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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「沖縄戦集団自決」は軍の強制ではなかった!?

2007-03-31 23:58:56 | 戦争・軍事/平和

 ある大きな「事実」を丸ごと、「なかったこと」にしてしまうのは難しい。しかし「少しずつ塗り替えていく」ことはできる。

 ごく身近な日常的なことで言えば……たとえば子供の時に喧嘩して相手を突き飛ばし、ケガさせてしまったとしよう。見ていた人達は覚えているし、第一ケガさせた相手に傷跡が残ってたりして、「やった事実」を否定することは出来ない。でも「向こうが先に殴りかかってきたんだ」、「相手が勝手に足を滑らせちゃったんだ」などと細部をごまかしてしまうことは可能だし、時間が経てばさらにごまかしやすくなる。

 政府が最近やっていることは、何やらそんな匂いがする。

 政府は先の戦争で起きた悲劇的な出来事を、否が応でも「軍が強制したわけではない」ことにしたいらしい。先に首相が従軍慰安婦の問題に関して「強制はなかった」と発言し、次いで下村博文官房副長官も「直接的な軍の関与はなかった」とトンデモナイことをのたもうたが、今度は「太平洋戦争末期の沖縄における集団自決」についての、軍の(つまりは国の)強制を「なかったこと」にする気だ。高校の教科書に対する文部科学省の検定で、その記述が削られたり修正されたという(末尾に報道文を掲載)。

 あの「戦争」自体はまさかなかったことにはできないし、集団自決についてもまだ生きた証人がいる以上「デッチアゲ」とは言えない。しかし、それを過小に扱ったり、あたかも「自由意思に基づくもの」のような印象にすり替えることはできるわけだ。

 そりゃ、一人一人がいちいち、「さあ自決しろ」と言われたのではないかも知れない。大元帥の名で「自決するように」という命令が行き渡ったわけでもないだろう。しかし国民の命より国体が大事、軍の意向は絶対、という中で手榴弾を渡され、自決せざるを得ない状況に追い込まれれば、それは「強制された」こと以外の何物でもない。

 軍の関与(つまり国の強制)を認めるのが、そんなに嫌なのか。過ちは潔く認め、悔い、記憶にとどめ、語り継いでいく――それをしない限り、個人にせよ集団にせよ未来を築いていくことは出来ないのに。

 すでにオギノフさんとむ丸さんお玉さんらがこの問題で記事を書いておられる(書こうと思って開いたらTBが入っていた)。ほかにも多くの方が、怒って……と言うよりも、ゾッとしておられると思う。ほんと、うっかりしていると、何処に連れて行かれるのか……。

◇◇◇◇◇資料◇◇◇◇◇

【文部科学省は30日、主に高校2年生以上が来春から使用する教科書の検定結果を発表した。日本史で、太平洋戦争末期の沖縄戦の際、日本軍による強制で住民が集団自決したとする記述すべてに初めて検定意見が付き、各教科書会社は「日本軍により」という部分を削ったり、「自決した住民もいた」という表現などに修正したりした。理科や数学では、学習指導要領の範囲を超える「発展的内容」が倍増した。沖縄戦の集団自決を扱ったのは6社8点。うち5社7点に「実態について誤解するおそれのある表現」と意見が付き、「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)などに改められた。2005年度(主に高校1年生対象)は申請段階から今回意見が付けられたような記述がなかったが、04年度は「日本軍に…『集団自決』を強制されたりした」と記述した中学の歴史教科書が合格している。文科省は「以前から(命令や強制はなかったとする)反対説との間で争いがあり、軍の命令があったと断定するのは不適切で、今回から意見を付けた」と説明している。】(3月30日、時事通信配信)

◇◇◇◇◇◇◇

  

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国民投票法案、来月半ばに衆院通過!?

2007-03-29 01:49:42 | 憲法その他法律

◇◇◇◇◇◇春というのに、このうそ寒さ

 どうやら春が来たようだ。そろそろコートをクリーニングに出そうかと思った途端に寒さがぶり返し、「出さなくてよかった」と胸をなで下ろしたのは半月ほど前だったか。この時期にひいてしまったしつこい風邪もようやく抜け、昨日は仕事に出かける途中でやっとコートをクリーニング店に預けてきた(また寒さが戻ったりしたら、どないしよう……)。ついでに歩いている途中で八分咲きの桜も見て、ほんの数分の花見。

 春というのは本来は希望に満ちた季節であるはずなのに……空は明るくても私の気分はちっとも晴れない。むろんごく個人的な事情?もさまざまにあるのだけれど、やっぱりこれも大きいな。そう、「国民投票法案」。憲法が土俵際に追いつめられている。

【自民、公明両党は27日、憲法改正の手続きを定める国民投票法案の与党修正案を国会に提出した。修正案は、投票年齢の「18歳以上」への引き下げなど民主党の主張を一部取り込んだのが特徴。与党は4月13日の衆院通過を図る方針で、今後は民主党の対応が焦点となる。これに先立ち、公明党は27日午後の政調全体会議で修正案を了承した。】(27日、時事通信配信)

 新聞各紙を買い込んでパラパラと見ると、「今国会に成立見通し強まる」という類の見出しが……そんな、他人事のように言ってくれるなよなあ……。

 国民投票法というのは「改憲手続きを決める法律」に過ぎず、過剰反応する必要はない、という人もいる。だが、それならばなぜ今、焦りまくって手続きを決めなければいけない? 与党が国会で圧倒的多数を占めているうちに改憲したいから、に決まっているではないか。初めに改憲ありき。

◇◇◇◇◇◇民主党よ、裏切るな

 怖いと言えばこれも怖い。

【民主党は安倍晋三首相が憲法改正を夏の参院選の争点とする考えを示したことに反発し、共同修正に応じなかった。鳩山由紀夫幹事長らは、与党案が民主党との修正協議を一部踏まえたとして党内を賛成でまとめたい考えだが、党内には参院選に向けて与党との対決姿勢を鮮明にすべきだとの意見も根強い。】(毎日新聞)

 民主党は寄り合い所帯で、自民党と双子のように――とまでは言わないまでも、兄弟のように似たところがあること。そして鳩山幹事長ら多くの議員が「改憲派」または「改憲派に近い考えの持ち主」であることは、百も承知。でもですよ。いやしくも反自民なら、「政治は生活である」と言うならば、同じ土俵に乗らんといてくだされ。せめて、「国民投票法案なんか、重要課題じゃないだろ」「なぜそんなものを急ぐのだ」と
言って下され。

◇◇◇◇◇◇正念場

 数日前、村野瀬玲奈さんが「衆議院のサイトに意見を送りましょう」と呼びかけておられた。ふとメゲそうになる自分を自分で蹴り飛ばしながら、私もここ2~3日、メールなどであちこちに「国民投票法案に反対します。万一、改憲手続きを決める必要があるとしても、与党案はひどすぎる。第一、必要性のあるものならば、何年でもかけて広く議論すべき」という趣旨の簡単な意見を送っている。ブログでしょうもない寝言書いてるより、その方がマシな気も……。

 まだ諦めないぞ。

◇◇◇◇◇◇

 Under the Sunのコラムで、ついさっき、発掘屋さんの国民投票法案に関する記事がアップされた。さっと読んだだけだけれども、おもしろいです。一読をお勧め。

◇◇◇◇◇◇

   

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「庶民も立ち上がるぞ!勝手連」に参加しています

2007-03-25 23:25:25 | 東京都/都知事

庶民も立ち上がるぞ!勝手連」ができた。何の勝手連かって? はい、都知事選で浅野さんを応援しよう、という勝手連なのです。提案者は「右も左もない、おれは下や」と叫ぶ喜八さん。上記ブログも彼に作っていただいた。バナー制作は「らんきーブログ」のぶいっちゃん。ありがとうございます。

 私は(こんなこと言うと勝手連のメンバーに石投げられそうだが……笑)浅野さんという人を最高の都知事候補と思っているわけではない。実のところ、マニフェストや彼のサイト「夢らいん」に掲載された過去の発言(新聞等に書いた文章やインタビュー記事など)を詳細に読むと、「うーん、ちょっと違う」と思うところも多々ある(かなり違う、と感じるものもある)。たとえば私は国旗国歌に(日の丸・君が代だけではない。地球上のすべての、国旗国歌なるものに)嫌悪しか持てない人間だが、彼は「個人的には好き」であるらしい。うう……(ただ、彼は強制すべきではないと言っているので、現時点ではまあいいかと思う)。また、障害者自立支援法を評価していた点もかなり「?」であったりする(もっとも彼は、地域の中で普通の生活を送れるような社会を築くべきという立場でモノを言っており、同法をその流れを作り上げるためのものと位置づけていたのだが)。いずれにせよ、いわゆる「左」でないことは確かである。ネット上で、浅野さんに対する厳しい批判があることも重々承知している。

 でもそれを充分わかった上で、「たとえ半歩ずつでも前進したい」という切実な思いから私は浅野さんを応援する。国旗国歌を強制しないという1点だけとりあげても、ほんとに息が楽になる。

 この社会を、東京を一変させたいのはやまやまだけれども、現状ではそれは難しい。それならば「マシ」なものを選び続け、今日より明日、明日よりも明後日……と、亀の歩みのように理想へ向けて歩いていきたい。そしていつの日にか、夢見た社会が実現すると信じたい。

 東京は雨漏りはするわ、床が腐ってしょちゅう踏み抜くわという、ボロボロの建物だ。そのくせ外観だけはケバかったりして。可能であれば設計図引き直して建て直したい。でも、いきなりそこまでするのは腰が引けるという人も多いはず。だから、とりあえずはケバい塗装落としたり、雨漏りをふさいだりしてみるのがいい。ぶっちゃけた話、私は浅野さんが「東京を一変させて」くれそうな人ではなく、「半歩進めて」くれそうな人だから応援するのである。「自分はどちらかというと自民党に近いんだけど……でも、さすがに石原はヤだ)」という人の一票、nizanさん言われるところの「穏健保守」の一票も期待できそうな人だから、応援するのだ。

◇◇◇◇◇

 思想信条も感覚も、細かく見ていけば随分違う人間達が、それぞれの思惑で勝手に応援する――結構じゃないか。少なくとも、「自分達が都庁に送った公僕」という実感を持てる。「違うだろ」というところが見えれば、すぐさまブーイングし、場合によっては解職請求運動を起こそうかという気にもなる。浅野さんでは「限界」があると思う。それは確かなのだが、別に10年も20年も知事をやってもらおう、というわけではなし。

 政治家というのは公僕、我々のために雇う人たち。独裁者になったかのような勘違いをして「オレについて来い」意識を漲らせたり、トンデモ発言を繰り返したりすることなく、庶民の生活が息苦しくないように気を配り、真面目に働いてくれさえすればいい。どんな仕事をするかを指示し、「働かせ」るのは、主権者である私達である。

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私は「市民」ではなく「大衆」である(……ような気がする)

2007-03-23 23:56:55 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

〈私は……「市民」だろうか?〉

 市民、という言葉がある。これに違和感を持つのはおかしいかも知れないが……昔から私の感覚の何処かに、「う~ん。あたしゃ、そういうちゃんとした存在じゃないんだよなあ」という気持ちがあったりするのだ。

 随分前のことだが、ブロガー仲間の愚樵さんが「庶民vs市民」という記事を書かれ、それを読んでからますます気になり続けていた。(そう言えば愚樵さんとは随分ご無沙汰している。元気でやっておられるかなあ)

 愚樵さんは、庶民を「自立的でない集団」(場の倫理によって思考する人達)、市民を「自立的な個人」(確立された自我を持ち個の倫理によって思考する人達)と、定義づけておられた。これはむろん、彼がそれが正しい定義であると主張しているわけではなく、ものを考え、話を進めていくための「一応の定義」である(と、私は受け取った。言葉というのはそういうものである)。

 あのエントリは私にとって非常に示唆に富んでいたのだけれども、それを踏まえた上で、私は「自分は市民なのだろうか」あるいは「市民であろうとしているのか」と何度も首をひねった。私は「場の倫理」というものが好きではない。と言うより、もともと常に頭の中がとっちらかっていて何でもワンテンポ遅れがちな人間なので、場の倫理にうまくついていきにくい、というだけなのだが。それでも、私は自分自身のことを「市民、じゃないなあ。庶民、あるいは大衆だよなあ」とよく思う。

 覚えておられるだろうか。かなり前に「マル金とマルビ」という言葉があった(念のため言っておくと、ビというのは貧乏の意である)。この言葉がやけに流行したとき、私の中に耐え難いほどの不快感が満ちた。そして「私は断固として、マルビの側である」と宣言したことを今も鮮やかに覚えている。勝ち組と負け組、選ばれた人間と選ばれなかった人間、目覚めた人間と無明長夜に踏み惑う人間、強い人間と弱い人間……エトセトラ。すべてについて、私は後者であり、その立ち位置を死ぬまで忘れずにいたいと思う。「市民と庶民(大衆)」という構図も、私の中では同じようなニュアンスを持っているような気がする。

 私はさあ、そんなぁ、リッパな存在じゃあねぇよ。大した知識もないし賢くもないし、ひとさまに自慢できる能もねえ。理路整然とモノを言えるようなタマでもねぇよ。おそらく死ぬまで藻掻き続けるだけの存在さ。でもさあ最低、人間としてやっておくべきことと、やっちゃあいけないことぐらいはわかっているさ。それを馬鹿だと嗤う資格が――いんや、体張って嗤う覚悟が、おまえにはあるか??

 

〈埋もれていた一冊の本〉

 急に話が逸れるが……『差別 その根源を問う』(朝日選書)という上下2巻の本がある。買って読んだのはかなり前――ごく若い頃のことだが、先日本の整理をしている時に、埋もれていたのを見付けて読み直した(我が家は足の踏み場もないほど乱雑な形で本が溢れており、友人達の間で古書店の倉庫のようだと言われているのだ……泣)。ちなみにこの本は「狭山差別裁判」と呼ばれた狭山事件(注1)の判決を契機とする鼎談を、1冊にまとめたものである。

(注1/1963年に起きた女子高校生殺害事件で、被差別出身の青年が逮捕された。捜査も裁判も予断に基づいておこなわれ、冤罪事件のひとつとして名高い)

 狭山事件についてさほど知識があるわけではなく、本などで少し読んだだけであるけれでも――読めば読むほどジクジクと「課題」が湧きだしてくる。上記の本はその課題を考える手掛かりとして貴重な1冊だったように思うが、今日書き留めておきたいのは差別の構造とか、差別とは何か、といった問題ではない。

 同書は作家の野間宏と安岡章太郎がホストになり、テーマごとに作家や法律家などを招いて話をするという形式になっている(だから鼎談、なのだ)。どの章も興味深いのだけれども、読み直して特にひっかかったのが、中上健次(注2)を招いての章「市民にひそむ差別心理」だった。

(注2/早世した作家なので、今の10代20代の人の間ではあまり知られていないかも知れないが……私は『蛇淫』や、有名な『枯木灘』などを読んだときの衝撃を今もありありと覚えている。文体は必ずしも私の好みには合わないけれども、あの執拗なほどの重い炎は忘れがたい)

 

〈永遠の遊行者――行きずりの旅人でありたい〉

 中上は鼎談の中で、「定住と遊行の違い」について言及している。

【この「市民」がクセモノなのだと思う】

【差別というのは町の問題ですよね。ぼくが聞いた話ですが、の人が日本からブラジルに行った。途中の船の中ではみんな仲間という感じだった。ところが、向こうに着いた途端に差別が始まった。だから、問題は町の成立ということにもかかわってくる。つまり、歩いているときとか動いているときとかは仲間で、パッと止まるとよそよそしくなる】

【で、狭山事件を考えますと、デッチ上げをやる側のリアリティーはいくつも考えられますね。つまり、後から来た者は土着の者から差別される。それから、職もなしに渡ってくるというのは、うさん臭いと差別される。そういうのが重なってくる。(中略)セックスの問題でも、一夫一婦制というのは定住している者にしか、町の中にしか、ないんじゃないかと思う。動いている者は、そんなことはどうでもいいんだ、みたいな感じになっている】

【遊行の人ってのは何をしでかすかわからないみたいな感じが、定住者にあるんじゃないか。定住者、つまり今で言えば「市民」なんだと思う】

 細かく引用しているとキリがないのでサワリの部分だけにとどめておくが、中上は市民をマジョリティー、そこからはみ出した遊行の人をマイノリティーと規定している(この規定も――しつこく繰り返すが、「絶対の定義」ではないはず、である)。

 私は……目覚めた市民であるよりも、行方定めぬ漂泊者でありたい。ギリギリ可能な限り、集団の規範だのモラルだのからも解き離れていたい。それを許容されることだけが、私のささやかな望みだ。私の原点は、ただそこにこそある。

 しばしば遊びに行くブログの管理人で、「ヘタレ同盟」(何だ、そりゃ)の仲間であるdr.stoneflyさんは、私が酔っぱらって書き込んだコメントに対して丁寧な返事を下さった。

【戦前のようになったら「日本を脱出する」というようなことを言われていたような気がするのですが、そう言わずに日本に居続けましょうよ。それこそがヘタレの神髄とは思いませんか? ヘタレ道を極めましょう(爆)。】

 えへへ。ヘタレ道かあ、いいかもですね。ヘタレで何が悪い。あたしゃ庶民じゃあ。(いかん、今夜も酔ってます……たまには素面でブログ書かないといけませぬな)

 いつもの通り、「細かい話は抜き」の酔言失礼。差別の本質とは何か――等々については、また暇を見て書き止めておこうと思う。

◇◇◇◇◇◇

  息苦しい世の中は嫌だ――と叫ぶブロガー達のゆるやかな連帯の輪、Under the Sunに参加しています。今節のコラムのお題は「選ぶ」。私も「あらかじめ用意された選択肢」というタイトルで短いコラムを書いていますので、もしお暇がありましたらどうぞ。

◇◇◇◇◇◇

 私は「保守二大政党なんて認めないぞッ」という立場ので、基本的には「民主党を支持」していません。ただし「前進と後退を繰り返し」「行きつ戻りつしながら」わずかでも前に進むことを是とし、さらに言うならば民主党にもう少しシャキッとして欲しいという思いを込めて、戸倉多香子さんを支持しています。

 

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たとえ半歩ずつでも前進したい

2007-03-19 01:23:04 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 一昨日の夜、出張から戻ってきたばかりなのに、今日からまた2泊の予定で出張。働けど働けど楽にならない我が暮らし。老後が不安だなあ……。

 ……なんて話はどうでもよいのである。久しぶりにゆっくりインターネット上をうろうろしたついでに、本日のメモ――。

 私は20歳になってから数年間、1度も選挙権を行使したことがなかった。いや、投票所に足を運んだことはあるが、その時は白紙投票していたのだ。日本の議会制民主主義はギマンだの何だのとくっちゃべり、斜に構えて気取っていたのである。思い出すと実に恥ずかしい。それがなぜ真面目に選挙に行き始めたのかは、もう忘れた。おそらく何か大きなきっかけがあったのではなく、自分が徐々に変わったということだろう。

 10代から20代の半ば頃までは、物事を考える時にすぐ「すべてか無か」という方向に走る癖があった。これはおそらく、私だけの話ではないと思う。多くの人は、ごく若い時には思考も行動も脇目もふらずに疾走しがちなのではあるまいか。ちなみに私は平凡な人間で、ある意味でそれを誇りにも思っている。だから私の考えていることや経験してきたことは、多くの人と同じではないかと思うのだ。(あくまでも確率としてではあるけれども)未来にたっぷりと時間のある若者が尻に火がついたような急ぎ方をし、時間の少なくなった中高年者がかえってのんびり構えがちというのは、少々おかしな気もするけれども。

 ともかく、ごく若い頃の私は、迂遠に見えるものがすべて嫌だったし、理想だけを掲げてそれを翳らせるものすべてを拒絶した。たとえば――ごく日常生活的で卑近なところで言うならば、私は無神論者だからということで、墓参りだの法事だのという親族の行事にはいっさい参加しなかった。親族にはキリスト教徒もおり、教会で結婚式を挙げたりしたが、その時も一同で賛美歌を歌うという行動について行けず、座ったままでいたものだから後で母親に叱られたりもした。中学受験を考えて子供を進学塾に通わせる最年長のイトコと喧嘩したり、誰かが天皇に対して「陛下」を付けるたびに嫌味を言ったりしたのもその頃のことである。「今の時点では、その程度は仕方ないんじゃないの?」という類の言葉は「敵」であり、それこそ絞め殺してやりたいほど凶暴なほどの感情の暴走があった。

 だが……いつの間にか、私は次第次第に多くのものを許容できるようになっていた。おそらくは、社会人になって労働と生活の現場で喘ぐという体験を経て。何かを勝ち取るというのは生半可なことではなく、行きつ戻りつしながら、そして汗や涙にまみれて獲得していかねばならないのだと身をもって知った時から。そう、行きつ戻りつ……なのだ。世の中は、一晩で変わりはしない。いや、体制はたとえば革命やクーデターによってそれこそ一夜にして変わることもあり得るけれども、人の意識や生活はゆっくりとしか変わらない。そのゆっくりとした足並みに合わせて共に歩まずして、変革だの改革だのというのはおこがましいと、あるとき私は知ったのであるらしい。

 許容するというのは、年をとっていくことの証左であるかも知れない。そのことをいささか忸怩たる思いで噛みしめながら、それでもなお私は今……たとえ半歩ずつでもいい、前に進みたいと心から思う。

 ちょっと前に、私はこのプログで「都知事選は浅野さんを支持する」と宣言した。それに対して「勝ち馬に乗りたいわけ?」といった類の嘲笑を浴びたし、現実生活の中でも随分と批判されている。ネット上では、浅野さんに対する批判的な意見が非常にに多い。私もその批判は必ずしも的外れではないと思う。彼のマニフェストをようやくじっくり読んだが、とてものこと、100%賛成とは言えない。最高の知事候補かと言われれば、酢を飲んだような顔で「いや……違う」と言わざるを得ないのだ。

 それでもなお、私は都知事選で浅野さんを支持する。なぜならば、私にとっての目下の課題は「石原三選阻止」と「半歩前進」だからである。私は原則としては、「よりマシはない」と思っている。どちらがマシか、という視点で政治家を選んではいけないと思う。だが、それでもなお――今回の都知事選においては、私はあえて「よりマシ」を選択したいと思っている。マッチズモの権化であり、人間には差があるという確固たる信念の持ち主である石原慎太郎を引きずりおろし、一息――そう、都民にとっては一息なのだ――つくために。浅野氏は、区分けするならば保守に属する人であると思う。だが、いわゆる「穏健保守」だ(穏健保守うんぬんについては、nizanさんのブログを参照してくだされ。私はnizanさんの勝手連的ファンなのだけれども、この3月15日のエントリを読んで、ほんま目からウロコだった)。少なくとも、時計の針を逆戻りさせようと肩肘張るような人物ではないと思う。国旗国歌を強制しないと断言していることひとつとっても、石原都政より少なくとも半歩は前進する。半歩……いや、見方によっては半歩にも足りないかも知れないけれども。

 どれほど「日和見」「アホ」と言われようとも、石原三選阻止のためには勝ち馬にも乗る。これは――少し前のエントリでちょっと書いた気もするが――石原慎太郎が都知事になって間もなく、解職請求の署名を集めようとして果たせず(私は別にその発起人でも何でもありません。友人たちと意気投合して末端でジタバタしただけというお粗末)、それがいまだにトラウマになっている都民のひとりとして……。理想は理想、原理は原理。それは墓に入るまで大切にしたいことだけれども、同時にみっともないほどに地を這って小さな歩みを続けたいと思う。

 考えていることは山ほどあるけれども、覚え書きとしてい書き留めるのは出張から帰ってからにしよう……。 

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国民の大多数が「改憲」を望んでいるか?

2007-03-14 23:42:00 | ムルのコーナー

 野良猫のムルと華氏宅居候のトマシーナの、相も変わらぬ会話を立ち聞きしてみた。

トマ:ねえ兄貴、人間の世界では「こくみんとうひょうほうあん」とかいうものが騒がれてるみたいだね。

ムル:ああ、あれか。おまえも最近、結構「しゃかいもんだい」の話をするようになったなあ。

トマ:僕、ひとつ疑問なんだけどさ。憲法って、変えちゃいけないものなの?

ムル:そんなこたぁねえだろ。憲法だって人間が作った法律なんだからさ、未来永劫、絶対変えちゃいけないなんてことはあり得ねぇよ。

トマ:じゃあ、変える方法を決めておいたって別にかまわないんじゃない?

ムル:基本的にはね。ただ、いま人間の世界で出されている国民投票法案てやつは問題が多いのさ。

トマ:問題って、どんな?

ムル:細かく言やぁいろいろあるけど、おいらの見るところ、「憲法を簡単に変えられるようになる」ということだろうな。それについては、もう大勢の人が書いてるぜ。たとえばもう1週間ぐらい前だけど、お玉さんて人が「有権者の2割の意見で改憲されたらどうする?」って訴えてたぜ。

トマ:え? 国民投票法案って、2割の人が賛成したら変えてもいいっていう法律案なの?

ムル:まさか、そんな露骨じゃあねぇさ。ただ、自民党案ってやつは有効投票(白紙や無効票を除いたもの)の過半数でOKってことになってるんだ。しかも最低投票率の規定もないからね。投票率が低かったりすると、それこそ全有権者の20%ぐらいの賛成で憲法が変わるかも知れないという話さ。いや、20%以下で変わることだってあり得るな。

トマ:有効投票の過半数って、随分乱暴な気がするなあ。

ムル:だろ? 憲法ってやつはさ、その国の基本的な姿というのかな、方針というのかな、こういうふうにやっていきましょう、という一番根っこの部分を決めた法律なんだぜ。おいらは「変えちゃいけないわけじゃない」と言ったけど、でもさ、細かい法律みたいにひょいひょい変えるもんでもないだろうよ。

トマ:基本的な方針て……学校でいうと「建学の精神」みたいなもの?

ムル:うーん、少し違うけど、まあ似たような感じだと思ってもいいかもな。個人でも集団でもいいけどさ、こんなふうにやっていきたい、という「基本的な方針」があるわけじゃん。おいら達だって、あるだろ。

トマ:兄貴の場合は「ご意見無用の一匹狼、じゃなかった、一匹ノラネコとして生きる!」ってやつだね?

ムル:やかましい! そんなこたぁどうでもいいのっ。ともかくさあ、その方針は絶対変えちゃいけないわけじゃねぇけど、変えるのは「よっぽどの時」なわけさ。

トマ:憲法を変えるっていうのは、個人の場合で言うと生き方とか人生観とかを変えるようなものなんだね。

ムル:うん、まぁそう思っても間違いじゃないだろ。ともかくさ、そういう基本原則、根っこの部分にかかわる法律だから、変えるとしたら「よほどの場合」だけだとおいらは思う。その憲法のおかげでひどい目に遭ってる人達がいて、国民の大多数が「こんな憲法は嫌だ」と悲鳴を上げた時、とかさ。それから、国の体制が変わった時――天皇制がなくなったとか、クーデターが起きて軍事独裁政権が出来た時なんかも、憲法は変わるだろうけど。

トマ:今の憲法を、日本の人達は「不都合な憲法」だと思っているのかしらん。

ムル:思っている人もいるだろ。でも大多数が――じゃあないと、おいらは思うな。だから、「有効投票の過半数」なんてギョッとするような国民投票法を作ろうとしているのさ。そう言えばあの法案、「壊憲手続き簡略化法案」とも言うらしいぜ。

トマ:きゃは、ケッサクだねッ。でも、有効投票数じゃなくて、投票総数の過半数でも、やっぱりおかしいよね。投票率50%だったら、その投票総数の半分と言えば有権者のたった25%じゃないの。

ムル:そうそう。投票率50%だったら、有権者のだいたい4人に1人の賛成で「改憲案」が通るわけさ。「20%=5人に1人」よりはマシかも知んないけど、「国民の総意」じゃあねえよな、どう考えても。おいらはもしも憲法を変えるなら、投票率とは関係なく、「全有権者」の少なくとも3分の2、本当のところは4分の3ぐらいの賛成が必要だと思う。あ、この話は前にもしたことがあったかもな。

トマ:全有権者の3分の2の賛成がないと変えられないとしたら、投票率が60%ぐらいだったら、もうそれだけで「改憲不可」だよね。投票した人が全員賛成だったとしても、憲法は変えられない。条件が厳しすぎる、っていう人もいるんじゃないかなあ。

ムル:おい、トマ。おまえ何聞いてたんだよ。国がその「生き方」を変えようってんだぜ? どんなに厳しくしたって、厳しすぎることはねぇよ。憲法を変えるとか変えないとかいう大切な問題については、「主権者」の国民全員がちゃんと考えて答えを出すべきなんだぜ。与党はそんなこと、させたくないのさ。いや、与党だけじゃない。国民投票法案については民主党も同罪だな。民主党の案だって、「憲法を変えやすい」案であることは間違いねぇや。この法案が通ってみろ、憲法はその時の政府の意向でころころ変わる可能性が出てくるぜ。ごく普通のジョーシキ持った国民なら、危なっかしいと思うのが当たり前じゃねぇのかなあ。

トマ:それにしても、今の内閣はほんと、法案通すのをすごく急いでるみたいだね。なぜそんなに急ぐんだろ。

ムル:まあ、自民党はずーっと「改憲」したがってたし、特に今の総理大臣は「任期中に改憲する」とかって、しょうもないこと言ってる男だしな。ほかにやることが山積みだろうにさ。ともかく、その「急いでる」というところが、国民投票法案のもう一つの問題点つうか、危ない点だろうなあ。改憲推進派っていうのかな、憲法変えたいと言ってる連中は、「憲法を神聖なもののように祭り上げるべきではない。議論すべきだ」とよく言うけどさ、彼らの言う「議論」てのは、「変えた方がいいよね、の話」にしか過ぎないんだ。「憲法を守るべきか、変えた方がいいのか」という議論をしちゃいけない、なんてことはあり得ない。もっともっと大勢が憲法のことを知り、真面目に議論した方がいいに決まってる。でも本当はそれをされたくないのさ、改憲したい連中はね。

トマ:ふうん……。「庶民は何も知らなくてよろしい」ってわけかぁ。国民投票法案のことも、きっと細かく分析されたり議論されたくないんだね。……ハ、ハックショーン!

ムル:お、おい。おまえ風邪ひいたのかよ。

トマ:うん、華氏の風邪がうつったみたい……。

ムル:「ナントカは風邪ひかない」って猫仲間の長老が言ってたけど、嘘八百だったみたいだな……。あ、おまえのことじゃねぇよ、そう睨むなってぱ。

◇◇◇◇◇

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目覚めたとき、夢を嘲笑せよ

2007-03-13 22:53:45 | 箸休め的無駄話

 ようやく仕事を終え、飲みながらパソコンに向かって字を綴り始める……国民投票法案をはじめ、正念場を迎える問題が山積みなのだけれども、このところ妙に忙しいのと少し体調悪いのとで、いつもに増して頭が働かない。だから、紡ぎ出されるのは全くの無駄話(おまえが書いてるのは無駄話だけだって? あは、そうかも知れません)。ま、いいか。いちおう公開してはいるものの、要するに日記、私的な覚え書きなのだから。

  私はよく夢を見る。いや、正確に言えば「よく夢を記憶している」と言うべきだろう。誰でも就眠中に必ず夢は見ていて、ただ目覚めた時にそれを記憶していないことが多いだけだそうだから。ほんの少し神経が疲れているらしいときは、特によく夢を記憶しているのだ。電車の中の居眠り程度のわずかの間でも、ぶっ飛んだ夢をよくみる。多くの人が同様だと思うが、私の夢も主体はモノクロで、ただ部分的に鮮やかな色がついている。彼方にたなびく雲の、青みを帯びた紫色。掴み取った瞬間に消えた影のところどころ金粉をはたいたような銀色。誰かを殺した、あるいは誰かに殺されたらしい場面に飛び散った血の色。そう言えば私は昔から、殺されたり追わるように逃げたりする夢をよく見る。暑苦しい船底に潜んでまだ見ぬ遠い国に行こうとしている夢や、誰とも知れぬ者達の嘲笑を浴びながら何処までも何処までも泳ぎ続けていく夢や、深夜の公園でブランコを高く高くこぎ続けてそのまま白い月光に溶け込む夢や。心の奥底の何処かで、何ものかを恐怖しているのだろうか。

 昨夜――と言うよりもおそらくは今日未明に見たのは、そういう(殺される類の)夢ではないが、やはり奇妙な味のするものだった。何かにアクセスしようとしているのだが、どうしてもパスワードを思い出せないのだ。アクセスしようとしている対象が銀行のATMなのか、机の上に鎮座するパソコンなのか、それは何ともわからないけれども……ともかくパスワードを忘れてしまって、何度試みてもはじき出される。どうしてそんなに懸命にアクセスしようとしているのかは何しろ夢だからわからないけれども、アクセスできなければおまえは生きておれないのだという宣告を(その世界では)アプリオリに受けていた。

 また間違えたな。あと5回……あと4回……あと3回……。何処かで指を折る者の非情な、あるいはサディスティックな声を聞きながら脂汗を流し、私の記憶(それも何らかのパスワードというごく簡単な、日常的な記憶)を略奪したものを呪いつつ……私は眼が醒めた。

 【目覚めたとき、夢を嘲笑せよ】

  ――という詩の一節が確かあった(目覚めた後、だったかも知れない)。なぜこんな理不尽な運命に巻き込まれたのかわからず、逃れようともがけばもがくほど食い込む軛(くびき)の重みに耐え難いほどの思いを抱き……そしていっそ眼を閉じてすべての思考と行動を止めてしまいたいとさえ思いながら、それでも私は軛を外そうと七転八倒する。夢の中にまで息苦しく侵略を続ける何者かを嘲笑し、否定し続けるために。目覚めたとき夢を嘲笑せよという、ある種のニヒリズムに抵抗するために。

(何言いたいのかわからないって? そうでしょう、そうでしょう。自分でもわからんのですから。酔ってるんですよ、要するに。私は“手から口へ”の労働者なんで、昼間はいつもドタバタしていて少なくともプライベートではPC使うことができず、ちょっと落ち着けるのは夜、仕事終えてからだけなのだ。そして仕事終えると、下戸のくせについつい酒を飲む。だから……ブログを書くときはいつも酔いかけていて、おかげでわけわからぬ世迷い言になってしまう。覗いてくださる方には、ほんと申し訳ないのだけれども)

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「死の床から孫達へ」(UTSコラム転載)

2007-03-10 23:40:03 | 箸休め的無駄話

 Under the Sunでは、メンバーの有志が交替でコラムを書いている(私もお手伝いしています)。大勢の人に訴えたい、共に考えて欲しいエントリをTBしてほしい。多くの方に覗いていただき、TBされたエントリを読んでほしい。そのためには、ときどきトップページが更新してあったほうがいいだろう――と考え、毎回テーマを決めて書き続けているのだ。前回のテーマは「子や孫への手紙」。私は子供を持たず、将来的にも子供も孫も持ちそうにないので、フィクションを書いてしまったのだが……ひとつはUTSコラムの紹介、もうひとつは今日も元気で生きておりますという記録みたいなものとして3月26日に掲載したそれを再掲しておく。(ほんとのことを言うと私のより、他の方のコラムの方がおもしろい。まだ読まれたことのない方は是非どうぞ)

◇◇◇◇◇以下、転載◇◇◇◇◇

2△△△年2月某日――

 ついに此の世では一度も会うことのできなかった、私の孫達よ。

 窓の外は一面、夕陽に染まっている。このはるか向こうに君達の暮らす国があるのだが、彼我の距離は天の川の両岸よりも遠い。私の命は間もなく尽きる。おそらく明日の朝日を見ることはできまい。その死の床で、私はこの手紙を書く。君達の手に届くかどうかはわからない。おそらく不可能だと思うけれども、万一の僥倖を信じて……。

 私は日本を――正確に言うと東京を離れる直前に、君達が通う小学校や幼稚園をこっそりと訪れたことがある。若い頃離婚し、自分の子供、つまり君達の親とはずっと離れて暮らしていた。ほとんど会うこともなく、だから子供が結婚したことも、孫が出来たことも風の便りに聞いただけだった。親としての義務も果たさず、子供の存在などほとんど忘れていたくせに、最後に孫の姿だけひそかに覗き見たいという衝動にかられたのは、いったいどういうことだろう。気儘に生きてきた自分に、そういうウエットな部分があったのが自分でも不思議なほどだ。
 ともあれ、その時のこと。小学校でも幼稚園でも、門の所に大きな日の丸が掲げられていた。小学校はちょうど校庭で朝礼が始まる所だったのだが、最初に君が代が流れたのには正直なところショックを受けた。入学・卒業式などの式典では君が代斉唱が当たり前とされ、反対する教師が次々と処分されたのはそれより随分前のことだった。そしていつの間にか日常の朝礼などでも君が代を歌うのが普通になったと聞いてはいたが、やはり目の当たりにこの目で見、耳で聞くと、慄然とせざるを得なかった。
 君が代斉唱の後で校長の、朝の挨拶と言うのだろうか、訓辞と言うのだろうか、何やら話が始まった。退屈なだけのお説教だが、子供達は皆、シンと静まって礼儀正しく聞いており、私語どころか直立不動の姿勢を崩す子もいなかった。私は門の陰でそれを見ながら、「彼ら」はついに、子供を飼い馴らしたのだなと思った。君達が生まれるずっと前に教育基本法が変わり、子供は飼い馴らす対象だという考え方が学校を支配するようになった。教師の言うことをきかない子供、秩序を乱す子供は容赦なく処罰されるようになり、やがておとなしい、暗い目をした子供達が増えていった……。私の孫もその一人なのだと思った時、逃げ出そうとしている自分を恥じたのだけれど、それでも私は踏みとどまれなかった。たとえ卑怯と罵られようとも、生まれ育った国を捨てたいという衝動が強かったのだ。

 私が日本を逃げ出そうと決めたきっかけは、

◇◇◇

――まだまだ続くのですが、長いので以下略。もし暇だから読んでやってもいいという方がおられましたら、こちらへ。 

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「国民投票法案」を成立させるな

2007-03-09 23:24:24 | 憲法その他法律

 都知事選のほかに、これも気になる――。そう、国民投票法案。

【安倍晋三首相は7日、憲法改正手続きを定める国民投票法案について「自民党の中で象徴的に憲法記念日までに上げることが大切という気持ちがあるのはある意味、当然の気持ちだろう」と述べ、施行60周年を迎える5月3日を念頭に早期成立に改めて意欲を示した。】(毎日新聞・3月7日付)

 昨日の衆院憲法調査特別委員会は流会し、公聴会も日延べになったけれども、それはごく一時的に、ほんの少しだけスピードが鈍ったに過ぎない。与党は最初、今月中に特別委員会で採決→衆院通過→参院へ、というスケジュールを思い描いていたらしいが、少しばかり後ろにずれ込むぐらいは屁でもないだろう。

 それにしても……従軍慰安婦問題について「強制ではなかった」などと発言をし、国民に「恥ずかしくてお天道さまの下を歩けない」思いをさせておきながら、知らぬ顔で憲法改定ばかりに恋いこがれる首相って、いったい何者なのだ。ちなみにこの発言は、アメリカのマスコミにさえ批判された。ニューヨーク・タイムズ紙は、「世界に向けて嘘をつく」という発言を紹介し、安倍首相を「戦争の過去を軽視することでキャリアを築いてきたナショナリスト」と断じている。ほんともう、やめてくれ。安倍さん、そういう発言をしたいのであれば、政治家を辞め、おトモダチと「ナショナリズム同好会」でも作ってそこで発言して下さい。

 あ、話が逸れかけている。戻そう。

 国民投票法案について、私なりに考えてみたことはこれまで何度か書いた。別に大したことは言ってないので同じことを繰り返すのは止める。最近のエントリとして次のようなものがあるので、「こいつ何を言いたいのか」と思われた方は覗いてみてください。

国民投票法案を上程させるな・1」、「同・2」、「同・3」など。ついでながら、ムルも怒っています。 

 いつもお世話になっている村野瀬さんのところに、特別委員会メンバーなどの議員名簿が載っている。メールやFAX、電話などで抗議の声を届けよう。ついでだが、村野瀬さんのところで「国民投票法」は別名「壊憲手続簡略化法」と言う、と教えて貰った。うまい!! この法律の意味しているところが、よくわかります。 

◇◇◇◇◇

 民主党にもう少し「今の日本の方向は間違っている」という断固たる姿勢を持って貰いたい。戸倉多香子さんを応援しています。

 

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首長の条件

2007-03-05 23:25:07 | 東京都/都知事

◇◇◇首長は雇われマネージャーである

 当たり前のことだが、首長というのは「王様」でも「皇帝」でもない。つまり絶対的な権限を持つ独裁者ではない。単なる「右、代表」――と言うか、ともかくそういう存在にしか過ぎない。クラス委員長か生徒会長か、マンション管理組合長みたいなものだ。雇われママ、雇われマネージャーのような存在、と解釈してもいいかも知れない(雇っているのは無論その集団の人間すべて)。首相であろうと知事であろうと区市町村長であろうと、同じことだと私は思う。だから、自分が特別な存在だとか住民を支配しているなどと思ってもらっては困るし、自分の個人的な思想信条で突っ走ってもらっては困る。住民が「こんな首長でスミマセン」と小さくならねばならない首長も、もちろん困る。

 国でも地方自治体でも、議決機関は「議会」である。首長は執行機関の「長」として、事務全般を統括するのが主な仕事だ。住民が等しく「健康で文化的な生活」を送れるように仕事をする――いや、具体的な仕事するのは公務員の人達の役目なので、彼らが働きやすいように目配りするのが基本的な役割、と言ってもいい。

 私が考えている「首長の条件」は、次のようなものだ。

1)自分が選ばれた人間であるとか、特別な権限を持っているなどとは、夢にも思わないこと。また、持ちたいなどとも絶対思わないこと。

2)自分は絶対に正しいのだという妙な自信や信念を持たないこと。

3)「力」の信奉者ではないこと。また、常に下から目線でものを見ることができること(常に、というのはなかなか難しいかも知れない。少なくとも、そういう目線の重要さを知っていること)。

4)人種、職業、性別、学歴、年齢、その他いかなることでも人間を差別しないこと。

5)他者に対する支配欲、特に「心」を縛ろうという欲求を持たないこと。

6)憲法99条(天皇・摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、憲法を尊重し擁護する義務があるという条項)を遵守すること。

 ほかにも挙げていけばいろいろあるけれども、これがいわば「最低条件」だと言ってよい。

◇◇◇議会の重要性

 以上の条件さえ備えていれば誰でもいい――などとは言わない。むろん、具体的にどんな主張や政策を持ち、何を優先課題にしているかは非常に大切であると思う。だが先に書いたように、国でも地方自治体でも、予算その他の決議をおこなうのは議会である。

 首相がどれほど改憲主義でも、知事がどれほどマッチズモ人間でも、市長がどれほど差別意識が強くても、首長を支持する政党(や会派)が議会で多数をとっていなければ、そう勝手な突っ走りはできない。議会には首長の不信任を決議する権利もあるのだから(もっとも、首長のほうは議会を解散する権利があるが)。一昨年の秋以来の坂を転がり落ちるような情勢(教育基本法改定など)は、与党がギョッとするほど多数派になったから生まれたのだ。

 首長選びは重要だが、同時に議員選びの重要性も忘れちゃいけないなと――これは実は、nizanさんの「都知事選や地方議会についての雑感」を読んで改めて思ったことである。国会でも地方議会でも、今の日本の方向にストップをかける議員を増やしたい(そういえば私の住んでいる区でも4月に議会選挙がある)。

◇◇◇解職請求できなかった……

 首長の不信任決議で思い出したが、住民にも首長の解職を求める権利がある。 東京都の場合で言えば、有権者の3分の1以上の署名があれぱ直接請求でき、住民投票の結果、賛成過半数なら知事は解職されるのだ。ふと思い出したが、石原都知事が誕生して少し後、解職を求める運動をしようという声があった(私も片隅で賛同したのだけれども)。だが、とてものこと、有権者の3分の1という数の署名を集めることができなかったのだ。その意味で、都民は本当に現都知事を忌避しているのかと問い詰められると頬が引きつる。都民は、いや、私は何をしていたのだろう。

◇◇◇◇◇◇◇

 (民主党支持ではありませんが)戸倉多香子さんを応援しています。

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都知事と戸塚ヨットスクール(再掲)

2007-03-03 23:24:05 | 東京都/都知事

 喜八さんから「『戸塚ヨットスクールを支援する会』会長 石原慎太郎」というエントリのTBをいただいた。随分前だが私も戸塚ヨットスクールと都知事殿の話を書いたことがあるので、再掲しておこうと思う。(いつだったっけ、と記事一覧を探したら、何と去年の5月だった……その時のタイトルは「続・上からモラルのうさんくささ」)

◇◇以下、再掲◇◇

〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・1〉

 前回のエントリで都知事が提唱する「心の東京革命」などに触れて「心の支配」への恐れを書いたところ、布引洋さんから次のようなコメントをいただいた。

【最近戸塚ヨットスクールの戸塚が刑務所から出所しました。彼の後援会会長が石原慎太郎です。戸塚のやった事は、石原慎太郎の教育方針を先取りした理想の教育です。戸塚宏によると、教育とは子供に恐怖を与えることだそうです。恐怖によって生徒の自主性を引き出すのだそうです。石原慎太郎が三選を考えているのは、都立学校を全部戸塚スクール風にしたいからです】(引用了)

 ここで簡単に「戸塚ヨットスクール」についてまとめておく。同スクールは家庭内暴力、不登校などの子供達を集団生活とヨット訓練によって「矯正、治療する」(スクール側の表現)ということで設立され、教育方針はいわゆる「スパルタ式」、というより「軍隊式」。規律に違反すれば過酷な体罰が加えられた。その結果として同スクールでは2名の行方不明者(合宿の帰路、海に飛び込んだ)と3名の死亡者が出、1983年に戸塚校長らが逮捕された。直接の逮捕容疑は当時13歳の訓練生をヨット上で角材などで殴り、死に至らしめたこと(傷害致死)。1審判決は執行猶予つきで、検察・弁護側ともに控訴。2審では執行猶予なしの実刑判決が下された。弁護側はそれを不服として最高裁に上告したが2002年に棄却され、全員の有罪が確定した。

 石原慎太郎はもともと戸塚宏の「畏友」だったそうで、1987年には「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長にも就任している。むろん今も同スクールの方針に全面的な賛意を表明しており、4月3日付産経新聞紙上で、次のようなエールを送った。

【生徒の死亡事故の責任を問われ服役していた戸塚宏氏がこの四月に刑期を終えて出所してくる。戸塚氏は服役中保釈を申請することなく、あくまで刑期を満了した上で悪びれることなく以前と全く同じ所信で、歪んでしまった子供たちの救済再生のためのヨットスクールを再開運営していくつもりでいるという。
(中略) 
 畏友戸塚宏の社会復帰は子供たちに関する今日の風潮の是正に必ずや強く確かな指針を啓示してくれるものと思っている。我々は我々の責任で、人間としての絶対必要条件である我慢について今こそ教え強いなくてはならぬ。失われつつある子供たちの数は戸塚氏を襲った事件の時よりもはるかに増えているのだ】(連載エッセイ『日本よ』)


〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・2〉

 どんなに言葉を飾ろうと、戸塚ヨットスクールでおこなわれたことは「リンチ」である。「1銭5厘(徴兵通知の郵送料)」で軍隊に引っ張られた経験を持つ高齢者達の体験を聞くと理不尽な暴力沙汰の話がよく出てくるが、それと同様のサディスティックな行為に過ぎない。号令かけられるままの一糸乱れぬ行動を要求し、日常の細部に至るまで規則づくめで縛り、違反したり間違えたりした場合は容赦なく殴り倒す。戸塚ヨットスクールを擁護する人達は「多くの少年達が立派に立ち直った」と言うが、それは立ち直った?のではあるまい。ものを考えるいとまも与えられず、感性は鈍磨させられ、否応なく飼い慣らされていったのだと私は思う。

 それに共感する石原都知事は、間違いなく「他者に対する暴力的な支配」を是とする立場にある。それも単に「オレの言うことに従え」ではなく、「心からオレ(の考え方)の前に跪け」であろう。支配する者は常に「心まで縛ろう」という方向にいくのだが(※1)、その行き方の速度や激烈さには当然、差がある。石原都知事はかなり極端な方で、普通の感覚ではほとんど信じられないほどに牙を剥き出しにしてくる。

 君が代・日の丸に代表される「国を守る気概」の押しつけはそのひとつ。私は何人か小・中・高校教師の知人がいるが、そのひとりは久しぶりに会った時に、「石原都知事になって以来、息が詰まりそうだ」とぼやいた。ちなみにこの知人は、いわゆる左翼でも何でもない。日教組にも所属しておらず、いわゆる無党派層で時には自民党に投票することもある。子供が好きで教師になり、子供と接していれば幸せで、今でも政治状況にはさほど興味がないそうだ。天皇に対しては崇拝していないまでもそこそこの親愛の情を持ち、国旗国歌にも特に反発は感じていないそうだが、それでも、式典で国旗掲揚や君が代斉唱を無理無体に強制されることなどについて「息が詰まりそう」と小さな声でぼやくのだ。

※1/ごく単純に考えて、それはまあ当然だろう。支配された者達が面従腹背状態であっては、いつ背かれるかわからない。彼らを「唯々諾々と従うことに歓びを持つ」マゾヒスト(しかもそれを自らは意識しない)に仕立て上げなければ、枕を高くして眠れないだろうから。


〈モラルを奪い返そう〉

 こういう類の――人の心を縛り、支配することに快感を覚える人間(※2)に、我々の暮らしの生殺与奪権を握らせておくわけにはいかない。そして、「正義」だの「倫理」だの「思いやり」だの、あるいは「愛」だの「願い」だのといった言葉言葉を人質にとられたままにしておくわけにはいかない。こういった本来は人間の崇高さにつながるはずの言葉が、彼らが口にするたびに何と薄汚く見えていくことか。支配のためのモラルは、もう御免だ。我々が共生するために、モラルを奪い返そう。

※2/むろん、そういう人間は石原都知事だけではない。国籍・性別・年齢・職業・社会的地位や教育程度などはむろんのこと、実のところ思想的立場や信条ともあまり関係なく存在する。奴隷を欲しがる人間にNOを言うところから始めるのだという単純なことを、私は今ゆっくりと自分の中で反芻している。

◇◇◇◇◇

 

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牡猫ムルの人生相談・5――文部科学大臣の巻

2007-03-02 23:48:00 | ムルのコーナー

 都の東北を縄張りとするノラ猫が皆さんの悩みに勝手に答える「牡猫ムルの人生相談」。某国総理憲法の話をしたい若いママ厚生労働大臣とむ丸さんちのトムちゃん――と続けてまいりました。好評、じゃなかった。悪評、ですらないな。完璧低評にもかかわらず……それはそれで気楽と開き直って、ますます勝手に続けてまいります。

 今回は某国・暴言垂れ流し内閣の若頭、じゃなかった、重鎮であらせられる文部科学大臣の悩みに答えます。

【質問】人権ばかり主張するなという意見の、何処がおかしいのでしょう。

 おほん。私は先日、自民党長与支部の大会で教育再生について話をしたのだ。その時に「権利と自由だけを振りまわしている社会はダメになる。今回の教育基本法改正の最大のポイントはそこである」と述べた。そしてわかりやすいように人権をバターにたとえてだな、「食べ過ぎれば人権メタボリック症候群になる」とも言ったのだが、この発言が問題だといって騒ぐ奴が出て来て、実のところ面食らっているのだ。

 総理も私に発言は全然問題ない、とおっしゃって、「権利には義務が付き物、自由には規律が大切ということを言っていると思う」と擁護してくださったよ。そうそう、そうなのだ。私は何も、人権を軽視しておるわけではない。非常に大切なものであることぐらい、わかっとるよ。だがね、そればっかりじゃいかんだろ。義務も果たさずに権利ばっかり主張するのは、我が儘だろ? そういう教育をせず、人権の方ばっかり教えるから馬鹿な人間が増えたのだ。人権メタボリック症候群、という言葉がいかんのかね。わかりやすいように言っただけじゃないか。揚げ足取りはせんで欲しい。

 

【回答】人権は徹底的に主張されるべきなんだぞ。

 げげ。華氏の奴、また変なの引っ張り出してきたな~。前回のとむちゃんとか、ホッとするような相手だけにしてほしいよなぁ……。

 ま、いいや。いろいろ言いたいことはあるけどさぁ。まず、揚げ足取りとしか感じないのは鈍感もいいところだとおいらは思うな。人権メタボリック症候群というのは随分さぶい珍語だと思うけど、そういうヘンテコな表現があろうとなかろうと、あんたの言ってることの根本がおかしいのッ。例の厚生労働大臣とか言う人の発言も、同じことだったけどさ。あんた達はいつも、「ちょっと言い方が不適当だったかな~」ですませてるだろ。だからいつもいつも、同じことを繰り返すんだよ。 

 そりゃさ、義務も大切だろうよ。それぐらいはさ、あんたの言葉を借りれば、おいらだってよくわかっとるよ。ただね、「人権」というのは人間の社会において最も大切なものなんじゃない? すべての人間の権利は侵されてはならないという、そこから社会はスタートし、ルールが作られていくんじゃないの? 義務というのは、みんなの人権を守るにはどうすればいいかと考えた時に、約束ごととして出てくるものじゃないの? 

 おいら猫だからよくわかんねぇけどさ、人間て、「人権」を獲得するために苦しみ抜いてきたんじゃあないの? ほんの少し前まで、多くの人間は権利なんかほとんどなかったり、権利に段階があったり、つまり不平等だったんだよね確か。そんな社会はおかしい、そうではない社会を実現したいと思って、時には血も流したんじゃないの? それが歴史の進歩発展、つーもんだろ。あんたはどうやら、今の日本は国民が自由と権利ばかり振りまわしすぎてる、と思ってるみたいだね。ほんとかよ~と目が点になるぜ。ちゃんちゃらおかしいや。そりゃま、あんたの周囲の人はそうかも知んないけどさ。基本的な人権すら脅かされている人が、全国にどれだけいると思う。ひとつだけ例を挙げると、華氏がこの前ちょっと書いていた「リハビリ難民」の人達とかさ。「自由と権利を振りまわしすぎると……」なんてセリフは、この国に住んでる人が例外なく基本的な人権を守られるようになってから言えよなー。

 義務とか規律とかいうものはさあ、嫌でも出てくんのッ。どんな国でも、どんな時代でも。昔の多くの国は……というより今でも幾つかの国は、自然発生的に出て来たものじゃなくて、おかみの都合で作られたものみたいだけどね。えらい人というか、上の方の人と言うか、何でもいいけどさ、ともかく「指示・命令する側」(だと自分で思っている)人達って、なぜか「権利」とか「自由」とかよりも、「義務」や「規律」の方が好きなんだねぇ。いや、なぜかってのはわかるよ。その方が指示・命令しやすいもん。「やるべきことをきちんとやってから、権利を主張しましょう」ということにした方が、みんな素直なイイコチャンになるもん。自由とか権利だとかって、指示・命令したい側にとってはウザイんだろうさ。まあ否定するとファシズム国家なんて非難されるから、一応、尊重する……というか、尊重してることにはしてもだよ、ほんとは大きな声で主張して欲しくないんだよな、きっと。でもそんなことハッキリ言えないからさ、じゃあどうするかというと、「義務」とか「規律」の大切さを喧伝することで、権利や義務の位置を相対的に下げていく。薄めていく、って言えばいいかな。

 だからさ、「権利と義務」「自由と規律」なんて、一緒に並べるのはほんとはおかしいとおいらは思う。まず権利があって、それを守るための義務がある。まず自由があって、他者の自由を自分の自由と同様に守るために規律――て言葉は好きじゃないな、決まり事、ぐらいの感じがいいな――が作られる。そこんとこを押さえてないと、モノゴトの発想が狂ってくると思うぜ。……って、あんたに言っても多分ダメだろうなぁ。あんたはイイコチャンの国民を作りたいんだろうから。

 そう言えばおたくは「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」とも言ったらしいね。これも驚き桃の木サンショの木みたいな発言だと思うけど、 A Tree at ease さんの「大和民族は恥の代名詞?」でも読んで、少しぐらい赤面してちょーだい。

 おいら考えるだけで頭痛くなるから、ムチャクチャ大雑把だけど今日はもう、ここまでッ(え? いつも大雑把? えへへへ)。

◇◇◇◇◇

 当ブログは戸倉多香子さんを応援しています。

  ←この主張にも賛同中。

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都知事選、浅野史郎さんを支持します

2007-03-01 23:33:08 | 東京都/都知事

 浅野史郎さん(前・宮城県知事、慶應大学教授)が、東京都知事選への出馬を「前向きに考えている」という。

 私は実を言うと、浅野さんという人物をよく知らなかった。知っていたのは厚労省(もと厚生省)出身で、宮城県知事になって……というごく簡単な履歴。後は新聞や雑誌などに掲載された文章にたまに触れたことがある、という程度だが、その発言にも特には注目してこなかった(特別な理由はない。ほかにさまざまな意味で気になる人達が多かったから、つい……というだけの話)。だから、彼が民主党の出馬要請を断った後、知人から入った「一般都民の手で都知事を誕生させよう。浅野さんに出馬要請しよう」というメールを見て慌てて少しばかり情報を集めただけである。

 つまりは付け焼き刃の情報収集しかしておらず、彼の著書もまだ読んでいないので、浅野氏に対する自分自身の見方を明確に決めるところまでは至っていない。だが浅野氏が出馬すれば――少なくとも今のところは――私は彼に投票するつもりだ。

 石原慎太郎・黒川紀章・吉田万三の三つ巴戦なら、私は躊躇なく吉田氏に投票するつもりだった。彼が提言している「都政改革プラン」を読んだが、基本的に異議はない。「区民が主人公」の区政を展開してきた吉田氏なら、都政も「都民が主人公」の路線を名実共に堅持するだろう。だから吉田氏に知事になってもらっても、むろん結構、というか大歓迎である。

 それなのに、なぜ浅野氏が出馬すれば浅野氏に投票しようと考えているのか。理由はいくつかあるが、1つは彼が「出馬するならば、政党などの推薦は受けずに」と考えているらしいこと。政党や団体の推薦に乗り、資金や労力の援助を受けて選挙をすれば、当選後にお返しをしなければいけないから――というのが彼の持論であるという。宮崎県知事選では、彼は100円カンパで運動し、当選した。

 1か月ほど前、浅野氏の『そのまんま現象を読み解く』という文章が毎日新聞に掲載された。

【(前略)現職知事逮捕で恥をかき、怒りに燃えた宮崎県民の想いは、これまでの体制への嫌悪感として凝縮した。そういった選挙では、有権者の共感は、体制に近いと思われる候補者には向かわない。県民の改革への期待は、政党、団体、業界の強力な支援を受けないで選挙を戦う東国原さんに集まった。私自身の知事選挙の経験から、「選挙のありようが、その後の知事のありようを決定づける」と信じている。しがらみのない選挙、正々堂々たる選挙を戦った東国原知事が、知事として正々堂々たる仕事ぶりにならないはずがない(後略)】

 今自分が持っているわずかな情報だけから見ても、むろん彼のものの考え方などに100%賛同しているわけではない。だが、そんなことは当たり前である。ちなみに吉田万三氏についても同様だ(先に言ったように彼の都政改革プランには原則賛成だけれども)。ある人の言うことや考えていることに1から10まで大賛成ということなど、あり得ないとは言わないが、まあめったにあることじゃあない。問題は、基本的な部分、原則的な部分がどうかだけである。

 全野党推薦の知事は1つの理想だが、政党の推薦や選挙協力を受けない、徹底した市民派無所属の知事(他の候補も全員無所属には違いないが)を選ぶことで、私達は自分達が自分達のための「公僕」を選んだのだ、と胸を張って言うことが出来る。東京革命の第一歩になりうるのではないか。 

◇◇◇◇◇

 BLOG BLUESさんの最新エントリ、「革新リストラクチャリング」で、中村敦夫著『さらば、欲望の国』が紹介されている。難しい言葉や曖昧な言葉はひとつも使わず、今の日本の何が問題なのかを明確に指摘。名著だと改めて思った。詳しくは上記エントリを。

◇◇◇◇◇

 当ブログは戸倉多香子さんを応援しています。

 

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