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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「再チャレンジ」などいたしません

2006-06-30 02:43:18 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 ポスト小泉の本命などと持ち上げられている安倍官房長官についてハムニダ薫さんが火を付けられた「《安倍晋三、統一協会合同結婚式に祝電》をネット上に広げようキャンペーン」がブロガーの間で盛り上がり、現在も「あんな男が首相になったらオシマイだ」という声が相次いでいる。

 私も「いよいよこの国も末期症状を呈してきたか」と開いた口がふさがらない一人。上記のキャンペーンも尻馬に乗って、じゃなかった微力ながら応援しているのだが、ここではそれと別の話を書いておきたい。「再チャレンジ」の問題である。

 そのことは6月12日のエントリの中で少しばかり触れたので、まずは(さぼって)それを再録しておく。UTSの素楽さんのコラムをまねたリサイクルである(笑。猫に喋らせた体裁になっているので、言葉が汚いのは御容赦のほど)。

【「再チャレンジできる社会」だの何だのって言ってるけどさ、あの人が考えてる再チャレンジって、要するに「何度でも競争しろ」っていうだけじゃん。「イチ、抜~けた」ってのはダメ。負けても負けても、立ち上がれって。スポ根ドラマじゃねえ、っつーの。で、「チャレンジし続けている限り、あんたは負け組ではないのですよ~オーホホホ」なんて、適当にひとをなだめようとしてるんだよな。こんなイヤったらしい飼い慣らしを嬉しがるなんて、人間てほんとバカだよな。】

 チャレンジということそのものには、何の罪もない。 結構なことである。だが本来は(たぶん)権利を主張するとか課題に取り組むとかいう意味だったはずのチャレンジという言葉が、いつのまにやら椅子取りゲームで勝つことという薄汚い意味にすり替えられてしまった。言葉が奪われていくさまを、まざまざと見せつけられた思いがする。かなしく、そして悔しい。

 スミレほどに小さい存在でありたい、という意味のことを漱石は呟いた(正確な言葉は忘れた)。富国強兵にひた走る当時の社会においてタワゴトに過ぎなかったその呟きは、今もなお――いや、一層にタワゴトとして嗤い飛ばされている。競争から降り、風や水の吐息と自分の息をひとつに合わせて、ささやかに生きることは悪なのだろうか。駆り立てられるままに眦を決して戦いの太鼓に昂揚しなければ、生きていくことを許されないのだろうか。

 チャレンジというのは私にとっては、自分の中で自分の命と言葉を探るためだけに使う言葉である。官房長官殿、そして何度でも武器を執って戦えとけしかける人々よ。あなたがたのいうチャレンジの貧しさに、私はたとえ殺されても(なんて言うのは、いくじなしの私には卒倒するほど勇気がいるのだけれども)組みしない……。

◇◇◇

ついで……と言うのは変だけれども、同じ6月12日のエントリで「言葉」についてもちょっと書いていたので、それも再録しておく(リサイクルもいいところだ……恥)。再チャレンジ、再チャレンジとのたまう安倍官房長官が、いかに言葉を薄汚いものにしているかという部分である。

【(中略)教育基本法改正案を「21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案」とかさ(※)。どーっこが、日本の香りなのかね~。中身のからっぽな、キレイキレイな言葉をずらずら並べただけじゃん。漂ってくるのは嘘っぽい香りだけ。

(中略)どれも言葉だけ聞けば、別に文句のつけようはないことじゃん。ま、オイラなんざ「郷土や国を愛する気持ち」とか「道徳心」とかのあたりは、ちょいとゲゲゲだけどね。まあ、ごく素直に「いいんじゃないすか?」と思う人は多いだろうし、それはそれでかまわないと思うんだよねっ。でもさ、こういうキレイな言葉ほど、中に汚いものを詰め込めるんだよな~。汚いものを隠せる、っつうか。たとえばさ、「愛する」なんてすっごくキレイな言葉でしょ。でも、そういう言葉で嗜虐心とか支配欲とか、その他いろんなものにフタしちまう奴が世の中、いっぱいいるじゃん。バラの花には棘がある、じゃないや、桜の樹の下には死体が、でもない……ええい、何でもいいや。ともかくキレイな言葉ほど気をつけた方がいい、とオイラは思ってんの。腐りかけた食べ物をそのまま出されたら誰でも眉ひそめるけど、いっぱい香料ふりかけて、豪華な皿に盛って、ついでに綺麗なトッピングでもされて出されたらさ、わかんなかったりするじゃん。

※「(現行法との)最も大きな違いは、現行法では抜け落ちていた、『公共の精神を尊ぶ』『伝統・文化の尊重』『郷土や国を愛する気持ち』『生命や自然の尊重』『道徳心』『自律の精神』などを書き込んだこと。21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案だと思う」(夕刊フジ・6月2日インタビュー記事より)】

ああ、言葉、言葉! 私達はここまで言葉を奪われてしまったのか。

仁義礼知信忠孝悌、『南総里見八犬伝』の霊玉の刻まれていた文字は(私の個人的感覚では忠だけは例外だが、その他は)もともと人間の基本的なモラルと深くかかわっていたはずなのに、権力者の側に奪われた途端に地獄に堕ちた。私達がそれを奪い返せるのは、いつの日のことだろうか…。

 

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勝ち組になりたいと思いながら過労死した、ある男の人生

2006-06-28 03:59:24 | 箸休め的無駄話
 その男は旧制中学を出て就職した。まだ帝国憲法が生きていた時代――と言うより、人々が治安維持法で締め上げられ、戦争に駆り立てられていた頃のことだ。本当は高校→大学は無理としてもせめて高等商業学校(というのが昔はあった。神戸高商は現・神戸大、東京高商は現・一橋大)に行きたいと思ったが、家計の事情がそれを許さなかったのである。彼の家は母子家庭で、母親は裏庭の小さな畑で芋などを作るかたわら、近くの街の工場で、当時の言葉で言えば「雑役婦」(臨時雇いの形で雑用をする女性労働者)をして働いていた。彼には既に社会に出ている姉がいたが、その頃は家を離れていて、家計を支えるのは母親の乏しい給料だけ。しかも彼の下にもまだ2人子供がいたから、カツカツ食べられるかどうかの生活であった。

 もともと彼が中学に行くことさえ、周囲からは「分不相応」だと言われた。全体がまずしい過疎の農村で、小学校の同級生のうち中学校に進学するのは1割に満たず(さらに大学に進学するのは、2~3年に1人という程度)、経済的に恵まれた家庭の子供に限られていたのだから。中学進学できたのは、それを強く勧めてくれた教師がいたおかげだった。その教師がいなければ、彼は小学校卒業と同時に「丁稚奉公」に出されていたに違いない。その村では男の子は「丁稚」や「給仕」、女の子は「女中」や「女工」として働きに出るのが普通だったのである。

 彼は、中学では入学から卒業まで一番で通したという。村の年寄り達は今もそれをひとつ話のように語るが、実は特別頭がよかったわけではない。要するにめちゃくちゃな「ガリ勉」(という言葉、今もあるだろうか?)だったのである。貧乏な母子家庭ということで子供の頃から差別を受けてきた少年が「幸せになりたい」と思った時、そのささやかな望みは「勉強してエラクなる」ことに直結した。身を立て、名をあげ、やよ励めよ――ほとんど『蛍の光』の世界である。だから大学へとまでは望まずとも、せめて高等商業に行きたかったのだろがその望みはかなえられず、彼は郷里を離れ、都会に出て職に就いた。

 しゃにむに働いて家に仕送りし、軽い結核に罹患し……治ればまた馬車馬の日々。戦後の混乱の中で母親と妹たちを養い、妹たちが結婚して家を出て行くのを見送り、……そしてようやく自分も結婚した。当時の男の結婚適齢期とやらはわからないが、おそらくやや遅い方であったろう。田舎の親戚の世話による、見合い結婚であった。相手の女性は、実のところあまり気が進まなくて断ったらしい(わからんでもない。学歴は女性の方もチョボチョボなので偉そうなことは言えなかったはずだが、扶養家族を抱えているわ、痩せっぽちで背が低い上ド近眼でまるで風采あがらないわ、結核の既往はあるわ……客観的に見ればかなり条件の悪い男だったのである)。だが(田舎の老人達の話によると)彼がすっかり舞い上がって、押しの一手で結婚にこぎつけたとやら。彼女は特別には何の取り柄もない女性だが、幾分か経済的な余裕のある家庭に生まれ育ったため、ほんの少しだけ「お嬢さん的教養」を身に着けていた。それが彼には何とも眩しかったらしい。

 彼は「上昇志向」の強い男だった。本を読みあさり、中学でちょっと習ったきりの英語を懸命に勉強した。その根底には、自分の生まれ育ちや学歴に対するコンプレックスがあったのだろう。同僚の多くは比較的恵まれた家庭に育ち、大学や高等商業を出ている。彼らに負けまい、負けまいとして、かなしいほど背伸びをしたのかも知れない。子供が生まれた時、汗だくで病院に駆けつけてきた彼は開口一番、「この子は大学に行かせてやる!」と言った。「必ず大学に行かせてやる。できる限りの教育を受けさせてやる」。いまどきそんなことを力み帰って言う親はいないと思うが、当時はまだ大学進学率は低かったのだ。

「教養」に対する憧憬も強かったようで、楽器の演奏が出来ることに憧れて、こっそりヴァイオリンを習ったこともある。ひょっとすると、お茶やお花も習いたかったかも知れない。妻はほんのまねごとだが独身時代に「お茶とお花」を習ったことがあり、趣味で絵を描いていた。そういう妻を持っていることが、彼はひどく自慢であったのだ。

 彼は妻が好きで、子供達が好きで、彼らを飢えさせず、自由に生きていかせるためには命を削ってもいいと思っていた。上の子が(と言うよりその頃はまだ子供は1人だけだった)4つか、5つになったばかりの時、彼は結核性肋膜炎を起こして(過労のせいもあったかも知れない)入院したのだが、そのとき妻と、平仮名を少し覚え始めた子供に宛てて毎日のようにハガキを書いた。ハガキの文言はいつもほぼ同じ、ごく簡単なものであった。「おかあさんのいうことをきいて、いいこにしていますか。とうさんがかえるまで、おかあさんといっしょにがんばってください。おかあさんをたのみます」……

 そして……彼は本当に自分の命を削ってしまった。40歳を目前にして、過労死したのである。日曜も祝日もなく働いて、ようやく久しぶりの休みが取れたある日。日中は2人の子供の相手をして過ごしたのだが、夜中にふと目覚め、子供に添い寝している妻の布団がずれているのを見て掛け直そうとした瞬間にくも膜下出血で倒れた。「風邪ひくよ」というのが最後の言葉であった……。

――「彼」は私の父、「その妻」は私の母である。――

 父が亡くなって何年か経った頃、彼の遺した本を片端から読んだ(古典と言われる文学書のほか、思想書・哲学書まで本棚に詰まっていた……)。下線を引き、細かく書き込みをした三木清の著作などを(内容などろくに理解できぬまま)めくりながら、私は「こんな本を読みながらも、最期まで上昇志向を捨てきれず」、最近の言葉でいうならば「勝ち組」になりたいとあがいた父を、かなしい人だと思った。

 見合いの後で2度目か3度目かに会った時、父は母に「自分で働くようになったら、靴を買おうと思ったんです」とポツリと言ったという(最近聞いた話である。母もけっこうな年になったせいか、やたらに思い出話をするのだ。あるいは私がようやく人間が練れてきて、カノジョの思い出話を聞いてやれるようになったのか)。中学時代、同級生は全員靴を履いてきているのに、彼だけは靴を買えず、普段履きの下駄だか雪駄だかで通っていた。それで、靴を買おう――になったのである。「かわいそうな人だなあ、と思って涙が出そうになった」と母は言った。それがどういう意味かは尋ねていないが、ひょっとしたらそれを聞いて父と結婚してもいいと思ったのかも知れない(可哀想ってえのは惚れたってことよ。……なんていうとBLOG BLUESさん風だが。いやあ、でも私もどこかにそういう感覚があるのである。しょうもない余談)。

「ほんとに、かわいそうな人だった」と母は何度か繰り返した。「働いて働いて、なあんもいいことないまま死んじゃって」
 独身の姉と同居している母親にはずっと仕送りを続けていたし、子連れで離婚した妹の面倒をみるだの、親戚の誰とかの借金の肩代わりをするだので、「ボーナスなんか右から左だったわ」と母は笑う。無理な残業を続けたのも、金のためだった。そんなに無理しなくてもと気遣う母に、父はいつも「もう少しだから」と言っていたという。もう少ししたら楽になる、地位が上がれば給料も上がる、近いうちに綺麗な家を買おう、一緒に旅行もしようね、などと言っているうちに、彼はポックリあの世に行ってしまったのだ。ちなみに「あんたもあんまり働かない方がいいわよ」というのが母の口癖である……。

 働くのは悪いことではない。働かざる者食うべからず。しかし、浮かび上がりたいと思い詰めて働くことほど、心を痩せさせることはない。父は子供の頃、靴どころか机も買ってもらえず、机代わりのミカン箱を台所の隅などに置いていたという(2部屋きりの小屋に住んでいたので、むろん自分の部屋なんぞというものもなかったのだ)。その境涯から「自分だけ巧く抜け出したい」と思ったとき、彼は過労死へのレールに乗ってしまったのである。

 お父さん、私はあなたのような子供を、もうこの世に存在させてはいけないと思う。

◇◇◇◇
ブログで個人的な話は書くまいと思っていた。別に隠し立てしたいわけではない(隠すようなことは何もないし)。ただ、ごく平凡な生活をしている私のプライベートな話など、ヒトサマにとってはおもしろくもおかしくもないからだ。もうひとつブログ(というよりすべての表現)には私小説的なそれと、全く私小説的な要素を含まないそれとがあり、私自身は手段として後者の方が容易だということもある。だが、ふと酔ったまぎれに自分が6歳の時に死別した父のことを書いておこうかという気になった……。個人的な話なので、適当に読み飛ばしてください(って、そういうことは最初に書くべきか。すみません)。



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「よりマシ」はない――いっそ「さらに最低」が出てもいいかも知れない

2006-06-27 02:10:43 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 ポスト小泉として名前の挙がっている政治家達のうち、誰がマシであるかという話があるが、そんなことは議論するだけムダだと私は思っている。私達はしばしばろくでもないものを複数並べられて「どちらが(どれが)マシか」と迫られるが、相手の土俵に乗ってはいけない。そういった意味のことを6月20日のエントリ「どちらがマシかの話ではない」の中に書いたところ、お玉おばさん が次のようなコメントを入れて下さった。

【ただ、お玉は護憲のための「時間稼ぎのため」には少しでも「マシ」な人を総裁に据え置きたいです。だって、そうしないと国民が気がつく前にみ~んな決まってしまいそうで・・・少しでも国民に気を遣う人材に総理をやってもらう。そしてその間に、国民みんなが「怒り出すための」ゲリラ戦を続けていきたい。】

 さて……どうなのだろう。モノゴトはすべて、一足飛びに理想に達することはできない。したがって何であれ、「当面は少しでもマシな方を選」ばざることを得ない場合も多いのは事実である。時間稼ぎのために少しでもマシな人を国のトップに据えて置きたい、という意見もよくわかる気がするのだ。しかし「いま在る中」から選ぶ必要はないとも私は思う。ポスト小泉として数え上げられている政治家はむろんのこと、広く「自民党の中」で誰がマシだろうかと考える必要もない、と。

 現実には(それこそ秋までに天変地異や流行病で国会議員の半数が死ぬとか、クーデターが起きるとか、何か特別なことがない限り)次期首相は自民党の中から選ばれる。だから「少しでもマシな人材」と言うと自民党の中では誰が?――という話になるわけだが、私は実のところ、誰が選ばれても五十歩百歩、に思えてならないのだ。

 アメリカの腰巾着になるのが日本の生きる道と信じるのも、格差があるのは当然とみなして弱者を切り捨てるのも、何も小泉首相の専売特許ではない。このところ多くのブロガーの方がリハビリテーションの日数制限の問題をはじめ、医療や福祉制度の改悪に触れておられるが、「弱い者まで抱え込んじゃおられねぇ」的な発想は随分前からあり、少しずつ目立ち始めていた。たとえば――少し前の話になるけれども、介護保険が創設されようとしていた時、私は「医療・福祉の分野に受益者負担の思想を持ち込むな」と言ってそれに反対の意思表示をし、ささやかながら運動も展開した覚えがある(ちなみに介護保険というもの自体に反対したわけではない)。あの頃すでに、この国は露骨に格差を擁護し始めていたのだ。

 ある意味で、小泉純一郎なる人物は「出るべくして出て来た首相」のようにさえ思えてならない。小泉首相が特殊な人間・変人であり、たった一人で「この国を悪くした」わけではない。

 よりマシ?と思える人物は、もしかすると小泉純一郎のような(ついでに言うと我らが都知事のような)暴言は吐かないかも知れない。靖国参拝も控えるかも知れない。しかし私は、妙にソフトでものわかりよさげな首相が出てくるのも実は怖いのだ。庶民の感覚を逆なでしないように巧く言いつくろい、陰で時計の針を逆戻ししようと画策する政治家の方が、露骨に牙を剥く政治家の何倍も恐ろしい。

 ……トンデモナイ暴君が出てくれば、庶民もさすがに耐えかねて一揆を起こした。だが鞭とアメを巧妙に使い分ける名君?の治世化では、庶民はおとなしく飼い慣らされた。

 いっそ「最悪、最低」の首相(最低と言われている人は何人もいたが……まだまだ下がいるというのはほとんど怪談)が出てくればいいとさえ、時として私は思ってしまう。安倍晋三でもいい。えーい、石原慎太郎でもいい! 「自民党支持です」「私は保守です」または「穏健派です」という人でさえ眉をひそめる政治家が首相になってくれれば、日本にも初めての革命が起きるかも知れない……。セルゲイ・ネチャーエフは、もっともっと社会が悪くなればいい、さもなければ民衆は立ち上がらない、という意味のことを言ったけれども、私も時折そんな気分になることがある……(いかん。酔っているので頭が妄想の世界に偏ってきた)。

◇◇◇

やや唐突ですが――おもしろい画像を見つけたので転載させてもらいます(作者はヘンリー・オーツさん)。なぜか字の部分の背景が黒くなってしまう。やり直しても同じで、どこにミスがあるのか私の能力ではわからない……すみません。

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国家の殺人――死刑に関する覚え書き

2006-06-25 23:25:22 | 死刑廃止/刑罰

 光市母子殺害事件の無期判決を最高裁が破棄したことに絡んで、このところブログ上で死刑に関する議論が目立つ。本当はきっちりと考えて書くべきテーマなのだが、「これから考えていくための覚え書き」として一応文字にしておきたいと思う(最近忙しいせいで、メモばっかりである……)。なお、 「とりあえず」のluxemburgさん、「愚樵空論」の愚樵さん、「徒然気儘な綴り方帳」のMcRashさんその他、私がよく訪れるブログで死刑廃止論が展開されている。私のメモよりはるかに緻密に書かれているので、そちらをご参照いただきたい。

 結論から先に書くと、私は死刑は廃止すべきだと思っている。たとえ対象者が「極悪非道な人間」であっても、死刑という方法で抹殺してはならないと。その理由を簡単に書き並べておこう。(死刑廃止論については多くの著書が刊行されている。法理論や諸外国の事情、死刑の歴史などをお知りになりたい方はそれぞれの本をお読みください。以下は私のごく個人的かつ素朴な考えに過ぎません)

〈殺人と復讐の正当化、および命の交換〉

 あたりまえの話だが、死刑というのは「人を殺すこと」、国家の手を借りた殺人である。どれほど言葉を飾っても、人殺しの正当化にほかならない。また、死刑というのは「国家の手による仇討ちの代行」の意味合いがある。「個人で復讐してはいけませんよ。代わりに国が復讐してあげますからね」というわけだ。つまり復讐の正当化という価値観に支えられた刑罰なのである。それは違う、と言う人もおられるかも知れないが、この手の議論ではすぐに「被害者遺族の感情」うんぬん、という話が出てくる。死刑は復讐代行の面もある、とみなされている証拠であろう。

 また、「人を殺せば(殺した人数や殺し方によって)死刑」という考え方は、裏返せば「自分の命と引き替えならば人を殺してもいい」という価値観につながる。実際、それを崇高なもののようにみなす考え方も昔からあるようだ。たとえば生還の可能性ゼロの刺客などは、「自分の命を投げ出して」という1点で美化されてきた。私は暗殺を全否定はしないけれども(時代や状況によって、それ以外に方法がないところまで追いつめられたケースもあったと思う)、人間は命の抹殺という手段の不要な社会を目指してきたのではないか。

〈遺族の感情について〉

 光市母子殺害事件は確かに残虐な犯罪であった。遺族が犯人を憎悪し、自分の手で殺してやりたいと絶叫するのは、ある意味で当然のことだと思う。ただ、殺害の方法や殺された人数にかかわらず、「身内を(あるいは近しい人間を)殺された人達」は同じような憎悪を抱くのも、また事実であると思う。車にはねられて亡くなった子供。無理心中させられた女性。医療過誤で亡くなった老人。……彼らの遺族は、加害者を殺してやりたいと泣き叫ぶ。そんなものは光市母子殺害事件の遺族・本村氏の絶望と比べれば大したことはない、と誰が言えるだろう?

 遺族の感情を思いやるならば殺人者は死刑にするべきだ――というならば、「殺した相手が1人だけであろうと」「いかなる殺害方法であろうと」そして「犯人に明確な犯意があろうとあるまいと」、人を殺せば死刑という単純明快な法律を作らざるを得ないのではないか。薬害エイズ事件の安部氏らも、有罪判決であったならば当然、死刑であろう(そう言えば川田龍平氏に、「私と一緒に死んでください」という言葉があった)。

 こんな言い方をすると語弊があるが、「誰に」「どのように」殺されようとも、死は死である。直接的であれ間接的であれ、また犯意があろうとなかろうと、人を死なせれば死刑になってもやむを得ない、と言える人はどれだけいるだろうか。

〈嗜虐心というもの〉

 人間の心の奥には、サディスティックな感覚や凶暴な衝動が潜んでいる(自分はそんなものはナイ、と断言できる人はおられるだろうか?)。人類はそれをよく自覚した上で、必死でそれを飼い慣らし、昇華させようともがいてきたはずだ。だが、私達はまだ存在として発展途上であるらしく、ともすれば悪魔的な歓びに身を任せてしまう。……と言ってしまうと大げさだが、要するに加害の楽しみについ浮かれるのである。むろん多くの人々は「善良な市民」であるから「犯罪行為」にまでは手を染めないが、正当な理由?があればたやすく浮かれてしまう。「正義の旗のもと」であればなおのことで、とどまるところを知らずエスカレートしていくのだ。泥棒を捕まえた村人達が「あいつを吊せ!」と叫んだ時。関東大震災の時(※1)に朝鮮人を囲んだ自警団が「あいつらを殺せ!」と叫んだ時。あるいは王城に乱入した反乱軍の兵士達が逃げまどう女を捕らえて輪姦した時。自分達は正しいことをしているのだという表の顔の陰に、嗜虐心がねっとりと滲み出ていなかっただろうか。死刑や拷問やリンチは、人間の心の奥に潜むサディスティックな感覚を刺激する。

 死刑はある意味で、いい「見せ物」である。対象となる人間は「極悪人、人」だから、安心して「処刑しろ」と叫ぶことが出来る。キリスト教徒がコロシアムでライオンの餌になるのを見るように、頬を紅潮させ、目を輝かせて見物する(実際に自分の目で見るわけではないが)ことができる。私達は私達の中に、「正義の名のもとに、人間を抹殺する楽しみ」を育ててはならないと思う。

※1/蛇足的註=関東大震災の混乱の中で軍が「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などのデマを流し、それに踊らされた自警団など(軍や警察も関与)の手で朝鮮人6000人以上が虐殺された。

〈犯罪者は癌細胞か〉

 犯罪者は、癌や畑の害虫にたとえられることがある。放っておくと大変なことになるから、除去してしまおうというわけだ。しかし癌でさえ、人によっては「それも自分の一部。なだめながら共生していこう」と考える。害虫の方は、害と思っているのは人間の一方的な価値観で、虫にとっては「なんで?」の話だろう(むろん害虫とも共生しましょう、と言っているわけではない。私も蚊は叩きつぶすし、家にはゴキブリ捕りを置いているが)。ましてや犯罪者は人間である。人間社会の中で「害」があるからといって、腫瘍のようにバッサリ切り取ればよいものではあるまい。

 犯罪は「なぜ起きるのか」「なぜ起きたのか」を分析し、起きないような社会を形成していくことが最も重要。それ抜きで「癌細胞」の排除にやっきになっている限り、無くなることはむろん、減ることもないだろう。

〈国家に人を殺す権利はない〉

 この項目は、異論のある方も多いかも知れないが……私は国家というものに懐疑的である(と言うとカッコ良すぎる。ありていに言えば、国家なんぞというわけのわからぬものが怖いのだ。※2)。できれば無くなるのが最もよく、しかし明日無くすわけにもいかず、今のところ生活していくために便利だからという理由で認めている「必要悪」に過ぎない。ところがこの必要悪は――実態のない砂上の楼閣ゆえだろうか、妙に意気込んでくれるから困るのだ。頼みもしないことに手を出し、虚の世界のくせに実の世界の住人達を締め上げようとする。そんな「国家という怪物」に、私は「人間を抹殺する権利」を与えるべきではない、と思っている。必要悪だからこそ、権利は最低限に抑えるべき。ヒトの生き死にの問題に口を出させるべきではない。

※2/私は「国家」が嫌い、というよりどうしても肌に合わない。それでブログでも国家なるものへの嫌悪を始終吐き散らしてきた。万一ご興味を持ってくださった方がありましたら、下記がその一例。

2.23「私も国家を否認する」、3.24「国家に恩はない」、4.22「芸は売っても身は売らぬ、もちろん心も売りませぬ」、5.14「芸は売っても……(3)」

◇◇◇◇◇

【山口県光市の母子殺人事件の最高裁判決に関連して、死刑廃止論バッシングのような世論が形成されつつあるようだ】とMcRashさんが書いておられた。

いわゆる「凶悪事件」が起きたり、その判決が出ると、にわかに死刑擁護論が勢いづく。むろん私は死刑擁護論をヒステリックにしりぞける気はないが、葵の印籠かざした「世論」とは厳しく一線を画したい。尻馬に乗るのではなく、どうか「自分の頭」で考え、「自分の言葉」で語って欲しい。どれほど拙くても知識不足でも、世界に拮抗しうるのは「自分の言葉」だけである。(自分の言葉、という話はUTSのコラムに少し書いた。ドサクサ紛れに宣伝しておきます)

(ブロガーの中には……というより、もしかするとほとんどのブロガーは、だろうか? 下書きをし、推敲し、これでOKとなってからエントリをアップしておられるようだ。私は推敲どころかまともに誤字のチェックすらせず、メモ感覚で書き流しているので、そういう方達のブログと比べるとほんとに恥ずかしい限り。しかしまあ……これもブログ、と最近は開き直ってもいる……スミマセン)

 

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ジョークは武器になりうるか(メモ)

2006-06-21 02:30:03 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
(これは備忘録的なメモです。覗いて下さった方、すみません)

もしかすると同類の人が多いかも知れないが、子どもの頃、試験の前になるとやたらに本を読みたくなった。その妙な癖は今でも治らず、忙しければいそがしいほど常にも増して本に淫してしまう(要するに、片付けねばならない目の前の課題から逃げているのである……なさけない)。ここ2~3週間やたらに多忙で(今日から2泊3日予定の出張で、朝早い飛飛行機に乗らねばならないし)「忙しい忙しい」と愚痴を言いながら、振り返ってみると結構本を読んでしまった。

読み散らすだけの読書はあまりよいことではないので、簡単なメモぐらいは残しておこう――

昨日電車の中で、『ナチ・ドイツと言語』(宮田光雄著、岩波新書)を読んだ。ナチ・ドイツ社会を材料として、政治の世界における「武器としての言語」について書いた本である。新書だから細かな分析は割愛されているが、問題提起という意味では非常におもしろかった。同書は言語を「民衆にナチスのイデオロギーを刷り込むための上からの言語」「民衆の抵抗の道具としての言語」および「深層意識における言語」に分けて考察しており、いずれも私の頭を刺激してくれたが、今日は2番目の「抵抗の道具としての言語」についてメモしておきたい。

ナチス政権下では、洪水のようにジョークが生まれ、ひそかに伝達され国中に広がった。さまざまなところで紹介されているので既に御存知の方が多いと思うが、同所でも紹介されているジョークの中から1つ2つ紹介しておこう(むろん同書に掲載されている通りの文章ではないが、大意は同じ)。

【1936年にジュネーヴで国際外科学会が開かれ、晩餐会で出席者が自国の医学的成果について語り合った。アメリカの医師は「腸の大部分をプラスティックの管に取り替えることに成功した」と言い、スウェーデンの医師は「我々は既に止まった心臓を手術で再び動かす方法を開発した」と言った。これを聞いたドイツの医師は、負けずとこう言った――「そんなことはものの数ではありませんね。我が国では国民の大部分が脳みそを摘出されても、誰もそれに気づいていないんですからね」!】

【ヒトラーが100歳になった老婦人を尋ね、1つだけ何でも希望をかなえてあげようと言った。老婦人は地上のことには何の関心もないが、自分が死んだときに美しい新聞広告を出して欲しいと言う。それに対してヒトラーが『フェルキッシャー・ベオバハター』に半ページ大の広告を載せようと約束すると、老婦人はこう答えた。「それはイヤです。フェルキッシャー・ベオバハターでは、誰も信用してくれませんから」】
(蛇足的な註:フェルキッシャー・ベオバハター=当時の御用新聞)

こういった「政治的ジョーク」のプラス面とマイナス面があるようで、著者の宮田氏は双方を冷静に提示している。プラス面は【ヒトラーに対する反対派を結び合わせる目に見えない共同体を想像したこと】であり、それ自体が【抵抗運動の一種である、という意見もある】(同署・154ページ)
だが、同時に政治的ジョークは、【不愉快な現状に対する激しい不満と怒りのはけ口を提供する〈通風弁〉にすぎなかったのではないか、結果的には〈体制安定化的〉な働きをしたのではないか、という醒めた解釈も出てくる】(155ページ)

どちらかが絶対的に正しい――とは言えない、と私は思う。権力者に対するからかいや政治的ジョークは、「それを作り、伝達し、ひそかにささやくこと」でガス抜きの役割を果たすこともままある。「思い切り悪口を言ったら、スッキリしちゃった」というやつである。古今東西、庶民は自分達を抑圧する権力に対して落書きや歌などを通して舌を出してきた。日本の場合で言えば、たとえば後醍醐天皇の時代に書かれた「このごろ都にはやるもの……」の落書や、江戸時代の狂歌や川柳等々。

むろん、それら自体が世の中を覆す力を持った、とは私は思わない。場合によっては、確かにガス抜きの役割も果たしてしまっただろう。だが、そういったジョークを作り続け、しつこく繰り返す情念は、決してばかにできるものではない。違和感を言葉に出して確認し続け、他者と共有するという意味があるからだ。昨日(6月20日)のエントリで、私は次のような文を書いた。

【我々の戦いには、シンボルもカリスマもいらない。シンボルやカリスマを求めた瞬間に、運動はピラミッドへの媚態を示して身をくねらせ始める。名もない庶民(私もそのひとりであると、誇りを持って宣言する)が権力側の攻勢を「へへっ」と鼻で嗤い、個々の感性に導かれてゲリラ戦を展開すること――かすかな希望はその一点にだけにつながれていると思うのは、私の妄想だろうか】

政治的ジョークは、ゲリラ戦のひとつの武器ではないだろうか。私はそういうセンスも才能も皆無なので作ろうと思っても作れないが、滾々と言葉の沸く人は何人もおられるはず。誰か作ってくれないものだろうか。

尻切れトンボのエントリになったが、出張から戻ってきて後、また続きを考えてみることにする。

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「どちらがマシか」の話ではない

2006-06-20 03:05:36 | 現政権を忌避する/政治家・政党
「お玉おばさんでもわかる政治のお話」(※)で、次期首相の話題が扱われている。『次期首相候補麻垣康三』『みんなは誰に総理になってほしいの?』という2つのエントリである。前者は「麻生太郎・谷垣禎一・福田康夫・安倍晋三のうち誰がマシか」(お玉さん自身は、この中で選べと言われる心がブルーになると書いておられるが……)、後者は「自分達国民が選べるとしたら誰がいいと思いますか?」という問いかけだった(天木直人、河野洋平、太田光らの名前を候補に挙げておられる)。

※/http://otama.livedoor.biz/
(PCの調子が非常に悪くHTMLが使いにくいのだが、このところ無茶苦茶忙しくてメンテナンスしている時間がない。したがって記事内でなかなかリンクできず、サイトの表示にとどめるしかないことを御容赦)

前者のエントリについて、私は「誰がマシかという話ではない。みんなダメ」というコメントを書いた。実際、心の底からそう思っているのだ。
我々はしばしば、「どれも嬉しくないもの」を複数示されて、「どちらが(あるいはどれが)マシか」という選択をさせられる。たとえば空腹で目の回りそうな時に、3日前に賞味期限の切れたシャケ弁当とカビのはえかけたパンを出されて、「好きな方を食べていいよ」と言われるとか。私の仕事に引きつけて言えば、財布が空っぽで何でもいいから稼がなければと焦っている時に「政治家のチョウチン記事と、タレントさんの講演草稿作りの仕事があるけど、どっちか好きな方やらない?」と声かけられるとか……。

そういった場合、いやいやながらマシそうなものを選んでしまうことが多いのだけれども、よく考えれば示された中から選ばねばならないわけではない。選ばせる方は賢く、それ意外に選択肢は皆無のように思わせてくるが、ナニ、そんなのは真っ赤な嘘である。むろん状況によっては切羽詰まって選ばねばならぬ場合もある。「シャケ弁とパン」ぐらいならば(私の場合は)腹を下すことを覚悟の上でどちらか食べるだろうが、多くの人は「チョウチン記事書いたり、自分の思想信条に抵触する講演草稿作るぐらいならば、ほかにバイト探す!」と言うのではないか。私も言う……というより、言いたいと思っている。実のところ、食うために「何だこりゃ」みたいなゴースト・ライター、スピーチ・ライターの仕事もしてきたので偉そうなことを言う資格はないのだが、ギリギリの線だけは(ほんとにギリギリの線、ですがね)何とか守ってきた……と思う。

「どちらがマシか」という発想に希望があるかのように見せてきたのが、民主党の(例の前原・前代表がぶちあげたところの)「対案路線」。いや、私は別に民主党に恨みがあるわけではなく、今の世の中の流れに少しでも歯止めをかけるために頑張ってもらいたいとそれなりの期待もしているのであるが、何でも対案を出せばいいという姿勢はいただけない。たとえば共謀罪、たとえば憲法改定国民投票法案、たとえば教育基本法改正案。はっきり言って、「今からおまえを殺す」と言われ、「じわじわ砒素を飲まされるのと、すぐにギロチンで首斬られるのとどっちがいい?」あるいは「なぶり殺しに遭うのと一瞬で殺されるのとどっちがいい?」と聞かれているようなものだ。

そりゃ、死ぬまでに少し時間の余裕があれば遺書など書けるかも知れない。なぶり殺しに遭うよりは、即死のほうが楽かも知れない。だが……殺されるという点においては、何一つ変わらないのである。その意味で、「対案」というものの罪は大きい。

以前にも書いたことがあるような気がするが、「相手と同じ土俵に乗」ってはいけない、と私は思う。同じ土俵の上での勝負は、初めに土俵を用意したほうが有利、そしてより多くの武器を持っている方が有利に決まっている。だから我々は、「乗らねぇよ」とそっぽを向いたほうがいい。

「麻垣康三」のうち、誰が一番マシだと思いますか? と言われれば、私は「冗談じゃない」と大声で言う。みんなペケなのだ、と。全員が二世・三世議員だから――というわけではない。むろん世襲はくだらないことだけれども、世襲だからNO、とは言わない。誤解を恐れずに言うならば、そんなのは小さな話である(むろん「たいした問題ではない」とか「今さら指摘しても仕方ない」というわけではない)。権力の美酒に酔った人間が子々孫々までそれを味わわせたいと思うのは、古今東西に共通した話なのだから。

ただ、それを「おかしい」「あほらしい」と思う「常識」も、世の中には存在する。その常識(常識という言葉は少々手垢がついている。コモン・センス、と言った方がいいだろうか?)を踏みにじって恥じない自民党というムラ自体が、否定されるべきものだと私は思う(自民党だけじゃありませんけれどね)。
用意された土俵を拒否した時、何があるのかと言えば――ゲリラ戦を展開するしかない。私は天木直人も河野洋平も太田光も一定程度は評価しているけれども、実のところ多大な期待をかけようとは思っていない。我々の戦いには、シンボルもカリスマもいらない。シンボルやカリスマを求めた瞬間に、運動はピラミッドへの媚態を示して身をくねらせ始める。名もない庶民(私もそのひとりであると、誇りを持って宣言する)が権力側の攻勢を「へへっ」と鼻で嗤い、個々の感性に導かれてゲリラ戦を展開すること――かすかな希望はその一点にだけにつながれていると思うのは、私の妄想だろうか。




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いくじなし

2006-06-15 00:02:32 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

まずはお知らせ。ハムニダ薫さんが、「『安倍晋三、統一教会合同結婚式に祝電』をネットに広げようキャンペーン」を展開しておられる。私もささやかに賛同! 安倍の晋さんひとりがヘンなのだという話じゃない。こういう人物が次期首相の有力候補になるような「この国の無神経さ」こそがヘンなのだ。夕刊紙や週刊誌にも(読者の1人として)「こんな話がありますよ~」と、せっせとメール送ろうっと(※)。皆さんも、ご一緒にいかが。ちなみに安倍の晋さんに対する私の意見は、ムルの意見とまったく同じ(記事の真ん中あたりで書いてます)。再チャレンジなんてふざけたこと言うんじゃない、という立場である。

「自民党再チャレンジ推進議員名簿」もネット上を駆けめぐり始めている。とくらさんのブログにリンクが貼ってあるので、彼女の記事を読みながら名簿もご参照のほど。

注※週刊誌や夕刊紙の記者達は、むろんこのニュースを既にキャッチしていると思う。『赤旗』に掲載されたから、ということだけでなく、記者達はネット上を駈け巡る情報にも結構敏感なのだ。ただ、それを取り上げるかどうかは話が別。「読者」からじゃんじゃんメールが来れば、重い腰があがる可能性大、なのであります。

 ◇◇◇◇◇

 突然話が変わる―― 「子供を産み、育てる社会か?」というとむ丸さんのエントリを読んで、気分がし~んと暗くなった。

 私はいくじなしだから、勇ましい言葉が恐ろしい。私はいくじなしだから、できれば面倒なことになど関わらず、ひっそりと息づきながら街の裏通りで生きていたい。食べていけるだけの稼ぎをして、本を読みながらぼんやりとつまらない空想の中に漂っていたいのだ。それなのに共謀罪反対だの、憲法改定反対だのと怖ず怖ずとではあれ声を出したりするのは、これまた私がいくじなしだからだろう。 いくじなしにとっては、「不寛容な社会」は何より怖い。

精神総動員がかかったら(むろん既にかかり始めているのだが、それが法制度に支えられてさらに露骨になったら)「イチ、抜~けた」と言ってすたこら逃げ出したくなるに違いない。でも本当に逃げられるのだろうか。とっつかまって、連行されるのがオチではないだろうか。机叩かれながら怒鳴られ、死ぬほど殴られたりしたら、いくじなしの私は「すみません、すみません」とヘイコラ頭を下げてしまうだろう。それどころか、とことん卑劣な人間に堕ちて、友人も親も売ってしまうに違いない。前にも言ったような気がするが、私は脅し上げられれば白目を剥いて小便を漏らし、意気地なく踏み絵を踏んでしまう人間なのである。自分でもなさけないけれども、客観的に見てそうとしか思えない。

だから……そんな社会になる前に必死で食い止めなければ、ご先祖様に申し訳ない……じゃなかった、自分に唾吐きかけたくなるだろう。藤原定家は「紅旗征戎わがことにあらず」とのたもうたが、いくじなしの私はこんなカッコイイことはとても言えないのだ……。

 「前ロマン主義者たち同様、猫というものは、廃墟とか、困難な窪みとか、ときおり尾の切れた青いトカゲなどが通る意外な通り道とかを好むものである」(レオノール・フィニ『夢先案内猫』、北嶋廣敏訳)

ああ、私も「意外な通り道」をすり抜けたい。光のかけらを追い回しながら軽やかに虹を渡り、したたかに笑うことのできる(ときにはニヤニヤ笑いだけが残ったりする!)「猫」のようになりたい。夢先案内猫に導かれて軽やかに次元を超えたいと思うのだけれども、カナシイかな、現実は鎖で地上につながれた哀れな人間である。何を言っているのか、自分でもわからなくなってきた。ただ、ひとつだけ確実に言えることがある。私のような小心翼々とした小市民がふと鳥肌を立ててしまうような社会は、どこかが狂っているのだと。

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報道者というもの――その姿勢とモラル(前編)

2006-06-14 03:30:11 | マスコミの問題

PCの不具合で、ここ2日ほど画像をアップできない。UTSその他のバナーを貼りたいのだけれど、そういう事情で……。(くそーッ、また初期化しないといけないのかよっ!)

 ネット上の親しい友人である(って、勝手にトモダチ扱いしてすみません)愚樵さんが「報道者って何者?」という記事を書かれた。この中で愚樵さんはH-Yamaguchi氏の「新聞記者はえらい、という話」を取り上げ、報道機関、報道者そして報道というものについての「素朴な疑問」を提示しておられる。実は「新聞記者はえらい、という話」は、もう10日ほども前にコメント欄でご紹介いただき、「華氏さんはどう思いますか」という問いかけも受けていた。ある意味で単純、しかしある意味では非常に難しく――どんなふうに整理すればよいのか途方に暮れたまま時間だけが経過してしまったのである……。だが、報道の末端を担う人間として、この問いには真面目に答えなくてはなるまい(勝手にそう思っているだけだが)。ちょうどいい機会、かも知れない。

 「新聞記者はえらい、という話」については実際にこの記事を読んでいただくのが一番だが、一応、要点だけを簡単にまとめておく。

 ○ある大手新聞社の役員氏によれば、記者はあらかじめ何を書きたいかを決めて(明確な結論まで持って)取材するのだという。

 ○新聞記者が書くのは事実ではなく、解釈された事実でもなく、その記者自身の主張である。記者が取材に行くのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の主張に沿った情報をネタとして仕入れるためにすぎない。

 ○つまり新聞記者の仕事というのは、事実を伝えるルポライターの仕事とも、事実を解釈する学者の仕事とも違い、むしろ「小説家」に近い。つまりアーティストであり、だから彼らは「えらい」のだ。  

以下、愚樵さんの「疑問」に対して、私なりの答えを返してみるという形で構成する。【】でくくった部分は、愚樵さんの記事内の文章である。

【新聞社とそれ以外の報道の世界では、こうも報道に対する姿勢が違っているものなのだろうか?】

  新聞社もそれ以外も、基本的な「報道の姿勢」は何ひとつ変わらないと思います。私自身、新聞の仕事をしたこともありますので、この点は自分の責任において断言できます。

 【新聞記者は言わずもがな、「事実がすべてを物語る」という姿勢の雑誌編集長も「評論家やエッセイストになってしまう」、つまりアーティストになってしまうという「事実」を指摘する。】

  私は、ルポライターは、独り立ちできるようになるとすぐ評論家やエッセイストになりたがる、という雑誌編集長の言葉を紹介しました。しかし「評論家やエッセイストになりたがる」理由は、多くの場合、「アーティストになりたい」からではないと思います。私見ですけれども、ルポライターよりも、評論家やエッセイストの方が「肉体的に楽」だからではないでしょうか。昔、「刑事と記者は足で稼ぐ」などと言われました。何人も何人もの人に会い、さらに話の裏をとって回る。話を聞くためには自分があやしい人間ではないことを真に理解してもらわねばならず、一升瓶下げて行って徹夜で飲み、一緒に泣きもする。ある意味で泥臭い、体力勝負の世界です。しかし、評論家やエッセイストは、靴の底をすり減らして歩き回らなくてもいい。歩き回った方がいいに決まっていますが、必要十分条件ではない。むろんそれなりの頭脳やセンスが必要でしょうが、少なくとも肉体的には楽――なのです。その分、綺麗な仕事でもあります。だから多くのライターが、そちらに行きたくなるのでしょう。

 やや余談ですが、私もほんの数回ですけれど、恥を忍んで講演めいたもの(要するにひとさまの前でちょっとしゃべる)をやったことがあります。自分が持続して関わった記事の関連で、刺身のツマに呼ばれただけですし、ツマですから講演料も刺身本体の先生がたとは比べものになりません(1度など、予算がなくてちゃんとした方には来てもらえないから、仕方なくあんたに頼んだと正直に言われたこともあります……さすがに自嘲せざるを得ませんでした)。それでも、2時間程度しゃべって、私が雑誌などに取材記事を書くときの「仕事の時間単価」と比べると、驚くほど多額のお金をいただいて腰が抜けました。また、ペンネームを使って、幾分か評論家的な記事を新聞に書いたこともありますけれど、その時も「こんなにもらっていいのか」とビビったのを覚えています。400字あたりの原稿料は取材記事と同じですが、取材という辛い作業がないわけですから、感覚としては桁の1つ違う金をもらってしまった、という印象でした。ほとんど麻薬を嗅がされた気分だったのです。 そういう経験を経て――私は「自分が足で稼いだ仕事以外でカネをもらったら、記者は腐る」という結論に達しました。そりゃ私だって、楽して稼げるものならそうしたい。常にそういう誘惑はあります。でも……ここはもうほんと、やせ我慢の世界なのですけれども、「誘惑にのっちゃあ、おしまいよ」。芸は売っても身は売らぬ、なのです。もっともこんなノーテンキなことを言えるのは、私が養うべき何者も持っていないからだと思います。自分の始末さえつけられればそれでよく、どこでのたれ死にしても嘆く者も困る者もいない。親や妻子のことを考えねばならない人達は、そんなキレイなことを言っておれないのです……。

 【報道機関とは常にモラルを問われるところに位置する存在である。「アーティスト」たる新聞記者はそのモラルが疑われるし、その姿勢はH-Yamaguchi氏が疑問を呈するように「取材って本当に必要なのか?」と報道機関の存在意義を疑われてしまう結果を導く。】  

 新聞記者は「予断を持ち」「自分の中で明確な結論をもって」取材する、とH-Yamaguchi氏は書いておられました。これはある意味では事実であり、同時にある意味では偏見?かも知れないと私は思っています。 こんなことを言うのは語弊があるかも知れませんが、記者が「予断を持つ」のは当然のことです。記者はコンピュータでも人形でもなく、血肉を持った人間です。主張を持ち、予断を持つのはある意味であたりまえだと私は思います。たとえば私が医療関係の法律改定の取材をするのであれば(実際、間歇的に取材しているのですけれども)、「受益者負担の思想は格差社会を補完するものだ」という自分の考えにのっとって取材するでしょう。「白紙の状態」という言葉は聞こえがいいのですが、実際問題としてはそんなことはあり得ません。人はすべて、それぞれに自分の立ち位置、視点、考え方のベクトルを持っているのですから。その意味でH-Yamaguchi氏の指摘は正しくもあり、やや論点がずれているとも言えるでしょう。 ただ、いずれにしてもその「予断と偏見」は自分だけのものであると知っておくこと、そして「予断と偏見」に賭ける覚悟があること。さらに――予断と偏見を抱きしめながらも、それが「事実」の前に膝を屈することもままあると知り、その場合は潔く兜を脱げること。――それが、報道者が報道者として生きることを許されるための必須条件であろうとも思っています。

◇◇ 夜がふけ、さすがに眠くなってもきたので、話は中断。あらためて続きを書きます。このエントリは、「報道」を考える第一歩、ということで……(実際のところ、この問題は自分にとってハンパじゃない話なのだ。しつこくしつこく、私なりに考え続けたい)◇◇

 

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お嬢様のご来駕を(強引に)賜る・後編

2006-06-12 23:03:01 | ムルのコーナー

麗子お嬢様と牡猫ムルの掛け合い漫才、じゃなかった対話も、よろけながらやっと後編――。

(このエントリは何のことかさっぱりわからんという方は、前編中編をちらっと覗いてみてください)

麗子:ムルさん、ちょくちょく消えますわね。どこに行ってらしたの。

ムル:いや、どこって……。オイラもそれなりにバタバタしてて。

麗子:今日、変な招待状がまいりましたわよ。あなたが代筆なさったんですって? お互いにあっち行ったりこっち行ったり、忙しいですわね~。でも、ひとを呼んでおいて1週間もほったらかしなんて、ちょっと礼儀にはずれません?

ムル:(お互いフィクションのキャラだからね~って、それ言っちゃあ身も蓋もない。)面倒な話はやめましょうや、ネエちゃん。

麗子:ね、ねえちゃん……(こ、こいつどんどんガラが悪くなる……)。

ムル:それよか、もうちょいまともな話しましょうよ。

麗子:そうですわね。あら、何見てらっしゃるの?(猫がパソコンいじってるところなんて、始めて見たわ)

ムル:ちょい、気になってることがあってね。……ハムニダ薫ネエちゃんのとこで、「安倍晋三内閣官房長官、統一教会主催合同結婚式に祝電」って話が書いてあったんすよ。知ってる?

麗子:と~うぜんッ! 知っておりますわ。それこそ1週間前にブログ界を震撼させたニュースじゃございませんの。あなた、遅れてますわね。

ムル:ほっといてくれ。オイラだってそれなりに忙しいんだから。飼い猫と違って餌は自分で探さなきゃなんねぇしね、つい世の中の動きに遅れるのっ! 

麗子:(あら、むくれちゃったわ。やあね、すぐ沸く小さいポットって。)まあまあ、そうとんがらなくてもよろしいんじゃありません? 何かやましいことがあるみたいに見えますわよ。ちょっと遅れたかも知れないけれど、でもキャッチなさったのは感心だと思いますわ。

ムル:(ふん。調子のいいギャルだぜ。)ともかくさあ、ひでぇよな。いや、もちろんね、誰だって信教の自由、思想の自由ってのはあるスよ。天皇は神だと思うのも、弱い人間は殺した方がいいと思うのも、思って主張するだけならご自由にどうぞ。何を信じてもいいよ、神道でもカトリックでも創価学会でも天理教でも。アレフや人民寺院でもね。ついでに言うと、誰と付き合ってもいいよ、戸塚ヨットスクールのおじさんと付き合っても、山口組の組長とオトモダチでもさ。ただ、そういう人間が「公僕」としてどうか、っていう段になりゃ、話が別。

麗子:そうですわね。うちのばあやあたりが山口組の方とお付き合いしても、そのこと自体はどうこういう問題ではありませんものね。まあ、私は嬉しくございませんから、やめてちょうだいって言うと思いますけれども。でも、公僕ともあろう方の場合は話が違いますわねえ。

ムル:そう。コーボクがどんな思想持ってて、何を信じてて、どういう人間や組織と付き合ってるかっていうのは、国民と言えばいいかな、選ぶ側にとっては大きな問題なの。安倍の晋さんも、統一教会のシンパなら、堂々とみんなの前でそう言うべきなんでやんす。

麗子:そんなこと国民の前で大声で言ったら、支持者がドドドッと減りますわよ~。石投げられるかもですわ。

ムル:そっ。だから言わない。こそこそやってる。ずっるいよな~。って、狡いのはわかってるけどさあ。

麗子:あの人、ポスト小泉の大本命、だそうですわね。

ムル:そうだってね。ほんとオイラ、人間じゃなくてよかったと思うでやんす。「再チャレンジできる社会」だの何だのって言ってるけどさ、あの人が考えてる再チャレンジって、要するに「何度でも競争しろ」っていうだけじゃん。「イチ、抜~けた」ってのはダメ。負けても負けても、立ち上がれって。スポ根ドラマじゃねえ、っつーの。で、「チャレンジし続けている限り、あんたは負け組ではないのですよ~オーホホホ」なんて、適当にひとをなだめようとしてるんだよな。こんなイヤったらしい飼い慣らしを嬉しがるなんて、人間てほんとバカだよな。

麗子:どうでもいいですけど、あんまり人間の悪口、言わないでいただけません?(あら、私の方がむくれちゃいけないわね)

ムル:へいへい、すんません。でもさ……教育基本法改正案を「21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案」とかさ(※)。どーっこが、日本の香りなのかね~。
中身のからっぽな、キレイキレイな言葉をずらずら並べただけじゃん。漂ってくるのは嘘っぽい香りだけ。

※「(現行法との)最も大きな違いは、現行法では抜け落ちていた、『公共の精神を尊ぶ』『伝統・文化の尊重』『郷土や国を愛する気持ち』『生命や自然の尊重』『道徳心』『自律の精神』などを書き込んだこと。21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案だと思う」(夕刊フジ・6月2日インタビュー記事より)

麗子:キレイキレイな言葉?

ムル:うん。どれも言葉だけ聞けば、別に文句のつけようはないことじゃん。ま、オイラなんざ「郷土や国を愛する気持ち」とか「道徳心」とかのあたりは、ちょいとゲゲゲだけどね。まあ、ごく素直に「いいんじゃないすか?」と思う人は多いだろうし、それはそれでかまわないと思うんだよねっ。でもさ、こういうキレイな言葉ほど、中に汚いものを詰め込めるんだよな~。汚いものを隠せる、っつうか。たとえばさ、「愛する」なんてすっごくキレイな言葉でしょ。でも、そういう言葉で嗜虐心とか支配欲とか、その他いろんなものにフタしちまう奴が世の中、いっぱいいるじゃん。バラの花には棘がある、じゃないや、桜の樹の下には死体が、でもない……ええい、何でもいいや。ともかくキレイな言葉ほど気をつけた方がいい、とオイラは思ってんの。腐りかけた食べ物をそのまま出されたら誰でも眉ひそめるけど、いっぱい香料ふりかけて、豪華な皿に盛って、ついでに綺麗なトッピングでもされて出されたらさ、わかんなかったりするじゃん。オイラたちは嗅覚が利くからそんなことないけどね、人間は鼻が鈍いからな~。そう言や、ここの住人なんかその典型でね。昨日なんか、賞味期限切れのハムを半分ぐらい食べたとこで、「ありゃ。やっぱり傷んでる……」なんて言ってたよ。あいつ、やっぱし折り紙付きのアホだね。けへへ。そういうアホまで、(本でも読み散らして遊んでりゃいいのにさ)わかりもせんくせに政治に口出さずにおれないこと自体、世の中おかしいくなってることの証明だよな~。

麗子:あなたの言葉が汚いのは、そういう思想が背景にあるからですの?

ムル:うっ……(また変な突っ込みをする)……そ、それはあんまし関係ないけど。腐った食べ物を食べさせようと思う連中は、必要以上に美味そうに見せかけるってこと。とにもかくにも、ああいう男が次期総理の本命とはねえ。

麗子:じゃあ、ほかの候補のほうがよろしいの? 私は名前の挙がっている方、どなたを見ても五十歩百歩って気はしますけれど。

ムル:それが辛いとこなんだよな~。麻生の太郎君はアメリカのパシリになるのが日本にとって一番いいなんて意味のこと言ってるし、谷垣禎一っつぁんもなあ……何つうか、誰が出て来ても同じって感じはするよね。そう思ってる人、多いんじゃない? 自民党ってほんとにマイナスの人材が豊富だよなあ。薫ネエチャンじゃないけど、これが最低だと思ったら、げげ。まだ下がいたぜ~てなもんで。百鬼夜行の世界だね、ほとんど。日本はまだ世紀末が終わってねぇらしいや。日本人は谷底へ谷底へ連れてかれてるね、それも綺麗に飾った馬車連ねてさ。

麗子:なんか暗いお話になりましたわね……。でも、 「まだ間に合うかも知れない」んでしょう?

ムル:間に合うか間に合わないかは、お嬢さんたち、ここで暮らしているニンゲン様次第。「イヤだ!」という声が少しずつ増えるかどうかってとこかな。オイラは高みの見物させてもらうかンね~。

麗子:若い人の右翼化がどうの、というお話をするつもりだったんですけど、逸れっ放しでしたわね。( 類似品がたくさん出回るようになる始末と言われていることですし)麗子、そろそろ失礼いたしますわ。

ムル:えっ? もう帰っちゃうの??

麗子:ですから、忙しいと申しましたでしょ。何せ、今週はUnder the Sunの皆さまとお話することになっておりますし。では、御免下さいませ~。

ムル:せっかく仲良くなりかけたのになー。また来てよなッ。今度はどっかでクッキーでも拾って……じゃない、手に入れとくからさあ。

麗子:(もう来るか、こんな狭いとこ)

――いったん、おしまい――

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「苦手」と「嫌い」について(&報道者というもの)

2006-06-07 02:24:48 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

私は時々、「苦手」という言葉を使う。

 以前、石原都知事についてグズグスと不快感を表明したところ、それに応える形でアルバイシンの丘さんが「慎太郎さんの『あさましい世の中』」という記事を書いて下さった。

【日の丸・君が代の強制への異常な執着は何なのだろう.きっと,福祉への冷酷非情さにも通じるものがあるに違いない.私はこれは,彼自身のすさまじいエリート意識がなせるわざだと見ている.障害者や女性や”三国人”への蔑視はものすごい.渡部昇一といい勝負かも知れない.それと同じ寸法で,それに支配欲をくっつけて他人の子供を国家の将棋の駒とみなせるのだ.障害者は将棋の駒にもなれなくて,国家の厄介者となる.だから,障害者もその存在が許せないのだ.うーん,渡部昇一と同じだ.】

――など、石原慎太郎という人間に対する率直な感想がその中では語られている。これ以上の詳細は、私が要約するよりも同記事をお読みいただくのが一番。実はこの記事で、私が「う~ん」と腕組みしてしまった一文があった。

【実は前々から何となく感じていたことだが,一種の世代論かもしれないが,表現・文のことだ.華氏さんの記事文には,『嫌いだ』とははっきりと書かれていない.『苦手』という苦心の表現をなさっている.これは第一にお人柄によるものだとは思うが,私はそれだけではないように感じるのだ.】

私が都知事を「苦手」と表現したことについての、彼の疑問あるいは違和感である。ハッとして、そして腕を組み、ここ2週間ばかり(時々思い出したように)考えていた。私も言葉は注意深く選びたいと思っているけれども、実のところかなり感覚的に選択していることが多い。だが、感覚的な選択は共有されるとは限らないということを、改めて認識した(今さら遅い!)。

確かに私は、直裁的な表現を避ける傾向がある。これは「お人柄」でも何でもなく、実は職業病である。たとえば小説家なり評論家なり学者なり――何でもよいけれども、ともかく「言説」を世の問う人の場合と異なり、報道者は「事実がすべてを物語る」という教育をされている。記者がどう思ったか、どう感じたかを書くのはむろんかまわないけれども、記者は評論家ではないのだから、「演説」は抑えよと。記者は「黒衣(くろこ)」であり、「言いたいこと」は原則として表れた事実や人々の言葉を丹念に拾い集めることによって表現すべきであり、「記者のナマの主張」は幕間にちょこちょこと出る程度にした方がよい、と(それが身にしみているおかげで、あんたの記事は皮肉が多いと言われているのだけれども)。

記者はなるべくシャシャリ出ない、という心掛け?が最も要求されるのはインタビューの場合。インタビューする側は適宜質問したり合いの手を入れたり、相手の発言を要約したり、相手がド忘れしたり説明を省いたことを補ったりしつつ、相手の言葉を引き出すことに専念する。対談と違って、原則として記者が自分の論を展開したり、相手と論争することはない。やらないわけではないが、自分はこう思うのですが、という質問の形を採る。自分のことを語る場合も同じ。記者が「友人に言われたんですがね」「そう言えばこの間、こんなことが」などと話すことはあるが、それも相手の言葉をさらに引き出すための手段である。ついでに言うと、相手のあまり表に出したくないホンネや、無意識の中に閉じこめていたことなども、そうやって引き出していく(甲羅を経た記者なら、発言を自分の意図する方向にさりげなく誘導することも出来る。よほどの場合でない限り、やっちゃいけないと思うが)。……もっともこれらのことは、ヒトを相手にする仕事すべてに共通した話だろう。

無署名原稿でも署名原稿でも、報道者の文章は基本的に同じである。(もうひとつついでに言うと、記者の仕事は原稿を書くことより、取材をすることの方にウエイトがかかる。また、記者の真価は、どんな文章を書くかではなく、何を・誰を取材するか、何を見るか、どんな質問をぶつけて何を引き出すか、集めた情報をどのように取捨選択するか、というところで問われる。これを忘れた記者は、どれほど文章がうまくても、どれほど立派な論を展開することが出来ても、報道者ではない)

そう言えば以前、ある雑誌の編集長にこう言われたことがある。「ルポライターの人達は、ある程度独り立ちできるようになると、すぐに評論家やエッセイストになってしまう。できれば生涯、“一介の報道者”でいて欲しい」。もちろん私は評論家やエッセイストになれるような力量はないので彼の助言は杞憂なのだが、それは別として、私は「世の中の事実の黒衣、ともすれば見過ごされたり忘れられがちなことを拾い集める役」の端くれであり続けたいと思う。

閑話休題。ともかく「自分は黒衣」という商売をしてきたので、自分の意見(ってほどのものは何もないが)を述べるときはなるべく短く、という癖がついた。同時に「あいつらバカだよな」などという言葉は自分がナマに語るのでなく、なるべく“声”として拾う癖もついた(むろん責任逃れしているのではなく、断固としてそういう声を拾う、その事柄を取材するという作業自体が記者の主張である。また、タイトルや見出しの付け方も)。だから、おそらくスパッとした表現ができにくくなったのだろう。まったくの私信や、仲間との会話では「一発、殴ってやろうか」的なことも言うけれども、公にする文章ではちょっとおすましをしてしまう(温度の低めな言葉を使う)のだ。それがいいのか悪いのか、今のところ私には判断がつかない。おそらく一生の課題であろう。(何だか言い訳がましい文章になってしまった)

それとは少し話が違うのだが、「苦手」という言葉と「嫌い」または「憎む」という言葉。これは私だけの感覚であるかも知れないが、「嫌い」や「憎む」は相手と真っ向対立する態度の表明である。同じ土俵でバトルする、という宣言だと言ってもいい。それに対して「苦手」というのは、触れあう部分が何ひとつ無い、見たくもない聞きたくもない、同じ空気を吸っていると思うだけで息苦しい、できれば消えてなくなって欲しく、それが無理なら自分の方が地の果てまで逃亡したい、というような、存在の根底にかかわるゾクリとするような感覚である。

「嫌い」や「憎む」ならば、歩み寄り?の余地がある。付き合い、話し合っているうちに、「意外に好き」な部分が出てくるかも知れないし、憎しみは薄れ、場合によっては愛情が湧くかも知れない。だが苦手意識というのは、おそらく死ぬまで払拭できまい。

ちょっと例を挙げよう。Under the Sun の日替わりコラムで、つい2日ほど前に鈴木邦男の『愛国者は信用できるか』に触れた。私は鈴木邦男も一水会も、あまり「好きではない」。しかし、決して苦手ではないのである。小沢民主党も好きではない。どちらかと言えばやや嫌いに近いかも知れないが、でも少なくとも今のところは「苦手」ではない。

また私は結構エロティシズム小説が好きで、サドやバタイユやマンディアルグなどのその種の小説は愛読書のうち。だが、フランス書院文庫のオリジナル官能小説は(2~3冊読んで)どうも「苦手」だとわかった(なら、読むな!)。古漬けの漬け物は嫌いだが、ランチについていれば「これも値段のうち」と貧乏性丸出しで食べる。しかし納豆は苦手だから、臭いを嗅ぐのもイヤだ。

いやはや、言葉というのは本当に難しい。ひとりひとりが持っている概念やイメージが微妙に(時には大幅に)違うのだから。だが、それだけに言葉というものはおもしろい。

(黒衣なんぞと言いながら、ブログでは勝手な言葉を吐き散らす。仕事で抑制かけてる反動かな。その割には言葉が飛翔せず……わぉ、みっともない……恥)

 


 

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お嬢様のご来駕を(強引に)賜る・中編

2006-06-06 22:38:30 | ムルのコーナー

前編(6月4日付)を読んでおられない方は何のことかわからないだろうが、麗子お嬢さま(luxemburgさんのブログ「とりあえず」に登場して人気を博しているキャラ)を陋屋に強引にお招きしている(拉致監禁したわけではないので念のため)。お相手を務めておりまするは、この地域(の猫族の間)に隠然たる力を持つボス・牡猫のムル――。

ムル:お待たせいたしました~。 退屈だったでやんしょ。

麗子:ああら、そんなことございませんわ。でも、わたくしも暇を持てあましているわけではございませんのよ。ずっとここにお邪魔しているわけにはまいりませんの(こんな狭苦しい部屋で、何で猫と向き合ってなきゃいけないのさ、もう)。

ムル:……で、やんしょうな。何か、あちこち忙しそうだし(別荘で犬連れのキコリとルソーやホッブスの話をしたり、じろりと睨まれると怖そうなおばさまの所でフランスのニュースがどうのってえ話したり。あんた、テレポートしてんのかよ)。

麗子:え? 何かおっしゃいまして?

ムル:いや、こっちのことでやんす。で、何の話でしたっけか。若者の右翼化がどうの保守化がどうのっていう話だったけかなあ。

麗子:それもありますけどね、お待ちしている間に急に思い出したことがありますの。

ムル:な、なんでやんす?(また面倒臭いこと言い出すなよな)

麗子:ご招待下さったここの住人の方、「国家」とか「国」とかいうものに拒否反応がおありですわね? そりゃまあ麗子も「国、国」って言われるのはウザイ、じゃなかった、好きではございませんけれど、どうしてあそこまでお嫌いになるのかしら?

ムル:確かにしょっ中、ほざいてますわな。国を愛さないとか私も国家を否認するとか国家に恩はないとか、その他いろいろ。ま、あいつのは自己チューから来てるんでしょうがね。あいつ、この間、公園のベンチで独り寂しくぼそぼそとシャケ弁食べてやがるんでね、そーっと近づいてシャケに手ぇ出したら、思いっきし蹴飛ばしやがった。慈悲とか愛とかいうもんがからきし無いね、あいつには。

麗子:それはあなた、無茶苦茶な論理……(何よ、この猫。私だって食べてるもの盗られたら蹴飛ばすわよン)。

ムル:いや、まあ個人、じゃない個猫的な話は置いといて、と。住人のことも置いとして、オイラが思ってることを話しまひょ。さっきも言ったけど(前編)、国家なんつーのは「必要悪」じゃん。できれば無い方がすっきりするけど、無きゃ不便だから作ったんだ、という話をしたでやんしょう? 違うっていう人もいるだろうけど、オイラはそう思ってますねん。

麗子:どうでもいいけど、あなた、時々関西弁が混じりません?

ムル:西の方からはるばる流れて来た猫と付き合ってるうちに、伝染ったんでやんす。って、いちいち話の腰折るなよな~(まったくギャルは付き合いにくいぜ)。ともかくさ、大喜びで創りたいもんでもないし、人間にとって無条件で素晴らしいもんでもない。そりゃプラスもあるけどね、マイナスも大きいわけで、そこんとこをきちっとおさえてないとすぐ暴走するんさ。これは国家だけじゃないけどね。人間が集まって創った有機体っつうのかな、装置と言う言葉で説明する人もいるけど、何でもいいや。そういうものって大きくなればなるほど暴走しやすいし、暴走し始めた時に止めるのも難しいんでやんすよね。それと、国ってのはもともと砂の城だから、権威づけの「神話」や「伝説」を欲しがるんよ。神の国であるとか、オオカミに育てられた兄弟が建国したとか、約束の地であるとか、あるいは輝かしい伝統とか優秀な国民とか、何でもいいけど。そういうのがないと結束できないこと自体、もともとが蜃気楼だっていう証拠でやんす。もちろんさ、蜃気楼でも虹でも幻でもかまやぁしねぇよ。でも蜃気楼じゃない、血肉をそなえたモノだって言い出す奴が必ずいる。で、みんなそっちの方に流れていく。その方が気持ちが安定するのかね。

麗子:それって誰かの説ですの?

ムル:オイラは猫だすから、むつかしいことはわからんで。誰かエライ人が言うてるかも知れん、多分、言うてるやろね。もっときちんと、論理的かつ実証的に言うてはると思うよ。でも誰かが言ってるからってんじゃなくて、こういうのは誰でも直感としてわかるんやおまへんか~。生き物の直感て、馬鹿にできへんのやで。「国」の問題だけやない、何でもそうだっしゃろ(いかん、言葉が西方向へズルズルと……都の東北でバン張ってるオイラには似つかわしくないっ)。

麗子:知識や理屈をそぎ落として、直感からスタートしろっていうことね。私の親戚に音楽に詳しいおばあさまがいらして、音楽会に連れて行ってくださるたびにウンチクがうるさいの。でも「麗子さん、これはこうこうで、音楽史上の意義はこれこれで、ここが素晴らしいんです」なんて言われると、麗子、頭が痛くなっちゃって。それより麗子が自分で素敵だわと思うかどうかが一番よね。素敵って思ったら、きっちりお勉強したくなるし。

ムル:そっ。(音楽とか高尚な世界のことは知らんけど)

麗子:それも、ここの住人の方がしつこく言っておられますわね。

ムル:はあ、まあね(あいつは頭の構造が単純なので、同じことしか言えんのでやんす)。それはともかくですね、国家っつうのは自らを神話や伝説で箔づけしないとなかなか保たないんよ。その箔づけがシャレですむ程度のものなら可愛いもんだけど、肥大してくるにつれて妙に尊大になってね、「まずは国家ありき」になっちまう。学芸会で王様の役をした子供が、本気で威張り出すみたいなもんで。くだらねぇよね。

麗子:国家というものは、性悪説で見ろということかしら。

ムル:まっ、オイラはそう思うね。ここの住人はちょいと変だとしても(何せ負け組だからね、あいつ)、ろくでもないものだ、ぐらいに思っててちょうどいいんじゃないかなあ。少なくとも「すみません、必要悪なんす」という顔で肩身狭く存在して欲しいやな。人間の上に覆い被さらせていちゃダメさ。国会議員のセンセイはじめ、公務員は「公僕」だし。いちいちウザイこと言う権利なんか、国家にはナ・イ・の。そういや最近、合計特殊出生率が1.25で、5年連続の過去最低更新とかって騒いでるじゃん。それで少子化対策をどうのこうの、と言ってるけど、そんなもん上からあれこれ言うこっちゃないよ。将来の労働力がどうの、年金がどうの、だから「産めよ増やせよ」って? 人間も、少し怒った方がいいでやんす。 

麗子:あなたも国家がお嫌いみたいですわね。

ムル:てか、猫に国境はないからね~。

 (まだ続く)

 

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お嬢様のご来駕を(強引に)賜る・前編

2006-06-04 22:54:51 | ムルのコーナー

luxemburgさんのブログ「とりあえず」に、つい先日からブログを読んで突然政治に目覚めた「西園寺麗子嬢」が登場。「ばあや」に鋭い質問を連発している。二人の一見掛け合い漫才風で、本質を突いた会話は実におもしろい。「世の中の川は左から右へ流れている」(お嬢さま、政治を考える・1)なんて、思わず膝を叩いてしまう。「よそのブログに遊びに行ってもいい」とのことなので、早速、麗子嬢を我が陋屋にお招きした。でもお招きしたのはいいが、私はお嬢さま族とはどう接すればいいかさっぱりわからないので、我が家の近くをいつも徘徊しているこのあたりのボス、ムルという名の牡猫を拝み倒して対応を一任することに。

ムル:かくもいぶせきあばらやにご来駕たまわり、光栄でございます(と、うやうやしく、一応は香りのする紅茶をテーブルに置く)。

 麗子:何だかわからないけれど、ご招待状をいただきましたから。ばあやは(アホが伝染るから)そんな所に行くな、と申しましたんですけれどね……。それはいいけれど、こんな所でお茶を出していただかなくてもよろしいのよ。落ち着かないし。早く応接間にご案内くださいな。

ムル:応接間も何も、あんた……いえ失礼、お嬢さま。客を通す部屋はここしかないんですが。

麗子:えええええ~。私、もしかすると物置か、せいぜい供待ち部屋だと思いましたわ。この奥には、もうお部屋はありませんの?

ムル:奥に通りたきゃ通られてもようござんすがね。通ったら、この先は外、マンションの自転車置き場ですよ。

麗子:驚き桃の木、山椒の木。……あら、はしたないこと言ってごめんなさいませね。ところで今日は、政治のお話をってことだったんですけど、あなたが何かお話をしてくれるの?

ムル:うう、何と言えばいいのか……この家のミーハー住人が、是非お嬢様に来ていただく~と騒いだだけでね。そのくせ、いざとなったら逃げやがって。オイラ、いや私めは急遽代役引き受けただけでやんす。でもまあ、私めも年ふりて人語を解する猫。お話の相手ぐらいはつとまるかと存じます。(何せ猫ですからね、大したことは言えませんけど、ここの住人よりはマシかも。)

麗子:ふ~ん。まあいいわ。でも猫と難しいお話できるとも思えないし……。じゃあ麗子がちょっと考えていること、1つ2つ申し上げますわね。ひとつは最近あちこちのブログでものすごく反対している「共謀罪」ね。継続審議になったけれど、与党案というのかしら? あれを見ますと、「何これ」みたいな法律でしょう? どうしてあんなものが出てくるのかしら。もうひとつ、「今の若者は右傾化してる、保守化してる」ってよく聞きますのよね、これ本当かしら?

ムル:(このギャル、面倒臭いこと言い出しやがって)……オホン。まず共謀罪でございまするが……オイラ、いや私めが愚考いたしまするに。

麗子:オイラ、でよろしくってよ。普通にお話くださいませな。(聞いてるこっちの方が疲れるんだから、もう)

ムル:ど、どうもです。じゃあカミシモ脱いで、っと。むつかしいことはわからんので単純な言い方しちゃいますけどね、国家ってものは――権力者と言ってもいいすけど、もともと共謀、じゃなかった、凶暴なもんでしてね。ほっとくと、どんどん怪物化してくるんでやんす。これはもう、宿命みたいなもんで。

麗子:あら、そうなの。

ムル:国家っつうのは元来、人間にとって「必要悪」なんですよね。まあ猫には関係ないけどね。人間達がいろいろ決めごとしないと暮らしていくのに不便だからってんで、一応の枠、みたいなものを作っただけ。 だからナンボのもんでもないのにね、なまじ所帯が大きいのと、所属してる人間から税金集めたり罰したりできる力持ってることで、何か勘違いが起きるんだなー。勘違いして、ろくでもなく育っていっちまう。つうか、ありがたそーに飾り立てて育てる奴が出てくるんでやんす。自分が「威を借る」ための、「虎」に仕立て上げるんですワ。必要悪と言えば、オイラなんざ、法律なんぞも少なければ少ないほどいいと思ってるだす。細かいことを決めれば決めるほど、身動きしにくくなるでやんしょ。法律ってのは本質的に「切り捨ての思想」で成り立ってますからね。いや、この言い方は変かな。「縛りをかける方向」にあるもの、と言うか。つまり「あれはダメ、これはダメ」。

麗子:「あれをしろ、これをしろ」という面もあるんじゃなくって? ほら、教育基本法改定案の「国を愛する心」とか……。

ムル:そういうのも、ある意味で「切り捨て思想」でやんす。「国を愛さないのはダメ」ってことですからね。ともかくそうやって切り捨てていけば、心と言うんですかね、感性というんでしょうかね、そういう世界がどんどん縮こまっていくのはわかりきったことじゃん。ちょっと油断して飛び跳ねたらすぐ鉄条網にひっかかるなんて具合になれば、誰だってオドオド、ビクビク暮らすようになるでしょ。そうやって縮こまらせると、上の方はやりやすいんですよ。

麗子:でも、社会には「縛り」が必要なこともあるんじゃなくって? 脱税とか子供の虐待とか差別とか、好き勝手やり放題っていうのはいけませんでしょう。

ムル:それは当然のことでやんす。「やっちゃあいけないこと」はみんなできちんと決めて、縛りをかけなきゃね。基本的にはそれだけでいい、とオイラは言ってるんす。ちょっと乱暴な言い方かも知らんけど。でもね、国家というか権力者というか、ここの住人がよく使う言葉を借りれば「オカミ」はね、それだけでは満足しないんだよなー。シモジモの者を飼い慣らすために、勝手に「やっちゃあいけないこと」を拡大していくんでやんす。よっぽど用心しなきゃあダメですぜ。それからね、行動を縛るっつうのは、むろんそれも縛られる方にとっちゃあ大変なことなんですがね、それより「心を縛る」ってんですかね、頭の中や心の中を縛ることの方が飼い慣らしを進めやすいんでやんすよ。たとえばですな、お殿サンが通る時は土下座しないとアカンというのなら、そりゃシャクに障るけど、形だけ土下座しとこうかとか、お殿サンが通る時はどっかに逃げておこうとか、できますやん。でもですよ、「お殿サンに忠誠心持て。反抗的な気持ち持つ奴は悪党だ」とか言われたら、お嬢さま、どうします? 気持ちなんて、普通、湧いてくるのは止めらんからね。間違ってもそういう気持ちが湧かないよう、自分で自分を押さえつけるしかないでしょ。子供とかもそういうふうにしつけて、さ。

麗子:共謀罪が「心を縛る」とか「思想を縛る」とか言われているのは、そういうことなんですのね。でも共謀罪って、もともと国際的組織犯罪でしたかしら、それを防止する条約に批准するためとか言われてますわね?

ムル:あの条約自体、オイラなんざちょびっと疑問もあるんでやんすがね、まあそれは別の話。その条約との絡みで国内の法律を整備しなきゃいけない、としてもですよ。何で、ポーンと共謀罪に飛ばなきゃいけないんでさ? よくオエラガタが言う「諸外国」だって、共謀罪なるものが存在する国の方が少ないでやんす。オカミは「千載一遇のチャンス!」と手を叩いたな、とオイラは思うね。彼らにしてみれば、このチャンスを利用しない手はない、ってことでやんしょうね。国連がとか、条約が、とか言われたら、そうかなーとつい思うもん。

麗子:何だか随分と大雑把なお話ですけれど……(猫だから仕方ないか)……素朴なご意見としておもしろうございますわ。では次のお話……あら、何かちっちゃなものが跳んでますわよ。それ何ですの?

ムル:あっ、これは……ノ、ノミというものでやんす……。

麗子:きゃー!!!! 

ムル:ちょっと待ってて。……毛を梳いて来るんで……。

麗子:やっぱり、こんな所に来るんじゃなかったかしら?(ため息) 

 (本日はここまで。後半に続く)

 

 

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共謀罪、今日成立? そんな馬鹿な!

2006-06-02 04:48:11 | 憲法その他法律


私の参加しているMLで緊急ニュースが流れてきた。なんと、「今日(2日・金曜)の午後に急遽「共謀罪」が成立」! 与党は民主党案を丸呑みして「とりあえず成立」させ、秋の臨時国会で修正する腹づもりとか。(どたばたしていた為、キャッチするのが遅くなった。慌てた)

あせって自分も「お知らせ」しようとブログを開いたら、既に複数の方からTBが入っていた。ほかにも多くの方が既に訴えておられ、共謀罪に神経を尖らせているブロガー達は、さすがに情報のキャッチが早い。 なるべく広く情報を流すことと、反対表明のため、私も緊急エントリを立てる。まず、主な緊急アピールと報道の紹介。

〈社民党・福島党首の緊急アピール〉
1日夜の理事懇談会の結果、急転直下、明日6月2日(金)13時より15時に衆院法務委員会で共謀罪の審議が入りました。与党は民主党案を丸呑みしてでも成立させたいとのこと、何が何でも国会の会期末に成立させたいとの姿勢は本当におかしいです。社民党は3年前の当初から共謀罪は一貫して廃案すべきと主張してきました。いかなる修正をかけたとしても、共謀罪という概念自体が大問題である事に変わりはありません。明日、もし採決するとすれば、拙速であり、絶対に許せないと改めて声を大にして主張します。治安維持法の再来ともなりうる共謀罪の成立は、絶対に認められません。共謀罪の成立を今まで阻止してきたのは、世論の力、みなさんの声の力です。みなさんの声を、今こそ、貸してください。 (2006年6月1日21:00) 。
福島みずほ党首HP/http://www.mizuhoto.org/

(保坂展人のどこどこ日記http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/も参照)

〈共謀罪法、民主党案受諾へ 与党一転、今国会成立も〉
2006年06月01日22時02分 「共謀罪」創設を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案をめぐり、自民・公明の与党は1日の衆院法務委員会の理事会で、民主党の修正案をそのまま受け入れる考えを表明した。18日の会期末が迫る中で、自民党の細田博之国会対策委員長が受け入れを指示した。民主党は国際組織犯罪防止条約との整合性を政府側が確認することを条件に、2日にも採決に応じる構え。政府・与党は今国会中の成立を見送る方針をいったんは固めたが、一転して成立する可能性が出てきた(朝日ネット・6月1日22時02分、以下略)

〈与党が修正案丸のみ 共謀罪 一転、成立も〉
「共謀罪」を新設する組織犯罪処罰法などの改正案をめぐり与党は1日午後の衆院法務委員会理事会で、民主党が提出した共謀罪の適用範囲を限定する修正案を全面的に受け入れる考えを表明、2日午後の委員会採決を提案した。民主党は採決に先立つ質疑で政府側の見解をただし「納得できる答弁」が得られれば採決に応じる方向。同改正案は一転、今国会で成立する可能性が出てきた。 ただ民主党の小沢一郎代表は鳩山由紀夫幹事長に「(修正案を)通しても一文の得にもならない」と慎重に対応するよう指示、最終決着には流動的な要素が残されている。(共同通信、6月1日23時51分)

◇◇◇◇◇◇◇◇

真っ先に、「やられた!!」という言葉が頭をよぎった。いったんは与党案を捨てても、とにかく成立させてしまえばいい。成立させてさえしまえばこっちのもの、後でいくらでも修正できるというのはいかにも与党の考えそうなこと。というより、誰でも考えること。実生活でもこういうパターンはよくある。「1度ウンと言わせれば、モノゴトは後で何とでもなる」のである! 冗談じゃない。

しかしまだ、成立したわけではない。民主党は与党から使われた色目に対して、まだ慎重に対応する姿勢をとっているという。それが本音かどうかはいざ知らず、繰り返すけれども「まだ成立していない」! 
今日、成立するかの鍵は民主党が握っている。「共謀罪の拙速な成立に手を貸さないで欲しい。とりあえず民主党案を丸呑みして次回修正すればいいという与党幹部の声もニュースで紹介されており、非常に不安である。もっともっと慎重に審議してほしい。私達は民主党に期待している」といった内容の強い要望を急いで送る(今日の昼頃までが目安)形で、民主党が与党に妥協することを阻止したい。

民主党の主な議員等のFAX番号は下記の通り。

衆院法務理事・高山 智司03-3508-3836  
衆院法務理事・平岡 秀夫03-3508-1055
衆院法務委員・石関 貴史03-3508-3736
衆院法務委員・枝野 幸男03-3591-2249
衆院法務委員・河村 たかし03-3508-3537
衆院法務委員・小宮山 泰子03-3508-3614
衆院法務委員・細川 律夫03-3593-7148

民主党本部 03-3595-9991   
最高顧問・羽田 孜 03-3502-5080
代表代行・菅 直人 03-3595-0090
幹事長・鳩山 由紀夫 03-3502-5295
政策調査会長・松本 剛明 03-3508-3214
国会対策委員長・渡部 恒三 03-3502-5029
常任幹事会議長・川端 達夫 03-3502-5813
選挙対策委員長・安住 淳 03-3508-3503
参議院議員会長・江田 五月 03-5512-2608
参議院幹事長・輿石 東 03-3593-6710
参議院国会対策委員長 平田 健二 03-5512-2332
ネクスト法務大臣・千葉 景子 03-5512-2412

小沢一郎代表はFAXなし。TEL03-3508-7175

もしも与党に妥協して共謀罪の成立に手を貸したら、民主党、許さ~ん!!
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