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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「死刑廃止」バダンテール演説全訳について

2006-10-18 21:10:54 | 死刑廃止/刑罰

 1981年9月17日、フランス国民議会の死刑廃止法案審議におけるロベール・バダンテール法務大臣(当時)演説全訳がアップされています。ぜひご一読ください。

 

◇◇◇◇◇◇

  luxemburgさんから「死刑廃止」問題をリレー形式で考えてみないかという提起があり、それに参加させていただいた。

第1回「とりあえず

第2回「お玉おばさんでもわかる政治のお話

第3回「とむ丸の夢

第4回「華氏451度

第5回「doll and peace

第6回「薫のハムニダ日記

第7回「とりあえず」(村野瀬玲奈)――リレーエントリのまとめ

第8回「喜八ログ」――バダンテールの演説について

 このリレー・エントリは、以前から何度か死刑廃止問題に関する記事を書いておられたluxemburgさん宛てに、村野瀬玲奈さんがロベール・バダンテールの演説を訳して送付されたことに端を発する。死刑廃止の問題は社会のあり方や、モラルとは何か、命とは何か等々を考える時に避けて通れない問題のひとつであるが、私自身は自分のキャパシティを超えている気もしてこれまで積極的に触れたことがない。だから軽く声をかけられた時にも「はあ?」という感じだったのだが、紹介されたバダンテール著『そして、死刑は廃止された』(藤田真利子訳、作品社刊)を読んだり、雑誌等に載った論考や資料をひっくり返して読み直すうちに、「多くの方と一緒に考えるための手掛かりを提出」する目的で書いてみようか、という気になった。

 私のエントリはしばしば代理をさせる牡猫ムルなどを登場させてしまったので、不真面目だと顔をしかめる方もおられたかも知れない。現に「さまざまな死刑廃止論をオチャラケで紹介するのが目的なら……」といったコメントもあった。せっかくのリレーエントリの雰囲気をぶちこわしてしまったとすれば、他のかたがたに申し訳なく思う。ただ私は、重い問題を深刻な顔で語るばかりでは自分自身次第に気分的な余裕が失われるので、なるべく肩の力を抜き、できれば時にはつまらない冗談なども言いながら、日常的な表情で語りたいという思いも強いのだ。その試みのひとつということで、どうか御容赦いただきたい。

 ともあれ今回のリレーエントリはいったんゴールにたどり着き、村野瀬さんの好意で全訳が公開されることになった(冒頭で紹介したもの)。村野瀬さん、ありがとう。貴重な資料のひとつとして、皆さん、ぜひ参照していただきたいと思う。

◇◇◇◇◇

愚樵空論」「アルバイシンの丘」「美しい季節とは誰にも言わせまい……」「Die Weblogtagesschau laut dem Kaetzchen」などのブログでも、死刑廃止論が展開されている。リレーエントリのほか、これらのブログもお読み下さい。自分自身が考える手掛かりになります。

◇◇◇◇◇

 リレーエントリは、Under the Sun でも参加したことがある(私は人数合わせに誘われれば、何でもすぐ参加する腰の軽い人間なのだ。笑。いや、むろん私自身の中に課題として存在するテーマなら、ということであるが)。だが今回はその時と異なり、主題がするどく求心円的であったので、参加しながらもどうなることかとハラハラしていたが……まとめから全訳公開にまで至って、「これもブログの新しい試みだなあ」と幾分か確信めいたものを持った。

 皆さん、これからも時にはいろいろなテーマについて、複数でリレー風に書いていきませんか。

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続・死刑廃止は多数意見?&「誘導的な質問」というもの

2006-10-15 22:33:30 | 死刑廃止/刑罰

〈死刑存置は圧倒的多数意見ではない〉

 先日、「死刑存置は本当に多数意見か」という記事を書いた。これはその、いわば補足である。

 一般によく「死刑については存続を望む声が圧倒的に多い」と言われるが、記事の中で私は2004年に内閣府がおこなった世論調査に触れ、「必ずしもそうは言えないのでは」と疑問を呈した。詳しいことは前記のエントリを見ていただけばよいが――

「存続か廃止か」という二者択一の質問に対する答えだけ見れば、廃止は6.0%、存置は81.4%(残りは「わからない」または「一概に言えない」)。つまり圧倒的多数なのだが、私が注目したのは二者択一の後の、「将来的には死刑を廃止しても良いか」という質問に対する回答である。「将来も廃止しない」つまり「絶対に死刑は存続させるべき」という人は50.2%だった。そして、「すぐさま廃止」「将来的には廃止」の人は合計5.6%。「将来的に廃止してもよい」という人は25.9%(残りの18.3%は「わからない」「一概に言えない」)。

 何らの先入観も偏見も疑いも持たずに数字だけ見れば、誰でもこういうふうに読み取れるだろう。

○「死刑は絶対に無くしちゃダメ」という人は2人に1人。

○「将来的には廃止してもいいな」と思っている人は4人に1人。

○積極的な廃止論の人と消極的な廃止論の人を合わせると、「廃止の方向で考えている人」は3人に1人ということになる。

 同じことを繰り返すのは気が引けるが、「絶対存置が圧倒的多数意見」というのは明らかに間違いだし、廃止論が特異な意見でもないことがわかるだろう。残りの人は判断を保留しているわけだが、「まだ意見が固まっていない」人は、それぞれの意見をよく聞いてじっくり考えようという場合が多い(むろん中には、さまざまな事情や思想信条上の理由から、今この問題は論じたくないという人もいる)。死刑廃止は一部の人間のヘンな意見でも何でもなく、充分に話し合い考えていくことのできる課題なのである。

〈誘導的な質問というもの〉

 前出の記事の中で、私は「世論調査には質問自体に誘導性がある」という辻本衣佐氏の指摘を紹介した。その部分をもう1度掲載しておこう。

「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」(世論調査における質問)
●どんな場合でも死刑は廃止すべきである
●場合によっては死刑もやむを得ない
●わからない・一概に言えない
 
【死刑廃止の選択肢には、「どんな場合でも」、「すべきである」という表現を用いて、弱い死刑廃止支持者が排除されやすくなっているのに対して、死刑存続の選択肢には「場合によっては」、「やむを得ない」という表現を用いて、弱い死刑存続支持者も取り込まれやすくなっており、死刑存置への傾向が強い選択肢となっているといえる】(辻本氏)
 
 この後で私は「誘導性のある質問」の例をちょっと作ってみたりしたが、納得できない方もおられるようなので、もう1度だけ例を考えてみたい。
 
〈「必ず……べき」と言い切れる問題は少ない〉
 
質問1.癌などの病気を本人に知らせることについてどう思いますか
 
A.どんな場合であっても、必ずすべてのことを知らせるべきである  B.事情や状況によっては、知らせることができなくてもやむを得ない
 
質問2.日々の生活の中で嘘をつくことについて、どう思いますか
 
A.どんな場合であっても、嘘をつかず、必ず正直なことを言うべきである  B.事情や状況によっては、正直なことを言わなくてもやむを得ない
 
質問3.暴力についてどう思いますか
 
A.どんな場合であっても、人を殴ってはいけない  B.場合によっては、人を殴り倒してもやむを得ないことがある
 

質問4.借金の返済についてどう思いますか

A.どんな場合であっても、借りた金は必ず返すべきである  B.事情や状況によって、返せなくてもやむを得ない

 いかがですか。私はすべて「B」です。たとえば質問1.私は病気に関してすべて本人に知らせるのが当然だと思うが、それは言ってみれば「原則」。本人が認知症の場合はどうするんだとか、5歳の子供だったらとか考えると「必ず、すべて……」とは言えないよなあと思ってしまう。それに、世の中には「(自分の病気を)知らされない権利」を主張する人もいるのだ。

 質問2。嘘をつくのは悪いに決まっている。しかし、人に心配させないために嘘をつくっていうこともあるし、商店の人がお客に嘘に近いお世辞も言うなんてことはよくあるだろうし……なあ。ヤクザの兄ちゃんに「てめえ、オレのことを笑っただろう」とスゴまれた時、正直に「はい、笑いました」と言うのは怖いしなあ。

 質問3。私はむろん、人に暴力をふるうのはよくないことだと思ってる。しかし夜道でひったくりに遭ったら、殴り倒して奪い返すかも知れない。

 質問4。念のため言って置くが、私は借金を踏み倒したことはない(大金を貸してくれる人間はいないので、せいぜい財布落としたから1000円貸してくれ~という程度だが……)。でも、返そうと思って必死になっても、どうしても返せないこともあるだろうな、というぐらいはわかる。

 何だか妙な話になったが、言いたいのは人間にとって「どんな場合でも、必ず」と確信を持って言い切れる問題は少ない、ということである。特に普段あまり深く考えていない問題や、あまり身近でない問題の場合は、責任を持って「どんな場合でも必ず」と断言するのに躊躇する(もちろん、身近な問題として深く考えているがゆえに、言い切れないというものもあるが)。

 死刑についてであれば、私は「どんな場合でも廃止すべきである」と答える。しかし、そこまで強い言い方をされると迷ってしまう人が多いと思う。「死刑は廃止したほうがいい」と思っている人でも、「……やはり……例外もあるかも……」と、つい考えてしまうのではあるまいか。だから「場合によってはやむを得ない」になるのだ。その人達が81.4%。「死刑存置」は積極的な存置論者以外に、多くの「場合によってはやむを得ないかも派」を含んでいるのだ。

 以前、何度か「世論調査(の危険性)」について書いた覚えがある。調査というものは、常に答えを一定方向に誘導することが可能である。もっとも、私は「だから信用できない」と決めつけはしない。「結果」の読み方、数字に表れている以外のものの読み取り方で、私達は多くの情報を得ることも出来るのだから。

 

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死刑存置の希望は本当に「多数意見」か

2006-10-10 00:45:58 | 死刑廃止/刑罰

 luxemburgさんの「とりあえず」で始まった「死刑廃止問題リレーエントリ」が、「お玉おばさんでもわかる政治の話」→「とむ丸の夢」→「華氏451度」→「doll and peace」→「薫のハムニダ日記」の順に続き、ほかに「愚樵空論」「アルバイシンの丘」その他のブログでも同じ問題についてそれぞれの意見を書かれている。死刑の問題は、社会のあり方を考える時に、好むと好まざるとにかかわらず1度は考えさせられてしまう問題。多くの方と共に考えていきたい。

 

〈死刑存続は本当に「多数意見」か?〉

「死刑存続は、日本の中では普通の意見」というコメントがあった。普通というのが何を指しているのか正確にはわからないが(注1)、おそらく「大多数の意見」ということだろう。

注1/私自身もよく「普通の」とか「庶民的な感覚では」などと書いてしまうのだが、本当は「普通とはどういう意味か」を考えた上で使わねばならないと、これは自分自身への戒めとしても考えている。ある事柄について全国民の50%以上の意見が一致すれば「普通の意見」なのか。もっと多く――3分の2なり80%に達してはじめて「普通の意見」と言えるのか。また過半数を占めたとしても「中高年層はほとんどが同意、若い層はほとんど非同意」だったとすれば、それは「普通の」と言えるのか。さらに言うと我々は自分のよく知らないことについては「いったん意見を保留」するわけだから、一般にまだあまり知られておらず、切実に考えている当事者の少ない問題の場合にはハッキリと賛否を表明する人は少なくなる。だがそのハッキリした意見を、賛否どちらであれ、一概に「普通ではない」と言えるのだろうか。

 ともかくそういうわけで、「大多数の意見なのかどうか」をちょっと考えてみたい。

 死刑に対する世論調査は、総理府または内閣府が今までに8回おこなっている。そのほか東京新聞、テレビ朝日、読売新聞、NHK、フォーラム90が実施した調査もある。政府による調査の結果は下記の通り(表は死刑廃止キリスト者連絡会のサイトからコピーさせてもらった)。

 年  廃止  存置 その他
1956年  18.0%  65.5%  17.0%
1967年  16.6%  70.5%  13.0%
1975年  20.7%  56.9%  22.4%
1980年  14.3%  62.3%  23.4%
1989年  15.7%  66.5%  17.8%
1994年  13.6%  73.8%  12.6%
1999年   8.8%  79.3%  11.9%
2004年 6.0% 81.4% 12.6%
 
【将来的死刑廃止について】
 年 すぐに廃止 将来に廃止 将来には廃止してもよい 将来も廃止しない その他
1989年  4.3%   10.3%  10.4%  51.1%  24.0%
1994年  5.9%  7.1%  39.3%  29.2%  18.6%
1999年  3.7%  4.6%  30%  44.8%  11.9%
2004年  2.4%  3.2%   25.9%  50.2%  18.3%
 
(枠にどうしても入りきらず、妙なところで数字が切れている。その他のところは上から24.0、18.6、11.9、18.3、である。読みにくくてすみません)
 
 確かに「廃止か、存続か」という点だけ見れば、廃止賛成者は少数である(ただし極端に少ない、特殊意見とは言えない。最も少数だった2004年の調査でも、100人中6人は廃止に賛成)。だが、同時に挙げた「将来的死刑廃止について」の方を見ていただきたい。「すぐに廃止」「将来は廃止」「将来、廃止してもよい」を合わせれば、31.5%の人が「廃止に賛成」または「よりよい方向を模索し、それがみつかれば死刑を廃止してもよい」(廃止について前向きに考えてみたい)と思っていると言える。
 逆に「将来的にも廃止してはいけない。存続させるべき」と思っている人は50.2%である。つまり2人に1人。やはり「ごく普通の意見」とは言い切れないだろう。少なくとも、圧倒的多数でも何でもない。
 
 
〈質問の誘導性〉
 
 2004年の世論調査については、死刑廃止委員会『年報・死刑廃止』2005年版(インパクト出版)に「死刑と世論――2004年世論調査を中心に」(筆者は明治大学法学部講師・辻本衣佐氏)という興味深い一文が掲載されていた。それによると、質問そのものに誘導性が見られるという。
 
 世論調査票の質問をそのままここに挙げると――
 
「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
●どんな場合でも死刑は廃止すべきである
●場合によっては死刑もやむを得ない
●わからない・一概に言えない
 
 辻本氏はこの点を取り上げて、次のように述べている。
 
【死刑廃止の選択肢には、「どんな場合でも」、「すべきである」という表現を用いて、弱い死刑廃止支持者が排除されやすくなっているのに対して、死刑存続の選択肢には「場合によっては」、「やむを得ない」という表現を用いて、弱い死刑存続支持者も取り込まれやすくなっており、死刑存置への傾向が強い選択肢となっているといえる】
 
 いわゆる調査の類が常に誘導性を含むことは、皆さんよくご承知だと思う。ごく身近な(かつ思想信条とは直接関係のない)ことで例を作ってみよう。「親が病気になった時、子供は面倒をみるべきか」という質問をして、できるだけ「みるべき」の方に票を集めたいと思ったら、私はたとえば次のような質問を作成する。
1.親が病気になったら、子供として、出来る限りのことをしてあげたい
2.親が病気になっても、子供が面倒をみる義務はない
3.わからない
 
 逆に「みるべきとは言えない」の方に票を集めたければ――
1.親が病気になったら、子供は何をさておき、面倒をみるべきである
2.親が病気になったとしても、状況によって必ずみるべきとはいえない
3.わからない
 
 咄嗟の思いつきで作ったのであまりいい質問ではないが、何となくわかるでしょう。
ともあれ、調査というのは質問の仕方ひとつで、かなりの程度に結論を左右することが出来るのだ。だから死刑廃止に関する世論調査に含まれた誘導性もよくわかる。世論調査の結果を踏まえてうんぬんする時は、質問項目自体にも言及する必要があるだろう。
 
 ただ、そういう誘導があってさえ――「絶対存置」論者が半数だったというのは、私には希望の持てる話のように思える。むろん「誘導性などない。そんなのは歪んだ見方だ」と主張する人もおられると思うが、そういう人でも最低、「死刑は絶対に廃止しちゃいけない」という人が圧倒的多数でないことぐらいは認めざるを得ないはずだ。
 
◇◇◇◇やや本論から離れて◇◇◇◇

〈想像力の欠如ということについて〉

 私の記事に対してもいろいろなご意見が寄せられた。気になる意見はいろいろあるが、それらに対してなかなか丁寧に返事できない。コメントを書いて下さった方々には御容赦いただきたいと思っているが、1つだけ、新しいコメントの中にあった言葉に対して返事を書いておく。

【不謹慎承知で言うけど、死刑反対論者の家族全員を、中世の拷問並みの惨たらしい殺しかたされても、そいつらは死刑に反対するのかねぇ】(久々さん)

上記のコメントに対して――
【そんなもんできるわけないでしょ。死刑制度の原点はここにあるんですね。反対論者は意識を相対化することが出来ねーんですよ。自分が被害者やその家族には絶対ならないという決め付けけが彼らをとても固い鎧で防衛してるのでしょう。つまり観念の世界でのみ自分が主人公になれるという、アレですよ】(ホワイトさん)

 記事を読んでコメントしてくださっているはずですが――私は記事の中で、池田浩士氏の次のような言葉を紹介しました。

「死刑廃止を考え、また口にも出すとき、そのつど逃げることの出来ない自分自身への問いがあるとすれば、それは、おまえの大切な人を無惨に殺害した犯人が死刑になる時も、おまえはそれに反対するか――という問いかも知れない」

 むろんこの問いは、何年かかってもすっきりとした答えを見つけられないほどに重いものです。私自身、他者に対して激しい憎悪を抱きやすい人間ですし、復讐心も強い。実生活でひどい目に遭えば、首絞めてやろうかと思うほど相手を憎みもします。大切な人を酷たらしく殺されれば、おそらく生涯許してやるものかと憎悪するでしょう。しかし……相手を死なせれば、それによって時間が事件の前に巻き戻され、殺された人間が生き返るわけではありません。

 自分が被害者やその家族には絶対にならない、などとは思っていません。いつ被害者になるかも知れない。たとえば自分の母親が、自分の親友が、強盗殺人や通り魔殺人の被害者になるところを、私は自分の中で何度も想像してみました。想像するだけで恐ろしい場面であり、それこそナイフ持って飛び出しそうな自分の姿にも想像が及びました。今でも正直なところ、そうなった時に相手を許せる自信はありません。ただ……「国家の手で殺して貰ったって、何も解決しない。私の憎しみも消えず、死んだ者は生き返らない」と髪をかきむしるでしょう。では自分も殺人者になって、相手に復讐するのか。それもまた、(殺した瞬間は激情のために喜びの声を上げたとしても)むなしい、かなしいことではないか。

「アレですよ」って、ホワイトさん、何が「アレ」ですか。人を小馬鹿にしたようなものの言い方は困りますね。他のブログなら、おそらく削除されるでしょう。私は意固地なのでまだ削除しませんが、コミュニケーションの場で使うのにふさわしい言葉とは思いません。 

 

 

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麗子と玲奈の「手探りで死刑を考える」4軒目

2006-09-28 05:58:28 | 死刑廃止/刑罰

luxemburgさんの所に死刑廃止に関するロベール・バダンテールの演説の翻訳が送られたことに端を発し、何となくの雰囲気でブロガーの間に連載エントリが生まれた。おみゃーもやってみろよ、と言われ、腰軽く乗った結果がこれである。

◇◇◇◇開幕――

 西園寺邸から始まって、お玉屋敷とむ丸邸と続いた「死刑廃止論行脚」4軒目。麗子、玲奈、ばあやの3人組は、今回は東京都のはずれにやって来た。さびれた商店街を抜けると雪国……じゃなかった、殺風景な灰色っぽいマンションが建っている。そのエントランスに足を踏み入れかけながら――

ばあや:(レースのハンカチで汗を拭きながら)お嬢さま、玲奈さま。いろいろな方のお宅を訪問して死刑廃止の問題をお考えになる、というのは結構でございますよ。ばあやも大賛成でございますけれども、何もこんな所まで足を運ばれなくても……。お玉さんやとむ丸ちゃんのママと、もう充分にいいお話ができたことですし。

麗子:でも、お約束してしまったんですもの。疲れていたら、今日はばあやはご遠慮する?

ばあや:そんなわけには参りません! 特に華氏さんとやらは、例の下品な猫の友達だそうじゃございませんか。お耳を汚すような言葉など口にされませんよう、私が睨みをきかせておかなければ。

玲奈:正直申しまして、今日の方とのお話は、あんまり成果は期待できません。専門的な知識など全然お持ちではありませんし、その上「いくじなし宣言」などというものをされている頼りない方ですしね。でも死刑廃止論の迷宮をたどるには、一筋のアリアドネの糸だけを頼みにしてはいけませんでしょう。存在そのものがカオス、みたいなわけのわからない人にも1度ぐらいは会ってみる価値があるかもですわ。……ささ、入りましょう……。

(などと3人が気乗りしない顔を見合わせて小さなため息をついた時、植え込みの陰から「おっ待ったせ~。ごめんごめん」という調子外れの声)

麗子&玲奈:きゃああああ

ムル:そんな変な声出さないでよお。麗子ちゃん、お久しぶり~。いつも綺麗だね~。玲奈ちゃん、初めましてッ。

(しなやかな身ごなしで飛び出した、顔見知りのノラ猫。その後ろから、一回り小柄な若い猫がはにかむような笑顔を覗かせる)

ばあや:ま、また問題猫が……。シッシッ。お嬢様、玲奈様、こんな変な猫は無視して、さっさと参りましょう。

ムル:待った待った。今日、話のお相手するのはおいらなんだぜ。

麗子&玲奈&ばあや:ええええええ~!! 華氏さんとやらはどうしたのよ。

ムル:けけけ。あいつはね、珍客を迎えるってんで朝からシャカリキで掃除始めたんだけど、柄にもないことするから持病の胃痙攣起こしやがったの。つくづくバッカだよな~。で、またおいらに代役してくれってさ。今日は相棒も連れて来たぜ。ほら、トマ、ぼーっとしてねぇで挨拶しろよ。

トマ:(目をパチパチさせながら)初めまして……僕、トマシーナといいます。華氏んちの居候で、ムル兄貴の弟分です。こんな辺鄙な所に、よくいらっしゃいました。

麗子:まぁ、可愛い~。ムルとは随分違うわね。

トマ:華氏がご用意していたお華氏……じゃなかった、お菓子を持ってきました(と、傍らのバスケットを前足で叩く)。召し上がりながら、兄貴とご歓談くださいませ。

ばあや:ご、ご歓談って……ここで?

ムル:あそこの公園で。ピクニックみたいで感じいいじゃん?

……ということで、公園の片隅の四阿に陣取り、ドドールの紙パック入りコーヒーと、3袋まとめて1000円の安物のクッキーを前に置いて3人と2匹の奇妙なお茶会が始まった。

◇◇◇◇◇◇◇

麗子:先日は、とむ丸ちゃんのママさんと有意義なお話をしましたの。ママさんはロベール・バダンテールの演説を読んで感激なさったんですって。

ムル:華氏も一応、読んでたよ。あ、玲奈ちゃん、翻訳のお礼言っておいてくれってさ。あとバダンテールの『そして、死刑は廃止された』も読んでね。あいついい加減な奴だけど、それでもしばらく考え込んでたぜ。で、おいらも付き合って一晩中、死刑廃止について話をしたんだ。あいつとおいらの意見はベクトルがだいたい一致してるから、充分に代理が務まると思うぜ。バダンテールさんって言えば、あの人、14年前に日本に来たことがあるんだよね。

玲奈:ムル、あなた、その時のことを知っているわけ?

ムル:やめてくれ~。まだおいら、生まれてるわけねぇだろ。猫の長老に聞いたのッ。その時に通訳をした鵜飼哲っていうフランス文学の研究者がね、バダンテールにこう言われたんだって。「ここ(日本)はこんなに犯罪率が低いんだから、死刑なんて、何かの間違いで放置されてるだけなんじゃないの?」。日本で死刑が存続していること自体、驚きだったみたいだね。「死刑は廃止しましょう」だけじゃなくて、「なんでまだ、死刑なんていう前時代的な変なものがあるの?」という問い掛けも大事だと思うよ。

玲奈:バダンテールさんの演説の、どの部分に感銘を受けました?

ムル:全部……というのが正確だけど、そうだなぁ、特にここんとこが印象に残ってるね。

【自由の国ではほとんどあらゆる所で、死刑廃止が規則になっております。独裁制が支配する国ではどこでも、死刑が実施されています。世界のこの色分けは単純な偶然の一致ではなく、ひとつの相関関係を表しているのです】

玲奈:続けてバダンテールはこんなことを言ってますわね。国家は市民の命を奪うところまで、市民を意のままにする権利を持っている。――死刑はそういう考え方に由来しているのであり、ここに死刑の本当の政治的な意味があるのだと。確かに、これは死刑を考える時の「核」ですね。国家に対して、命を奪う権限まで与えるのかどうか。国家は国民を誰彼かまわず殺すわけじゃないけど、国の制度が国民と国家の関係を象徴しているとしたら、死刑がある国は民主主義ではなくて全体主義、独裁制が支配していることになる、という考えには頷けますわ。

ムル:権力は限りなく肥大して、常に一人歩きする危険性を孕んでいる、ってことじゃぁねえの? だからこそ厳しく縛っとく必要があるのにさ、人間はそういうこともわかんねーのかなあ……。おいらたち猫の世界の方が、よっぽどまっとうだぜぇ。国旗・国歌もねぇし、国境もねぇし、死刑もねぇしよ。

ばあや:カンボジアが死刑を廃止したのは、ポル・ポト政権下で虐殺を経験し、国家にそういう手段を持たせてはいけないと思ったからだといわれておりますわね。

麗子:そう言えばドイツの死刑廃止(厳密に言えば死刑廃止の復活)も、背景には第二次大戦下のジェノサイドに対する反省があったと言われておりますし。

トマ:(クッキーを頬張りながら小声で)じゃあなんで、日本は死刑廃止しなかったのかなあ……。ジェノサイドはあったけど、自分の国の中でやったことじゃないから、ピンと来てないのかな?

玲奈:あ、この子、いいこと言うわね(と、トマの頭を撫でる)。

ムル:うぉっほん。死刑廃止運動を続けている安田好弘弁護士って人は、『現代思想』っていう雑誌のインタビューに答えてこう言っている(2004年3月号)。

【死刑があるかないかは、国家が何によって支配されているかということです。国家の強さの問題だとも思います。逆に言うと国家の中にいる市民がどれほど管理され統制された中で生活しているかなんです。高度に政治的な問題だと思います。】  

安田さんは死刑の廃止/存続は宗教的な背景とは関係ない、とも言ってるんだよ。国家の力があまり強くない所、武力で支配されていない国で、死刑が廃止されていく。イタリアは第二次大戦前に廃止してたんだけど、ムッソリーニが政権を取った時に復活したんだよね(現在は廃止)。ドイツの場合だってヴァイマル共和国の憲法で死刑は廃止されていたのに、第三帝国の時代にその条文が停止されたそうだしさ(現在は死刑廃止条文再生)。死刑ってのはさあ、国家が国民をひとつの方向に余念なからしめようとする時に出てくる制度、って気はするよな~。

麗子:よく、宗教の問題だという方がおられますけれど、あれは間違いなのね。

ムル:と、おいらも思う。ヨーロッパで廃止した国が多いのはキリスト教の思想との関係で、っていう人がいるけどさあ。キリスト教を背景にした死刑肯定論、てのもあるんだぜ。十字架の上でイエスは「父よ、この人達を赦してください。なぜなら彼らは自分のしていることを知らないのですから」と言った、と聖書に書いてあるそうだね。逆に言うと「自分のしていることを知っている人間」、つまり確信犯に対する赦しはない、なんて解釈する人もいるらしい。神学者とかの中にはさ。死刑は救済である、みたいなことをいう人もいるそうだよ。おいらは直接、会ったことないけどさ~。仏教徒でもイスラム教徒でも、それぞれの信仰する宗教に基づいて死刑肯定論を展開する人と、廃止論を唱える人がいるしさあ。宗教の話は切り離した方がいいと思うんだよな。純粋に政治的な問題に宗教だのを絡めるのは、フェアじゃねぇと思う。ヨーロッパで死刑を廃止した国が多いのは、国境を接した国々が血みどろの争いを繰り返し、人が人を殺すということの意味を痛切に考えさせられた果てにたどり着いた地平、って感じもする。言ってみれば、流され続けた膨大な血と涙であがなった地平、さ。世界は、その地平にもっともっと敬意払った方がいいと思うな。

玲奈:宗教以外にも、たとえば「特殊な文化的背景」論なども切り離した方がよくないかしら。「日本には、死んでお詫びするというメンタリティがあって」うんぬんとおっしゃる方がいますわねえ。あれも変ですわね。

麗子:ただ、問題は遺族感情というのですか、「加害者を許せない」と叫ぶ被害者遺族の気持ちですわね。これを強調されると、麗子はどう考えればいいのか当惑いたしますの。

玲奈:ええ、バダンテールも死刑廃止演説の中でそれに触れて「人間の自然な感情です」と言っていますね。そのうえで、「個人的報復を否定するのが歴史の流れ」と述べているわけですけど.……。

ばあや:そのことですけれど、お嬢様、原田正治さんという方が『弟を殺した彼と、僕』という本を出されています(2004年刊行、ポプラ社)。原田さんの弟さんはトラックの運転をしておられ、勤め先の社長・Hに保険金目当てで交通事故を装って殺されたのでございます。裁判では原田さんも証言台に立って「極刑を望みます」とおっしゃり、死刑が確定した時も「当然だ」と思われたそうです。でも、その後で拘置所から来たHの手紙を読んだりするうちに、会いたくなるのですね。直接、罵ってやりたいと思ったのだそうですが、彼が謝ってくれたことで気持ちが落ち着いた。許したわけではないけれど、直接謝罪の言葉を聞くことで、誰のどんな慰めよりも癒されたと原田さんは書いておられます。面会は4回にわたり、手紙のやりとりも続きました。2001年に死刑が執行された時、原田さんは「H君(と、加害者を君づけで呼んでいる。年齢は原田さんの方が少し上)の死で、僕の彼に対する憎しみや怒りは癒されるわけではない。でも、彼ともっと交流させて欲しかった」という意味のことを原田さんは書いておられます。

ムル:ばあさん、よく知ってるじゃーん。さっすが年の功。あっ、イテテ(ばあやに耳をつねられた)。ぼうりょくはんたーい。

玲奈:原田さんという方は、死刑廃止の運動をしておられますね。アムネスティの集会などで講演なさったり。死刑は被害者遺族を置き去りにするだけ。殺人を犯した人には、生きて、償って欲しいと思っておられるようですね。

麗子:愛する人を殺されたら、感情が激している時は誰だって犯人に対して「殺してやる!」と叫ぶと思いますわ。でも加害者を殺しても、被害者と共に過ごしていた生活が戻るわけではありませんわね。加害者が死刑になって溜飲が下がったというのは、関係ない他人が言うことですわねえ。対岸の火事、の感覚で。

玲奈:溜飲が下がったというのは関係ない他人が言うことって、その通りですわ。原田さんのような被害者の遺族が死刑反対の意思表示をすると、関係ない他人から「なんで死刑にしろと言わないんだ」という脅迫のような反応がくる、という話も聞いたことがあります。そういう反応、ちょっと悲しいですね。

ばあや:ただ、さっきも玲奈さんが言われました通り、人間の復讐心をどのように解決するか、という問題はありますね。ひどい目に遭ったら、恨みを晴らしたいという。身内や友人を無惨に殺された人間が苦労して仇を討つ、加害者を殺すという話は、古今東西たくさんあります。そして、喜んで受け入れられてもいるのでございます。

ムル:父親を裏切ったオフクロとその愛人に娘が復讐をする『エレクトラ』とか、愛する男を殺された女が1人ずつ復讐していくという『黒衣の花嫁』とかさ。それから世界中の神話でもお伽噺でも……たとえば……

麗子&玲奈&ばあや:ストーップ! このバカ猫!! 華氏さんの影響か知らないけど、本の題名とかをズラズラ並べるのは止めなさい!

ムル:へいへい。今日は3人もいるから分が悪いや。おいトマ、おまえ何笑ってるんだよッ。まっ、ともかく復讐譚はほんと多いし、結構いい話的に読み継がれてもいるよね。人間の中には、ひどい目に遭った時、「恨み晴らさでおくべきか」みたいな感情があるのは確かだと思う。ましてや身内とかが殺されたりしたら……。

麗子:憎悪し、殺してやりたいと思うのは当たり前?

ムル:そういう感情はあるだろうよね。それをいいとか悪いとかは言えないさ。麗子ちゃんたちも名前聞いたことがあると思うけど、池田浩士っていうドイツ文学の研究者がいてさ。この人は死刑廃止論者なんだけど、死刑廃止委員会が編集した年報とかで、いつも言ってることがあるんだよね。

【死刑廃止を考え、また口にも出すとき、そのつど逃げることの出来ない自分自身への問いがあるとすれば、それは、おまえの大切な人を無惨に殺害した犯人が死刑になる時も、おまえはそれに反対するか――という問いかも知れない】(上記年報2005年版・インパクト出版会刊行)  

ほんと……軽く答えることはできない問いだよね。おいらだって、たとえば愛している猫がおもしろ半分に人間に殺されたりしたら――と思うとゾッとするさ。随分前だけどね、おいらの友達の子供が浚われて、化粧品会社だか薬品会社だかの実験に使われて死んだことがある。その時おいらの友達は、一生許さない、(実験に携わった人間達を)殺してやりたい、と叫んで血のような涙を流し続けた……。わかるんだよ。憎悪で身を焼かれるような、その気持ち。たださあ……復讐心を心ゆくまで満足させることに合意したら、ヴァンデッタの世界になるじゃん。

玲奈:『Vフォー・ヴァンデッタ』?

ムル:それは映画!! おいらが言ってるのは、一族同士が何代もにわたって、血で血を洗う復讐を続けるというやつ。むかしコルシカ島にあったものとか聞いたことがあるけど、なーに、何処の国だって多かれ少なかれそういうものはあったと思うよ。父親を殺された息子なり娘なりが、相手を殺す。次はその子供達に殺される……。憎しみの連鎖、ってやつだよなあ。そういう連鎖を断ち切るために、人間は必死で宗教とか哲学とかをこね回してるんだと思うけどな。

麗子:個人の復讐は禁じた社会でも、「代わりに法の下で復讐してもらう」制度は残りましたのよね。永遠の報復合戦にピリオドを打つための方策、という方もおられますわね。

トマ:ねえねえ、個人的復讐の代替、って考え方はおかしくない? 復讐心は感情の問題だもん。法律にはなじまないよ……。

麗子:そうね。報復感情や憎悪や、人を差別する心や……みんな、私達がひとりひとり苦しみながら解決していかなければいけないんですわ。

玲奈:感情と言えば……とむ丸ちゃんのママさんが、「死の囲い込み」というお話をしてくださいました。カミュのお父さんがギロチンによる処刑を目撃した後、家に帰って激しく嘔吐したことなどを話され、「いま、処刑が目の前でおこなわれたら、私達の感性はどれだけ耐えられるでしょうか」って言っておられましたわ。公開されないから、私達は考えずにおれるのだと。

ムル:非公開性の問題だけど……日本でも、明治になるまでは死刑が公開されていたよね。むろん全部の死刑がじゃないけど。市中引き回しをして、河原で首斬ったりさ。キリシタンの磔なんかも公開されててさ。残虐な刑を見せることで「おまえらも犯罪を犯すと(おかみに逆らうと)こうなるぞ」と脅しつけたわけ。何処の国でも同じだけど。それを見て、カミュのお父さんみたいに耐えられない思いを抱く人もいただろうけど、その一方で、素敵な見せ物みたいに喜んでた人々もいると思うんだ。ほら、昔は村とか小さな集団の「私刑」ってのがあったじゃない。重大な犯罪じゃなくても、たとえば物を盗んだとか放火したとか姦通したとか……集団のモラルやルールに違反した人間を、生き埋めにしたり、村はずれの丘でしばり首にしたりさ。それを嬉々としてやった人々がいて、さらにその何倍何十倍も、ワクワクしながら見ていた人々がいるわけでね。彼らだって、今の麗子ちゃんたちと違う人間だってわけじゃないんだぜ。死刑を公開したとするじゃん? そしたら、それを楽しむ連中がいる……と言うよか、楽しんでしまうものが誰の心の底にも潜んでるんじゃないかとおいらは思う。実際に首を斬る役目の人は別としてさ、見ているだけの方は、自分が手を汚すわけじゃあないもん。今この瞬間だって、ネット上に残虐な写真が流され、それにアクセスして興奮する人間がいる。強姦願望を持つ人間や、単なる好奇心で人を殺してみたいという人間もいる……。

麗子:人間の中には、そういう残虐性もあるんだと言いたいわけですの?

ムル:うん。死刑の公開は、そういう残虐性をエスカレートさせてしまう危険性もないじゃない。むろん、近代以降多くの国で死刑が非公開になったのは別の理由だけどさ。とむ丸ちゃんのママも言ってるように「臭いものにフタ」って感じで隠してるわけだけどね。善良な庶民の皆さんには関係ありませんよって。市民の目から隠すのは、多くの人が近代以前のように「おかみの言われることは何でも正しい」とは思わなくなってるからかも。「おかみ絶対」じゃあない場合は、「見せしめ」のつもりで見せたものが逆の効果を生みかねないからね。ま、処刑の公開は国家の側にも市民の側にもリスクがあるということさ。ただ、さっき言った残虐性のことは、麗子ちゃんたちにも考えて欲しいんだ。自分の中のそれと向き合って、その上でひとりひとりがそれを昇華して欲しいんだよね。さもなきゃ戦争の放棄や死刑の廃止をしても、いつかまた、何かでうまく刺激されて「あいつを殺せ」の声が復活する危険性が残ると思うんだよな。

玲奈:うーん、バダンテール演説を読んで、死刑のない期間は殺人発生件数が減っていたということを知って、死刑という制度が人間の残虐性を拡大しているんじゃないかと私は思いました。

ムル:むろん、そういう面もあると思うさ。ただ、もともと存在しないものならば、刺激されも拡大されもするわきゃあない。

麗子:人間の残虐性……そんなものの存在など信じたくありませんけれど、あるんでしょうね……。

ムル:おいらみたいなご意見無用の野良猫が言うのは変だけどさ……人間てほんと、どっちに転ぶかわからない、危うーい生き物だと思うんだよな。自分の中にある衝動みたいなものをきちんと分析して、それを乗り越える哲学を持てるかどうか。それが人間が崇高な存在でいられるかどうかの境目だと思うけどね。あっ、哲学なんて言ったけどさぁ、カントが、サルトルが、ラカンが、なんてこと言ってるわけじゃあねぇよ(そうい言えばカントの死刑肯定論は有名だけどさぁ、彼の論理を突き詰めれば究極のところ、ぐるっと回って死刑否定論と重なったりするんだよな)。もっと……何というか、素朴な……生き物の倫理、みたいなものかな。そんな、むつかしく考えるようなことじゃないと思うんだよな……。

ばあや:日が傾いてまいりましたよ。お嬢様、玲奈様、そろそろお戻りになりませんと……。

麗子:そうね。じゃ、失礼しましょうか。

ムル:名残惜しいけどさー、泊まってもらうわけにもいかないし、じゃあこの辺でね。次も何処かに行くの?

麗子:ええ。ぷらさんのお宅にお邪魔しようかしらって。

ムル:ああ……あの人は感覚の鋭い人だからね。全く違う角度から、普通はなかなか気がつかないことをしゃべりまくってくれると思うぜ。華氏なんぞに会ってゴタク聞くより、ずっとおもしろいはずさ。こんなこと言うのはシャクだけどよ、華氏にしてもおいらにしても、所詮は小理屈をこね回してるだけさ。生半可な知識だの理屈なんざ弱いもんで、ひょんなことですぐコロッとひっくり返る。最後まで残るのは感性だけだって……いや、これは華氏がいつも言ってることだけどね。

トマ:(最後のクッキーのカケラを慌てて飲み込みながら)ばいばーい。また来てね。

麗子&玲奈&ばあや:(もう来るか、こんなとこ)

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国家の殺人――死刑に関する覚え書き

2006-06-25 23:25:22 | 死刑廃止/刑罰

 光市母子殺害事件の無期判決を最高裁が破棄したことに絡んで、このところブログ上で死刑に関する議論が目立つ。本当はきっちりと考えて書くべきテーマなのだが、「これから考えていくための覚え書き」として一応文字にしておきたいと思う(最近忙しいせいで、メモばっかりである……)。なお、 「とりあえず」のluxemburgさん、「愚樵空論」の愚樵さん、「徒然気儘な綴り方帳」のMcRashさんその他、私がよく訪れるブログで死刑廃止論が展開されている。私のメモよりはるかに緻密に書かれているので、そちらをご参照いただきたい。

 結論から先に書くと、私は死刑は廃止すべきだと思っている。たとえ対象者が「極悪非道な人間」であっても、死刑という方法で抹殺してはならないと。その理由を簡単に書き並べておこう。(死刑廃止論については多くの著書が刊行されている。法理論や諸外国の事情、死刑の歴史などをお知りになりたい方はそれぞれの本をお読みください。以下は私のごく個人的かつ素朴な考えに過ぎません)

〈殺人と復讐の正当化、および命の交換〉

 あたりまえの話だが、死刑というのは「人を殺すこと」、国家の手を借りた殺人である。どれほど言葉を飾っても、人殺しの正当化にほかならない。また、死刑というのは「国家の手による仇討ちの代行」の意味合いがある。「個人で復讐してはいけませんよ。代わりに国が復讐してあげますからね」というわけだ。つまり復讐の正当化という価値観に支えられた刑罰なのである。それは違う、と言う人もおられるかも知れないが、この手の議論ではすぐに「被害者遺族の感情」うんぬん、という話が出てくる。死刑は復讐代行の面もある、とみなされている証拠であろう。

 また、「人を殺せば(殺した人数や殺し方によって)死刑」という考え方は、裏返せば「自分の命と引き替えならば人を殺してもいい」という価値観につながる。実際、それを崇高なもののようにみなす考え方も昔からあるようだ。たとえば生還の可能性ゼロの刺客などは、「自分の命を投げ出して」という1点で美化されてきた。私は暗殺を全否定はしないけれども(時代や状況によって、それ以外に方法がないところまで追いつめられたケースもあったと思う)、人間は命の抹殺という手段の不要な社会を目指してきたのではないか。

〈遺族の感情について〉

 光市母子殺害事件は確かに残虐な犯罪であった。遺族が犯人を憎悪し、自分の手で殺してやりたいと絶叫するのは、ある意味で当然のことだと思う。ただ、殺害の方法や殺された人数にかかわらず、「身内を(あるいは近しい人間を)殺された人達」は同じような憎悪を抱くのも、また事実であると思う。車にはねられて亡くなった子供。無理心中させられた女性。医療過誤で亡くなった老人。……彼らの遺族は、加害者を殺してやりたいと泣き叫ぶ。そんなものは光市母子殺害事件の遺族・本村氏の絶望と比べれば大したことはない、と誰が言えるだろう?

 遺族の感情を思いやるならば殺人者は死刑にするべきだ――というならば、「殺した相手が1人だけであろうと」「いかなる殺害方法であろうと」そして「犯人に明確な犯意があろうとあるまいと」、人を殺せば死刑という単純明快な法律を作らざるを得ないのではないか。薬害エイズ事件の安部氏らも、有罪判決であったならば当然、死刑であろう(そう言えば川田龍平氏に、「私と一緒に死んでください」という言葉があった)。

 こんな言い方をすると語弊があるが、「誰に」「どのように」殺されようとも、死は死である。直接的であれ間接的であれ、また犯意があろうとなかろうと、人を死なせれば死刑になってもやむを得ない、と言える人はどれだけいるだろうか。

〈嗜虐心というもの〉

 人間の心の奥には、サディスティックな感覚や凶暴な衝動が潜んでいる(自分はそんなものはナイ、と断言できる人はおられるだろうか?)。人類はそれをよく自覚した上で、必死でそれを飼い慣らし、昇華させようともがいてきたはずだ。だが、私達はまだ存在として発展途上であるらしく、ともすれば悪魔的な歓びに身を任せてしまう。……と言ってしまうと大げさだが、要するに加害の楽しみについ浮かれるのである。むろん多くの人々は「善良な市民」であるから「犯罪行為」にまでは手を染めないが、正当な理由?があればたやすく浮かれてしまう。「正義の旗のもと」であればなおのことで、とどまるところを知らずエスカレートしていくのだ。泥棒を捕まえた村人達が「あいつを吊せ!」と叫んだ時。関東大震災の時(※1)に朝鮮人を囲んだ自警団が「あいつらを殺せ!」と叫んだ時。あるいは王城に乱入した反乱軍の兵士達が逃げまどう女を捕らえて輪姦した時。自分達は正しいことをしているのだという表の顔の陰に、嗜虐心がねっとりと滲み出ていなかっただろうか。死刑や拷問やリンチは、人間の心の奥に潜むサディスティックな感覚を刺激する。

 死刑はある意味で、いい「見せ物」である。対象となる人間は「極悪人、人」だから、安心して「処刑しろ」と叫ぶことが出来る。キリスト教徒がコロシアムでライオンの餌になるのを見るように、頬を紅潮させ、目を輝かせて見物する(実際に自分の目で見るわけではないが)ことができる。私達は私達の中に、「正義の名のもとに、人間を抹殺する楽しみ」を育ててはならないと思う。

※1/蛇足的註=関東大震災の混乱の中で軍が「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などのデマを流し、それに踊らされた自警団など(軍や警察も関与)の手で朝鮮人6000人以上が虐殺された。

〈犯罪者は癌細胞か〉

 犯罪者は、癌や畑の害虫にたとえられることがある。放っておくと大変なことになるから、除去してしまおうというわけだ。しかし癌でさえ、人によっては「それも自分の一部。なだめながら共生していこう」と考える。害虫の方は、害と思っているのは人間の一方的な価値観で、虫にとっては「なんで?」の話だろう(むろん害虫とも共生しましょう、と言っているわけではない。私も蚊は叩きつぶすし、家にはゴキブリ捕りを置いているが)。ましてや犯罪者は人間である。人間社会の中で「害」があるからといって、腫瘍のようにバッサリ切り取ればよいものではあるまい。

 犯罪は「なぜ起きるのか」「なぜ起きたのか」を分析し、起きないような社会を形成していくことが最も重要。それ抜きで「癌細胞」の排除にやっきになっている限り、無くなることはむろん、減ることもないだろう。

〈国家に人を殺す権利はない〉

 この項目は、異論のある方も多いかも知れないが……私は国家というものに懐疑的である(と言うとカッコ良すぎる。ありていに言えば、国家なんぞというわけのわからぬものが怖いのだ。※2)。できれば無くなるのが最もよく、しかし明日無くすわけにもいかず、今のところ生活していくために便利だからという理由で認めている「必要悪」に過ぎない。ところがこの必要悪は――実態のない砂上の楼閣ゆえだろうか、妙に意気込んでくれるから困るのだ。頼みもしないことに手を出し、虚の世界のくせに実の世界の住人達を締め上げようとする。そんな「国家という怪物」に、私は「人間を抹殺する権利」を与えるべきではない、と思っている。必要悪だからこそ、権利は最低限に抑えるべき。ヒトの生き死にの問題に口を出させるべきではない。

※2/私は「国家」が嫌い、というよりどうしても肌に合わない。それでブログでも国家なるものへの嫌悪を始終吐き散らしてきた。万一ご興味を持ってくださった方がありましたら、下記がその一例。

2.23「私も国家を否認する」、3.24「国家に恩はない」、4.22「芸は売っても身は売らぬ、もちろん心も売りませぬ」、5.14「芸は売っても……(3)」

◇◇◇◇◇

【山口県光市の母子殺人事件の最高裁判決に関連して、死刑廃止論バッシングのような世論が形成されつつあるようだ】とMcRashさんが書いておられた。

いわゆる「凶悪事件」が起きたり、その判決が出ると、にわかに死刑擁護論が勢いづく。むろん私は死刑擁護論をヒステリックにしりぞける気はないが、葵の印籠かざした「世論」とは厳しく一線を画したい。尻馬に乗るのではなく、どうか「自分の頭」で考え、「自分の言葉」で語って欲しい。どれほど拙くても知識不足でも、世界に拮抗しうるのは「自分の言葉」だけである。(自分の言葉、という話はUTSのコラムに少し書いた。ドサクサ紛れに宣伝しておきます)

(ブロガーの中には……というより、もしかするとほとんどのブロガーは、だろうか? 下書きをし、推敲し、これでOKとなってからエントリをアップしておられるようだ。私は推敲どころかまともに誤字のチェックすらせず、メモ感覚で書き流しているので、そういう方達のブログと比べるとほんとに恥ずかしい限り。しかしまあ……これもブログ、と最近は開き直ってもいる……スミマセン)

 

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