華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

忠誠心って何だ

2008-02-05 23:31:49 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 

 忠誠心なるものについて、ふと考えている。これを人間が誰でも持っている基本的なモラルのように言う人もいるが、はたしてそうだろうか。

 仁義礼智信忠孝悌――といえば、ご存じ里見八犬伝。え、知らない? 困ったな。思い切りはしょって言ってしまえば、この八つの文字を一つずつ刻んだ珠を持ち、その文字を名前に持つ八人を主人公とする、江戸時代の伝奇小説であるが……。ともかくこの八つは、人間の最低限のモラルと言われてきたらしい(仁義八行、と言うそうな)。だから人間じゃない(人間の心を持っていればとても出来ない)ということで、遊郭の亭主などを忘八と呼んだりもしたと何処かで読んだ。


 そんな話はどうでもいいのだが……このうち、仁・義・智・信、あたりはまぁわかる。礼もまぁわかる。礼儀と解釈すると私のようないい加減な人間にはいささか、いや、かなりうっとうしいけれども、人と接するときのデリケートな思いやり、みたいなものですか。そう言えば誰だったか、儒教で最も大切なモラルは礼だと言っていた人がいる。太宰治だったけか。

 悌も、ま、何とかわかる。年長者に対して従順ということらしいが(長幼序あり、というやつだなあ)、同時にきょうだいの仲がよいという意味もあるようなので、そちらだと思えば特に問題はない。孝は……個人的にはあまり好きな言葉ではないけれど、目くじら立てるほどのものでもないだろう。

 だが、どうしてもわからないのが忠。これは実は非常に異質なモラルと言ってよい。

 仁義礼智信悌孝……は、上からやかましく言うことではないと思うけれども(と言うより、時の権力者がやかましく言うときは何か裏があると疑った方がいい)、その概念自体には何の罪もない。いや、罪などと言うのは変か。ひとが自由にのびやかに生きようとするのを妨げたり、ひととひとの間を引き裂くようなものではない、と言った方がいいだろう。人と人とが関わる時の、ある意味、ごくあたりまえのモラルを表現しているに過ぎない。もしかするとすべての生き物が関わるときの……であるかも知れない。権力者は常にそれらを自分達の都合よく利用しようとするけれども、「それは牽強付会っつうもんやで、おっさん」と笑い飛ばすことはいくらでも可能だ。

 たとえば、私が「忠」以外で最も違和感を覚える「孝」にしても。私は特に親孝行な人間ではないが、親の方は多分、親不孝な子を持って私は不幸せだと嘆いたりはしていないと思う。正面切って問いただしたことはないが、おそらくそのカンは間違っていないはずだ。適当に距離を持って付き合い、互いにそれなりに気に掛け合っている、要するにフツウの親子である。ちょっと話が逸れてしまうが、私の友人の一人が自分の子供達について(彼は二人の男の子を持っている)「産まれてきて、親子の関わりを楽しませてくれただけで充分だ。親の恩なんてものがあるとしたら、僕はそれを過剰なほど返して貰った。もう何もいらないや」と言っていたのを思い出す。だから彼は、親孝行うんぬんなどというしかつめらしい話を聞くと笑いが止まらないという。親子って……子供のいない私が言うのはおかしいけれども、おそらくそういうものだ。

 六親和せずして孝子ありって、老子も言ってるよね? あ、大道廃れて仁義ありとも言ってたっけ。いずれにせよ、モラルが声高に言われるのはそれが衰微していることの証左だというわけで、そんな世の中は住みにくいと思うけれども……ともかく――ケッタイな爺さん達が躍り出てきてぎゃあすか喚いたとしても、「勝手に言ってろ」と冷笑していられる。

 だが、「忠」だけはそんなわけにはいかない。これは人と人との関わりの中で、それをはぐくむために生まれ、そして育てられたものではなく、人為的に創られたものだからだ。誰かが人と人の関係がすべて対等であるということを承伏できなくなった時に、ピラミッド型の関係を正当化し、守るために。多くの人々を飼い馴らすために。

 考えてみるがいい。対等な関わりの中で、「忠」などというモラルの入る余地があるかどうか。愛する異性(同性でもいいけど)との関わりを表現するときに、忠誠心などという言葉が出てくる余地があるか。親子の間でも――親子は完全な意味で対等とは言いにくいけれども、それでも忠誠心などという概念は入り込まない。

 忠誠心、などというと古くさい感じがして、実のところ、現代人には受け入れられにくい。少なくとも若い人達には(たまに古い表現が好きな人がいて、あえて使ったりする例もあるけれども)。でも、この言葉は形を変え、化粧を変えて今も生きている。忠誠心と聞くと肩をすくめる人でも、ロイヤリティーと言われれば納得したりして。愛国心なんていうのも、中身は「国に対する忠誠心」にほかならない。

 仁義礼智信忠孝悌、のなかでオカミが最も重要視しているのは、忠である。そのことは間違いないと私は確信している。あとのモラルはすべて、ベースに忠が存在した上でのもの。だから、うさんくさい色を帯びるのも当たり前だ。戦前の教育勅語についていまだに「いいことも言っていた」なんぞと寝言を言う人もいるが、先っぽで良いこと言ってたって、モトがおかしければしょうがないでしょう。

 今の日本は――かなり前から、だけれども。あるいはずっと昔から、かも知れない――先っぽをいじり回し、ちょっと綺麗で清潔そうな言葉なり振る舞いなりがあれば「いいこと言ってるじゃん」「いいことやってるじゃん」と手を叩く。モトがダメなんだよ、とそろそろ声を大にして言わなければ、取り返しがつかなくなるような気がして私はかなり怖いのだけれども。

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自由でありたい。卑屈になりたくない。

2008-02-04 23:48:28 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

  

◇◇◇◇◇身辺雑記――

 昨日、東京は雪だった。今日も街のあちこちに雪が残っていた。道端のそれはほとんど溶けかけのかき氷ふうだけれども、人が踏まないところはまだ白くきらきらと光っていた。雪国のひとにとっては雪は必ずしも嬉しいものではないのだろうが、私は暖かい地方の生まれ育ちなので、この年になってもまだ雪を見ると子供っぽい興奮がわき起こる。

 昨年の暮れに叔母が死んだ。肺癌で、診断がついた時には既に転移していた。私は小さい頃、春・夏・冬の休みは半ば以上、母の故郷で過ごした。亡くなった叔母は母より十歳も下で、私からすると姉さんのような雰囲気があった。私の顔を見るなり庭に飛び出して、裏の菜園から籠一杯のイチゴを取ってきてくれたのはいつのことだったろう。

 年を重ねるにつれて、親しいひととの死別が増えてくる。たとえばここ数年の間に、長く付き合ってきた編集者ふたりと死別した。ひとりはまだ中学生と小学生の子供を遺して。昨年は叔母のほかに、従兄も癌で亡くなった。病死だけではない。自殺か事故か判然としない死に方をした友人もいる。いやでも、命のことや死ぬということを考えざるを得ない。

 私もいつかは死ぬ。いつかではない、明日かも知れない。明日も生きているとは誰も保証できないのだ。船出したいと思い続け、そして船出できぬままで死ぬのかも知れない。だが遠いところ、ここではない所、夢見た地に向けて船出できるのだと思い、私は今日も帆を上げる。誰に命じられるわけでもなく。

◇◇◇◇◇日教組集会の開催をホテルが拒否

 不快に思っている人は多いだろう。いや、不快なんぞという言葉はまだなまやさしい。総毛立つような思い、と言ったほうがいいかも知れない。そう……日教組の教研集会・全体集会が中止になった話である。右翼団体の妨害を理由に、ホテルが開催を拒否した(キャンセルした)のであるという。東京高裁が使用を認める司法判断を下したにもかかわらず、ホテル側は「顧客や周辺住民の迷惑になる」と強弁。ついに日教組は全体集会を断念した、という事件である。

 日教組と関わりのない人にとっては、小さな事件かも知れない(世の中、事件と呼ばれるものは山ほどあるのだから……)。だが、これは決して小さなことではないのだ。私も教育関係者でもなく子供もおらず、つまり日教組とは関わりのない人間だが、それでもニュースに接した途端にゾクリとした。

 日教組という名称だけで拒否反応を起こす人もいるかも知れないが、別に日教組でなくたっていい、たとえば宗教関係の団体であるとか、それこそ「徴兵制復活推進」といった団体でもいい――どんな思想であっても表明する自由はあり、集会を開く自由もある(むろん最低限、それは人間としてノウである、という極端な思想はありますけれどね)。その表明を妨害するのは、人間の自由に対する敵対行為である。私は自分が受け入れられない思想であっても、誰かがそれを訴える自由まで抹殺しようとは思わない。だから街宣車を連ねて妨害しようなんてのはもってのほかの行為であるのだが、それを恐れる(あるいはそれに対する恐れを口実にする)というのは、ひととしての敗北である。ホテルに抗議を!

◇◇◇◇◇せめて屈しない決意を

 居丈高に喚く者に対して膝を屈するのは、一時の方便だと一般に思われているかも知れない。だが、膝というのは一度屈したら二度目以降は自然に曲がる。三度四度と繰り返していくうちに、それが習い性となる。

 むろん、生活のあらゆる場面で昂然としている、なんていうのは無理だ。いや、それができる人も大勢いるだろうが、無理――というのが言い過ぎならば難しいと言い替えてもいいが、ともかく誰もができることではない。私自身、仕事や日常のあれこれの中で、いやになるほど他者に迎合し、膝を屈して卑屈に生きている。ゴマもすります、卑怯な振る舞いもします。それがいいとことだと思っているわけじゃあない、忸怩たるものがありますがね。

 それでも。そう、それでも。……これだけは譲れないということはある。ほかの人のことは知らないが、少なくとも私の場合は、譲れないものばかりが溢れた日々を紡ぐのはきつい。食っていくためにだらしなく、タイコモチのようなまねもするさ。でも、だからこそ、何が譲れないものであるかは知っているし、それを譲ってしまったら死ぬほど恥ずかしいと思っている。そのひとつが、思想信条の自由である。

 突然思い出した?が、私の親戚に、明治生まれの牧師がいた(とっくの昔に亡くななったので、記憶はおぼろだが)。戦争中は非国民と言われ、隣近所から白い眼で見られ、「聖書を読む会」ふうの小さな集会さえ妨害に遭ったという。私は難しいことはわからないが、そういう世の中にだけはしたくないといちずに思う。

 

 

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