華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

私にとってのブログの意味(再)

2007-04-15 23:37:26 | このブログについて

「再出発日記」のKUMAさんから、「悩んでいます『ブログに力はあるか』」というエントリをTBしていただいた。私はヒトからよく風邪を伝染されるが、悩みも伝染りやすいたちである。むろん悩みったって深いものでも何でもないし、すぐ忘れてしまったりするから、悩むというより「ちょっとギクッとして引っかかる」と言った方がいいかも知れないが。

 ブログ……う~ん、ブログねえ。普段はほとんどナンも考えずにいるけれども、それでも何度か(少しだけ)考えて、書いてみたことはある。比較的新しいもの(と言っても去年の10月4日。げ、もう半年も前ではないか)を再掲しておこう。KUMAさん、答えにも何もなってませんが、貴兄のエントリを読んで刺激されたということで……。

◇◇◇私にとってのブログの意味(以下、そのままコピー)

〈明け方の書斎(仕事部屋)にて〉

――明けるのか、明けぬのか――この宵闇に、誰がいったい私を起こした。――(誰かの詩の一節)

 午前6時過ぎ。夜がしらじらと明け、窓の外では雨に濡れた落葉樹の梢が恥じるように頭を垂れている……。ついこの間まで、この時間には既に日中の暑さを予告するような抑えた熱気が窓を叩いていた。その頃からまだ1か月と経っていないのに、空気は確実に冬へ向かって衣替えを始めているではないか。おう、季節よ。ひとのいとなみなど笑い飛ばして太古から繰り返してきた季節のペエジよ。冬の時代を予感しておののくヒトの吐息を、おまえは知っているのか。おう、季節よ。憎しみと裏切りのつづれ織りをはねのけて、おまえは未生の愛を囁くのか。

 私はたいてい8時半頃まで寝ている人間だが(飛び起きて顔を洗いコーヒーを飲み、ドタバタ飛び出すという生活が長年続いているのだ。ちなみに私が大学を出て就職した先は始業時間10時。交通の便を最優先して住まいを選んだので、9時半に出れば間に合ったのである)、今日は仕事の都合で朝7時に家を出ねばならない。その準備で4時頃まで起きていたので、そのままついでに本を読みながら徹夜をしてしまった(2時間強の仮眠で起きるというのは、けっこう辛いのである)。パタリと本を閉じた瞬間に私の袖にしがみついた、まとまりもつかぬおぼろな想念を(かなり慌ただしくではあるが)メモしておこう。

〈私にとってブログとは〉

 ブログについての考え方は、ブロガーごとにそれこそ千差万別であろう。それが当たり前だ。

 私の場合で言えば下書きは一切せず、思いつくままに書き留めておく覚え書きである。(多くの場合、酔ってもいる。1日の労働を終え、明日の仕事の準備もし終えてホッと一息ついた夜中に書くものだから、自然にそうなる。おかげで誤変換も多々)。実は今も「美しい日本語を殺すな」という記事を書こうと思って、その前にヒトコト書き留めておきたくなったのである(日本語うんぬんのエントリは、時間の余裕があれば今夜にでも)。

 何かの問題について論考しようとか、大々的に世の中に訴えようなんて大それたことなんざ思ってやしない。ふと思いついたことをメモし、友人達に暇がある時に見てもらい、共に考えていければ――というだけのことだ。みんなそれぞれに忙しいから、是非読めと押しつける気もさらさらない。読んでもらえればラッキイ、という程度である。

 だから本来は個人通信のような形で、限られた友人だけに配信する方がいいのかも知れない。実際、「○○通信」と名付けたものを定期的にメールで送ってくる友人も3人ほどいる。「実際に顔を合わせて言葉をかわし、(思想信条は少しずつ違うけれども)響きあう部分があった友達だけに読んでもらえばいい」というのが彼らのスタンスだ。

 私も、そのような形式を採った方がよかったのかも知れない。別に、全世界に向けて発信しようなどとは思ってもいないし、庶民のネゴトに過ぎない私のメモで世の中を動かせるなんて、勘違い的なことなんざ1ミリも思っちゃあいない。ましてや、ネット上のコミュニケーションに全幅の信頼を置いているわけでもない。

 私は――もしかすると子供の時からパソコンを使いこなしていた世代ではないからかも知れないが、人間が本気でコミュニケーションできる範囲はそんなに広くない、と思ってもいるのだ。私はこのブログで既に何度も書いているように、マスコミの片隅で働いている人間である。社会人になって以来ずっと、幻のような「(想定された)読者」を相手にして語りかける仕事を続けている中で、次第に「コミュニケーションという幻影」にうんざりしてきたのかも知れない。コミュニケーションというのは、そんなキレイキレイな甘いもんじゃあねぇ。 

 実際に1年ほど前までは、私にとってインターネットを利用したコミュニケーションというのはMLで意見を流したり、個人通信に対して意見を送ったりする形でしか存在しなかった。むろんそのほか友人との個別のメールのやりとりは始終おこなっていたけれども――要するに「仲間内のコミュニケーションに、インターネットを便利な道具として使っていた」に過ぎない。それで充分だ、と思ってもいたのだ。

 それなのに昨年の衆議院選挙が終わって少し経った頃、私はブログという形で自分の拙い考えを全面公開するに至った。そのことは実のところ、自分でも恥ずかしい。と同時にアホらしくもある。所詮は庶民のネゴト。もっと言えば精神的マスターベーションである。まとまりのつかぬ覚え書きを綴りながら、クククッと嗤う自分がいる。

〈微かな繋がりを求めて〉

 それでも私がほそぼそとブログを続けているのは、やはり私も――微かにではあっても繋がっている仲間、が1人でも多く欲しいからだろう。ブログを始めてから、私は多くの出会いを持った。それはあるいは幻影かも知れないけれども、「一人ではない(らしい)」と知ることの快を私は知った。いや、むろん私にも、実生活上における仲間は何人もいる。しかしみんなそれぞれに自分の生活に忙しいわけだから、常にコンタクトをとり続けているわけにはいかない。そんなことはむろん百も承知であるけれども、はち切れそうなほどに頭を占めている何ものかを聞いて欲しい、一緒に話して欲しいと思う――それが自分自身の中にも存在していることを、ブログを始めて私は初めて思い知った。

 所詮は庶民のネゴトさ――というスタンスは、今も変わっていない。ブログの世界には常時3000、4000……どころか1日1万件に迫るアクセスがあり、オピニオン・リーダーの役割を果たしているカリスマ・ブロガーもいるそうだが、私は逆立ちしてもそんな存在にはなれっこないし、(負け惜しみと言われればそれまでだけれども)なる気もない。私はカリスマというのは危険なものだとも思っているのだ。数人でもいい、いや1人でもいい。忙しいなか読んでくださり、手を差し伸べてくださる友人が得られれば、私はそれだけで本望である。

 そういう「人と人との繋がり」をこそ私は求めていたのだ。こんなことを言うと非常にヤラシイのだけれども、それを抜きにするならば私は本業だけに専念する。今のマスコミは「マスゴミ」などと言われるぐらいでホントなさけない限りなのだが、良心が死に絶えたわけではない。息も絶え絶えな良心を守り育てる仕事に専念した方が、ある意味、よっぽどいいのだ(私は三文ジャーナリストだから自分で企画を立ち上げてキャンペーンを展開する力はないが、パシリの形で協力する程度のことは何とかできる)。だが……こちらで想定した枠組みの中だけで語る時に漏れてくるたくさんの声や思いと連帯したいと切望し、私は1円にもならぬブログを始めた。そしてそろそろ、1年になろうとしている。我ながらあきれたものである。

(以下はコメントの扱いについての話なので、略)

 

 

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私にとってのブログの意味。そしてコメントについて

2006-10-04 06:26:26 | このブログについて
〈明け方の書斎(仕事部屋)にて〉

――明けるのか、明けぬのか――この宵闇に、誰がいったい私を起こした。――(誰かの詩の一節)

 午前6時過ぎ。夜がしらじらと明け、窓の外では雨に濡れた落葉樹の梢が恥じるように頭を垂れている……。ついこの間まで、この時間には既に日中の暑さを予告するような抑えた熱気が窓を叩いていた。その頃からまだ1か月と経っていないのに、空気は確実に冬へ向かって衣替えを始めているではないか。おう、季節よ。ひとのいとなみなど笑い飛ばして太古から繰り返してきた季節のペエジよ。冬の時代を予感しておののくヒトの吐息を、おまえは知っているのか。おう、季節よ。憎しみと裏切りのつづれ織りをはねのけて、おまえは未生の愛を囁くのか。

 私はたいてい8時半頃まで寝ている人間だが(飛び起きて顔を洗いコーヒーを飲み、ドタバタ飛び出すという生活が長年続いているのだ。ちなみに私が大学を出て就職した先は始業時間10時。交通の便を最優先して住まいを選んだので、9時半に出れば間に合ったのである)、今日は仕事の都合で朝7時に家を出ねばならない。その準備で4時頃まで起きていたので、そのままついでに本を読みながら徹夜をしてしまった(2時間強の仮眠で起きるというのは、けっこう辛いのである)。パタリと本を閉じた瞬間に私の袖にしがみついた、まとまりもつかぬおぼろな想念を(かなり慌ただしくではあるが)メモしておこう。

〈私にとってブログとは〉

 ブログについての考え方は、ブロガーごとにそれこそ千差万別であろう。それが当たり前だ。

 私の場合で言えば下書きは一切せず、思いつくままに書き留めておく覚え書きである。(多くの場合、酔ってもいる。1日の労働を終え、明日の仕事の準備もし終えてホッと一息ついた夜中に書くものだから、自然にそうなる。おかげで誤変換も多々)。実は今も「美しい日本語を殺すな」という記事を書こうと思って、その前にヒトコト書き留めておきたくなったのである(日本語うんぬんのエントリは、時間の余裕があれば今夜にでも)。

 何かの問題について論考しようとか、大々的に世の中に訴えようなんて大それたことなんざ思ってやしない。ふと思いついたことをメモし、友人達に暇がある時に見てもらい、共に考えていければ――というだけのことだ。みんなそれぞれに忙しいから、是非読めと押しつける気もさらさらない。読んでもらえればラッキイ、という程度である。

 だから本来は個人通信のような形で、限られた友人だけに配信する方がいいのかも知れない。実際、「○○通信」と名付けたものを定期的にメールで送ってくる友人も3人ほどいる。「実際に顔を合わせて言葉をかわし、(思想信条は少しずつ違うけれども)響きあう部分があった友達だけに読んでもらえばいい」というのが彼らのスタンスだ。

 私も、そのような形式を採った方がよかったのかも知れない。別に、全世界に向けて発信しようなどとは思ってもいないし、庶民のネゴトに過ぎない私のメモで世の中を動かせるなんて、勘違い的なことなんざ1ミリも思っちゃあいない。ましてや、ネット上のコミュニケーションに全幅の信頼を置いているわけでもない。

 私は――もしかすると子供の時からパソコンを使いこなしていた世代ではないからかも知れないが、人間が本気でコミュニケーションできる範囲はそんなに広くない、と思ってもいるのだ。私はこのブログで既に何度も書いているように、マスコミの片隅で働いている人間である。社会人になって以来ずっと、幻のような「(想定された)読者」を相手にして語りかける仕事を続けている中で、次第に「コミュニケーションという幻影」にうんざりしてきたのかも知れない。コミュニケーションというのは、そんなキレイキレイな甘いもんじゃあねぇ。 

 実際に1年ほど前までは、私にとってインターネットを利用したコミュニケーションというのはMLで意見を流したり、個人通信に対して意見を送ったりする形でしか存在しなかった。むろんそのほか友人との個別のメールのやりとりは始終おこなっていたけれども――要するに「仲間内のコミュニケーションに、インターネットを便利な道具として使っていた」に過ぎない。それで充分だ、と思ってもいたのだ。

 それなのに昨年の衆議院選挙が終わって少し経った頃、私はブログという形で自分の拙い考えを全面公開するに至った。そのことは実のところ、自分でも恥ずかしい。と同時にアホらしくもある。所詮は庶民のネゴト。もっと言えば精神的マスターベーションである。まとまりのつかぬ覚え書きを綴りながら、クククッと嗤う自分がいる。

〈微かな繋がりを求めて〉

 それでも私がほそぼそとブログを続けているのは、やはり私も――微かにではあっても繋がっている仲間、が1人でも多く欲しいからだろう。ブログを始めてから、私は多くの出会いを持った。それはあるいは幻影かも知れないけれども、「一人ではない(らしい)」と知ることの快を私は知った。いや、むろん私にも、実生活上における仲間は何人もいる。しかしみんなそれぞれに自分の生活に忙しいわけだから、常にコンタクトをとり続けているわけにはいかない。そんなことはむろん百も承知であるけれども、はち切れそうなほどに頭を占めている何ものかを聞いて欲しい、一緒に話して欲しいと思う――それが自分自身の中にも存在していることを、ブログを始めて私は初めて思い知った。

 所詮は庶民のネゴトさ――というスタンスは、今も変わっていない。ブログの世界には常時3000、4000……どころか1日1万件に迫るアクセスがあり、オピニオン・リーダーの役割を果たしているカリスマ・ブロガーもいるそうだが、私は逆立ちしてもそんな存在にはなれっこないし、(負け惜しみと言われればそれまでだけれども)なる気もない。私はカリスマというのは危険なものだとも思っているのだ。数人でもいい、いや1人でもいい。忙しいなか読んでくださり、手を差し伸べてくださる友人が得られれば、私はそれだけで本望である。

 そういう「人と人との繋がり」をこそ私は求めていたのだ。こんなことを言うと非常にヤラシイのだけれども、それを抜きにするならば私は本業だけに専念する。今のマスコミは「マスゴミ」などと言われるぐらいでホントなさけない限りなのだが、良心が死に絶えたわけではない。息も絶え絶えな良心を守り育てる仕事に専念した方が、ある意味、よっぽどいいのだ(私は三文ジャーナリストだから自分で企画を立ち上げてキャンペーンを展開する力はないが、パシリの形で協力する程度のことは何とかできる)。だが……こちらで想定した枠組みの中だけで語る時に漏れてくるたくさんの声や思いと連帯したいと切望し、私は1円にもならぬブログを始めた。そしてそろそろ、1年になろうとしている。我ながらあきれたものである。

〈差し伸べた手の見えないコメントは不快〉

 繰り返すが、私のブログは評論でも論考でもない。単なるネゴトである。ただし、時空を超えて存在する(と私が勝手も思っている)友人に向けて発信された――。だからその微かな発信に対して返事をいただければ涙ぐむほどに嬉しいけれども、どんな返事でも嬉しいわけではない。これまたあたり前の話であろう。

 こんな過疎ブログ(私はブログというものをそれほど過大評価していない。いや、メジャーなブログは別ですよ。うちのようなその他大勢ブログの場合、の話です。自分の意見を述べる手段の一つにしか過ぎず、他にいい方法があればさっさと鞍替えするつもりだ)にもコメントを下さる方がおられるというのは、ギョッとするほど嬉しいとは言え、差し伸べようとする手の見えないコメントにはひたすら当惑する。

 何かの意思表示に対する対応は――大きく分けてふたつある。1つは「もっと話をしてみたい」と手を差し伸べるもの。もう1つは差し伸べる手のないもの、である。後者も細かく分ければいろいろな種類がある。たとえば――
○意思表示した人間の意見や感性そっちのけで、ひたすらに主題とズレた持論を述べるもの。
○言葉尻を取り上げて「おかしいだろ!」「説明しろよ!」などと居丈高に責め立てるもの。
○「これはどうなの?」「これは?」と記事の内容とは直接関係ない質問を浴びせかけるもの。
○たとえば「昭和3年とあるがこれは昭和5年の誤りである」といった具合に、細部のあら探しに終始するもの。

 いや、もちろん私もブログを書くときにいちいち資料を確かめているわけではないので、間違いは山ほどある。記憶力にもまったく自信ありませんしね(私はコンピュータじゃねぇ)。それを指摘していただくのは非常にありがたいし、「違ってますよ」と言われればスンマセンと謝って訂正する。だが、「やーい、間違ったじゃねぇか。おまえのいい加減さが暴露されたよな」みたいに言われるのははっきり言って不愉快である。

 ひたすら滔々と持論を展開する型のコメントも、正直なところあまりありがたくない。もちろん私のエントリに深く関わる問題について真摯に語ってくださるならよいのだが、私の記事を落語の枕程度に使って、直接かかわりのない話について延々と持論……というのは読む私も疲れる。ひとつだけ自慢すると(ほかにはなーんも自慢できることがないのだ。泣)私は「文章」を読むのは職業としても、また私の趣味としてもかなり慣れている。読む速度はかなり速いほうだし、難解?と言われる文章や癖のある文章でも、理解できるかどうかは別として、読むこと自体はまったく苦痛ではない。その私が苦痛だというのは、相当なものだ――と思っていていただいてよいだろう(ちなみに私は仕事の一つとして、新人の記者の記事を読んだりしている。ひとりよがりな文章を指摘するのが目的である)。悪文とか、そういう意味ではない。「耳をふさぎ、言いたいことだけを言いつのる」感じがするから苦痛なのだ。口が悪いとか、言葉が汚いとか言っているわけではない。そんなものは、ある意味でどうでもいい。

 私自身、実のところ「言いたいことを言いつのる」傾向はある。ごく若い頃から自己チューだったし、私の住んでいるマスコミの世界は双方向コミュニケーションの世界ではないからだ。だが、それをかなしいと思い、私はブログを始めたのである。だからこそ、「手を差し伸べようとする」姿勢の感じられないコメントは不快なものでしかない。人と人のコミュニケーションは、相手の言い分に虚心に耳を傾け、それについての感想を述べるところから始まる。まずは共感したところ。そして次に、自分が疑問に思うところや、自分なりの意見。おまえも人の言うことを虚心に聴いてないじゃないか、とは言わないように。ここはあくまでも私が管理している私のブログである。狭かろうと荒れ果てていようと一国一城、というやつですね。喧嘩支度で入ってくるのは、殴り込みでしょう。

 来られる方はもう「いつでも、どなたでも歓迎」というのが私の基本姿勢であるけれども、殴り込みを掛けているのか、コミュニケーションを求めているのかは、はっきりさせていただきたい。それによってこちらも挨拶のしようが違います。
 
 あ、いかん。そろそろ出かけねばならない。中途半端になったが、続きは改めて書きたい。(具体的にどういうコメントがどうこう、という点にも時間がなくて触れられなかったが、それも改めて)
 
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続・コメント欄への雑感(しつこい)

2006-08-29 08:11:38 | このブログについて

コメント欄についての雑感」(26日のエントリ)というどうでもいいような無駄話を書いたところ、数人の方にコメントをいただいた。その少し前に書いた「コメントに対する私の姿勢」にも思いもかけず多数のコメントをいただいている。お忙しい中、しょーもない愚痴にお付き合いいただき、コメントまで書いてもらって、ほんとすみません……。何かもう、悪いことしているように気になりまする。

 それはさておき……。ネット仲間の一人である喜八さんもコメントの扱いについての記事「コメント欄について」を書かれ、そのエントリをTBしていただいた。詳しい内容は当該エントリを読んでいただく方がよいのだが、一応簡単に紹介すると、喜八さんは「不快なコメントは削除すればいい」という意見。そのキーワードとして「編集権」という言葉を使っておられる。また削除が面倒な人の場合は、コメント欄撤去という方法があるというお勧めも。

 喜八さんの論理は明快で、かつ非常に納得できる。彼は編集権の話をするにあたって、次のように述べている。

【ブログを一個の「雑誌」だと考えるのです。各ブロガーはブログ雑誌の発行者であり編集長であり執筆者でもあります。ブログのコメント欄は雑誌一般における「読者投稿欄」に相当します。この場合、コメント欄を含むブログ全体の編集権は(発行者・編集長・執筆者である)管理人にこそある。コメンターにはない。】

 基本的に、私はこの意見に賛同する。非常にまっとうな意見だと思う。「雑誌」とまではいかなくても……ブログは要するに「個人通信」である。少し前は紙に印字したものをしばしば貰ったし、最近はメール形式の個人通信もよく受け取る。個人通信というのは、基本的に友人(仲間)達に対して日々自分が考えていることを書き送るもの。編集権?は発信する側にのみ在る。

 多くの方が、「議論を拒否するようなコメントは削除すべき」と言っておられる。特に、明快に何度も助言してくださったのは、布引洋さんとkaetzchenさん。その一例を挙げると――

【どんな恥ずかしい事柄でも家の中なら許されます。公衆の面前に触れさせるべきでない社会の恥は現実に存在します。】(布引さん)

【ああいうのは対応せずに,私のようにざっくりと「保留」「削除」するのが一番ですよ。】(kaetzchenさん)

 そういう意見を正しいと思いつつ、それでも――自分自身が不快だと思うコメントも削除せず公開したままにしている自分はいったい何なのだろうとふと首をひねった。

 よほどのことがない限り削除しない理由については何度も述べた。むろん私が1日のアクセスが3000も4000もに達するというようなメジャーなプロガーであればそんなのんきなことは言っておれないだろうけれども、幸か不幸か私のブログはさほどのものではない。(ネット上、実生活を併せた)何人かの友人が時々覗いてくれる程度のそれこそ「個人通信」で、「へ???」というコメントはたまに入る程度。だからのんびりと構えておれるというのも歴とした事実である。

 だがそれらもろもろのことどもを計算に入れた上でも、私はやはり、当面は(あくまでも当面は、である)なるべくコメントを削除しない形でブログを続けたい。削除するのは18禁その他、私のブログの性格と相容れないものだけにしたい。

(前にも書いたが、TBについては――結構多忙なこともあるので、気がつけばということだが――私が「友達に推薦できるエントリ」以外は削除する)

 これは愚挙だろうか。……喜八さんは彼のエントリで次のように述べておられた。

【とはいえネットの世界には「厳格主義ブロガー」とも呼ぶべき人々がいて(中略)「厳格主義の方は自分なりの基準で行動されてください。でもその基準を俺に押しつけないでくださいね~」と答えるだけであります。】

 むむむ……。私は厳格主義なのかなあ。

 私は正統派のブロガーではないのかも知れない。いや、そもそもブログとは何かをわかっていない、あるいはインターネットの怖さをわかっていない、もしくは……敵のの攻勢を甘く見ている、のかも知れない。

 だが、それでもなお――私はやはり、当面はコメントをできるだけ削除しない方向でやっていきたいと思う(ほとんど意地になっているな。ガキだなと自分でも思う。汗)。もっとも実を言えば、頓狂なコメントが入っても大して苦にはならない。コメントは時間の余裕がある時にまとめて読むけれども、ひとつひとつのコメントに丁寧に返辞を書く習慣はないのだから。おもしろがるだけである。

 素っ頓狂なコメントは、素っ頓狂なりに貴重な資料になる。ささっと削除してしまうのは勿体ない(むろん素っ頓狂ブログを丹念に読めばわかることだけれども、私もそれほど暇ではない。必死で食い扶持かせいでいる負け組庶民なのだ。昼日中にネットの世界を探索するほど暇じゃあねぇ。だから向こうからアプローチしてくだされたのであれば御の字)。いずれ暇を見て、コメント集をまとめておきたいとも思う。

 私は間違っているだろうか(あんまり性格がよくないのは事実であるが……泣)。いわゆる護憲派ブロガーに間に、ちいさな違和感を持ち込んでいるのだろうか。

――久しぶりに、多勢に無勢という言葉が身にしみた早朝に。――

 

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「コメント」に対する私の姿勢

2006-08-17 17:22:44 | このブログについて

〈布引洋さんの助言への返事〉

 布引洋さんから、次のようなコメントを戴いた。

「(前段略)ネオナチモドキに対して私達が甘すぎるのでは有りませんか? すき放題に発言させて何も批判しないでは、すまないのではないですか? 中国はA級戦犯合祀を問題にしていますが、私達日本人は明かな犯罪行為の実行者BC級戦犯に対して何も言わないのは問題では有りませんか? 日本人自身が戦争犯罪を真摯に考えないと、諸外国の理解と尊敬は得られない。最初から議論を拒否する態度のコメントは削除すべきでしょう。自分の部屋の掃除は住人の責任です」

 戦争犯罪を真摯に考えなければ――というのは、むろん当然のことであると思う。それはさておき、ここでは「議論を拒否する態度のコメント」に関する私の基本的な姿勢を書いておく。

 まず、布引さんに対する私の返事は――

【言われていることはわかります。確かに自分のブログのコメント欄は、きっちり掃除をするべきかも知れません(注※)。ただ、私は当面、「議論を拒否する態度のコメント」もそのまま置いておこうかと思います。最も大きな理由は、「そういうコメントがあった」ことを目に見える形で残しておくため、です。今後、たとえば「こういうコメントがあり……」と例を挙げる時、私が意図的にでっち上げたのではないという証拠になります】

注※「部屋の掃除」という言葉を、布引さんは「日本人は自分の国をきちんと掃除すべき」という意味で使われたのかも知れない。だが、コメント削除に関する文の後に続いているところから見て、「自分の部屋=自分が管理しているブログ」という意味にもとれる。一応、そちらの意味に解釈したということで書かせていただく。

〈TBの扱いについて〉

 私は以前から、あまりコメントやTBの削除をしていない。ただ、TBについては「ここを訪れた方に、TBされているブログも是非覗いていただきたい」と思っているので、多少の整理はしている。たとえば二重に入っていた場合はむろん片方削除するし、私のブログの目的と異質なもの(営利を目的としたTBや、いわゆる18禁系のものなど。私はポルノグラフィーは嫌いではないし、エロ系のサイトもそれなりにおもしろいかも知れないとは思うが、異質であることは確か)も削除する。差別的な視点で書かれたものも、気がつけば削除する。

 TB欄はいわば「皆さん、このブログも是非お読み下さい」という紹介でもあるので、私が「友人にお勧めする気のない」TBは削除して当然であると思う。表示される数には限りがあるのだし。(忙しくてTBされたエントリをきちんと読めないこともままあり、実のところ削除しそこねることもあるが、原則はそういうことである)

〈コメントの扱いについて〉

 コメントは、私自身が「納得できる」ものであるか否かを問わず、原則として削除しない。正直なところサボっているだけという面もあるが、布引さんへの返事で書いたような気持ちがあることも確かである。親しい友達でもない相手をいきなり「おまえ」呼ばわりするコメントや「おかしいのはアンタの方だろ」「左翼のバカ共が……」といったコメントははっきり言って不快であるが、いろいろ考えた末、すべてそのままにしてある。かなり前に「罵倒のための罵倒」的なものを削除しようかと思ったこともあるが、その時もやはり削除しなかった。

 たとえば、自分の家の塀に(私はマンション暮らしなので塀はないが)「日の丸を掲げないのは非国民だ。死ね」などと落書きされたとする。そのとき、すぐに消すという方法と、書かれたという事実を自分が忘れないために、そして通りがかる人達に見てもらって「こういう発言を、どう思われますか」と尋ねるために、あえて残しておくという方法があるだろう。後者を選んだ、ということである。

〈ただし今後のことはわからない〉

 とは言っても、この姿勢は「今のところは」という但し書き付きである。もともと私のブログの場合、コメントはさほど多くないし、「議論を拒否する態度のコメント」はそのごく一部でしかない。だから「そのままに」しておけるのだとも言える。1つのエントリに対して40も50ものコメントが入るブログであれば、訪れた人達にコメント欄も読んでもらうためには、かなり整理せざるを得ないはずだ。また、「議論を拒否する態度のコメント」ばかりが多くなった場合も、削除するのが正解であろう。さもないと、真面目なコメントを書いていただきにくくなるから。

 だから私も、コメント欄に「まともに議論する気がない」「単なる罵倒」のようなコメントが増えてきたら、あっさり姿勢を変えるつもりである。

〈コメントに対する批判ということ〉

 布引さんのコメントには「好き放題に発言させて何も批判しないのはよくない」という言葉もあったわけで、それについては耳が痛い。確かに私は、「それは違うだろう」と思うコメントに対しても、あまり反論はしていない(時々はやるけれども)。これは確かによくないのだろう。削除しないならしないで、本当はひとつひとつ、きちっと反論・批判しなければいけないに違いない。

 なぜ、あまり批判していないか。「多忙を理由に単にさぼっている」というのが一番大きいのだが、「何も言わずに、皆さんに見ていただこうか」という気持ちもある。私の答えはブログの記事で出そう、と。この点については、じっくりと考えてみたい。

◇◇◇◇

TBやコメントの扱いと絡めて、以前、「コミュニケーションのルール」という一文を書いた。コミュニケーションに対する私の基本的な考え方は、ここで述べている通りである。

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ブログとは何かを考えてみた

2006-01-07 20:04:22 | このブログについて
「世相春秋」(rosso_fiolencino)さんからTB戴いた記事の中に、次のような一文があった。

【三日坊主の私にとって、毎日何かをするとか続けると言うのは、大変な作業でありまして、ましてや政治・時事関係の記事を書くのは、それなりの情報収集能力や、分析力や判断力が必要でありまして、とても負担に思うこともしばしばです】

私もしばしば更新の止まる人間(と言うより時々思いついたように書き記すだけの人間)だが、毎日書いていないのは単に「日々のなりわいに忙しい」ことを言い訳にしてさぼっているからに過ぎない。

その点も恥じ入ったが、それより恥ずかしく思ったのは「情報収集力や分析力や判断力が必要……」という箇所である。そう言えばブロガーの方達の中には、きっちり情報収集し、的確な分析・考察をおこなっている人が少なくない。そうか、と思って自分のブログを振り返ると、要するにその時々の「感じ」を書き散らしているだけである。

独り言に近い全くの雑感メモで、時には酔って脈絡のない文章を書いていたりする。啓蒙するとか呼びかけるとか知識・情報・話題を提供するとか、あるいは楽しんでもらうとか、そういった要素はほとんどない。そんな、自分だけの覚え書きにしておけばいいメモを、厚顔に公開していいのだろうか。自分はブログ・ジャーナリストではないからとか、政治ブロガーではないからといった逃げを打って、それこそさぼっているのではないかとパソコンの前でうーんと腕組みしてしまった。

しかし……と、ここからは勝手な言い分になってしまうが――
これもまた一つのブログの姿(あり方、とまでは言わない)と考えていいのかも知れない、と思ったりする。 私が背伸びして政治・時事問題についての分析や考察をおこなってみても、それは多分、学者や評論家が何処かで言っているような話の二番煎じの、書いた本人が失笑する類の記事になってしまうだろう。情報収集程度ならできないことはないが、私は仕事でいつもドタバタ情報収集(取材)しているので、プライベートな世界では必要最低限(日常の中で自分が簡単に集められる程度)にとどめたいという気分(要するに、やはりさぼっているのだな……)もある。これは、確実度の高いもの以外、自分が裏をとっていない情報はあまり使いたくない、という職業病も関係しているかも知れない。

私がこのブログを始めたのは「小さな声でも、上げないよりは上げた方がいい。ささやかなものであれ、今の世の中は嫌だというブログは1つでも多い方がいい」と思ったからだった。鋭い分析や考察は、それができる人に任せよう。ユーモアのある文体を駆使した解説も、ビビッドな問題提起も、豊富な情報の提供も、それを得意とする人に任せよう。私は(やむを得ずの選択という感もあるが)「ふと思いついたこと」をメモしていこう……。うろうろ、おろおろと生きている庶民が「ふと思ったこと」も、もしかすると共感してもらえるかも知れず、そこからヒントを得てもらえるかも知れない。その程度の意味しかないが、それでもよいではないか、と考えるのは開き直りだろうか。

そしてブログを書きながらわかったのは、自分がゆっくりとものを考えていく上での助けになる、ということである。特に、戴いたコメントやTB記事を読むことは非常に助けになる。そんな自分だけのためのものだったら、やるなー! 自己チューめ、と叱られるかも知れないが……(覗いてくださる方、スミマセン)。しかし、一緒に考えてくれる仲間を少しでも得られることはありがたく、私は徳は孤ならず――じゃなかった、叛は孤ならず、と感じてひそかに生きやすさを感じてもいるのである。


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同志が大勢いるのだと改めて思う

2005-11-15 00:28:55 | このブログについて
同盟に参加するブロガーが、少しずつ着実に増えつつある。今の日本の状況に危惧を覚える人達が大勢いるのだなと改めて感じ、本当に心強い。お互い見知らぬ人間同士ではあるけれども、そして依って立つところは皆違うのだけれども、「同志」と呼ばせて欲しい。皆さん、それぞれの場所で、それぞれのやり方で、共に明日を拓いていきましょう。
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反小泉同盟に賛同します

2005-10-17 01:48:07 | このブログについて
反小泉同盟に賛同します。ああいう自信過剰な男と、それに率いられた自分たちは選ばれた優秀な人間だと思っているような男女に、地獄に連れて行かれたくありません。
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初めてのプログ

2005-10-17 01:00:24 | このブログについて
これまでネット上で自ら発信した経験はないが、昨今の情勢を見ていると焦燥感が強まり、ついにプログを開設することにした。ブログは無数にあり、ひとりひとりのそれは砂の一粒に過ぎない。その他大勢の形で埋もれてしまうことはわかっている。また、世の中の状況に対して警鐘を鳴らす発言も多数あって、一つぐらい付け加えても……という気がしないでもない。しかし小さな声でも上げないよりは上げた方がよく、それが集まることで力になっていくのではないか。10年後、20年後に後悔しないために……。
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