華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

都民税、返せ~

2007-11-02 23:37:28 | 東京都/都知事

 首都圏在住・在勤で都営地下鉄に乗る機会のある方は、当然御存知のはず――都営地下鉄の中吊り広告のなかに、最近、「オリンピック招致」のポスターが目立つ。私は都営バスにはあまり乗る機会がないのだが、どうやらそちらにも掲示されているようだ。「オリンピックを東京に!」と、うるさいことこの上なし。

 オリンピックというイベント自体には、別に恨みも何もない。個人的には好きではない(注※)。ただし好きな人がいることは認めるし、そういう人は大いに楽しんでいただいて結構です、文句はないです、というのが私の基本的なスタンスだ。

(注※前にも書いた気がする。各国の国旗がはためき、国歌が流れる図というのが感覚的にどうしても受け入れられないのである。私は日の丸・君が代だけでなく、すべての国旗・国歌なるものが大の苦手なのだ)

 ただ、何と言うのかね……スポーツの祭典、世界的なお祭りというのであれば、何処で開催されたっていいじゃんと私はどうしても思ってしまう。招致の競争なんぞ、聞いただけでウンザリである。われらが都知事はオリンピック招致が夢であるそうだが、都民全員がその夢を共有していると思われては困る。そもそもスポーツを含めた文化というものは、国家だの何だのとは別の次元で息づいているはずのものだろうに。

【9月14日、国際オリンピック委員会(IOC)が2016年オリンピックの申請都市を発表しました。東京のほか、バクー(アゼルバイジャン)、シカゴ(アメリカ)、ドーハ(カタール)、マドリード(スペイン)、プラハ(チェコ)、リオデジャネイロ(ブラジル)の計7都市。東京は有力な候補とみられていますが、勝利のためには都民のみなさんの支持が不可欠です。熱いご声援をよろしくお願いします。】(東京都広報紙より)

 オリンピックの開催地が何処になるのか、なんていう話が、なんで「勝ち負け」の問題になるのかね。私にはわからない。一生、わからないだろう。そして、これが「わからない」ことを私は恥だとはどうしても思えない。

 東京都には、「オリンピック招致本部」などというものが作られている。当然、予算もつく(細かいことは今わからないけれども、ポスターの費用などもその本部から出たのだろう)。ちょっと待てよ、というのが都民のひとりである私の素朴な気分だ。

 あのポスターの紙代も印刷費もデザイナーに支払った費用も、みんな都民税でまかなわれているんだよね? オリンピック招致のためということで都内各地でやたらにフォーラムとやらがおこなわれているけれども、その費用も都民税から出てるんだよね? 私はしがない自由業者だからスズメの涙程度の税金しか払っていないが、それでも払っていることは確かだ。その使い途に、ひとこと言う権利はあるはずだ。

 だから、言う。「そんなものに使ってくれとは言ってなーい!! 税金、返せ!!」

 都営地下鉄に乗るたびに、ため息が出る……。

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都知事解職請求へ

2007-04-08 23:41:18 | 東京都/都知事

みんななかよく」さんではありませんが……すみません、私は都民です……。都民やめたいと何度も思いつつ、引っ越すカイショがなくていまだに都民。

 石原都知事、早々に当確――仕事しながら横目でちらっとテレビを観ると、「世論調査によると、(支持・不支持にかかわらず)都民の75%は政策の見直しをしてほしいと考えていますが」という質問に対し、「いったいどこを見直せと言っているわけですか」ふうのあいかわらず高飛車な答え方をしていた。

 都民のひとりとして、あの御仁にこの先まだ4年も知事の椅子に座っていただくのは耐え難い。私は多くの間違いをやってきたかも知れない。ただ、「石原を都知事の座に居座らせ続けるのは都民の恥」という思いだけはホンモノだったし、その思いはむろん今も消えていない。

 Rolling Beanさんが、「すぐにできることがある、そう考えるしかない」という記事を書いておられた。その中で提案されているのが、次の3つの事項。

(1)十分に満たしているリコールへの要件(←都政として)を踏まえた行動に向けて動く、すぐに。 (2)この高すぎる授業料から参院選でのアクションを考えたい。 (3)ネット界の連携による都政オンブズマンを発足させたい。

 私も、少しずつ、少しずつ……ではあっても、本腰を入れて「解職請求」へ向けて歩き始めたいと思う。石原都知事を、いや、すべての「石原なるもの」を倒すまで「ぺちゃんこにされてもへこたれないぞ」(発作的にヘントフの本の題、パクってしまった……)。

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都知事選まであと24時間余

2007-04-06 23:39:06 | 東京都/都知事

 らんきーブログさんが、いみじくも書いておられた。 「『うるさい、黙ってろ!』扱いの都民でいいのですか?」と。「我こそは」意識を漲らせ、気にくわない存在を力でねじ伏せようとする姿勢の持ち主に、これ以上東京を牛耳らせるのは都民のひとりとして耐え難い。その意思表示をする日、4日8日まであと24時間と少し。

 はじめの一歩さんのブログから、既に多くの方(とくらさんとむ丸さんnizanさん、その他)が「東京都知事選から全国の政治を変える!」という記事を転載しておられる。御覧になった方が多いと思うが、1人でも多くの目に触れることを願って、私も前半部分だけだが転載させていただく(全文は上記いずれかのブログを参照)。

◇◇◇◇以下、転載◇◇◇◇

 東京の都知事選の投票が8日にせまっています。

 2期におよんだ高齢の石原知事による都政をこの機会に転換させるべく、皆様にこの記事の転送、ブログ転載をお願いしたいのです。落選運動です。

 石原知事の都政は、ディーゼル車規制や国への対決姿勢などプラスに見える部分もあるものの、あくまでそれは例外。人権無視で好戦的、福祉の著しい後退、そしてその一方で税金の私物化など、筆舌に尽くしがたいひどいものでした。

 銀座に戦車を走らせたことに象徴される彼の都政は、市民社会に必要な、異なる考え・価値観の者が「共生できる寛容」を失わせる「強制による一様性」の政治です。「君が代を歌わない者も存在できる多様性」を処分によって否定する彼の教育行政がその頂点です。これには天皇も苦言を呈する(園遊会)ほどですが、拍車がかかるばかりで見直される気配はありません。

 こうした政治のもとで、障がい者やセクシャル・マイノリティ、在日外国人などのマイノリティはその生を否定され、苦渋にみちた人生を強いられています。人間の尊厳を否定する政治、それが石原都政です。

 また、マイノリティだけでなくマジョリティにも悪政が及んでいます。福祉・保健医療の後退は著しく、保健所につづいて、都立病院も半減させられようとしています。性教育の抑圧により、HIV感染はおそろしい勢いで広がっています。

 さらに困ったことは、こうした悪政が全国へ、そして国政へと影響を及ぼしていることです。

 石原知事は、この3年間でもっとも多く税金による高額接待をした相手である佐々淳行氏を選対本部長に据えました。納税者をなめきっているのです。

 しかし、私たちには希望があります。

◇◇◇◇以下略、転載終わり◇◇◇◇

 とくらさんがブログで掲げておられる言葉を真似れば、「まだ間に合うかも知れない」。やればできる、決して無力ではないということを実感したい。

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「庶民も立ち上がるぞ!勝手連」に参加しています

2007-03-25 23:25:25 | 東京都/都知事

庶民も立ち上がるぞ!勝手連」ができた。何の勝手連かって? はい、都知事選で浅野さんを応援しよう、という勝手連なのです。提案者は「右も左もない、おれは下や」と叫ぶ喜八さん。上記ブログも彼に作っていただいた。バナー制作は「らんきーブログ」のぶいっちゃん。ありがとうございます。

 私は(こんなこと言うと勝手連のメンバーに石投げられそうだが……笑)浅野さんという人を最高の都知事候補と思っているわけではない。実のところ、マニフェストや彼のサイト「夢らいん」に掲載された過去の発言(新聞等に書いた文章やインタビュー記事など)を詳細に読むと、「うーん、ちょっと違う」と思うところも多々ある(かなり違う、と感じるものもある)。たとえば私は国旗国歌に(日の丸・君が代だけではない。地球上のすべての、国旗国歌なるものに)嫌悪しか持てない人間だが、彼は「個人的には好き」であるらしい。うう……(ただ、彼は強制すべきではないと言っているので、現時点ではまあいいかと思う)。また、障害者自立支援法を評価していた点もかなり「?」であったりする(もっとも彼は、地域の中で普通の生活を送れるような社会を築くべきという立場でモノを言っており、同法をその流れを作り上げるためのものと位置づけていたのだが)。いずれにせよ、いわゆる「左」でないことは確かである。ネット上で、浅野さんに対する厳しい批判があることも重々承知している。

 でもそれを充分わかった上で、「たとえ半歩ずつでも前進したい」という切実な思いから私は浅野さんを応援する。国旗国歌を強制しないという1点だけとりあげても、ほんとに息が楽になる。

 この社会を、東京を一変させたいのはやまやまだけれども、現状ではそれは難しい。それならば「マシ」なものを選び続け、今日より明日、明日よりも明後日……と、亀の歩みのように理想へ向けて歩いていきたい。そしていつの日にか、夢見た社会が実現すると信じたい。

 東京は雨漏りはするわ、床が腐ってしょちゅう踏み抜くわという、ボロボロの建物だ。そのくせ外観だけはケバかったりして。可能であれば設計図引き直して建て直したい。でも、いきなりそこまでするのは腰が引けるという人も多いはず。だから、とりあえずはケバい塗装落としたり、雨漏りをふさいだりしてみるのがいい。ぶっちゃけた話、私は浅野さんが「東京を一変させて」くれそうな人ではなく、「半歩進めて」くれそうな人だから応援するのである。「自分はどちらかというと自民党に近いんだけど……でも、さすがに石原はヤだ)」という人の一票、nizanさん言われるところの「穏健保守」の一票も期待できそうな人だから、応援するのだ。

◇◇◇◇◇

 思想信条も感覚も、細かく見ていけば随分違う人間達が、それぞれの思惑で勝手に応援する――結構じゃないか。少なくとも、「自分達が都庁に送った公僕」という実感を持てる。「違うだろ」というところが見えれば、すぐさまブーイングし、場合によっては解職請求運動を起こそうかという気にもなる。浅野さんでは「限界」があると思う。それは確かなのだが、別に10年も20年も知事をやってもらおう、というわけではなし。

 政治家というのは公僕、我々のために雇う人たち。独裁者になったかのような勘違いをして「オレについて来い」意識を漲らせたり、トンデモ発言を繰り返したりすることなく、庶民の生活が息苦しくないように気を配り、真面目に働いてくれさえすればいい。どんな仕事をするかを指示し、「働かせ」るのは、主権者である私達である。

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首長の条件

2007-03-05 23:25:07 | 東京都/都知事

◇◇◇首長は雇われマネージャーである

 当たり前のことだが、首長というのは「王様」でも「皇帝」でもない。つまり絶対的な権限を持つ独裁者ではない。単なる「右、代表」――と言うか、ともかくそういう存在にしか過ぎない。クラス委員長か生徒会長か、マンション管理組合長みたいなものだ。雇われママ、雇われマネージャーのような存在、と解釈してもいいかも知れない(雇っているのは無論その集団の人間すべて)。首相であろうと知事であろうと区市町村長であろうと、同じことだと私は思う。だから、自分が特別な存在だとか住民を支配しているなどと思ってもらっては困るし、自分の個人的な思想信条で突っ走ってもらっては困る。住民が「こんな首長でスミマセン」と小さくならねばならない首長も、もちろん困る。

 国でも地方自治体でも、議決機関は「議会」である。首長は執行機関の「長」として、事務全般を統括するのが主な仕事だ。住民が等しく「健康で文化的な生活」を送れるように仕事をする――いや、具体的な仕事するのは公務員の人達の役目なので、彼らが働きやすいように目配りするのが基本的な役割、と言ってもいい。

 私が考えている「首長の条件」は、次のようなものだ。

1)自分が選ばれた人間であるとか、特別な権限を持っているなどとは、夢にも思わないこと。また、持ちたいなどとも絶対思わないこと。

2)自分は絶対に正しいのだという妙な自信や信念を持たないこと。

3)「力」の信奉者ではないこと。また、常に下から目線でものを見ることができること(常に、というのはなかなか難しいかも知れない。少なくとも、そういう目線の重要さを知っていること)。

4)人種、職業、性別、学歴、年齢、その他いかなることでも人間を差別しないこと。

5)他者に対する支配欲、特に「心」を縛ろうという欲求を持たないこと。

6)憲法99条(天皇・摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、憲法を尊重し擁護する義務があるという条項)を遵守すること。

 ほかにも挙げていけばいろいろあるけれども、これがいわば「最低条件」だと言ってよい。

◇◇◇議会の重要性

 以上の条件さえ備えていれば誰でもいい――などとは言わない。むろん、具体的にどんな主張や政策を持ち、何を優先課題にしているかは非常に大切であると思う。だが先に書いたように、国でも地方自治体でも、予算その他の決議をおこなうのは議会である。

 首相がどれほど改憲主義でも、知事がどれほどマッチズモ人間でも、市長がどれほど差別意識が強くても、首長を支持する政党(や会派)が議会で多数をとっていなければ、そう勝手な突っ走りはできない。議会には首長の不信任を決議する権利もあるのだから(もっとも、首長のほうは議会を解散する権利があるが)。一昨年の秋以来の坂を転がり落ちるような情勢(教育基本法改定など)は、与党がギョッとするほど多数派になったから生まれたのだ。

 首長選びは重要だが、同時に議員選びの重要性も忘れちゃいけないなと――これは実は、nizanさんの「都知事選や地方議会についての雑感」を読んで改めて思ったことである。国会でも地方議会でも、今の日本の方向にストップをかける議員を増やしたい(そういえば私の住んでいる区でも4月に議会選挙がある)。

◇◇◇解職請求できなかった……

 首長の不信任決議で思い出したが、住民にも首長の解職を求める権利がある。 東京都の場合で言えば、有権者の3分の1以上の署名があれぱ直接請求でき、住民投票の結果、賛成過半数なら知事は解職されるのだ。ふと思い出したが、石原都知事が誕生して少し後、解職を求める運動をしようという声があった(私も片隅で賛同したのだけれども)。だが、とてものこと、有権者の3分の1という数の署名を集めることができなかったのだ。その意味で、都民は本当に現都知事を忌避しているのかと問い詰められると頬が引きつる。都民は、いや、私は何をしていたのだろう。

◇◇◇◇◇◇◇

 (民主党支持ではありませんが)戸倉多香子さんを応援しています。

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都知事と戸塚ヨットスクール(再掲)

2007-03-03 23:24:05 | 東京都/都知事

 喜八さんから「『戸塚ヨットスクールを支援する会』会長 石原慎太郎」というエントリのTBをいただいた。随分前だが私も戸塚ヨットスクールと都知事殿の話を書いたことがあるので、再掲しておこうと思う。(いつだったっけ、と記事一覧を探したら、何と去年の5月だった……その時のタイトルは「続・上からモラルのうさんくささ」)

◇◇以下、再掲◇◇

〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・1〉

 前回のエントリで都知事が提唱する「心の東京革命」などに触れて「心の支配」への恐れを書いたところ、布引洋さんから次のようなコメントをいただいた。

【最近戸塚ヨットスクールの戸塚が刑務所から出所しました。彼の後援会会長が石原慎太郎です。戸塚のやった事は、石原慎太郎の教育方針を先取りした理想の教育です。戸塚宏によると、教育とは子供に恐怖を与えることだそうです。恐怖によって生徒の自主性を引き出すのだそうです。石原慎太郎が三選を考えているのは、都立学校を全部戸塚スクール風にしたいからです】(引用了)

 ここで簡単に「戸塚ヨットスクール」についてまとめておく。同スクールは家庭内暴力、不登校などの子供達を集団生活とヨット訓練によって「矯正、治療する」(スクール側の表現)ということで設立され、教育方針はいわゆる「スパルタ式」、というより「軍隊式」。規律に違反すれば過酷な体罰が加えられた。その結果として同スクールでは2名の行方不明者(合宿の帰路、海に飛び込んだ)と3名の死亡者が出、1983年に戸塚校長らが逮捕された。直接の逮捕容疑は当時13歳の訓練生をヨット上で角材などで殴り、死に至らしめたこと(傷害致死)。1審判決は執行猶予つきで、検察・弁護側ともに控訴。2審では執行猶予なしの実刑判決が下された。弁護側はそれを不服として最高裁に上告したが2002年に棄却され、全員の有罪が確定した。

 石原慎太郎はもともと戸塚宏の「畏友」だったそうで、1987年には「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長にも就任している。むろん今も同スクールの方針に全面的な賛意を表明しており、4月3日付産経新聞紙上で、次のようなエールを送った。

【生徒の死亡事故の責任を問われ服役していた戸塚宏氏がこの四月に刑期を終えて出所してくる。戸塚氏は服役中保釈を申請することなく、あくまで刑期を満了した上で悪びれることなく以前と全く同じ所信で、歪んでしまった子供たちの救済再生のためのヨットスクールを再開運営していくつもりでいるという。
(中略) 
 畏友戸塚宏の社会復帰は子供たちに関する今日の風潮の是正に必ずや強く確かな指針を啓示してくれるものと思っている。我々は我々の責任で、人間としての絶対必要条件である我慢について今こそ教え強いなくてはならぬ。失われつつある子供たちの数は戸塚氏を襲った事件の時よりもはるかに増えているのだ】(連載エッセイ『日本よ』)


〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・2〉

 どんなに言葉を飾ろうと、戸塚ヨットスクールでおこなわれたことは「リンチ」である。「1銭5厘(徴兵通知の郵送料)」で軍隊に引っ張られた経験を持つ高齢者達の体験を聞くと理不尽な暴力沙汰の話がよく出てくるが、それと同様のサディスティックな行為に過ぎない。号令かけられるままの一糸乱れぬ行動を要求し、日常の細部に至るまで規則づくめで縛り、違反したり間違えたりした場合は容赦なく殴り倒す。戸塚ヨットスクールを擁護する人達は「多くの少年達が立派に立ち直った」と言うが、それは立ち直った?のではあるまい。ものを考えるいとまも与えられず、感性は鈍磨させられ、否応なく飼い慣らされていったのだと私は思う。

 それに共感する石原都知事は、間違いなく「他者に対する暴力的な支配」を是とする立場にある。それも単に「オレの言うことに従え」ではなく、「心からオレ(の考え方)の前に跪け」であろう。支配する者は常に「心まで縛ろう」という方向にいくのだが(※1)、その行き方の速度や激烈さには当然、差がある。石原都知事はかなり極端な方で、普通の感覚ではほとんど信じられないほどに牙を剥き出しにしてくる。

 君が代・日の丸に代表される「国を守る気概」の押しつけはそのひとつ。私は何人か小・中・高校教師の知人がいるが、そのひとりは久しぶりに会った時に、「石原都知事になって以来、息が詰まりそうだ」とぼやいた。ちなみにこの知人は、いわゆる左翼でも何でもない。日教組にも所属しておらず、いわゆる無党派層で時には自民党に投票することもある。子供が好きで教師になり、子供と接していれば幸せで、今でも政治状況にはさほど興味がないそうだ。天皇に対しては崇拝していないまでもそこそこの親愛の情を持ち、国旗国歌にも特に反発は感じていないそうだが、それでも、式典で国旗掲揚や君が代斉唱を無理無体に強制されることなどについて「息が詰まりそう」と小さな声でぼやくのだ。

※1/ごく単純に考えて、それはまあ当然だろう。支配された者達が面従腹背状態であっては、いつ背かれるかわからない。彼らを「唯々諾々と従うことに歓びを持つ」マゾヒスト(しかもそれを自らは意識しない)に仕立て上げなければ、枕を高くして眠れないだろうから。


〈モラルを奪い返そう〉

 こういう類の――人の心を縛り、支配することに快感を覚える人間(※2)に、我々の暮らしの生殺与奪権を握らせておくわけにはいかない。そして、「正義」だの「倫理」だの「思いやり」だの、あるいは「愛」だの「願い」だのといった言葉言葉を人質にとられたままにしておくわけにはいかない。こういった本来は人間の崇高さにつながるはずの言葉が、彼らが口にするたびに何と薄汚く見えていくことか。支配のためのモラルは、もう御免だ。我々が共生するために、モラルを奪い返そう。

※2/むろん、そういう人間は石原都知事だけではない。国籍・性別・年齢・職業・社会的地位や教育程度などはむろんのこと、実のところ思想的立場や信条ともあまり関係なく存在する。奴隷を欲しがる人間にNOを言うところから始めるのだという単純なことを、私は今ゆっくりと自分の中で反芻している。

◇◇◇◇◇

 

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都知事選、浅野史郎さんを支持します

2007-03-01 23:33:08 | 東京都/都知事

 浅野史郎さん(前・宮城県知事、慶應大学教授)が、東京都知事選への出馬を「前向きに考えている」という。

 私は実を言うと、浅野さんという人物をよく知らなかった。知っていたのは厚労省(もと厚生省)出身で、宮城県知事になって……というごく簡単な履歴。後は新聞や雑誌などに掲載された文章にたまに触れたことがある、という程度だが、その発言にも特には注目してこなかった(特別な理由はない。ほかにさまざまな意味で気になる人達が多かったから、つい……というだけの話)。だから、彼が民主党の出馬要請を断った後、知人から入った「一般都民の手で都知事を誕生させよう。浅野さんに出馬要請しよう」というメールを見て慌てて少しばかり情報を集めただけである。

 つまりは付け焼き刃の情報収集しかしておらず、彼の著書もまだ読んでいないので、浅野氏に対する自分自身の見方を明確に決めるところまでは至っていない。だが浅野氏が出馬すれば――少なくとも今のところは――私は彼に投票するつもりだ。

 石原慎太郎・黒川紀章・吉田万三の三つ巴戦なら、私は躊躇なく吉田氏に投票するつもりだった。彼が提言している「都政改革プラン」を読んだが、基本的に異議はない。「区民が主人公」の区政を展開してきた吉田氏なら、都政も「都民が主人公」の路線を名実共に堅持するだろう。だから吉田氏に知事になってもらっても、むろん結構、というか大歓迎である。

 それなのに、なぜ浅野氏が出馬すれば浅野氏に投票しようと考えているのか。理由はいくつかあるが、1つは彼が「出馬するならば、政党などの推薦は受けずに」と考えているらしいこと。政党や団体の推薦に乗り、資金や労力の援助を受けて選挙をすれば、当選後にお返しをしなければいけないから――というのが彼の持論であるという。宮崎県知事選では、彼は100円カンパで運動し、当選した。

 1か月ほど前、浅野氏の『そのまんま現象を読み解く』という文章が毎日新聞に掲載された。

【(前略)現職知事逮捕で恥をかき、怒りに燃えた宮崎県民の想いは、これまでの体制への嫌悪感として凝縮した。そういった選挙では、有権者の共感は、体制に近いと思われる候補者には向かわない。県民の改革への期待は、政党、団体、業界の強力な支援を受けないで選挙を戦う東国原さんに集まった。私自身の知事選挙の経験から、「選挙のありようが、その後の知事のありようを決定づける」と信じている。しがらみのない選挙、正々堂々たる選挙を戦った東国原知事が、知事として正々堂々たる仕事ぶりにならないはずがない(後略)】

 今自分が持っているわずかな情報だけから見ても、むろん彼のものの考え方などに100%賛同しているわけではない。だが、そんなことは当たり前である。ちなみに吉田万三氏についても同様だ(先に言ったように彼の都政改革プランには原則賛成だけれども)。ある人の言うことや考えていることに1から10まで大賛成ということなど、あり得ないとは言わないが、まあめったにあることじゃあない。問題は、基本的な部分、原則的な部分がどうかだけである。

 全野党推薦の知事は1つの理想だが、政党の推薦や選挙協力を受けない、徹底した市民派無所属の知事(他の候補も全員無所属には違いないが)を選ぶことで、私達は自分達が自分達のための「公僕」を選んだのだ、と胸を張って言うことが出来る。東京革命の第一歩になりうるのではないか。 

◇◇◇◇◇

 BLOG BLUESさんの最新エントリ、「革新リストラクチャリング」で、中村敦夫著『さらば、欲望の国』が紹介されている。難しい言葉や曖昧な言葉はひとつも使わず、今の日本の何が問題なのかを明確に指摘。名著だと改めて思った。詳しくは上記エントリを。

◇◇◇◇◇

 当ブログは戸倉多香子さんを応援しています。

 

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都民はツライよ

2007-02-22 23:59:48 | 東京都/都知事

 建築家の黒川紀章氏が、都知事選に出馬表明した。それに関して、私の周囲でも困惑が広がっている。知人の間では「石原以外なら、もう誰でもいい」と叫ぶ声もあったのだが、それにしても黒川紀章とは……。

 東京オリンピックの誘致を中止するというのは結構なことだし、無給で勤めるというのも(ほんとに可能かどうかは別として)まあ結構なことである。だが、彼は「石原都政の良かった点は継承する」と言っている。元来が右寄り……というか、現都知事と同じくマッチズモ的な面(※)のある人だから、「石原都政の基本的な考え方は間違っていない」ということだろう。

(※ここでは、力を信奉し、権威を重んじるという程度の意味で使っている)

 以前、小泉前首相の後継者がどうこうという話が出ていた時、続けて「どちらがマシかの話ではない」、 「『よりマシ』はない」という記事を書いたことがある。その時の気持ちを、私は自分の中で改めて噛みしめている。(ついでだから、このエントリの後ろにその時の記事の一部を再掲しておく)

 ……と言いながら、「石原三選を阻止するためなら、とりあえず黒川紀章という選択もありなのかなあ」とフラフラしそうになる自分もあって、情けないやら悔しいやら。都民の一人として、よほどイシハラ後遺症がひどいらしい。

 dr.stoneflyさんには、昨日のエントリに対するコメントの中で「究極の選択を強いられそうですね」と同情されるし……。「保・保対決の都知事選」なんて、シャレにもならない。石原都知事が三選を目指すなら自分も出馬する――ということなので、都知事が出馬を止め、それによって黒川氏も止めるというのが最も望ましい形なのだが……。いっそ「東京には知事はいりません」という選択は……む、無理か。

 前門の虎、後門の狼。ほんともう、都民は辛いよ。

 

◇◇◇6月20日のエントリから一部再掲◇◇◇

 我々はしばしば、「どれも嬉しくないもの」を複数示されて、「どちらが(あるいはどれが)マシか」という選択をさせられる。たとえば空腹で目の回りそうな時に、3日前に賞味期限の切れたシャケ弁当とカビのはえかけたパンを出されて、「好きな方を食べていいよ」と言われるとか。私の仕事に引きつけて言えば、財布が空っぽで何でもいいから稼がなければと焦っている時に「政治家のチョウチン記事と、タレントさんの講演草稿作りの仕事があるけど、どっちか好きな方やらない?」と声かけられるとか……。

 そういった場合、いやいやながらマシそうなものを選んでしまうことが多いのだけれども、よく考えれば示された中から選ばねばならないわけではない。選ばせる方は賢く、それ意外に選択肢は皆無のように思わせてくるが、ナニ、そんなのは真っ赤な嘘である。むろん状況によっては切羽詰まって選ばねばならぬ場合もある。「シャケ弁とパン」ぐらいならば(私の場合は)腹を下すことを覚悟の上でどちらか食べるだろうが、多くの人は「チョウチン記事書いたり、自分の思想信条に抵触する講演草稿作るぐらいならば、ほかにバイト探す!」と言うのではないか。私も言う……というより、言いたいと思っている。実のところ、食うために「何だこりゃ」みたいなゴースト・ライター、スピーチ・ライターの仕事もしてきたので偉そうなことを言う資格はないのだが、ギリギリの線だけは(ほんとにギリギリの線、ですがね)何とか守ってきた……と思う。

「どちらがマシか」という発想に希望があるかのように見せてきたのが、民主党の(例の前原・前代表がぶちあげたところの)「対案路線」。いや、私は別に民主党に恨みがあるわけではなく、今の世の中の流れに少しでも歯止めをかけるために頑張ってもらいたいとそれなりの期待もしているのであるが、何でも対案を出せばいいという姿勢はいただけない。たとえば共謀罪、たとえば憲法改定国民投票法案、たとえば教育基本法改正案。はっきり言って、「今からおまえを殺す」と言われ、「じわじわ砒素を飲まされるのと、すぐにギロチンで首斬られるのとどっちがいい?」あるいは「なぶり殺しに遭うのと一瞬で殺されるのとどっちがいい?」と聞かれているようなものだ。

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ああ、似たもの同士――都知事、厚労相を擁護

2007-02-03 23:47:10 | 東京都/都知事

〈石原知事、記者会見で厚労相を擁護〉

 女性を産む機械・装置にたとえた柳沢厚労相。先日来、非難ゴウゴウといった感じで、私の周囲でも老若男女を問わず、ついでに言うと政治的立場もさほど関係なく、「不愉快だ」という声が聞こえ続けている。私も「安倍政権の正体見たり」、「オス猫ムルの人生相談・3」と2回続けて取り上げてしまった。

 いくら何でもレベルが低すぎると言うことか、さすがに「立派な表現であった。何の問題もない」と擁護する声は――少なくとも私の知る限りはまだない。ただ、「ちょっと表現がまずかっただけ」という見方は結構あり、たとえば経団連の御手洗冨士夫会長も「わかりやすく言おうとして、不用意な発言になってしまっただけ。すぐ陳謝、訂正したのだからいいじゃないか」という意味のことを言っていた。ご本人も、首相も、本気でそう思っているのだろう。ちょっと言い方が悪かっただけじゃんか、ガタガタ文句言うなよ、うるせえなぁ、と。

 そんな折も折――出ました、出ました。やっぱりと言うか何というか、石原都知事の「厚労相擁護発言」。

 東京都では毎週金曜日に、知事の定例記者会見がおこなわれる。私はメジャーなメディアの人間ではないからむろん出席できないが、知事が何を言い、記者が何を質問したかを知るためにいつもこのやりとりをチェックする習慣があるのだが(ちなみに毎回の会見は都庁HP内の「知事記者会見」のページで再現されている)、つい昨日、2月2日の会見で厚労相の発言について「騒ぐような問題ではない」と言わんばかりの見方を披瀝したのだ。

【前後の文章を読むと、話しながら「ごめんなさい」とか言っている。たとえの仕方が悪かっただけ】【男には子供を産む能力がないから、女性が結婚されたら、お子さんをたくさん産んでほしいという要望を、ちょっと短絡的に言い過ぎたんじゃないか】

 おお、似たもの同士!! 類は友を呼ぶ。(都知事殿、あなたもいやしくも作家を名乗るなら、もう少し言葉をいうものをその意味と共に大事にしてほしいもんです)

「男には子供を産む能力がないから」って、都知事殿は「子供を産むこと」はヒトゴトだと思っているらしい。マリアさんじゃあるまいし、女性が一人で産めるものじゃないと思いますがね。

「女性が結婚されたら」ってのも、何度聞いても変である。結婚した女性もしくは夫婦は子供を産むのが当然であると思い、さらには子供は結婚制度の下で産むべきだと思っているらしい。  

〈世も末、というのはこのことだ〉

 luxemburgさんが、いみじくもこう書かれた。「毒の果実は毒樹に実る」。このエントリでも取り上げられていたが、都知事は以前、「生殖能力を失ったババアが生きているというのは有害なだけ」という暴言を吐いたことがある。そんなババアを養うのは社会のムダ、早く死ね、というニュアンスだった。こんなおそるべきことを言う奴がのうのうと知事の椅子に座り続けているというだけでも驚き桃の木サンショの木(おまえも都民だろって? すみません、ヒトゴトみたいに言ってしまって。石原三選阻止!)。ところで、生殖能力を失ったジジイはよいのでしょうかね。精子は一応、死ぬまで在るからいいって? あ、そう。勝手に言ってな。

 ……それはそれとして。(何か、こういう連中の言葉にまともに反応していると、こっちまで言葉が汚くなってくるような気がする。流れに嗽ぎたい~。石に嗽いでもいいけど)

 まったくもう、「わかっていない」人間が多すぎる。言葉の問題じゃないって、何度言ったらわかるんだい(だんだんムルにも似てきた)。日本ももう、ほんと終わりかも。愛国心のない私でさえ、かなり心配になる。「反日」であるらしい私にまで(笑)心配させんといてくれ。

 この問題はジェンダー・フリーがどうのこうの、男女参画社会がどうのこうの、というだけの問題ではない。根っこのところで人間の自由と尊厳を軽視している政治家たち、個々の人間よりも「国」が大切だと思っている政治家たちの、その一人がポロッと本音を漏らしたのである。国民は「それこそ烈火の如く」怒るべきだ。こういう連中すべてを、私たちは否定し、(公僕という立場から)引きずりおろさねばならない。  

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都知事殿、もうこれ以上アナタに東京の舵取りはさせない

2006-12-10 23:39:30 | 東京都/都知事

〈あーあ、やはり三選出馬……〉

 石原慎太郎都知事が、7日の都議会本会議で三選への出馬を正式表明した。彼の三選出馬は数か月前からほとんど既定事実のようなもので、私は「出馬への意欲」の報道に接したときウンザリして、立て続けに記事を書いた。

注/「上からモラルのうさんくささ――都知事殿、三選に意欲など出さないでくだされ」と、「続・上からモラルのうさんくささ」)。

 その後も(前もだが)都民のひとりとしてなぜ石原都知事を拒否するか、容認できないかを発作的・間歇的に書きなぐり、とくらさんお玉さん が都知事の問題について書かれるさい、「華氏が怒る」などと(多分好意的に……と思ってますが……違うかな。笑)からかわれる始末。 nizanさん には「あなたの大好きな人について書きました」とご案内いただき、○○かな、△△かなと喜んで尻尾振って覗きに行ったら石原バナシだったのでズッコケたことも……(記事はおもしろかったです。ちなみに、11月30日のエントリ)。nizanさん、今度はホントに私の好きな人について書いてください。

 だから何と言うか、今さら驚きはしないけれども……でもやはり、「目の前に納豆があって絶対に食べなきゃいけないとわかっている」のと「実際に食べる」のは違う(私は納豆嫌いである)。目の前に突きつけられただけならば、突発的なことが起きて食べずにすむこともあるかも知れないし、ギリギリで逃れる算段も可能かも知れないのだから。やはりか、悪い冗談ではなかったのだな……あ~あ、と脱力するような、同時に腹が煮えくりかえるような感覚に襲われた。

〈石原都知事の見識のなさ〉

 同じ本会議で、知事は高額の海外出張や四男の都事業への関与問題について野党から追及された。毎日新聞の記事によると、会議後に知事は「共産党がネガティブキャンペーンをやって、世間は面白がってね。逮捕された福島県とかの知事と、何か一蓮托生(いちれんたくしょう)になっちゃうのは非常に不本意」と言ったそうだ。「よくないことをした」意識はむろんのこと、「ちょっとやりすぎたかも知れない」程度の気持ちも、この方にはないらしい。彼の辞書には「忸怩たる思い」という言葉はないのだろう。

 ちょうど出馬表明のあった日の夜から3日に分けて辺見庸講演会のメモを書いたが、講演を思い出しつつ書いていく中で、「恥」ということを考え続けた。辺見氏は恥というものを「この国では言葉としては残っているが、既に実態は失われた」と語っていた。……恥が失われていることの典型を、私はこの知事の言動に見る。

「うちの息子は立派な絵描きですよ。違法性があるなら指摘してもらいたい」と知事は怒るが、こんなものは法律以前の話。万が一、彼の四男が一流の芸術家であったとしても、「父親のコネで仕事をもらった」と言われるようなことはすべきではないし、させるべきでもない(一流の芸術家であるなら、わざわざ父親がらみの所で仕事しなくても、よそでいくらでもできるだろう)。

 この手の話は、一般企業でもよくあることは、ある。オメカケさんが経営するレストランだかクラブだかを社員達に接待や忘年会に時に使わせていた、なんていう心臓に毛の生えた社長もいたり。これだって、別に違法ではない。その社長さんに言わせれば、「あそこは安くて旨い。いろいろ便宜もはかってくれるからよいのだ」という理屈になったりするのかも知れないが……社員は釈然としない、と思いますね。

 だが――いっぽうで、(かなり前のことだが)こんな話も聞いた。地方の中規模企業の話だが、その会社でパンフレットだかPR誌だかを作ることになったとき、重役達は文章を社長の甥御さんに頼んではどうかと言い出した。社長の甥はフリーのコピー・ライター(広告宣伝関係の文章を書く職業)だったのである。重役達は要するに社長にゴマをすったのだろうが、社長はそれを即座に却下した。理由はふたつあり、ひとつは「自分の身内が参画すれば、(社の側の)担当者は遠慮して、言いたいことも言えなくなる。甥の方だって何となく私の意を迎える気分になるだろうし、お互いに顔色伺いながらやって、いい仕事ができるはずがない」。もうひとつは「伯父のコネで仕事させてもらったなどということは、彼のキャリアにとって汚点になる。コネではなく実力だったとしても、他人はそうは思わないし、本人もそうだと言い切れないだろう。私は、自分の甥に後ろめたい思いを引きずらせたくない」。これが見識――オトナの常識、というものだと私は思う。

 都知事は「余人を持っては代え難い」とも言ったとか。そりゃ、たとえば日本でたった1人(2~3人でもいいが)しか持っていない技術(特技)が必要とされ、その持ち主がたまたま……ということであったなら、息子でも孫でも関係ないでしょう。しかしそういう話ではないのだから、やはり「おかしい」と感じる方が自然である。

 都知事の四男問題については、「やっかみだ」「昔から芸術にはパトロンの存在が欠かせない」などと言って擁護する人もいる。そりゃ、私は高潔な人間ではありませんよ。嫉妬もするし、人の足も(多分)引っ張っている。でも、この問題は「やっかみ」とはまた別。金持ちが芸術家のパトロンになるのは結構ですが、というより個人の自由ですが、都民の税金でpatronageせんでくれ。ドロボー。都民税、返せーーーー。

〈東京都は死に瀕している〉

 もっとも四男問題も高額出張も、実のところ私はそれほど驚いてはいない。いや、むろん驚きましたよ。目が点になりましたよ。でも、「彼ならば、さもありなん」という受け止め方をしたのも事実。都知事はエリート意識……というより「選民意識」が私のようなその他大勢庶民から見ると信じられないほど強く、自分は常に正しいという信念を(何の根拠もなく)持ち続けて70代半ばに達した、ある意味で瞠目に値する人物。どんな育ち方をすればこういう男が出てくるのか、親の顔が見たい(笑)。

 彼の何処に拒否感を持つのかと聞かれればとても短い文章では言い切れない(話せば長くなりますが……という感じ)、ひとつだけ言うとあの人は戸塚ヨットスクールの戸塚宏の畏友で、彼の「軍隊式の教育」に諸手を挙げて賛同している男。自分の記事なんざ引用するのは面はゆいが、一番手っ取り早いので過去の文をコピーしておく(さぼっているのである)。

【どんなに言葉を飾ろうと、戸塚ヨットスクールでおこなわれたことは「リンチ」である。「1銭5厘(徴兵通知の郵送料)」で軍隊に引っ張られた経験を持つ高齢者達の体験を聞くと理不尽な暴力沙汰の話がよく出てくるが、それと同様のサディスティックな行為に過ぎない。号令かけられるままの一糸乱れぬ行動を要求し、日常の細部に至るまで規則づくめで縛り、違反したり間違えたりした場合は容赦なく殴り倒す。戸塚ヨットスクールを擁護する人達は「多くの少年達が立派に立ち直った」と言うが、それは立ち直った?のではあるまい。ものを考えるいとまも与えられず、感性は鈍磨させられ、否応なく飼い慣らされていったのだと私は思う。

 それに共感する石原都知事は、間違いなく「他者に対する暴力的な支配」を是とする立場にある。それも単に「オレの言うことに従え」ではなく、「心からオレ(の考え方)の前に跪け」であろう。支配する者は常に「心まで縛ろう」という方向にいくのだが、その行き方の速度や激烈さには当然、差がある。石原都知事はかなり極端な方で、普通の感覚ではほとんど信じられないほどに牙を剥き出しにしてくる。】

 出馬表明にあたって、知事は「首都東京の舵取りを、引き続き命がけでやっていきたい」とのたもうたそうである。あなたにはもう、舵取りしていただきたくない。あなたに舵取りを任せていれば、TOKYOは死ぬ。少なくとも、「美しくない東京」になりはてる。都民の皆さん、またしても石原を知事にしてはいけない。ここはもう小異を捨てて大同につき、反石原候補を(って、まだ有力候補は出ていませんが……)応援するしかないとも思ったりしている。

 そして全国の同志たちよ。都知事選は所詮は地方自治体首長選挙に過ぎないが、同時に「それだけではない」面も大きい。都知事選の敗北は、単なる一敗ではない。いや、別に東京がエライとか特別とか、そういう感覚で言っているのではありません。石原都知事は、「庶民に対して牙を剥いた男」の代表。彼を知事にするかどうか、ギリギリの所で都民の「見識」が――そして(何でだよ、知事選の選挙権なんかないぞ、と言われるのを承知の上で言うが)日本人の見識が問われているのです。私を含めた都民はアホかも知れない。おそらく、ダメな奴らなのだと思う。なぜ再選を阻止できなかったのかと、今でも私は脂汗が流れるほど悔しい。そういう庶民に、どうか全国から応援を!!

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痩せた豚から都知事殿へ――UTSコラムやや改稿

2006-09-18 23:57:34 | 東京都/都知事

「当面ターゲットとしなければならないのは、来るべき参院選挙」と、反戦老年委員会のましまさんが書いておられた。憲法や教育基本法の改定を阻止したい人達は、みな同意見であると思う。むろん私も来夏の参院選は正念場だと思っているが、個人的な気持ちとしてはその前にもうひとつ、都知事選という大きな山がある。知事はあくまでも地方自治体の首長。誰がその座に就いてもそれで国全体が変わるわけではないが、首都の知事となれば他の府県の知事以上に影響力は大きい。特に知事本人が「有名人」でマスコミに登場することが多い場合は、彼の主張の影響力はその他大勢的な国会議員の比ではない。

 その都知事選に石原現知事が出馬するという情報をキャッチして以来、私は神経がかすかにささくれだったままである。石原都知事のことは何度か書いた覚えがあり、10日ほど前にはUnder the Sun のコラムでも少しぼやいた。以下はそのコラムの後半部分を加筆訂正したものである。

〈オトコを誇示する男〉

 なぜ石原慎太郎などという人物に人気があるのか私はわからない。いや、学者や評論家はその理由を綺麗に分析してくれており、その分析を言葉としては理解できる。ああいった一見勇ましげな人物にふと惹かれる人間の心理だの、社会心理だの、といったものも知識としてはわかる。ただ、「わからない」と言い続ける側に、私は立っていたい。

 「ああいう暴言男が都知事の椅子に座っていると、他の国の人達に対して恥ずかしい」からではない(私はそれほど愛国心のある人間ではない)。人間を有用であるかどうかによって峻別する思想の持ち主であり、これ見よがしな浅薄な男らしさを賞賛したり(※)、国のために死ぬなどという世迷い言に酔ってあまつさえそれを他人に押しつける(あなたが死ぬのは勝手ですが……)――つまりははた迷惑な人物で、こういう人間が知事の座に居座っていると、私達都民は枕を高くして眠れないからだ。まったく、危なくて仕方ない。

 ※彼が書いたものを覗くと、男・男・男の連呼に反吐が出そうになる。マッチズモを誇示する男ほど、実は「男らしくない」連中が多いのだが……。というより自分に自信が持てないから、(せめて生物学的な事実としてこれだけは疑いようがない)「男であること」にすがりつくのではあるまいか。男、だけではない。「女」の強調、「親」の強調、さらには「日本人」の強調……すべて同じことのように私には思える。

〈東京オリンピックはいらない〉

 石原都知事は記者会見で、「自分は五輪誘致の言い出しっぺだから、(それに関して都知事として最後まで尽力する)責任がある」と言ったそうである。誰もそんなこと、頼んでないって……。私は東京オリンピックなどいらない、と思っている。それどころか東京以外の日本の何処にも、オリンピックなど誘致してもらわなくていいと思っている。そんな「国家的イベント」などで、また幾つも幾つもの重大な問題が霞まされてはたまらない。(私はスポーツに無関心で、しかも日の丸に限らず国旗というものが嫌いなせいでオリンピックのテレビ中継なども見たことがない。国威発揚の祭典、としか思えないのだ。そういう人間だから、なおさら目が冷ややかになるのかも知れないが)

  彼は「スパルタ主義」(厳密な意味で使っているわけではない。戸塚ヨットスクールの戸塚氏に共感し、あれこそ真の教育者の態度と絶賛する奇矯な傾向を、ここでは一応、スパルタ主義と呼んだ)の男である。自分の子供をその主義で育てるのは(虐待にならない限り)まあご自由にとしか言いようがないが、都民にまでその主義で臨まれては困る。

〈私は豚だけれども〉

  石原慎太郎には『狼生きろ豚は死ね』という作品がある。私はこれを読んでいない(読まずにアレコレ言ってはいけないと思って、以前彼の本を少し読んだものの、さすがに数冊で力尽きた)。だから内容については何も言う気はないが、タイトルの印象からひとつ思うことがある。彼は自分を「鋭い眼で荒れ野を睥睨する、気高い狼」だと思っているのだろうな……。まさか「蒼き狼」だとまでは思っていないだろうけれど(いや、思っているかも知れない……)。なんとまあ、すさまじい自己陶酔よ。

 彼から見れば眼を輝かせ、直立不動で「国のために死ににいきます」と宣言する若者は狼、――彼をボスとして仰ぐ狼集団の一員なのだろう。そして「国家なんか知らねーっと」とほざく人間は豚、なのだろう。与えられた餌を喰い、やがてハムになるだけの存在。

 余談をひとつ。豚といえば、「肥ったブタよりも痩せたソクラテスたれ」という有名な言葉がある。40年ぐらい前に東大の卒業式(だったと思う)で、大河内一男総長が学生達にこう訓示したそうだ。一時は流行語にもなったそうで、今でもエッセイなどの文中に引用されているのを見ることがある。名言集に載っていそうな言葉だけれども、私は正直なところあまり好きではない。この言葉を何処かで読んだ時、「カッコよすぎるよな……」と思ったことを覚えている。いや、むろん大河内総長が何を言いたかったかはわかっているつもりだし、それは正しい――というよりも「人間としてまっとうな」意見だとも思う。それでもなお「感激」できなかったのは、おそらく人間が勝手に「ブタ」のイメージを作り上げていることに違和感があったのと、もうひとつ、エリート臭を嗅いでしまったからだろう。私はソクラテスにもなれず、鼻先を血だらけにして柵を壊そうとしているだけのブタの一人であったから。

 まあ、それはどうでもいい。狼と豚、である。

  豚で結構。あなたをボスとして仰いで声を揃えて遠吠えするぐらいなら、私は「ノラ豚」(?)になる。ハムにされないために、私は何としてでもあなたの三選を阻止したい。都民の皆さん、それぞれの場で、それぞれのやり方で、できる所からできることを。他府県の皆さん、都民への応援を。

〈追記〉

 石原都知事について、これまでに書いた記事を2つほどで挙げておく(何度も書いた気がするが、メモ感覚で書き飛ばしているのでちゃんと思い出せないのだ。列挙しようと思って、何処に書いたかすっかり忘れていることにはたと気づいた。笑)。もしも関心を持っていただけたら、お暇なときに覗いてくださるとありがたい。(特に、私の石原嫌いを不愉快だと思われる方は、過去のエントリもお読みの上で反論していただきたい)

上からモラルのうさんくささ。そして――都知事殿。三選に意欲など出さないでくだされ

「都知事三選にNO!」&石原慎太郎の文章を巡って  

◇◇ご意見歓迎。ただし揚げ足取り、嘲弄口調の詰問、記事と関係ない持論の長々とした展開はお断り。コメンテーター同士の記事と関係のないやりとりもご遠慮ください。私はコメント欄は基本的に何を書いてもらってもいい「落書き帳」だと思っていますが、落書き帳は落書き帳なりにマナーがあるはずです。また私は原則としてよほどのことがない限り削除しませんけれども、別にそれが正しいとは思っていません。コメントに対して厳しい基準を設けて削除するという考え方もあり、実のところ管理人の態度としてはその方が良質だと思います。ですからコメント削除等々の方法を採っているブログを非難するようなコメントも、いっさいお断り。今日以降、そういうコメントは削除します◇◇

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「都知事三選にNO!」&石原慎太郎の文章を巡って

2006-08-08 21:46:56 | 東京都/都知事

 本日のメモ――。

〈石原都知事の三選は……〉

 ハムニダ薫さんが「東京都民の皆さま、三選だけは阻止してください」という記事を書いておられる。むろん我らが石原都知事の三選……のことである。「こんな男が三度も選ばれたら、世界中から都民の品位が疑われる」と言われると、小心者の私なんぞ、つい「すんまへん」と謝ってしまう。

 むろん私は都知事の支持者ではない。それどころか「石原都知事は天敵」みたいな感覚があり、何度か批判(というほどリッパなものじゃない。都民の素朴な声、ですな)を殴り書きしたことがある。三選に意欲を示しているという情報を得たときは、「都知事殿、三選に意欲など出さないでくだされ」と悲鳴も上げた。

 ……と書きつつ、「言い訳してるなア」といささか後ろめたい。「私は石原嫌いである。彼に票など入れたことはない」といくらそっくり返っても、そんなものは屁の突っ張りのにもならない。単なる自己満足である。戦争が終わってから、「実は私もあの戦争には反対だったんだよ~」と言うのと、五十歩百歩である。彼を都知事の椅子に座らせ続け、三選に意欲を出させているのは我々都民の責任であり、私もまたその一人なのだ。やはり「すんません」と詫びて、体張って阻止すべき時……が来ている。

(ブログなんか書いてる場合じゃないな。ブログは所詮ブログ。特に私程度のその他大勢ブログは金魚の寝言みたいなもので、いわばアイバイ、マスターベーション。世の中をたとえ1ミリでも動かす力はなく、それならばスパっと止めてしまって現実行動に力注ぐほうが潔いかも知れない。書を捨てよ、街に出よう――じゃなかった。ブログを捨てよ、街に出よう――と思うことしきり)

 

〈文章ということ――都知事の文章を巡って〉

 前出のハムニダさんのエントリのコメント欄に、「文章が下手」「とても作家とは思えない」といったコメントが幾つも寄せられていた。……というわけで、都知事殿の文章について。

 まず言っておくと、私は「文章が下手」ということ自体は、それほど大きな問題ではないと思う。このことはちょっとハムニダさんの所にもコメントしたのだが、文章でも絵でも「下手ウマ」というのがあるのだ。絵でいえば、たとえばシャガール。彼はデッサンが不得手で、絵の先生に匙を投げられたという話もある。真偽は知らない。一種の伝説かも知れないが、彼の絵は下手ウマのひとつの典型であろう。

 小説で言えばたとえば小栗虫太郎。非常に癖のある読みにくい文章で、日本語としてはかなり下手な部類だという評論家もいる。だがその一種の「下手さ」が、奇妙な魅力になってもいるのだ。同じ推理小説分野で言えば、横溝正史なども文章は巧くない。読んでこそばゆいような大仰な表現が多様されているし、ときどきテニヲハもずれているが、それがまた変に雰囲気を醸し出している。

 だから私は、文章に関しては「巧拙」そのものはあまり気にしない。単に巧いだけの文章の書き手なら、古手の新聞記者の中に「ひと山いくら」というほどいる。 

 そんなわけで……石原慎太郎の文章に対して、「下手だ」というだけの批判はあまり力を持たないと私は思う。 いや、下手だと批判してもむろんかまわないのだけれども、それなら「下手」とはどういうことか、を明確にしておく必要があると思う。

 私も彼の文章は下手だと思う。たとえば彼の最近の文章で言えば、産経新聞に連載しているエッセイ『日本よ』の最新記事(8月7日付け)。

【そうなった時、北京政府が国民の目をそらせ経済破綻を糊塗(こと)し、内部の分裂を食い止めるために軍事的な冒険主義に走る可能性は十分にありえる。それに間に合わせての準備の時間はあまりないということを我々は知るべきに違いない】

 全く同じ内容・意味の文章を、私なら次のように書く(おそらく一般的なジャーナリストは同じだろう)。

「そうなった時、北京政府は経済破綻に対する国民の目をそらせて国内の分裂を食い止めるため、軍事的な冒険に踏み切る可能性は充分にあると言える。その脅威に対する準備期間はさほど用意されていないのだということを、我々は心底、知るべきではなかろうか」

(ぎへぇ~何でこんな文を書かねばならないのか、という感じであるが……わかりやすい日本語とはどういうものかを考えてみるために、ちょっと書いてみた)

 それでもなお、石原慎太郎の「文章」自体は別に大した問題ではない。

 問題にすべきは「日本語としての巧拙や整合性」ではなく、叫んでいる中身である。「文章」はむろん巧いに越したことはない(私も、巧い文章書きたいとは思っているのだ……。もっと巧ければ、原稿の注文がたくさん来るかも知れないし←嘘)。文法的な誤りや誤字脱字は、ない方がいいに決まっている。だがどれほど流麗な文章でも、うつくしいだけの薄っぺらな文章を私は認めない。

 文章の巧拙に真っ先に着目してしまうと、肝心のところが抜ける。キレイキレイな言葉に騙される。都知事の書いているものは、日本語として下手だからダメ、なのではない。噴飯ものの愛国心を振り回し、「国家の敵」を作ろうとしているがゆえに退けるべき――なのである。

 私の感覚は間違っているだろうか? 

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「上からモラル」のうさんくささ。そして――都知事殿、三選に意欲など出さないでくだされ

2006-05-21 04:45:33 | 東京都/都知事
神経を尖らせていた共謀罪の強行採決は回避されたが、この後も審議は続く。ほかに教育基本法改定案をはじめ、肝の冷えるような法案がまだまだ我々に襲いかかろうと手ぐすね引いている。そういう気分の悪い状況の中、それに追い打ちをかけるような情報が……。

!!石原慎太郎都知事、来年春の都知事選挙出馬に意欲!!

ぎゃああああ、マジかよお~という感じである。年も年だしそろそろ引退するのでは、とひそかに期待していたのだが……。私はこのブログでも何度か書いたが、石原慎太郎なる人物が苦手である。「嫌い」というより「苦手」という方が現時点の私の気分に近いので、今日はあえてこの言葉を使おうと思う(※1)。ほとんど天敵という感じで、彼の発言等に触れる機会があるたびに胃のあたりがおかしくなるほどだ。彼が都知事になる前から苦手な種類の人間の代表格だったが、単なる小説家であるならまだいい(むろん小説家をおとしめているわけではない。だが小説家は影響力はもっていても原則として権力は持たず、我々を直接的に脅かすことはないのだ)。

※1/あくまでも今現在の感覚だが、苦手感覚は嫌い感覚ほど鋭くないけれども、それだけに哀しみも深く、同じ空気を吸っているだけで自分の内臓が饐えてくるような、じわじわした――自分の存在の根源をせせら嗤われているような、知らず知らずのうちに血管に毒液を注ぎ込まれているような、そして地の果てまで逃亡したくなるような感覚、と言えばいいだろうか。

石原慎太郎が政治家になったのは1968年。この年に参院全国区でトップ当選した(そうだ。既にこの世に存在していたけれどもまだ都民ではなく、選挙権なんぞもなかった)。そして1999年に都知事に――。知事選の熱狂は今も覚えている。背筋がざわざわするほど不愉快だった記憶と共に。思えばあの年は、日本が今日の危機的状況のとば口に立った時だったかも知れない。確か国旗国歌法が成立した年でもあるし。

石原慎太郎の政治姿勢?その他については緻密に批判している方が大勢おられるので、わざわざそんなことをなぞる気はない。私が彼を苦手とする1番の理由は、彼が「ヒトの心を支配すること」を歓びとする人間だからだ。――いや、表現がおかしいかな、こう言った方が近いかな、「心の支配は一見迂遠に見えて、実は最も確実な方法であることを知っており、それを希求する人間である」からだと。

東京在住の方はよく御存知だろうが、彼は都知事に就任した時に「心の東京革命」を提唱した。そして2000年に「心の東京革命推進協議会」が創られた。ちょうどこの頃、私はある出版社の企画に協力する形で、教育問題を巡ってちまちまと取材を続けていた。だから協議会創設時の衝撃は他人事ではなかったし、「これから来るもの」を垣間見た気がして仲間とかなり真面目に話を重ねたことも覚えている(それでも実際には何ら実のあることを出来なかった自分を私は今、心の底から呪う※2)。

※2/またしても酔っている。夜遅く友人に会い、明け方近くまでちびちびと飲んで、戻ってきたところなのだ。私は取材とちょっとした報道文章を書くことなどで生活している人間なので、それゆえに――というべきか、何かを書くことに対して穴があったら入りたいほどの羞恥とおそれを感じる。それならばブログなんか書かねばいいようなものだが、やむにやまれず発作的に始めてしまったのだ……ほんとにアホみたいな話。今でも発信ということに対するおそれは消えず、アルコールが入らないとなかなかブログを更新できない……。体質的に酒に弱いので、ほんのちょっぴり舐めるだけで軽く酔い、気が大きくなって恥もかける(おまえの発信なんか毒にも薬にもならないから勝手にほざいてろって? あは、失礼しました)。

話を本題に戻す。
「心の東京革命協議会」が言っていることは、字面を眺めるだけならさして問題はない。

【「心の東京革命」は、親や大人が子どもたちに正面から向き合い、関わっていこうという呼びかけであり、次代を担う子どもたちに対し、親と大人が責任をもって正義感や倫理観、思いやりの心を育み、人が生きていく上で当然の心得を伝えていく取組です】(協議会サイトより)

提唱している「心の東京ルール」も、字面そのものは別に問題はない。いや、私の感覚としては問題あるのだが、「あ、そう」ですむ程度のことだ。こういうことを言う(良心的?な)人は世の中に多いし。ちなみに「心の東京ルール」は7つ。
○毎日きちんと挨拶させよう
○他人の子供でも叱ろう
○子供に手伝いをさせよう
○ねだる子供に我慢をさせよう
○先人や目上の人を敬う心を育てよう
○体験の中で子供を鍛えよう
○子供にその日のことを話させよう

まあ挨拶というのはコミュニケーションの始まりだし、他人の子供でも叱った方がいいし(もっとも私は“自分の子供”を持っていない。ごく若い頃に自分という存在に憎悪に近い感情を持ち、自分の遺伝子を持った人間をこの世に送り出すことに腰が引けてしまった人間である。だから他人の子供と言われてもピンとこず、子供という子供はみんな等距離だけれども)、先人や目上の人を敬うのも結構でしょう。しかし……そういう「モラル」は、上から指示するものではないでしょうよ。

権力を握った人間がモラリストを気取る時は、私達はよほど警戒しなければいけない。江戸時代、オカミは「親孝行」な人間を賞賛し、多分わずかではあろうけれども報償を与えたりもした。いや、親孝行はいいんですよ。私は親不孝な人間だが、それでも人並みに孝行してやりたい気持ちは持っている(少々マザコンだし)。

だが、モラルなんてえものは、オカミが規定し、判断するものじゃない。

オカミが「モラル」を看板に掲げる時は赤信号――と私の感覚は告げる。モラルは我々庶民の砦であり、オカミに奪われてはならない。と言うか、モラルなんて規定し、強制するものではないはずだ。規定して強制した瞬間に、「モラル」は薄汚い看板に成り下がる。以前のエントリで「言葉を奪い返そう」と言ったが、奪い返すものはおそらく言葉だけではない。モラルも、また――。

ちょっと前になるけれども、Under the Snn の「日替わりコラム」で、石原慎太郎が脚本を書いたという映画について触れた。ついでと言っては何だけれども、その部分をコピーしておく。

【だがいくら船出好きの私でも、御免被りたい出発はある。去る7日、石原慎太郎都知事(※)脚本・製作の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の制作発表がおこなわれた。民主党代表選出のニュースも幾分か気が重くなったが、ゾクッとする度合いはこっちの方が大きかったかも知れない。「特攻隊員たちの散りゆく青春を描いた作品」だそうだが、(脚本を読んでおらず、完成も待たずにこんなことを言うのは乱暴かも知れないが……あえて言う)これは愛国戦争プロパガンダ映画である。

※都知事なんかどうでもいい、という人もおられるかも知れないが、不幸にして私は都民(都民税もきっちり払っている)。気にせずにはおれないのだ。私の天敵のひとり、と言ってもいい。

記者会見場には「特攻隊員を演じた役者たちが特攻隊の姿で整列し、報道陣を敬礼で出迎えた」らしい。業務命令で記者会見に行かされた記者のかたがた、仕事とはいえ、本当に気の毒なことである(私ならどうしたかな。忙しいんで別の人に~と逃げまくり、どうしてもダメならこれも給料のうちとかブツブツ言いながら、仏頂面下げて行っただろうな……)。まさか、感動はしなかっただろうネ? 主演の窪塚洋介は自衛隊の訓練にも参加したそうで、会見では「未来の礎となってくれた英霊に、感謝と尊敬をもって自分の役を演じたいと思う」と語ったとか。英霊……英霊!! そんな言葉がいつ甦ったのか。私は聞いてないぞ。

私は「君のために死にに行」きたくなどなく、「君のために死にに行」ってほしくもない。君のために死ぬなどと言われれば、言われた方が迷惑だろう。こういうのを「自己陶酔的押しつけ」、いや、「精神的無理心中」、もっとくだけるなら「大きなお世話」と言う。子供や恋人から「ママ、僕はママのために死にに行くからね」「オレ、あんたのために死にに行くからさあ」と言われて喜ぶ女性がいるだろうか(もしいたら、是非ともインタビューに行ってみたい)。「ああ弟よ君を泣く、君死にたまふことなかれ」というのが普通の感覚ではあるまいか。】(コピー了)

ああ、心の支配! 私はこれが一番恐ろしい。行動に対する規制ならば、抜け道を考えることができる。だが心に対する規制に抜け道はない。

追記/散漫なエントリだなあ。かなり酔ってるかも知れない……。ちょっと仕事が忙しかったのと、ヤなことがいろいろあるせいで、このところ少々ウツっぽい。(単なる私事だけれど)危篤の報を受け、通夜に参列したことも、冥い気分に拍車をかけている。すべてを捨てて出家遁世?してしまえない自分が情けなくもある。「失うものは鉄鎖のみ」とカッコヨク言いたいけれど……。あああああ。少し寝よう(睡眠時間は最低ゼロ、最高10ン時間という無茶苦茶な生活。でも地を這うように暮らしている人間にも心はあり、それだけは売り渡したくない……膝がガクガク震えるほど恐がりながら言っているのだけれども)。覗いていただいた方、相も変わらぬ言い散らし、すみません。

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