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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「足音」が聞こえる……(国民保護法)・1

2006-01-29 19:09:42 | 憲法その他法律

2004年6月に「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」(国民保護法)が成立、9月に施行された。私が最近この法律にひどく過敏になっているのは、東京都でも「国民保護計画」が誕生しかけているからである。

ここで、私の頭を整理する意味で国民保護法について簡単に(かなり粗っぽく)整理しておく。これはいわゆる「有事法制」のひとつで、「武力攻撃などが発生した場合、および発生が予測される場合」――つまり、「有事」とやらを想定して作られた法律である(注1)。武力攻撃事態等というのは、「敵の軍勢が攻め込んできた」事態のほか、弾道ミサイル攻撃、爆弾投下、ゲリラなどによる重要施設への攻撃や要人暗殺、大規模テロ、などを指す。

この法律に基づき、各都道府県にはそれぞれの「国民保護計画」の作成が義務づけられた(注2)。2005年には福井・鳥取の両県がいちはやく計画を策定。つい1週間ほど前、20日の閣議において埼玉・京都などの計画が承認され、国民保護計画を持つ自治体は合計23府県になった。今年の3月末までには、残る24自治体の計画も出そろう予定である。

また、医療、運輸、電気、ガス、放送、など「公共性が高い」とされる事業体は「指定公共機関」とされ(国のほか、地方自治体でもそれぞれ公共機関を指定する)、国や地方自治体と連携して「保護措置の実施」に協力することが求められている。

国民保護法や有事法制については、詳しく解説・分析したサイトが多数あるし、本もいろいろ出ている。情報を得たいと思われる方は、必要とする情報の内容に応じて、それらを読んでいただけばよい。……というわけで、ここでは私が不安を感じている点、不快に思っている点を挙げてみたい。

☆「有事」という怖さ
有事というのは、私の感覚では「敵(悪いヤツ)が攻撃してきたぞ!」ということである。うちは武力放棄です、戦争しません、とお題目のように唱えていたって、敵は関係なく攻めてくるぞ――という人がいるが、それなら「有事にそなえて」いれば安心なのか。大切なのは武力放棄の思想を広げていくことであって、不戦の憲法を掲げながら一方で「敵を想定した体制づくり」をするというのは、ええっと、古い言葉でいうと「衣の下に鎧がちらつく」というやつではないか。

☆「予測される場合」という怖さ
実際に敵とやらが攻め込んできた場合だけでなく、この法律では「予想される場合」もしっかりと考えに入れている(予測というものは、必ず拡大解釈へとつながる)。「攻めてきそうだぞ!」「テロが起きそうだぞ!」と判断(やれやれ。誰が、どんな情報に基づいて判断するのだか……)されれば、号令一下、戦時体制に入る。むろん法律では「戦時体制」などという言葉は使われていないが、要はそういうことである。

☆「保護」という怖さ
これは国民を保護するための法律である、と国はいう。そして法律の中では、国民の避難、救援、などについてこまごまと定めている。しかし同時に、その「有事」においては規制に従うこと、規制に従わなければ罰せられること、をも定めている(注3)。国がいうところの「保護」は、「国が〈これがベストである〉と決めた方針、やり方におとなしく従うこと」とイコールなのである。


各都道府県の「保護計画作り」に対し、「国家総動員体制づくりの一環」「県民を有事体制に組み込むもの」として、各地で市民団体による反対の申し入れや策定中止を求める署名運動などが相次いだ。北日本放送など、公共機関に指定された事業体が素案の修正を求めるといった例も見られた。しかし、実際に策定を阻止するには至らず、日本中で次々と保護計画が完成しつつある。私が住む、東京も……また。

東京都の素案は(おそらく他の自治体のものもそうだろうが)ウンザリするほど長く、2度と見たくないほどである。都民にあまりじっくり読まれたくないので、わざと長くしたのではないかと疑ってしまうぐらいだ。だが、次の一文だけでも充分にきな臭い。

「都は国民保護法の規定により、国民保護措置の実施のため必要があると認めるときは、国民に対し、必要な援助について協力を要請する」

何しろ我らが都知事は、「国あっての東京都」「東京は自らの手で国土を守る」などとわけのわからないことをのたまうお方である。アンタの妄想と心中する気はありませんよと言って逃げ支度する都民の首根っこ掴まえて、無理矢理に「武力攻撃等から国土を守るために」動員しそうである。怖い……。


最後にひとつ重要なことを。この法律や計画は、「平素からの備え」をうたっている。いざという時のために住民に対する教育・啓蒙をおこない、ふだんから訓練もしておこう、ということだ。昨年11月には、福井県で「原発へのテロ」を想定した初の訓練がおこなわれた。自治体、警察、自衛隊、地元放送局などが協力し、住民も参加したという。

平素からの備え――これも私が非常に恐ろしく思っていることのひとつだ。最初は「ほとんどあり得ないだろうけれど、まあ絶対ないとは言い切れないし、考えておくのは悪いことじゃないし」程度に受け止めていても、啓蒙活動や訓練が続けられているうちに、次第に「本当にあり得るかも」、そして「あり得ることだ」に変わってくる。そして無意識のうちに、「ヒドイことを仕掛けてくる敵」の存在が自分達の中で確かな存在となってきて、敵に対する憎悪が生み出されてくる。

確か「平和をつくる富山県連絡会」だったと思うが、県の保護計画策定に対し、「『敵国』や『攻撃』を想定した計画は戦争を煽るだけで、戦争放棄を謳った憲法の精神にも反する」と抗議した。そう……平素からの備えは、私たちを「煽る」のである。

私たちを囲む包囲網が、徐々に徐々に狭められつつあることを感じる。憲法9条の問題は、単に「9条の条文」だけの問題ではない。9条を変えようとしている思想が、他の法律や条令を総動員して、ある時は脅し、ある時はおためごかしの猫なで声を出しながら、私たちを追いつめようとしている……。


注1/第一条 この法律は、武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、並びに武力攻撃の国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小となるようにすることの重要性にかんがみ、これらの事項に関し、国、地方公共団体等の責務、国民の協力、住民の避難に関する措置、避難住民等の救援に関する措置、武力攻撃災害への対処に関する措置その他の必要な事項を定めることにより、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号。以下「事態対処法」という。)と相まって、国全体として万全の態勢を整備し、もって武力攻撃事態等における国民の保護のための措置を的確かつ迅速に実施することを目的とする。
(華氏:何ともエラソーな言い方である……。悪文だし)

注2/第三十四条 都道府県知事は、基本指針に基づき、国民の保護に関する計画を作成しなければならない。

注3(たとえば)/第百十八条の二 第百十四条の五(自衛隊の防衛出動時における交通の規制等)第一項の規定による公安委員会の禁止又は制限に従わなかつた車両の運転者は、三月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。
第百八十八条 第百三条第三項(同条第五項(第百八十三条において準用する場合を含む。)及び第百八十三条において準用する場合を含む。)の規定による指定行政機関の長若しくは指定地方行政機関の長若しくは地方公共団体の長の命令又は第百六条(第百八十三条において準用する場合を含む。)の規定による指定行政機関の長の命令に従わなかった者は、一年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。


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平易な表現ということ

2006-01-28 03:04:49 | 本の話/言葉の問題
「上から目線は私の敵である」というエントリの延長線上で、「わかりやすい表現」についてぐずぐずと考え続けている。むろん、私が敵視している「上から目線」は、表現だけの話ではない。ものの見方・思考のベクトル・ちょっとした感覚……すべてにわたる問題なのだが、その目線の現れの一つとしての「表現」について、イジイジと考えている……と言えばいいだろうか。

そのおかげで(?)今日……いや既に昨日ですね、駅前の書店でこんな本を発作的に買ってしまい、電車の中で読んだ。
『わかりやすさの本質』(NHK出版・生活人新書、野沢和弘著)

ここで一言――私は少し、いや、実はかなり酔っている(仕事がない限り、夜はたいてい幾分かのアルコールが入っている。ほとんど常にひとりで飲んでいるというのがいささかナサケナイところだが、気楽でいいという気分もある。酌をし合うとかいう関わりは、すごく苦手だし。でも、う~ん、やはりナサケナイのかな)。酔っぱらいのタワゴトなど聞きたくないという方は、このアホがという憫笑と共にすみやかにお帰りいただければ幸いです、おやすみなさい。以下、付き合っていただける方だけに向けた酔言――。

……ということで、さて。著者は毎日新聞の記者(社会部副部長)。知的障害者を読者対象とする新聞の編集に携わった経験をもとにして、「表現のバリアフリー」についての経験や考えたことをまとめた本である。私はこの本の著者の視点に100%の同意は出来ない。たとえば、表現を平易にしようと思う余り、思い切って枝葉末節と彼が思う部分を割愛してしまうところなどには「?」もある。だが……。私はこの著者が抱いた問題意識に共鳴し、突きつけた問題を真っ向から受け止めたいと思った。

(私は――ひとつだけ恥を忍んで自慢させていただくと、ストライク・ゾーンの広い人間である。これは、あんまり誇れるもののない私の、数少ない自慢……いや、自負だ。いろいろ意見の相違はあっても、ベクトルの一致した人々には喝采を送りたいし、駆け寄って握手もしたい。それを、アホだ、軽薄だ、改良主義だ、迎合路線だ、もっと考えろ・勉強しろという人もいないではないのだが、「ストライク・ゾーンが広くて、なぜ悪い?」というのが私のスタンス。これだけは譲れないというギリギリの線を守ることだけが大切で、そのためには細かい差異に目くじら立てることなどにエネルギーを費やしたくない。1000年生きられるわけではあるまいし、残された時間は無限ではないのだから。失うものは鉄鎖のみ!……などとカッコいいことは間違っても言えない。なくすと困るものは、財布にキャッシュカードに手帳、その他ちまちまとありますし、急に住む所なくすと困るし、いちおう別居とはいえ年寄り背負ってますし。泣。でも、そういうヘタレだから、自然とストライク・ゾーン広くなってきたのかも……。自慢にならんか)

酔っているせいで、どうも話が逸れていけない(反省)。……軌道修正しよう。私はこの本を読んでいて、次の言葉にギクッ……とした。

【自分にとって都合の悪いこと、相手にあんまり詳しく知られたくないことを伝えなくてはならないとき、自分でも気づかないうちに難しい言葉を使ってみたり、回りくどい言い方をしてしまうものだ。また、自分自身がよく理解していないことを誰かに伝えようとすると、小難しくて硬い表現をそのまま使うからますますわかりにくくなる。だから、お役所や政治家が難しい言い方をしたときは警戒したほうがいい。新聞記事が難しいときは、書いている記者も実はよくわかっていないのではないか?と思ったほうがいい】(前出の著書から引用)

ズルズルぺったりに喋っているように(本当はそういう気はなかったのだが、いつの間にか喋ってしまうのがアホなところ。またしても、ちょっぴり恥ずかしい)、私はマスコミの末端で飯を食っている。むろんいくら歯がみしてもジャーナリズム界を変革するほどの権限も能力もないのだけれども、少なくともベルリンの壁の隅っこをちまちまとカッターナイフで削るぐらいのことはしたいと願っている。

でも、いつの間にか小難しい表現に逃げることを覚え、時として自分がまるで何でもわかった人間のように一瞬錯覚し、「おっほん、これはであるな~要するにこういうことじゃよ。大衆諸君、わかったかにイ」的な報道にぬくぬくと逃げていた。ろくにわかってもいないことを、得々とエラソーに言っていたのである。ブログでもそんなことしているんだろうなと思うと、冷や汗三斗……ぎゃっ、恥ずかしい。(穴があったら入りたい……穴、穴……その辺にないか。恥をさらした人間には、するりと身を隠す穴もないのであるらしい)

いや、ろくにわからないことについては何も言うな、というわけではむろんない。「小難しいことを言われてもよくわかんないけどね」――「もっとわかりやすく言ってくんない?」「これは変じゃない?」「やっぱり、ここは大切だと思うけど?」……等々の、素朴で、それだけにストレートに的を射る矢のような疑問や問いかけは、すべての虚飾を無効化するほどに痛い。それにどう答えるか。尋ねられたことを、小難しい言い回しに逃げずにどう説明できるか。私は茫然と立ち尽くし、おろおろと言葉をかき回している……。

著者が関わった新聞は、編集部員の手による独自の企画記事もあったが、日々のいわゆるニュースに関しては、毎日新聞のニュースを取捨選択した上で、わかりやすく書き直して載せていたらしい。その過程で、著者は「難しいテーマについて、マスコミの人間が安易に使いたがる慣用句を避け、専門用語についても可能な限り普通の言葉に替えて、一番大切なことをどう伝えるか」という課題で四苦八苦する。私は、自分の遺伝子を継承する子供というものを持ってない(周囲には、いたらこどもが可哀想だ、世のため人のため、いなくてよかったという人もいるが……泣。ほっといてくれ)。甥や姪といった存在も持たず、つまりは子供とほとんど縁がない。だから、かえって「どう言えば子供に伝えられるだろう」などということに頭でこだわってしまうのかも知れないが……。しかし、「子供でも(むろん赤ん坊や幼児ではない)わかるように説明する」ということは、実は他者にものを伝えるときの基本ではないかと思う。よほど自分の中で咀嚼していないと、子供にでもわかるような説明、はできないのだから。

〈宿題〉
次の文は、この本で著者が「どうしたらわかりやすい文章にできるだろう」と立ち尽くした一文。誰か、子供(具体的には小学校3年生程度の子供)にわかるように説明してくれないだろうか、と著者は言っている。

【宇宙誕生時に存在した反粒子が自然界から消滅した理由を探るため、99年に稼働した高エネルギー加速器研究機構(茨城県つくば市)の大型加速器「Bファクトリー」が設計時の目標性能を達成した。電子と陽電子を衝突させる性能は世界最高で、米スタンフォード大の2倍近くに達した。Bファクトリーは、B中間子とその反粒子の反B中間子を大量に作り出す。2つの粒子の振る舞いを分析した結果、粒子より反粒子の方がわずかに崩壊しやすいことが反粒子消滅の理由とほぼ確認された】

私も試してみたが、まったくダメであった。わかったふり、をすることはできる。長い年月ヒイヒイ働き続けてきたおかげ?で、その程度には悪ズレている。だが、これをきちっと子供に説明しなさいと言われれば心身共にお手上げである。むろん、私が典型的文科系人間で理科系の知識に乏しく、さらに語彙も貧しいということが大きいとしても……しかし、である。読者全員が、私よりはるかに理科系の知識に通じ、この記事を一読してパッと完璧に意味がわかり、その問題点をも指摘し、子供に納得できるように説明できるだろうか(ひょっとするとアホは私だけ? 皆さんしっかりOKであれば……スミマセン、赤面して寝ます)。

わかる人間だけわかればいい、という姿勢は、少なくとも「誰かに何か(具体的に)を訴えたい・伝えたい」という場合にはとるべきではない。私は「文章は平易であることが至上の価値」などとは、これっぽっちも思っていない。「共感する人間だけ、この指とまれ」ならばことさらに平易であることを意識しなくてもいいし、雰囲気、感覚を伝えたい場合もむろん別。

唐突だが、私は偏愛している作家が何人もいる(誰でもいると思う)。だが、この作家たちが言わんとしていること、訴えたいこと、垣間見せようとしている世界、などをきっちり理解できているなどとはさらさら思わない(文学者や評論家はいろいろ言っているようだが、読者としての私の感覚には関係ない。はっきり言って、よくわからない)。何を言っているんだか、私の頭ではおそらく永遠に理解が届かないところも多々である。それでも彼らの小説が醸し出す雰囲気や、聞こえてくるように思える悲鳴が好きなのだ。……そう。小説ならそれでもいい。小泉首相(急に現実的な話になってしまった……)を支持する人と、民主党リベラルの会を支持する人と、ゴリゴリの共産党員と、さらにはアナーキストと……が同じひとつの小説を読んで感動し、「愛読書」のリストに挙げることだってあり得る。小説は、読み手それぞれの鏡によって、(たとえ虚妄であっても)別の世界を照らすことがあるのだから。

だが、「報道」や「訴え」や「語りかけ」は違う。1人でも多くの人の耳に達して欲しい、1人でも多くの同志が欲しい、という類の語りかけは、それこそ「子供でもわかるように」(子供、の定義については私はまだはっきりしたものを持っていないのだが)、あるいは――虚仮脅かしのムツンカシイ表現を廃して、可能な限り普通の言葉で語られるべきだと私は思う。専門用語などで今のところ普通の言葉に直せない、というものは最低限やむを得ないとしても――日常語で語れる範囲のものは、できるだけ日常語で語りたい。もちろん「媚びる」ということではない。そうではなくて、ともすれば顔を覗かせそうになる「上から目線」を恥ずかしいことだと思い、地べたにしゃがんでみる。それができなければ――この闘いは負ける。いや……こんなことを言うと殴られそうだが、明日は負けてもいい。明後日も負けてもいい。だが、いつか勝つのだという夢は死ぬまで手放したくない。100年後、1000年後まで負け続けることだけは……私はしたくないのだ。

(巧く言えないですね、やっぱりかなり酔ってる。たいして酒に強くもない身で、やたらに飲んではいかんな……。依存症になると困ると真剣に心配したりして)

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「上から目線」は私の敵である

2006-01-25 23:48:50 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
(これは私が自分の散漫な頭の中をまとめるため、ひとまず思いついたことを書いておこうという簡略なメモです。言葉の使い方などが不正確であったりするかも知れませんが、なにとぞ御容赦のほど)

深い知識に裏打ちされ、理論的に正確で、主張にも賛同できる――という文章・発言であっても、なぜか「共感できる場合」と「できない場合」がある。それは文章の読みやすさや明快さや、用いられた言葉に対する馴染みの度合い、などとはあまり関係がない。流麗でかつわかりやすい文章(または発言)でも「なんか、響かないんだよな」と思う時はあるし、逆に、妙に言葉が古かったり、いわゆる陳腐な表現や持って回ったような表現が多出していたり、行きつ戻りつするようなちょっとモタつく文章であったり、挑発的な文章であったり……しても、私の心の深奥が揺すぶられることは少なくない。

それはなぜだろうか……と考えた。いや、考えたというのは実は嘘で、自分の中ではとっくにわかっている(気がする)。私が「何か、響かないんだよな」と思うのは、(これも私の単なる感覚に過ぎないが)すべて「上から目線」の文章なのである。私は「負け組党」があればすぐに党員になりませんかとお誘いがくるほどのレッキとした負け組なので、そういう目線に敏感なのだ。ダメ人間のひがみと言われるかも知れないが、それでも結構。と言うより、「大いに結構」である。

私は誇れるものなど何もないが、自分のダメさ加減だけはよくわかっている。それでも、「生きていてもいいですか」と言いたく、「嫌なものは嫌だ」と言いたく、弱い者イジメにだけは荷担したくないと思っている。「上から目線」でものを言う人達は、おそらく「自分がこんなことを言っていいのだろうか」「自分は正しいのだろうか」とおののき、それでも震える脚を懸命に踏みしめて、小さな声でボソボソとものを言ったことがない。他者の痛みにおろおろと共鳴し、それを大声で表明できない自分を恥じて、こっそりと涙を流したことがない。

その頭の良さと自分の能力に対する自信ゆえに、踏みつけられた側の痛みを平然と無視できる、あるいは「単なる知識」としてしか見ることの出来ない、「上から目線」の人々は――小心者の私も思いきって言う――私の敵である。

「上から目線」の文章や発言は山ほどあるが、そのひとつをちょっと載せておく。石原・東京都知事の、1月18日記者会見における発言である。むろん、これは最初に言った「理論的に正確で、主張にも賛同できるが……私には響かない」という発言、ではない。その種の文章や発言についてはまた機会があれば書きたいと思うが、ひとまず、正確さも賛同もへったくれもない「トンデモ発言」の中から、上から目線の露骨に出ているものをひとつ選んだ。(私は石原慎太郎という人物が昔から何とも言えず嫌いで、彼が都知事になった時はかなり本気で都民をやめたいと思った。引っ越しは費用の上でも労力の上でも大変だし……と持ち前のグズぶりで、まだ都民のままでいるのだけれども)

【普通に就職したりするよりフリーターの方がよっぽど収入あるんだぜ。ニートなんて連中ってのは、調べてみると、親が甘やかしてるのがほとんどだよ。そんなもの、蹴飛ばして家から出して働かせたらいいんだよ。親が養ってるから、その人間も体1つになったら低所得者になるかもしれないけどね、親は中流か上流か知らないけどね、全部が全部とは言いませんよ。しかし、もう日本は人手不足になってきてるんですよ。昔は、何でもいいから食いたい、働きたいってことがあったんだよ。今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ】
(ふざけてるのはアンタのほうだ――華氏451度)

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報道に関する小さなメモ

2006-01-25 22:47:08 | マスコミの問題

私が参加しているMLに、「ホリエモン逮捕の陰で、その他の重大なニュースがすっかり飛んでしまっているのも大きな問題だと思う」という投稿があった。下記はそれについてのコメントをコピーしたもの(最近、どうもブログを書くのをさぼっているなという感じがして忸怩たる思いもあるが……)。

〈以下、コピー〉
私も、このことは強く感じていました。米軍墜落の記事にしても、10行程度のベタ記事でしたね。ライブドアの問題は確かに重要ですが、なぜ「それだけが重要な問題」のような騒ぎになってしまうのか。テレビはほとんど見ないのでわかりませんが、新聞はほとんど連日連夜、1面も3面もライブドア関係がトップ、週刊誌に至ってはさらにひどい。

もともとマスコミの報道姿勢は「熱しやすく、冷めやすい」のがいわば特徴でした。何か事件が起きると、全マスコミを挙げて、わっとそれにむらがる。そのくせ、じっくりと長く追い、報道し続けることは(皆無ではありませんが)ごく少ない。そして、派手なニュースばかりを報道したがるのもマスコミの悪い癖です。私もマスコミの末端におりますが、ルポルタージュのテーマなどに関して「そんな話は古い」「終わったこと」「はやらない」などという言葉を聞くことがしばしばあります。報道というものが、次第にショー化しているような気がします。

……と、批判していても始まりませんね。実際のマスコミの現場には、まだまだ良心的なジャーナリストが大勢います。彼らと手を携えて、少しでも日本のジャーナリズム界を変革して行ければと思います。
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君が代の替え歌

2006-01-25 00:18:55 | お知らせ・報告など

「日の丸・君が代に対抗するネットワーク」のサイトに、「君が代」の替え歌が載っている。ご存知の方も多分多いだろうと思うが、ちょっとご紹介まで。

以下、引用――

発声は(ほぼ)そのまま、でも歌詞の意味をガラリと変えた君が代の替え歌

kiss me, girl, and your old one
a tip you need, it is years till you're near this
sound of the dead "will she know
she wants all to not really take
cold caves know moon is with whom mad and dead"

訳:

僕にキスしたら君のその古臭いジョークにも(サヨナラの)キスをしておやりよ
君に必要な忠告をあげよう 死者たちのこの声が君に届くまで何年もかかったんだよ
「国家ってのは本当に奪ってはならないものを欲しがるけど
そのことに気がつく日が来るんだろうか? 冷たい洞窟だって知ってるんだ (戦争で傷つき)気が狂ったり死んでしまった人たちをお月さまはいつも見てるってことを」

註:古臭いジョーク (old one)
 たとえば「南京大虐殺は無かった」とか、
 「鉄道や学校の建設など植民地にも良いことをしてあげた」とか、
 「従軍慰安婦は商行為」などの嘘八百。

――引用終わり

うまい!と単純に手を叩く。私にはとてもこんな替え歌を作れない。替え歌作りなどを単なる遊び、おふざけと見て眉をひそめる生真面目な人も世の中にはいるが、私はそういうセンスのある人にはどんどん作っていただきたいと思う。劇、踊り、映像、物語、詩、歌、……などのいわゆる芸術だけでなく、言葉遊びめいた表現も立派な意思表示の手段になりうるのだから。「このごろ都にはやるもの……」(近頃、だったかも知れない)という落書は、むろんそれで世の中を動かすほどの力は持てなかったけれども、読んだ人を面白がらせながら、ふと何かを考えさせるぐらいの働きはした……のではないか。
 

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問題は牛肉だけではない

2006-01-21 07:19:49 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
「アメリカ産牛肉輸入停止」のニュースが流れ、それに関して大勢の方が各ブログでも書いておられる。そこへ政府のいい加減さを怒る記事を付け足しても仕方ない……とは言わない、少しでも「声」を増やすのは大切なことなのだけれども、大したことは書けないので「アメリカにばかり顔向けてることが、また国民の前にバレましたね」と言うだけにとどめて……

アメリカ産牛肉も胡散臭いが、それと同様に、と言うよりもしかするともっと胡散臭いのが「遺伝子組み換え(GM)作物」だと私は思っている。これも周知の事実、であるかも知れないが……。

GM作物が日本に輸入され始めたのは1996年のこと。そして今や、日本は世界一のGM作物輸入国になっているらしい。

GMというのはご承知の通り、ある生物の遺伝子に全く別の生物の遺伝子を組み込んで、自然界では絶対に出来ない新種を作り出す技術。それを応用した作物その他が、確か20年ほど前から研究・開発され始めた。大豆、ジャガイモ、ナタネ、トウモロコシ、トマトなどの農作物のほか、チーズ製造に使われる酵素・キモシンやパンなどの劣化防止剤なども、この技術を応用したものが登場している。さらには、遺伝子組み換えペット(光る魚)、糞の中のリンが少ない動物(ネズミやブタ)……。(それにしても、何でまた光る魚など作る必要があるんだ。熱帯魚のように綺麗で、それよりずっと安価ですよ、というわけだろうか。まさかそのうち、きらきら光る犬などというものまで出てこないでしょうね……)

GM生物にはいろいろな「長所(!)」を持つものがある。たとえば腐りにくいトマト、通常の2倍の速さで成長するサーモン。だが、最も多いのは除草剤耐性や殺虫性を持つものである。こういう作物を栽培すれば、大量の農薬を空中散布して雑草だけ枯らすことができるというわけだ。

内閣府の食品安全委員会は「安全評価基準」を作り、輸入されているGM作物については審査し、安全を確認しているという。申請業者が提出した資料をもとにして審査する方式なので、その辺からまず100%信頼できない気がするが、一応、百歩譲って「申請業者は良心的に資料を作成している」としよう。で、毒性はない、アレルギーも起こさないし発ガン性もない、と確認されたとしよう。それでもなお不安なのは、慢性毒性(長期間摂取し続けた場合の毒性)まで、ありませんよと保証してくれているわけではないことだ。GM作物の中で生成された除草剤分解酵素などが残留して人体に入り、蓄積した場合の影響も未知である。さらに、作物の遺伝子のシステム自体に狂いが生じて新たな物質が生み出され、それが人体に何らかの影響を及ぼす危険性や、組み込まれた遺伝子が他の生物(鳥など)に移行して変異を起こす可能性……なども「神のみぞ知る」なのである。(これらの危険性に関する研究は次々と報告されている)

GM作物・食品が使われるのは、コストダウンになるからだという。先述のように、除草剤耐性を持つ作物なら大量の農薬散布であっという間に雑草を除去できるし、腐りにくい作物は運ぶときに低温の維持に気を配らずにすむ。また、暑さなどさまざまな外的条件に耐性を持つ作物や、成長の速い養殖魚が次々と開発され普及すれば、食糧危機の解決につながるという人も……いる。

GM作物(食品)は危険ではない、と断言する意見は少なくない。専門家が書いた本を読むと、そのあたりのことは「科学的に」説明されてもいる。典型的文科系人間の私など、スゴイスゴイと感心し、つい納得してしまい……そうになる。しかし!である――と、ここは声を大にして言う。科学が全能でないことも、レッキとした事実ではないか。これが新しい通信システムか何かなら、10年後に「やっぱり問題がありました。すみません」ですむかも知れないが、食べるものはそれでは遅いのだ。とことん臆病になりたい。

安ければいいとか、技術の進歩はいいことだ、という発想をひとまず疑ってみなければ、後で大きなツケが回ってくる。「改革」と名が付けばいいことだと思っていると、しっぺ返しを食うのと同じように。

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子供がいたら読ませたい・1

2006-01-21 01:50:37 | 本の話/言葉の問題
とむ丸さんがコメントの中で、『あたらしい憲法の話』をよその子供の誕生祝いに贈ったと書かれていた。子供に良質の(ここでいう良質は、文部科学省推薦の良質とはむろん違う)本を贈る・本を読ませるというのは、非常に意味のあることだと思う。憲法9条、イラク派兵、新自由主義、競争社会……等々について、それ自体をテーマにして語るのも大切だが、良質の本にはおそらく「そういうことに敏感になる感性」を育てる力がある。

そして読ませる本は……むろん『あたらしい憲法の話』や、『戦争のつくりかた』(この絵本は、以前、ブログでほんの少し紹介した)など戦争と平和の問題、国家権力の問題などをストレートに扱った本もいいけれど、そのほかに、さりげない形でメッセージを伝えてくる本、いつの間にかそういった問題を考えさせられるような本、もいい。(子供のいる人には当たり前の話で、何言ってるんだと笑われるかも知れないが、当方は子供と縁がないもので……御容赦)

というわけで、もし自分に子供がいたら読ませたい本、子供のいる家に手みやげに持って行きたい本を、ランダムに挙げてみた。

〈小さな子供には〉

『せかいいち美しいぼくの村』(小林豊)
アフガニスタンの小さな村が舞台で、主人公の少年は戦争に行った兄の代わりに家の手伝いをしている。……が、彼の村は最後には破壊され、あとは砂漠になってしまった。

『トビウオのぼうやはびょうきです』(いぬいとみこ)
水爆実験で傷ついた魚たちの話。有名な童話で何種類か絵本にもなっているようなので、子供の本棚におさめている人も多いのでは。

『弟の戦争』(ロバート・ウェストール)
繊細で、他者への圧倒的な共感力を持つ少年(主人公の弟)が、湾岸戦争のイラク少年兵と一体化してしまう(少年兵が弟に乗り移る)。戦争を実体験する弟の恐怖と怒りを、家族は目の当たりで見ながら……。

『ニャンコ、戦争へ』(菊地秀行・文、平松尚樹・絵)
昨年秋頃に話題になった絵本で、私は最近読んだばかり。作者のホラー小説の文体が今ひとつ好みではないため敬遠していたのだが、この絵本は読んでみてよかった。人間が自分達の代わりに猫を兵士にするという設定の話で、主人公の飼い猫も徴兵され……。


〈少し大きな――そろそろ大人になりかけた子供には〉

『軍旗はためく下に』(結城昌治)
軍令違反で処刑される兵士たちを描いた連作。平凡な、特に反戦思想を持っているわけでもなく状況に流されている臆病な男達が、軍隊の中で虫けらのように圧殺されていく。同じ作者の『終着駅』も子供に読ませてみたい。

『夷狄を待ちながら』(J.M.クッツェー)
クッツェーは南アメリカ出身のノーベル文学賞受賞作家だが、それで読んだわけではない。私の好きな『ゴドーを待ちながら』(ベケット)とよく似たタイトルなので、つい惹かれて買ってしまった。舞台は何処とも特定されない「辺境の街」。そこへ、これも漠然としか描写されていない「夷狄」が攻め込んでくると「帝国」はいう……。お伽噺の世界のようで、細部はリアルで、ちょっとゾクッとする。続けて読んだ『マイケルK』(内戦を背景にしている)も読み応えのある小説。

『邪宗門』(橋和巳)
治安維持法に基づいて弾圧され、解散させられた大本教がモデル……とも言われるが、それはまあどうでもいい。お国のためにならない思想が押しつぶされるありさまを描いた小説。「国には国の掟あれど、我らにはまた我らの道」というセリフ(教団の信徒が演じる素人芝居の中で使われる台詞)が今でも妙に記憶にこびりついている。

『三たびの海峡』(帚木蓬生)
日本に強制連行された朝鮮の男性が主人公。日韓の問題を個人対個人の問題に矮小化した一面があるという批判も聞かれるし、私個人としては少し感傷過多の部分(この作者の特徴でもある)が気になったりするが、子供に読ませたいことには変わりない。日本は加害者でもあったということを改めて思い出させられる。

『ぼくの見た戦争 2003年イラク』(橋邦典)
これは写真集(文もあるが)。あとがきの中で「自分は、善人、悪人を判断するつもりはない。ただ、これらの写真を通して、戦争というものの現実を知ってもらえれば」という意味のことが書いてある。

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ブログの箸休め/好きだった本を思い出してみる・2

2006-01-19 02:22:50 | 本の話/言葉の問題
心身の状態があまりよくない。そういう時は閉塞した世界に閉じこもることで自分を甘やかし、辛うじて何ほどかの均衡を保とうとする……。

10代の頃に寺山修司に魅せられた人は多いようだ。私もごく平均的な子供であったからして、ご多分に漏れず貪り読んだ。戯曲や「さかさま世界史」などのさかさま・シリーズも好きだったが、何と言っても一番惹かれたのは短歌だった。

たとえば――あまりに有名すぎる一首だが、
【マッチ擦る つかのま海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや】
なぜ「コキョウ」ではなく「ソコク」なのか。故郷は情念の産物で、祖国は観念世界に属するものだからか。故郷はヘソの緒でつながり、母と子のように死ぬまで理屈抜きの愛憎を捨てきれないが、祖国は理屈や言葉でくっきりと縁取りできるからか。1本のマッチが燃え尽きるまでに象徴されるわずかな時間、というよりもほとんど一瞬の間に、私も世の果てまで視たような気になることがある。幻視と言われてもいい、私は霧の晴れた世界を視たい。

【吸ひさしの煙草で北を指すときの 北暗ければ 望郷ならず】
ふるさとは暗く、永遠に還ることができない。「ふるさとは 遠きにありて おもふもの」とうたったのは室生犀星だったか? その一節にこめられた思いはあまりに剥き出しの感傷があるような気がして違和感を剥ぎ取れないが、「望郷ならず」という苦渋に満ちた言片は剃刀の傷のように痛い。

【間引かれし ゆえに一生欠席する 学校地獄の弟の椅子】
未生の罪――。「いるはずなのに、いない者」「あるはずなのに、ないもの」は、現実に目の前にあるものよりも心を騒がせる。

【言ひ負けて 風の又三郎ならん希いを持てり海青き日は】
海は常に「ここではない世界」にひとを誘う。特に、野放図なほど青い日は。人がみな自分より偉く見えるとき、啄木は花を買ってきたらしいが……寺山修司は風の又三郎になりたいと願った。私もなりたい。風の又三郎でなく、狐のコン三郎でもいいけれど。

【君のため一つの声とわれならん 失いし日をうたわんために】
失ったものは永遠に戻らない。決意と共に失ったか、卑劣に逃げて失ったかとにかかわらず。「後悔」し、「反省」し、「総括」できる者はまだ幸せだ。

【冬の犬コンクリートに滲みたる血を舐めており 陽をあびながら】
……脳裏に飛び散る色は、ほとんどムンクの絵のような……。流された血が誰のもので、いつどのような状況で流されたのかは知らず。血を流した者と、その血を舐める犬との間には何のかかわりもないのだが、その犬の「明日」は血を流した者と文字と文字の間でゆるやかに重なっていく。

【かくれんぼの 鬼とかれざるまま老いて誰を探しにくる村祭】
ほとんど遠野物語の世界のような雰囲気を感じさせる歌だが……何処かで自分だけ時間が止まり、おいてきぼりにされたのだという感覚。仕事や浮き世の雑事でせわしなく動き回り、疲れて終電近い電車から降りた時など、ふとそういうねじれた感覚が甦ることがある……。

注1/万が一、ここを覗いてくださった方がおられましたら――私は本好きですが評論できるほどの力量も知識もなく、このカテゴリーは私が「好きだった本(作品)」を少しずつ思い出して書き留めているメモに過ぎません。それをご理解の上、書き手の頭の悪さを嗤いつつ気楽に読み捨てていただければ幸いです。また、資料にあたるなどの努力はせず、記憶をたどって書いていますのでこまかく間違いがあるかも知れませんが、御容赦のほど。
注2/ところどころ1字空けているのは、私が自分自身で読みやすくしただけです。元の短歌はこういう書き方ではなかったはず。文学に詳しい方は眉を顰められるかも知れませんが、これも御容赦
(こういう言い訳を書きながら、つくづく自分を小心者だと思う。小心者だからこそ、踏みつけられることが怖く、戦争が怖く、ささやかな世界を壊されるのが怖いのだ……と改めて納得)。
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犠牲にされる側

2006-01-18 00:34:14 | 格差社会/分断・対立の連鎖
少し前のニュースになるが、今月10日、ブッシュ大統領がイラク問題に関する演説の中で「2006年はより厳しい戦いと、さらなる犠牲が予想される」と述べ、「勝利に向けた一層の前進が見られるだろう」とも付け加えたそうである。ブッシュ大統領の「戦争中毒」ぶりは前々からよく知られているところ。今さら何を聞いても驚かないが、「犠牲」という言葉が出てくるたびにやはり神経のどこかに痛みが走る。

――あなたが一人で力み返って、自分一人が犠牲になるというなら、それはかまいませんよ。勝手にして下さい(むろん、他の誰にも迷惑のかからないやり方で、犠牲とやらになって欲しいものですが)。しかし、「犠牲になる」のはあなたではない。――

「貴い犠牲」とか「○○を実現するためには犠牲がつきもの」などと平然と言うのは、常に犠牲を強いる側である。犠牲にされる側は、「何でこんな目に……」と髪をかきむしりながら殺されてゆく。もちろん、貴い犠牲なるものを信じさせる方向への巧みな誘導が存在するわけで、それを信じて死んでいく人々もいるのだが……。しかし、繰り返して言う。犠牲を讃えるのは(犠牲を賛美し始めるのは)いつも命令する側、人を駒のように動かす側、自分は傷つかずにいられる側の人間である。

犠牲、などいう言葉は聞きたくない。人が、人の生活が、人の生きている場所が、何ものかの生け贄になることなどあってはならない。



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「心の問題」とおっしゃいますが

2006-01-13 01:20:54 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
内閣総理大臣・小泉純一郎殿……あなたも本当にしつこい、いや頑固な人ですな。

小泉首相がイスタンブールにおいて、同行記者団に自民党総裁選に関する考え方を述べた、というニュースが報道されている。その中で「靖国参拝の問題を総裁選の争点として提起したことはない」と述べたそうだ。問題はこれとセットになった、「靖国参拝は心の問題」という発言。「心の問題に政治が関与しないようにすることを嫌う言論界、マスメディアの批判は理解できない」と改めて強調、したそうである。

あなたが何を信じ、どういう宗教観や世界観を持ち、何を愛し何を好もうと、それはあなたの勝手、いや自由である。あなたの心の中を変えてくれと頼んでいるわけではない。ただ、そういった「心」を持ち、その心のままに行動する首相は嫌だと私は言っているのだ。勘違いしてもらっては困る。

ちなみに広辞苑によれば、心の意味は「人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。知識・感情・意志の総体(以下略)」であるそうな。

「ココロのモンダイ」がココロの中だけにとどまっているなら、まだ害はない。たとえば「人を殺したい」という感情や意志を持っていても、ひそかに持っているだけなら罪にはならない。だが、それを行動に移せば犯罪になるではないか。心の中にあることは、いったん行動に移した以上、行動として判ぜられる。あなたはやはり、勘違いしている。いや、よく考えればおかしいことを、短い言葉で言い切ることであたかも正しいように思わせるのはあなたの得意技でしたね。



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皇室典範改正問題は「目くらまし」か?

2006-01-11 02:50:27 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
酔言御容赦。
皇室典範改正案に党議拘束が必要うんぬん、というニュースが流れているが、私にとっては「勝手にしなさい」の話。以前もちょっと(酔っぱらいながら)触れたことがあるが、皇位継承がどうなろうと私は興味がない。女系天皇認めない、結構でしょう。女性天皇・女系天皇どちらもノウ、結構です。そもそも私は、天皇制自体に「否」を言っているのだから。

皇位継承がどうのこうのという問題で熱くなることに、私は基本的に疑問を感じる。「愛子サマが天皇になるってこと、どう思う?」などといった話題を提供して、もっともっと重要な問題から目をそらさせようとしているのではないかと勘ぐりたくなるのだ。

私は常々「相手の(相手が準備した)土俵に乗ってはいけない」と思っている。皇位継承の問題も、ある意味で「用意された土俵」であるかも知れない。たとえば――男性中心社会、男性優位の考え方に「ノー」をいう女性の中で、「女性・女系天皇、結構ではないか」と考える人がおられるかも知れない。そのとき、「天皇制をどう考えるか」という議論がするりと抜け落ちてしまう危険性なきにしもあらず。(むろん、女性・女系天皇反対論者に時折見られる女性差別的な視点はおかしいと思うし、それを指摘するのは大いに意義がある。しかし、真っ先に「女性・女系天皇の何が悪い」という話になってしまうと……うまく言えないが、肝心のところが抜けてしまうこともあるだろうな、と危惧するのである)

少し(かなり?)話は逸れるが、私は自分がとっている朝日新聞に何度か失望したことがある(ちなみに失望というのは、ある程度の期待があるからこそ生じる感覚)。そのひとつが、天皇の次男の結婚に際して、相手の女性に対する手放しの賞賛記事が載せられたことであった。古い話なので詳しくは覚えていないが、「あっ……これも朝日の体質なのか」と心が冷えた。皇室の個々の人々について、とやかく言うつもりはない。純粋で心やさしい人が多いのは事実かも知れない。しかし……「尊貴な血」の観念が世の中を害してきたことも、また紛れもない事実である。

女性・女系天皇うんぬんの話は、今現在、横に置いておいて欲しい、と私は思う。

余談/乏しい財布をはたいて、『岩波講座 天皇と王権を考える』を買っている。私は時としてエラそうなことを言ったりしているが、実際はたいした知識も教養もなく、何もわかっていない人間。だからこういう本は、いやあ~勉強になります。
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改憲阻止のために

2006-01-08 20:38:51 | 憲法その他法律

ひとさまのブログを読んで考えたことを書くというのもナンであるが、御容赦のほどを。

「ペガサス・ブログ版」のTBをいただいた。タイトルは「政党間協議の窓口を作る提案を共産党が拒否」。新社会党からの「憲法改悪阻止の共同の可能性について率直に協議するための、3党(共産党・社民党・新社会党)の窓口を作って欲しい」という申し入れに対し、共産党側は「新社会党と政党間共闘の条件は存在しない」と回答したという。それについての考察・抗議の記事である。詳しいことは私がとっ散らかった頭で書くより、下記をお読みいただきたい。

http://blog.so-net.ne.jp/pegasus/2006-01-07

共産党が「NO」と答えた理由は3点。それをごくごく簡単に言うと、次のようになる。
1)新社会党が「(共産党の見解によれば)不法な糾弾路線で日本の民主主義に害悪を流してきた」解放同盟と密接な関係にあること
2)新社会党の綱領に、共産党に対する不当な攻撃があること
3)この申し入れは、社民党や共産党の政党要件を国政選挙で活用しようという、党利・党略的なものであること

このニュースには私も驚いた。まずは以下、「ペガサス・ブログ版」に書いたコメントを(挨拶その他余分なところは除いて)コピーしておく。(さぼって申し訳ありません)

☆☆☆
解同について日本共産党は「不法な糾弾路線で日本の民主主義に決定的な害悪を流し続けてきた……」と述べています。これも解同の側からすれば「不当な攻撃」であるかも知れません。(自民・公明・民主の)3党が国民投票法案の成立を目指すことで合意し、法案が提出されようとしている今、攻撃し合っている場合ではないだろう、というのが護憲政党に期待する庶民の素朴な感覚です。反権力闘争は、しばしば近親憎悪にも似た争いによって疲弊してきました。その愚を繰り返してはなりません。

みんなお手々つないで仲良くやりましょう、などと幼稚園のようなことを言うつもりはありませんが、綱領が違っても、ある特定の目的のために共闘することは可能であるはず。改憲は阻止しなければならず、そのためには何としても共同戦線を張る必要があるでしょう。護憲政党がいがみ合っているという図を公表するのは、利敵行為になると思います。

新社会党の綱領も読み直しました。確かに「二つの敵論を基本にして……」以下、日共批判をおこなっていますが、同時に「社会・共産両党とも……評価し」と述べ、広範な共同戦線を組むことを宣言しています。日共にしてみれば「批判しておいて、共同戦線とは虫がよすぎる」ということかも知れませんが、この際はまず共同戦線、ではないでしょうか。党の運動方針や綱領の問題については、別のところでゆっくり議論していただきたいものです。
☆☆☆コピー終わり☆☆☆

新社会党は今や風前の灯火と言われかねない弱小勢力である。そんな所(しかも自党に対して批判的な意見を持っている所)とあえて共同戦線を張る必要を認めないのかも知れないが、いささか狭量ではないかというのが素朴な感覚だ。少なくとも、政党間協議の窓口を作るぐらいのことはしてもよいのではないか。

「自民党と共産党」「新社会党と共産党」と並べてみれば、普通は誰が見ても後者の方が距離が近い。距離が遠いもの同士より近いもの同士の方がお互いの差異に目を光らせがちというのは、組織間でも人間関係でもままあること。明らかに異質なものよりも、幾分か(あるいは大部分)同質の匂いを持つもの同士の方が、差異の部分を許せないのかも知れない。
(同じ年代で職業も年収も家族構成も同じぐらいの人間同士の方が、激しく対抗意識を燃やすという図をつい連想してしまった。話が全然違うか?)

しかし何度でも言うけれども――「そんな悠長なことをしている場合ではない!」のである。細かいことはどうでもいいじゃないかとか、全面的に手を握って欲しい、と言っているわけではない。せめて目前に迫った危機的状況を打開するために、幅広い連帯をして欲しいと願う。

それにしても、日本ではなぜ「(イタリアの)オリーブの木」のような形の連帯ができないのだろうか。



   
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ブログとは何かを考えてみた

2006-01-07 20:04:22 | このブログについて
「世相春秋」(rosso_fiolencino)さんからTB戴いた記事の中に、次のような一文があった。

【三日坊主の私にとって、毎日何かをするとか続けると言うのは、大変な作業でありまして、ましてや政治・時事関係の記事を書くのは、それなりの情報収集能力や、分析力や判断力が必要でありまして、とても負担に思うこともしばしばです】

私もしばしば更新の止まる人間(と言うより時々思いついたように書き記すだけの人間)だが、毎日書いていないのは単に「日々のなりわいに忙しい」ことを言い訳にしてさぼっているからに過ぎない。

その点も恥じ入ったが、それより恥ずかしく思ったのは「情報収集力や分析力や判断力が必要……」という箇所である。そう言えばブロガーの方達の中には、きっちり情報収集し、的確な分析・考察をおこなっている人が少なくない。そうか、と思って自分のブログを振り返ると、要するにその時々の「感じ」を書き散らしているだけである。

独り言に近い全くの雑感メモで、時には酔って脈絡のない文章を書いていたりする。啓蒙するとか呼びかけるとか知識・情報・話題を提供するとか、あるいは楽しんでもらうとか、そういった要素はほとんどない。そんな、自分だけの覚え書きにしておけばいいメモを、厚顔に公開していいのだろうか。自分はブログ・ジャーナリストではないからとか、政治ブロガーではないからといった逃げを打って、それこそさぼっているのではないかとパソコンの前でうーんと腕組みしてしまった。

しかし……と、ここからは勝手な言い分になってしまうが――
これもまた一つのブログの姿(あり方、とまでは言わない)と考えていいのかも知れない、と思ったりする。 私が背伸びして政治・時事問題についての分析や考察をおこなってみても、それは多分、学者や評論家が何処かで言っているような話の二番煎じの、書いた本人が失笑する類の記事になってしまうだろう。情報収集程度ならできないことはないが、私は仕事でいつもドタバタ情報収集(取材)しているので、プライベートな世界では必要最低限(日常の中で自分が簡単に集められる程度)にとどめたいという気分(要するに、やはりさぼっているのだな……)もある。これは、確実度の高いもの以外、自分が裏をとっていない情報はあまり使いたくない、という職業病も関係しているかも知れない。

私がこのブログを始めたのは「小さな声でも、上げないよりは上げた方がいい。ささやかなものであれ、今の世の中は嫌だというブログは1つでも多い方がいい」と思ったからだった。鋭い分析や考察は、それができる人に任せよう。ユーモアのある文体を駆使した解説も、ビビッドな問題提起も、豊富な情報の提供も、それを得意とする人に任せよう。私は(やむを得ずの選択という感もあるが)「ふと思いついたこと」をメモしていこう……。うろうろ、おろおろと生きている庶民が「ふと思ったこと」も、もしかすると共感してもらえるかも知れず、そこからヒントを得てもらえるかも知れない。その程度の意味しかないが、それでもよいではないか、と考えるのは開き直りだろうか。

そしてブログを書きながらわかったのは、自分がゆっくりとものを考えていく上での助けになる、ということである。特に、戴いたコメントやTB記事を読むことは非常に助けになる。そんな自分だけのためのものだったら、やるなー! 自己チューめ、と叱られるかも知れないが……(覗いてくださる方、スミマセン)。しかし、一緒に考えてくれる仲間を少しでも得られることはありがたく、私は徳は孤ならず――じゃなかった、叛は孤ならず、と感じてひそかに生きやすさを感じてもいるのである。


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憲法9条「国民投票アンケート」

2006-01-06 01:45:21 | 憲法その他法律
大勢の方がブログで書かれていますので、今更……の感もありますけれど、「貧者の一灯」と思って(笑)。


マガジン9条で「国民投票アンケート」が行われている。
http://www.magazine9.jp/index0.php

「9条を変える」という意見が圧倒的多数を占めていることを知って、腰が抜けた……というより気分が悪くなり、熱が出そうになった(おいおいマジかよ、悪い初夢じゃないだろうな、という感じである)。何処をどう押せばそういう音(意見)が出てくるのか、私は正直言ってよくわからない。

改憲賛成意見が多いとなれば、「よくわからないが……」と迷っていた人々が雪崩を打って一斉に改憲賛成に回るおそれ無きにしもあらず。アンケートというものの怖さは、そこにある。

ここを訪れてくださる方はほんの少数なのですが(笑っていいのか泣いた方がいいのか)、それでももし立ち寄ってくださる方があり、そして「あなたがまだ投票しておられないのなら」。どうぞ投票に参加してください。私はちょっと斜に構えたポーズをとりたがるアホな人間ですが、これは本当に真面目なお願いです。



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ブログの箸休め/好きだった本を思い出してみる・1

2006-01-06 01:32:03 | 本の話/言葉の問題
「テーマ限定ブログ」などと偉そうに宣言しながらこんなことを書くのは変だけれども、ふと書きとめておきたくなった。

子どもの頃からこの歳になるまで、本ばかり読んできた。(ほかに大した趣味とてなく、生産的なことをするでもなく、考えてみればつまらない人間だなあ……)。今でも仕事するか、昼寝するか、とりとめない妄想をするか以外は、かなりの時間を活字に淫することに費やしている。乱読によって立派な人間になったわけでも頭がよくなったわけでもないけれど、読んで好きだった本を思い出してみると、自分自身の心のベクトルが少し理解できるような気もするから我ながら不思議だ。(古本屋の倉庫みたいとからかわれる自分の家にこもって、わけもわからず活字を追っている姿は、客観的に見るとちょっと薄気味悪いところがあるけれども)。

そんなわけで、「好きな本」「好きだった本」は山のようにあるが、それを少しずつ少しずつ思い出しておくのも(自分の視点や視線を再考してみる上で)悪いことではないなという気がしている。

まずは物心ついてから、十歳過ぎる頃までの記憶の中から2作品。

『ニルスの不思議な旅』(セルマ・ラーゲルレイヴ?)
確か、大江健三郎がノーベル文学賞授賞式のスピーチでこの作品に触れたと思う。そのためだろうか? ちょうどその頃に岩波少年少女文庫で復刻されたようだ。「少年が責任感や正義感を学んでいく旅」という感じの宣伝文句からは文部科学省推薦的なクサさを感じるけれども、それよりも「自分の無力を痛感し、他者との関わりの危うさや哀しみを知る」というのがこのファンタジーのひとつのテーマではないのか……と勝手に思ったりする。

私は、「神の怒りに触れて海底に沈んだ都市があった。彼らは何年に(何十年か何百年かは忘れた)1度かこの世に蜃気楼のように復活し、その時に誰かが都市で何かを買ってくれれば(つまり彼らと関わりを持ってくれれば)罪が許されるという。主人公の少年は、その都市がたまたま復活したときに出会ったが、金の持ち合わせがなく、何も買ってあげることができなかった。その後、彼はその都市の運命を知り――」というくだりが何とも言えず好きだった。

ほんのわずかに優しさに欠けたために、あるいはほんのわずかに力が及ばなかったために、懸命に助けを求める他者に手を差し伸べることができず、号泣する(実際には号泣していなかったと思うが、感覚として)主人公を抱きしめながら、子どもだった私も共に泣いたような気がする。


『星の子(スター・チャイルド)』(オスカー・ワイルド)
ワイルドの作品は童話のみならず全部好きだったが、中でもこれと『セルフィッシュ・ジャイアント』に魅了された。絵本が多数描かれているしアニメにもなったが、「傲慢な少年が女乞食(実は生みの母親)に石を投げたことで罰を受け、試練の旅に出て次第に美しい心を取り戻し……」といった具合の安易な扱い方に私は不満。

その、いわゆる試練の中で主人公は(お伽噺の或るパターンを踏襲して)一種の宝探し?に赴くのだが、首尾良く宝(金貨だったか宝石のようなものだったか)を見つけて返る途中、飢え死にしかけて喜捨を乞う乞食に出会う。……迷ったあげくに乞食に宝を与え、3度目には(だったかな。お伽噺のこれも1つのパターン)持ち帰らなければ命がないと言われながらもとうとう同じ行為に踏み切ってしまう。

読んだのは確か小学校の低学年だったと思うが、その時の主人公のギリギリの迷い、滴る冷や汗は子供心にあまりに切なく(逃げ出したいと思い、断りもし、それでも相手に自分の命のかかった金貨?を譲ってしまうのだ)、何度も夢でうなされて、一時は親を心配させたことを覚えている。


これからも少しずつ――1冊か2冊ずつ、振り返っていきたい。「9条を守ろう」とも「反小泉」ともあまり関係はないけれども、それに至った自分を支えているものを確かめ続けるために。

〈追記/もしこのブログを覗いてくださる方がおられましたら〉
本の作者名や内容など、幾分か間違いがあるかも知れません。何せ記憶をたどって書いているものですから(本もあるはずですが、埋まってしまってみつかりません……情けない)。その点御容赦いただき、誤りについては寛容な心で教えて戴ければ幸甚です。
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