数日前に「自分探しと自己実現を嫌悪する」という記事を書いた(この日はエントリが2つあり、同記事は下の方)。この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。
〈(2)へ向けての序〉
この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。
今日はその異論を紹介しながら、もう1度私の考え方を整理してみたい。ただ、私がいったい何を書いたのかわからないと、多分話がよく見えないだろう。でも普通は「いちいち前の記事なんか読んでられるか、面倒臭い!」になるはずなので、記事の一部をコピーしておく。
《「自分探し」や「自己実現」。私はこの言葉を聞くたびに、嘘くささと嫌らしさを感じて鳥肌が立つ。自分探し? 探さないとみつからないなんてわけ、ないだろ。自分は今ここに、厳然と存在しているのだから。そして逆の言い方をすれば、「私は何ものであるか」「何のために生まれ、そして生きているのか」などという根源的な問いに対する答えなど、簡単に見つかるとはとても思えない。私も考えてみれば結構な年月生きてきたけれども、いまだに「自分という存在(と、その意味)」はよくわからないままだ。おそらく、死ぬまでわからないだろう。問うことそのものが、生きるということであるのかも知れない。(中略)自己実現」も同じことだ。私がいま、ここにある。私は私以外の何者でもない。それが即、自己の実現であり、日々生活し、自分の頭でモノを考えていくほかに自己を実現する方法はないはずなのに、なぜ蜃気楼を求めねばならないのか。》
〈「自分」は探せば見つかるのか〉
以下、紹介するコメントも、途中を略してある。全文お読みになりたい場合は、10月25日のエントリのコメント欄を見てください)
【>いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分なのだ まことにごもっともなんですけれど、(中略)いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分だと腑に落ちていない自分。そんな自分は、自分探しをするほかありません。そうせずにはいられないのではないでしょうか? それがたとえ嘘であっても、自分が空っぽであることを誤魔化すために塗り固めなければならない、自分。自分探しがダメなら、空虚な自分は誤魔化しようがなくなります。(中略)
>「庶民」の足腰が弱まりつつある のはその通りでしょう。庶民が庶民いられる共同体が破壊され、人は孤独を強いられるようになってきています。人はそんなに強くありません。強くなるとすると、それは自分探しの旅路の中でです。(以下略)】(愚樵さん)
【ここでは一刀両断の下に斬られた「自分探し」。 しかし、私は好きですね「自分探し」。 いえね。この歳になると「生きることと死ぬこと」がギリギリの接点でせめぎ合う時を肌で感じるのです。 そんな時ふと思うのです。 「人間ってなんだろう???
生きるとは何か? そして、今ここにいる自分とは何か」って。 そうしたら矢張り自分探しをするのです。 簡単に手放せない自分ってものと対峙します。(中略) 人は死ぬまで自分のことは分からない。 釈迦は分からないことは考えるな、討論するなと言われました。 が、釈迦でない私は迷うし、たゆたう。 そしてこんな自分が好きだと受け入れるために浅知恵でのたうちまわりながら自分を探している者がいるということも、どうぞお知りおきください。 】(せとともこさん)
う~ん。お二人の意見は、わかる気がする。確かにそうかも知れないと思う(私はひとの意見を聞くと、結構そうだなあと頷いてしまう人間なのだ)。おそらく私達は、
死ぬまで見つからないとわかりつつも、 「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」「自分に生きる意味はあるのか」という問いを続けているのだろう。言葉を変えれば、探し続けなければいられないのだろう。
だが、それは「自分探し」ではない――と私は思う。少なくとも、世の中で広く言われている類のものではない。「本当の自分」というものが何処かにあるから探しましょう、見つかったらおめでとう、というものではあるまいと思ってしまうのだ。
「今ここに存在している自分が、掛け値無しの自分」と私は書いた。とは言え、その存在が腑に落ちているわけでもない。違和感もあり、これが自分かよと情けない思いもある。しかしそれでもなお、「今ここに存在している自分」と向き合い、付き合ってやる以外、荒野を旅する旅も始まらないのである。影法師を無くしたり探したりすることはできないように、私達は「今ここにある自分」以外の自分を探し出すことはできないのだ。そして「今ここにある自分」が自分であると思うからこそ、「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」等々の問いも命を持つのではないだろうか。
〈不安を煽るかけ声〉
「自分探し」と並んで――というより、自分探し以上に嫌いなのが「自己実現」である。自己実現という「言葉」自体には、何の色も着いていない。プラス・マイナスどちらの意味もない、と言ってもよい。その点を取り上げたコメントもあった。
【これは言葉の定義の問題だと考えています。】 (村野瀬玲奈さん)
村野瀬さんはいつも私の記事の不備を補うコメントを書いて下さったり、貴重な情報を教えて下さる方である。本当に感謝しているのだが、今回のコメントだけは頷けなかった。むろん、言葉というものは――特に抽象的なそれは、人によって定義やイメージがかなり違う。たとえば「焼きサンマ」と聞けば人によって思い浮かべるイメージは少しずつズレるだろうが、まるきり違うということは多分ない。「君が代」と聞けば、誰でもあの歌を思い浮かべるはずだ(好き嫌いなど、対象に抱く感情は別)。 だが、「愛」「信仰」「労働」といった抽象的な言葉は、人によっては天と地ほど違っていたりするのだ。
だが、私が前回の記事で書きたかったのは、定義の問題とはあまり関係ない話である。「自己実現」という「言葉」には罪?はない。私もこの言葉自体が嫌いなわけではない。ただ、世の中で声を揃えて叫ばれる「自己実現」が、そして自己実現、自己実現と煽り立てる風潮が何ともおぞましいのだ。
自己実現という言葉がこんなに広く使われるようになったのは、いつ頃だろう。少なくとも私の子供の頃は、日常的に使われる言葉ではなかった。学生の頃はどうだっろう? 時には使われていたかも知れないが、今ほど氾濫していなかったのは確かである。いつの間にか巷に溢れ、学校にも職場にも家庭にもテレビの画面にも溢れ、公園のベンチの隅やダイニング・テーブルの上やベッドの中にまで転がっているような感じになった。それにつれて軽く薄っぺらくなり、ほんの少し努力すれば誰でも出来る、出来なければおかしいもののようになった。そして、人を「自分は自己実現できていないのではないか」という不安に陥れる。不安に陥った人間は、何らかの「具体的な依りどころ」を示したい者達の格好の餌食になるのだが。
最後にしつこく、前回も書いた文を繰り返しておこう……。
《自分探しをしようよ、自己実現しようよ、と煽る根底には、「勝ち組/負け組」などという不潔な言葉でひとを選別するのと同じ思想が流れている。首尾良く自分をみつけられたら勝ち、自己実現できたら勝ち。これは露骨な競争である。 》