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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「造反議員復党」……これも教育に悪い

2006-11-29 23:51:40 | 現政権を忌避する/政治家・政党


(公私ともに超多忙でまともにモノ考えてられない状態なので、簡単なメモ)

 昨日、郵政民営化法案に反対して離党したいわゆる「郵政造反議員」11人の復党が本決まりになった(復党願を出したのは12人だが、平沼赳夫議員だけは誓約書を提出しなかったため復党を認められなかった由)。今後は落選した「造反(モト)議員」についても復党を認めていく方向。特に来年夏の参院選にくら替え出馬を目指す前衆院議員については、12月中旬にも優先的に復党を認める方向で検討に入ったそうである。

 キ・タ・ナ・イ・なあ……。

 復党組の一部は記者会見をしたが、出てくる言葉は言い訳と開き直りばかり。「民営化にはもともと反対ではなかった。もっと慎重に検討すべきだと言っただけだ」「法案に反対しただけ。民営化自体に反対とは一言も言っていない」……。そして「総選挙の結果、国民が民営化に賛成したのだから」。

 人間、考えが変わることはある。変わるということ自体は別に何の問題もない。しかし政治家の場合は、「その人の考え方」を支持する有権者たちの、いわば代表(代弁者)として政治の舞台に上がっているのである。基本的なところでころころ替わってもらっては困る。いや、変わるなとは言わないが、それならば議員を辞めるべきだろう。あれだけ郵政民営化反対反対と声を大にして叫んでおいて、誓約書まで書いて古巣に戻るとは……。(誓約書全文は新聞などに掲載されているので皆さん読まれたと思うが、要するに自分が悪かった、ゴメンナサイ、これからは反抗しませんという内容。いったいどんな顔して書いたのか、書くところを見たかった。いや、秘書が書いたのかな)

 これはどんなに言葉を飾っても、有権者への裏切り行為である。私は彼らに投票していないけれども、投票した人の中には金返せ――じゃなかった、「票返せ」と叫んでいる人も少なくないだろう。

 キ・タ・ナ・イ・なあ……。

 造反議員のセンセイがたは無所属生活がよほど辛かったのだろう、意地も誇りも投げ捨てて安倍総理の足元にひれ伏した。彼らは自分を「救って」くれた安倍総理に忠誠を誓うだろう。誓約書の中には「安倍晋三総理の所信表明を全面支持」という文言もある。今村雅弘議員に至っては、「全身全霊で総理のために頑張る」と記者会見の席上で明言した。あなたの忠実な子分(本当は奴隷と言いたいところだ……)になります、という媚態。その姿は正視に耐えないほど醜い。国政を預かる人物がそういう姿を見せるのは、それこそ子供の教育に悪いと思いませんか。

 それにしても……安倍内閣のなりふりかまわぬ暴走の酷烈さには、思わず言葉を失ってしまう。教育基本法の改定は秒読みに入り、共謀罪も浮上。私たちは既に包囲されている。


◇◇◇◇◇余談◇◇◇◇◇

 今日、知人と昼食を共にした時に教育基本法改定の話になった。その知人はいわゆる左翼ではなく、政治的にはむしろやや保守寄りの女性(既婚で子供2人。ついでにいうと、天皇皇后などについて語るときはちゃんと陛下と付ける人でもある)だが、「国旗掲揚、国家斉唱」を無理強いする動きは息苦しいという。彼女の言葉を要約して紹介する。
「今だって(東京の公立校は)いい加減うっとうしいのに、教育基本法が変わったらこれ以上うるさくなりそうで、ほんとにイヤ。そりゃ私は日本って好きだし、愛国心もあると思う。君が代にも日の丸にも違和感はない。でも、愛国心って上から押しつけたり、学校で教えたりするものじゃないよね。それをわざわざ法律に入れようというところに、キナくさい臭いがするんだ……」

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「敵をつくる」という企て

2006-11-25 23:10:51 | 格差社会/分断・対立の連鎖


〈集団は敵の存在によって結束する〉

 組織なり集団なりの結束を固めるのに、「敵を作る」という方法がある。もう少し穏当な?方法としては「ライヴァルを作る」。学校対抗のスポーツの試合などがあると、「○○校に負けるな」と燃え、みんな結構、にわか愛校者になったりする。企業などでも幾つかチームを作って競争させると、チームごとに結束が固まり、他のチームに負けまいと「一丸となって」頑張ったりするようだ。

 ライヴァルというのは普通、プラス・イメージを持つ言葉として使われるようだけれども、ライヴァル同士の関係は常に「互いに切磋琢磨するいい関係」であるとは限らない。むしろ競争意識がエスカレートして、敵愾心や憎悪が育っていくこともまれではない。あいつにだけは負けたくないと思うから、時には汚い手を使っても勝とうとする。何とかして相手の弱味を見つけ、足を引っ張ろうとする。相手の悪い噂を聞くと嬉しくなり、何かでつまずくとひそかに喜ぶ。(そんなのは「本当のライヴァルじゃない」と言われる方があるかも知れないが、本当のライヴァルとは何かといった話はここでは一応無視する)

 ましてや「敵」に至っては。

 突然妙なたとえになるが(私はいつもそうなのだ)、駅前に商店街があり、そこの商店主達はさまざまな問題を巡ってしょっ中もめていた。政治的な立場の違いから仲が悪いという商店主達もいたし、単に気が合わずいがみ合っている人達もいた。だが、駅前に巨大スーパーマーケット進出の計画があるという確かな情報が流れた途端に、商店主達は「突然出現した敵」に恐れおののき、「その敵と戦う」ために結束した。……こういう話はいくらでも転がっている。

〈外にも敵、中にも敵〉

 自分達にとってマイナスになる存在、自分達の集団に脅威をもたらすもの、倒すべき相手。すなわち「敵」を想定すれば、その敵と戦うという目的の下で人々の仲間意識は強まり、お互いが味方であるという幻想が濃くなり、……同時に「敵」の姿は否応なく肥大し、まがまがしく飾られ、「トンデモナイ奴ら」という認識が深まっていく。ある意味で、そうやって「敵」は「放っておけば自分達の生存が脅かされる、凶悪な存在である」という幻想を持ち続け、育て続けない限り、人間は(目の前にある具体的な人間やモノ以外には)憎悪を持ち続けられないのかも知れない。

 たとえばカルト教団などがこの手をよく使うことは、よく知られている。そして国家も。他の国家を敵と認定し、それらの国を「鬼畜」とか「悪の枢軸」と呼ぶ。同じ人間ではない、という認識である。

 敵は「国の外」だけではない。「国の中」にも作られる。あいつらは悪い奴だよ、あいつらは人だよ、非国民だよ。だから早くつぶさなければ、みんなの生存(安心な暮らし)が脅かされるんだよ……。

 近年創設された・または創設されようとしている法律と、改定されようとしている法律は、すべて「敵づくり」――「敵と向き合う地域社会作り」を目指すものだ。たとえば2003年に成立した有事法制関連3法はまさしく「外の敵」を想定したもの(戦争を想定したもの)であるし、2004年に成立した国民保護法もそれに準ずる(戦争のほかにテロも想定しているが、武力攻撃事態に対処する法律という面では同じ枠組みの中にある)。

 そして内部の敵の監視――共謀罪はその最たるものだが、教育基本法改定案も根っこは同じだ(1999年成立の国旗国歌法なども同様)。踏み絵を用意し、踏まない、あるいは踏むのを躊躇する人間に「おかしい奴」「危険な奴」というレッテルを貼り、彼らに対する憎悪の気持ちをそれこそ「涵養」していく。自国の国旗や国歌に崇敬の念を持つのは当然などと言われ、そのうち祝日には日の丸掲げるのが当たり前という社会になったりすると、私はほんとに困るのですが……。

 敵――排除し、倒すべき存在を作るよりも、互いに手を差し伸べ、みんなで共に歩める社会を私は作りたい。もともと「(国民の)固い結束」「一致団結」なんてうそ寒くて嫌いだが、万が一それが必要であったとしても、敵を作ることで強めたいなどとは私はさらさら思わない。

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「愛国心教育法」に反対する・その他雑感

2006-11-23 23:51:04 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 今週はやけに仕事が忙しい。さらに休日の今日は地元の小さな会合の手伝い(下働きの雑用)をしていたので、肉体的にえらく疲れた。チョッピリずつ酒飲みながら仕事の資料を整理しているうちに酔い、酔った紛れにメモを残す――。 

〈愛国心教育法〉

  安倍首相は参院の教育基本法特別委員会で、「国旗や国歌に対する敬意の重要性」を述べたそうだ(注※)。現在の「教育」に問題が多々あるとは、長屋のくまさん・はっつぁんでも思っている。どうにかならんかい、と切歯扼腕している人は多いだろう。だから教育を改革しなければ――という言葉は耳障りよく響くのだけれども、ちょっと待てよ。革命、改革、再生……すべて言葉としてはうつくしいけれど、問題は中身だ。安倍首相の言う教育再生が「愛国心教育の再生」であることを、この発言ははっきりと露呈した。  私はこの寝言ブログで何度も言っているのだけれども、国旗を掲げたい人は掲げたらいいし、国歌をうたいたい人は歌えばいいのである。それをとやかく言う気は毛頭ない。ただし、私は国旗や国歌というものはそれが何処の国のものであっても好きではないので、掲げも歌いもしないけれども。――ちなみに私は世界中の国旗がへんぽんと翻るオリンピックがどうしても苦手で、まともにその中継を見たこともない(「こんなオリンピックなら見てもいい」などのエントリで、その辺のことを書いた)。

 少し妙な話になるが、そう――たとえば私は自分が学んだ学校たちを嫌いではない。それなりの愛着があり、「ここをもう少しこうすればいいのに」ふうの意見や批判を提示するのも、もっといい学校になって欲しいからだ。(私は平凡な、ごく普通の人間である。平凡・普通という言葉を、ある種の矜恃と共に使ってもいる。だから)多くの方が同様ではないかと思う。ただ。私は校歌なるものをやたらに歌うのはどうも好きになれなかったし、襟に校章を付けて街を歩くのも好きではなかった。そんなことでアンデンティティーとやらを保証されたくなかったのかも知れない。

 そういう「感覚」を容認して欲しい。旗を掲げたり歌を歌うことを「愛」の踏み絵にしないで欲しい――私が願うのは究極のところ、ただそれだけである。

 私が偏愛する詩人のひとりである堀川正美は、『新鮮で苦しみおおい日々』の中で次のようにうたった。

【恐怖と愛はひとつのもの/だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。(中略)時の締め切りまぎわでさえ/自分らにであえるのはしあわせなやつだ(中略)してきたことの総和がおそいかかるとき/おまえも少しぐらいは出血するか?】

(余談――私はこの最後のフレーズを「おまえも少しは血を流すか?」と誤って覚えていた。メモするにあたって確認した際、誤りに気付いた)

 してきたことの総和が襲いかかるとき、私の全身は涙色の血を流す。いや、私の九穴が血の色をした涙を流すのかも知れない。夢見たものの10分の1も手に入れられず、阻止しようと思ったことを阻止できず、叫びはあたかも荒野をよぎる風のように行き過ぎるままにべんべんとして生きてきた――辺見庸流に言うならば「いまここに在ることの恥」。

 国家から、国を愛せと言われる筋合いはない。愛する対象ぐらいは自分で選ぶ。まんいち――そう万が一、国家に恩があるとしても、だからといって愛せるかどうかは別の話だろう。義理と人情をはかりにかければ、義理が重たい男の世界、だそうである(そういう歌があった……うろ覚えですが)。だが私は正真正銘の「いくじなし」として、小便ちびりそうなほど震えながら言う。「情」のほうが重たいのです――と。

 〈焦燥する自分に向けて〉

  冒頭に紹介した首相の発言は、22日のものである。これを書いている時点から見ると、1日半――いや、2日近く前である。情報のキャッチが遅れている感じもするが、おそらく皆さんも同様だろう、自分の生活でけっこう手一杯な面もあり、1日どころか2日も3日も遅れて情報を得ることもしばしばだ。 私は職業柄いわゆる「ニュース」には敏感になっているが、それでも1日に1度や2度は「あ、そんなことがあったの」「誰それがそんなこと言ってたの」と驚く。そんなとき、良くも悪しくも「情報に振りまわされている」自分に気付いてドキリとする。

 ブログを始めて他のブロガーからTBをいただくようになってからは、そのドキリがさらに増えたような気もする。常に最新の情報を入手してないとまずいよ、という強迫観念。その強迫観念から、少し自由でありたいとも思ったりしている。ひとりの人間が知ること、考えることには限りがある。何でもキャッチしておかねばまずいわけでも、すべての問題について一家言持っていないとまずいわけでもない。

 いま、「ものを考える」「行動する」基本に立ち返りたい、とも思う……。

◇◇◇◇◇

※注/資料【安倍晋三首相は22日午前の参院教育基本法特別委員会で、学校の卒業式などでの国旗掲揚と国歌斉唱について、「自国の国旗国歌への敬意、尊重の気持ちを涵養(かんよう)することは極めて大事」と述べ、「政治的闘争の一環として国旗の掲揚や国歌の斉唱が行われないことは問題」との考えを強調した。自民党の舛添要一氏が、一部の学校では国旗掲揚などが行われていないことを「法律違反」と指摘したのに対する答弁。伊吹文明文部科学相は、国は教育委員会に対し要請や指導をするが、現場が従わない場合の権限が無い点を挙げ、「これをどうするか、与野党を超えて、教育の根幹にかかわる問題として議論してほしい」と述べた】(時事通信・11月22日)

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「教育基本法改定に反対する」中学生の行動に拍手

2006-11-19 19:40:21 | 憲法その他法律

 教育基本法改正案が衆院を通過した16日、札幌市にある北星学園女子中学高等学校の中学3年生達が、安倍首相宛に「改正反対を訴える」意見書を提出した。同校は現行の教育基本法を作ったメンバーの1人である河井道の母校で、生徒達は「先輩が作った教育基本法の精神を曲げないで欲しい」と訴えている、という。改正案反対の声は学校中に広がっており、高校でも意見書を作成するなどの行動が起こされているそうだ。(詳細は北海道新聞の記事を参照)

〈匿名で学校を非難する卑劣さ〉

 この意見書提出について翌朝の新聞で報道されるや否や、匿名で「おまえたちはどういう教育をしているのか。国を愛する心を持つのはあたりまえだろう」といった類の強い「非難のメール」が何通も学校に送られたという。私はそれを「徒然気儘な綴り方帳」、「Tomorrow is Another Happy」「goo-needs' blog」などのブログからのTBで知り、呆然とした。

 むろん、何かの意見を表に出せば、それに対して反対意見を持つ人々からさまざまに言われるのは普通のことだ。意見書を提出した中学生も充分わかっているはずだし、「反対意見を述べる」こと自体は一向にかまわない。しかし匿名で「どういう教育しとるんじゃ」と噛みつくのは、「反対意見の表明」だろうか?

 この「非難メール」なるものは、学校を脅かした。札幌テレビ局の取材に応じた学校側は、生徒達の身に危険が及ぶことを懸念して、生徒へのインタビューは匿名を条件にしたという。評論家などであれば、脅迫的なメールや手紙にはある程度慣れている。少々の脅しは蚊に食われたぐらいにしか感じないかも知れない。しかし未成年や、未成年を預かっている学校にとっては、僅かな脅しにも(ぶっ殺すぞとか死ねなどというあからさまな脅しでなくても)恐怖を感じるはずだ。ましてや相手は何処の誰ともわからない。そういう相手から一方的に悪意的な、または嘲弄的な、あるいは高圧的な言葉を投げつけられれば、誰だってゾクリとする。札幌テレビ局の取材に応じた学校側は、生徒達の身に危険が及ぶことを懸念して、生徒へのインタビューは匿名を条件にしたという。

〈自主性を疑うのは10代への冒涜〉

 この問題に関して、ネット上で「生徒の自主的な行動かどうか疑わしい」といった声も出ているそうだ。教師がうまく誘導して、やらせたのではないかというわけだ。

 まさかね……。皆さんも、ちょっと考えればおわかりでしょう。中学3年生・15歳といえば、もう「お子様」ではない。特に早熟な子供でなくても、大人と同じ本も読むし、結構形而上的?なことも考える。自分の意見もしっかり持っている。親や教師の言うことを丸呑みしたりする年頃では、もう絶対にない。やれと言われたことを、ハイハイとそのままやったりはしない(むしろやるなと言われるようなことばかりやったり……あ、それは私だけか)。だいたい、100年足らず前にはこの年齢で既に社会に出ている少年の方が多かったのですよ?

「徒然気儘な……」のMcRashさんが、昨日の記事の中でこう書かれていた。

【15歳が子供から大人へと大きく踏み出し、身体のみならず心も大人たらんと必死の背伸びをして、それを自分の間尺にしようと悪戦苦闘している年頃であるということや、このネット社会にあって、教師がこう言ったから、ということを15歳にもなって全て真に受けるということがまずなかろうということに対する想像力のなさと、そうした想像力を身につけて、ひとりの市民として自己の身につけた良識に従って行動した若い芽を摘み取り、台無しにしようという醜い悪意。】

 そう。この中学生達は「考える力」を身に着けた子供達であり、私はこういう若い人達が育ったことを嬉しく思う。こういった若者を萎縮させ、つぶしてはならない。直接には何の力にもなれないことを自分でも歯がゆく思うが、せめて、今すぐ学校に激励の声を届けておくつもりだ。 

◇◇◇◇◇◇◇

 それにしても……国家のやることに疑問を呈する人々が「非国民」と呼ばれ、陰に陽に嫌がらせを受け、場合によっては罪に落とされた時代がまた甦るのか。 

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「教育基本法・可決へごり押し」は教育に悪い

2006-11-17 23:20:33 | 憲法その他法律

  教育基本法改定案が衆院を通過し、参院で審議入りした。あいかわらず野党4党は欠席のままである。安倍首相は「教育再生」を最重要課題であると言い、速やかな成立を目指して欲しいと記者会見で語ったそうだが――繰り返して言う、なぜそれほどまでに急ぐのか。

 今回の暴挙には、多くのブロガーが怒りを表明しており、私の所にも多くのTBを1いただいた。たとえば――「こんな国民をバカにした国会が許されていいのか!」とと叫ぶdr.stoneflyさん、「教育基本法は学校教育の憲法とも言われる重要な法律である。それをたかだか100時間程度の審議で採決するという暴挙は断じて許すことが出来ない」と説くアッテンボローさん、「何が自民党だ。非民主的なことこの上ないやり方で自由を奪いやがって」と激怒する反骨心ブログさん、その他大勢の方が「マジで怒って」おられる。(ひとつひとつご紹介できればいいのだが、身内の年寄りが亡くなったりしたことで少し疲れているのパスさせていただく。どうか昨日のエントリ、「教育基本法採決の強行に満腔の怒りを」にTBされた記事を読んでいただきたい。私のしょうもない寝言より、よほど内容の濃い記事ばかりである)

 首相は教育再生、教育再生とお題目のように唱えるが、「反対意見については聞く耳持」たず、「数をたのめば何でもできる」と傲岸に構え、「馬な庶民は詳しいことなど知らなくてよろしい」とばかりにイケイケで法案を押し通そうとする姿勢は……子供の教育に悪いんでないの? 

 安倍首相は彼の著書『美しい国へ』などによると、祖父・岸信介をいたく尊敬しているそうだ。誰を尊敬するのも個人の自由だが……半世紀ほども前に祖父がやったことを、まるで不気味な相似形のように彼はなぞろうとしている。教育の根幹を支えるもので、憲法と並んで重要な法律である教育基本法をドサクサ紛れに変えようとする安倍内閣を、私は死ぬまで許さない。

 ところで……それに関して、やや気になるニュースがある。

【教育基本法改正案の衆院採決に反発して国会審議を拒否している民主党内で17日、参院の審議入りを受け審議復帰の動きが出始めた。参院幹部が修正協議を打診して自民党側にすぐに否定される場面もあり、野党4党で徹底抗戦を誓った翌日に軟化する民主党の姿勢に社民党などから「早過ぎる」と不満の声も出た。】(11月17日付・毎日新聞)

 民主党に対しては半ば危惧を抱きつつ、半ばは応援するというのが私のスタンスである。だが、ここで徹底抗戦を止めるのであれば、「所詮は自民党と、二卵性双生児――多少の違いはあるが似た者同士――」と絶望せざるを得ない。日和るな、民主党。ここで軟化したら、許さないぞ。

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「教育基本法」採決の強行に満腔の怒りを

2006-11-16 01:06:31 | 憲法その他法律

 昨日、衆院教育基本法特別委員会野党4党欠席のまま、与党単独で「教育基本法」の改正案採決を強行するという暴挙がおこなわれた。本日衆院本会議で可決し、参院に送って近日中にこの「新しい教育基本法」を成立させる意向。与党は「参院での単独審議も視野に入れている」そうである。

 昨日はニュースと無縁の所で少し忙しく動き回っていたため、強行採決の情報を知ったのは夜遅く帰宅してからだった。いつもの習慣通り帰宅後すぐにパソコンを立ち上げてメールを開いたところ、仕事上の連絡等のメールに混じって、強行採決に驚きや怒りを表す友人知人のメールが何通か入っていたのだ。後で自分のブログを見ると、それに関するエントリのTBやコメントも入っていた。私も怒り心頭に発しているので、簡単にでも記事を書いておこうと思う。

  教育の理念は現行の教育基本法で語り尽くされており、これを変える必要性を私は認めない。ただ、「一字一句変えてはダメ」「議論をする必要もない」とも思わない。理念をもっとわかりやすく表現する方法はないかといったことを含め、大いに議論されていいと思う(これは憲法も同じである)。「核保有についての議論」などとは、話が違うのだ(核兵器は人類が保有してよいものではなく、その意味で議論の余地はない)。

  与党の教育基本法改定案は愛国心を盛り込むなど、問題の多いもの。それについての私の意見は何度も書いたような気がするので、ここでまた繰り返す気はない(※)。だが、与党の改正案がなかなかよいものであったと「仮定」しても、審議を尽くさず、野党を無視して採決を強行するというのは議会制民主主義のルールを踏みにじる行為だ。それほどまでにして、安倍内閣は教育基本法を変えたいのだ。この急ぎぶりは、単純に考えてもおかしすぎる。

  法治国家においては、法律というのは国家の方針や国民の生活を規定するものだから、よほど注意を払って決められねばならない。むろん法律によっては、なるべく短期間に決めなければ国民の暮らしに支障をきたすというものもあるだろう。だが、教育基本法はそういう類のものではない。第一これは、いわば教育の憲法。国のあり方や、目指すべき方向に大きく関わる重要な法律である。国民にも広く情報を提供し、国民の声を聞き、……そして審議が必要であれば何年も何十年もかけて審議すべきものである。

  仮に――また仮定の話になるけれども、たとえ現行の教育基本法に「不都合」だったり「わかりにくい」ところがあるとしても、それによって教育現場がニッチもサッチもいかなくなっているわけではない。細かなことを具体的に決めた法律ではなく、「理念を述べた法律」なのだから。ほんの思いつきで例を考えると――たとえば現行法律で「人が亡くなった場合はすべて土葬にすべし」という規定があったとすれば、そりゃ、庶民は困りますよ(うーん、あまりいい例ではないな)。早く何とかした方がいい。でも、憲法も教育基本法も、そういう法律ではないのだ。

 それを今、なぜそれほどまでに急ぐのか。なぜ?と素朴な疑問を二度三度繰り返したとき、その陰に企てられているものがはっきりと見えてくる。私が愛読しているブログのひとつ「美しい季節とは誰にも言わせまい……」のnizanさん(余談/私はポール・ニザンが好きで、その小説の中から取ったこのタイトルが妙に気に入って訪れ始めたのが最初だった)が、こう書かれていた。

【教育基本法特別委員会において 野党欠席のまま、ヤラセ問題も論議されず、多数の子供や教師が自ら命を絶つ世情のなかで、ファシストどもがほくそ笑む日。今日は2006年11月15日。この日を忘れまい。】

 付け加える言葉はない。強いて付け加えるとすれば――ファシズムの新たな幕がいま、開かれた。忘れない。そして許さない。いつかこの世を去るときに、先に逝った愛する者達に合わせる顔がなく、別れゆく愛する者達に対して恥ずかしく、どうか私の死に顔を覆ってくれと呻き泣くような悲痛を味わいたくないがために、私は安倍政権を、そしてすべての安倍政権と同類なるもの糾弾し続けたい。 

◇◇◇◇◇

※教育基本法改定に関連したエントリを、いくつか挙げておく。興味を持ってくださった方があれば、お暇なときにどうぞ。

いよいよ愛国心の時代 

教育基本法の先取り

足元が揺れる気配

愛国心はなぜ危険か

法律「以前」の問題? それならばなぜ……

教育「改革」って何だ

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注目!村野瀬さんの情報提供ブログ

2006-11-14 23:48:56 | お知らせ・報告など

お玉おぱさんでもわかる政治のお話」でも既に紹介されているが、村野瀬玲奈さんがブログを始められた。村野瀬さんは各所のコメント欄で意見を述べられているので、御存知の方も多いと思う。また、以前「死刑廃止リレーエントリ」を試みたときは貴重な資料となるフランスの文献を翻訳してメール等で配布してくださるなど、積極的な情報提供もしていただいてきた。

 ブログの主な目的はその延長線上にあるようで、多数のブロガーに役立つ情報を提供すること――とりわけ有権者の声を政治家やマスメディアなどに届けるための名簿の作成・管理。

 と言うわけで、ブログ名も「秘書課、村野瀬玲奈です」だそうである。

 村野瀬さんに感謝して、皆さん、大いに利用させていただきましょう。 

 

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ファシズム仕上げ政権(UTSコラムに掲載)

2006-11-13 23:16:44 | 現政権を忌避する/政治家・政党

〈お詫び〉

 最近、たまに記事が消滅する。パソコンが悪いのか(古いパソコンをメモリなど増設して、だましだまし使っているのだが、そろそろ寿命かも知れない……)、それとも私が悪いのかは知らないけれど(これも大いにあり得る。私はおっちょこちょいで、しばしば必要なものまでうっかり削除してしまうのだ)。すぐ気がつけば同じようなことをもう1度書くが、何日か経って発見した場合はそこまでする気になれない(たとえば先週末にも、11月4日のエントリが消えていることに気がついた。まったくの覚え書き程度のものならまあいいが、あれは1人でも多くの方に訴えたいことだったのでゲソッとした)。寝言みたいなものなんで、ブログの記事はバックアップしていないし。前の記事を見てくださって、「何だこれは。タイトルだけじゃん」と首ひねられた方……申し訳ありませんッ。

 ともあれそんなわけで少々気が抜け、3日ほど記事を書かないどころかTBもろくにチェックしていなかった。送って下さった方、すみません。さっきちゃんと読み始めたところです。

 さぼり癖がつきそうなので(いや、ついてもかまわないのだが。大したこと書いてないし。ただ、メモを残す癖まで薄れると私としては怖い)、Under the Sunの連載コラム「新政権」で書いた記事を以下に転載しておく。

◇◇◇◇◇◇

「新」という字には何となく心を躍らせる匂いがある。新年、新緑、新生、清新、斬新。新入生とか新生児などというのも、いかにも未来を感じさせる言葉ではないか。新政権というのも本来は希望に満ちているはずなのに、ついこの間成立したばかりの安倍政権は明日に希望を繋げる要素がまるでない。KUMAさんの「不安倍増内閣」(10月25日)には腹を抱えて笑ってしまったが、笑っている場合ではない……。辛うじて評価できるとすれば、発掘屋さんが書かれたように「さまざまな問題を白日の下にさらした」(11月3日)ということだろうか。

 いや、いまにも一雨来そうな暗灰色の空のような、うっとうしくかつ不安な雰囲気を感じるのは、今回の安倍政権誕生の時が始めてではなかった。その前の小泉政権も、そのまた前の森政権も……。もしかすると私達は、心から歓迎できる新政権を持ったことがないのかも知れない。そして政権が新たになるたびに、「最低」が更新されていく。
   
 小泉政権が誕生した時、私は「これは生まれるべくして生まれた政権」だと感じた。小泉純一郎という政治家が「変人」であったために、世の中が無茶苦茶にされたわけではない(トンデモナイ男だということは確かであるけれども)。昔のドイツだって、ヒトラーというたった一人の男がいたためにあのような国になった、というわけではない。ヒトラーがある意味で時代(社会状況)が生んだ怪物であったと同様、小泉もまた時代の子であったと思う。緩やかにファシズム化の道を歩んできた日本において、一種の「ショック療法」(教育再生会議も、ショック療法という言葉を使っている……)のような形で飛び出してきた首相であった。

 そして安倍政権は……は、ついに生まれた「ファシズム仕上げ政権」であるような気もする。小泉政権下では愛国心その他、それまでしつこく囁かれ続けてはいたが言う方もやや及び腰だった言葉・言葉・言葉が臆面もなく剥き出しにされた。格差も事実上肯定された。それに対する反発はむろん存在したけれども、怒りの声は国を揺るがすほどの力にはならなかった。「ここまで言っても大丈夫」「ここまでやっても大丈夫」という判断の下で、安倍晋三が首相に就任したのである。安倍首相の祖父である岸信介は60年安保で国内が騒然とした時だったか、「それでも後楽園球場は一杯だ」と言ったとか(うろ覚えなので、細かい点は間違っているかも知れない)。多くの国民は安保条約なんかに関心持ってないし、自分達の日常生活や、ささやかな楽しみの方がずっと大切なんだ、と言いたかったのだろう。小泉――安倍と継承された政権の中枢にいる者達も、おそらくそう思っている。

 むろん私も、自分の生活が一番大事である。できる限り他者を押しのけたり傷つけたりせず、同時に何ものにも束縛されず自由気ままに1日1日を生きてゆきたいだけだ。食い扶持を稼ぐだけの仕事はするとしても、他の時間は好きな本を読んだり、時には海辺でぼんやりと空想にふけるなどしていたく、本当のところは国がどうの、政治がどうのなどと口角泡を飛ばして議論などしたくない。だが逃避志向のある私でさえささやかな行動に参加せざるを得ないほど、時代はひそかに切羽詰まってきた。

 ウンベルト・エーコの言葉によると、ファシズムとは「いかなる精髄も、単独の本質もない、ファジーな全体主義」だそうである。さすがにうまいこと言うなあ。うん、なるほど。辺見庸は『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社刊。この本は少し前に自分のブログでも紹介した)の中で、日本のファシズムは「あらかじめのファシズム」だと言っている。「なからずしも上からの強権発動によらなくてすむ、全体的協調主義」「下からのファシズム」「私たちが躰のすみずみまで染みこませたファシズム」であると。少し、同著の一文を引用する。

【私はまったくコイズミには関心がありません。ただ、よく考えてみれば、われわれはあのような者どもを税金で多数飼ってやり、贅沢な生活をさせてやっている。いや、逆に、われわれはいつしか彼らに飼われ、ほしいままに扱われ、操られ、もてあそばれている。そのことは恥ではないか。われわれはああいうファシストを飼っていると同時に、飼育されてもいる。そしてそれは外部に飼っているだけではない、われわれの躰のなかにも飼っているのであり、とりもなおさず、われわれが飼いならされていることになる。】

 弄ばれた末に、私たちは「教育基本法も憲法も変えられる」「多くの国民は多少グズグズ言ったとしても、最終的には上が決めたことにおとなしく従うはず」と舐められたのである。日本人が「おとなしい国民」であるかどうかは、私にはわからない(○○国民論、などというものはやりたくない気持ちもある)。だが、うまく飼いならされているなという気はする。

 以前からよく聞く「日本人は自己主張が少ない」という意見にも、あまり賛成はしてない。ひとりひとり見ていれば、結構、自己主張する。もっとも私は自己主張というものを、無条件で「よいこと、賞賛すべきこと」だとも思っていない。たとえば大勢で誰かの家に遊びに行って食後「コーヒーと紅茶とどっちがいいか」と尋ねられた時。どっちかと言えばコーヒーがいいなと思っても、他の全員が紅茶といえば私は自分も「じゃあそれでいい」と言う。1人分だけ別のものを煎れる手間をかけさせることはない、と思うからだ。だが、実は巷にはこの手の自己主張があふれている。コーヒーにするか、紅茶にするか。カレー店に行くか蕎麦屋に行くか。年賀状を毛筆で書くか家族写真にするか。そんなところで一生懸命自己主張して、どうすんだ。

 もしかすると、そういう「個人の好みだろ、どうでもいいじゃん」ふうの部分で自己主張のエネルギーを使わされ過ぎて、肝心の所でおとなしくなってしまったような……気もするのだ。私たちは今、「全体協調主義」「あらかじめのファシズム」に渾身で抵抗しなければいけないのだが、主張する場所を間違えてはいけない。最低の更新にいささかうんざりして「あーあ、まだ続きがあるのかよ」と肩をすくめているうちに、私たちは土俵際に追いつめられていた。もう後はない。

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首相は空き缶ポイ捨て話がお好き

2006-11-10 23:16:04 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 ずいぶん前に、安倍首相の『美しい国へ』を読んだ感想を書いた(当時は官房長官)。何人かの方から「わざわざ読みましたか、お疲れ様」と苦笑混じりのコメントをいただき、何でも読みたがる自分の悪癖にちょっと恥ずかしい思いをしたが……読んでおもしろかった(?)とは今も思っている(立ち読みすればよかったという後悔はあるけれども)。

 この本は腹が立つこと、唖然とすることが満載。 そのひとつに、日常的なモラルと「国に対する愛」を結びつける記述がある。かなり粗雑な結びつけ方だが、粗雑であるがゆえに、うっかり読み飛ばせば納得しかねない怖さがあった。好例は「空き缶ポイ捨て話」。

【飲み終わったジュースの空き缶を平然と道端に捨てられる人は、その土地に愛着を持っていない人だ】(同著94ページ)

 空き缶ポイ捨てはよくないという話が、愛国心に結びついていくとは……と驚いたが、安倍首相は空き缶話が好きらしい。去る8日におこなわれた民主党・小沢党首との党首討論(注)でも、教育問題のところで空き缶の話を持ち出した。「子どもが海で空き缶を投げたら注意しなければならない。また、投げないよう子どもに社会規範を身に付けさせなければならない」というのである。

(注/参考=自民党公式サイト民主党公式サイト

「今起こっている問題に対応するためには新しい理念と基本的原則を示すべきだ。規範を身につけ、公共の精神を培い、社会に参画し、貢献する態度を養い、道徳、自立の精神を教えていく必要があるだろう。現行法にはそれが欠けている」と安倍首相は発言し、教育基本法改定の必要性を訴えた――そうである。

 そりゃ私だって、空き缶ポイ捨てはよくないと思いますよ。でも今の教育基本法では子供に「空き缶のポイ捨てはよくない」と教えられない……って、嘘でしょう。

〈教育基本法第一条(教育の目的)〉教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

 これで充分、教えられるのではありませんかねえ……。

 私は平易な表現が好きだし、物事はできるだけわかりやすく表現すべきだと思う。ただし間違ってもらっては困る。「平易でわかりやすい」ことと、「粗雑で、一見わかりやすそうに見える」のは全然違うのである。「子供に空き缶ポイ捨てはいけないと教えるには、基本法を変えなければ」と言われて「へえ、そうなんですか。なるほど」と頷くと思われているなら、私達はよほど舐められている。

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ねえ君、それは「個性」とは言わないと思うが――「いじめ」アンケートを巡って

2006-11-07 23:43:48 | 教育

 NPO法人「ジェントルハートプロジェクト」が小中高生約1万3000人を対象に「いじめ」に関するアンケートをおこない、その結果をまとめたというニュース(毎日新聞)があった。

 私はこのNPO法人については全く知らなかった。また、アンケート調査というのは設問によってかなり恣意的に答えを引き出せるものでもあるので、このニュースを即、100%信用する形でものを言う気はない(これはすべての情報に対する私の姿勢でもある)。ただ、大いに参考にしたいとは思う。

 報道によると、「いじめる方が悪いと思うか」という問いに対し、「はい」と答えた割合は小学校では60%を超えるが、中学高校では40%台。「いじめられても仕方ない子はいるか」に対して「いいえ」と答えた割合は小学校で辛うじて過半数、中学では40%を切ったという。また「いじめはなくせるか」という質問に対しては、学年が上がるほど「はい」と答える率が減っていたという。

 子供の頃は、誰でもまだ素朴で純粋な正義感を持っている(私はそれを貴重なものであると思ってもいる。できれば私自身、死ぬまで子供のような純粋さを保てればこれほど嬉しいことはない)。だが、年齢が高くなり、世の中の風潮や価値観と否応なく妥協せざるを得なくなるにつれ、それが失われていくということだろうか。少し前には(どのぐらい前かと聞かれると明確に答えられないのだけれども)小学生のみならず、中学高校、いや大学生になっても、子供のような正義感を持つ人が多かったような気がする。今より人間が高尚だったということではなく、「それがまだ許される」世の中だったのだろう。

 この「アンケート結果」は、世の中が確実に悪くなっている、息苦しくなっている、ということを、証明――とまではいかないが、何となく感じさせるものではあるまいか。

 アンケートに答えて、公立小学校6年生の男子生徒からこんな意見も出たという。「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」。

 私はこれを読んだ時、ギョッとして、一瞬、頭の中からすべての言葉が消滅するような感覚に襲われた。こ、こせい……。私は昨日「奪われた言葉たち」という、まとまりのつかない文を書いた。うつくしかったはずの言葉が奪われ、泥まみれにされているのが辛くてつい愚痴を言ってしまったのだが……ああ、「個性」という言葉もはっきりと奪われていたのだ。

 そりゃ、個性と言えば個性かも知れない。その個体に特有の、他とは違う特徴、という意味でいえば。他者をなぶり殺しにしたいという衝動を持つのも個性だし、人を騙すことに喜びを持つのも個性であろう。だが……個性という言葉には本来、それこそ「うつくしい」意味合いがあったはずではないか。

 ひとりひとりの個性を伸ばす教育、などという空々しいお題目が蔓延して久しいが、そこで言われる個性なるものは、「国家にとって有用なもの」あるいは「華やかに注目されるもの」でしかない。頭の回転が速いという個性、記憶力が優れているという個性、理路整然とものごとを喋れるという個性、リーダーシップをとれるという個性……エトセトラ。「同級生の何倍も時間をかけてゆっくり考える個性」とか「社会の隅々に存在する差別に繊細に反応して心を痛める個性」などは、めったなことでは尊重されない。

 個性、個性とギスギス強調される中で、おそらく「個性競争」に新しい局面が生まれたのだ。普通の人間が眉をひそめるような極端なことを言い、跳ね上がるという……。もしかすると昨今増えているという右翼的な発言をする若者も、個性競争の中でもがいた揚げ句、そういう道を発見したのかも知れない。

 自己チューの私は、先のような発言に接すると、しみじみ「子供がいなくてよかった」と思ったりする。もしも自分の子供が「いじめをするのも個性」などと言ったら、私は絶句し、自分の存在を根底から否定されたように感じ、そういう子供を育ててしまった自分を許せないと思うだろう……。だが、考えてみれば私に子供がいるかどうかなど大した問題ではない。そういう子供を生み出してしまったのは、私達おとな、全員の責任なのである……。 

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奪われた言葉たち

2006-11-06 23:50:26 | 本の話/言葉の問題

〈言葉が食い荒らされている!〉

 昨日、辺見庸の『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社刊)を読んだ。辺見庸は2004年3月に脳卒中で倒れ、その後ガンも発見されて闘病中。「気まぐれな執筆もテーマのほしいままの選択ももはや許されないという気分になり、〈いつか〉を〈今すぐ〉に前倒ししなければならない、という衝迫にかられた」と著者は言う。同じ思いで書かれたものとして『自分自身への審問』(刊行は同じ)という本もあり、どちらもこれだけは言っておかねばという激しい思いと共に吐き出された言葉・言葉・言葉が読み手に息苦しいほどに迫ってくる。まだ読まれていない方にはぜひ一読をお勧めする。

  この本の紹介をしようかと思ったのだが、軽々しく感想めいたことなど書けないという気もして、茫然と立ち尽くしてしまう。今夜はひとまず、後書きを読みつつ思い至ったことなどを書いておきたい。

『いまここの在ることの恥』の後書きに、次のような一文がある。

【能弁はこの際、はなはだ怪しいこと。訥言はいっそ安心できるけれども、訥言を装った性根の腐った能弁だって大いにありえること。とりわけ、資本がほとんどの言葉を食いあらし、言葉とは資本の領地のお飾りどころか、言葉がそのまま資本と化する、この貧しい時代にあっては】

 辺見庸が語ることとはニュアンスが違うかも知れないが、私はいつも「自分達の言葉が食い荒らされている」「言葉が奪われている」という思い(恐怖)を抱き続けている。実は昨日、人と会った時にも「私達は言葉を奪われているのだ」という話が出たような記憶もある。……

 私はさほど敏感な人間ではないけれども、「言葉」にはかなり神経が尖る。言葉に敏感でありたいと思っている、と言った方がいいかも知れない。で、表現とか言葉とかいうものについて、何度かこのブログでもウダウダと寝言を書いてきた。たとえば「平易な表現ということ」「平易な表現には品性が露出する」等々。平易な表現というものについこだわる理由はこれらの記事の中に書いたけれども、ほかにもひとつ、「観念的な言葉」「重みを持った(はずの)言葉」が、いつのまにか奪われていると感じているのも理由であるかも知れない。

〈言葉が成り下がっていくさまは、あまりに悲しい〉 

 思えば、本来は「珠玉のよう」であったはずの言葉がひとつ、またひとつ、食い荒らされ、傷つけられ、泥まみれにされて卑しげに成り下がった。手垢にまみれた――などという言い方では、まだなまぬるい。

 たとえば「志」、たとえば「愛」。たとえば「品格」、「尊厳」、「自立」、「共生」、「アイデンティティー」、「社会参加」……。昨日のエントリでちょっと触れた「選択の自由」も、しかり。(しつこいようだが……少し前に記事に書いていろいろ批判を受けた「自己実現」などもしかり、かな。笑)

 少し前に、私がその感性に瞠目するブロガーのひとりであるぷらさんが、「愛と美しいの連発にはご用心!」という記事を書いておられた。そう、多分私のように独りよがりなストレートを投げるよりも、こういう表現をした方がわかりやすいのだ(反省)。「愛」と「美しい」だけではない。すべて、かつては限りなくうつくしく、人の心を打った言葉たちが、目を覆うばかりに薄っぺらいものに成り下がった。仲間を出し抜いてちょっといい目をみるのが志であったり、弱者を石もて追う時の武器が自立という言葉であったり、幻の国家に身をくねらせてすり寄るのがアイデンティティーであったり……。

 別に一日中、テレビの前に座っていたり、週刊誌の三文情報を読みあさらなくたっていい、ちょっと街を歩けばそこかしこに食い荒らされた言葉が満ちている。駅に貼られたポスターに、駅前で配られるティッシュに、マンション分譲中の看板に。時給数百円のアルバイト募集のチラシに「自己実現」や「社会参加」などの言葉が踊るに至っては、ほとんど涙が出る。以前は、自分が妙なところで過敏なのかと思っていた。だが最近は、そうではないと確信している。私達の言葉は――強姦され、売られたのだ。たとえば選択の自由という言葉が台所の隅にまで転がり、食事の後でコーヒーにするか紅茶にするかといったどうでもいいことにまで使われるようになれば、誰が真面目に選択の自由という問題を突き詰めて考えるだろう。

〈言葉は奪い返せるか〉

 うつくしかったはずの言葉が軽く軽くなっていくことに私はほとほと嫌気がさし、随分前に「言葉を奪い返そう」という記事を書いたこともある。だがここへ来て、奪い返すなど無理ではないか、という絶望感にほとんど目眩を感じてもいるのだ。ひとは言葉を使ってものを考える。だから言葉を支配するというのは、ひとの思考を支配することでもある。ここ10年か20年か知らないが、ともあれ何年かの間に言葉は虚仮にされ続けてきた。いったん虚仮にされた言葉が、再びその命と重みを取り戻すことが出来るのだろうか。

 取り戻せるはずだという思いと、不可能に近いという思いの間で、私は揺れ続けている。むろん「不可能な場合」でも、抵抗の方法がないわけではない。奪われた言葉ではない、別の言葉を次々と創出していけばよいのだけれども。

 ただ、私達は「言葉を奪われる」ことにこれからも一層敏感でありたいと思う。言葉の怖さを軽視した者は、それによって復讐される。 

  

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小中学校の「特色づくり」?

2006-11-05 23:56:26 | 教育

 既に皆さん御存知で、唖然としておられるのではないか。学力テストの結果に応じて公立小中学校に配分する予算の一部に差をもうける、という話。昨日はそれに関する簡単な感想を書いたが、さらに続けて考えてみたい。私は教育関係の専門家ではなく、子供もいないため、小中学校の現状については常識程度の知識しか持っていない。はっきり言って疎いほうかも。専門家や子供を持つ人達から見ればピントはずれなところも多々あるかも知れないが……それでもやはり、もの言わぬは腹ふくるるわざとやら。自分が考えたことの記録という意味でも、書き留めておこうと思う。

〈差がつくのは特色づくり予算〉

 配分に差がつくのは、「特色づくり予算」というもの。特色づくりなる言葉がいつ頃から学校教育の場で声高に言われるようになったのかわからないが、おそらく10年足らず前に文部科学省(当時は文部省)が新学習指導要領を策定した頃からではないか。その中で「『生きる力』の育成を目指して各学校が特色ある教育を」といった類のことが言われていた。教育白書等を見ても、たとえば『平成12年度・我が国の文教施策』(2000年11月)には「教育改革の実現には、各学校が子どもや地域の実情に応じた創意工夫ある教育活動を展開」しなければならない、といった文言が見える。そして最近は、各都道府県・市町村の教育委員会でも、「特色ある学校づくり」をお題目に掲げるところがたくさんあるような気がする(細かく調べたわけではないので、あくまでも感触であるが)。

〈特色づくりと学校選択制〉

 特色ある学校づくり。あるいは学校の特色づくり――という言葉を聞くと、私の頭の中には連想ゲーム風に、2000年頃から出現し始めた「公立小中学校の自由選択制度」が浮かんでくる。公立の小中学校は指定校制度が採られており、原則として通学区域に基づいてどこの学校に通うかが決められている。その枠を外したのが「自由選択制度」だ。文部科学省の発表によると、2005年3月時点で小中学校共に自由選択にしている自治体は227(8.8%)、中学校のみ自由選択の自治体は161(11.1%)。都道府県別に見ると実施の割合の最も多いのは東京都で、特に区部では実施していない所の方がはるかに少ない。ほとんど圧倒的、と言ってもいいほどだ。むろん、今回問題の方針を打ち出した足立区も、選択制を採用している。

 選択制を導入した自治体は、口を揃えて次のようなことを言う。「好きな学校を選べるとなれば、各学校の特色づくりにも拍車がかかる。バラエティーに富んだ学校が出来、その中から自分に適した学校を選べるようになります」

〈学校格差の拡大〉

 学校選択制は「選択の自由」という旗印を掲げて登場したため、おおむね好意的な目で迎えられた。しかし本当に、すばらしいことなのか。

 東京で真っ先に選択制を導入したのは品川区だった。小学校は2000年、中学校は2001年にスタート。導入前から反対の大きな理由として「学校格差の拡大に対する懸念」が言われていたが、蓋を開ければそれがはっきりと証明された。「名門校」「伝統校」と呼ばれる学校への入学希望者が多かったのである(むろん器に限りがあるから希望者全員が入学できるとは限らないが)。最も人気のあるのは大井第一小学校。昔はここから伊藤中学→東大、というのが品川の典型的エリート・コースだったそうで、今でも私立中学への進学率が高い。品川区だけでなく、選択制を採った自治体では多少の差はあれ、ほぼ同様の問題が起きていると言ってよい。

 学校がはっきりランク分けされ、予算に差がつくとなれば、いっそう学校ごとの人気の差、学校間の格差が広がるだろうなあ……。

〈特色も横並び!?〉

 で、問題の特色づくりであるが……。こちらはいったい、どうなっているのか。最近は小中学校でもホーム・ページを作っている所が多いが、どこが個性的なのかよくわからない。豊かな人間性をはぐくむとか、一人一人の個性を大切にして教育するとか、似たような理念が書かれている。(失礼かも知れないが)似たような品揃えで、看板だけは麗々しい土産物店が並ぶ、観光地の駅前を歩いているような感じだ。それを言うと、ある公立小学校の教師が苦笑した。「そうかも知れません。みんな、一生懸命、作文してるんです……PRになるような文章作れと言われて」。個性的と言われても、あまり他校と違ったことを唱うと失敗した時が怖い。だから勢い、隣近所を見ながら横並びの「特色」を出してしまうのだ。

 中身にしても同じことで、どこかの小学校が「英語教育をやる」と言うと、ほかの学校も我も我もと「特色メニュー」に加える。あそこは英語を教えないから、と保護者からそっぽを向かれるのが心配であるらしい。みんなが同じことをやるならば、それは特色とは言わないと思うのだが……。横並びの独自性なんて、アリスの不思議な国にでも行かなければお目にかかれまい。もしかすると誰かの考えている特色とは、「学力」が高いとか低いとか、そういう話であるのかも知れない。

〈日本で「特色づくり」は可能か?〉

 教育学を専門とする知人に聞いたところ、そもそも今の日本では「公立校の特色づくり」など不可能――とまではいかないけれども、非常に困難だという。世界で最も学校選択制が進んでいるのはオランダだそうだが、同国では公教育に関する「上からの枠組み」は非常に緩やか。教科書検定などというものは存在せず、学校ごとに独自の教科書を選べるし、カリキュラムも大枠(最低のガイドライン程度のもの)が決めてあるだけでかなり自由に決められる。親たちが集まって子供達のために自分達の考え方に適した学校を作ることも出来、設立された学校には公費が支給されるそうだ。これなら確かに、「特色ある学校」ができる。

 それに引き替え、日本では指導要領によって教えるべきことが決められ、教科書も学校や親が自由に選べない。その上、公立小中学校の教師には人事異動があって都道府県単位で職場(学校)を移る(ヨーロッパでは原則として学校ごとに教師を採用するので、人事異動の形で他校に移ることはない)。特色を作りにくい仕組みなのである。

 本当の意味で学校ごとに独自性を持たせ、それを自由に選択できるようにするためには、日本の教育システムそのものを大幅に変える必要がある。その根本部分に眼をつぶったままでは、結局のところ「目先が変わった」程度のものにしかならない。最近、愛国心を涵養するとか、伝統がどうとか、口うるさく枠をはめようとする動きがある。それは本当の「選択の自由」とは相反するものではないのか。
 

 

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「学力テストで予算に差」……ニンジンぶら下げて競争させる気らしい

2006-11-04 20:20:52 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
(いつの間にか記事が消えていました。最近どうもパソコンの調子が悪くて、ときどき消滅します……)
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安倍「改憲」内閣、宣戦布告す

2006-11-01 20:41:04 | 憲法その他法律


 自民党が憲法改定に躍起になっていることは周知の事実だし、安倍首相がバリバリの?改憲論者であることも既にひろーく知られている。だから今さら何を聞いてもいちいち驚かないつもりだが、こういうニュースに接すると丸腰の庶民のひとりとして、やはり素直に驚く。と言うか、ギョッとする。

――安倍首相、任期中に改憲したいと言明――

 新聞各紙などで報道されているので皆さんとうに御存知と思うが、一応、新聞の記事を挙げておく。

【安倍首相は31日、米CNNテレビと英紙フィナンシャル・タイムズのインタビューに応じ、「自民党総裁としての自分の任期は3年で、2期しか務められない。任期中に憲法改正を目指したい」と述べ、憲法9条を含めた改憲に強い意欲を示した。(中略)この日のインタビューでは、改憲の理由として①現在の憲法は独立前に書かれた②60年たって時代にそぐわない条文があり、新しい価値も出てきた③自分たちの手で憲法を書くという精神が新しい時代を切り開いていく――の3点を挙げた。その上で、「時代にそぐわない条文として典型的なものは憲法9条。日本を守るとの観点、国際貢献を行っていく上でも憲法9条を改正すべきだ」と強調した】(11月1日付・朝日新聞)

 向こう6年の間に憲法を改定するというのだ。安倍「改憲」内閣が、いよいよ決意を表明し、現憲法に対して声高に宣戦布告したと言ってもいい。

 日本を守るという観点がうんぬん――だそうであるが、国を守るというのは国体を守ることか、国土を守ることか、一部の選別された人々を守ることか、そこに住むすべての人々の命と暮らしを守ることか。むろん国民を守るということです、という言葉が聞こえてきそうだけれども……昔々から、「国」(あるいは村でも何らかの集団でも、何でもいい)を守るという掛け声がかかるたびに、人間が自分達が少しでも暮らしやすくなるようにこしらえたはずの単なる枠組みが人間の上に君臨し、足弱な人間を切り捨て、その他大勢の人間を使い捨ててきた。

「国あっての民」へと、飼いならされまい。私達に――守るべき「国家」は、ない。

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