華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「戦争協力」の中でも悲しいものは(1)――戦前の雑誌、四季派など

2007-05-30 23:40:29 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

◇◇◇◇半世紀余り前の雑誌を買ってきた

 ときどき趣味的に古い新聞や雑誌などを読む。たとえば1900年前後(明治30~40年代)であったり、たとえば1920年代(大正末期~昭和初期)であったり、「その当時」の社会状況というか……世相がありありとわかって本当におもしろい。真正面から政治や社会問題を扱った記事だけでなく、生活関連情報の記事や娯楽記事や連載小説やコラムや読者の投稿や、さらには広告などからも、当時の匂いが立ちのぼる。マスメディアというのは貴重な歴史資料でもあるんだなあ、と変に感心してしまう(真実を伝えているかどうか、事実を正しく伝えているかどうかはもちろん別の話。何が大きな話題・関心事になっていたのか、どんな価値観が優勢だったのか、世の中にどんな風が吹いていたのか等々を知る上で貴重ということである)。

 むろんほとんどは復刻版の出ているものを図書館で読むが、ごくたまに実物を買うこともある。今日もそうだった。

 立ち寄った古書店に、古くは80年ぐらい前、新しいところでは50年ぐらい前の雑誌がどっさり積まれていた。古い雑誌は結構高価なことが多くて普通は二の足を踏むのだが、中に何冊か(たぶん保存状態が悪いせいで)かなり安価なものがあり、それらを買い込んできたのだ。内訳は『週刊朝日』4冊と、『家の光』(※1)1冊で、すべて昭和の年号を使えば16年から17年にかけて発行された号である。

 

◇◇◇◇ジャーナリズムの罪

 それらを今、パラパラとめくっている。いわゆる戦時中だから、記事は戦意昂揚一色――とまではいかない(釣りだの囲碁将棋だの大相撲だのの記事などもある)けれども、まぁそれに近い。記事のタイトルや中見出しを見ただけでも気が滅入る。むろん今の時代に生きているから気が滅入るのであって、当時の読者はワクワクしながら読んだ……のだろうけれども。少しだけ、ランダムに挙げてみよう(※2)。

『政治に戦勝の意気』(週刊朝日・昭和17年6月7日号の巻頭言)

『成層圏空襲に焦る敵米』(同・昭和17年10月25日号の特集記事のひとつ)

『喝采を博した陸軍の明快な措置』(同・昭和16年2月2日号の週間時評)

『時難克服美談集』(家の光・昭和17年新年号の特集のひとつ)

 グラビアページにも陸軍省提供などと大書した「戦勝写真」が踊り、海軍少将だの陸軍少佐だのの署名原稿(たぶん実際は記者の聞き書きだろうと思う)も目立つ。

 おそらく、内心忸怩たるものがあったとしても、そんな記事を書かざるを得なかったのだろうと思う。私はそれを責めることはできない。私自身、戦争協力の記事を書かなければクビになるどころか、おかみに睨まれ周囲から白い眼で見られ……という時代に生まれ合わせたら、情けないけど尻尾振って書いちゃうかも知れないなあ、たぶん書くだろうなあ、と思ってしまうからだ。でも――これはやはり、日本のジャーナリズム史上に刻印された罪、忘れてはならない汚辱である。

「過ちは繰り返しません」というのは、広島の平和の誓いだけではない。ジャーナリズムも常にその言葉を意識しておくべきだと私は思う。その末端で働く者のひとりとして、常に意識しておきたい、と言ってもいい。私は勤めていた時もまっこうから政治問題を扱う部署にいたことはなく、フリーになってからはヒマネタに近いものか、「三面記事の右側ふうのもの(※3)」を扱う仕事に主に携わってきた。だから何を大げさなと笑われそうな気もするのだけれども……雑誌や新聞は一面トップだの特集記事だのだけで戦争協力したわけではない。生活欄のようなところでも、たとえば「乏しさを補う生活のヒント」だの「兵隊さんに慰問文を送りませう」みたいな形で大いに協力していたのだ。

 

◇◇◇◇戦意昂揚の短歌や俳句

 戦争中の雑誌は今までにも読んだことがあり、その「戦争協力」は何となく知っていたつもりだった。でも、いつでもどこでも発見はあるものだなあ……今日は何となく先に読者の投稿欄などを読み、そこでギョッとさせられた。

 現在でも多くの新聞・雑誌が読者の投稿欄を設けている。「意見」を募集する欄もあるし、詩歌の類を募集する欄もある(○○歌壇とか○○俳壇、というやつですね)。半世紀余の前の雑誌にもそういう欄が設けられており、私はその欄を読んで「あまりに悲しく」……そう、気が滅入った。特に、短歌や俳句の投稿欄。

「私の意見」的な欄は、まだいい。いや、いいというのは変だけれども、当時の為政者の意図や社会状況に迎合……と言っては言い過ぎか。何となく煽られて、一億火の玉!みたいな意見を書く人も多かったのだろうなと思う。だが、短歌だの俳句だのまでその色に染まるとは、ほんともう何ごとだろう。紅旗征戎わがことにあらず(あは、私の口癖だったりして)、の定家が泣くぞ。 

 これも少しだけ挙げてみよう(掲載の雑誌と号は略。本来はよくないのだが、ま、私の覚え書きなんで)。なお原文はすべて1字の空きもなく続いているが、読みにくいので適当に空けてある。

「いにしへの ふみにもみずや神くにの みいくさのもと夷ひれふす」

「吾子やがて君の御盾と起つ日あり 思へばわれの努(つとめ)重しも」

「安らかに年を迎へて祈るかな 戦へば勝つ国に生まれて」

「挺身の決意 新緑輝く日」

「いくさ勝つ 青田日に日に濃ゆきかな」

 もちろん編集部が、あるいは選者が意図的にそういう作品を選んだという面は大きいと思うが、それにしても……これだけ載るからには少々の投稿数だったはずがない。

 ところでこれらの短歌や俳句を読んで、皆さんはどう思われるだろう。言葉のきらきらしさを感じるだろうか、感性の奥行きを感じるだろうか。私は感じない。生意気を言ってしまえば、その種の才に欠ける私でさえ作れそうな気がするほどだ。それでもこんな短歌や俳句がはやり、多くの人が争って作り、そして雑誌で優秀作や佳作に選ばれたのだ。それが私には悲しい。

 

◇◇◇◇四季派の詩人たち……

 そこでふと思い出した。随分前のことだが、吉本隆明の『四季派の本質』(だったと思う)という評論を読んだ記憶がある。三好達治をはじめ「四季派」と呼ばれた詩人たちが悲惨なほどの戦争協力の詩を書いたという問題について、なぜだろうかという考察をしたものだ。いま、手元にその評論がないので――何処かに埋まってしまっているので確かめることができないが、四季派の詩人たちが戦争協力したのは彼らが社会に対する認識と自然に対する認識を区別できなかったためであると指摘し、四季派の抒情の本質を批判した文章だったと記憶している。

 それを読んだのは10代の頃だったように思う。ボードレールの詩の翻訳や「母よ――あわくかなしきもののふるなり/あじさいいろのもののふるなり」(三好達治の詩の一節をうろ覚えで書いている。もちろん原文は旧仮名遣い)などの詩に見られる言語感覚に衝撃を受けていた私は、吉本の評論ではじめて三好の戦中詩を知り、二重にショックを受けた。吉本が書いていたことだが、それらの戦中詩は、あの繊細な言語感覚の持ち主が書いたものとはとても思えないほど俗悪で、その惨めさに私はほとんど呆然とした。私が日本的抒情に対して何となく冷ややかな思いを持っているのは、この時のトラウマかも知れない。

 酔いが回って眠くなったので、この辺でいったん幕を引く。続きは明日なり明後日なりに書いてみたいと思う。

 

 ◇◇◇◇注 

※1/『家の光』という雑誌についてはもしかするとご存じない方もおられるかも知れないので簡単に紹介しておくと、JAグループの出版団体である「家の光協会」が発行している雑誌。農家を主な読者対象として、80年余り前に創刊されたらしい。

※2/当然、旧漢字・旧仮名遣いである。雰囲気を伝えるために仮名遣いはそのままにしたが、漢字だけは現在のものに改めた。また現在はほとんど使われない漢字は、場合によって平仮名にしてある。以下、このエントリにおいては続きもすべて同じ。

※3/ニュースの中で小さな記事として扱われる類のもの。社会問題に大きいも小さいもないけれども……。

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「息苦しさ」の一歩手前(UTSコラム再掲)

2007-05-29 23:51:18 | ムルのコーナー

 Under the Sun ではほぼ隔日の割合で、メンバー有志のコラムを載せております。ときどき更新があった方が覗いてもらいやすいから――という理由で始めたものですが、十人十色のコラムを楽しんでいただければ幸いです。今月のタイトルは「あつくるしいもの」。

 自分のブログのエントリ代わりに(さぼって)、そちらのコラムの冒頭部分を再掲しておきます。

◇◇◇◇◇

「トマよぉ、いるか?」
 築後20年以上経つらしい、かなりくたびれたマンションの1階の片隅。半ば開け放された窓から野良猫ムルが首を突っ込んで呼ぶと、トマシーナ(通称トマ)がすっ飛んで来た。
「あ、兄貴。こんばんは~。何か元気ないけど、どうしたの」
「今日は全然、食い物にありついてなくてさぁ。腹が減って腹が減って。シャケ弁の残りか何かあったら、ちょいと戴こうと思ってさ。華氏に聞いてみてくんない?」
「うーん。今はダメだと思うよ。机に向かって頭抱えちゃってるから。下手に近寄らない方がいい雰囲気」
「頭抱えてる? なーんでまた」
「Under the Sunのコラムの日だっていうこと、ころっと忘れてたんだって。で、慌てて唸ってるわけ」
「相変わらずバカだなぁ、おまえんちの華氏の奴。……頭抱えて唸ったって、何も出て来やしないから諦めろって言ってやんな。無から有は生じない。これ、天地開闢以来の真理だぜ」
「そんなこと言わないでよぉ。可哀想じゃん。できれば手伝ってやりたいけど、僕もなかなかアイデア湧かなくてさ」
「へえ……おまえも結構ヒトが……じゃないや、ネコがいいんだな」
「だってやっぱりさ、一応食わせてもらってる義理もあるしィ」
「へへへ、義理ときやがった。義理堅い猫なんて、何か『マルキシズムを信奉する王様』とか『老後の心配をする少年』みてぇだな。あるのかよそんなもん、てな感じ」
「いーじゃん。あ、そうだ。兄貴、考えてやってよ」
「げっ、なんでおいらが……」
「兄貴、ヒマでしょ? それにさ、兄貴のおかげでコラムが仕上がったら、喜んで何か食べるもの用意してくれると思うよ」
「うーん。ま、いいか。……ところであのコラム、お題ってやつがあるだろ。今月は何なんだい」
「あつくるしいもの、だってさ」
「きゃはははは。あつくるしきもの、無い知恵を絞ろうとして七転八倒する華氏。貧乏揺すりの膝が机の脚にぶつかる音、冷や汗で濡れた髪が額に貼り付くさまも、いとあつくるし」
「もう……少しは真面目にやってよぉ」
「わ、わかったわかった。ベソかくんじゃねぇよ」

……というわけで、今回は都の東北を闊歩する牡猫・ムルと、その腰巾着のトマがひねり出した「あつくるしいもの」でございます。え? そのコンビの方があつくるしいって? す、すみません……。

◇◇◇◇

 御用とお急ぎがなく、続きを読んでやってもいいぞ、という奇特な方がおられましたら、こちらへ。

 

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ジャーナリズムの軸足は

2007-05-27 23:56:02 | マスコミの問題

 先週の初めから出張しており、土曜日の零時過ぎにヘトヘトになって戻ってきた。今回はやたらに移動が多いので荷物を極力少なくしたく、ノートパソコン持たずに行ったためネットと無縁の1週間でありました。メールもチェックしておらず、帰宅してパソコン立ち上げたらゲンナリするほどのメールが……。むろん仕事やプライベートの連絡もあるのだが、迷惑モノの多さにブチ切れそうになる。かなり神経質に対策立ててるつもりなのに、浜の真砂は尽きるとも世に迷惑メールの種は尽きまじ。ほとんどモグラ叩きの雰囲気である。

 しょうもない愚痴を書いてしまった(笑)。まあそういうわけで、TBいただいたエントリなども先ほどやっと、まとめて読みました。更新もしていないのに、TB送ってくださった皆さん、ありがとう。毎日読めるとは限りませんが、ちょっと遅れてでも読ませていただきますし、私は自分のブログを覗いてくださった方に少しでも多くさまざまな良質のエントリを紹介したい(読んで欲しい)と思っているので、TBいただくのは非常に嬉しいのです。これからも宜しくお願いします。

◇◇◇◇◇◇

 貧乏ヒマ無しを絵に描いたような状況下にあるので、今夜は先日から考え続けていることの断片のメモ書きのみ――。ジャーナリズムって何だろう、というハナシである。

◇◇◇◇◇◇

  よく「公正中立な立場」などというが、報道にそんなものはあり得ない。いや、「ある事実」の提示についてのみ言えば、「無色透明」はあり得る。と言うか、勝手に色をつけてもらっては困る。NHKの報道だろうと「赤旗」だろうと「聖教新聞」だろうと、たとえば日本の人口は1億2000人余だし、国民投票法参院可決は2007年5月14日。昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれたのは『バーレーを揺らす風』。都知事選の開票結果なども、新聞やテレビ局によって変わったりはしない。当たり前である。相撲の優勝力士が、朝日新聞によれば朝青龍、毎日新聞によれば白鵬(相撲に限らずスポーツ中継をまったく見ないので、実はどちらも名前をうろ覚えしてるだけで顔知らないのですが……)、なんてことはあり得ません。あったら怖い。

 だが、ジャーナリズムの役割は「(誰が見ても一目瞭然の)事実」を垂れ流し的に伝えることではない。これもまた、当たり前のことだ。報道者は機械ではないのだから。

 たとえば同じ「時の人」にインタビューした記事でも、メディアの性格により、そしてインタビューする人間の個性によって、中身は大きく変わる。私も同じ話題を他の雑誌などと並走する形で取材したことが何度かあるが、事前情報の集め方や質問の項目・中身や尋ね方などは千差万別。当然、出来上がる記事も大きく変わる。変わらなければ、それは取材・報道者の恥でもある。相手が言いたいこと、表面的なことだけ聞いてくるなら記者はいらない。テープレコーダーでも置いといたほうがマシというものだ。事実を歪めてはいけないが、「事実を見る時の眼」は生身の人間ひとりひとりのものである。

 ただ――「眼」は個々の報道者個人のものであるとしても、立ち位置はあくまでも「武器を持たない側」であるべきだと私は思う。武器というのは変な言い方だが、要するにあらゆる意味の「力」。権力を握っている側と、その権力の前に右往左往し、ともすれば押しまくられてしまう側のどちらに肩入れするかといえば、後者に決まっている。前者に肩入れするのは、「御用○○」である。

 もう随分むかし(笑)になるけれども、私が「マスコミ業界」に就職したとき、親戚のオッサンが「そんなヤクザな仕事に就かなくても……」と言ったのを覚えている。そのオッサンの感覚では、報道というのはまっとうな仕事とは思えなかったようだ。そう言えばはるか昔――そう、確か明治の頃には、ジャーナリストは「羽織ゴロ」などとも言われたのだっけ。 

 ジャーナリストというのは、基本的に「情報の仲買人」である。自らは何も生産せず、右のものを左に動かすことによって(※注1)銭を稼ぐ。「言葉」を使うという点では小説家や詩人や評論家と同じかも知れないが(※注2)、共通点はただそれだけ。

(※注1/ここでいう右とか左とかは、政治的な立場のそれではない。念のため。  ※注2/確定申告時の私の職業は、「文筆業」である。この文字を見るたびに、私は穴があったら入りたいような恥を感じる……。)

 ジャーナリストの文章は、浜辺の砂に書かれた文字のようなものである。その文章の命はほんのいっときだけにしか過ぎず、何年も残るものではない。むろん歴史的な資料として残ることはあるが、それはまた話が別だ。小説や詩が何百年の時を経ても生き生きと息づくのに対し、ジャーナリズム文章はすみやかに過去のものになり、資料として使われるのはただその化石に過ぎない。読み捨てられる多くの文字達を、私も日々書いているのである。

 ……と苦い口ぶりで言うのだけれども、砂に書かれた文字であるがゆえの矜恃、というものもある。圧殺される側、表現手段においてハンディのある側、そしてマイナーとひとくくりに言われる側……に、小便漏らしそうになるほど震えながらも立つ以外に、その矜恃を守ることは出来ない。

 上からの命令で、あるいは売りたいがために、あざとい記事を作ることに耐えられなくなったとき(※注3)、私はフリーランスの道を選んだ。  

(※注3/むろん指示命令は露骨な形で下りてくるわけではない。いわゆる現場の裁量はかなりの程度認められているし、納得できない指示に対しては抵抗することも可能だ。しかしマスメディアも“利潤”を上げる必要があるため、“売れる”企画が優先されるのもこれまた厳然たる事実である……)

 フリーになったからといって、 「いい仕事(リッパな仕事)」だけできるわけではない。実際問題として、著名人のゴーストライターや、リライト(※注4)や、こまごました趣味的な話題の記事を書いてメシ代稼いでいるのである。孫子の代までフリーライターなんかさせたくない、という気も実のところないではない(子供いないんで、むろん孫とかひ孫もいるわけないですが)。

(※注4/文章を書き慣れない著名人あるいは専門家がメモ的に書きなぐった文章を、テニヲハの調整から始まって、それなりの文章に仕上げる仕事)

 しかし、それでもなおフリーのジャーナリストには――NOという自由、あるいは権利、だけは保証されている。私は小心者なのでめったにこの権利を行使しないが、それでも何回かは(貯金通帳の残高がちらついて泣きそうになったけれども)NOと言ったことがある……。「私の思想信条に反するので、その仕事は出来ません」。いやほんと、後で後悔したんですよ(あ、後悔ってのは後でするのに決まってるか)。黙ってやってりゃ何万円……テレビを買い替えられたんだよなあ……とか計算してね。

 でもねえ……ジャーナリストの背骨は、反骨でしょう。それを失えば、すべては無。何もいらない。そして自分がやっていることなんざ大したことでも何でもない。ちょっと時間が経てば、誰も覚えちゃいないさ。ただ、時代の共犯者にはなりたくなく、報道しておくべきこと・記録しておくべきことに忠実でありたいと――少なくとも私は、そういうジャーナリストになりたい。死ぬまでに、なれるかどうかはわからないけれども。

(今夜も酔言でありました。し、失礼)

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普天間飛行場移設問題とマスコミ

2007-05-20 23:35:55 | マスコミの問題

◇◇◇沖縄の新聞から◇◇◇

 辺野古の問題――米軍普天間飛行場移設のために、住民の反対を押し切って事前調査を強行。海上自衛隊がそれに協力したという問題――。全国紙でも全く触れていないわけではないが、報道は沖縄の新聞がはるかに詳しいので、このところネット上で、沖縄タイムス琉球新報の記事を読んでいる。今日はその中から2つばかりを簡単に紹介しておく。

〈自衛隊は住民から米軍を守る〉

 琉球新報18日の社説、タイトルは「辺野古に海自艦・『何から何を』守るのか」。大砲や機関銃を備えた「軍艦」が派遣されたことに対して、【沖縄は大砲や機関銃を必要とする紛争地ではない。辺野古海域には機雷もない。いるのはジュゴンと、米軍の新基地建設に反対する市民だけだ】と真っ向から怒りを表明したものだ。この社説は、次の一文で結ばれている。

【あれから62年、国民を守るはずの自衛隊は、米軍の新基地建設に反対する国民を「威圧」するために軍艦を沖縄に派遣するのか。悲惨な沖縄戦が残した歴史の教訓は、「軍隊は住民を守らない」ということだった。今や時代は変わり「軍隊は住民から米軍を守る」という悲しい現実に、沖縄は直面することになるのだろうか】

 これが「集団的自衛権」の現実である。

〈海を殺す者〉

 もうひとつは沖縄タイムス20日の記事で、タイトルは「辺野古アセス『公正に』/ネット署名 世界から1000件」。「市民アセスなご」の吉川秀樹さんが呼びかけたもので、19日間に世界各地から1000件以上の署名とメッセージが集まったという。(署名呼びかけのサイトはこちら

【ラオス共和国のマーク・ベジェエンさんは「ジュゴンは危機にさらされているアジアの海洋生物のシンボル。日本は米軍基地を造ることよりも、美しい自然を守る事を優先すべきだ」と訴えている。】(同記事より)

 美しい海を殺して「美しい国」を創ろうとは、いったい何ごとだろう。

 

◇◇◇すべてのメディアが報道しろとは言わないが◇◇◇

 最初に書いたように、全国紙はこの問題を僅かしか報道していない。さすが報道はしていますがね、問題の大きさの割にはどう考えても扱いが小さい。dr.stoneflyさんによると、テレビではほとんど報道されていないそうだ。何かがどこか歪んでいるとしか思えない。

 いや、むろん私は「メディアはすべて政治・社会問題を報道すべき」とは思っていない。「うちは娯楽(など)に徹する。政治問題や社会問題はいっさい扱わない」という新聞やテレビがあっても、別にかまわないと思う。「うちは地元のニュースだけを扱う。全国レベルの問題や世界情勢は、ほかの新聞を読んでください」という地方紙も、あってかまわない。江戸時代の瓦版みたいな新聞もアリだろう。

 ただ、いま日本に存在するいわゆる「一般紙」(スポーツ紙や、読書新聞のような特殊なもの、業界紙などを除く新聞)は、読者の耳目の代わりになって「国民が知りたいと思っていること」や「(自分達の権利や暮らしを守るために)知っておくべきこと」を取材し、報道するのが大きな役割――ということになっている。

 もちろんそれだけではなく、「娯楽や教養」という面もある。だからどの新聞でもスポーツ欄があり、連載小説やエッセイがあり、書評や劇評があり、旅行や料理や、健康情報的な記事も載っていたりするのだ。それはいい。私たちは朝から晩まで社会情勢のことを考えて暮らしているわけではない。私自身、「街の話題」など結構楽しんで読むし、やや浮世離れした記事を読むのも大好きである。

 だが、今の日本の「一般紙」はすべて、一面に「重要な社会問題」を取り上げる。そしていわゆる「三面記事」も、基本的に社会ネタである。中身は大きな問題から街ネタと呼ばれる小さなニュースまで、さまざまだけれども。考えてみれば、どの新聞も作り方はまったくもって横並び。1つぐらい「萬朝報」みたいな、新聞があってもいいと思うが……。

(※萬朝報=黒岩涙香が創刊した明治の新聞。スキャンダルの報道と、娯楽欄の充実が特徴だった。『巌窟王』など涙香の代表的な翻案小説は、同紙に掲載された)

 また話が逸れた(思いつくまま書きなぐっているので、すぐそんなふうになる……。酔ってるし)。戻そう。ともかく、今の一般紙はすべて、「重要な社会問題を取り上げる」ことになっているのだ。テレビのことはよくわからないのだが、こちらも多分そうだろう。どの程度の時間枠をとるかは別として、「ニュース報道の時間」を設けているのだから。

 それならば、である。なぜ普天間飛行場の移設問題、そして事前調査をスムーズに進めるために「軍隊」(自衛隊はレッキとした軍隊だと私は思っている)が出動したことを報道しないのか。これは単なる「沖縄という、一地方の問題」ではない。反対デモの鎮圧に機動隊が出動しました、という話とはレベルが違うのだ(むろん丸腰の市民のデモを装備した機動隊が睥睨し、時として襲いかかるのを認めているわけではない)。「もと組員の立てこもり」も「母親を殺害したと少年が自首」も、大きな事件ではあろう。だから報道するなとは言わないし、もっと小さく扱えとも言わない。しかし日本という国の足元の揺らぎ方という観点から言えば、今回の辺野古の問題の方がはるかに大きいと私は思う。

 一葉落ちて天下の秋を知る敏感さこそ、ジャーナリストの命。ほんの小さな出来事からでも、それを通してまだ表面に表れていない地殻変動のきざしや、沈黙の背後にあるものを察する感性こそジャーナリストの命。ましてや今回は、小さな出来事どころではないのだ。今からでも遅くない、報道して欲しい。場合によっては普通のニュース記事ではなく、腰を据えて特集を組んで欲しい。まだメディアは堕落していないことを我々に示して欲しい、社会の木鐸としての(古いなあ……)報道者の気概を見せて欲しいのである。

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軍隊が銃を向ける相手は

2007-05-18 23:52:46 | 戦争・軍事/平和

 昨日に続いてセレブがどうのこうの……という話を書くつもりだったが、それは後回しにして。

 dr.stoneflyさんが「なぜテレビはこの暴挙を映さないのか」と怒り、アッテンボローさんは「自衛隊の帝国主義軍隊化を許さない」と声を上げ、お玉さんも「マスコミが使命を果たせないなら自分達がジャンジャン書くしかない」と言う。「競艇場から見た風景」のmakuriさんは、写真にかぶせられた「主権在米軍NO!」の文字がまず目に飛び込むエントリで、この国家権力の暴挙を取り上げた。他にも多くのブロガーが抗議の文を書いている。

 そう、辺野古における海上自衛隊の「実力行使」の問題である。

 沖縄・普天間にある米軍基地(飛行場)の移設に先立つ現況調査に、自衛隊が協力している。それについて久間防衛相は「どんな場合にも対応できる万全の態勢をとっている」と言ったのだ。「場合」というのはそれこそいろいろな場合があるのだろうが、そのひとつ――というより大きなものが「妨害行動」の排除であるのは火を見るより明らかだ。現政権にとって普天間基地移設は重要課題であり、住民の反対はうるさくうっとうしく、邪魔なだけなのだから。

 国民の暮らしを守るための装置であるはずの国家が、国民を泣かせるようなふるまいを強行するとは何ごとか。そんな国家など、私は否認する。

 自衛隊――というと何となく正体があやふやになるが、要は軍隊だ。その軍隊が、反対する住民を鎮圧して米軍基地の移設をスムーズにおこなうために出動している。軍隊は国民を守るために存在するのでなく、国体あるいは国家権力を守るために存在するという証左ではないか。「国」に逆らう者は排除せよ。押し寄せた一揆の集団に対して為政者の命令で銃が乱射されるのと同じ図が、この21世紀の日本で繰り返されようとしている。  

◇◇◇◇◇◇ 

 恥ずかしいことだが、長いこと私は沖縄の状況については常識程度のことしか知らず――いや、自分ではけっこう知っているつもりでおり、考えてもいるつもりだったが、実のところ半分居眠りしているような鈍さであったと思う。その自分の鈍感さを思い知ったのは、普天間基地移設に反対して緊急出版された本『沖縄は基地を拒絶する――沖縄人33人のプロテスト』(発行・高文研)を読んだときである。ページをめくりながら、ときどき息が苦しくなるような本だった。ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思い、昨年の2月に、「『沖縄は基地を拒絶する』から」という紹介記事も書いている。まるで生け贄のように米軍の祭壇に捧げられた島、その沖縄に住む人達のギリギリの怒りがこの本には満ちている。ヤマトンチューである私は、沖縄を生け贄にし、沖縄を踏みつけて知らぬ顔をしてきたのだ。1年以上前に出版された本だが、今こそさらに多くの人に読んで欲しいと私は思う。

 闘いは長く続いてきたのだけれども、同時にまだ始まったばかりでもある。

◇◇◇◇参考資料/新聞記事の抜粋

【久間章生防衛相は17日午前の参院外交防衛委員会で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)のキャンプ・シュワブ沿岸部(同名護市)への移設に先立つ現況調査に海上自衛隊が協力することについて「妨害に対する人命救助も含め、どんな場合も対応できる万全の態勢を取っている」と述べ、海自が警備活動を実施する可能性を示唆した。】(毎日新聞5月17日配信

【「この人たち(の作業)が違法行為だ」。普天間飛行場移設先の名護市辺野古の沖合で、基地建設反対派は18日午前、カヌーやゴムボートに乗り込み、建設に伴う那覇防衛施設局の調査阻止を図った。】(琉球新報5月18日配信

【反対住民は同日午前5時半すぎから、近くの辺野古漁港周辺で集会を開催。約80人が集まり、「ヘリ基地反対協議会」の共同代表を務める安次富浩さんは「自衛隊が私たちに銃口を向けるということは民主主義を破壊することだ」と、政府の方針を厳しく非難した。】(時事通信5月18日配信

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セレブへの憧れが意味するもの・1(ほとんど話のマクラ)

2007-05-17 23:49:34 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 ここ数日多忙で、パソコンをプライベートに使う時間がほとんどなかった。遅ればせながら……という感じで、よく覗かせてもらうブログを読んだところである。どれもなるほどなぁと思うものばかり。いやもう、ほんとアタマの刺激になります(刺激されても、別にそれで良くなるわけじゃないけど。少なくともこれ以上悪くならずにすみそうな気が)。

 おもしろかった――自分がグシャグシャともの考える手掛かりになったエントリはたくさんあるが、たとえば2日ほど前にとむ丸さんがTBしてくださった「セレブに弱い女性たちはどこへ」。セレブって何だろう、セレブに憧れる感覚(神経)とは何だろう、と腕組みしてしまった。

 セレブ(celebrityの略らしい)というのは、本当にヤな言葉である。私は嫌いな言葉の多い人間で、しかも年月と共に好ましい言葉より嫌悪の対象となる言葉のほうが増える。セレブという言葉もその典型的なひとつだ。(言葉の本来の意味ではいわゆる名士を指すのだろうが、今の社会では金持ち、エリート、上流階級といった意味合いも含めて使われているような気がする。間違っているかも知れないが、いちおうそういう意味だとして話を進める)

 とむ丸さんは上記のエントリの中で「セレブ、というと好きなのはやはり女性でしょう」と書いておられた。私はとむ丸さんのエントリには教えられることが多いのだが、これには僅かに異論がある。セレブ好きは性別を問わずに存在する(その社会の慣習等によって、性別による現れ方は違うと思うが)。社会的なステータスやブランド品や一流レストラン等々に価値を見出すなどというのは表層的な話で――いや、むろんそういう要素も大きいのだけれども――つまるところは飽くなき上昇志向と、自分も何とかして選民の側に入りたいというエゴイズム……かなあ。

 突然話は逸れてしまうが、人間には「雲の上の存在」(あるいは銀の匙をくわえて生まれてきた人々)に憧れる心がある。少なくとも――そういう心は大いに生まれ得る、と思う。ヘラクレスはゼウスの子であり、天皇は天照大神の裔であり(※1)、本願寺の門主は親鸞の血筋であり(※2)、それゆえに生身に後光が射す。

※1/むろん現代は一部を除いて、そう考えている人はいないはずだが。

※2/本当かどうかは知らない。多分、本当なのでしょう。浄土の親鸞にあなたの子孫が代々門主として宗派のトップに立ってますよと聞かせたら、腰抜かすと思いますが。

◇◇◇◇◇◇

 貴種というのが、ロマンの小道具としてに力を発揮するのは確かである。だから「昔話」や「伝説」の主人公として、さまざまな「貴種」が登場する。たとえばグリム童話には、馬に食わせるほどお姫様だの王子様だのが顔を出すではないか。オイディプスの悲劇もカサンドラの悲劇も、彼らがテーバイの王の子であり、トロイアの王の子であったという道具立てによって鮮やかに、そして豪奢に増幅された。古くから洋の東西を問わず貴種流離譚が人気を博しているのも、おそらく「高貴な存在」への憧れと関わりが深い。「高貴な存在」が「数奇な運命によって」、「自分達の住む世界と交わる」という想像――が、ある種のロマンティシズムを掻き立てたのだろう。

 その種のロマンティシズムを私は否定しない。此の世ならぬものへの憧れというのは、わくわくするものであるとも思う。ただしそれがつかのまの蜃気楼や虹と同義の、神話的なあるいは初恋的な憧憬と同義である限りにおいて。

 現実の世界というのは恐るべきもので、利用価値があれば他愛ない蜃気楼であろうが何であろうが骨までしゃぶる。

◇◇◇◇◇◇

 ほんの前置き、落語でいえばマクラみたいなことしか書いていないが、疲れているのでここで中断。明日(?)、ゆっくり続きを書こうと思う。セレブうんぬんについては吐き気を催すような感覚と共に、言いたいことは山ほどある……ような気がする。

◇◇◇◇◇◇

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「過半数」の分母は有権者総数、でしょう

2007-05-13 23:45:28 | 憲法その他法律

 津久井進さんから、「まだ未完成の国民投票法案」というエントリのTBをいただいた。国民投票法案の付帯決議全文を掲載し、同法は重要論点を先送りしてごまかすような内容のものであり、まだ決着はついていないと述べたものである。法律の専門家の意見としてなかなか興味深いので、一読をお勧めする。

◇◇◇◇◇

 ……というのは別に前置きではない。上記のエントリを読んでいる途中で、ふと思い出したというか気がついたというか、あ、これは書き留めておこうと思ったのが本日の記事(厳密に言えばただのメモ)である。テーマは「過半数」。何の過半数かって? むろん憲法改定に必要な「過半数」は、いったい「何の過半数か」という問題ですよ。

 憲法96条には、「改正の手続き」が定められている。条文は以下の通り。

【この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする】

 ここで問題になるのは「その過半数」の「その」が何を指すかであって、解釈は3通りあるらしい。(1)有権者総数 (2)投票総数 (3)有効投票総数、 である。(私はこのほかに国民総数という解釈もありうると思うが、では零歳の子供も含まれるのかなどと言われれば首をひねらざるを得ないので……やはりこれは現実的ではないだろう)。

 私自身の意見をさっさと言ってしまうと、私は(1)が最も妥当だと思っている。憲法は(何度もしつこく言い続けているが)国の根幹の方針、国のありようを定めたもの(私は先日のエントリの中で、学校で言えば建学の精神みたいなもの、とも言った)。不磨の大典でも何でもないけれども、変えるのは良し悪しは別として思想信条の転向に等しい。だから、全国民の(現実としては全有権者の)意見を聞く必要がある。

 実のところ改定には全国民の三分の二ぐらいの同意が必要だと思っているのだが、憲法で「過半数」と定めがある以上、まあ過半数でもかまわない。と言うか、仕方ありますまい。ただ、あくまでも「全有権者の」過半数、である。

 そんなにハードルを高くしたら改憲なんてゼッタイ無理だ、とのたまう人もおられるかも知れない。しかし国民(有権者)全体の過半数の同意を得られない「思想信条の転向」「国のあり方の改変」など、いったい何だと言うのか。

 おまえはいわゆる「護憲派」だからそんなことを言うのだと嘲笑されるかも知れないが、それは誤解である。私は現時点では護憲だが、かといって現憲法の1から10まで大賛成、というわけではない。たとえば私は天皇制に疑義を持っており、理想を言えば天皇制は消滅した方がいいと思う。したがって憲法の第一章には、とてものこと賛成とは言えないのだ。しかしこの章にしても、変える場合は「全国民(全有権者)の過半数」が必要だと思っているし、その意味で(かなり消極的に、現段階ではやむを得ないこととして、ではあるが)天皇制を容認してもいる。

 たとえば全有権者の半数にも満たない人々しか投票にいかないような、そんな「改定」なんぞチャンチャラおかしいのだ。ほとんどの国民が惻々と迫る身近な問題として考え、その多くが投票に行く状況であって初めて、「国のありかた」は変わってもいい(変わった先が私にとって嬉しい形かどうかはまた別だけれども)。

 一部のおぼっちゃまたちのキレイげな跳ね上がり・舞い上がりで、ドサクサ紛れに……まるで衣装や髪型が流行遅れになったから最新にしようと言わんばかりの軽薄さで、「国のあり方の根幹」を塗り替えられてたまるものか。

 

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国民投票法案可決……!!

2007-05-11 22:55:30 | 憲法その他法律

 皆さん既に御存知と思う。今日夕方、参院憲法調査特別委員会で国民投票法案が可決された。週明け早々、14日の参院本会議で可決・成立する危険性は非常に高い。

 与野党の比率から考えれば、「可決」は予想外の出来事だったわけではない。安倍内閣が(まるで憲法さえ変えればスバラシイ国になるかのような錯覚を起こすほど)ケンポウカイセイ、ケンポウカイセイと連呼しているところから見ても、しゃにむに可決を急ぐだろうことは実のところ目に見えていた。それでもなお、私は愕然としている。同じように「可決するだろうな」と怯えつつ、わずかな希望をつないできた人、それがアッサリ蹴飛ばされたことに暗澹としている人は多いのではないか。

 改憲論者の中にも必要とする声の多い「最低投票率制度」の導入さえ、与党は「ボイコット運動を誘発する」として退けた。おかしな話である。ボイコットする人が多くて最低投票率に達しなくなるほどの改定案など、そもそも出してくる方がおかしい。いったい何を怖がっているのか。そんなに怖いんですか、国民が。

 与党が多数を占めている限り、その暴走を阻止するのは至難の業だと改めて思い知る。もう、行くところまで行くしかないのかも知れない……。

 1年ほど前に「『よりマシ』はない。いっそ『さらに最低』が出てもいいかも知れない」などとヤケクソめいたことを書いたけれども、また同じような感覚が頭の隅を漂っている……。

◇◇◇◇◇

 NHKクローズアップ現代「9条を語れ 憲法は今」(5月7日放映)が話題になっている。私は見逃したのだが、大津留公彦さんがyoutubeの映像を掲載しておられるのを知った。今、観たところだが、NHKもそれなりに頑張っていることにホッとする。

◇◇◇◇◇

 戸倉多香子さんを応援しています。戸倉さんの目線は貴重で、こういう人に公僕として働いて欲しいと思う。ただし民主党は……う~む……。せめてしばらくの間、現・与党の暴走にブレーキをかける役割を期待したいところなのだが、あっさり国民投票法案の採決に応じるとは何ごとか。

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憲法「新権利盛り込み」は本当に必要か

2007-05-09 23:40:17 | 憲法その他法律

(参考/○毎日新聞の世論調査記事 ○朝日新聞の世論調査記事

 憲法記念日の少し前に、マスメディアなどが憲法に関する世論調査をおこなった。5月2日頃、新聞紙上でその結果を読んだ方も多いだろう。既に多くのブログでも、これらの世論調査が俎上にのぼっていたと思う。遅まきながらワタクシメも……。

◇◇◇現憲法を「評価」、しかし「60年経ったからそろそろ新しく」?◇◇◇

 毎日の調査でも朝日の調査でも、改憲賛成が反対を上回っていた。毎日の場合は「賛成51%、反対19%」。朝日の場合は「賛成58%、反対27%」。このパーセンテージだけ見ると、国民の過半数が憲法改定を望んでいることになる。おじいちゃまの宿願を果たしたいと叫ぶソーリは、さぞお喜びであろう。

 ただし――である。よくよく見れば(というほどでもない。結果全体をサッと見ればすぐわかる)どう考えても「今の憲法は不都合だと思って、積極的に賛成している」のだとは思えない。

 何しろ毎日・朝日共に、大半の人が現憲法を評価しているのだ。たとえば毎日の場合――改憲賛成派も約80%は「戦後の日本にとって憲法が役立った」と答えている。そして改憲賛成理由はと言えば、「(60年以上の歳月が経ったから)時代に合っていない」がトップで49%。2位は「1度も改正されていないから」で29%。この2つで何と約80%を占めるのだ。9条に問題があるといった、具体的な理由を選んだ人はごく一部に過ぎない。同紙は記事中で、次のように書いている。

【具体的に不都合があるというよりは「時代に合わせて新しくしたらよい」という意識が働いているようだ】

 何だかなぁ……と、皆さん思いませんか。「長いことモデルチェンジしていないことだし、そろそろこの辺で新しくしようか」なんて、奇妙キテレツな発想でしょうが。車や家電製品じゃあるまいし。

 毎度同じこことばかり言っているので自分でもシラケそうになるけれども、憲法というのは「国の理念、枠組み」を取り決めた大原則。学校で言えば建学の精神だ。建学の精神と言えば、慶應義塾のそれは「独立自尊(一身独立して一国独立する)」、同志社のそれは「キリスト教主義に基づき、自治自立の精神を涵養し、国際感覚豊かな人物を育成する」であるそうな(これは一言で言えばみたいなもので、多分もっと長いのだと思う。どちらも何かで読んだか聞いたかしたものを適当に取り出した。自分の出身校ではないので間違っているかも知れないが、在校生・卒業生の方、御容赦のほど)。慶應や同志社がそれらを変えたという話は聞いたことがない。

 

◇◇◇「加憲」なんぞ、しなくたっていい◇◇◇

 朝日の調査の方では、改憲を望む理由の一位は「新しい権利や制度を盛り込む」(84%)。いわゆる加憲の発想である。公明党よ喜べ。

 加憲と言えば、環境やプライバシーに関する権利などがよく挙げられる。そんな話を聞くと多くの人は「そうだよね。何しろ60年も前に作られたんだもんね。当時と比べると社会情勢が随分変化したんだから、それに合わせて補強するのはいいよね。プライバシーの権利なんかも、ちゃんと憲法で決まってた方が安心だし」と思うかも知れない。しかし! 本当にそうなのか?

 憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とうたわれている。環境だのプライバシーだのといちいち言わなくても、私はこれで充分だと思う。憲法は幹の部分だけ押さえ、枝葉の部分は他の法律で補えばいいのだ。妙に具体的な細かいことまで決めたものは、「すぐ実情に合わなく」なってくるのが世の常。そんなことをしていれば、今後ことあるごとに「補強」して行かざるを得なくなる。

 またちょっと変なたとえ話をしよう。私は東京のはずれの古いマンションに住んでいるのだが、ここの管理規約は毎年とは言わないまでも、そう、3年に1度ぐらいは新しい条項が加わるのだ。何か問題が浮上するたびになるべく具体的に、なるべくきめ細かく決めようとするものだから、「じゃあこういう場合は?」「こういう問題が抜けてるんじゃないの?」という意見が出て来て、それに対応すべく新しい条項が馬に食わせるほど付け加わるのである(少し前に当番で組合の役員になった時、会合でキレて「そんなこと決めているとキリがないッ。管理規約はマンションの憲法だ。原則だけにして、後は決める必要があれば細則で決めろッ」とわめいた覚えがあったりして)。

 一組の男女(同性同士、でもいいけど)が共棲した場合でも、たとえば共同で使うものの費用について「折半する」「問題が起きればそのつど互いの権利を尊重して話し合う」といった大枠だけ決めておけばよいものを、ひとつひとつ決めていこうとすると話がどんどんややこしくなる。水道代はどうする、ガス代はどうする。入浴の回数と時間が違うのに折半はおかしいんでないの、なんて言っているうちはまだいいが、やがて枝葉末節の部分でエスカレートしていって収拾がつかなくなる(実体験だろうって? いや、それはそのぉ)。 

 私はもともと単純でいい加減な人間だから、規則(法)なんて少なければ少ないほどいいと思っている。むろん何も規範がなければ困るからある程度は決めておく必要があるが、少なくとも「幹の部分」はギリギリ単純な方がいい。厚化粧も過剰包装もオマケもまっぴらである。

 厚化粧と言えば……憲法はいわば裸体のようなもの。衣装を着せれば「古くさい」の「時代に合わない」のという話が出てくるかも知れないが、すべての装飾を取り去った肉体に古いもへったくれもない。ゴヤの『着衣のマハ』と『裸体のマハ』を見比べればよくわかる。

 

◇◇◇「新しい」というマヤカシ◇◇◇

 朝日新聞の方は昨年4月の調査で憲法9条について質問しており、その時に78%が「9条が日本の平和に役立った」と答えたことを記事中で紹介。今回の調査でも、9条を変えた方がいいという人は改憲賛成派でさえ50%だったという。しかも改憲派の多くは先に紹介したように「新しい権利や制度を」と考えており、「9条に問題あり」とした人はわずか6%だった。

 日本人って結構健全なのだな……と少しホッとすると同時に、背中の方から薄気味悪いものが這い上がってくる。安倍内閣が中心的な課題としているのは9条改定。そして、それに象徴される「戦後レジームからの脱却」(!)だ。首相がそれをやかましく言い立てているにもかかわらず、「新しい権利や制度の盛り込み」が必要だから改憲賛成、とはいったいどういうことだ。

 要するに、「新しい」という言葉に弱いのだろうか。〈新しいことはいいことだ〉。

 新しいことイコール正しいことではないよ、と呟きつつ、ふと自分は保守だったかと妙な気分になる。世間の常識なんかくそくらえと思い、常に今日よりも明日を夢見、「私のカナンの地」を夢見て駆け続けたいと思ってきたはずなのに、ひょっとしたら私は保守だったのか。

 いや、そうではない。これは「新しい」という形容にはまやかしが多いという証左なのだ。人は沈む夕陽でありたくなく、そして日々新しくありたいと思う。時代に、そして親しい者達に取り残されたくないと思う。その素朴な感覚につけ込むある種の詐欺が、此の世にはあまりにも多い。あんたもう古いんだよと言われれば、何の根拠もないその軽侮に怯える。私も年齢を重ねるにつれ、その怯えがひしひしとわかるようになってきた(何せ、ワンセグってのが何なのか、長いことわからなかった人間ですし……泣)。「戦後レジームからの脱却」などという一見かっこよさげな言葉はそのあたりの微妙な心理につけ込む毒を孕んで、反吐が出るほどにイヤラシイ。

 太古の昔から変わらぬものはあり、それがあるゆえに人はどうでもいいことを振るい捨てて夢見続けることができる。「変わらぬもの」は教育再生会議ふうの安っぽいものではなく、おそらく人間の尊厳にかかわるもの。紅旗征戎はわがことにあらず。言ってみたいよワタシも、なんていつぞやぼやいたけれども、今夜は結構まじめに宣言したい気分になっている。

 ひとの世の表面は目まぐるしく変わるけれども、そんなことは私には関係ない。「これがニューモデルですよ~。あれ、お客さん知らないの? 遅れてますよ~」などというペチャペチャまとわりつくような薄っぺらな宣伝に乗せられまい。百年経とうと千年経とうと、原則は原則なのである。私はいま、そこに本当に立ち返りたいと思う。

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「レジームチェンジ反対」の共同声明文に賛同

2007-05-05 22:46:00 | お知らせ・報告など

 先月22日、gonさんが「七色の風よ吹け」というエントリで「現日本政府の体制変革(レジームチェンジ)に反対する」共同声明を提案された。

 その共同声明文「私たちは現日本政府の体制変革(レジームチェンジ)に反対し、現行憲法の民主主義原理の発展と具体化を求めます」が一昨日発表され、現在、賛同署名を募集中。遅まきながら私も署名した。

 共同声明文全文は上記エントリを見ていただくとして、その要旨にあたる声明の部分だけ、下にコピーておく。

◇◇◇◇◇以下、転載◇◇◇◇◇

私たちは、現日本政府がめざす体制変革レジームチェンジ)によって、日本が与党や行政指揮者の意向によって何の留保もなく戦争のできる国にされてしまうことに反対します。

私たちは、日本が非民主主義的あるいは立憲主義を否定する国に変えられてしまうことをなんとしても食い止めたいと願っています。

私たちは、日本が国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という現行憲法の原理を発展させ、具体化させることを求めています。

私たちは、日本の平和と民主主義の恩恵を世界中の人々と共有することを望んでいます。

私たちは、それが自由と平和を愛し民主主義の擁護・拡大を望む世界の諸国民の願いでもあると信じます。

日本の政府与党である自民党が、「体制変革レジームチェンジ)」の意思を公言して憲法改定手続法をスタートさせようとしている今、残された時間は多くありません。

私たちは、私たちのこの意思が歴史の審判に耐えうるものであることを祈念しながら、このメッセージを世界中に送ります。そしてこのアクションが、国際社会全体を次のステージへと導く「平和への道」を切り開くことを願っています。心ある世界市民が、私たちの日本と、そして全世界の平和と民主主義を勝ちえるためのこのプロジェクトに、それぞれの国で、その地域社会で、その生活の場で連帯してくださることを心からお願いいたします。

◇◇◇◇◇転載終わり◇◇◇◇◇

 戦後レジームからの脱却――などというと妙に格好良く聞こえるが、要するに日本が戦争を放棄し、民主主義の真の実現に向けて歩き出した道のりを否定するということ。我々が目指していた行き先と、そこに行き着くための手段を変更するということだ。国のあるべき姿形を変える、ということでもある。安倍政権は、紆余曲折を経ながらも何とか前進してきた日本に宣戦布告したのである。今の日本が素晴らしいとは思わない。むしろかなりろくでもない国だと思っているが、辛うじて理念――国がマトモな姿を保つための原則だけは存在している。それを否定するのは犯罪以外の何ものでもない。

 なお、私個人の賛同表明の言葉(のようなもの)は4月25日「クーデターを許すな」というタイトルで掲載している。

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笑わせてくれます、教育再生会議

2007-05-02 00:23:23 | 教育

◇◇◇はぁ……親学に関する提言、だそうです◇◇◇

 nizanさんが「教育再生会議のバカ発言」で、同会議の懲りない提言(?)を笑い飛ばしておられる。

 教育再生会議 については皆さんよく御存知だろうが、「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を図っていくため、教育の基本にさかのぼった改革を推進する必要がある」ということで、昨年10月10日の閣議決定によって設けられたものだ。メンバーは内閣総理大臣、内閣官房長官、文部科学大臣、そして「有識者」である。有識者として選ばれたのは、劇団四季の浅利慶太、東海旅客鉄道会長・葛西敬之、資生堂相談役・池田守男、国際日本文化研究センター教授・川勝平太、東京大学総長・小宮山宏……その他。

 3か月ほど前の中間報告でも噴飯ものの提言がおこなわれたが(それについては、過去のエントリ※でも触れている)、感覚のズレ具合にますます磨きがかかっている模様。先月25日に概要がまとめられた「親学に関する緊急提言」には、爆笑してしまった。提言は11項目。

(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児
(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
(3)早寝早起き朝ごはんの励行
(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
(6)企業は授乳休憩で母親を守る
(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
(9)遊び場確保に道路を一時開放
(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める

 

◇◇◇親戚のジイチャンの説教じゃあるまいし◇◇◇

 まず真っ先に思うのは――へええ、お歴々が雁首そろえて考え抜いた揚げ句の「教育再生」のための提言、がこれですか。やれやれ。

 まるで親戚のジイチャンあたりの、思いつきの説教を聞いたような錯覚を起こす。こんな提言を引き出すために税金使われているのかと思うと、情けなくて涙も出ない。この程度の提言が欲しいなら、わざわざ有識者とやらを集めなさんな(それにしても有識者って何だろう? 子供に聞かれたら、皆さんどう答えますか)。私の母親みたいな平凡な無識者バアサンだって、もう少しましなアイデアを持っていると思いますがね。

 教育評論家の尾木直樹氏(法政大学教授)が、こう言って首をかしげたそうだ。「書いてあることは間違っていないが、政府会議ともあろうものが何を言ってるんだ、という感じです。なぜこうしたことが実現しないのかを社会的、経済的に分析し、実現のための政策を提言するのが仕事なのに、これでは職員会議の議題です。聞くところによれば、会議では演出家が『演劇鑑賞も入れてよ』と言い、子育てを終えた人が『やっぱり母乳よね』と言ったそうで、それがそのまま提言になっている。母乳の出ないお母さんはどうすればいいのか。こんなのを挙げていけば100も200もの提言になってしまいますよ」(4月30日付・日刊ゲンダイの記事より)

 あはは、いっそ11なんて遠慮せず、「提言1100」とか出してはいかが。いや、そこまでいくとさすがの国民もあほらしさに気付くので、もったいぶって数を絞ったのかな。

 

◇◇◇国民は幼稚園児か?◇◇◇

 尾木教授によると「言ってることは間違っていない」そうだが、私などは「そうかなあ」と思ってしまう。nizanさんではないが、それこそ突っ込みどころ満載。私もちょっとだけやってみると……

○子守歌を聞かせ――――→音痴の親はどうするの? それから……子守歌、って何よ? モーツァルトの『魔笛』とかじゃダメなんですか?

○父親もPTAに参加。子供と対話し教科書にも目を通す――――→私は母子家庭で、父親いなかったんですけど……(お父ちゃまとお母ちゃまとが揃ったのが健全な家庭、みたいな雰囲気には、ほとんど反射的に違和感覚えるのだよね)。あ、それから私の友人達は父親であれ母親であれ子供とそこそこ話もしているし、教科書も読んでますよ。なかなかできない人もいるけど、それは本人がやりたくないのではなく、泣く泣く単身赴任したりしているから。さては安倍首相はじめ政治家の皆さんや、有識者のセンセイがたは、そういうことやってなかったのだな。

○テレビでなく演劇など鑑賞――――→会議メンバーのかたがたは、よほどくだらないテレビ番組しか御覧にならないらしい。いい番組もたくさんありますがね。子供向けアニメだって(私は子供がいないのでよくわからないが……)いいものがいくらでもあるだろう。だいたい、「演劇など芸術」と平然と言う神経がいやらしい。

○自尊心が低下しないよう――――→疑問を持つ子供に対して頭ごなしに国旗国歌を強制するのは、自尊心を傷つけないんでしょうか? それにしてもこの項目は、ほんと、具体的にはむろんのこと、抽象的にも何言いたいのかわかりません。

 だが何よりも一番胡散臭いのは、「早寝早起き」だの「あいさつ」だの、それ自体は別に悪いことじゃないよなということ、ただし国から言われるこっちゃないだろ、ということをシャアシャアと「提言」していることだ。親戚のジイチャンから言われるなら、そりゃかまいませんよ。「はいはい、その通り」と頷きます。私は子供の頃から夜型で、今でも遅寝遅起きの方だけれど、日の出と共に起きて早く寝る生活の方が昼行性動物には健康的なんだよなぁ、イカンなぁ、とは思う。ましてや小さい子供は、できれば早寝早起きした方がいいのだろう。

 しっかし!! そんなことまでいちいち国が言うな、と私は断固として思う。国民は幼稚園児ではない。いや、幼稚園児扱いされているのかな? いちいち細かく注意されないと何も出来ないと思われているのだと気付いて、国民は怒るべきだ。

 

◇◇◇地獄への道は善意で敷き詰められている◇◇◇ 

「この11の提言を大きなお世話、と一蹴したいところですが、大きなお世話は善意から出ているのに対して、これは善意どころか極めて悪意で意図的に出されたものだ、といっても言いすぎではないような気がします」と、静かな口調の中に骨っぽさを滲ませてとむ丸さんが書いておられた。(「宗教色の強い倫理観」の恐ろしさについて考察した5月1日のエントリ)

 私は「大きなお世話」は必ずしも善意からのものばかりとは限らない(善意の衣を着た悪意、もしくはマイナス感情に基づくものも多々ある。たとえば出る杭を打つという大きなお世話も、世の中には多いのだ)と思っているが、それはまあどうでもいい。ひとつひとつの項目は「単なる思いつき」としか見えないほどあほくさいが、その背後には確かに意図的な臭いが漂っている。

 いや……このすさまじいお節介は、ある種の善意なのかも知れない(と、ふと思った)。幻想の「古きよき日本」に憧れ、その世界に回帰することが善だと信じ込み、国民はバカだから幼稚園児のように手取り足取り指導してやらなくちゃ、と思い込んでいる、そういう類の「善意」。やっぱり道徳って大切だよね、道徳観を広めなくちゃねと思っている、そういう類の「善意」。国民は国を守るのが当然で、それによって幸せになれるのだと思っている、そういう類の「善意」……エトセトラ。善意は必ずしも正しい方向に働くとは限らない。たとえばカルト宗教の信徒が人に入信を勧めるのも、掛け値ない善意からであったりする。だから怖いのだとも言える。

 いずれにせよ、為政者(をはじめとする、権力を握った者達)が道徳だの倫理だのと言い出すことほど恐ろしいことはない。それを言い出した時、彼らは支配される側の心までを縛ろうとしているのだ。いや、むろん「上の人間」は、常に人々の心を縛ろうとしているのだから、その方向に露骨に走り始めたと言った方がよいだろう。道徳も倫理も「個人」のものである。国がシタリ顔に説教することではない。

 

◇◇◇◇◇◇ 

※教育再生会議の提言に関連したエントリ: 「ボランティア体験の義務づけ??」 「『態度を養う』怖さ――外相を整えさせられまい」

 戸倉多香子さんを応援しています(民主党は支援していませんが……とくらさん、ごめん。でも、だからこそ、民主党をもう少し何とかしてもらうためにも)。

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『集団的自衛権の幻想』を読む

2007-05-01 01:09:18 | 戦争・軍事/平和

 TBいただいたエントリを中心に、時々覗かせてもらうブログの記事をまとめて読んだ。時には自分は少し考え方が違うと思うものもあるが、いずれにせよモノを考えていく手掛かりを得られる記事ばかり。知識だけでなく視点を含めて新しいことを教わる場合も多々で、なるほどなぁ、といつも感心しながら読む。他者が考えていることを聞く(読む)のは、ほんとうにおもしろい(※)。

※訪れて下さった方へ。TBエントリの中で未読のものがあれば、ぜひご一読を。私はコメントは基本的に削除しない方針だし、TBもあまり削除しない(ただし、あまりに場違いなものや、読んで私自身が全然おもしろくなかったものなどは削除する。むろんおもしろさの基準は私が同意できるかどうかではない。意見が違っても、考えさせられたものは残す)。もっともきちんと読めない日も多いので(だいたい、PC立ち上げてもやるのはメールチェックだけ、という日も少なくない)、何だこりゃ的なTBを何日も放りっぱなしにしていた、などということもよくあるのだが……そのあたりはまぁ御容赦のほど。

◇◇◇◇◇◇

 今夜は「反戦老年委員会」ましまさんの『集団的自衛権の幻想』というエントリを紹介して、簡単な感想などをメモしておく。本当は紹介したいものはたくさんある。自分の記事書いてるより、おもしろいエントリをできるだけ多く紹介したほうが役立つぐらいなのだけれど。

 同エントリは、【そもそも「集団的自衛権」という言葉ができたのは、「国連憲章」をつくった時である。どういう意味かということは、後に述べることにして、この権利が本来の意味で行使されたことは、私の記憶する限り一度もない。いま問題なのは、本来の意味からはずれて、たとえば、日米同盟を相互防衛条約化するための虚飾の道具に使われようとしていることである。】という書き出しで始まる。

 そして【戦争とは、ほとんどすべての場合「自衛のためやむをえず」開始されるものだ。】と続き、国連憲章では「あらゆる武力行使は違法、という大原則が打立てられ、自衛でさえ武力行使を認めていないことを明快に述べる。

その上で、国連による集団的安全保障措置がとられるまでの間、緊急措置として個別の自衛権を行使するのはやむをえない、という例外規定が各国間の調整の中で生まれてきた。そこへ「集団的自衛権」という概念を持ち込んだのがアメリカである。

 もともとは中南米諸国が侵略に備えて共同で防衛しようという発想で生まれた概念だったものを、アメリカはとんでもない「拡大解釈」をおこなった。

世界で飛び抜けた軍事力を持つ最強国と、戦力不保持をうたった憲法を持つ日本というアンバランスな2国間の組み合わせが、果たして「集団」と言えるだろうか】と、ましまさんは苦い口調(という感じ)で語る。そうです、集団ではありませんね。

◇◇◇◇◇◇

 圧倒的な武力を背景にした大国のごり押しさえ、「自衛」と解釈する倒錯した世界。たとえは悪いが、マンションの一室に事務所を構えたヤクザ組織が、「住民が団結してしまうと追い出されるから」と言って、そうなる前に先手を取って住民を脅し、放っておくと面倒になりそうな住民を追い出す――それもヤクザの側からしてみれば、立派な自衛だろう。内部告発しようとしている社員に圧力をかけるのも、会社の側からすれば自衛なのだろう。強者の自衛、というのもあるのだ。

 その「強者の自衛」(何と矛盾した言葉!)への参加を日本は強制されている。いや、日本の為政者達は、それに喜んで参加しようとしている。強きを助け、弱きをくじくなんて最もみっともないことのはずなのだが……。

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