ある大きな「事実」を丸ごと、「なかったこと」にしてしまうのは難しい。しかし「少しずつ塗り替えていく」ことはできる。
ごく身近な日常的なことで言えば……たとえば子供の時に喧嘩して相手を突き飛ばし、ケガさせてしまったとしよう。見ていた人達は覚えているし、第一ケガさせた相手に傷跡が残ってたりして、「やった事実」を否定することは出来ない。でも「向こうが先に殴りかかってきたんだ」、「相手が勝手に足を滑らせちゃったんだ」などと細部をごまかしてしまうことは可能だし、時間が経てばさらにごまかしやすくなる。
政府が最近やっていることは、何やらそんな匂いがする。
政府は先の戦争で起きた悲劇的な出来事を、否が応でも「軍が強制したわけではない」ことにしたいらしい。先に首相が従軍慰安婦の問題に関して「強制はなかった」と発言し、次いで下村博文官房副長官も「直接的な軍の関与はなかった」とトンデモナイことをのたもうたが、今度は「太平洋戦争末期の沖縄における集団自決」についての、軍の(つまりは国の)強制を「なかったこと」にする気だ。高校の教科書に対する文部科学省の検定で、その記述が削られたり修正されたという(末尾に報道文を掲載)。
あの「戦争」自体はまさかなかったことにはできないし、集団自決についてもまだ生きた証人がいる以上「デッチアゲ」とは言えない。しかし、それを過小に扱ったり、あたかも「自由意思に基づくもの」のような印象にすり替えることはできるわけだ。
そりゃ、一人一人がいちいち、「さあ自決しろ」と言われたのではないかも知れない。大元帥の名で「自決するように」という命令が行き渡ったわけでもないだろう。しかし国民の命より国体が大事、軍の意向は絶対、という中で手榴弾を渡され、自決せざるを得ない状況に追い込まれれば、それは「強制された」こと以外の何物でもない。
軍の関与(つまり国の強制)を認めるのが、そんなに嫌なのか。過ちは潔く認め、悔い、記憶にとどめ、語り継いでいく――それをしない限り、個人にせよ集団にせよ未来を築いていくことは出来ないのに。
すでにオギノフさん、とむ丸さん、お玉さんらがこの問題で記事を書いておられる(書こうと思って開いたらTBが入っていた)。ほかにも多くの方が、怒って……と言うよりも、ゾッとしておられると思う。ほんと、うっかりしていると、何処に連れて行かれるのか……。
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【文部科学省は30日、主に高校2年生以上が来春から使用する教科書の検定結果を発表した。日本史で、太平洋戦争末期の沖縄戦の際、日本軍による強制で住民が集団自決したとする記述すべてに初めて検定意見が付き、各教科書会社は「日本軍により」という部分を削ったり、「自決した住民もいた」という表現などに修正したりした。理科や数学では、学習指導要領の範囲を超える「発展的内容」が倍増した。沖縄戦の集団自決を扱ったのは6社8点。うち5社7点に「実態について誤解するおそれのある表現」と意見が付き、「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)などに改められた。2005年度(主に高校1年生対象)は申請段階から今回意見が付けられたような記述がなかったが、04年度は「日本軍に…『集団自決』を強制されたりした」と記述した中学の歴史教科書が合格している。文科省は「以前から(命令や強制はなかったとする)反対説との間で争いがあり、軍の命令があったと断定するのは不適切で、今回から意見を付けた」と説明している。】(3月30日、時事通信配信)
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