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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

民主党執行部総退陣のニュースに接して

2006-03-31 22:10:04 | 現政権を忌避する/政治家・政党
民主党の執行部、総退陣――。

【民主党の前原誠司代表は31日午後、党本部で開かれた臨時役員会で、「送金指示」メール問題で党の信頼を失墜させた責任を取り、代表を辞任することを表明した。前原氏は「メール問題で政治決断が必要だった。自らに最大の政治責任がある」と辞任の理由を説明、党の態勢立て直しに向け、協力を要請した。鳩山由紀夫幹事長らも同時に辞任し、同日のメール問題調査報告書の公表を契機に執行部体制の一新を図る。
 後継代表には小沢一郎前副代表、菅直人元代表らの名前が挙がっている。永田寿康議員(党員資格停止中)は31日中に辞職願を衆院議長に提出する考えを民主党幹部に伝えた】(3月31日、共同通信)

「とくらブログ」さん(http://ttokura.exblog.jp/m2006-03-01/#3117712)の所にもコメントを入れたのだが、私は実のところ、「こんな形で(つまりこんな事件で)」民主党の前原代表が辞任するというのは残念だ。前原代表を支持しているわけではない。むしろ逆で、「こんな政治家を代表にしているとは民主党も情けない限り」と思っていた(以前から松下政経塾を胡散臭い目で見てもいたし)。しかし――前原代表は、「その考え方のベクトル」や、政策の誤りを明らかにすることで退陣に追い込みたかった。最も問題視すべき部分で、追い込みたかったのである。それが実現する前に、こういうつまらない(と、あえて言う)事件で尻尾を巻くところを見るのは残念でならない。「その考え方のベクトル」が否定された上での退陣でない以上、彼(および彼と同質の民主党議員たち)が、再び党の中心に座る可能性も少なくないのだ。

変なたとえだが、ある小学校で生徒に「日の丸、君が代」を強制するばかりでなく、「国を愛せない奴は出て行くべきだ」「日本も正式な軍隊を持つ、世界に冠たる強い国になるべきだ」「正義の戦争というものも存在する」などとトンデモ教育を施す教師がいた。仮にA教師と呼ぶ。さすがに保護者達は驚き、それこそ「愛国心大好き」傾向のある親や「左嫌い」の親たちでさえ「行き過ぎじゃないの」と言い出して、保護者会を挙げて、彼の教育姿勢を問題にし始めていた。実はこの小学校には、A教師以外にも、何人か同じような考え方を持つ教師がおり、A教師ほど露骨な言葉ではないが、生徒達にコマッタ教育を施しつつあった。A教師に対する抗議運動は、そういう「考え方」そのものを批判する運動でもあったのだが……。

そんなある日、このA教師の息子が幼児誘拐殺人を犯した。そのことでA教師はマスコミに追いかけられ、近所からは「教師のくせに自分の子供をちゃんと教育できなかった」と白い目で見られ、……挙げ句の果てについに教師を辞職した。

そのおかげで、A教師の教育の誤りを追及していた運動は空中分解。A教師はやつれはて、妻もウツ病になったということもあって、「子供が犯した犯罪のせいで職を失って気の毒」などという声も聞かれ始めた……。

そういう話と、ほんのちょっと似ているような気もするのだが……。考えすぎだろうか?(いや、まだ前原代表への同情の声などがあがっているわけではないが、そのうち囁かれ始めるような気がして仕方ない……)

う~ん、ともかく私としては、ずぁんねんである。まあ、今後の民主党を少し見守ってみたい、という気はするけれども。

コメント (7)
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与太話「こんな国家」その2

2006-03-30 05:09:28 | 箸休め的無駄話
前回、極小独立国家というのも、いいんでないかい?という突飛な妄想を書いた。悪乗りして、ますますしょーもない続編を。「こんな国」を覗いてみた……という妄想である。(馬鹿話してる暇があったらもっと現在の切実な問題を真面目に考えろとおっしゃる方もあるだろうな……すみません。実はこのところ心身の調子が悪い。ペースを取り戻すためには好きな本を淫するように読みふけるか、くだらないことを考えるのが一番……少なくとも私の場合は。というわけで、覗いてくださってあきれかえった方、御容赦のほど)

言い訳めいた前置きはそのぐらいにして――

2×××年3月◇日(土曜)午前10時前
場所はアサボラケ国の役場……ではない、国会議事堂前の大広場。

 10時から今月の住民総会……ではない、国会が開催されるので、広場には三々五々住民が集まりつつある。議事堂は鉄筋コンクリート造の堂々4階建てで中にちゃんと大会議室もあるのだが、気候のいい時はたいてい広場で開催されるのだ。

 80年ばかり前に「日本」という名で呼ばれていた国は既に存在せず、現在はほとんど無数と言ってよいほどの極小国家に分かれている。こんな形になったのは、「旧日本」ばかりではない。実は100年ほど前から世界中でミニ国家の独立が相次ぎ、結果として昔の国名は跡形もなく消えてしまった例もいくつかあるのだ。世界中見渡せばミニ国家といっても人口100万人単位の所もあるが、アサボラケ国はミニ中のミニ。山林がある関係で国土の割に人口は少なく、7000人にやや欠ける。弱小国、などと言う人もいるが、住民、いや国民は気にしていない。なぜなら人口が少ないせいで、直接民主制を実施できるからだ。定期国会は毎月1回、ほかに何かあれば臨時国会が開かれ、そのつど18歳以上の国民が議事堂に集まる。むろん出席率100%とはいかないが、50%以上の出席がなければ議会が成立しないので、隣近所で誘い合わせて出かける習慣がつき、いつもだいたい60%は堅い。

 山田一太郎も妻の春子と一緒にやって来た。友人の鈴木良夫一家がゴザを敷いて座っているのを見つけ、自分達も隣に持参のゴザを敷く。ちょっと挨拶をかわした後、開会までの時間を世間話でつぶす。
「今日は、みいちゃん達は一緒に来んかったんか」と良夫が聞く。みいちゃんというのは一太郎・春子の長女で、アサボラケ国立銀行で働くシングル・マザー。昔は銀行といえば合併に次ぐ合併で巨大組織だったらしいが、今はどの国でも従業員100人に満たないのが普通である。アサボラケ国立銀行の場合など、せいぜい50人程度ではないか。その娘は去年、ナニワ国の大学を卒業した。ナニワ国はアサボラケ国から約200キロ離れた、この地域最大の国。アサボラケ国にはまだ大学はなく、大学に進学したい若者はみな外国の学校に行かねばならない。比較的近いヘイジョウ国あたりの大学なら自宅から通学できるが、ナニワ国の場合は難しく、一太郎の孫娘も在学中は大学の寮に入って週末ごとに帰国するという生活であった。卒業後はこちらで小学校の教師をしている。

「いやあ、実は今日は孫の結婚式なんや。当人同士と親だけでやるっつうことやから、ワシらは出んけどな」
「えっ。知らんかった。相手は何処の息子や」
「おまえは知らんわ。ナニワ国のほうで、知り合うたらしい。イセ国の生まれや言うてた」
「えっ。イセ国の子ォと、コクサイケッコン」と良夫は目を丸くしたが、別に国際結婚に驚いたわけではない。今日び、国際結婚など珍しくも何ともなく、アサボラケ国の国民にしても国際結婚の方がはるかに多い。驚いたのは、イセ国という相手の男の所属国に対してである。イセ国は王制を採っている。国王はテンノーと呼ばれ、旧日本国の「象徴」と呼ばれた一族の末裔であるらしい。一太郎も良夫も詳しいことは知らないが、テンノーはシントウと呼ばれる宗教の祭主でもあるらしい。ほかにもナス国とかハヤマ国とか、いくつかテンノーの一族を元首として戴く国があり、それらの国々は宗教的な親近感に基づく友好条約を結んでいる。それはともかくとして、これらの国家は国民のほとんどがシントウの信者であると聞く。

 こういう「ひとつの宗教の信者達が集まった国」は、ほかにもある。そして、シントウの信者は他の多くの宗教の信者がそうであるように、異教徒との結婚をしぶる。国際結婚が当たり前とはいえ、良夫らの知る限り、これまでアサボラケ国民がイセ国の国民と結婚した例はない。イセ国は鎖国しているわけではないが、帰化条件が厳しいとか、信者以外の他国人が観光であれ商用であれ3日以上滞在する場合はビザが必要であるなど、他国との交流にやや消極的なせいもあるだろう(もっとも、そういう国はシントウ国家以外にも幾つもあるが)。
「いや、生まれがイセ国いうだけや。別にシントウの信者いうわけやないんやと。で、大学出てすぐナニワ国の国籍取ったそうや。仕事もナニワ国でしとる」

「ふうん。で、国籍はどうするんや」
 ミニ国家がひしめき合うようになってから、いくつも国際条約が結ばれた(むろんすべての国が、すべての条約に調印しているわけではないが)。そのひとつに、夫婦が別々の国籍を取得することを認める、というものがある。婚姻関係を結ぶのは個々人の問題であり、夫婦は法律上の単位ではないという考え方から出てきたものだが、国籍が違うと実生活上で面倒なことが多く、別国籍の夫婦はごく稀にしか見られない。
「こっちの国籍にするらしい。婿になる子ォは、アサボラケ国が好きで、ここに住みたい言うとるそうやし」
「そやかて、ここからナニワ国まで通うのは難儀やで。あんたの孫娘は職場が近くてええやろけど」
「いや、こっちで働きたいんやて」
「ふうん」と良夫はちょっと嬉しそうな顔をする。アサボラケ国の人口は7000人弱だが、これでも随分増えたのである。独立国家になった頃は、5000人台であったらしい。人口が増えたのは出産が多いためではなく、ここ20年ばかりの間に他国からの帰化者が相次いでいるためだ。むろんアサボラケ国から他国に国籍を移す者もいるが、それよりも帰化する人数の方が多いため、じりじりと人口が増えてきた。やたらに増えるのも困りもの、という面はあるが、この国に魅力を感じてくれる人が多いのは国民にとって快い話だ。途中で随分失敗もしたが、すべて自分達で決め、自分達で手作りしてきた国なのだから。

 突然、春子が「あっ、ばばさまが来た」と叫んだ。視線の向こうに、車椅子に乗った婆さんの姿が見える。アサボラケ国最高齢者、そして首相の田中アンナさんだ。いやしくも?独立国である以上、元首(代表)は必要である。元首の選び方は国によってさまざまだが、30年ほど前まで、この国では議会の議長が首相を兼ねていた。ちなみに議長は選挙によって選ばれるのではなくくじ引きで決まっていたのだが、何の権限もない飾りであっても、1度はなってみたい人間はいるらしい。くじの不正が続出してゴタゴタした結果、国会で「最高齢者を首相にしよう」ということに決まったのだ。108歳の田中アンナさん(彼女が生まれた頃は、子供にカタカナのしゃれた?名前をつけるのがはやっていたらしい)が首相になったのは2年前。当時から多少ボケて……ではない、認知症のケがあったが、首相の仕事など大したものではない。他国との外交の場で挨拶してさまざまな文書に署名するとか、国会の開会時や学校の入学式・卒業式で挨拶するといった程度だから、少しぐらいトンチンカンでも用は足りる。入学式で「あけましておめでとう」と言ったり、国家公務員が作成した短い挨拶の言葉も忘れて突然にオペラのアリアを歌い出したりすることもままあるが、それもまあご愛敬だ。アンナさんはむかし声楽家として活躍していた人なので、今でも(さすがに声量は衰えたが)声はいい。実のところ、紋切り型の挨拶よりも、ソプラノの詠唱を聴くほうがいいと思っている人も少なくない。

 そしてひとつ大事なことは、アンナさんは現在のような極小国家乱立になった時代の生き証人でもある。かつて日本と呼ばれていた国が音を立てて崩壊し始めた頃はまだ子供だったそうだが、その後20年近く続いた動乱は目の当たりに見聞きしている。歴史の証人としても貴重な人物なのである。何しろ当時の事情を知っている人は次々と亡くなっているのだから……。

首相が到着し、いよいよ国会の開幕――続きは適当な時に、また。

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与太話「こんな国家」

2006-03-29 01:21:27 | 箸休め的無駄話
BLOG BLUESさんが『小泉劇場政治にさよならを告げて』というエントリで、「政局ばっかで大局を示さない政党はスルーして、僕らが、これからの日本社会のグランドデザインを、考えてみようじゃありませんか。」と言っておられた。
(http://blogblues.exblog.jp/)

記事内では、グランドデザインの例として〈Make Your Peace〉さん、〈とりあえず〉さん、2者のエントリが紹介されている。

どういう社会がいいか? う~ん。私はとてもお二方のようなまともな論は立てられないが、突飛な思いつきを書いてみたいと思う。遊んでるんじゃない! と真面目な方には叱られそうだが、考えが煮詰まった時は馬鹿馬鹿しいことを考えて一度頭の中をシャッフルすると、突然何かがひらめくこともある。生真面目な方にはお勧めである。(もっとも、私はたいてい馬鹿馬鹿しいことしか考えていないのだが……)

さて、「こんな国家、こんな社会はどうよ?」であるが――たとえば「極小独立国家」というのはどうだろう?

市町村単位で独立国家になる(東京をはじめとする大都市は区の単位で)。なお、県単位ではちょっと大きすぎる。みんな顔見知り――とまではいかないが、知り合いをたどればたいてい何かの関わりが出てくるとか、20~30%ぐらいは何処かで顔を合わせた覚えがあるという程度で、しかも自分の足で一巡できる大きさの単位として、仮に市町村を考えた。

共和制、王政(って、誰が王位に就くのだろう?)、何でもあり。法律もむろんそれぞれ独自のものが作られるわけで、「国旗や国歌」も定める国あり、定めない国あり。義務教育の年限や教育方針なども、もちろんそれぞれ違う。

たとえば次のような国も出てくる。
◇直接民主制を採用し、ものごとはすべて、国の構成員のうち成人に達した者達が国会議事堂(昔の村役場)に集まって決める。何かあるたびに集まっているのでは生活や仕事に支障が出てくるので、法律はごく単純化。たいていのことは近所で話し合って決めるという流れに。
◇国会議員に政治を委ねるが、議員は選挙ではなく回り持ち(マンションの管理組合の感覚)。同一の人物が2期以上連続して務めることは出来ない。外交?などの必要上、首相を選ぶが、首相はいわば「右、代表」であって実際には何の権限もない。
◇収入の半分以上(60%以上?)を税金として納める。ただし住居や医療費、教育費は無料。傷病で働けなくなったり、年をとった場合は直前までの納税後所得が保障される。ちなみに土地はすべて国家?のもので、私有することはできない。
◇ある宗教の信徒ばかりが集まった宗教立国。教主(生き神さまでも何でもよい)のもと、教義に従って生活する。
◇その他、「親孝行」などの道徳を厳しく教育する国、完全自給自足を目指す国、国営のカジノで外貨獲得を図る国、法律や条例はすべて地方の方言で書き表す国、死刑を廃止する国、結婚制度を廃止する国、税金はすべて間接税という国、酒・タバコは禁止という国、それこそ何でもありなのである。

さて、極小国家が乱立すると次のようなことが起きてくる。
◇隣の国(現在の感覚では隣の町村)はもちろん外国だから、行くにはパスポートが必要。国民は通勤・通学定期の感覚で、パスポートを携えるようになる。あるいはみんなが面倒になり、いくつかの国では条約を結んでパスポートを不要にするかも知れない。
◇ともかくバスや電車に乗ればすぐに国境を越えてしまうし、「仕事で毎週、隣の国に行く」人、「月に1度は3つ先の友人の家に遊びに行く」人、「大学は遠い国に留学した」人……などが大勢いて、「国」や「国境」の意識は次第に薄れてくる。
◇代議員制をとる国の場合でも、議員はいわば「近所のおっちゃん、おばちゃん」。あまりエライ人だという意識は湧きにくいし、議会の傍聴もやろうと思えば簡単。
◇中には軍事を重視する国も出てくるだろう。徴兵制を採り、軍備に力を入れる。だが数万~10万人程度の国で軍備といっても、まさか今の日本の自衛隊のような軍備を整えられるわけはない。戦争ごっこのようなチャチなものになるのがおち。

そして――
それぞれの国が少しずつ(場合によってはかなり大幅に)違っており、しかも現在の「外国」のようにかけ離れた存在ではないので、「あっちの国の方がよさそうだ」と思った人は気軽に移住・帰化するようになる(当然、他国への移住や帰化、他国からの移住・帰化に対して厳しい制限を設ける国もあるだろうが、その是非もまた身近な問題として晒される)。結果としてそのうち、「似たような考え方、感じ方」を持つ人間が同じ国に住むように……。また、住民流出が目立つ国は「人気のある国(住みやすい国)」を見習わざるを得なくなるだろう。人気のある国が実は必ずしも構成員にとって住みやすいとは言えない(うまく騙され、飼い慣らされているかも知れない)という危惧もあるが、人間は馬鹿ではない……と信じたい。

まったく馬鹿話であるが、1割ぐらいは本気だ。現在の日本の不愉快な動きに対して無力感を覚えるのは、国が巨大すぎるからである。巨大というのは広さのことではなく力のことなのだが、広さが縮み人の数が減れば、随分と違ってくるだろうなと思ったりする。「わが国」と力んでも所詮はちっぽけな町村であれば、国家というものが単なる便宜上の仕組みに過ぎないことや、「国、国」と叫ぶ馬鹿らしさが見えてくる。

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「国家」に恩はない

2006-03-24 04:00:35 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
「国民たるもの、すべて国に世話になっている。その恩のある国を愛せないだの、守る気はないだの、否認するだのとほざくのはトンデモナイ奴だ」という類のことを言う人がいる。

だが、果たして私は「国に世話になって」いるのだろうか。「恩」があるのだろうか。それは私だって、これまでの人生でいろいろと「世話になったり」「恩を受け」たりしている。だが、私を世話してくれたり支えてくれたのは、具体的な「人」である。たとえば私は、自分の母親には恩も義理もある。夫を早く亡くし、働きながら2人の子供を育てるために辛酸を舐めたこと、そして子供達の言動(2人共ろくでもない、俗に言う親泣かせの子供であったのだ)を「私は自分の子供を信じています」と言って守り通してくれたことを思うと、未だに言葉に詰まる。場合によっては裏切るかもしれないが、恩や義理は生涯消えまい。しかしそれは母親という一個の女性に対する恩義であって、「○○家」に対する恩義ではないのだ。

以前のブログでも書いたが、我々が不自由なく生活していく上で何らかの枠組みやルールがなければ不便だから、一種の「必要悪」として創り出したに過ぎないもの――それが「国家」であると私は思っている。つまり「道具」である(そのことを書いた記事に対して、いろいろな方がコメントを寄せてくださった。装置、と呼ぶ方もあり、フィクションと呼ぶ方もあった。それらの言い方の方が正しい……というか、わかりやすいかも知れない)。

むろん、道具や装置やフィクションにも、人間は恩義を感じないわけではない。たとえば「針供養」(そういうものが存在するor存在した、ということを知っているだけである。私自身はやったことは勿論、見たこともないが……)。長年使ってきた針を、「世話になったね。ありがとう」とねぎらう儀式であろう。愛用のカメラ、包丁、鉋、などを撫でて「これのおかげで、オレはきっちりと仕事して来られたんや」と言うプロフェッショナルも決して稀ではない。これは道具ではないが、たとえば森などに「我々の暮らしを守ってくれてありがとう」と恩義の感覚(感謝の気持ち、と言うべきか?)を持つ人もいる。所属組織や装置に恩義を感じることもある。

だが、道具や組織や装置などに感じる恩義は、具体的な「人」に対するそれとは性質が違う。人に対する恩義の感覚は、ほとんど問答無用に近い(ときどき恩を押し売りする手合いがいるが、それは話が別。問答無用に近いというのは、無償の好意を与えられた時――のことである)。道具や組織や装置は我々に向かって、無償の好意に基づく自律的なふるまいをするわけではない。だから恩義を感じたとすれば、その恩義は観念が生み出したフィクションである。フィクションが悪いわけではない。人は常にフィクションを構築し、自らをそれに酔わせることで歩き続けてきた面もあるのだから。私は国境のない世界を夢想しているが、これだってある意味でフィクションである。そのフィクションを具現化したいという望みは、あるいは永久運動機械を作り出そうとする愚に近いのかも知れない。

(また話が逸れてきた……戻そう)

組織や装置や道具に対して感じる恩義は、個々人の心の中にある、いわば幻想である。思想(あるいは妄想)によって生み出された幻想に過ぎず、個々人が思っている分にはどうでもよいし、必死で広めようとするのも個人の勝手であるが、少なくとも他者に強要すべきものではない。

カメラなど純粋な道具なら、まだいい。山や森もいい。それらは我々に対して能動的な動きをしないから。しかし組織となれば話が違う。組織はまるで生き物のように育ち、所属するものを従属させ、恩義を感じさせようとする(むろん組織というものが、ではない。組織を動かす人間が、であるけれども)。厄介きわまりないと言ってよい。

私は「国に恩義はない」と思っているのである。所属していることで生活上の便宜はあるが(むろん不便もある)、それは当然のことだ。学校を出てからずっと、税金払っているのである(貧乏人なので、威張るほどたくさんは払っていないが……)。だから、恩義を感ぜよと強要されたくない。それを人、非国民よばわりする人がいれば、私はその人達に真剣に問いたい。「では、あなたにとって国家とはいったい何なのですか」と。「従属させられることに歓びを感じるような(ほとんどマゾヒズムではないか……)、すばらしい対象なのですか」と――。

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祝・共産党と社民党の党首会談

2006-03-23 20:30:12 | 現政権を忌避する/政治家・政党


共産党と社民党の党首会談が実現した。憲法改定阻止に向けた共闘の道をさぐる第一歩であり、「現政府の危険な動きを何としても止めたい」と思っている者にとって、嬉しいニュースのひとつと言える。

ここを覗いてくださる方はおそらくニュースをキャッチしておられると思うが、念のため、22日の夜遅く配信された共同通信の報道を引用しておく。
【共産党の志位和夫委員長と社民党の福島瑞穂党首が22日夜、都内で会談し、憲法「改悪」や改憲手続きを定める国民投票法案に強く反対していくことで一致した。今後も必要に応じて意見交換する方針も確認した。ただ共産党が求めていた正式な共闘合意については、社民党側が慎重姿勢を崩さず見送られた。
 会談で福島氏は、改憲阻止に向けて、これまで民主党、連合幹部らと意見交換してきたことを説明し「連帯の核として共産党とも会合を持ててうれしい」と表明。共産党側は共闘関係の構築を目指して「もっと連携を密にしよう」と呼び掛けたが、同席した社民党の又市征治幹事長は「憲法改悪阻止の輪を広げていくためお互いに頑張るのが大事だ。必要に応じて話し合っていこう」と述べるにとどまった。】(引用おわり)

共産党と社民党(および前身にあたる社会党)両党だけの公式の党首会談は、何と28年ぶりだそうである(前回は1978年6月の宮本顕治共産党委員長と飛鳥田一雄旧社会党委員長の会談)。えっ、そんなに長いこと会談していなかったのかと、実のところ驚いた。最近なかったのは知っていたが、いくら何でも28年ぶりとは……。色合いがやや異なるとはいえ、多くの問題について同方向の見解を持つ両党、これまでいったい何をしてきたのか……。のんきな話だと思う一方、それだけ長い年月別々の道を歩いてきた両党の党首会談が持たれたということは、両党共にかなり危機感を強めているのだなと心強くも思う。

私は共産党も社民党も、全面的に是としているわけではない。党の方針や運動の進め方についてはいろいろと異議もあるのだが、「ひとつの課題について考え方がおおむね一致」し、「目指す目的が一致」しているならば、その課題・目的に関しては応援したいと思っている。特に憲法改正および、それと軌を一にする教育基本法改定や共謀罪上程その他、法律によって国家の姿を変容させようとする一連の企ては、それこそなりふり構わず阻止しなければならないことである。だから、少しでも企てに疑問を持つ、あるいは恐怖を感じる人達と連帯していきたい。これはおそらく、現在の日本にきな臭さを嗅いでいる多くの人達の共通した気持ちではあるまいか。その意味で、今回の党首会談は嬉しいニュースなのである。

むろん、これは第一歩に過ぎない。共闘の具体的な方針などは、まだ何も決まっていない。今回の会談を期に可能な限りの連帯を強めて欲しいし、私達の側からそれを要求していきたいとも思う。

〈追記〉社民党側の慎重姿勢
【社民党内では地方組織や古参党員から警戒感が噴出し、執行部も「共産党との共闘だけが突出するのはよくない」(党3役の一人)と判断。民主党も含む他党などとの意見交換の一環と位置付けることにした】(20日配信の共同通信のニュースより)
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私も国家を否認する

2006-03-23 02:39:28 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
ずっと体が本調子でない。微熱が下がらず、間歇的にそこそこの熱が出る。別にたいした病気ではなくただの風邪なのだが、なかなか治らない。ストレスたまっているのかなあ……(愚痴)。

ひょっとしたら「日の丸・君が代」問題が剥き出しになる時期だからだろうか?――というのは冗談だが、否応なくそれらを考えさせられる季節であることもまた事実(結構いつも考えているのだけれども、特にこの時期は……)。

「国! 国! 国!」の大合唱。私はこのブログで繰り返し言っているように(実生活でもはっきり言っており、友人・知人その他、顔合わせる人々はほとんど耳にタコの状態なのだが)、国というものに対して何の思い入れもない。「日本という国に」ではない。何処の国に生まれ育とうと、私の存在と「国家」とはさしたる関係はないのだ。ましてや国旗や国歌を制定してくれなどと頼む気はない(だから日の丸が別の旗になり、国歌がまったく別の歌になっても、私は敬意をもつ気は毛頭ないのである)。

確かに日本の国籍を持ち、日本語をしゃべっているけれども、それはいわば「たまたま」である。たまたま生まれ育ったからといって、帰属意識を強制されてはたまらない。頼むからほっといてくれ、という感覚である。

私が参加しているMLで、「我が国という言葉」について苦言を呈するメールが転送されてきた。ジャーナリズムは国の代弁者ではないのだから、我が国という言葉を使うのは間違っているという内容である。本当にその通りだ。以前、ある集会に参加したとき、もと巨大メディアの記者だった方が「自分は“我が国”という言葉は使わない」と発言された。我が国という場合、それは国益を代表することになるからだという。

「国益」の何が悪いのか、という意見もあるだろう。それもまたある意味の正論であるかも知れないが、「国家? それ何さ」という人間にとっては寝言のようなものに過ぎない。私も「我が国」という言葉は使わない(使うとしたら、皮肉を言う場合である)。ちなみに組織に属している時も、「ウチでは」といった言葉は意識して使わないようにしていた。何ものにも帰属せず、何ものにも依らず、それでのたれ死ぬなら私は本望だ。国家などという虚構に(会社とか家とか、その他もろもろのものも同様)、たった1度の人生を賭けられるか。たったひとつの命を捧げられるか。

愛国心教育などが不気味に本気で語られるようになった今、私たちは「愛国心とはどういうものか」というむなしい論議は捨てて、「国家など我々にとってなにものでもない」と宣言することが必要であるかも知れない。むかし、「私は国家を否認する」と言ったヒトがいた。私も遅ればせながら、そして小さな声ではあるけれども、しつこく言う。「私は国家を否認する」と。

まとまりのつかない変なエントリになってしまった……。覗いてくださった方、すみません……(こういう思いつきの駄弁を書くのはよくないことかも知れないが、まあいいんじゃない? 私は評論家でも学者でもない一介の庶民、そしてブログは私の備忘録なのだと、熱のせいで少々開き直っている。国家についての私の嫌悪感については、今月の16日・17日あたりのエントリで、今夜よりはやや詳しく触れた。もし関心を持っていただけたのでしたら、そちらを御覧いただければ幸甚)。明日も仕事だ、もう寝なくては。

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「治安維持法」が甦る――それもさらに強力に

2006-03-17 22:00:37 | 憲法その他法律

共謀罪の審議は先送りされているが、それも「今のところは」である。共謀罪については本やブックレットが出されているし、多くのブログでも触れておられる。法案の内容・問題点などは専門の法律家や、一貫して反対運動をおこなってきた団体の書いたものを見ていただいた方がいいと思うので、私がここでシタリ顔でいろいろ言う気はない。

私が書いておきたいのは、たったひとつ――「やっぱり、これもか……」と恐怖を感じている、ということだ。

共謀罪というのは「犯罪の計画や合意に関する罪」であり、対象となる犯罪は600を超える。「内乱」「内乱予備・陰謀」に始まり、「強盗」「窃盗」「詐欺」「背任」「恐喝」「横領」、そして「選挙の自由妨害」「防衛秘密漏洩」「偽りその他不正の行為による消費税の免税等」「業務上過失致死傷等」「組織的な威力業務妨害」……エトセトラ。「決闘」などというのもある(それにしても、業務上過失致死傷の共謀罪とはいったいどういうことだろう。これは業務上過失致死にしようぜ、と相談して人を殺したら、それは過失ではないと思うが……)。刑法その他のあらゆる法律で、軽微なもの以外はすべて対象になると言ってよい。

法律の専門家によれば、「犯罪」には4つの段階があるそうだ。最初が「共謀」で、犯罪の合意。次が「予備」で、具体的に準備すること。3番目が「未遂」、そして最後が「既遂」である。たとえば会社で気にくわない上司がいて、殺意を抱いたとする。飲み屋で集まったときにさんざん愚痴をこぼし、「あいつ、ぶっ殺してやりてえ」「そうだそうだ、やっちゃおうぜ」と意見が一致し、夜道で待ち伏せしてナイフで刺そうか、お茶に青酸カリ入れようかなどと話し合えば「共謀」。ちょっと本気になってナイフ買ったりすれば「予備」。刺そうとしたけれど手が震えて袖をちょっとかすっただけ、というのは「未遂」。本当に殺してしまえば「既遂」である(非常にいい加減なたとえであるけれども)。

その犯罪の内容がどうであるか(つまり犯罪として正当に?認められ得るものであるかどうか)は別として、「既遂」であれば法にのっとって裁かれるのは――原則として当然であろう。場合によっては、未遂も裁かれるであろう。しかし「予備」や、さらに言えば「共謀」まで裁くのは法の越権ではないか。

共謀罪を成立させようとやっきになっている側は、これは暴力団やテロ組織などを取り締まるためのものですよ、善良な(!)庶民とは縁遠い話ですよ、と甘い声で宣伝している。いやはや、巧いことを言うものである。我々善良な(笑)庶民は、ついついこういう言葉にフラリとしてしまう。だが――

よく比較して語られるものとして、1925年に公布・施行された「治安維持法」というとんでもない悪法がある(資料1、2参照)。これはそもそも、「左翼思想」を取り締まるためのものだった。当時は「アカ」イコール「おぞましい連中」と考えている(実は思い込まされている)人達が多かったから、「そういう危険分子を取り締まる法律なら、いいんじゃないの?」という感覚で受け入れられたようだ。だがしかし、当初は左翼運動だけをターゲットにしていたこの法律は、拡大解釈によって濫用され、さらに幅広く「国家にとって好ましくない思想(を持つ人々)」の弾圧に使われた。治安維持法違反に問われた人や団体として、有名なところでは、哲学者の三木清(獄死)や大本教などがあり、「横浜事件」など雑誌の編集者達が逮捕拘禁された例もしばしば取り上げられる。

「暴力団やテロ組織による、市民生活を脅かすような犯罪を未然に防ぐためのものてすヨ」などという甘言に騙されてはいけない。……むろん法律ができても、明日、いきなり市民運動の団体や同好サークルなどが共謀罪にひっかかって逮捕されることはないだろう。最初はおそらく、善良な市民(私もしつこいな……)の多くが納得するような形で適用されるだろう。しかし、そうやって安心させながら、包囲網は縮められていく。そして気がついた時には、我々の「思想」や「心」はガンジガラメにされているのだ。

たとえ社会的にNOと言われることであっても、「考え」たり「合意」するだけで罪になるはずはない。たとえば――あまりいい例ではないが、ペドフィリア(小児性愛)。実際に小さな子供をだまくらかしたり脅迫したりして性的関係を強要すればそれは犯罪だが、ひそかに妄想したり、ペドファイル(小児性愛者)たちが集まって空想話を楽しんだりすることにまで私は禁止しようとは思わない。「日本は神の国である。民衆は神の子孫である天皇を元首として敬うべきで、それに反対する“非国民”は殺してもいい」といった考え方も同様。私はむろん徹底的に否定するけれども、考え方が存在すること自体は「勝手に思ってなさい」てなものだし、同志を募って組織を作っても、まさかそれだけでとっつかまえて死刑にしようとまでは思わない。

何を考え、何を夢想して、同じことを思う人々と合い語らおうとも、すべては我々の自由である。具体的に人の権利を侵害したり人を傷つけたりしない限り、後ろ指さされることはいっさい無い。そういうごく基本的なところが侵されようとしているのだと私は思う……。私たちは――いや、私は、何だかんだ言いながら結構小心に世渡りしている。危ない橋は、できれば渡りたくない。日常生活は、遵法精神にのっとって送っているつもりである。そんな人間だから、危ない橋が身の回りに無数に架けられるのは息苦しくてたまらない。橋を渡るまいとして、ますます小心に、ますますいじけていくに違いないのである。

そして一番肝心なのは、「なぜ今、共謀罪なのか」ということだ(むろん共謀罪の法案はつい最近できたものではないけれども、比較的新しいものではある※)。共謀罪は戦前の治安維持法より、悪法という意味においてはるかにまさると法律の専門家の人達は言う。そうかも知れない。いや、確かにそうなのだろう。治安維持法よりも緻密で、初めに書いたように軽微な犯罪以外すべてに網をかけているのだから。

そのことは承知の上で(というより、専門的に研究している人達の正確な解説に任せて)、私は大雑把なことだけを言おうと思う。ブログで何度か書いたような気もするが、今しゃにむに「改正」や「成立」をもくろまれている法律は、すべて根っこの部分で通底している。「国あっての人民である」「国を愛せ」「国を守れ」というかけ声と共に、「国家」という幻想をあたかも太古の昔から確定していた実体のように我々の心に焼き付けようとしている者達がいる。だから、ひとつとして譲ってはならず、ひとつとして負けてはならない……。一昨日「飼い慣らされまい」というタイトルで文を書いたが、「不逞なことを、集まってこっそり話すだけでも罪に問う」のは飼い慣らしの方法のひとつであり、それもかなり飼い慣らしが進んだ時に有効になってくる方法だ(飼い慣らしが進んでいなければ、普通、テメエ何言ってやがると反発を食らうはずである)。そうか、既に飼い慣らしは相当の段階まで進んだという判断があるのだな……と私は思わずにはおれない。

以前、こんなことを書いた覚えがある(大したこと言える人間ではないので、何を書いても結局のところだいたい似たような話になってしまうのだ)。
【憲法改定国民投票法案も憲法改定も、「あれはいいが、これはダメ」という話ではないのだ。おまえの考え方、おまえの姿勢、おまえの依って立つところすべてが「NO」なのだと言わねばならない】

憲法改定はノーだが共謀罪はイエスとか、共謀罪も対象をもっと限定すればイエスであるとか、そういう問題ではないのだ。今の日本は、まさしく「戦前」なのである。

※共謀罪については、2000年11月、国連総会で「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」(国連国際組織犯罪条約)が採択され、日本も署名した。これを受けて国内法の整備もしなければいけない、ということで提案された――と説明されている。表面的にいえば確かにその通りであろうし、この条約がきっかけになったとも言えるだろうが、それ以前からずっと治安維持法的な法律の制定が目論まれ続けてきたことも、また間違いないと思う。

〈資料1〉治安維持法の一部
第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第二条 前条第一項ノ目的ノ以テ其ノ目的タル事項ノ実行に関し協議ヲ爲シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮二処ス
(19287年改正で「国体の変革を目的」とした場合には最高刑が死刑と定められた)

〈資料2〉1941年に全面改定された治安維持法の一部
第1条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ3年以上ノ有期懲役ニ処ス
第2条 前条ノ結社ヲ支援スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ5年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ2年以上ノ有期懲役ニ処ス
第3条 第1条ノ結社ノ組織ヲ準備スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ5年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ2年以上ノ有期懲役ニ処ス
第4条 前3条ノ目的ヲ以テ集団ヲ結成シタル者又ハ集団ヲ指導シタル者ハ無期又ハ3年以上ノ懲役ニ処シ前3条ノ目的ヲ以テ集団ニ参加シタル者又ハ集団ニ関シ前3条ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ1年以上ノ有期懲役ニ処ス
第5条 第1条乃至第3条ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議若ハ煽動ヲ為シ又ハ其ノ目的タル事項ヲ宣伝シ其ノ他其ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ1年以上10年以下ノ懲役ニ処ス

〈資料3〉京都新聞の記事より
犯罪を実行しなくても、計画を話し合っただけで罪に問われる可能性のある「共謀罪」をテーマにした「共謀罪を考えるシンポジウム-『冗談のつもりだった』は通じない!?」が11日、京都市中京区の京都弁護士会館で開かれた。講演や質疑を通して問題点を洗い出し、「内心の処罰は許さない」と、反対の姿勢をあらためて確認した。京都弁護士会(田中彰寿会長)が主催し、約80人が参加した。初めに、龍谷大の村井敏邦教授(刑法)が共謀罪について▽犯罪の準備行為以前の「合意」を処罰することは刑法の原則に反する▽合意を証明するために盗聴、おとり捜査が拡大する▽密告を奨励する規定がある▽(政府が提出予定の)修正案でも、対象が組織的犯罪集団に限定されない-などの問題点や懸念を指摘。(以下略)
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飼い慣らされまい――我らは知るべし、よるべからず

2006-03-16 02:36:34 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
「民は之に由(よ)らしむべし、之を知らしむべからず」という、大昔の言葉がある。『論語』にも「民は、これを由らしむは可なるも、知らしむは可ならず」と書かれているようだ。ずっと時代が下った日本でも同じようなことを――むろん「聖賢の言葉」を引いたということだろうが――徳川家康が言ったとか、山県有朋(だったか?)が言ったとやら。

平たく言えば「黙ってオレらに従え。難しいことは知らなくてよろしい」。統治する側にとって、こんな便利な考え方はまたとない。むろんどんな社会でも、「黙って従っていると必ずひどい目に遭う」ことがあまりに明らかであれば、「しもじも」もいつまでも黙ってはいない。叛乱が起きたり、一揆が起きたり、時の権力者の暗殺を企てる者も出てくる。そこまでいかずとも、世を捨てて隠棲する人間や、他所に脱走する人間が出てくる。だから統治あるいは支配する側は、多くの場合、「黙って頼り切り、おとなしく言うことを聞く」ことが正しい道であり、庶民の幸福につながるのだという「幻想」を創出し、浸透・共有させて飼い慣らすべくやっきになる。むろん時にはそういう面倒臭いことは放棄し、ひたすら恐怖政治に走るという場合もあるが、長続きしにくい。長期の安定のためには結局のところ、迂遠なようでも飼い慣らしが一番よいのだということを統治者達はよく知っていた。

飼い慣らし方(創出する幻想)にもいろいろなものがある。たとえば――(注/幻想の名称は私自身が呼びやすいように、適当な思いつきで仮に付けただけである。学問的な根拠などはいっさいない←開き直り失礼)
1)名君善政幻想。統治者ないし為政者が名君(立派な政治家、でも何でもよい)で、常に庶民のことを考えており、ひたすら信頼していれば間違いない、「うまくやってくださる」と思わせる。
2)賢者にお任せ幻想。無知な人間が何を考えようと、「ナントカの考えは休むに似たり」。難しいことは賢い人に任せるのが一番、と思わせる。
3)エライ人幻想。2と少し似ているが、統治・支配する側は要するにそれだけ能力があり、立派な存在である。だから間違いを犯すことはない(少なくとも庶民よりは間違いが少ない)のだと思わせる。
4)王権神授幻想。統治者ないし為政者は神に選ばれた特別な存在であり、その他大勢の人間はそれに従うのが当然であると思わせる。
5)差別宿命幻想。4と関わりがあるが、人間は生まれつき聖賎の差がある、または生まれつき価値の差があると思わせる。現世で辛い思いをしているのは前世で罪を犯したためであるとか、A国の人間はB国の人間より能力が高いとか……。
6)美徳美談幻想。長上者に敬意を持つこと、コツコツと働くこと、感謝の心を忘れないこと……何でもよいが、耳障りのいい道徳?を道具に使って、庶民を飼い慣らす。
7)国家第一幻想。自分達の国を豊かで強い国にすることが大切である。その方針に協力することで、究極的に庶民が幸せになれるという幻想を抱かせる。
8)仮想敵幻想。7と似ている。隣の国(川向こうの集落でも、山一つ超えた村でも何でもよい)が、ウチを併呑しようとしている。あるいはウチの国(村でもいい)の中に、秩序を乱すような輩がいる。だから庶民は自分達の暮らしを守るために、統治者の指揮のもとに結束する必要があると思わせる。
9)小さな幸せ幻想。幸福になりたい、ささやかな幸せが欲しいという思いを利用して庶民を飼い慣らす。国の方針だの、法律だのといった面倒なことを考えるより、「1日1日を大切に」「自分らしく」生きることの方が重要で、スバラシイことだと庶民に思わせる。

同じレベルで語るのはおかしいことがあるのは承知の上で、勝手に並べてみた。ほかにもいろいろあるが、このぐらいにして……。

いずれにせよ、統治・支配する側にとっては、いかにうまく庶民を飼い慣らすかが大きな課題である。現代では(ほとんどの場合)まさか「統治者は神に選ばれた存在」などと露骨に押しつけることはできないなど、頭ごなしの飼い慣らしは難しくなってはいる。「由らしむべし、知らしむべからず」などと豪語すれば、いくら為政者寄りの新聞やテレビでも批判することは間違いない。

だが、その分、巧妙になりつつあるような気もする。すべて知らされているようで、肝心の情報は入りにくいこと。「弱者切り捨て」→「自助努力」、「アメリカの要請による海外派兵」→「集団自衛権」等々の言葉のすり替え。さらに、(6)や(9)などは強まっているようにも思う。

話は突然変わるが、「国家」というものについてボンヤリ考えている。国家は観念であり、その点、「家」(住居の意味ではない)とよく似ている。「ウチの家は先祖代々、浄土宗で」という時、それはむろん「私の住居は」ではないし、「私のファミリーは」というのとも少しニュアンスが違う。

観念ではなく実在であるという人もいるだろう。確かに法律を有し、それに基づいて秩序立ち、政権担当者が存在する。裁判所も警察も存在する。私も「日本国民」であり、税金払っているし、海外に行くときは日本国のパスポートを携える。そういった意味では実在であるかも知れないが、それでもなお私は「国家は観念の産物である」、あるいは「観念の総意によって、一応の形で実在させているに過ぎない」と思っている。生活していく上で何らかの枠組みやルールがなければ不便だから、一種の「必要悪」として創り出したに過ぎないもの――それが「国家」である、と。

まず国家があり、為政者・支配者がいて、国家のために我々が存在しているわけではない。国家という「形」は、我々が生きていくための道具なのである(注)。そして国家のトップに立つ(と思われている)人々は、道具を巧く機能させるために我々が代理として選んだ人々に過ぎない。公僕、という言葉があるではないか。我々が選ぶ「形」、我々の「道具」である以上、不都合であれば否認し、否定し、取り替える権利がある。主権在民というのは、そういうことだ。「民」にとって為にならない国家は、必要悪どころか不必要悪でしかない。その道具に飼い慣らされるというのでは、話がまるで逆である。

人は権力を握ると、それを駆使することに快感を覚えるらしい。むろん私は握ったことがないから実際のところはわからないし、駆使することを非とする人も多いだろうが、「自制しておかなければ、駆使したくなるのかも知れないな」程度のことは考える。小さな、ある意味でくだらない権力をふるう人間は世の中に大勢いる。上司が部下に、上級生が下級生に、役人が出入り業者に、教師が生徒に、親が子に、夫が妻に……。そして一度「権力(と言っても客観的に見ればお笑い程度)の味」を覚えると、あたかもアヘンや覚醒剤に中毒したかのようにエスカレートしていく例も。政権担当者たちは私たちのサーバントであるはずなのだが、ともすれば権力の美酒に酔い、それを使いたがる。その合い言葉は「国のため」だ。私は彼らに「国を守ってくれ」と言った覚えはない。単に「我々が支障なく暮らせるよう、交通整理するように」と言っただけなのに。

私は「国(国家)」など実は何ほどのものではなく、蜃気楼のような国家になど何の愛着もないことを宣言する。だから「由る」気などさらさらない。そして「国家」を隠れ蓑にして我々に重圧をかけようとする者達に抵抗するために、より一層のことを「知り」たいと思う。むろんそれは、単なる知識として「お勉強」するという意味ではない。飼い慣らされないために、彼らの上滑りな言葉を目を皿のようにしてチェックするということである。

注/私は究極的には(おそらく遠い未来であろうけれども)「国家」という形は消滅したほうがいいと思っている。むろん、世界中が同じ言語、同じ価値観で統一されればいいと言っているわけでは毛頭ない。逆にあらゆる民族、あらゆる文化は同等に尊重されるべきだと思っているが、それらを「国家」という枠でくくるのは話が別であろう。(このあたりについては、今回はこれ以上触れないが……)

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本日の情報提供

2006-03-14 21:50:18 | お知らせ・報告など

このブログを訪れてくださる奇特な方への、ささやかな情報提供――

1)9条を守る意見広告

ペガサス・ブログ版で、新聞意見広告への支援を呼びかけておられる。お玉さんのところで応援のエントリが掲載されていたので、私もちょっと真似をしてみた(笑。うちのような過疎ブログで支援しても、どれだけ効果があるか疑問だが……まあ無いよりましということで)。意見広告は、ひとつの意思表示の方法。「手を変え品を変え、あらゆる方法を駆使して改憲を阻止したい」と考えている私としては、こういった運動にも自分の力のできる範囲で力添えしたいと思う。皆さん、貧者の一灯を!(貧者でないあなたは、富者の百灯でもむろんいいです。と言うより、おそらくさらにいいでしょう)

2)良心的な報道

私も隅っこに参加しているUnder the Sunに、「NHKの再放送は最高そう」という企画がある。メジャーなメディアの良心的報道を応援する意味も兼ねて、一見の価値ある番組を広く知らせていこうというもの。ときどき覗いて、興味を持った番組を観ていただければ……。

 

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宿題のメモ

2006-03-12 23:58:27 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
ここ1週間ばかりむやみに忙しかったせいか、微熱が続いている。いつもに増して頭に霞がかかった状態で、本読んでも単に字を追ってるような感じだ。いくつか浮かんでは消え、消えては浮かびするものはあるのだが(かつ消えかつ結びてって、鴨長明じゃあるまいに……いかん、連想ゲーム脳になっている)、それを文字にするのもしんどい。忘れないよう自分に対する宿題ということで、箇条書きにしておこう。

1)「平和憲法」から「不戦憲法へ」
平和憲法という考え方は重要だが、もはやそれではすまなくなっていると言った人がいる。もっと積極的に「不戦憲法」と位置づけて語っていくことが大切ではないか、ということだ。そのあたりを私なりに考えてみたい。

2)「国家と私」あるいは「私にとっての国家」
私は国家は「必要悪」的存在だと思っている。私にとって、国家とはいったい何か。国家に何を求め、何を拒絶するのか。

3)世論は本当に「保守化、右傾化」しているのか
そういう声があるが、本当だろうか。保守化・右傾化しているという見方自体に、罠が仕組まれていないだろうか。

4)思想の取締りについて
思想の取締りが、巧妙な形で始まりつつある。私自身が感じている問題と、その取締りに抵抗するための基本的な視点と方法について。

5)ものごとを「一言でいう」怖さ
何ごとも簡略に単純化して解説する傾向が目立つが、世の中、「一言」で説明できるものなどさほど多くない。なぜこんな傾向が生まれたのか、そして簡略単純化主義がもたらすものは?(すぐわかる、みたいなものは危険だと私は思っている。むろん物事を伝えるための表現は可能な限り平易であるべき。トクトクと難しい言い回しなど使ってひとをケムに巻くべきではないと思うが、平易と単純は異なる)

まだまだあるが、とりあえずはこのぐらいで。ゆっくり考えてみよう……。
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「80%が現憲法評価」の意味

2006-03-09 22:55:07 | マスコミの問題


毎日新聞世論調査に対する異議申し立ての記事を書いた(3月6日付「改憲賛成65%? 冗談は休み休み言って欲しい」)ところ、何人もの方からTBやコメントを戴き、大勢の方が憤りを感じておられることを知って改めて心強く思った。ありがとうございます。

それはそれとして、皆さんのご意見を読んでいるうちに、私の中で次第に重くなってきた事実がひとつある。それは毎日新聞の世論調査に「現憲法を評価するかどうか」を問う設問があり、80%が肯定的な評価を下したという「事実」だ。

【戦後日本の平和維持や国民生活の向上に現憲法が果たした役割については「かなり役立った」が26%、「ある程度役立った」が54%で評価派の合計は80%。「あまり役立っていない」は14%、「まったく役立っていない」は2%にとどまった。政党支持別では自民支持層の83%、民主支持層の75%が評価派だった】(同紙の記事より)

実のところ私は、「評価した人80%」という数字もさほど信用していない。前のエントリでもちょっと嫌味を言ったが、「簡単な質問にお答え下さい」的に聞かれた場合、人間の心理として、「×」よりも「○」を付けやすいからである。私は別に心理学の専門家でも何でもないからガクモン的な説明はできないが、その程度は常識の範囲であろうと思う。

たとえばファミレス(ビジネスホテルでも何でもいいが)に行って、「当店のサービスについて、アンケートにご協力下さい」と求められたとする。その場合、「店員の応対はいかがでしたか」「言葉遣いはいかがしたか」などという質問に対して、皆さんはどのあたりに○を付けるだろう。「すばらしい!」と感激して「非常によい」に○を付ける人もいるだろうが、割合としてはそれほど高くあるまい。大多数は、「まあよい」か、さもなければ「普通」あたりに○をつけるのではあるまいか。「あまりよくない」や「よくない」に○を付けるのは、たいていの場合、「なっとらん」と怒る積極的理由を持つ人たちだ(むろん、さほど積極的理由が無くてもダメと評価する癖のある人もいるが……)。「気に入らない点はあるが、いい所もあるし……」と思っている人のほか、「こんなアンケート、自分に関係ない」と思っている人も、さっさと「まあよい」や「普通」に○を付けておしまいにするだろう(※1)。

話を元に戻す。そう、現憲法を評価している人が80%……。いま述べたような理由で、私はこの数字もある意味で驚くべきことではなく、「まあ、そうだろうな」という感じである。積極的に「今の憲法はケシカラン」と思っている人以外にとっては、「ある程度役立った」というのが最も抵抗なく選べる選択肢であろう。

ファミレスのアンケートと憲法改定問題の世論調査を一緒にするな、と叱られるかもしれない。しかし私の見るところ、この二つが同じぐらいの重さ――とはまさか言わないが「どちらも現在の自分にとって頭痛がするほど真剣に考えるべき問題ではない」という人は多いような気がする。いや、この言い方は語弊があるかも知れない。「憲法の問題は大切だが、今日明日結論を出さねばならぬほど差し迫った問題ではない」と考えていたり、「憲法はこのままでいいけれど、少しぐらい変わったって大したことはないだろう」と考えていたり、「改憲とか護憲とか騒いでいるのは、どちらも一部の人たち。庶民には関係ないよ」と思っている人が多い、と言うべきか……。だからこそ、「80%が現憲法肯定」、それでも「改憲賛成65%」という奇妙な結果が出てくるのだろう(※2)。

そういう、はっきり言って全面的な信用は置きかねる数字ではあるのだが、私はこれに関して次の2つのことを考えた。

1)この数字は声を大にして広めるべきだ
信用しないと言いつつ「広めよう」とは……何だか自分が「目的のために手段を選ばない」人間の一種になったような気がするが……いやいや、「80%が現憲法を積極的に評価」しているかどうかは別として、少なくとも「不都合と思っていない」ということだけは読み取れる。そこからは、別に不都合でも何でもないものを、なぜ強引に変えなければならないのか? という問いかけを始めることができる。商品であれば、今のままで何の不都合もないものを買い替え促進目的でモデル・チェンジするのもアリだろう。目新しさを狙って名前だけ変えるのも、しょうもないオプション付けるのも、まあ結構。個人的には好まないが、それをとやかく言う気はない。しかし法律というものを――特に憲法を、「特に不都合はないけれど……そろそろ古くなったし」の感覚で扱ってもらっては困る。改憲推進派は、「賛成65%」の数字をことあるごとに持ち出してくるだろう。それに対して私たちは、「不都合と思わない80%」を大いに喧伝する必要がある。

2)これは現場のささやかな抵抗かも知れない
質問事項の作成者や記事を書いた記者の良識を疑う、というコメントをいただいている。私もそう思う。しかし同時に、「苦しいところかも知れないな」という思いも湧いてきた。新聞社や出版社なども企業であり、社員に給料を払わねばならず、巨大な権力には逆らえない。むろん、だからと言って権力に尻尾を振るのを容認する気は毛頭ないが、現場は苦しいだろうな……と同情はする。だからもしかすると、「今の憲法が平和維持や国民生活の向上に役立ったと思うか」という質問を設定し、その結果を(記事の一部としてではあれ)発表したのは、現場のささやかな抵抗、良識の表れなのかも知れない。これも一種の身びいきに過ぎず、「そう思いたいだけ」かも知れないけれども。だが、「改憲賛成65%」だけの記事よりも、はるかにマシだ。小さくではあれ「現憲法肯定80%」といった報道がおこなわれる限り、私は巨大メディアを全否定しない。世論調査の記事が「改憲賛成65%」だけで埋まるような事態に立ち至らないよう、これからますます監視し、応援もしていきたいと思っている。

※1 アンケートの設問
以前「世論調査の陥穽」について書いた時、村野瀬玲奈さんが次のようなコメントを寄せてくださった。
【私が学生の時、社会心理学で質問紙調査の実施方法など学びましたが、質問項目や回答の選択肢を作る時には注意しなければいけないというのは基本中の基本でした】
全くその通りである。私も社会調査の勉強をした(させられた?)ことがあるし、仕事の上でさまざまな調査に携わったこともあるので、ちょっとした言葉の使い方や、肯定的な聞き方をするか否定的な聞き方をするかによって結果がまるで違ってくることを知っている(研究しておられる方や、調査と名の付くものに関わっている方なら、そんな話は当たり前すぎて、今さら何エラそうに言ってるんだと嗤われるかも知れないが……まあお見逃しのほどを)。

※2 「改憲賛成」の中身
「改憲65%」といっても、むろん、皆が皆、自民党の草案に賛成というわけではあるまい。これまた「世論調査の陥穽」の記事で書いたことだが、昨年のNHKの世論調査では9条改正賛成39%のうち、3分の1弱は「軍事力の放棄をもっと明確に条文化すべき」という意見であったという。

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改憲賛成65%? 冗談は休み休み言って欲しい

2006-03-06 03:38:35 | 憲法その他法律


アッテンボローさんから「毎日新聞世論調査に異議あり」のエントリをTBしていただいた。

【3月5日付毎日新聞の一面トップに「改憲賛成65%」という世論調査の結果が掲載され、分析結果と併せて5ページにわたる憲法特集が載っていた。今まで毎日新聞を愛読してきたが、この世論調査の設問方法と報道のあり方には憤りを感じる】(アッテンボローさんの記事より)
(http://rounin40.cocolognifty.com/attenborow/2006/03/post_a227.html)

レッツらさんも、この調査に対する異議申し立ての記事を書いておられる。(小泉内閣の支持率が一桁台になるまで・http://brilliant.air-nifty.com/nikki/2006/03/65_4d4e.html)

私が見落としているだけで、おそらく他にも大勢の方がブログで同様の意見を述べておられるのではないだろうか。

私はこの情報を知らなかったので、驚いてインターネットで検索した。改憲賛成は65%、反対は27%。新聞の記事によれば、「04年4月から過去3回行った改憲の賛否を二者択一で聞く調査では、賛成派はいずれも60%前後。単純比較はできないが今回、賛成派は最高を記録した」という。

【賛成派に理由を聞いたところ「今の憲法が時代に合っていない」が53%と最多で、「一度も改正されていない」(18%)、「自衛隊の活動と憲法9条にかい離がある」(13%)が続いた。(中略)反対派の理由は「9条改正につながる恐れがある」が54%と圧倒的に多く、9条改正反対が大きな論拠となっている。「国民や政党の議論がまだ尽くされていない」が26%、「改正するほどの積極的理由がない」が11%などだった】(毎日新聞の記事より)

私はこの「世論調査の結果」をあまり信じていない。と言うより、まともに受け取っていない。理由としては次の3点が挙げられる。

1)まず、電話による調査であるということ
2月10日付けのエントリ「世論調査のいかがわしさ」で、電話による世論調査という安易なやり方に思い切り皮肉を言った。のんびり休んでいるところにいきなり電話などが掛かってくれば、軽い気分で答えてしまいがち。そして「軽い気持ちで」答える場合、「反対」よりも「賛成」に回るのが人間の心理である。なぜならその方が精神的エネルギーの消費が少なくてすむからだ。反対するには確固たる理由がいるが、賛成の場合は「ま、いいんじゃない?」程度ですむ。いやしくもジャーナリズムを名乗るなら電話による世論調査などはおこなうべきではなく、おこなったとしても参考程度にとどめるべきである。それを麗々しく発表するとは……頼むから、少しは恥ずかしいと思ってくれ。私は心の底から恥ずかしいのだが、私が恥ずかしがっても何も動かないのだ。

2)二者択一の危険性
3月4日のエントリ「世論調査の陥穽ということ」で、安易な二者択一の危険性に触れた。その矢先の毎日新聞の発表。正直なところ、情けなくてアホらしくて涙も出ない。他の方が詳しく書いておられることを私がなぞっても仕方ないので、別のことを書こう。
【人が何かを選択する場合、重要なのは「なぜか」という理由である。理由抜きでイエスかノーかを尋ねた調査や、理由を聞いたとしてもそれを軽視して数字的な結果だけを発表した調査というのは、危険きわまりない】(華氏451度の記事より)
賛成の一番の理由は、「今の憲法が時代に合っていない」であったという。どこが? なぜ? 時代に合っていないのか。最も重要なのはその点である。もしかすると、「言葉が古風すぎる。もっと柔らかい表現を」と思っている人もいるかも知れない。あるいは「環境権など、時代に合わせた新しい権利も入れるべき」と思っているのかも知れない。私は憲法は学校で言えば「建学の精神」みたいなもので、時代?に合わせてころころ変えるものではないと思っているが、時代に合わせて変えた方がいいと考える人もいることは認める。ただ、何が時代に合わないのかを問うことなく十把一絡げで扱うのは、あまりに乱暴過ぎるのではあるまいか。

3)80%は現憲法を積極的に評価
これも他の方が書いておられるので今さら言うのは気が引けるが、毎日新聞の記事によれば、「戦後日本の平和維持や国民生活の向上に現憲法が果たした役割」については「かなり役立った」と「ある程度役立った」を合わせ、合計80%。つまり8割の人は、現憲法を評価し、肯定的に捉えているのである。そのことを考え合わせれば、「改憲に賛成」の多くは「憲法の精神を変えたい」と思っているわけではなく、「時代に合わせて、ちょっとした手直しぐらいはしてもいいんじゃない?」というノリなのではあるまいか。

だが、いくら私が「信用していない」と力みかえっても、「65%が改憲賛成」と発表されれば、それがスポット・ライトを浴び、一人歩きするのは眼に見えている。私がぶつくさ言うのは、所詮は負け組庶民のゴマメの歯ぎしりに過ぎない。しかし――である。ゴマメにはゴマメの切実な願いと意地がある。飾り立てた言葉や上から目線にうさんくささを感じ、人と人が憎しみ合わない社会を希求している、すべての友人達よ。今こそ私たちは連帯しなければならない。「改憲」にまつわる美辞麗句を剥ぎ取り、立ち上がらなければならない……。
(……と言って、二人は立ち上がらない。などと、『ゴドーを待ちながら』の世界になりませんように……)


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「世論調査の陥穽」ということ

2006-03-04 00:40:57 | マスコミの問題


1か月以上前になるが、ある集会でテレビ・ジャーナリズムの現状に関する話を聞いた。報告(提言)者は放送ジャーナリストの岩崎貞明さん(元テレビ朝日、現『放送レポート』編集長)。提言は大きく3つに分けられ、その1つが「世論調査の陥穽」について。岩崎さんはNHKがおこなった2つの世論調査を取り上げて、世論調査を鵜呑みにする危険性を語った。

1)分類の恣意性
昨年1月、NHKスペシャル『シリーズ憲法』で憲法改正世論調査がおこなわれた。その結果は9条を「改正すべき」と「改正すべきでない」が共に39%だったが、実は「改正すべき」のうち約3分の1〈11%〉は「軍事力の放棄をもっと明確にすべき」という意見であった。つまり、同じく改正を望むと言っても、「自衛軍を創る・集団自衛権を認める」と「非武装を徹底させる」という逆方向の意見があるわけで、「これを一緒にカウントするのは変」と岩崎さんは指摘する。

2)「やむを得ない」という言葉
今年1月、『おはよう日本』でおこなわれた消費税世論調査。「公務員削減など徹底した歳出見直しの上での、税率引き上げはやむを得ない」が59%を占めたという。これについて岩崎さんは、「やむを得ない、という言葉は世論調査で使うべきではないし、この言葉が入った調査は信用してはいけない」と語る。なぜならば「やむを得ない」という言葉を使われると、私たちは「自分の考えは違うけれども、世の中の動きはそうなのかも知れない。ま、仕方ないのかな」と思い、ついそこに賛成してしまうから――であるという。

でもって、以下は私の感想。
まず(1)について。こういったカウントを恣意的と見るかどうかは意見の分かれるところかも知れないが(単なる無神経、かも知れない)、いずれにせよ「世論調査」には指摘されたような乱暴な面がある。人間が何かを選択する時の理由はさまざまである。朝食を食べない理由、会社を辞めた理由、犬を飼った理由、結婚しない理由、……何でもいいが、10人に聞けば、10人全部バラバラとまでは言わないが4つ5つ異なる理由が出てくるだろうし、微妙なニュアンスの差まで含めれば多分みんな違っているだろう。それらをひっくるめて「朝食を摂らない人が30%」などと数値化されてしまうと、たちまち多くのものが見えなくなる。

人が何かを選択する場合、重要なのは「なぜか」という理由である。理由抜きでイエスかノーかを尋ねた調査や、理由を聞いたとしてもそれを軽視して数字的な結果だけを発表した調査というのは、危険きわまりない。

(2)についても、なるほどと頷いた。「賛成」「反対」「場合によってはやむを得ない」という選択肢を示されれば、よほど確固として賛成あるいは反対している人以外、「やむを得ない」に引きずられてしまうだろう。

日本人は他に同調しやすいとか、横並び体質であるなどとよく言われる。確かにそういう面もあるのかも知れないが、「やむを得ない」という言葉については少し違う見方もできるような気がした。提示された問題によっては100%賛成、または100%反対であると即答しにくいものもある。さまざまなことを考えれば考えるほど答えが難しくなるのだが、調査では多くの場合、「これこれならば賛成で、こういう意味なら反対」などと細かな回答を求められるわけではない。それで考えあぐねた揚げ句、最も無難な「やむを得ない」を選択することが少なくないのでは……?

上記の調査のように「……した上で」などある程度具体的な(具体的に見える)言葉がなく、単に「場合によっては」と片付けられていたとすれば、特にそうだ。「場合によって」の中身を、皆が個々バラバラにイメージするからである。だから「やむを得ない」という答えの中には、「99.99……%賛成」から「99.99……%反対」まで含まれると考えてよい。極端な話になってしまうが、「人間が人間を殺すのは絶対にいけないと思いますか」と聞かれた時、「絶対いけないに決まってるけどなあ。でも自分が殺されかけ、必死で突き飛ばしたら打ち所が悪くて相手が死んだ、などというのはやむを得ないだろうなあ」と思っている人も、「戦争の時は話が別」と思っている人も、「世の中にとってためにならない奴は殺してもいい」と思っている人も、「場合によってはやむを得ない」という答えになるだろう。

世論調査が悪いとは言わない。「多くの人の声」は聞いた方がいい。だが、その調査の結果を見る時は、私たちはよほど注意しなければいけないだろう。選択肢の作り方や、「やむを得ない」といった言葉の利用で、いくらでも恣意的な結果を出すことができるのだから……。

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「多様性」と格差は無関係

2006-03-03 02:13:18 | 格差社会/分断・対立の連鎖
格差の存在について、小泉首相の発言はあいかわらず強気。2月28日の衆院予算委員会では、「どの国にも、どの時代にも格差はある。そういう中でどのように活力を持った国にしていくか。違いや多様性を認めながら、お互いの力を、能力を高める社会をつくることが望ましい」と述べたそうである。

「違いや多様性を認めながら……」は大いに結構。その部分は、私も大賛成である。しかし、「違いや多様性」がなぜ「格差」に結びつかなければいけないのか。それが私にはどうしても「理解できない」。頭が悪いと言われてもいい、負け組の泣き言と言われてもいい、理解できないと私は死ぬまで執拗に繰り返したい。

「どの国にも、どの時代にも格差はある」
それはそうかも知れない。だが、この言葉には「今、現在の時点で見渡す限り」という注釈がつかねばならない。「喜八ログ」さんの所でコメントをやりとりした時、喜八さんがこんなことを書いてくださった。
「たとえば数百年前の人たちに「普通選挙」を説いても「なんだ? それ?」となったでしょう」(http://kihachin.net/klog/archives/2006/02/horitakeaki.html)

そう……たとえば私たちが何百年も前に生きていたら、「人間が月へ行く」ことは単なる空想に過ぎなかっただろうし、ギリシア・ローマ時代(でも何でもよいが)の奴隷身分に生まれていたら「おまえも主人と同じ尊厳を持つ人間である」と言われてもキョトンとするだけだったろう……。過去のどの時代にも、そして現在の何処の国にもないからといって、イコール、それが空想ということはできない。私たちはしばしば理想と空想とを混同してしまうけれども、「非常に困難な道であっても不可能ではない」ことは空想とは言わない(いや、私は空想も非常に好きなのであるが、それとは話が別)。そして……たとえ自分が死ぬまでに到達できないとわかっていても、私は自分の理想の方に顔を向けていたい。

突然、ピョートル・クロポトキンが『相互扶助論』の中で、生き物の世界には相互闘争(生存競争)の原理のほかに相互扶助の原理があり、生存と進化のためには後者の方がはるかに重要である。生き物は優勝劣敗、弱肉強食の原理によって進化するのではない――という意味のことを述べていたのを思い出した(意味、である。言葉の使い方は少し違っていたかも知れない)。もう1度、クロポトキンや幸徳秋水でも読んでみよう……。

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