ちに教育の憲法ともいうべき教育基本法の改正につながるものではない。

現在提出されている2法案はいずれも廃案とし、引き続き教育問題を広く人々の論議にゆだねつつ、現行法の精神をより豊かに発展させることをねがうものである。

7 以上のことを前提にした上で、なお将来、現行法の「改正」が必要であるという国民的合意が形成されるような事態が生まれるとすれば、論議に当たって、以下の諸点に関して特段の配慮が不可欠である。

8 法律にどこまで理念や目的を規定できるかについては、現行法の成立過程においても論議され、「それはお説教ではないか」という厳しい意見もあった。 政府は法の限界を自覚し、抑制的に、しかし教育が戦争に奉仕したという事実の反省をふまえ、国際的な動向の中でこれ以上は譲れないという普遍的な原理・目的に限定し教育と学校の制度原理を示し、あとは子どもと教育にかかわる人々の子育てと教育への自由な取り組みを保障すること、政治および教育行政のなすべきことは教育の条件整備に限られるべきことを法定したのであった(前文、第1,2,3、4,10条)。

現行法が60年前に作成されたという歴史的限界を持つことも確かである。現行法の教育の目的規定さえ法になじまないとする見解は制定当時にもあった。しかし、仮に発展的・順節的改訂がなされるのであれば、先ずもって上記の法の精神こそが徹底して自覚されるべきである。

9 同時に、制定から今日までの間に、同法はいわば「未完のプロジェクト」として絶えず「再発見」され、その解釈も豊かに発展させられてきた。「能力に応じる」という文言の内容をどのようにとらえるか、「人格の完成」という概念に何を盛り込むか、「教育を受ける権利」(right to receive education )という表現は学習権を軸とする「教育への権利」(right to education )として考え直されるべきではないか、といった解釈が展開されている。これらの解釈深化の基盤には、戦後日本における教育実践の深まりと国際社会における教育理解水準の向上と展開がある。

改正をめぐる論議に際して最も重視されるべきは 現在の教育問題の根源を直ちに教育基本法のあり方に求めたり、 現代的用語の軽薄な導入に走ったりすることではなく、戦後日本と国際社会における教育実践の成果と理論の蓄積に敬虔に学ぶことである。それは国民的合意形成に向けての第一要件であると言えよう。

10 第二の要件は、基本法の任務は、教育に関する条件整備の原則を明示することにあるという理解である。そしてその原則は、憲法の精神と教育の条理とに基づいて設定されるべきである。

憲法と現行教育基本法が保障している教育の自由と自律性は、単に国家からの自由を意味するものではない。すべての国民に対して、その自由を行使して子育て・教育に関して積極的に発言し、子育て・教育についての合意の水準を高め、父母・住民が参加し、教師と共同して子どもを主人公とする学校づくりを進める自由である。言葉を換えれば、その自由の行使は「現代世代の未来世代への責任」を果たすための積極的な自由としてとらえ直されるべきである、私どもは、以上の理解を「教育の条理」をあらわすものと考え、基本法はもとより、 あらゆる教育法はその条理に貫かれていなければならないと判断する。

政府(教育行政)は、 法に基づき以上の条理に立つ教育活動・教育実践をこそ励ますべきである。例えば乳幼児期の保育・教育、高等教育、社会教育、 生涯学習なども、まさに社会の発展に伴って新たな条件整備が求められる領域であって、 今回の政府案が示しているように、 既に関連法が存在するのに重複して基本法に盛られればよいという問題ではない。

以上

発起人・日本教育学会歴代会長
大田 堯(都留文科大学元学長、東京大学名誉教授)、堀尾輝久(東京大学名誉教授)、寺崎昌男(東京大学名誉教授、桜美林大学名誉教授)、佐藤 学(東京大学教授)

賛同人・日本教育学会歴代事務局長
中野 光(中央大学名誉教授)ほか   

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「美しい日本語」を殺すな――上滑りな言葉たち(2)

2006-10-07 00:28:25 | 本の話/言葉の問題

 つい今し方、帰宅したばかりである(遊んでいたわけではない。近県に日帰り出張していたのだ。食い扶持を稼ぐというのは、まことにしんどいことだ)。「美しい日本語を殺すな」問題の続きを考えてみようと思ったが、忘れないうちに整理しておくべきものもあるし、頭も疲れていることだし、今夜は幕間という感じで簡単に思いつくままに書き留めておく。 内容的に(1)とかなり重複するかも知れないが、自分のためのメモということで……ま、いいか。

 世の中には、取り扱いに注意を要するものがたくさんある。……と言えばすぐ思いつくのは火薬だの銃器だのといった「危険物」だが、言葉もある意味で、いい加減に取り扱ってはいけないもののひとつだ。(私自身の感覚の中では、最も危険なものであったりする)

  以前、「愛国心はなぜ危険か」という記事を書いた。私はそこで愛国心とは「自らが帰属している(あるいは帰属していると考える)国」に対して、それを特別なものとして思い入れを持つこと。その思い入れの中身は「愛着心」と「忠誠心」の2種類がある」と定義し、問題は後者だと書いた。ついでに忠誠心に関する部分を引用しておくと――

【忠誠心というのは相手が何ものであれ、その相手だけに捧げられる(あなただけを愛する、というやつだ)。そして、忠誠を誓った相手のために、彼の敵を滅ぼすことに情熱を燃やす。忠誠心は一面美しいものであるらしく、王に忠誠を誓ったり、帰属集団に忠誠を誓って華々しく戦いそして死んでいった英雄達の物語は世界中に枚挙のいとまもないが、一歩下がって見てみれば「何だそれ」でしかない。忠誠心に燃えた人間達同士が殺し合って、いったい何してるんだ。いや、本気で忠誠心に燃えている人はいいとしても、巻き込まれて犬死にしたり家を焼かれた人間はどうなるんですか。】

 今でもむろんその定義づけなどは変わっていないが、言葉というものを考えているうちに、「愛というのは危険な言葉だな」とふと思った。1か月ほど前になるか、doll and peaceぷらさんが「『愛』と『美しい』の連発にご用心!」という記事を書いておられたのを思い出す。

 そう、「愛」も「美しい」も非常に危険な言葉だ。

 そもそも観念的な言葉というのは、常に危険なものである。なぜなら具体的なもの(いわゆる物質、だけではない)を指す言葉と違って、人それぞれで抱いているイメージや解釈が違うからだ。むろん、具体的なものを指す言葉であっても受け取り手の頭に浮かぶものが100%同じであるとは言えないが、観念的な言葉に比べればはるかに共有部分が大きい。

 そしておそらく――人間の精神的ないとなみと深くかかわり、解釈が個々人に任され、詭弁を弄する余地も多分にあり――すなわち極度の危うさと共に存在しているものであるがゆえに、かえってその言葉には「プラス・マイナス」の価値判断がつきまとう。それはあるいは、観念語を発見?した時の人間のおそれに由来しているのかも知れない。

 逆に「富士山」「学校」「猫」「携帯電話」「大江健三郎の『死者の奢り』」「本を読む」「コーヒーを飲む」……何でもいいけれども、すぐに具体的なものが浮かぶ言葉については、少なくてもそれ自体には価値判断はそれほどつきまとわない。

「愛する」や「美しい」のほか、「やさしさ」「思いやり」「希望」「恩寵」などなどの言葉は、圧倒的なプラス・イメージをもって私達に迫る。問答無用の感じ、と言ってもいい。だがそこにこそ、毒蛇のような危険性が潜んでもいるのだ。片思いの女に無理心中を迫った男は「愛していたから」と叫ぶ。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の女主人公は、ヨカナーンへの愛ゆえに彼の生首を望んだ。

 国を愛すると言い、美しい国と言う時、人々の心の底に去来するものはおそらく想像を絶するほどに千差万別であるはずだ。そのことをよく知った上で、あえてシレッとした顔で観念語を使う政治家を、私は信用することはできない。  

 最近、悲しいことに「美しい」という形容詞にあまり積極的なプラス・イメージを持てなくなっている。むろん、安倍総理のおかげである……。

 

 

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「美しい日本語」を殺すな――上滑りな言葉たち(1)

2006-10-05 23:06:44 | 本の話/言葉の問題
〈日本語の乱れ?〉

 このエントリの「序」(10月1日)で、私は次のように書いた。

【私が言葉に妙ちきりんなほどこだわりを持つのは、粗雑な言葉は――線路に置かれた石や道の真ん中の水たまりや、カメラのレンズにべったりついた指紋や、口に入れた途端にジャリッというアサリの砂のように――私が凝縮しようとしている世界にヒビを入れ、モノを考えようとする時の邪魔をするからである。最近はその粗雑な言葉が世の中を席捲し、私の神経をささくれ立たせる。】

 日本語が乱れている!!と怒る人はけっこういる。書店に行けば、その手の本が何冊もある。それはまあ、私もイイ年の大人が(生真面目な顔で)「僕のお父さんに聞いたところでは」などと言うのを聞くと何となく違和感があるし、ファミレスで食事して「1000円からお預かりします」と言われれば「1000円以下、780円ぴったしじゃ預かってくんないの?」と茶々を入れたくなったりはするが、そんなのはまあ、ご愛敬の部類であろう。洋の東西を問わずはるか昔から、「最近は言葉が乱れている」と嘆く人は多かったそうだ。言葉というのは変容していくものだし、いつの時代にもスラングが生まれては消えていき、その一部、組み入れられるべき理由や事情のあった言葉はスタンダードな言語体系に組み入れられていって、やがて多くの人々に共有される。それでいいじゃないか、と私は思っているのだ。

 だが、粗雑で上滑りな言葉だけは私は我慢できない。

〈創りあげたい国……ですか〉

「粗雑で上滑りな言葉」の代表は、最近(と言っていいだろうか? もしかすると最近というくくり方からはみ出すかも知れない)の「世の中をリードする人々」(言わずもがなであるが、カッコをつけたことに意味がある)の言葉、言葉、言葉である。ひたすら綺麗で、ひたすらポジティブで……そして中身を感じさせない。その代表の代表と言うべきなのが、政治家達の言葉。

 自民党・安倍新総裁のポスターが発表された。大きくひとこと、「創りあげたい 日本がある。」。素朴な眼で眺めてみると、何を言っているのかサッパリわからない。民主党だって社民党だって共産党だって、その他の党だって……「こんな国を創りたい」という理想があるはず。安倍さんの顔を小沢さんに変えれば、民主党のポスターとしても違和感なく通用する。

 でもこれはまあ、いいでしょう。キャッチフレーズだから。キャッチにしても本当はもう少し中身を垣間見せるものの方がよいのだが……。

〈イメージの湧かない言葉たち〉

 安倍総理は総裁選立候補にあたって、目指すべき国のあり方として次の4つを示した(当然、安倍政権はこれを目指して稼働したわけで、この4つの条件を満たす国を創りたいというわけだ)。
(1)文化、伝統、自然、歴史を大切にする国 
(2)「自由」と「規律」を知る、凛(りん)とした国 
(3)未来に向かって成長するエネルギーを持ち続ける国 
(4)世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国

 どうですか、この言葉だけで何か具体的なイメージが湧きますか。私はまったく湧きません。初対面で思想信条などがよくわからない人に「自分はこんな国がいいと思っているんです」と言われたら、「あ、そう。結構ですネ」と返事するだけだ。諸手を挙げて賛成、というわけではない。たとえばリーダーシップという言葉。私などは、世界の中でそんなもの発揮しなくてもいいじゃないか――と思う方なので、「?」を感じる。でもまあ、字面だけ見れば「いいんじゃないですか、これも」になるのだ。

〈心地よさの魔力〉

 ポジティブなイメージのある言葉を羅列されると、私達はつい「いいんじゃない?」と思ってしまう。
 たとえば「自分の言動には責任を持とう」――はい、そうですね。「自然を守ろう」――おっしゃる通りです。「お年寄りは大切に」――いいことですね。「夢」「希望」「未来」「信頼」「可能性」etc――はい、私だってそういう言葉に触れるとワクワクします。ムードに流されるというか、何となく醸し出される「心地よさ」に軽く酔うのですね。

 だが、巷に流れるはやり歌や映画の宣伝キャッチならムード・オンリーでもいいが、理念はそれでは困る。「何となくいいことを言っている」という雰囲気だけが蔓延するのが私は恐ろしい(もちろん自民党のサイトを見るなり安倍総理の発言に気を配るなどしていれば中身はわかるのだが、みんな日々の生活で忙しいのである。なかなか情報を丹念に集めてなどいられない)。

〈美人のイメージは人それぞれであるように〉

「美しいなどという形容詞で片付けてはいけません、どんなふうに美しいのか書きなさい、と小学校の時の作文指導で教わらなかったっけ?」と、誰かがブログで書かれていたような気がする(すみません、どなただったか忘れました)。

 そう……たとえば美人について書くときに、美しいという形容詞を一言も使わずに、読み手(聞き手)のなかにありありと美しい姿を再現させるのが表現力、なのだと私も教わった。たとえば「うちのお母さんはとっても美人なんだ~」と言われても、どんな顔なのかさっぱりわからない。人それぞれに何とかイメージを浮かべようとするだろうが、100人いれば100人、微妙に――場合によってはかなり大幅に違うはずだ。   

「美しい国」にせよ「凛とした国」にせよ、この言葉だけ示せば、人によって思い描くものは随分と違うだろう。「自由と規律」についても、安倍総理や我らが都知事は規律は「学校の式典では必ず国旗を掲げ、起立して国歌斉唱することによって」保たれると思っているようだが、「国旗掲揚・国歌斉唱する自由もあれば、しない自由もある。お互いを認め合うことで規律が生まれる」と考える人もいるだろう。

 どんなふうにでも解釈できる、ある意味で曖昧な言葉(どんな言葉も解釈は人によってグラデーションがあるので、解釈の幅の大きい、と言った方がよいかも知れない)、しかも雰囲気だけは綺麗な言葉をばらまくのは、やめて欲しいと私は切実に思う。

 次は、「おかしな言葉」や「品のない言葉」などについても考えてみたい。

――続く――

〈お断り〉
 この記事を読んで「左翼だって(または○○党だって、どこそこの国のトップだって)中身のない言葉をしゃべっている(またはしゃべったことがある)じゃないか。たとえば……」といった場違いな突っ込みはお断りします。むろん批判を受け付けないわけではありません。批判をくださる場合にはあくまでも記事の主旨や中身に沿ってお願いします。さもないと収拾つかなくなりますから。私はここでは、あくまでも「安倍総理の言葉」を取り上げているのです。安倍総理の言葉が中身がないとは思わないとか、具体的なイメージの湧かない言葉の方が良質である、というご意見でしたらどうぞ。ただしなぜそう思うかという説明なしで、「私は安倍さんの言葉、好きですよ。いいんじゃない?」のようなコメントの投げ込みは困ります。昨日のブログで書いた言葉を、もう1度繰り返しておきます。

【来られる方はもう「いつでも、どなたでも歓迎」というのが私の基本姿勢であるけれども、殴り込みを掛けているのか、コミュニケーションを求めているのかは、はっきりさせていただきたい。それによってこちらも挨拶のしようが違います。】


 
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私にとってのブログの意味。そしてコメントについて

2006-10-04 06:26:26 | このブログについて
〈明け方の書斎(仕事部屋)にて〉

――明けるのか、明けぬのか――この宵闇に、誰がいったい私を起こした。――(誰かの詩の一節)

 午前6時過ぎ。夜がしらじらと明け、窓の外では雨に濡れた落葉樹の梢が恥じるように頭を垂れている……。ついこの間まで、この時間には既に日中の暑さを予告するような抑えた熱気が窓を叩いていた。その頃からまだ1か月と経っていないのに、空気は確実に冬へ向かって衣替えを始めているではないか。おう、季節よ。ひとのいとなみなど笑い飛ばして太古から繰り返してきた季節のペエジよ。冬の時代を予感しておののくヒトの吐息を、おまえは知っているのか。おう、季節よ。憎しみと裏切りのつづれ織りをはねのけて、おまえは未生の愛を囁くのか。

 私はたいてい8時半頃まで寝ている人間だが(飛び起きて顔を洗いコーヒーを飲み、ドタバタ飛び出すという生活が長年続いているのだ。ちなみに私が大学を出て就職した先は始業時間10時。交通の便を最優先して住まいを選んだので、9時半に出れば間に合ったのである)、今日は仕事の都合で朝7時に家を出ねばならない。その準備で4時頃まで起きていたので、そのままついでに本を読みながら徹夜をしてしまった(2時間強の仮眠で起きるというのは、けっこう辛いのである)。パタリと本を閉じた瞬間に私の袖にしがみついた、まとまりもつかぬおぼろな想念を(かなり慌ただしくではあるが)メモしておこう。

〈私にとってブログとは〉

 ブログについての考え方は、ブロガーごとにそれこそ千差万別であろう。それが当たり前だ。

 私の場合で言えば下書きは一切せず、思いつくままに書き留めておく覚え書きである。(多くの場合、酔ってもいる。1日の労働を終え、明日の仕事の準備もし終えてホッと一息ついた夜中に書くものだから、自然にそうなる。おかげで誤変換も多々)。実は今も「美しい日本語を殺すな」という記事を書こうと思って、その前にヒトコト書き留めておきたくなったのである(日本語うんぬんのエントリは、時間の余裕があれば今夜にでも)。

 何かの問題について論考しようとか、大々的に世の中に訴えようなんて大それたことなんざ思ってやしない。ふと思いついたことをメモし、友人達に暇がある時に見てもらい、共に考えていければ――というだけのことだ。みんなそれぞれに忙しいから、是非読めと押しつける気もさらさらない。読んでもらえればラッキイ、という程度である。

 だから本来は個人通信のような形で、限られた友人だけに配信する方がいいのかも知れない。実際、「○○通信」と名付けたものを定期的にメールで送ってくる友人も3人ほどいる。「実際に顔を合わせて言葉をかわし、(思想信条は少しずつ違うけれども)響きあう部分があった友達だけに読んでもらえばいい」というのが彼らのスタンスだ。

 私も、そのような形式を採った方がよかったのかも知れない。別に、全世界に向けて発信しようなどとは思ってもいないし、庶民のネゴトに過ぎない私のメモで世の中を動かせるなんて、勘違い的なことなんざ1ミリも思っちゃあいない。ましてや、ネット上のコミュニケーションに全幅の信頼を置いているわけでもない。

 私は――もしかすると子供の時からパソコンを使いこなしていた世代ではないからかも知れないが、人間が本気でコミュニケーションできる範囲はそんなに広くない、と思ってもいるのだ。私はこのブログで既に何度も書いているように、マスコミの片隅で働いている人間である。社会人になって以来ずっと、幻のような「(想定された)読者」を相手にして語りかける仕事を続けている中で、次第に「コミュニケーションという幻影」にうんざりしてきたのかも知れない。コミュニケーションというのは、そんなキレイキレイな甘いもんじゃあねぇ。 

 実際に1年ほど前までは、私にとってインターネットを利用したコミュニケーションというのはMLで意見を流したり、個人通信に対して意見を送ったりする形でしか存在しなかった。むろんそのほか友人との個別のメールのやりとりは始終おこなっていたけれども――要するに「仲間内のコミュニケーションに、インターネットを便利な道具として使っていた」に過ぎない。それで充分だ、と思ってもいたのだ。

 それなのに昨年の衆議院選挙が終わって少し経った頃、私はブログという形で自分の拙い考えを全面公開するに至った。そのことは実のところ、自分でも恥ずかしい。と同時にアホらしくもある。所詮は庶民のネゴト。もっと言えば精神的マスターベーションである。まとまりのつかぬ覚え書きを綴りながら、クククッと嗤う自分がいる。

〈微かな繋がりを求めて〉

 それでも私がほそぼそとブログを続けているのは、やはり私も――微かにではあっても繋がっている仲間、が1人でも多く欲しいからだろう。ブログを始めてから、私は多くの出会いを持った。それはあるいは幻影かも知れないけれども、「一人ではない(らしい)」と知ることの快を私は知った。いや、むろん私にも、実生活上における仲間は何人もいる。しかしみんなそれぞれに自分の生活に忙しいわけだから、常にコンタクトをとり続けているわけにはいかない。そんなことはむろん百も承知であるけれども、はち切れそうなほどに頭を占めている何ものかを聞いて欲しい、一緒に話して欲しいと思う――それが自分自身の中にも存在していることを、ブログを始めて私は初めて思い知った。

 所詮は庶民のネゴトさ――というスタンスは、今も変わっていない。ブログの世界には常時3000、4000……どころか1日1万件に迫るアクセスがあり、オピニオン・リーダーの役割を果たしているカリスマ・ブロガーもいるそうだが、私は逆立ちしてもそんな存在にはなれっこないし、(負け惜しみと言われればそれまでだけれども)なる気もない。私はカリスマというのは危険なものだとも思っているのだ。数人でもいい、いや1人でもいい。忙しいなか読んでくださり、手を差し伸べてくださる友人が得られれば、私はそれだけで本望である。

 そういう「人と人との繋がり」をこそ私は求めていたのだ。こんなことを言うと非常にヤラシイのだけれども、それを抜きにするならば私は本業だけに専念する。今のマスコミは「マスゴミ」などと言われるぐらいでホントなさけない限りなのだが、良心が死に絶えたわけではない。息も絶え絶えな良心を守り育てる仕事に専念した方が、ある意味、よっぽどいいのだ(私は三文ジャーナリストだから自分で企画を立ち上げてキャンペーンを展開する力はないが、パシリの形で協力する程度のことは何とかできる)。だが……こちらで想定した枠組みの中だけで語る時に漏れてくるたくさんの声や思いと連帯したいと切望し、私は1円にもならぬブログを始めた。そしてそろそろ、1年になろうとしている。我ながらあきれたものである。

〈差し伸べた手の見えないコメントは不快〉

 繰り返すが、私のブログは評論でも論考でもない。単なるネゴトである。ただし、時空を超えて存在する(と私が勝手も思っている)友人に向けて発信された――。だからその微かな発信に対して返事をいただければ涙ぐむほどに嬉しいけれども、どんな返事でも嬉しいわけではない。これまたあたり前の話であろう。

 こんな過疎ブログ(私はブログというものをそれほど過大評価していない。いや、メジャーなブログは別ですよ。うちのようなその他大勢ブログの場合、の話です。自分の意見を述べる手段の一つにしか過ぎず、他にいい方法があればさっさと鞍替えするつもりだ)にもコメントを下さる方がおられるというのは、ギョッとするほど嬉しいとは言え、差し伸べようとする手の見えないコメントにはひたすら当惑する。

 何かの意思表示に対する対応は――大きく分けてふたつある。1つは「もっと話をしてみたい」と手を差し伸べるもの。もう1つは差し伸べる手のないもの、である。後者も細かく分ければいろいろな種類がある。たとえば――
○意思表示した人間の意見や感性そっちのけで、ひたすらに主題とズレた持論を述べるもの。
○言葉尻を取り上げて「おかしいだろ!」「説明しろよ!」などと居丈高に責め立てるもの。
○「これはどうなの?」「これは?」と記事の内容とは直接関係ない質問を浴びせかけるもの。
○たとえば「昭和3年とあるがこれは昭和5年の誤りである」といった具合に、細部のあら探しに終始するもの。

 いや、もちろん私もブログを書くときにいちいち資料を確かめているわけではないので、間違いは山ほどある。記憶力にもまったく自信ありませんしね(私はコンピュータじゃねぇ)。それを指摘していただくのは非常にありがたいし、「違ってますよ」と言われればスンマセンと謝って訂正する。だが、「やーい、間違ったじゃねぇか。おまえのいい加減さが暴露されたよな」みたいに言われるのははっきり言って不愉快である。

 ひたすら滔々と持論を展開する型のコメントも、正直なところあまりありがたくない。もちろん私のエントリに深く関わる問題について真摯に語ってくださるならよいのだが、私の記事を落語の枕程度に使って、直接かかわりのない話について延々と持論……というのは読む私も疲れる。ひとつだけ自慢すると(ほかにはなーんも自慢できることがないのだ。泣)私は「文章」を読むのは職業としても、また私の趣味としてもかなり慣れている。読む速度はかなり速いほうだし、難解?と言われる文章や癖のある文章でも、理解できるかどうかは別として、読むこと自体はまったく苦痛ではない。その私が苦痛だというのは、相当なものだ――と思っていていただいてよいだろう(ちなみに私は仕事の一つとして、新人の記者の記事を読んだりしている。ひとりよがりな文章を指摘するのが目的である)。悪文とか、そういう意味ではない。「耳をふさぎ、言いたいことだけを言いつのる」感じがするから苦痛なのだ。口が悪いとか、言葉が汚いとか言っているわけではない。そんなものは、ある意味でどうでもいい。

 私自身、実のところ「言いたいことを言いつのる」傾向はある。ごく若い頃から自己チューだったし、私の住んでいるマスコミの世界は双方向コミュニケーションの世界ではないからだ。だが、それをかなしいと思い、私はブログを始めたのである。だからこそ、「手を差し伸べようとする」姿勢の感じられないコメントは不快なものでしかない。人と人のコミュニケーションは、相手の言い分に虚心に耳を傾け、それについての感想を述べるところから始まる。まずは共感したところ。そして次に、自分が疑問に思うところや、自分なりの意見。おまえも人の言うことを虚心に聴いてないじゃないか、とは言わないように。ここはあくまでも私が管理している私のブログである。狭かろうと荒れ果てていようと一国一城、というやつですね。喧嘩支度で入ってくるのは、殴り込みでしょう。

 来られる方はもう「いつでも、どなたでも歓迎」というのが私の基本姿勢であるけれども、殴り込みを掛けているのか、コミュニケーションを求めているのかは、はっきりさせていただきたい。それによってこちらも挨拶のしようが違います。
 
 あ、いかん。そろそろ出かけねばならない。中途半端になったが、続きは改めて書きたい。(具体的にどういうコメントがどうこう、という点にも時間がなくて触れられなかったが、それも改めて)
 
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