〈長い前書き――ブログを読む楽しみ〉
何かを読むことの楽しさのひとつは、自分の頭(?)が刺激を受けることだ。自分の中でボンヤリとではあれ「考えてみる」課題が増えたり、新しい視点や道筋のたどり方に気付いたり……。読む対象は、以前はほとんど「本」だった。私はインターネットを比較的早く利用し始めた方で、さまざまなサイトを開いて読む習慣は結構長いのだが、最近まではネットは単なる情報源という意味合いが強かった。仕事の必要性から始めたため、そうなったのかも知れない。
だが去年自分でブログなるものを始め、少しずつTBを送ったり送られたりするようになってから、本のほかにブログを読む楽しみも増えた。ひとのブログを読んでいると、「ああ、こういう問題があったのか」「こんな見方(や感覚など)もあるのか」等々、刺激になること夥しい。
で、刺激されると私の中で自然とスイッチが入り、同じ問題、あるいは関連した問題をボーッと考え始める。今頭の中で渦巻いているのは、とむ丸さんの「『自分探し』雑感」を読んで引き出されたことども。忘れないうちに、それを簡単にメモ書きしておこう。
〈気持ちの悪い言葉たち〉
私は嫌いなものの多い人間である。国旗・国歌も(何処の国のものであっても)嫌いだし、制服も嫌いだし(※1)、勇ましい言葉やマッチズモも嫌いだし、上から目線でモノ言う奴も嫌いだし、想像力の乏しい奴も嫌いだし、変にこまっしゃくれた子供も嫌いだし、松下政経塾も嫌いだし、……むろん戦争も人殺しも嫌いだ。ついでに言うと納豆とゲテモノ、そして亀の子記号も(これは私が化学が完璧に苦手だったせいもあるが……)嫌いである。
(※1余談的注=私はこの年になるまで君が代を歌ったことはない。制服も――実を言うと学生時代のバイトで制服?というかお仕着せを着せられたことがあるが、その時以外には着たことはない。君が代を歌わずにすみ、制服を着ずにすむ所を選んで生きてきたのだ。ささやかで、ある意味つまらない意地の張り方かも知れないけれども)
その山ほどある「嫌いなもの」のひとつが、「自分探し」および「自己実現」という言葉だ。もともと私は「綺麗に聞こえる言葉」が気持ち悪く、かつ大っ嫌いである(※2)。キンキラキンの衣装に身を固めて厚化粧し、そのくせ相手を値踏みするような冷たい眼をした「美人」に、流し目されたみたいでゾッとする。「大義」しかり「命を賭ける」しかり「無私の愛」しかり、そして「愛国心」しかり、「美しい国」しかり。
(※2余談的注=これは単なる性癖なのだけれども、私は言葉というものに妙なこだわりを持っている。そのこだわりについては何度か書いてきた。たとえば「言葉を奪い返そう」など)
〈私とは何か?は生涯の課題〉
そして……「自分探し」や「自己実現」。私はこの言葉を聞くたびに、嘘くささと嫌らしさを感じて鳥肌が立つ。自分探し? 探さないとみつからないなんてわけ、ないだろ。自分は今ここに、厳然と存在しているのだから。
そして逆の言い方をすれば、「私は何ものであるか」「何のために生まれ、そして生きているのか」などという根源的な問いに対する答えなど、簡単に見つかるとはとても思えない。私も考えてみれば結構な年月生きてきたけれども、いまだに「自分という存在(と、その意味)」はよくわからないままだ。おそらく、死ぬまでわからないだろう。問うことそのものが、生きるということであるのかも知れない。
私とは――人間とは何か、というのはヒトが生涯を費やして答えていく課題であるにもかかわらず、少しばかりの努力をすれば簡単に解答が得られるように見せかけている、そのこと自体に私は限りなく危うさを感じる。
「自己実現」も同じことだ。私がいま、ここにある。私は私以外の何者でもない。それが即、自己の実現であり、日々生活し、自分の頭でモノを考えていくほかに自己を実現する方法はないはずなのに、なぜ蜃気楼を求めねばならないのか。
〈煽る言葉に踊らされるな〉
いや、求めているのではあるまい。求めさせられているのだ。本当の自分というものが何処かに存在し、それを見付けられないのはアホだと言わんばかりの風潮。自己実現なるものが存在し、それをするのがスバラシイことであると煽り立てる風潮。
私は自分探しにも自己実現にも縁のない人間だが、それゆえに断言できる。「自分探し」や「自己実現」なんて何の値打ちもない。そんな言葉に踊らされるのはもうやめようよ、と。自分探しをしようよ、自己実現しようよ、と煽る根底には、「勝ち組/負け組」などという不潔な言葉でひとを選別するのと同じ思想が流れている。首尾良く自分をみつけられたら勝ち、自己実現できたら勝ち。これは露骨な競争である。
少し話が逸れるが、私は「オリジナリテイー」だの「アイデンティティー」などという言葉も好きではない。少なくとも私の場合に限って言えば――「そんなもん、あるかよ」である。自分がもう少し優秀な人間であったならそれらにこだわったかも知れないが、私は自分がその他大勢、ひと山いくらの人間だということぐらいは知っている。私の考えることも思いつくことも、別段、驚天動地のものではない。大勢の人が、同じようなことを考え、思いつくはずだ。
それに(同じことを多くの人が知っている・考えている・分析している……etc)耐えられない場合、ひとは「自分探し」や「自己実現」の幻想にしがみつくのだろう。他人とは違うことを言いたい&やりたい、他人よりも何メートルか先を走りたい、拍手喝采されたい。……そういう渇きと喘ぎが、自分探しなる言葉に煽られる。
〈「約束の地」は存在しない〉
いまここに存在する自分は、本当の自分ではない。本当の自分はもっと生き生きとして、自分の能力を最大限に発揮しているはずだ。何処かに「約束の地」があるはずだ。――そういった幻想を利用して「おまえは特別」「おまえは選ばれた民」と囁き、脆い自尊心をくすぐる者達がいる。
いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分なのだ。自尊心なんか無ぇ、その他大勢のいくじなしで結構だ、他者から保証される約束の地なんか関係ねぇ――いうある種の開き直りなしでは、世の中は変わらないかも知れない。
「自分探し」等々、類似の言葉の氾濫の中で、私は「庶民」の足腰が弱まりつつあることをひしひしと感じる。あるいは「弱められつつあることを……」と言うべきか。
(疲れているので今日はここまで。機会があれば後日また、ボンヤリ考えたことの続きをメモすることにしたい)