華氏451度

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死刑存置の希望は本当に「多数意見」か

2006-10-10 00:45:58 | 死刑廃止/刑罰

 luxemburgさんの「とりあえず」で始まった「死刑廃止問題リレーエントリ」が、「お玉おばさんでもわかる政治の話」→「とむ丸の夢」→「華氏451度」→「doll and peace」→「薫のハムニダ日記」の順に続き、ほかに「愚樵空論」「アルバイシンの丘」その他のブログでも同じ問題についてそれぞれの意見を書かれている。死刑の問題は、社会のあり方を考える時に、好むと好まざるとにかかわらず1度は考えさせられてしまう問題。多くの方と共に考えていきたい。

 

〈死刑存続は本当に「多数意見」か?〉

「死刑存続は、日本の中では普通の意見」というコメントがあった。普通というのが何を指しているのか正確にはわからないが(注1)、おそらく「大多数の意見」ということだろう。

注1/私自身もよく「普通の」とか「庶民的な感覚では」などと書いてしまうのだが、本当は「普通とはどういう意味か」を考えた上で使わねばならないと、これは自分自身への戒めとしても考えている。ある事柄について全国民の50%以上の意見が一致すれば「普通の意見」なのか。もっと多く――3分の2なり80%に達してはじめて「普通の意見」と言えるのか。また過半数を占めたとしても「中高年層はほとんどが同意、若い層はほとんど非同意」だったとすれば、それは「普通の」と言えるのか。さらに言うと我々は自分のよく知らないことについては「いったん意見を保留」するわけだから、一般にまだあまり知られておらず、切実に考えている当事者の少ない問題の場合にはハッキリと賛否を表明する人は少なくなる。だがそのハッキリした意見を、賛否どちらであれ、一概に「普通ではない」と言えるのだろうか。

 ともかくそういうわけで、「大多数の意見なのかどうか」をちょっと考えてみたい。

 死刑に対する世論調査は、総理府または内閣府が今までに8回おこなっている。そのほか東京新聞、テレビ朝日、読売新聞、NHK、フォーラム90が実施した調査もある。政府による調査の結果は下記の通り(表は死刑廃止キリスト者連絡会のサイトからコピーさせてもらった)。

 年  廃止  存置 その他
1956年  18.0%  65.5%  17.0%
1967年  16.6%  70.5%  13.0%
1975年  20.7%  56.9%  22.4%
1980年  14.3%  62.3%  23.4%
1989年  15.7%  66.5%  17.8%
1994年  13.6%  73.8%  12.6%
1999年   8.8%  79.3%  11.9%
2004年 6.0% 81.4% 12.6%
 
【将来的死刑廃止について】
 年 すぐに廃止 将来に廃止 将来には廃止してもよい 将来も廃止しない その他
1989年  4.3%   10.3%  10.4%  51.1%  24.0%
1994年  5.9%  7.1%  39.3%  29.2%  18.6%
1999年  3.7%  4.6%  30%  44.8%  11.9%
2004年  2.4%  3.2%   25.9%  50.2%  18.3%
 
(枠にどうしても入りきらず、妙なところで数字が切れている。その他のところは上から24.0、18.6、11.9、18.3、である。読みにくくてすみません)
 
 確かに「廃止か、存続か」という点だけ見れば、廃止賛成者は少数である(ただし極端に少ない、特殊意見とは言えない。最も少数だった2004年の調査でも、100人中6人は廃止に賛成)。だが、同時に挙げた「将来的死刑廃止について」の方を見ていただきたい。「すぐに廃止」「将来は廃止」「将来、廃止してもよい」を合わせれば、31.5%の人が「廃止に賛成」または「よりよい方向を模索し、それがみつかれば死刑を廃止してもよい」(廃止について前向きに考えてみたい)と思っていると言える。
 逆に「将来的にも廃止してはいけない。存続させるべき」と思っている人は50.2%である。つまり2人に1人。やはり「ごく普通の意見」とは言い切れないだろう。少なくとも、圧倒的多数でも何でもない。
 
 
〈質問の誘導性〉
 
 2004年の世論調査については、死刑廃止委員会『年報・死刑廃止』2005年版(インパクト出版)に「死刑と世論――2004年世論調査を中心に」(筆者は明治大学法学部講師・辻本衣佐氏)という興味深い一文が掲載されていた。それによると、質問そのものに誘導性が見られるという。
 
 世論調査票の質問をそのままここに挙げると――
 
「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
●どんな場合でも死刑は廃止すべきである
●場合によっては死刑もやむを得ない
●わからない・一概に言えない
 
 辻本氏はこの点を取り上げて、次のように述べている。
 
【死刑廃止の選択肢には、「どんな場合でも」、「すべきである」という表現を用いて、弱い死刑廃止支持者が排除されやすくなっているのに対して、死刑存続の選択肢には「場合によっては」、「やむを得ない」という表現を用いて、弱い死刑存続支持者も取り込まれやすくなっており、死刑存置への傾向が強い選択肢となっているといえる】
 
 いわゆる調査の類が常に誘導性を含むことは、皆さんよくご承知だと思う。ごく身近な(かつ思想信条とは直接関係のない)ことで例を作ってみよう。「親が病気になった時、子供は面倒をみるべきか」という質問をして、できるだけ「みるべき」の方に票を集めたいと思ったら、私はたとえば次のような質問を作成する。
1.親が病気になったら、子供として、出来る限りのことをしてあげたい
2.親が病気になっても、子供が面倒をみる義務はない
3.わからない
 
 逆に「みるべきとは言えない」の方に票を集めたければ――
1.親が病気になったら、子供は何をさておき、面倒をみるべきである
2.親が病気になったとしても、状況によって必ずみるべきとはいえない
3.わからない
 
 咄嗟の思いつきで作ったのであまりいい質問ではないが、何となくわかるでしょう。
ともあれ、調査というのは質問の仕方ひとつで、かなりの程度に結論を左右することが出来るのだ。だから死刑廃止に関する世論調査に含まれた誘導性もよくわかる。世論調査の結果を踏まえてうんぬんする時は、質問項目自体にも言及する必要があるだろう。
 
 ただ、そういう誘導があってさえ――「絶対存置」論者が半数だったというのは、私には希望の持てる話のように思える。むろん「誘導性などない。そんなのは歪んだ見方だ」と主張する人もおられると思うが、そういう人でも最低、「死刑は絶対に廃止しちゃいけない」という人が圧倒的多数でないことぐらいは認めざるを得ないはずだ。
 
◇◇◇◇やや本論から離れて◇◇◇◇

〈想像力の欠如ということについて〉

 私の記事に対してもいろいろなご意見が寄せられた。気になる意見はいろいろあるが、それらに対してなかなか丁寧に返事できない。コメントを書いて下さった方々には御容赦いただきたいと思っているが、1つだけ、新しいコメントの中にあった言葉に対して返事を書いておく。

【不謹慎承知で言うけど、死刑反対論者の家族全員を、中世の拷問並みの惨たらしい殺しかたされても、そいつらは死刑に反対するのかねぇ】(久々さん)

上記のコメントに対して――
【そんなもんできるわけないでしょ。死刑制度の原点はここにあるんですね。反対論者は意識を相対化することが出来ねーんですよ。自分が被害者やその家族には絶対ならないという決め付けけが彼らをとても固い鎧で防衛してるのでしょう。つまり観念の世界でのみ自分が主人公になれるという、アレですよ】(ホワイトさん)

 記事を読んでコメントしてくださっているはずですが――私は記事の中で、池田浩士氏の次のような言葉を紹介しました。

「死刑廃止を考え、また口にも出すとき、そのつど逃げることの出来ない自分自身への問いがあるとすれば、それは、おまえの大切な人を無惨に殺害した犯人が死刑になる時も、おまえはそれに反対するか――という問いかも知れない」

 むろんこの問いは、何年かかってもすっきりとした答えを見つけられないほどに重いものです。私自身、他者に対して激しい憎悪を抱きやすい人間ですし、復讐心も強い。実生活でひどい目に遭えば、首絞めてやろうかと思うほど相手を憎みもします。大切な人を酷たらしく殺されれば、おそらく生涯許してやるものかと憎悪するでしょう。しかし……相手を死なせれば、それによって時間が事件の前に巻き戻され、殺された人間が生き返るわけではありません。

 自分が被害者やその家族には絶対にならない、などとは思っていません。いつ被害者になるかも知れない。たとえば自分の母親が、自分の親友が、強盗殺人や通り魔殺人の被害者になるところを、私は自分の中で何度も想像してみました。想像するだけで恐ろしい場面であり、それこそナイフ持って飛び出しそうな自分の姿にも想像が及びました。今でも正直なところ、そうなった時に相手を許せる自信はありません。ただ……「国家の手で殺して貰ったって、何も解決しない。私の憎しみも消えず、死んだ者は生き返らない」と髪をかきむしるでしょう。では自分も殺人者になって、相手に復讐するのか。それもまた、(殺した瞬間は激情のために喜びの声を上げたとしても)むなしい、かなしいことではないか。

「アレですよ」って、ホワイトさん、何が「アレ」ですか。人を小馬鹿にしたようなものの言い方は困りますね。他のブログなら、おそらく削除されるでしょう。私は意固地なのでまだ削除しませんが、コミュニケーションの場で使うのにふさわしい言葉とは思いません。 

 

 

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20 コメント

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それほど国に頼りたいか (愚樵)
2006-10-10 03:57:12
私の個人的な意見ですけど。



>おまえの大切な人を無惨に殺害した犯人が死刑になる時も、おまえはそれに反対するか



そんなときには、国に死刑制度があろうがなかろうが関係ありません。どうしても自分の中に殺す理由があれば、殺しに行きます。自分の手で。国になんか、任せておけません。

裁判なんて辛気臭い作業に付き合ってどうする?それこそ、精神疾患だからといって無罪になったらどうするの? それで納得いくますか? 



どうしても抑え切れない衝動を他人に託しても仕方ないでしょう。



「死刑を望む」なんて、よく遺族の方たちが言ってますが、正直なところ、そんなことを言う暇があったら自分で殺しに行け、っていつも思ってます。それを出来ずに踏みとどまっていられるのなら、踏みとどまれ。

遺族の混乱した気持ちを考えると、「殺しに行け」だって心無い言葉だと思います。私が死刑制度廃止に消極的だったのは、なくなってしまうと、遺族は「死刑にしてください」とも言えなくなってしまう。「死刑にしてくれ」発言は一種の代行行為と考える。そう言わずにいれない感情を考えると、制度として禁止になってしまうのは、遺族にとって辛かろう。一種の精神的暴力になりかねない。そんな風に考えていたから。

「死刑にしてくれ」なんて叫んでいるうちは、まだ救いようがある。遺族の心は深く傷ついたろうけれども、「死刑にしてくれ」と叫ぶことでまだ踏みとどまっておれるのだから。ちゃんと救いの手を差し伸べれば、救い出せるはず。遺族の心が救いようのないほど闇の方へ沈んで行ってしまったのなら、おそらくもう何も言わないでしょう。そして不言実行でしょう。

「死刑にしてくれ」に応えて「殺せ!」と呼応するのが本当に遺族の救済になるのかどうか、もっともっと考えてみて欲しいと思います。
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終身刑 (フロー)
2006-10-10 08:03:12
死刑制度を論じるときに感じること。

日本には何故 終身刑が無いのか。終身刑があれば死刑論議は違ったものになると思うのだが。
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最高刑の見直しは当然 (Looper)
2006-10-10 08:21:40
フローさん、その点の議論が必要なのは賛成です。



ただ、死刑の代替として終身刑が良いかどうかはよく分かりません。アメリカのような、加算方式というのもアリだと思っています。



少なくとも、死刑の見直しと共に、代わりとなる最高刑の見直しも必要になるのは当然の事だと思います。
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運用の見直し (Looper)
2006-10-10 08:35:50
終身刑について、ちょっと追記します。



見直しの一例として、現行の無期懲役の運用を変えるというのもアリではないかと思います。



すでに、変わりつつある(変わった?)とどこかで聞いたような気もしますが・・・

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○特制度と終身刑 (布引洋)
2006-10-10 08:40:41
現在の日本にはマル得制度と言う実質的な終身刑制度が導入されています。

その様な刑務所の実態は詳しくは10月9日「とりあえず」の「行刑の現場とは」をお読み下さい。

最近一部改正された監獄法は明治時代に出来ていますが、其の運用は大きく変化しています。
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TBありがとうございます (dr.stonefly)
2006-10-10 11:50:57
華氏さん、こんにちは。

死刑制度反対の行動は、なんとなく「非暴力」の闘いに
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すみませんつづきです。 (dr.stonefly)
2006-10-10 11:52:01
「非暴力」の闘いに似ていると思いました。
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TBありがとうございました。 (メロディ)
2006-10-10 12:39:55
今後考えて行きたいと思います。外国には、懲役120年、とかあり、国家のお金で犯罪者を養うべきかという議論も含め、選択肢に入れられないかな、とは思っています。

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○特無期刑 (Looper)
2006-10-10 15:55:04
布引さん、



なるほど、○特制度ですか。調べたら、かなり前から運用が変わっているようですね。しかし、今の運用は、その「○特」に誰がどう判断して指定するのかという点に大きな問題があるように思います。



やはり、裁判所が量刑の違いをきちんと判断できるようにすべきでしょうね。

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Unknown (ろこ)
2006-10-10 18:16:14
はじめまして。こちらの死刑廃止についての議論を大変興味深く拝見しています。

この度のエントリで思い出したのは、こちらにいらっしゃる方もご覧になっているかもしれませんが、以前テレビで放映されていたアメリカの死刑についての番組です。



それは、自分の子どもを殺害された被害者遺族と、殺害した加害者遺族の交流についてのドキュメントでした。

被害者の父親は自分の子どもが殺され、加害者が死刑になったことをきっかけに、死刑廃止論者になります。

それは、加害者が死刑になって初めて、加害者の父親が自分の前で涙を流したことに「子どもを失った親として」初めて共感できたからだと言います。

それまで、加害者の父親は被害者の父親と全く交流もなければ、謝ったことすらありませんでした。

ところが、自分の子どもの話になったときに、たったひとすじ加害者の父親の頬に伝った涙を見て、

被害者の父親は、自分の痛みが彼に連鎖していることに気がついた、という内容でした。



加害者に遺族がいなければ、あるいは被害者に遺族がいなければ、裁きは変わっていたのか、

重罪人の命と、善良な一般市民との命の重さは同等なのか、

自分の中に渦巻くエゴについて考え、死刑について思い悩むきっかけになりました。



誰もがこの被害者の父のような考えを持つべきと思うのではないのですが、「身近な人が殺されても死刑廃止と言えるか」という、廃止論者に常につきつけられるシンプルで大切な問いに対する、答えの一端があるような気がして、どうにも忘れられない番組でした。



乱文にて失礼いたしました。

管理人様、これからも楽しみに拝見してまいります、色々とご苦労もおありでしょうけれども、がんばってください。

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