華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

安倍政権の正体見たり――厚労相発言

2007-01-30 23:42:08 | 現政権を忌避する/政治家・政党

〈最低の政治家による、最低の発言〉

 喜八さんや、dr.stoneflyさんluxemburgさん も怒っている。喜八さんは「正気の沙汰ではない」、dr.stoneflyさんは「心底頭悪いというか感性悪いというか」「真面目にコメントするのもアホらしい」、luxemburgさんは「いずれにしても政界から消えてくれ」と吐き捨てる。どちらのエントリからも、あきれてモノが言えないという思いがストレートに伝わってきた。そう……柳沢伯夫厚生労働大臣の、「女性は産む機械、装置」発言の話である。

(他の大勢のブロガーも怒りの記事を書いておられると思うが、ここ3日ほどドタバタしていたためブログを読んでいない。ついさっき、TBいただいたブログや普段よく読むブログなどを覗き始めたところなのである)

 私もこの発言について知った瞬間、最低だなと思った。今の内閣、今の国政を牛耳っている政治家の最低ぶりを証明する発言だと言ってもいい。

〈ゴメンですむ話ではない〉

 安倍首相は「不適切な発言であるから、厳重に注意した」そうだし、柳沢厚労相も記者団に対して「不適切な発言だったことをお詫びする」と述べたというが、同時に野党や市民団体からの辞任要求に対して、辞める気はないと明言している。「ただちに発言を撤回してお詫びもした」から――だそうだが、ほとんど開き直りとしか聞こえない。何でも謝ればチャラになる、と思っているのだろうか。そりゃ甘いんでないの。

 人間誰でも失敗するし、失言することもある。だが失敗にも失言にも、ゴメンですむものとすまないものがあるのだ。たとえば結婚式のスピーチで「新郎の勤め先は今、業績が悪化して大変だと聞きますが」などと言ってヒンシュクを買う類の失言(私の親戚に、これをやって後で周囲から叱られたオッサンがいる)。友人の新しいカノジョの前で、うっかり(友人がまだナイショにしていた)昔のカノジョの話をしてしまうとか。まあ、よほどのことがない限り謝れば許してもらえる。

 ゴメンですまないのは、その発言が本人のトンデモナイ価値観や感性に由来している場合。厚労相の発言は、まさしくそれにあたる。女性は生む機械・装置であるの、男性は種馬であるのといった発言は、その人間の深層にそういう意識がない限り決して出てこない。(ちなみに我らが都知事も、その種の失言の多いヒトである)

〈言葉が不適切?!〉

 首相も厚労相も、そして新聞等も、「不適切な発言」という。まるで「言葉の選び方を間違っただけだ」と言わんばかりに。

 そうではないのだ。たとえ「生む機械・装置」を「生む性」とか、あるいはキレイげに「人類を未来へつなぐ存在」とか言い換えたとしても、同じことである。言葉そのものの問題ではない。

 やっぱりね、というのが私の素朴な感想だった。あんたらは、国民を――というか「その他大勢の庶民」を、いくらでも取り替えのきく道具、部品だと(心の底で)思っているんだよね。半世紀以上も前、兵士は一銭五厘(※)で集められる道具であったそうだ。その意識が、今の為政者にも脈々と受け継がれている。

※当時のハガキ代。この値段でいくらでも徴兵できた。余談だが、知り合いに戦争中に「馬の軍医」だったという老獣医がいた(もう故人であるが)。彼によると、人間の兵士は一銭五厘で集められるが、馬はそれよりはるかに金がかかるということで、馬の軍医は人間の軍医よりはるかに大事にされたそうである……。

〈まったく……あんたら正気か〉

「美しい国」の実現のために、庶民は黙々と道具にならねばならないらしい。今は本当に21世紀か。まさか私は、タイムマシンで8世紀に連れて来られたわけじゃあないでしょうね? ルシャナ仏建立のために――それが国創り(たぶん美しい国創り)の一歩だと言われ、おまえ達も幸せになるのだと言われて、庶民が絞り上げられた時代に。

 女性は生む機械・装置などという目の飛び出るような発言をする政治家達は、同じ口で国民は国を守る機械・装置と言いかねない。いくら何でもそこまで露骨な言い方は控えるかも知れないが(もっとも頭の程度を見ると、本当に言うかも知れん)、もうちょっとオブラートに包んだ言い方でしゃあしゃあと言うだろう。ちょっと目くじら立てられれば(という感覚のはずだ)、形だけはゴメンと謝り、舌の根も乾かぬうちに似たようなことを言うだろう。先頃「法案上程断念」されたホワイトカラー・エグゼンプションも、国民を(国を富ませるために! 国際競争力とやらをつけるために!)働く機械・装置としか見ていないものだった。

 少子化が問題だというなら、国民が子供を生み育てたくなる、そして生み育てたくなる環境を整えるのが政治家の仕事。「公僕」たる政治家は、それ以上のことはしなくたってよろしい。それなのに勘違いして、自分達がご主人様だと思っている連中が多すぎる。自分達は命令する側であり、おまえたちが「自己責任で」もっと頑張れと。喜八さんではないけれど、ほんと「あんたら正気か」。

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「国民投票法案」の徹底審議・廃案を求める署名運動

2007-01-26 22:54:06 | お知らせ・報告など

〈署名運動のお知らせ〉

 自由法曹団が、国民投票法案の徹底審議・廃案を求める要請書(衆議院議長および参議院議長宛)への署名を呼びかけている(要請書全文は記事末に掲載)。署名用紙はこちらにあるが、web署名も可。

 署名も意思表示手段のひとつ。小さなことでも、今できることを。国民投票法案に危機感を抱いている皆さん、ぜひ署名をし、周囲にも呼びかけましょう。

 

〈安倍首相が初の施政方針演説〉

 安倍首相は今日の午後、国家で就任後初の施政方針演説をおこない、、「美しい国、日本」の実現に向けて、「次の50年、100年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像を描いていくことこそが自分の使命」と述べたという。「美しい国」にはもう耳にタコができる段階を通り過ぎて、悲しいことに「美」という字を見ただけでジンマシンが出て来そうな妙な状態になりつつある。ほんと、困ったものだ。

 演説の骨子は少し前に固まっており、報道もされていた。第一、施政方針演説というのは首相がこれまで言い続けてきたことの延長線上にあるわけだから(突然、全く違うことを言うわけはない)、寝耳に水という部分はむろんない。しかし節目節目で言葉として出てくるたびに、やっぱりギクリとする。「ふ~ん。またか」と変に慣れてしまわぬよう、いちいちギクリとしたいとも思う。

「教育再生」を内閣の最重要課題だと言い、 「公共の精神や道徳、国や郷土への愛着・愛情などの価値観を教えることが、日本の将来にとって極めて重要」と述べたこと。憲法改正に向けて、国民投票法案の今国会成立に強い期待感を表明したこと。集団的自衛権の行使に関する研究などを進めると言明したこと……etc.

「新しい国創り」を首相は言う。教育を変え、憲法を変えて、彼が創ろうと夢想(私から言わせれば妄想ですがネ)している「新しい国」に、私は住みたくない。安倍首相の「美しい国」は、大多数の国民が「本当に望み、夢見ているもの」とイコールなのだろうか。美しいとか再生などという、それこそ美しい言葉の目くらましに遭っているだけではなかろうか。詐欺は甘い言葉で近づいてくるのですゾ。

 

◇◇◇◇資料(自由法曹団ホームページより転載)

国民投票法案」の徹底審議・廃案を求める要請書

 日本国憲法のかかげる平和、人権、民主主義の理念は、国民に広く定着しており、とりわけ第9条は現在も将来においても日本と世界の宝であります。
 与党と民主党は、この日本国憲法を改定するため「国民投票法案」を国会に提出し、今国会で成立させるべく、修正協議をすすめていますが、どのように「修正」しようとも、第9条の改憲を直接の目的とした法案であることは明らかです。
 与党と民主党の修正協議の内容は、①国民の承認を「投票総数」(賛成・反対の合計)の2分の1超としており、これは「有効投票」の2分の1超と同じで最も少ない賛成で改憲が成立することになる②テレビ・ラジオなどの有料意見広告については、投票前14日間を規制しているが、それ以前は原則自由とするなど政党の資金力の多寡によって国民の投票意思を歪める危険性がある③本来自由であるべき国民の投票運動を公務員や教育者に限って規制する、など多くの問題点が指摘されています。
「国民投票法案」は、憲法第96条に基づく憲法改正の手続き法であり、その主体は主権者国民にあります。国民の意思を正当に反映しない法案を国民的な議論もない中で拙速に成立を急ぐことは、国会の歴史に汚点を残す大問題と言わなければなりません。
 ついては、現在審議中の「国民投票法案」は、徹底審議の上、きっぱりと廃案にされるよう要請します。

 

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国民投票法案を上程させるな・3(そのほか)

2007-01-25 00:30:45 | 憲法その他法律

 

 安倍首相が26日の衆参両院本会議で行う、初の施政方針演説の概要が固まったそうだ。最重要課題に掲げるのは「教育再生」。また憲法改正への意欲を強調し、改憲手続きを定める国民投票法案の早期成立に向けた期待を表明するという。

◇◇◇◇裏切るな民主党◇◇◇◇

 hatakejinさんが、コメント欄で「結論は国会開会後に先送り 民主の国民投票法案対応」という共同通信の記事を紹介してくださった。どうもありがとう(何せ生活に追われている身なので、紙媒体のチェックもネット上の情報のチェックも漏ればかり。周囲の人間に対しては、息せき切って情報を追いかけるよりもモノゴトをゆっくり考えたいのだなどと時々えらそーなことを言ったりしているが、実はさぼってる面が大きい。こうやって教えていただくと本当に助かる)。

 昨夜のニュースによれば、民主党は「法案への対応を協議。通常国会中に結論を出す考え」であるそうな。

 民主党の動向に懸念を持っている人は多いのではないか。私は民主党にさほど大きな期待は抱いていない。私自身の感覚については何度か書いた覚えがあるが(たとえば小沢一郎氏が代表に選ばれた時のエントリなど)、保守二大政党になってどうすンだ、というのがいわば基本的な考え方である。ただ、これまでも書いたけれども「それでもなお、一定の期待をせざるを得ない」という気分も大きい。少なくとも当面は「少しマシ」でいい、「悪くない」程度でいい。恐るべきスピードで我々の生きている社会を変容させようとする為政者にブレーキをかける役割を期待したい、と言うかせざるを得ないのだ。無力な庶民としては。

 だから与党に歩み寄る姿勢を見せられるとマジでびびるし、少しでも期待の持てそうな情報があれば懸命にすがりつく。ほんと……まるで不実な恋人(恋人、とも言えないか。価値観が違うことは百も承知だし、ほんとに自分のことを思ってくれているかどうかは甚だ疑問なのだけれども、でもそんな酷いことはしないよね、ひどい裏切りはしないよなあ、とちょっぴり信じておきたい相手、程度かな)の一挙手一投足に振りまわされる少年のように。

 参院選に民主党から出馬予定のとくらさんは「今は、民主党も国民投票法案反対でいくべき」と言っておられる。ほんともう、頼むから国民投票法案の成立に向けた努力、なんかしないでよね。

 

◇◇◇◇むろん「護憲ありき」なのです(コメントへの返事)◇◇◇◇ 

 20日のエントリ「国民投票法案を上程させるな・1」に対して、次のようなコメントが入っていた。それに対する私の返事を書いておく。

【改憲のための法案作り」だと批判されていますが、あなたのこの文章も「護憲ありきの屁理屈」にしか聞こえません。自分だけがフラットな立場から論じているような振りをするのは読んでいて痛いです。この手のサイトには同じような考えをもった人たちが集まるので、「やっぱりみんなそう思っているのか」と、自分たちの正当性を過剰に意識してしまうのでしょうが、実際には私のように考える人の方がマジョリティなのではないかという気がします。ま、結局この手の話は(改憲派も護憲派も)どんなに論理を振りかざしても、根本の自分の主張のゴリ押しにならざるを得ないのかもしれませんね。なぜなら、どちらの主張も論理的には成立するのですから】

 署名は「通りすがりの者です」となっていた。HNのやりとりであるからこれでもかまわないようなものだが、私としてはできれば他の人と区別できる名前を名乗って欲しいという気分はある。さもなければ、「意見の交換」もできないではないか。コメント欄の存在理由の第一はコミュニケーションを求めていることだと思うので、できればこういう形は避けていただきたいものだが……(HNなんか適当に付けて適当に変えられるから意味ないじゃん、とも言えるけれども、そういうこと自体あまり好ましいとは思わない)

 ……まあ、それはいい。ともかく返事を書くことにする。

 最初に断っておきますと、私は自分の言い分が多数派か少数派かなどということには興味ありません。多数派であれば嬉しいことは確かですが、「そんな変なこと言うのはこの国でたった一人だよ」という事態になっても、同じことを言い続けたいと思います。

 私はブログというのは「個人が公開している覚え書き」に過ぎないと思っています。むろん中には非常に大衆性を持った、多くの人に訴えかけることのできるブログもあります(ほんの一例を挙げると、お玉さんのブログや、前出のとくらさんのブログなどですね)が、それは一部に過ぎない。もちろん数えていけば結構な数になると思いますが、全体から見ればやはりごく一部です。ほとんどのブログは「私的な覚え書き」ですよ。

 私自身のことを言えば、私はブログを大衆運動の手段とは思っていません(ついでに言うと――以前自分探しと自己実現を嫌悪するという記事と、その続きを書いた ときに「ブログだって自分探し・自己実現の手段でしょ」というコメントが入ったが、すんません、自分探し・自己実現の手段でもないですよ。私は非力でヘタレな庶民ですが、ブログで自分探ししないといられないほど無明長夜を踏みまどっているわけじゃあない。そこまで落ちぶれてないよ――なんて言うと、う~ん、さすがに言い過ぎか)。

 と言うより、自分のブログがそんな力を持てるとはまるきり思っていません。所詮は庶民の寝言、なのです。ある意味で無責任。いや、むろん書いていることについては責任持ってるつもりですが、責任の問題を徹底するならば、私は本名で、場合によっては住所その他も明示して書きます。無責任というのが言い過ぎなら、まあ、気軽に書き散らしている、と解釈していただきましょうか。そんなことは、文章をちらっとでも読んでいただければわかるでしょう。理路整然と持論を発表、なんぞしてるわけじゃないですよ(する力量もないけど)。

 少し話が逸れてしまいましたね。つまり私が言いたいのは、これはイチ庶民が公開した覚え書き、なのです。多数派かどうかはさほど問題ではないし、もちろん自分がフラットな立場で論じているなんて毛頭思っていません(第一、論じるなんていう高尚なこともやってるつもりはないです)。開き直るわけではありませんが――独断と偏見に満ちた文章ですよ、所詮はね。フラットな立場でもの言っているように聞こえたならば、それは私の表現力の不足に過ぎません。

 ただ、フラットな立場とか、中立的立場とかいうのが、本当にあり得るのだろうか。

 少なくとも私は「フラットな立場」で「厳正中立」にものを言うことは出来ません。むろんテーマによってはそれも可能ですが、自分の思想信条や生き方にかかわるテーマについてはフラットもへったくれもないでしょう。痛いという感想を抱かれるのはむろん貴君の自由ですが、私の方は「そう言われても困るのだが」と目をパチパチさせてしまうのも、これまた事実です。

 そう。私は「初めに護憲ありき」で発言しているのです。当たり前でしょう。

 それを「改憲を前提とした法案を成立させようとする」「安倍内閣」と、どっちもどっちだと言われれば――そう、どっちもどっちであるかも知れません。「どちらの主張も論理的には成立する」というのも、おそらく貴君の言われる通りだと思います。

 ただ、私はこれだけは言いたい。私は(好き嫌いでモノ言っちゃあいけないかも知れませんが)評論家的な物言いは嫌いです。今の時代――というより、おそらくはるか昔から――評論家になることはたやすい。周囲の誰彼よりも少し頭がよく、少し知識があり、少し表現能力があれば誰でもなれる。

 そして――私は長年マスコミの片隅で働いてきた人間なのですが(大した仕事はしていません。ほんと片隅で生息しているだけです)、我々にとって最も危険なのは「評論家的になる」ことです。ジャーナリストは職業柄多くの情報を得やすいし、「ペン」を握っているゆえに、ついつい「ヒトゴトのように現状を分析して教えを垂れるような、えらそうな口調」になってしまう。でもそれは堕落にほかならない。

 ついでですが、同じ危惧を(多方面から叱られるのは覚悟の上で言うと)私はインターネットで発信を続けている人達の一部に、たまに感じることがある。おそらく豊かな知識を持ち、分析力にも文章力にも優れているが故に、陥穽に陥ってしまう。(実のところ私も評論家ふうになってしまう自分に時々ドキッとする。私の場合は別にたいした知識も何もなく、おそらく職業病かなとも思ったりするのだが)

 すべての事象は――とまでは言いません。しかし少なくとも自分が関心を持ち、考え続けたい事柄については、「ヒトゴト」のような物言いをしてはいけない、と私は思っています。独断偏見と言われようとも、そしていかに拙くとも、自分のスタンスと感性に依拠して語ること。それだけが、一人の人間が生きていくための砦であると私は思うのです。

   

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国民投票法案を上程させるな・2

2007-01-22 23:44:37 | 憲法その他法律

 ドタバタしているので、今日は簡単なメモ書きのみ。(え? おまえのブログはいつもそうだって? あは、失礼しました)

〈引き裂かれるということ〉

 一昨日のエントリ(国民投票法案を上程させるな・1)に対して、「反戦老年委員会」のましまさんが次のようなコメントを寄せてくださった。

【国民投票法案上程を阻止するのは事実上困難だと思います。野党としては、ハードルを高くする修正案をぶつけて抵抗する以外ないでしょう】(以下略)

 ましまさん、そうなのです。事実上困難……なのです。自分でもそれがわかっていながら上程阻止をいう矛盾を感じつつ、それでもなお「上程阻止」と書かずにはおれませんでした。それが正しいのかどうかは、私にはまったくわかりません。情死覚悟で理念を守るか、勝つための戦術を優先するかという問題に、思えば私はごく若い頃から引き裂かれ続けていたような気がします。

 模範解答はない。仮にあったとしても、それをなぞる気は実のところありません。答えのわからない問題を突きつけられてオロオロ・ウロウロしつつ、あちらにぶつかりこちらにぶつかり、せめて嘘のない選択だけはしたい。

 

〈国民投票法案の問題点〉

 ――はいくつもあるのだけれど、覚え書きの意味で思いつくままに書き留めておこう。

○公務員等および教育者の地位利用による国民投票運動の禁止

 公務員や教育者の、「その地位を利用した」運動を禁止するもの。地位を利用――というのはすこぶる曖昧な言い方であり、その気になればいくらでも拡大解釈できる。市民団体の集会で「○○市役所の職員ですが」などとと自己紹介して発言しただけで、地位を利用したと言われかねない。

 また教職者が授業で国民投票に対して意見を言うのはむろんのこと、「現職の教師」が自分のブログで「改定案のこの点がおかしい」と述べることも引っかかる可能性大。「前を向いて歩こう」さん、聞こえてますか? 9条の会で発言したりするのも、多分引っかかりますな。大学で教職者の養成に携わり、個人としては地元の9条の会に参加している私の友人も、「オレなんかも何も言えなくなるってのかよ?」と目を三角にしている。

○新聞または雑誌等の虚偽報道等の禁止

 虚偽報道――は、いかんですよ。当たり前でしょ。でも虚偽というものには二つの面がある。ひとつは「絶対にあり得ない嘘八百」。たとえば太陽は西からのぼるとか、男も妊娠出産できるとか、天皇は人間ではなく神様であるといった類のものですな(それらを信じている人はいるかも知れず、信じること自体は個人の自由なのだけれども)。もうひとつは「まだ証明はされていないが可能性はあり」そして「時の権力にとって不都合なもの」だ。随分前のことだが、このブログに「共謀罪の悪夢」という駄文を載せたことがある。こんなこともあり得るかも知れない――という想像で書いた一種のコントであり、(似たようなことが頻出するとは思うが)そっくりそのままのことが起こるかどうかはわからない。だから言い方によっては、このコントは嘘っぱちだと言えないこともないのだ。

 世の中、「100%の嘘」とか「100%の真実」というものはさほど多くない。嘘にも少しだけ真実が混じっていたり、真実にもちょっぴり嘘(というと語弊があるだろう。ウラをとっていない噂話や、又聞きの話や、想像などを含むと考えてほしい)が混じったりする。 そして少しだけ想像力を働かせた記事や、匿名を条件に語った街の声などを「虚偽」と決めつけるのは、権力にとってはたやすいことなのである。

……まだまだ、ぼちぼちと続く。

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国民投票法案を上程させるな・1

2007-01-20 00:39:44 | 憲法その他法律

 昨日、安倍首相が通常国会で共謀罪の成立を目指すよう長勢法相に指示したという。TBをいただいた「みやっちBlog」さんほか、多くのブログでこの情報を取り上げ、共謀罪阻止の姿勢を表明している。むろんこの共謀罪は冗談ではない法律であり、私自身も成立したら最後という危機感が強い。

 だが危険なのは共謀罪だけではない。もうひとつ、今回の通常国会に持ち出されようとしている憲法改定の「国民投票法案」も、考えれば考えるほど背筋の寒くなる法案だ。与党は「改憲するかどうかは別として、改正の手順は決めておくのが当然」というふうな言い方をしているが、それは屁理屈というもの。百歩譲って「手続きにかかわる法律は必要」だとしても、慌てて作らなくてもいいはずだ。安倍首相は既に任期中に憲法を「改正」したいと明言し、今国会で国民投票法案の成立を目指すと表明している。17日に開かれた自民党第74回定期党大会の挨拶でも、そのことを述べたという。「やっぱし手続きは決めておかなきゃーね」ではなくて、「改憲のための法案作り」であるのは小さな子供でもわかる。

 野党第一党である民主党においても、特に鳩山幹事長は同法案の成立に積極的に賛成。去る10日、自民党の中山太郎衆院憲法調査特別委員長に対して「与党と共同修正案を提出する方向で党内調整に入る」旨を伝えたそうだし、昨日の記者会見でも法案成立に賛成の意を表明した。

 与党案を見れば――「有効投票数の2分の1以上」で改定できるという一項目だけとっても、「改定しやすさ」を何より重要視していることは一目瞭然。ほかに発議から投票まで「30日以後90日以内」というのも、常識で考えてもあまりに短すぎる。最低線である30日そこそこであったりすれば、ろくに憲法改定についての議論がおこなわれないどころか、国民の多くが「どこをどのように変えたいのか」「変わるとどうなるか」をよく知らされないまま投票日を迎えてしまう。大して関心を持たれぬうちにバタバタとやっつけてしまえ、という感じである。関心がさほど強くなければ自然と投票率も低くなり、そうなれば有効投票数の2分の1ぐらいは組織票だけで楽にクリアできる。 

 民主党案に多少歩み寄ったとしても、はっきり言って基本は大して変わらない。たとえば民主党は有効投票数ではなく総投票数の2分の1以上という案を出しているようだが、「国の根幹を定めた法律」である憲法を、そんな程度で変えてよいとは私は思わない。むろん私は憲法を「未来永劫変えてはいけないもの」と、まるで聖典のように崇め奉っているいるわけではない。必要があれば変えていいと思っているけれども、繰り返すように「国の根幹を定めた法律」なのだ。投票数に対して何%の賛成ならOKではなく、問題は全有権者のどれだけが賛成であるか。私としては、全有権者の3分の2以上の賛成は必要だと思っている(だから投票率が3分の2以下になれば、それだけで改定は不可能)。

 それでは絶対に「改正」なんかできないって? いや、できますよ。本当に必要な「改正」であれば。どれだけ時間がかかろうとも憲法は国民全体で考えていくべきことだし、そうでなければ主権在民は嘘ということになる。

 公務員や教育者の国民投票運動の禁止、報道の規制その他、与党案には「待て」と言いたい部分がたくさんある。と言うより、「そういう部分」だらけだ。ちなみに民主党案にも、眉をひそめる部分が多々。むろん報道の自由の保障などはそれだけ見れば結構だけれども、法案成立を前提としている姿勢そのものが何より気にくわない。うさんくさい。安倍内閣の「悲願???」であるところの「改憲」を目的とした、法案作りに賛成して、どうすンだ。

 現在の国会の勢力分布を見れば、上程されてしまえばこの法律は強引にでも通される可能性大。ましてや、民主党が妥協すればあっという間に成立する。間もなく始まる通常国会は、改憲の外堀を埋める国会。法案の危険性を、日常生活でも、そして(大した力にはなれないが)ブログでも訴えていきたい。

 ……ということで、怒りまくりながら続く。

 

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犬と少年の登場するこの童話、ご存じないですか

2007-01-19 06:51:03 | 箸休め的無駄話

 まだ夜の闇の明けきれない時刻に、箸休め的なムダ話を――

 もう1年以上前になるかと思う。Under the Sunで本の話をしていた時に、「小さい頃に読んで記憶に焼き付いているけれども、題名も作者も忘れてしまった」童話について書いた覚えがある。誰かご存じの方がおられたら――と書き添えたのだがレスポンスはなかったので(泣)、ふと思い出したついでに書き留めておく。何かご存じの方、どうぞ教えていただきたい。

 ある家庭で子供達が「犬を飼いたい」と望んだが、父親である小説家(たぶん作者と重なっているのだと思う)は顔を引きつらせ、絶対にダメだと言い張った。ヤな親父だと子供達はむくれるのだが……何年も何年も経って父親が死んだ時、子供達は父親の未発表原稿を発見する。フィクションではなく、父親自身の思い出を物語風の体裁にし、三人称で記したものであるらしい。

 ……という簡単な導入部分があって、後はその父親の原稿になる。

 主人公の少年は貧しい家に生まれ、小学校を出てすぐ「商家の小僧」として奉公に出された(主人公のこの子供時代は、おそらく20世紀の初め頃だろう)。年長の奉公人達にいじめられ、追い使われるだけの存在だった少年の唯一の友達は、一匹の犬だった。私の記憶ではその商家に飼われており、ただし年取って番犬の役に立たなくなり、庭の隅でいわば飼い殺しにされていた犬だったような気がする。少年は自分もいつも腹を減らしているにもかかわらず、自分の乏しい食事を削って与えたりしてその犬を可愛がっていた。ひとりぼっちの少年と見捨てられた老犬とは、人間同士よりも愛し合い、片隅で寄り添って暮らしていた。

 少年にはひとつ、小さな望みがあった。それは「揚げまんじゅう」を食べたい、という望みだった。幼い頃からろくにおやつなど食べたことのない少年にとって、揚げまんじゅうというのは「手が届くかも知れない範囲」で最も高価で、最も美味しい、憧れの食べ物だったのだ。

 そしてある日、少年はついに揚げまんじゅうを手に入れることが出来た(どうやって手に入れたのかは忘れた。小遣いを貯めてやっと買ったのかも知れないし、雇い主の家族か誰かが気まぐれにくれたのだったかも知れない)。それを物陰に隠れてこっそりと食べようとしたとき――いきなり老犬が飛び出してきて、彼が宝物のように両手に持っている揚げまんじゅうを取ろうとした。いや、取ろうとしたと言えば語弊があるだろう……少年はいつも食べ物を分けてやっていたから、老犬にしてみればこの時も当然分けてもらえると思ったのだろう。むろん、単にじゃれていたという面もあるだろう。

 だが……やっとのことで手に入れた揚げまんじゅうを盗られそうになって、少年は一瞬、逆上した。オレのものだ、オレのものだと喚きつつ、じゃれかかる老犬を蹴り飛ばしたのである。キャインキャインと悲鳴を上げるのもかまわず、彼は目を逆立てて蹴り続けた……。

 それから何日かして、老犬は死んだ。おそらく老衰だったのだろうが――少年は自分が殺したのだと思った。自分が蹴り殺したのでなかったとしても、命の最期の時にじゃれてねだってきたのを自分は拒否した。なぜ、揚げまんじゅうを分けてやらなかったのだろう……。

「△△、ごめんな、ごめんな」と言いながら、死骸を抱いて号泣する場面の描写がある。ちなみに△△というのは犬の名だが、これはすっぽりと記憶から抜けてしまっている。揚げまんじゅうなどという具体的なものをありありと覚えているくせに、犬の名などは完全に忘れているのだから記憶というのは本当に不思議だ。いや、単に私が食い意地が張っていたせいか、もしくは揚げまんじゅうというのがどんなものかわからず、妙に気にかかったせいかも知れないけれども。

 そうやって……少年は自分がほとんど唯一と言っていいほど心許せる相手であった存在を失った。死別した、ということではない。

 少年はその後さまざまな紆余曲折を経て小説を書くようになったが、初老に近い年になっても、「犬」を見ると否応なく△△と真向かう気持ちになり、自分は許されない人間だと感じて心の深いところで血が流れる。だから――どれほど子供達に乞われても、どうしても犬を飼うことが出来なかったのだという意味の文章で、原稿は結ばれていた。

 何せ、10歳に満たない年で読んだ童話である。細かな部分はかなり曖昧だし(揚げまんじゅうというのだけは、99%確かだけれども)、本自体、親だか祖父母だかが買ってくれたものなのか、亡くなった親父の遺品だったのかも定かではない。ただ、少年と犬とが可哀想で可哀想で、親が何ごとかとびっくりするほど泣いたことは今も記憶に新しい。友情とか裏切りとか、あるいは人の心の弱さとか……私はさまざまなものを物語によって学んだ。この童話もそのひとつなのだが、作者の名さえ忘れているがゆえに、妙に気に掛かる。ほんと、誰かご存じだったら教えてくだされ。おせーてー。奥歯にサカナの小骨が引っかかったような気分なのです。

 

 

 

 

 

 

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「態度を養う」怖さ――外相を整えさせられまい

2007-01-16 23:32:47 | 本の話/言葉の問題

「教育再生会議」が、中間報告において「高校の社会奉仕活動必修化明記の方針を固めた」という。昨日それに関する記事を書いたところ、時々立ち寄ってコメントを残してくださるLooperさんが、またまたおもしろいコメントを書いて下さった。

【失笑改定教育基本法の『教育の目的』は、xxな「態度を養うこと」だそうですから、連中は、ボランティア精神の養成なんかどうだっていいのでしょう。腹の中じゃーどう思おうが、ともかく従順に「立ち回り」=「態度」を示す人を作ることが「教育の目的」なんですからね。】

 そう……「態度を養う」なのだ。改定教育基本法も、そして憲法改定案も、その基本は。「心を養う」でも、「精神を養う」でもなく。

 心にくびきは填められない、心に押しつけはきかない――ということを、彼らだって知っているのだ。だが同時に、彼らは知っている。「態度」ならば押しつけがきき、そして態度を枠にはめれば、いつの間にか心もそれに流されることを。利巧ですね、ほんとに感心する。

 何でも「形から入る」ということがある。理解できようとできまいと、疑問があろうとあるまいと、ともかくまずは形を整える。真似でもいいから形を整えているうちに、自然に中身もついていく、という考え方である。茶道や華道などは、その辺を非常に重視しているとも聞く(私はどちらとも無縁なので本当かどうか保証の限りではないが、やってる人間はそう言っている)。出家したときに頭を剃って墨染めの衣を着る、なんていうのも根底にそういう発想があるのかも知れない。髪なんざ剃ろうと剃るまいとシャカの思想を我がものとして生きるのに関係ないようなものだが、形を整えれば「否が応でもその気になる」ということだろう。

 そう言えば森田療法(Morita therapy)の創始者である森田正馬も、たしか「外相整えば内相おのずから熟す」とか言っていた(手元に本を開いていないので微妙に違っているかも知れないが、基本的なところは間違っていないはずだ)。少々無理をしても形を整えれば、気分もそれに引きずられていくということらしい。知り合いの精神科医は、ポツリと言った。「そりゃ僕も、朝起きたくないな、仕事行きたくないなーと思うことありますよ。でもね、無理矢理に起きてコーヒー飲んで着替えして、とにもかくにも家を出る。気が進まないときは、そうやって形を整えないと始まらないんですよね」

 心とか精神とかを我々は確固たるもののように思い、自分の砦として信じてもいる。一面では確かにそうなのだけれども、その半面でかなり脆弱な部分があるのも事実。 いや、むろん「そうじゃない」という人もおられるだろうが、少なくとも私は自分の「心」の脆弱さをしばしば感じる。たとえば知人の葬式に行けば――私は神も仏もあるか、天国も極楽もクソクラエという不遜な人間なのだけれども――仏教の葬式であれキリスト教の葬式であれ、少し厳粛な気分が全身に満ちあふれ、一瞬ではあっても「永遠」を信じそうになったりする。棺に花を捧げながら、「さようなら」と言っている自分に気付いたりする。

 いや、そこまで極端に非日常的な話でなくたっていい。つい先頃の「正月」には郷里から母親がお出ましになって、(かなり手抜きではあるが)おせち料理を作ってくれた。そのおせち料理を詰めた重箱を開け、何となくなつかしい田舎風の雑煮を食べると、我ながら不思議ではあるけれどにわかに正月気分になってしまった。形と言えば――私は普段は社会的立場も年齢もよくわからないジーンズ姿でうろついているけれども、重要な会議だの、冠婚葬祭の時などは(恥ずかしながら世間の常識に妥協して)一張羅のスーツに身を固める。そんな時、私は逆らっているつもりで実はけっこう形を重んじている自分を発見したりする……。

 態度は態度に過ぎない。だが、「面従腹背だよ。形だけ従ったふりしてりゃいいじゃん」というのは、あまりに楽天的すぎる。「外相」はいつのまにか「内相」を支配し、変容させるのだ。少しずつ少しずつ……あたかも滴る水が岩をうがつように少しずつ、だが一歩一歩確実に。おそらく70年ほど前の日本も、そうだったのだ。「うざったいなぁ。でもまあいいか、表向きだけそのふりしてよーか」という適当な気分で形だけ合わせているうちに、次第次第に心まで浸食されたのだ。

 重ねて言う……心というのは実はとても脆弱なものである。繊細であるがゆえに脆弱なのだ、と言ってもいい。熱く燃えていても、浸食してくるものに対しては弱い。いつのまにやら手足の先から染められてしまうのだ。

 だから私は今、「態度を養」おうとする動きに渾身で抵抗する。外相を整えさせられて、たまるもンか。

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「ボランティア体験の義務づけ」??――教育再生会議中間報告

2007-01-15 23:31:30 | 教育

〈ああ、教育再生会議〉

 昨年10月に発足した「教育再生会議」(座長・野依良治理化学研究所理事長)。安倍総理は、その初会合(だったと思う)の冒頭のスピーチで「『美しい国』を造る上での基盤は教育である」と述べたと聞く。美しい国、美しい国と、まったくもって耳にタコが出来そうだし、教育「再生」なる名称自体、背中がムズムズする。「革命」だの「改革」だの「維新」だの「再生」だのという言葉はそれだけ聞けば綺麗でワクワクするし、少なくとも何かいいことがありそうな期待を抱かせる。だが言葉は重宝なもので、なりふりかまわず「強いモン勝ち」の価値観を広めるのが改革だったり、都合の悪い考え方を一掃するのが再生だったりするから、聞く時はよっぽど注意が必要だ。

 教育再生会議の場合も、ここでいう「再生」は個々の子供達、引いて言えばひとりひとりの国民を主人公にした「教育」の再生ではない。これは私の勝手な思い込みではない。教育基本法を強引に改定した安倍内閣が作った組織だから――ということもあるが、安倍総理は先のスピーチの中でこうも言っている。「(教育を再生して)志ある国民を育て、品格ある国家社会を造らねばならない」。

 志? 品格? あーあ、またキレイキレイな言葉が出たよ。いや、私も「志」や「品格」は嫌いじゃあない。しかしそれらは、あくまでも個々の人間のものでしょうが。政治家が規定したり、エラソウに言ったりすることじゃあない(※)。

7日のエントリでもそのあたりのことにちょっと触れたので、もういっぺん載せておく(自分の記事を引用するなんぞ恥の極みだが、どうせ同じことばっかりしか言えないので……)

【政治家ってのは「公僕」だろ? 国民のサーバントなんよ。いろんな価値観を持った庶民が、それぞれに暮らしやすい環境を整えるのだけが仕事でさ、それ以外にはなーんもないとおいらは思うね。国民のサーバントのくせに、妙な方向に張り切って、幻想の価値観を国民に押しつけようとするってのが根本的な間違いなのさ。】

 

〈「ボランティア活動」の「義務化」って、矛盾してないか〉

「公僕」が自分を「この国の支配者」と勘違いし、妙に張り切って教育をおもちゃにする。(支配者というのが言い過ぎならば、リーダーとかトップとか言ってもいい。総理大臣と呼ばれる安倍晋三氏も、自民党という組織においては確かにトップであろうが、この国のリーダーではないのだ。国の主権は国民ひとりひとりにある)

 その「勘違い」の申し子である教育再生会議が、今月末までに第一次中間報告を取りまとめるそうだが、報道によるとその報告で「高校で社会奉仕活動を必修化するよう明記する方針を固めた」という。

【19日に全体会議を開いて決める。学習指導要領に盛り込むかどうかなどの実施への制度作りは、その後さらに議論する。学校での社会奉仕活動については、森内閣の教育改革国民会議が00年、小中高校で共同生活をしながら行うことなどを提唱した。しかし「憲法が禁じる苦役につながる」との指摘や受け入れ態勢の問題があり、実施は見送られてきた。ところが、安倍首相は昨年の総裁選で「公の概念が大切」と大学入学の条件にボランティア体験を義務付ける考えを示し、著書「美しい国へ」で「最初は強制でも、若者に機会を与えることに意味がある」と主張。 これをきっかけに社会奉仕活動の導入論が再浮上し、再生会議でも「奉仕の義務化が必要」(池田守男座長代理)などの意見が出て、報告に明記する方向となった。】(毎日新聞記事より)

 ボランティア体験を「義務づける」って……あんたねえ……冗談にしてもタチが悪すぎる。volunteerismというのは、そもそも自由意思に基づく自発的な活動(や、その精神)であるはず(私は語学の専門家ではないので、語源的にどうこうといったことはわからない。庶民の常識?の範囲で語っているだけであるが)。義務だの指示命令などとは、最も遠い地平にあるはずでしょうが。

 ボランティア体験は、実のところ既に(一部ではあれ)薄汚くなっている面がある。その有無・内容が内申書に記載されたり、企業の面接で尋ねられるという状況が生まれるようになって以来、「立ち回りの手段としてのボランティア活動」が出現してきたのだ。何らの気負いもなく、ひっそりと、「できる時に、できることを」という精神は犯されつつある。 「右手のしていることを左手に知らせるな」という諺は、死語になりつつあるらしい。

 なお、具体的に何をするのかは「高校や地域の清掃、校内のトイレ掃除」といった程度の議論しかされていないそうだ。掃除、ねえ……(ため息。まさか空き缶ポイ捨て話の好きな総理におもねったわけじゃあないでしょうな)。

 

〈素直に号令に従う「国民」を養成〉

 本来、自由意思に基づくものであるはずのボランティア活動を義務づける。その裏に透いて見えるのは、「指示命令に従う国民を養成しよう」という意図だとしか私には思えない。自由意思でモノゴトをやってもらっちゃ困るのだ。ああせい、こうせいと言われて素直に従う国民が欲しいのだ。

 教育再生会議について言いたいことはたくさんあるが、続きはまたの機会に。 

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牡猫ムルの人生相談・2――憲法の話をしたい若いママの巻

2007-01-12 23:44:07 | ムルのコーナー

 都の東北を縄張りとするボス猫のムルが、みなさまの悩みに(勝手に)答える「牡猫ムルの人生相談」。第一回は「某国総理の悩み」でしたが、第二回はガラッと変わり、憲法の話にちょっぴり関心があるという若いママさんの悩みです。

 

 【質問】友達などに、「政治なんか興味ないわ」って言われるのですが。

  小さな子供を持つ母親です。憲法とかって全然興味なかったんですけど、ちょっと前から憲法を変えるのどうのこうのっていう話が、私なんかの耳にも聞こえてきたりするんですよね。それで、ちょっとは知っといた方がいいかなあって思って、9条の会っていうんですか? そういう所の講演会に行ってみたりしたんです。難しいことはまだ全然わからないんですよ。いろいろ本とか読んだりして、しっかり勉強してる時間ないし。ただね、何となく「どうして変える必要があるの?」っていう気はして、友達なんかとそういう話、してみたいんですよね。

 でもみんな、「政治のことなんか興味ない」って言うんですよねー。「私たちと何の関係もない」って。講演会行かない?とかって誘ったりすると「あなた、政治活動する人だったのォ?」って急に特別な目で見られるし、夫なんかも「政治活動なんかに首突っ込むより、ちゃんと子供の面倒みるほうが先だろ」なんて嫌味言うし……。ふつーの若い主婦が憲法の話するのって、変なんでしょうか。そりゃ私だって、別に憲法のことに無茶苦茶関心があるってわけじゃないんです。ほんとのとこ、旅行やお菓子作りの方がずーっと興味あるんです。でも、憲法も「無関係なこと」じゃない気がするんですよねー。法律って、つまり国の規則でしょ? 学校だって、うるさい校則とか変な校則のある所はヤだなって思ってたわけだしイ。

 

 【回答】「護憲」は政治の話じゃあないよ

 ……なんていうと、語弊があるけどさ。

  おいらの人間の友達で華氏って奴がいるんだけどさ、そいつの知り合いが「9条の会などの護憲運動は、政治活動ではない」と言ったんだって。護憲運動が政治活動じゃないのは、「現憲法は世界の先端をいく理想的なものであり、それを守るのは常識だから」。戦争を放棄するというのも「人間として当たり前の常識」で、政治がどうこうの話ではない、というわけさ。華氏と言やぁ、あいつもいわゆる「政治」のことなどを考えるのは最小限にしたいってよくほざいてる。「社会」のことを考えるのは嫌いじゃないけど、自分の中では政治と直接かかわりのない地平で問題にしていることも多いんだとさ。だから自分のブログは政治ブログなんていう立派なシロモノじゃあねぇ、とも。そうそう、念のため言っとくと、政治の概念をどう捉えるかというムツカシイ話は、このさい抜きにして話してるんだよ。ここでイメージしているのは、少なくとも広義の政治じゃあない。政治権力とか政党とか何々シュギとかいう類の概念と、不可分に結びつくところの「政治」ってやつね。

「政治」とか「政治問題」とか「政治活動」とかって聞くと、それだけで腰引けちゃう人は多いみたいだね。でも、憲法のことを考えるとか、憲法を守るとかいうのは、その人達がイメージしている「政治」とは、確かにちょっと違うよな。もっと……そう、日常的で、あたり前で、「安全なものを食べたいね」とか「安心して子育てしたいね」なんていう話と同じようなもの。おばちゃんの――じゃなかった(わわわ、ごめ~ん)、おねえちゃんの言う通り、法律は国の規則で、憲法ってのはその核になるものだよな。おねえちゃん達の暮らしの枠組みを決める基本だから、ホントは無関心でいられるわきゃーねぇよなあ。

 それなのに「関係ない、難しい話」みたいに思われちゃうのは、どうしてなのかなあ。もしかするとほんと、「政治問題」っていう言い方が悪いのかも知れないね。政治ってのは上の方のエラーい人達がやることで、四の五の言っても仕方ないという感覚がしっかり植え付けられてるのかも。その意味じゃあ、「政治のハナシじゃねぇぞ」っていう開き直りは結構大切なことかなって、おいらは思ったりするぜ。政治問題とかじゃなくて、ゴミの分別をどうしましょうみたいなことと同じ身近な話じゃん、っていう視点で、気軽に――いや、いい加減ってことじゃねぇぜ、むろん真面目にだけどもさ、肩肘張らずに話した方がいいよなって思う。

 そりゃね、別の言い方もできるよ。「政治」は庶民と無縁なものじゃない、とかさ。そう言やあ、どっかの政党が「政治は生活である」ってぶち上げてたよね。おいら、あの政党のファンでも何でもないし、あのキャッチはかなり意識的に作られたものだと思うけどさ、でも一面、すごく正しいとも思う。生活維新……てのは、正直、いただけないけどね、維新て言葉自体が手垢にまみれてるじゃん。それを、奪い返すっていう本腰の入れ方で使うならともかく、手近なところで拾ってきました的な雰囲気が何か気にくわないけどさ(ついでに言うと、オッサン三人が妙に生真面目な顔で拳固めて、生活維新なんて言ってる図も何となく違和感あったりするけど)、まあそれはいいや。政治というのは、えらい人、頭のいい人、エリートさん、あるいはオカミ――がいじくる雲の上のものじゃなくて、庶民の暮らしと隣り合わせの普通の話なんだっていう視点。そういう視点でフラットに捉えることも、とても大切なんだよな、きっと。

 多分さあ、どっちも同じことなんだと思う。政治の話じゃないというのも、政治ってのは日々の生活とかけ離れたものじゃないというのも。でもおいらから見れば、そんなことどっちだっていいじゃん、という気がするんだよなぁ。眉間に皺寄せて「そもそも政治とは何か」なんて議論したって、むなしいじゃん。概念みたいなもんに振りまわされずに、「知っといた方がいいよ」「無関係じゃないもん」と言って、スーパーで売られている食材や、子供の将来に対する不安。リストラされた親戚の叔父さんのこと、医療費の負担増を嘆くおばあちゃんのこと……等々と同じように話題にし、自分自身で考えていくこと。

 おねえちゃんたちはもしかすると、「そんなことは上の方の人達が考えて、うまくやってくれること」だと刷り込まれてきたのかも知れない。でもさ、日本は民主主義国家でしょ? 君主とかっていう存在はないんでしょ? 政治家っていう人種はいるけど、あの人達は、お姉ちゃん達が自分達がよりよく暮らしていけるために、実務を「代行」させるために選んだ人達じゃん。えらい人達、じゃあないんだぜ。

 おっとっと。話が拡散しちまったね。おねえちゃんは「政治なんかア」と言われて凹んでるみたいだけど、おいらはおねえちゃんの感覚が正しい――つうか、ごくまっとうだと思う。憲法の話は、政治や法律の専門家じゃないとわからないこと、専門家に任せておいた方がいいこと、じゃあない。それを「政治の話だから」というだけで忌避するんだったら、政治なんてクソクラエさ。政治なんて言葉、蹴飛ばしちまえばいいさ。

「政治の話なんかじゃないわよ」でもいいし、「政治って、そんな難しい雲の上の話じゃないでしょ」でもいいし、おねえちゃんが話しやすい道筋を通ればいい。どっちにせよ行き着くところは同じだから、政治問題なんてぇ言葉にこだわる必要はないとおいらは思う。「憲法って国で最も重要な法律だもん。やっぱ、常識として知っとかないとまずいよね~」的な軽いノリで、話し始めてもいいんじゃない? ムツカシイ顔したら、負けだぜ。

 

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60年前の『あたらしい憲法のはなし』は今も新鮮

2007-01-10 23:55:37 | 憲法その他法律


 今日書店に立ち寄ったとき、興味深い印刷物を見つけた。大きさは文庫本より少し縦長で、わずか48ページだから、本というイメージではない。やはり印刷物、というのがピッタリする。題名は『あたらしい憲法のはなし』。1947年に文部省(当時)が新制中学の社会科の教材として作成したものの翻刻である(発行所はクオリ)。奥付を見ると20年ほど前に翻刻されていたので、読まれた人は多いのではないか。私は初めて知ったのだけれども。

 対象は中学1年生ということになっていたそうだが、文章は非常に易しく、たぶん小学校の3~4年生でも読める。しかも(子供向けと言うことでところどころ表現が回りくどかったり、少し甘ったるいなど気になる点はあるにせよ)基本的な部分はきっちり抑えてあり、子供だけでなく大人が読んでも読み応えがある。憲法のことを改めて考える上で、なかなか役に立った。

 一部、抜粋してみる。

【みなさんは、憲法というのものはどんなものかご存じですか。自分の身にかかわりのないことのように思っている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。】

【こんどの憲法は、第一条から第百三条まであります。そうしてそのほかに、前書きが、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法を読んで、その意味を知ろうとするときに、手引きになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうような変えかたをしてはならないということです。それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「国際平和主義」と「主権在民主義」です。】

【いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いはしたくないと思いませんか。(略)そこでこんどの憲法では、日本の国がけっして二度と戦争をしないように、二つのことを決めました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。(略)しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手を負かして、自分のいいぶんをとおそうとしないということを決めたのです。(略)また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことに決めたのです。これを戦争の放棄というのです】

【人間がこの世に生きてゆくからには、自分の好きな所に住み、自分の好きな所に行き、自分の思うことをいい、自分の好きな教えにしたがってゆけることなどが必要です。(略)この自由は、けっして奪われてはなりません。また、国の力でこの自由をとりあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由はけっして侵すことのできないものであることを決めているのです】

【戦争中は、なんでも「国のため」といって、国民ひとりひとりのことが、かるく考えられていました。しかし、国は国民の集まりで、国民のひとりひとりがよくならなければ、国はよくなりません】

「ご存じですか」「……いたしましょう」など、現代から見ればやや丁寧すぎる言葉使いもあり、このまま今の子供に読ませると子供の方は違和感を持つかも知れない(持たないかも知れない。私は子供がいないのでわからない)。だが、子供と憲法の話をするときの参考になることは間違いない。「正しいことをほかの国より先におこなったのです」――うん、当時の文部省はいいことを言っていたのだ。今の文部科学大臣その他に、爪の垢でも煎じて飲ませたい。
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9条改定賛成は40%以下(静岡新聞意識調査)

2007-01-08 00:15:48 | 憲法その他法律

 

 知人から、1月4日付けの静岡新聞に「憲法改正意識調査」の結果が発表されていると教えてもらった。この調査は同紙が昨年の末、県民を対象としておこなったもの。昨年と一昨年も同様の調査をおこなったようだが、前回・前々回と比べると改憲に対して慎重な姿勢が見られたという。報道によれば、特に「9条を変える」という意見の急減が特徴的だった。

(私は自分自身では改正という言葉は使わないが、調査では改正と呼んでいるので、質問の紹介などではそのまま使うことにする)

〈70%以上が憲法問題に関心あり〉

 質問項目は「憲法問題に関心がありますか」から始まって、合計11問。その第1問に対しては、「関心がある」と「ある程度関心がある」が合わせて71.8%。「あまり関心がない」プラス「関心がない」を、大きく上回った。むろん意識調査の場合、やや構えてよそ行きの答えをするきらいもなくはないが、それを割り引いたとしても「多くの人が少しは関心を持っている」とは言えるだろう。

 見直し議論に関しては、「改正に向けて積極的に議論すべき」11.4%、「議論した結果、改正することがあってもよい」63.8%、「議論はよいが、改正の必要はない」16.6%、「改正すべきでなく、議論する必要もない」1.9%。つまり積極的な改憲派は11.4%、積極的な護憲派は18.5%と見てよいだろう。

「議論した結果によって、改正することも可」というのは、同紙では改憲容認派と呼んでいるが、「本当に不都合なところがあるなら変えればいいが、不都合がなければ変える必要なし」という、ある意味、ごく常識的な意見ではないかと思う。不都合がないどころか、我々を守ってくれているものであることや、自民党などの「改正案」の問題点がはっきりわかれば、護憲にシフトする層ではあるまいか。

〈2人に1人は9条改定に反対〉

 第8問と第9問は、9条に関する問いかけである。まず第8問は「9条をどうすればよいか」であるが、「改正に賛成」は37.9%。「わからない」という人も13.1%にのぼったが、約50%は「変えなくてもよい」と考えている(ただし自衛隊の活動について解釈や運用で対応すればよいという意見と、解釈や運用もよくないという意見に分かれる)。

「議論の結果によっては改憲もOKだが、9条を変えることには不賛成」という意見が主流だと考えてよい。

 次の第9問は「集団的自衛権」に関する質問。これについては、「9条を改正して集団的自衛権を行使できるようにする」は16.9%にとどまった。

〈知ることの強さ〉

 ちなみに「9条改正に賛成」という意見は、前回(一昨年)は45.8%。前々回は50%を超えていたという。調査では自由に意見を書くところもあったようで、「ナショナリズムの隆盛が目立つ中での改正には危機感を覚える」「憲法改正よりもほかにやることがある」などの意見が解説記事で紹介されていた。

「9条改正派」が40%を割ったことについて、解説記事では「改憲に積極的な安倍晋三首相の誕生、防衛庁の「省」昇格、教育基本法改正に伴う愛国心の養成――などナショナリズムを意識させられる一連の出来事が昨年後半、相次いだことが大きな要因」「急速に改憲が現実味を帯びたことで、一種のバランス感覚が働いたのではないか」と述べている。コメントを寄せた静岡大学元学長・佐藤博明氏も、右寄りの法案が相次いで成立した結果、「『ちょっと待ってくれ』と県民の間に抑止力が働いた」と見る。また、各地で9条の会が次々と誕生し、浸透しつつあることも9条改正反対が増えた要因、とも付け加えていた。

 知らなければ「マズけりゃ変えたっていいんじゃない?」と軽く考える人々も、知れば「ちょっと待て」になっていく。憲法が何を守ろうとしているか、その何処を変えようと目論まれていて、変わればどんな社会が生まれるのか。それらを共に考え、広く伝えていく必要性を改めて感じる。

◇◇◇◇◇

 以前も書いたことがあるが、調査・アンケートの類は設問によって――言葉の用い方や質問項目の順番が少し違うだけでも、かなり違う結果が出る。一定の方向に回答を誘導することも可能だ。ちなみに以前、「死刑廃止は本当に多数意見か」という疑問を述べた時に、誘導的な質問というものと、そのわかりやすい例を書いている。

 だからどんな調査でも結果だけを鵜呑みにすることはできない(質問項目などをよく点検して、自分で判断すべきである)が、およその傾向を知るには役立つし、問い方その他全体を見ることで数字以外のものが見えてくることも多々ある。

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牡猫ムルの人生相談・1――総理大臣の巻

2007-01-07 02:58:45 | ムルのコーナー

 都の東北を縄張りとするボス猫のムルが、みなさまの悩みに(勝手に)答えます。

【質問】支持率が下がって不愉快かつ不安なのですが。

 ある国の総理大臣です。総理になったばかりの時は内心自分でも驚くほど支持率が高かったのに、ここへ来て下がりっぱなし。側近は「支持率なんていい加減なもんだから、気にすることありまへんで」と笑い飛ばすんですが、私としてはそう楽観もしておれず……。苦労知らずのボンボンだの、歴史も国語もまともに勉強していないだろうだのと噂されていることもあって、何となく気分の悪い日々が続いています。毛並みから言っても一流中の一流である私が、なんでこんなに人気がないのでしょう。前任者のように派手なパフォーマンスでもするべきでしょうか。このままでは、祖父や父に顔向けできません。

【回答】アナタの目は何処を向いているの?

 お答えしま~す(って、アホらしくてほんとは答えたくないけど)。あんたの目は何処を向いているのさ? オジイチャマやおとっつぁまの名を辱めない政治家になろう~と頑張るのはそりゃあんたの勝手だけどさあ、政治家ってのは「公僕」だろ? 国民のサーバントなんよ。いろんな価値観を持った庶民が、それぞれに暮らしやすい環境を整えるのだけが仕事でさ、それ以外にはなーんもないとおいらは思うね。国民のサーバントのくせに、妙な方向に張り切って、幻想の価値観を国民に押しつけようとするってのが根本的な間違いなのさ。むろん庶民てぇのは素直からね……つうか、日々の生活に忙しいからさ、細かいことまでなかなか考えていられない。昔ながらの「オカミ意識」もあるしね。でもさあ、そのオカミ意識に巧く乗っかって自分が何者かであるように演出するのは汚いぜ。庶民てのはね、ここの管理人の華氏もそうだけど、アホかも知れないけどアンタらがタカくくってるほどにはアホじゃない。いざとなればムシロ旗立てて一揆も起こすのさ。日本人は羊のようにおとなしい国民だとか言われてるけど、あれもおいらにはちょい疑問だね。そう言いつのることで得してる奴がいるんだよな~てな気もする。

 前任者みたいなパフォーマンス? やめたほうがいいぜ。あんたの前任者は確かに派手なパフォーマンスして、ワイドショー風ってのかな、ある種の人気をさらった面はあるけど、5年10年経てば「ばーか」で片付けられるような話さ。

 ほんとに支持率を上げたかったら、もっと謙虚になった方がいいぜ。あんたは「一国を思いのままに動かす独裁者」じゃないんだ。そういう独裁者的な存在に人間は魅力感じるのかも知れないけどさあ、おいらみたいな御意見無用の野良猫から見ればアホらしくってヘソが茶を沸かすね。あんたのそもそもの間違いは、総理大臣というのを「集団を自分の思う方向に引っ張っていけるリーダー」だと勘違いしていること。あんたの祖父ちゃんも、そうだったかも知れないね。公僕のまとめ役なんだと気付けば、自分の立ち位置と、その責任の重さがわかるんでない? たとえば教育基本法、国民のつなみのように盛り上がった意思もないのに、数を頼んで変えた。憲法も同じ雰囲気で変えようとしている。そういう思い上がりに、実のところ庶民てのは敏感なんだよ。大きな声で叫びはしないけどね。

 繰り返して言うけどさ、国会議員は「国民の使用人」なんだよ。総理大臣はその単なるまとめ役。何者かになったみたいに錯覚しないほうがいいぜ。

 支持率を上げるのは簡単さ。息苦しくない社会を作るための施策に、一つでも二つでも取り組みゃあいい。アンタのやってることは、その正反対じゃんか。おいら、原則的にはアンケートなんてものは信じてないけどさ、それでも全く無意味だとも思わない。あんたの支持率が下がったのは、あんたが庶民の立場に立ってないという証左だと思うぜ。庶民は弱い立場だから、ある程度、権力を持つ者達にすがらざるを得ない。どの内閣も発足当時はそれなりの支持率があるじゃん? それはさあ、騙されても騙されても、すがるしかない庶民の悲鳴なんだよ。何度も何度も結婚詐欺に遭ってさあ、それでも「今度出会った相手は、もしかするとホンモノかも」と思いたい。そのギリギリの思いを裏切るなんて、人間の――じゃねぇかな、生き物の風上にも置けねえや。なんか、気分悪くなってきた。出直して来ーい!!

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安倍「改憲内閣」は右派クーデターを目指す

2007-01-04 23:52:54 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 夕刊各紙を買い集めて来たら、何処にも出ていました、安倍首相の「年頭記者会見」の記事(おそらくテレビでも報道されたのだろうが、私はテレビはほとんど観ないので……)。

 この会見で、首相は「安倍政権のうちに改憲を目指す」ことを表明した。むろん彼は前々から何とかの一つ覚えのように「ケンポーカイセー、ケンポーカイセー」と繰り返している。だからいちいち驚く話でもないのだが、まあ庶民の一人としては彼の発言に毎度神経が反応する。このブログでも 「安倍改憲内閣、宣戦布告す」など、いくつかの記事を書いたように思う。

 むろん改憲の話だけしたわけではなく、ほかにも「教育再生(新しい教育基本法にのっとり、教育再生会議で具体案をまとめて必要な法改正をおこなう)」、「社会保険庁の廃止、解体、6分割」、「景気回復(成長戦略を推し進め、かつ競争力を高めて強い経済を目指す)」など、いわゆる「抱負」をさまざまに語ったそうだ。さらっと聞き流せば何と言うこともない――よく政治家などが並べる綺麗げなお題目だが、読めば読むほど胡散臭さを感じる、と言うかヒヤリとする。たとえば「競争力」「強い」などの言葉ひとつとっても、いかにも新自由主義の信奉者らしい臭いが満ち満ちているではないか。   

 だがやはり、何と言っても焦点は「改憲宣言」(教育や経済、医療福祉などに関する問題は二の次と言っているわけではない。すべてはリンクしており、その象徴が改憲であるように……ふと感じられた、ということである)。

 それにしても、内閣総理大臣が憲法改定を「重要課題」として挙げるというのは、いったいどういうことだろう――と、ごく素朴に思う。もちろん一国の憲法は、「何が何でも変えてはならない」ものではない。場合によっては、新しい憲法を制定する必要もある。だが、それは「よほどの場合」のはずである。たとえば革命によって体制がひっくり返ったとか、憲法があまりに不備または国民の不幸の源泉であるために国民の不満が噴出たとか。

 誰も不都合を感じていない――いや、そう言うのは乱暴かも知れない、一部の人を除いては不都合を感じていない、と言い直そう。ともかく大多数の国民は何ら不都合を感じず、むしろそれを守られているという感覚の強い憲法を、なぜ今、変えようとシャカリキにならねばならないのか。私たちはその「原点」の部分を、いま一度よく考えてみるべきだと思う。誰も不都合を感じていないものを強引に「変えなければ」と言いつのるのは、畢竟、「国の姿」を変えたいからだ。これはクーデターである。クーデターというと、軍が蜂起して……的なイメージが強いかも知れないが、こういう一見穏やかな?クーデターもあるのだ。

 首相は、今夏の参院選でも改憲を訴えると断言した。参院選は憲法選挙になるわけだ。一昨年の郵政民営化選挙(と、小泉内閣が勝手に位置づけたわけだが)より、はるかに国民の性根を問われる選挙になる。

 さて、あなたは憲法を変えたいですか。与党は「新しい時代にふさわしい憲法を」などとほざいているけれども、人間のモラルに古いも新しいもあるか。憲法はいわば「国の根幹のモラル」を規定するもの。それをころころ変えていいのかどうか。

 国民の大多数が、よくよく考えた末に「強い国」「他国の国民を踏みにじっても豊かになりたい国」「武力にものを言わせる国」を選択したいというのなら、何をか言わんや。私はさっさと日本を脱出します……と言いたいところだが日本以外で食って行ける自信がないので、人の世に背を向けて世捨て人にでもなります。税金なんか払わんぞ。生涯、猫一匹肩に乗せて流浪するぞ。

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今日から2007年、ひとまず新年のご挨拶

2007-01-01 03:00:52 | お知らせ・報告など


あけましておめでとうございます。

◇◇◇◇◇

ブログを始めたのは2005年の秋。いつの間にか、あしかけ3年目に入った。私は前々から、日々生きている中で気付いたことや少しばかり考えたこと、読んだ本の感想などを(毎日ではないにせよ)走り書き風にメモする習慣を持っていたが、ブログなるものに手を染める気は毛頭なかった。自分の呟きを公開しても仕方ないだろう、と思っていたのだ。その斜に構えた姿勢を変えさせたきっかけは、一昨年の衆院選だった。落書きめいた庶民の寝言であっても、チリも積もれば山となる。今の日本に怒りを持っていることを、1人でも多くの人間が表明することに何らかの意味があるような気がしてきたのだ。で、主に社会的な問題に関わる記事をブログに載せることにした。私と同じような人は多いとみえ、この時期にスタートしたブログは結構ある。

公開するとなれば、(わずかでも他者に読まれる可能性があるのだから)いくら何でも書き散らしのメモのままとはいかず、多少は筋の通った文章にするのではないか。それなら自分の頭をまとめる上で役立ちそうだし……という気持ちも大きかった。どちらかと言えば消極的かついい加減なスタートで、だから始めてしばらくはTBもあまり送らなかったような記憶がある。

だが、少しずつTBを送ったり送られたりして「知り合いブログ」が増えるにつれ、同じように今の状況に危機感を覚え、住みやすい(息のしやすい)社会を作りたいと考えている人が大勢いるのだと知った。同じ問題について、一緒に考えてくれる人が大勢いるとわかった。ブログを始めた最大の収穫は、それだった。もちろん日常の中で同じように考え、情報を交換し、行動する友人達はいるけれども、見知らぬ人達の間にも多数の同志がいるのだと確信できたことはやはり大きい。もうひとつの収穫は、多くの良質なブログに目を通し、さまざまな視点や感覚、考え方のベクトルなどを知ることができたという点だ。「ああこんな見方ができるのか」「この部分を自分は見落としていた」等々――目からウロコが落ちるという言葉があるが、私の場合はウロコが落ちっぱなしである。むろん、私が知らないことを無数に教わりもした。最初の目的であった「頭をまとめる役」に立ったかどうかの方は、残念ながらあまり自信がないけれども。

実のところ今でも私は、自分のブログで世論を喚起しようとか、広く持論を述べようとは思っていない。別に画期的なことを言っているわけでも、役立つ情報を提供しているわけでもないのだから。訴えたいこと、伝えたいことがあって公開しているには違いないが、それは私がひとりで大声を上げなくても、声がつながってさざ波のように伝わっていけばいい。個々の楽器が自由に出している音が、巧まずして壮大な曲になる、その音のひとつになれればいい。

そして、これからも「孤ではない」と確信し続けたく(たった1人でもかまわないと思っているが、これは自分自身のいわば基本的決意の話。もちろん実際上の同志は大勢いて欲しい)、ブログの輪の中で頭と感性に刺激を受け続けたいと思っている。

皆さん、本当にありがとう。今年もよろしくお願いいたします。
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