華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

笑わせてくれます、教育再生会議

2007-05-02 00:23:23 | 教育

◇◇◇はぁ……親学に関する提言、だそうです◇◇◇

 nizanさんが「教育再生会議のバカ発言」で、同会議の懲りない提言(?)を笑い飛ばしておられる。

 教育再生会議 については皆さんよく御存知だろうが、「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を図っていくため、教育の基本にさかのぼった改革を推進する必要がある」ということで、昨年10月10日の閣議決定によって設けられたものだ。メンバーは内閣総理大臣、内閣官房長官、文部科学大臣、そして「有識者」である。有識者として選ばれたのは、劇団四季の浅利慶太、東海旅客鉄道会長・葛西敬之、資生堂相談役・池田守男、国際日本文化研究センター教授・川勝平太、東京大学総長・小宮山宏……その他。

 3か月ほど前の中間報告でも噴飯ものの提言がおこなわれたが(それについては、過去のエントリ※でも触れている)、感覚のズレ具合にますます磨きがかかっている模様。先月25日に概要がまとめられた「親学に関する緊急提言」には、爆笑してしまった。提言は11項目。

(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児
(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
(3)早寝早起き朝ごはんの励行
(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
(6)企業は授乳休憩で母親を守る
(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
(9)遊び場確保に道路を一時開放
(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める

 

◇◇◇親戚のジイチャンの説教じゃあるまいし◇◇◇

 まず真っ先に思うのは――へええ、お歴々が雁首そろえて考え抜いた揚げ句の「教育再生」のための提言、がこれですか。やれやれ。

 まるで親戚のジイチャンあたりの、思いつきの説教を聞いたような錯覚を起こす。こんな提言を引き出すために税金使われているのかと思うと、情けなくて涙も出ない。この程度の提言が欲しいなら、わざわざ有識者とやらを集めなさんな(それにしても有識者って何だろう? 子供に聞かれたら、皆さんどう答えますか)。私の母親みたいな平凡な無識者バアサンだって、もう少しましなアイデアを持っていると思いますがね。

 教育評論家の尾木直樹氏(法政大学教授)が、こう言って首をかしげたそうだ。「書いてあることは間違っていないが、政府会議ともあろうものが何を言ってるんだ、という感じです。なぜこうしたことが実現しないのかを社会的、経済的に分析し、実現のための政策を提言するのが仕事なのに、これでは職員会議の議題です。聞くところによれば、会議では演出家が『演劇鑑賞も入れてよ』と言い、子育てを終えた人が『やっぱり母乳よね』と言ったそうで、それがそのまま提言になっている。母乳の出ないお母さんはどうすればいいのか。こんなのを挙げていけば100も200もの提言になってしまいますよ」(4月30日付・日刊ゲンダイの記事より)

 あはは、いっそ11なんて遠慮せず、「提言1100」とか出してはいかが。いや、そこまでいくとさすがの国民もあほらしさに気付くので、もったいぶって数を絞ったのかな。

 

◇◇◇国民は幼稚園児か?◇◇◇

 尾木教授によると「言ってることは間違っていない」そうだが、私などは「そうかなあ」と思ってしまう。nizanさんではないが、それこそ突っ込みどころ満載。私もちょっとだけやってみると……

○子守歌を聞かせ――――→音痴の親はどうするの? それから……子守歌、って何よ? モーツァルトの『魔笛』とかじゃダメなんですか?

○父親もPTAに参加。子供と対話し教科書にも目を通す――――→私は母子家庭で、父親いなかったんですけど……(お父ちゃまとお母ちゃまとが揃ったのが健全な家庭、みたいな雰囲気には、ほとんど反射的に違和感覚えるのだよね)。あ、それから私の友人達は父親であれ母親であれ子供とそこそこ話もしているし、教科書も読んでますよ。なかなかできない人もいるけど、それは本人がやりたくないのではなく、泣く泣く単身赴任したりしているから。さては安倍首相はじめ政治家の皆さんや、有識者のセンセイがたは、そういうことやってなかったのだな。

○テレビでなく演劇など鑑賞――――→会議メンバーのかたがたは、よほどくだらないテレビ番組しか御覧にならないらしい。いい番組もたくさんありますがね。子供向けアニメだって(私は子供がいないのでよくわからないが……)いいものがいくらでもあるだろう。だいたい、「演劇など芸術」と平然と言う神経がいやらしい。

○自尊心が低下しないよう――――→疑問を持つ子供に対して頭ごなしに国旗国歌を強制するのは、自尊心を傷つけないんでしょうか? それにしてもこの項目は、ほんと、具体的にはむろんのこと、抽象的にも何言いたいのかわかりません。

 だが何よりも一番胡散臭いのは、「早寝早起き」だの「あいさつ」だの、それ自体は別に悪いことじゃないよなということ、ただし国から言われるこっちゃないだろ、ということをシャアシャアと「提言」していることだ。親戚のジイチャンから言われるなら、そりゃかまいませんよ。「はいはい、その通り」と頷きます。私は子供の頃から夜型で、今でも遅寝遅起きの方だけれど、日の出と共に起きて早く寝る生活の方が昼行性動物には健康的なんだよなぁ、イカンなぁ、とは思う。ましてや小さい子供は、できれば早寝早起きした方がいいのだろう。

 しっかし!! そんなことまでいちいち国が言うな、と私は断固として思う。国民は幼稚園児ではない。いや、幼稚園児扱いされているのかな? いちいち細かく注意されないと何も出来ないと思われているのだと気付いて、国民は怒るべきだ。

 

◇◇◇地獄への道は善意で敷き詰められている◇◇◇ 

「この11の提言を大きなお世話、と一蹴したいところですが、大きなお世話は善意から出ているのに対して、これは善意どころか極めて悪意で意図的に出されたものだ、といっても言いすぎではないような気がします」と、静かな口調の中に骨っぽさを滲ませてとむ丸さんが書いておられた。(「宗教色の強い倫理観」の恐ろしさについて考察した5月1日のエントリ)

 私は「大きなお世話」は必ずしも善意からのものばかりとは限らない(善意の衣を着た悪意、もしくはマイナス感情に基づくものも多々ある。たとえば出る杭を打つという大きなお世話も、世の中には多いのだ)と思っているが、それはまあどうでもいい。ひとつひとつの項目は「単なる思いつき」としか見えないほどあほくさいが、その背後には確かに意図的な臭いが漂っている。

 いや……このすさまじいお節介は、ある種の善意なのかも知れない(と、ふと思った)。幻想の「古きよき日本」に憧れ、その世界に回帰することが善だと信じ込み、国民はバカだから幼稚園児のように手取り足取り指導してやらなくちゃ、と思い込んでいる、そういう類の「善意」。やっぱり道徳って大切だよね、道徳観を広めなくちゃねと思っている、そういう類の「善意」。国民は国を守るのが当然で、それによって幸せになれるのだと思っている、そういう類の「善意」……エトセトラ。善意は必ずしも正しい方向に働くとは限らない。たとえばカルト宗教の信徒が人に入信を勧めるのも、掛け値ない善意からであったりする。だから怖いのだとも言える。

 いずれにせよ、為政者(をはじめとする、権力を握った者達)が道徳だの倫理だのと言い出すことほど恐ろしいことはない。それを言い出した時、彼らは支配される側の心までを縛ろうとしているのだ。いや、むろん「上の人間」は、常に人々の心を縛ろうとしているのだから、その方向に露骨に走り始めたと言った方がよいだろう。道徳も倫理も「個人」のものである。国がシタリ顔に説教することではない。

 

◇◇◇◇◇◇ 

※教育再生会議の提言に関連したエントリ: 「ボランティア体験の義務づけ??」 「『態度を養う』怖さ――外相を整えさせられまい」

 戸倉多香子さんを応援しています(民主党は支援していませんが……とくらさん、ごめん。でも、だからこそ、民主党をもう少し何とかしてもらうためにも)。

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「ボランティア体験の義務づけ」??――教育再生会議中間報告

2007-01-15 23:31:30 | 教育

〈ああ、教育再生会議〉

 昨年10月に発足した「教育再生会議」(座長・野依良治理化学研究所理事長)。安倍総理は、その初会合(だったと思う)の冒頭のスピーチで「『美しい国』を造る上での基盤は教育である」と述べたと聞く。美しい国、美しい国と、まったくもって耳にタコが出来そうだし、教育「再生」なる名称自体、背中がムズムズする。「革命」だの「改革」だの「維新」だの「再生」だのという言葉はそれだけ聞けば綺麗でワクワクするし、少なくとも何かいいことがありそうな期待を抱かせる。だが言葉は重宝なもので、なりふりかまわず「強いモン勝ち」の価値観を広めるのが改革だったり、都合の悪い考え方を一掃するのが再生だったりするから、聞く時はよっぽど注意が必要だ。

 教育再生会議の場合も、ここでいう「再生」は個々の子供達、引いて言えばひとりひとりの国民を主人公にした「教育」の再生ではない。これは私の勝手な思い込みではない。教育基本法を強引に改定した安倍内閣が作った組織だから――ということもあるが、安倍総理は先のスピーチの中でこうも言っている。「(教育を再生して)志ある国民を育て、品格ある国家社会を造らねばならない」。

 志? 品格? あーあ、またキレイキレイな言葉が出たよ。いや、私も「志」や「品格」は嫌いじゃあない。しかしそれらは、あくまでも個々の人間のものでしょうが。政治家が規定したり、エラソウに言ったりすることじゃあない(※)。

7日のエントリでもそのあたりのことにちょっと触れたので、もういっぺん載せておく(自分の記事を引用するなんぞ恥の極みだが、どうせ同じことばっかりしか言えないので……)

【政治家ってのは「公僕」だろ? 国民のサーバントなんよ。いろんな価値観を持った庶民が、それぞれに暮らしやすい環境を整えるのだけが仕事でさ、それ以外にはなーんもないとおいらは思うね。国民のサーバントのくせに、妙な方向に張り切って、幻想の価値観を国民に押しつけようとするってのが根本的な間違いなのさ。】

 

〈「ボランティア活動」の「義務化」って、矛盾してないか〉

「公僕」が自分を「この国の支配者」と勘違いし、妙に張り切って教育をおもちゃにする。(支配者というのが言い過ぎならば、リーダーとかトップとか言ってもいい。総理大臣と呼ばれる安倍晋三氏も、自民党という組織においては確かにトップであろうが、この国のリーダーではないのだ。国の主権は国民ひとりひとりにある)

 その「勘違い」の申し子である教育再生会議が、今月末までに第一次中間報告を取りまとめるそうだが、報道によるとその報告で「高校で社会奉仕活動を必修化するよう明記する方針を固めた」という。

【19日に全体会議を開いて決める。学習指導要領に盛り込むかどうかなどの実施への制度作りは、その後さらに議論する。学校での社会奉仕活動については、森内閣の教育改革国民会議が00年、小中高校で共同生活をしながら行うことなどを提唱した。しかし「憲法が禁じる苦役につながる」との指摘や受け入れ態勢の問題があり、実施は見送られてきた。ところが、安倍首相は昨年の総裁選で「公の概念が大切」と大学入学の条件にボランティア体験を義務付ける考えを示し、著書「美しい国へ」で「最初は強制でも、若者に機会を与えることに意味がある」と主張。 これをきっかけに社会奉仕活動の導入論が再浮上し、再生会議でも「奉仕の義務化が必要」(池田守男座長代理)などの意見が出て、報告に明記する方向となった。】(毎日新聞記事より)

 ボランティア体験を「義務づける」って……あんたねえ……冗談にしてもタチが悪すぎる。volunteerismというのは、そもそも自由意思に基づく自発的な活動(や、その精神)であるはず(私は語学の専門家ではないので、語源的にどうこうといったことはわからない。庶民の常識?の範囲で語っているだけであるが)。義務だの指示命令などとは、最も遠い地平にあるはずでしょうが。

 ボランティア体験は、実のところ既に(一部ではあれ)薄汚くなっている面がある。その有無・内容が内申書に記載されたり、企業の面接で尋ねられるという状況が生まれるようになって以来、「立ち回りの手段としてのボランティア活動」が出現してきたのだ。何らの気負いもなく、ひっそりと、「できる時に、できることを」という精神は犯されつつある。 「右手のしていることを左手に知らせるな」という諺は、死語になりつつあるらしい。

 なお、具体的に何をするのかは「高校や地域の清掃、校内のトイレ掃除」といった程度の議論しかされていないそうだ。掃除、ねえ……(ため息。まさか空き缶ポイ捨て話の好きな総理におもねったわけじゃあないでしょうな)。

 

〈素直に号令に従う「国民」を養成〉

 本来、自由意思に基づくものであるはずのボランティア活動を義務づける。その裏に透いて見えるのは、「指示命令に従う国民を養成しよう」という意図だとしか私には思えない。自由意思でモノゴトをやってもらっちゃ困るのだ。ああせい、こうせいと言われて素直に従う国民が欲しいのだ。

 教育再生会議について言いたいことはたくさんあるが、続きはまたの機会に。 

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「教育基本法」関連社説を読む

2006-12-20 23:49:21 | 教育

〈21日の追記〉

 昨日これを書いた時は信濃毎日新聞の社説を取り上げているのだが、私はうっかり同社は毎日と資本関係があると思い込んでいた。みやっちさんから「信毎は純粋な地方紙で、毎日とは資本関係はなかったはず」と指摘していただき、そう言えばそうだったかも知れないと慌てて調べたら……ご指摘の通りでした。みやっちさん、本当にありがとう。

 というわけで一部書き直しました。

◇◇◇◇◇◇さて、本文

 去る16日には、多くの新聞が社説で「教育基本法改定」を取り上げていた。駅売りで買える新聞は買い、手に入らないものはネットで検索して読んだ。やや遅ればせながら、その感想を走り書き的にメモしておく(※)。

 なお、多くの社説はWEB上で読むことが可能。末尾に、ここで感想を述べた社説のURLを記載しておいた。

◇◇◇◇◇◇

 改定を手放しで賞賛しているのは何処か、むろん皆さんもおわかりだろう。「『脱戦後』への大きな一歩」と手放しで評価しているのは、言わずと知れた産経新聞。

【改正法には、現行法にない新しい理念が盛り込まれている。特に、「我が国と郷土を愛する態度」「伝統と文化の尊重」「公共の精神」「豊かな情操と道徳心」などは、戦後教育で軽視されがちだった教育理念である。一部のマスコミや野党は愛国心が押しつけられはしないかと心配するが、愛国心というものは、押しつけられて身につくものではない。日本の歴史を学び、伝統文化に接することにより、自然に養われるのである。】

 随分前――私のごく若い頃から、産経新聞は完全に右、と言うか自民党寄りだと言われていた。それならそれでかまわないし、妙にブレるよりもいっそすっきりしているとも言える。諸外国では新聞は(うちは○○党を応援している、などと)旗幟を鮮明にしているのが普通。日本でも「うちは与党を支持します」という新聞があっておかしくない。ただ、問題はそういった新聞も「不偏不党」を旗印にしていること。「(とってくれと頼まれたなどの理由で)何となく購読している」読者を騙してはいけない。

 それにしても……現場で実際に押しつけられている状況を無視した、この文章の薄汚さ。こういう話の進め方を、牽強付会という。「(愛国心は)歴史を学び、伝統文化に接することにより自然に養われる」というのは、まあいいでしょう。私は愛国心のない人間であるが(非国民と言わたってかまわん)、生まれ育った国を愛するという場合はそういう面が強いのだろうなとは思う。だが、自然に養われるものならば、なぜ法律で縛りをかけねばならないのか。この社説を書いた論説委員には、「なぜ」という視点が欠けている。 二流人の私が言うのは面はゆいが、ジャーナリストを支えるのは「なぜ? なぜ? なぜ?」という噴き出すような疑問であるはず。翼賛ジャーナリズムは、ジャーナリズムの名に値しない。

 読売新聞も、 【教育の憲法」の生まれ変わりは新しい日本の教育の幕開けを意味する。この歴史的転換点を、国民全体で教育のあり方を考えるきっかけとしたい】と教基法改定を礼賛。

【見直しの必要性を説く声は制定の直後からあった。そのたびに左派勢力の「教育勅語、軍国主義の復活だ」といった中傷にさらされ、議論すらタブー視される不幸な時代が長く続いた。】

 中傷という価値判断を下すことによって、読売新聞は自らの立ち位置を明示したと言えよう。

【現行基本法が個人・個性重視に偏りすぎているため、「公共の精神」や「規律」「道徳心」が軽視されて自己中心的な考え方が広まったのではないか】というシタリ顔の文章を読むと、私は反吐が出そうになる。

 おまえら、それでもジャーナリストか。しつこく言うが、私はマスコミの片隅で喘ぎ喘ぎ生きている二流ないしは三流のジャーナリストだ。食い扶持を稼ぐために恥を忍ぶことなど日常茶飯事である。血の小便と涙とが一緒くたに流れるような、汚い仕事だってやるさ。それでも、売り渡せないものだけはある。私と同じ名もない庶民を騙したり、傷つけたりしないこと。権力側の視点と自分の視点を重ね合わせないこと。それだけは守るという誇りを失ったジャーナリストを、私はジャーナリストとは呼ばない。

◇◇◇◇◇

 いかん、いつもの通り仕事を終えての酒で酔ってるので(私は下戸なので少しのアルコールで酩酊する)、支離滅裂になってきた。

◇◇◇◇◇

 他の全国紙を見ると――朝日新聞は【長く続いてきた戦後の体制が変わる。日本はこの先、どこへ行くのだろうか。 】【二つの法律改正をめぐっては、国民の賛否も大きく分かれていた。その重さにふさわしい審議もないまま、法の成立を急いだことが残念でならない。 戦後60年近く、一字も変えられることのなかった教育基本法の改正に踏み切った安倍首相の視線の先には、憲法の改正がある。 この臨時国会が、戦後日本が変わる転換点だった。後悔とともに、そう振り返ることにならなければいいのだが。】 と、あいもかわらずインテリ評論家的な論調。一応批判的な立場に立っているふうではあるけれども、読む方としては「あ、そう」という感覚でしかない。私らは無知な庶民ですが、そのぐらいはアナタに言われなくたってわかってますよ。我々はつまらない評論を読むために新聞を読んでいるわけではない。いい加減にしなさい。

 おそらくどの新聞でもそうだと思うが、社説を書くのは「論説委員」。経営の一陣に食い込むほどは出世しなかったが、それなりに業績があり、文章も巧いベテランの記者が論説委員になる。彼らはいわば百戦錬磨の人間であると同時に、世の中の動きをシニカルに見ている面も強く、また自分の文章力に多大な自信を持ってもいる。しかも大半は高学歴で、知識も豊富だ。ある意味、始末におえない面もあるのだ。

 さて、もうひとつの全国紙、毎日新聞。【これで「幕」にしてはいけない】というタイトルを付けて、教育を政治利用した安倍内閣を批判。

【個別の徳目や親の責任などは自然な理想や考え方といえるだろう。ただ、列記しなくても、これらは現行法下の教育現場でも否定されてはいない。授業や生活を通じて学び取っていることではないか。網羅しなくても、生涯学習や幼児教育などの分野は社会に定着しており、是正が必要なら基本法をまたず個別にできるはずだ。列記されることで、これらの考え方が押しつけられたり、画一的な形や結果を求める空気が広がりはしないか。振興基本計画に忠実である度合いを各地方が競い合うことになりはしないか--。】と、朝日新聞よりはかなり歯切れがいい。


◇◇◇◇

 全国紙よりも健闘しているのは地方紙。なぜ地方紙の方が自由に元気にジャーナリズム精神にのっとった仕事ができるのかは以前に何度も書いたことがあると思うが……ややこしい話抜きで単純に言えば、全国紙は電通の全面的支配を免れ得ないからだ(細かい話はすっ飛ばしているので、そのつもりでお読みいただきたい。突っ込みはお断り。このエントリに限っては、揚げ足取り的な突っ込みは問答無用で削除します)。新聞にせよ雑誌にせよ、十万百万単位の読者の確保に血道を上げた瞬間に堕落への道を転がり落ち始めるのかもしれないと思う……。

 その「頑張っている」地方紙にしてさえなお、(私の読んだ限りにおいては)真っ向から激しく糾弾したところはなかった――。(ついでに言うと、それを非難しているわけではない。実のところ、おそらくさまざまな圧力のある中で、よしよし、よくここまで言ってくれた、地道に頑張ろうね、という思いも強いのだ。いささか身びいきかも知れないけれども)

 まず、東京新聞。同紙はけっこういい取材をしていい記事を書いており、私も応援の意味合いを込めてよく駅売りで買うのだけれども、社説に限ってはちょっとおとなしい……かな。

【公共の精神や愛国心は大切だし、自然に身につけていくことこそ望ましい。国、行政によって強制されれば、教育勅語の世界へ逆行しかねない。内面への介入は憲法の保障する思想・良心の自由を侵しかねない。新しい憲法や改正教育基本法はそんな危険性を内在させている】

信濃毎日新聞――【憲法の理想を実現するには「教育の力にまつべきもの」として、個人の尊厳を重んじる現行法から、基本的な考え方が大きく変わる。規範意識を植え付け、国が期待するあるべき姿を押しつける方向に教育がねじ曲げられないか、心配になる。】と、朝日新聞にやや似た評論家口調が少し気になる。

 だが、それに加えて【最も心配されるのは、子どもの内面に踏み込む方向が強まることだ。安倍首相は「内心の評価は行わない」としたものの、日本の伝統や文化を学ぶ姿勢や態度を評価することは明言している】【教育基本法改正は、憲法改正にもつながる。自民党の新憲法草案は個人の自由と権利の乱用を戒めている。このまま、国の関与が強まる道を選ぶのか。岐路に立っていることを自覚しなくてはいけない。】と、やや踏み込んで書いているところを読むと、少し期待したい気分も。

神戸新聞――【最大の特徴は「教育の目標」の条項で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」と記述し、初めて愛国心に触れたことだ。愛国心重視にこだわる自民党の姿勢を示したといってよい。改正の是非を問う論議でも、最大の論点はここだった。「国を愛するのは自然な心で、法律の枠で縛る必要があるのか」との声が少なくなかった。戦前、教育勅語を掲げて軍国主義教育に走った苦い歴史がぬぐいきれいからだ。こうした懸念への配慮を決して怠ってはならない。もう一つの特色は、前文に「公共の精神を尊び」の文言を掲げたことだろう。昨今の世相を見ても、公共心にもとる言動が以前より目立ってきたことは否定できないが、道徳の押しつけにならないよう教育をどう進めていくかが問われる。】

 中国新聞――【改正教基法は「公共の精神」を前面に打ち出し、教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明示した。国の関与を強める表現も盛り込まれた。能力対応の教育、家庭の責任、教員の養成と研修の充実も並ぶ。心の中まで踏み込み、運用次第では圧力が家庭にまで及ぶ可能性さえある。】

 うーむ。真面目に、そして一生懸命に書いたのだろうということはわかるが、やっぱり少々評論家的な匂いもしないでもない。マスコミを応援しいたい人には「厳しすぎる」と見られ、マスコミは「マスゴミ」であり敵であると認識する人には「甘い」と嘲笑されるのを承知で言うのですけれどね。(ちなみに私は自分の仕事柄もあって、マスコミの良心的な部分を最大限応援したいと思っているほうです)

 いきなり目を南に向けて、沖縄。

【一九四七年制定の教育基本法は憲法とともに戦後教育を支えてきた。制定以来初の改正には、戦後教育を否定する政治的な意味合いがある。】【沖縄は本土と異なる歴史を歩んできた。「愛国心」教育が少数派の沖縄の子どもたちに将来どのような影響を及ぼすのかも、危惧せざるを得ない。】(沖縄タイムス)

 琉球新報も、「教育が時の政権の思惑で変えられる」ことにおののきを露わにする。さすがに本国の犠牲になってつい30年余り前まではアメリカの支配下にあり、未だに日本の基地の多くを押しつけられている土地柄だけに、「祭りだ、ワッショイ」的な脳天気な愛国心には腰が引けている。

(唐突だがここで今日のエントリは終わり。起承転結なんか、なんも考えずに書きなぐっているだけなので御容赦。)

〈社説URL〉

産経新聞http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/shucho/061216/shc061216001.htm

読売新聞http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061215ig90.htm

朝日新聞http://www.asahi.com/paper/editorial20061216.html

毎日新聞http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/archive/news/2006/12/20061216ddm005070123000c.html

東京新聞http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20061216/col_____sha_____001.shtml

琉球新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-19725-storytopic-11.html

信濃毎日新聞http://www.shinmai.co.jp/news/20061216/KT061215ETI090004000022.htm

沖縄タイムスhttp://www.okinawatimes.co.jp/edi/20061215.html#no_1

神戸新聞http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000192399.shtml

中国新聞http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200612160178.html

◇◇◇◇蛇足的な余談

※遅ればせながら……と書いたところで、何が遅ればせなのだと自分自身の中で問う声があった。インターネット上では素早く情報が飛び交い、ブログでも“つい今し方の出来事”について書かれたエントリがたくさんある。だが、私たちブロガーは日々のニュースを追い、特ダネ競争に身をやつす新聞記者ではない。遅ればせだろうが何だろうがかまわないじゃないか。これは半ばは開き直りだけれども、半ばは自戒。今こそ本気で――むろん今まで本気でなかったわけではない。瀬戸際の本気で、と言えばいいだろうか――抵抗の意志を固める時であり、そのためには亀のような歩みであっても前に向かって歩み続けねばならず、記憶に刻むべきことはゆっくりとでも深く刻みつけておかねばならない……。

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ねえ君、それは「個性」とは言わないと思うが――「いじめ」アンケートを巡って

2006-11-07 23:43:48 | 教育

 NPO法人「ジェントルハートプロジェクト」が小中高生約1万3000人を対象に「いじめ」に関するアンケートをおこない、その結果をまとめたというニュース(毎日新聞)があった。

 私はこのNPO法人については全く知らなかった。また、アンケート調査というのは設問によってかなり恣意的に答えを引き出せるものでもあるので、このニュースを即、100%信用する形でものを言う気はない(これはすべての情報に対する私の姿勢でもある)。ただ、大いに参考にしたいとは思う。

 報道によると、「いじめる方が悪いと思うか」という問いに対し、「はい」と答えた割合は小学校では60%を超えるが、中学高校では40%台。「いじめられても仕方ない子はいるか」に対して「いいえ」と答えた割合は小学校で辛うじて過半数、中学では40%を切ったという。また「いじめはなくせるか」という質問に対しては、学年が上がるほど「はい」と答える率が減っていたという。

 子供の頃は、誰でもまだ素朴で純粋な正義感を持っている(私はそれを貴重なものであると思ってもいる。できれば私自身、死ぬまで子供のような純粋さを保てればこれほど嬉しいことはない)。だが、年齢が高くなり、世の中の風潮や価値観と否応なく妥協せざるを得なくなるにつれ、それが失われていくということだろうか。少し前には(どのぐらい前かと聞かれると明確に答えられないのだけれども)小学生のみならず、中学高校、いや大学生になっても、子供のような正義感を持つ人が多かったような気がする。今より人間が高尚だったということではなく、「それがまだ許される」世の中だったのだろう。

 この「アンケート結果」は、世の中が確実に悪くなっている、息苦しくなっている、ということを、証明――とまではいかないが、何となく感じさせるものではあるまいか。

 アンケートに答えて、公立小学校6年生の男子生徒からこんな意見も出たという。「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」。

 私はこれを読んだ時、ギョッとして、一瞬、頭の中からすべての言葉が消滅するような感覚に襲われた。こ、こせい……。私は昨日「奪われた言葉たち」という、まとまりのつかない文を書いた。うつくしかったはずの言葉が奪われ、泥まみれにされているのが辛くてつい愚痴を言ってしまったのだが……ああ、「個性」という言葉もはっきりと奪われていたのだ。

 そりゃ、個性と言えば個性かも知れない。その個体に特有の、他とは違う特徴、という意味でいえば。他者をなぶり殺しにしたいという衝動を持つのも個性だし、人を騙すことに喜びを持つのも個性であろう。だが……個性という言葉には本来、それこそ「うつくしい」意味合いがあったはずではないか。

 ひとりひとりの個性を伸ばす教育、などという空々しいお題目が蔓延して久しいが、そこで言われる個性なるものは、「国家にとって有用なもの」あるいは「華やかに注目されるもの」でしかない。頭の回転が速いという個性、記憶力が優れているという個性、理路整然とものごとを喋れるという個性、リーダーシップをとれるという個性……エトセトラ。「同級生の何倍も時間をかけてゆっくり考える個性」とか「社会の隅々に存在する差別に繊細に反応して心を痛める個性」などは、めったなことでは尊重されない。

 個性、個性とギスギス強調される中で、おそらく「個性競争」に新しい局面が生まれたのだ。普通の人間が眉をひそめるような極端なことを言い、跳ね上がるという……。もしかすると昨今増えているという右翼的な発言をする若者も、個性競争の中でもがいた揚げ句、そういう道を発見したのかも知れない。

 自己チューの私は、先のような発言に接すると、しみじみ「子供がいなくてよかった」と思ったりする。もしも自分の子供が「いじめをするのも個性」などと言ったら、私は絶句し、自分の存在を根底から否定されたように感じ、そういう子供を育ててしまった自分を許せないと思うだろう……。だが、考えてみれば私に子供がいるかどうかなど大した問題ではない。そういう子供を生み出してしまったのは、私達おとな、全員の責任なのである……。 

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小中学校の「特色づくり」?

2006-11-05 23:56:26 | 教育

 既に皆さん御存知で、唖然としておられるのではないか。学力テストの結果に応じて公立小中学校に配分する予算の一部に差をもうける、という話。昨日はそれに関する簡単な感想を書いたが、さらに続けて考えてみたい。私は教育関係の専門家ではなく、子供もいないため、小中学校の現状については常識程度の知識しか持っていない。はっきり言って疎いほうかも。専門家や子供を持つ人達から見ればピントはずれなところも多々あるかも知れないが……それでもやはり、もの言わぬは腹ふくるるわざとやら。自分が考えたことの記録という意味でも、書き留めておこうと思う。

〈差がつくのは特色づくり予算〉

 配分に差がつくのは、「特色づくり予算」というもの。特色づくりなる言葉がいつ頃から学校教育の場で声高に言われるようになったのかわからないが、おそらく10年足らず前に文部科学省(当時は文部省)が新学習指導要領を策定した頃からではないか。その中で「『生きる力』の育成を目指して各学校が特色ある教育を」といった類のことが言われていた。教育白書等を見ても、たとえば『平成12年度・我が国の文教施策』(2000年11月)には「教育改革の実現には、各学校が子どもや地域の実情に応じた創意工夫ある教育活動を展開」しなければならない、といった文言が見える。そして最近は、各都道府県・市町村の教育委員会でも、「特色ある学校づくり」をお題目に掲げるところがたくさんあるような気がする(細かく調べたわけではないので、あくまでも感触であるが)。

〈特色づくりと学校選択制〉

 特色ある学校づくり。あるいは学校の特色づくり――という言葉を聞くと、私の頭の中には連想ゲーム風に、2000年頃から出現し始めた「公立小中学校の自由選択制度」が浮かんでくる。公立の小中学校は指定校制度が採られており、原則として通学区域に基づいてどこの学校に通うかが決められている。その枠を外したのが「自由選択制度」だ。文部科学省の発表によると、2005年3月時点で小中学校共に自由選択にしている自治体は227(8.8%)、中学校のみ自由選択の自治体は161(11.1%)。都道府県別に見ると実施の割合の最も多いのは東京都で、特に区部では実施していない所の方がはるかに少ない。ほとんど圧倒的、と言ってもいいほどだ。むろん、今回問題の方針を打ち出した足立区も、選択制を採用している。

 選択制を導入した自治体は、口を揃えて次のようなことを言う。「好きな学校を選べるとなれば、各学校の特色づくりにも拍車がかかる。バラエティーに富んだ学校が出来、その中から自分に適した学校を選べるようになります」

〈学校格差の拡大〉

 学校選択制は「選択の自由」という旗印を掲げて登場したため、おおむね好意的な目で迎えられた。しかし本当に、すばらしいことなのか。

 東京で真っ先に選択制を導入したのは品川区だった。小学校は2000年、中学校は2001年にスタート。導入前から反対の大きな理由として「学校格差の拡大に対する懸念」が言われていたが、蓋を開ければそれがはっきりと証明された。「名門校」「伝統校」と呼ばれる学校への入学希望者が多かったのである(むろん器に限りがあるから希望者全員が入学できるとは限らないが)。最も人気のあるのは大井第一小学校。昔はここから伊藤中学→東大、というのが品川の典型的エリート・コースだったそうで、今でも私立中学への進学率が高い。品川区だけでなく、選択制を採った自治体では多少の差はあれ、ほぼ同様の問題が起きていると言ってよい。

 学校がはっきりランク分けされ、予算に差がつくとなれば、いっそう学校ごとの人気の差、学校間の格差が広がるだろうなあ……。

〈特色も横並び!?〉

 で、問題の特色づくりであるが……。こちらはいったい、どうなっているのか。最近は小中学校でもホーム・ページを作っている所が多いが、どこが個性的なのかよくわからない。豊かな人間性をはぐくむとか、一人一人の個性を大切にして教育するとか、似たような理念が書かれている。(失礼かも知れないが)似たような品揃えで、看板だけは麗々しい土産物店が並ぶ、観光地の駅前を歩いているような感じだ。それを言うと、ある公立小学校の教師が苦笑した。「そうかも知れません。みんな、一生懸命、作文してるんです……PRになるような文章作れと言われて」。個性的と言われても、あまり他校と違ったことを唱うと失敗した時が怖い。だから勢い、隣近所を見ながら横並びの「特色」を出してしまうのだ。

 中身にしても同じことで、どこかの小学校が「英語教育をやる」と言うと、ほかの学校も我も我もと「特色メニュー」に加える。あそこは英語を教えないから、と保護者からそっぽを向かれるのが心配であるらしい。みんなが同じことをやるならば、それは特色とは言わないと思うのだが……。横並びの独自性なんて、アリスの不思議な国にでも行かなければお目にかかれまい。もしかすると誰かの考えている特色とは、「学力」が高いとか低いとか、そういう話であるのかも知れない。

〈日本で「特色づくり」は可能か?〉

 教育学を専門とする知人に聞いたところ、そもそも今の日本では「公立校の特色づくり」など不可能――とまではいかないけれども、非常に困難だという。世界で最も学校選択制が進んでいるのはオランダだそうだが、同国では公教育に関する「上からの枠組み」は非常に緩やか。教科書検定などというものは存在せず、学校ごとに独自の教科書を選べるし、カリキュラムも大枠(最低のガイドライン程度のもの)が決めてあるだけでかなり自由に決められる。親たちが集まって子供達のために自分達の考え方に適した学校を作ることも出来、設立された学校には公費が支給されるそうだ。これなら確かに、「特色ある学校」ができる。

 それに引き替え、日本では指導要領によって教えるべきことが決められ、教科書も学校や親が自由に選べない。その上、公立小中学校の教師には人事異動があって都道府県単位で職場(学校)を移る(ヨーロッパでは原則として学校ごとに教師を採用するので、人事異動の形で他校に移ることはない)。特色を作りにくい仕組みなのである。

 本当の意味で学校ごとに独自性を持たせ、それを自由に選択できるようにするためには、日本の教育システムそのものを大幅に変える必要がある。その根本部分に眼をつぶったままでは、結局のところ「目先が変わった」程度のものにしかならない。最近、愛国心を涵養するとか、伝統がどうとか、口うるさく枠をはめようとする動きがある。それは本当の「選択の自由」とは相反するものではないのか。
 

 

コメント (1)
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