華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

地味な敵が怖い――『本格保守宣言』を読む

2007-11-24 05:41:50 | 本の話/言葉の問題

 適当に山積みしている本を掻き分けていたら、足元に新書版の本が1冊転がり落ちた。新潮新書『本格保守宣言』(著者・佐藤健志)である。たしか、2か月ほど前に斜め読みし、妙に気になっていたのだということを思い出す。

 帯には大きな文字でこう書いてある。〈ニセモノの「保守」にだまされるな〉

 まず、本書の一部を引用してみよう。

【保守とは、もともと政治的な立場を指す概念ではないのである。たとえば『広辞苑』は、この言葉の意味として、「たもち(、)まもること。正常な状態などを維持すること」をまず挙げ、「機械の保守」という表現を引き合いに出す。つまりは「保守点検」や「保守サービス」という場合の「保守」だが、より普遍的な形で定義するなら、次のようにまとめられよう。――特定のシステムに関し、年月の経過や環境の変化にかかわらず、望ましいあり方が持続的に成立するよう努めること。】(18ページ)

 著者は【歴史の大部分を通じて、人類はきわめて保守的だった】と書き、前近代においては抜本的・急進的な改革によって社会を変革することはほとんどなかった(ゼロではないが、きわめて少なかった)と述べる。したがって保守主義という概念も存在しなかったのであるが、18世紀後半になって「未来」や「進歩」の概念が成立し、急進主義が誕生するにいたったことで、そのアンチテーゼとして保守主義が生まれたのだというのが著者の認識であるようだ。

 この本の紹介をするのが主旨ではないから適当にはしょってしまう(興味を持たれた方は立ち読みでもいいがどうぞ)が、著者は「保守」を「社会の大枠の維持を心掛け、急進的な改革も過度の守旧も廃して」「何をするにあたっても作用と反作用を充分に検討して慎重に取り組む」ことである、と定義しているように思われる。社会システムを慌てて変革しようとすると人々の想定範囲が突き崩され、世の中が不安定になるからである(というのが著者の主張であるようだ)。要するに「バランスのよさ」が保守の生命線、ということであるらしい。

 だから――著者は、憲法改定を目論んだり、戦前の日本を肯定したり、愛国心をむやみに強調するのは「本格保守」ではない、と断言する。

 ますます話をはしょってしまうが……この本を読んだ時に感じたことを次第に思い出してきた。細かなことは別として、私がひっかかっているものは大きく分けてふたつある。

(1)せめてこの程度は
 私は……自民党支持という人々に対して、こんなことを呟いてしまった。「あんたら、せめてこの程度の認識を持ってんか」。著者は【人々が一丸となりすぎない体制の方が、じつは効率的】と言って国家主義を否定し、愛国心には適正範囲があると主張する。そのあたりで、私はふっと目眩のようなものを感じたのである。せめて……この程度のバランス感覚?の持ち主であればと。

(2)こういう「保守」が怖い
 だが、読み終えた私は「こういう『保守』こそが怖い」とも思った。これは私の、ごくごく素朴な印象である。著者は改憲しなくても戦争はできる、という意味のことさえ述べている。「望ましいあり方が持続的に成立する」というのは、基本的に大きな問題はない。こんなふうな持ちかけられ方をすると、つい頷いてしまう自分のアホさ加減がイヤになるが(賢い人にはかまわんで、ほんま)……だが、その「あり方」の像こそが問題なのではないか。

 安倍・前総理のように、神経に障るような挑発的な(もっと言えば、アホかいなと言いたいような)言動を繰り返す権力者は、実のところそれほど怖くない。私の周囲の「保守的と自称する人々」でさえ、眉をひそめていたぐらいだ。失言閣僚の面々にも、冷ややかな視線が向けられていた。

 安倍内閣はいわば、きわめてわかりやすかったのである。私の正直な気分としては、彼にもう少し政権を担当して、恥をさらしていただきたかった。ところが……坊ちゃまはプッツンしてしまい、次に妙に地味で温厚そうな人物が首相の座に着いた。これは手ごわいです。キャンキャン吠える犬よりも、落ち着いて構える犬の方が怖い。「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」……あ、ちょっと違うか。

 またしても脈絡なくなってきたけれども、……そろそろ言葉遊びはやめんとアカンなぁと、いえ、これは誰かに対して言っていることやおまへん。自分に対して言い聞かせとることなんですわ。保守とは何か、革新とは何か、なんてのはヒトサマと議論するネタとしてはおもろいけど、私みたいな生かじりがやってしまうと、二匹の蛇が互いの尻尾くわえて呑み合うような雰囲気になってしまいまするな。

 と、いうことで。またいずれ、もっとグチャグチャと書くかもですが。 

◇◇◇◇◇注

【】でくくった文章は、本からそのままの引用。「」は私なりのまとめや言い替えによる。


◇◇◇◇◇余談

 実はもっともおもしろかったのは、著者が『鏡の国のアリス』を取り上げ、その中でおこなわれるチェスのゲームを〈近代の比喩〉と述べている個所だった。空想(妄想、かも)を無限大にふくらませてくれる物語は数多いが、アリスの物語も確かにそのひとつではある。

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生活扶助切り下げに反対する

2007-11-21 23:25:36 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 ようやく超多忙な仕事が一段落したと思ったら……身内の葬式があったり、別の身内の者が末期がんでそろそろ危なくなったり、「はあ??」という感じの人間関係のゴタゴタに巻き込まれたりして、落ち着かない日々が続いている。

 PC立ち上げてもメールをチェックするだけで終わることが多く、少し余裕があってもTBいただいたブログを読むのが精一杯。こんがらがった頭をまとめつつ、ブログを書いてみるという時間がなかなか作れない。

 ……てな話はどうでもいいけれども。

 アッテンボローさんから、「生活扶助の切り下げに反対する緊急集会」の記事をTBしていただいたので、急遽お知らせする。いま、厚生労働省は生活扶助の減額を計画中。それに反対する緊急集会が11月29日におこなわれるという案内と、賛同のお願いである。詳しいことは、ぜひこの記事を御覧いただきたい。

 いわゆる生活保護について、冷ややかな眼を向ける人は少なくない。怠けているんじゃないかとか、甘えている的な物言いをする人は、私の周囲にもいる。

 その、うそ寒さ。

 すべての国民に最低限の文化的生活を保障するというのは日本国憲法の理念であるが、同時に「人間社会の普遍的なモラル」であると私は思う。「自分さえよければいい」ではなく、「つながりのあるすべての人達が泣かずにすむようにしたい」。そうきっぱりと言えて、はじめて人間は自らの存在の崇高さを誇りうる。

 真夜中の走り書きになってしまったが、私はいま心底、怒っている。自己責任という一見美しい言葉の背後にある冷血と、それを是とする社会とに。人間が、人間であるということを誇れるかどうかの瀬戸際にあって、我々は試されているのだ。

 友よ。同志たちよ。我々は――他者を蹴落とし、他者を卑しめ、ひとりヌクヌクと暮らすことを絶対的な恥であると再度認識したい。

 

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水たまりと、そしてひとつの扉

2007-11-10 23:52:59 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
 東京は雨が降り続いている。いわゆる時雨というやつだろう。激しく降るわけでもなく、休みなく降り続けるわけでもなく……だが晴れやかな空が見えることはなく。まるで今の、この国の姿のようだ。

 もっとも、私は雨が嫌いなわけではない。結構、好きだったりもする。道路を奔る水がまたたくまにズボンの裾をぐっしょりと濡らしてしまう豪雨も、視界を菱田春草の絵か何かのように高湿度にけぶらせる時雨も。

 だが、それよりも好きなのは多分、雨上がりのひとときだ。今日、雨が小やみになった街を歩いていたとき、小さな児童公園の片隅に水たまりが出来ているのを見つけ、何となく近寄ってその水面に見入った。

 私は都市部(地方都市)の生まれ育ちだが、それでも、小さい頃は舗装していない道路が多かったように思う。小学校は町外れの丘にあったから、とくに通学路は大半が未舗装の道だった。雨が降ると道はぬかるみ、そして雨が上がればそこかしこに水たまりができた……。

 その水たまり達を覗くのが、私は好きだった。水たまりの水はむろん泥水で、とてものこと泉のような透明さにはほど遠かった。それでも、長靴を履いた小さな子供の姿を、ほんの微かに映し出して揺れた。時にはあまり泥が混じらず、すぼめて手に持った傘の色などを思いのほか鮮やかに映すこともあった。

 その水たまりに足を入れたくて、実際におそるおそる長靴の爪先を漬けてみて、慌てて足を引く。そんな仕草を私は何度繰り返したことだろう。

 子供の頃の私にとって、水たまりはただの水たまりではなかった。おそらく異界への入り口のように思えていたのだ。同じ「水」でも、池や泉は常にそこに在る。いつも同じ表情を見せてくれる。だが水たまりは、雨上がりのひとときだけ此の世に現れる、不思議な扉であったのだ。そこに足を踏み入れるというのは、もしかすると帰れない世界へ行くことになるのかも知れないと、おそらく幼い私は思ったのだ。『ニルスの不思議な旅』が好きで、水底に沈んだ街がほんのひとときだけ地上に甦るという話に魅惑されていた子供は、ちっぽけな水たまりに沈んだ街の入り口を見たように思ったのかも知れない。

 おいでよ――と水たまりは誘う。行きたいよ、と子供は呟く。「でも怖い」。未知の世界への憧れと恐れとを、子供は体いっぱいに持っているのだ。

 当時から比べれば年を経てすっかりくたびれ、すべてのことを斜に構えて見てしまうようになった現在の私にとっては、水たまりはただの水たまりに過ぎなかった。それが涙が流れるほど哀しかったということを、あなたはわかってくれるだろうか。

 しばらくの間――と言ってもおそらくは数分に過ぎないのだろうが、私は水たまりを睨み、そこに「ここではない世界」への扉を見ようとした。見ることが出来たかどうかはわからない。ただ……在るかも知れない、という思いだけは――鈍くではあるけれども甦った気がする。

 ここではない世界へ。違う地平へ。……いくら憧れても翼など生えないのだと思い知ったくたびれ中年も、憧憬だけはまだある。そしてその憧憬を、見果てぬ夢にしたくないという熾火のようなパッションも。
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都民税、返せ~

2007-11-02 23:37:28 | 東京都/都知事

 首都圏在住・在勤で都営地下鉄に乗る機会のある方は、当然御存知のはず――都営地下鉄の中吊り広告のなかに、最近、「オリンピック招致」のポスターが目立つ。私は都営バスにはあまり乗る機会がないのだが、どうやらそちらにも掲示されているようだ。「オリンピックを東京に!」と、うるさいことこの上なし。

 オリンピックというイベント自体には、別に恨みも何もない。個人的には好きではない(注※)。ただし好きな人がいることは認めるし、そういう人は大いに楽しんでいただいて結構です、文句はないです、というのが私の基本的なスタンスだ。

(注※前にも書いた気がする。各国の国旗がはためき、国歌が流れる図というのが感覚的にどうしても受け入れられないのである。私は日の丸・君が代だけでなく、すべての国旗・国歌なるものが大の苦手なのだ)

 ただ、何と言うのかね……スポーツの祭典、世界的なお祭りというのであれば、何処で開催されたっていいじゃんと私はどうしても思ってしまう。招致の競争なんぞ、聞いただけでウンザリである。われらが都知事はオリンピック招致が夢であるそうだが、都民全員がその夢を共有していると思われては困る。そもそもスポーツを含めた文化というものは、国家だの何だのとは別の次元で息づいているはずのものだろうに。

【9月14日、国際オリンピック委員会(IOC)が2016年オリンピックの申請都市を発表しました。東京のほか、バクー(アゼルバイジャン)、シカゴ(アメリカ)、ドーハ(カタール)、マドリード(スペイン)、プラハ(チェコ)、リオデジャネイロ(ブラジル)の計7都市。東京は有力な候補とみられていますが、勝利のためには都民のみなさんの支持が不可欠です。熱いご声援をよろしくお願いします。】(東京都広報紙より)

 オリンピックの開催地が何処になるのか、なんていう話が、なんで「勝ち負け」の問題になるのかね。私にはわからない。一生、わからないだろう。そして、これが「わからない」ことを私は恥だとはどうしても思えない。

 東京都には、「オリンピック招致本部」などというものが作られている。当然、予算もつく(細かいことは今わからないけれども、ポスターの費用などもその本部から出たのだろう)。ちょっと待てよ、というのが都民のひとりである私の素朴な気分だ。

 あのポスターの紙代も印刷費もデザイナーに支払った費用も、みんな都民税でまかなわれているんだよね? オリンピック招致のためということで都内各地でやたらにフォーラムとやらがおこなわれているけれども、その費用も都民税から出てるんだよね? 私はしがない自由業者だからスズメの涙程度の税金しか払っていないが、それでも払っていることは確かだ。その使い途に、ひとこと言う権利はあるはずだ。

 だから、言う。「そんなものに使ってくれとは言ってなーい!! 税金、返せ!!」

 都営地下鉄に乗るたびに、ため息が出る……。

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