華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

麗子と玲奈の「手探りで死刑を考える」4軒目

2006-09-28 05:58:28 | 死刑廃止/刑罰

luxemburgさんの所に死刑廃止に関するロベール・バダンテールの演説の翻訳が送られたことに端を発し、何となくの雰囲気でブロガーの間に連載エントリが生まれた。おみゃーもやってみろよ、と言われ、腰軽く乗った結果がこれである。

◇◇◇◇開幕――

 西園寺邸から始まって、お玉屋敷とむ丸邸と続いた「死刑廃止論行脚」4軒目。麗子、玲奈、ばあやの3人組は、今回は東京都のはずれにやって来た。さびれた商店街を抜けると雪国……じゃなかった、殺風景な灰色っぽいマンションが建っている。そのエントランスに足を踏み入れかけながら――

ばあや:(レースのハンカチで汗を拭きながら)お嬢さま、玲奈さま。いろいろな方のお宅を訪問して死刑廃止の問題をお考えになる、というのは結構でございますよ。ばあやも大賛成でございますけれども、何もこんな所まで足を運ばれなくても……。お玉さんやとむ丸ちゃんのママと、もう充分にいいお話ができたことですし。

麗子:でも、お約束してしまったんですもの。疲れていたら、今日はばあやはご遠慮する?

ばあや:そんなわけには参りません! 特に華氏さんとやらは、例の下品な猫の友達だそうじゃございませんか。お耳を汚すような言葉など口にされませんよう、私が睨みをきかせておかなければ。

玲奈:正直申しまして、今日の方とのお話は、あんまり成果は期待できません。専門的な知識など全然お持ちではありませんし、その上「いくじなし宣言」などというものをされている頼りない方ですしね。でも死刑廃止論の迷宮をたどるには、一筋のアリアドネの糸だけを頼みにしてはいけませんでしょう。存在そのものがカオス、みたいなわけのわからない人にも1度ぐらいは会ってみる価値があるかもですわ。……ささ、入りましょう……。

(などと3人が気乗りしない顔を見合わせて小さなため息をついた時、植え込みの陰から「おっ待ったせ~。ごめんごめん」という調子外れの声)

麗子&玲奈:きゃああああ

ムル:そんな変な声出さないでよお。麗子ちゃん、お久しぶり~。いつも綺麗だね~。玲奈ちゃん、初めましてッ。

(しなやかな身ごなしで飛び出した、顔見知りのノラ猫。その後ろから、一回り小柄な若い猫がはにかむような笑顔を覗かせる)

ばあや:ま、また問題猫が……。シッシッ。お嬢様、玲奈様、こんな変な猫は無視して、さっさと参りましょう。

ムル:待った待った。今日、話のお相手するのはおいらなんだぜ。

麗子&玲奈&ばあや:ええええええ~!! 華氏さんとやらはどうしたのよ。

ムル:けけけ。あいつはね、珍客を迎えるってんで朝からシャカリキで掃除始めたんだけど、柄にもないことするから持病の胃痙攣起こしやがったの。つくづくバッカだよな~。で、またおいらに代役してくれってさ。今日は相棒も連れて来たぜ。ほら、トマ、ぼーっとしてねぇで挨拶しろよ。

トマ:(目をパチパチさせながら)初めまして……僕、トマシーナといいます。華氏んちの居候で、ムル兄貴の弟分です。こんな辺鄙な所に、よくいらっしゃいました。

麗子:まぁ、可愛い~。ムルとは随分違うわね。

トマ:華氏がご用意していたお華氏……じゃなかった、お菓子を持ってきました(と、傍らのバスケットを前足で叩く)。召し上がりながら、兄貴とご歓談くださいませ。

ばあや:ご、ご歓談って……ここで?

ムル:あそこの公園で。ピクニックみたいで感じいいじゃん?

……ということで、公園の片隅の四阿に陣取り、ドドールの紙パック入りコーヒーと、3袋まとめて1000円の安物のクッキーを前に置いて3人と2匹の奇妙なお茶会が始まった。

◇◇◇◇◇◇◇

麗子:先日は、とむ丸ちゃんのママさんと有意義なお話をしましたの。ママさんはロベール・バダンテールの演説を読んで感激なさったんですって。

ムル:華氏も一応、読んでたよ。あ、玲奈ちゃん、翻訳のお礼言っておいてくれってさ。あとバダンテールの『そして、死刑は廃止された』も読んでね。あいついい加減な奴だけど、それでもしばらく考え込んでたぜ。で、おいらも付き合って一晩中、死刑廃止について話をしたんだ。あいつとおいらの意見はベクトルがだいたい一致してるから、充分に代理が務まると思うぜ。バダンテールさんって言えば、あの人、14年前に日本に来たことがあるんだよね。

玲奈:ムル、あなた、その時のことを知っているわけ?

ムル:やめてくれ~。まだおいら、生まれてるわけねぇだろ。猫の長老に聞いたのッ。その時に通訳をした鵜飼哲っていうフランス文学の研究者がね、バダンテールにこう言われたんだって。「ここ(日本)はこんなに犯罪率が低いんだから、死刑なんて、何かの間違いで放置されてるだけなんじゃないの?」。日本で死刑が存続していること自体、驚きだったみたいだね。「死刑は廃止しましょう」だけじゃなくて、「なんでまだ、死刑なんていう前時代的な変なものがあるの?」という問い掛けも大事だと思うよ。

玲奈:バダンテールさんの演説の、どの部分に感銘を受けました?

ムル:全部……というのが正確だけど、そうだなぁ、特にここんとこが印象に残ってるね。

【自由の国ではほとんどあらゆる所で、死刑廃止が規則になっております。独裁制が支配する国ではどこでも、死刑が実施されています。世界のこの色分けは単純な偶然の一致ではなく、ひとつの相関関係を表しているのです】

玲奈:続けてバダンテールはこんなことを言ってますわね。国家は市民の命を奪うところまで、市民を意のままにする権利を持っている。――死刑はそういう考え方に由来しているのであり、ここに死刑の本当の政治的な意味があるのだと。確かに、これは死刑を考える時の「核」ですね。国家に対して、命を奪う権限まで与えるのかどうか。国家は国民を誰彼かまわず殺すわけじゃないけど、国の制度が国民と国家の関係を象徴しているとしたら、死刑がある国は民主主義ではなくて全体主義、独裁制が支配していることになる、という考えには頷けますわ。

ムル:権力は限りなく肥大して、常に一人歩きする危険性を孕んでいる、ってことじゃぁねえの? だからこそ厳しく縛っとく必要があるのにさ、人間はそういうこともわかんねーのかなあ……。おいらたち猫の世界の方が、よっぽどまっとうだぜぇ。国旗・国歌もねぇし、国境もねぇし、死刑もねぇしよ。

ばあや:カンボジアが死刑を廃止したのは、ポル・ポト政権下で虐殺を経験し、国家にそういう手段を持たせてはいけないと思ったからだといわれておりますわね。

麗子:そう言えばドイツの死刑廃止(厳密に言えば死刑廃止の復活)も、背景には第二次大戦下のジェノサイドに対する反省があったと言われておりますし。

トマ:(クッキーを頬張りながら小声で)じゃあなんで、日本は死刑廃止しなかったのかなあ……。ジェノサイドはあったけど、自分の国の中でやったことじゃないから、ピンと来てないのかな?

玲奈:あ、この子、いいこと言うわね(と、トマの頭を撫でる)。

ムル:うぉっほん。死刑廃止運動を続けている安田好弘弁護士って人は、『現代思想』っていう雑誌のインタビューに答えてこう言っている(2004年3月号)。

【死刑があるかないかは、国家が何によって支配されているかということです。国家の強さの問題だとも思います。逆に言うと国家の中にいる市民がどれほど管理され統制された中で生活しているかなんです。高度に政治的な問題だと思います。】  

安田さんは死刑の廃止/存続は宗教的な背景とは関係ない、とも言ってるんだよ。国家の力があまり強くない所、武力で支配されていない国で、死刑が廃止されていく。イタリアは第二次大戦前に廃止してたんだけど、ムッソリーニが政権を取った時に復活したんだよね(現在は廃止)。ドイツの場合だってヴァイマル共和国の憲法で死刑は廃止されていたのに、第三帝国の時代にその条文が停止されたそうだしさ(現在は死刑廃止条文再生)。死刑ってのはさあ、国家が国民をひとつの方向に余念なからしめようとする時に出てくる制度、って気はするよな~。

麗子:よく、宗教の問題だという方がおられますけれど、あれは間違いなのね。

ムル:と、おいらも思う。ヨーロッパで廃止した国が多いのはキリスト教の思想との関係で、っていう人がいるけどさあ。キリスト教を背景にした死刑肯定論、てのもあるんだぜ。十字架の上でイエスは「父よ、この人達を赦してください。なぜなら彼らは自分のしていることを知らないのですから」と言った、と聖書に書いてあるそうだね。逆に言うと「自分のしていることを知っている人間」、つまり確信犯に対する赦しはない、なんて解釈する人もいるらしい。神学者とかの中にはさ。死刑は救済である、みたいなことをいう人もいるそうだよ。おいらは直接、会ったことないけどさ~。仏教徒でもイスラム教徒でも、それぞれの信仰する宗教に基づいて死刑肯定論を展開する人と、廃止論を唱える人がいるしさあ。宗教の話は切り離した方がいいと思うんだよな。純粋に政治的な問題に宗教だのを絡めるのは、フェアじゃねぇと思う。ヨーロッパで死刑を廃止した国が多いのは、国境を接した国々が血みどろの争いを繰り返し、人が人を殺すということの意味を痛切に考えさせられた果てにたどり着いた地平、って感じもする。言ってみれば、流され続けた膨大な血と涙であがなった地平、さ。世界は、その地平にもっともっと敬意払った方がいいと思うな。

玲奈:宗教以外にも、たとえば「特殊な文化的背景」論なども切り離した方がよくないかしら。「日本には、死んでお詫びするというメンタリティがあって」うんぬんとおっしゃる方がいますわねえ。あれも変ですわね。

麗子:ただ、問題は遺族感情というのですか、「加害者を許せない」と叫ぶ被害者遺族の気持ちですわね。これを強調されると、麗子はどう考えればいいのか当惑いたしますの。

玲奈:ええ、バダンテールも死刑廃止演説の中でそれに触れて「人間の自然な感情です」と言っていますね。そのうえで、「個人的報復を否定するのが歴史の流れ」と述べているわけですけど.……。

ばあや:そのことですけれど、お嬢様、原田正治さんという方が『弟を殺した彼と、僕』という本を出されています(2004年刊行、ポプラ社)。原田さんの弟さんはトラックの運転をしておられ、勤め先の社長・Hに保険金目当てで交通事故を装って殺されたのでございます。裁判では原田さんも証言台に立って「極刑を望みます」とおっしゃり、死刑が確定した時も「当然だ」と思われたそうです。でも、その後で拘置所から来たHの手紙を読んだりするうちに、会いたくなるのですね。直接、罵ってやりたいと思ったのだそうですが、彼が謝ってくれたことで気持ちが落ち着いた。許したわけではないけれど、直接謝罪の言葉を聞くことで、誰のどんな慰めよりも癒されたと原田さんは書いておられます。面会は4回にわたり、手紙のやりとりも続きました。2001年に死刑が執行された時、原田さんは「H君(と、加害者を君づけで呼んでいる。年齢は原田さんの方が少し上)の死で、僕の彼に対する憎しみや怒りは癒されるわけではない。でも、彼ともっと交流させて欲しかった」という意味のことを原田さんは書いておられます。

ムル:ばあさん、よく知ってるじゃーん。さっすが年の功。あっ、イテテ(ばあやに耳をつねられた)。ぼうりょくはんたーい。

玲奈:原田さんという方は、死刑廃止の運動をしておられますね。アムネスティの集会などで講演なさったり。死刑は被害者遺族を置き去りにするだけ。殺人を犯した人には、生きて、償って欲しいと思っておられるようですね。

麗子:愛する人を殺されたら、感情が激している時は誰だって犯人に対して「殺してやる!」と叫ぶと思いますわ。でも加害者を殺しても、被害者と共に過ごしていた生活が戻るわけではありませんわね。加害者が死刑になって溜飲が下がったというのは、関係ない他人が言うことですわねえ。対岸の火事、の感覚で。

玲奈:溜飲が下がったというのは関係ない他人が言うことって、その通りですわ。原田さんのような被害者の遺族が死刑反対の意思表示をすると、関係ない他人から「なんで死刑にしろと言わないんだ」という脅迫のような反応がくる、という話も聞いたことがあります。そういう反応、ちょっと悲しいですね。

ばあや:ただ、さっきも玲奈さんが言われました通り、人間の復讐心をどのように解決するか、という問題はありますね。ひどい目に遭ったら、恨みを晴らしたいという。身内や友人を無惨に殺された人間が苦労して仇を討つ、加害者を殺すという話は、古今東西たくさんあります。そして、喜んで受け入れられてもいるのでございます。

ムル:父親を裏切ったオフクロとその愛人に娘が復讐をする『エレクトラ』とか、愛する男を殺された女が1人ずつ復讐していくという『黒衣の花嫁』とかさ。それから世界中の神話でもお伽噺でも……たとえば……

麗子&玲奈&ばあや:ストーップ! このバカ猫!! 華氏さんの影響か知らないけど、本の題名とかをズラズラ並べるのは止めなさい!

ムル:へいへい。今日は3人もいるから分が悪いや。おいトマ、おまえ何笑ってるんだよッ。まっ、ともかく復讐譚はほんと多いし、結構いい話的に読み継がれてもいるよね。人間の中には、ひどい目に遭った時、「恨み晴らさでおくべきか」みたいな感情があるのは確かだと思う。ましてや身内とかが殺されたりしたら……。

麗子:憎悪し、殺してやりたいと思うのは当たり前?

ムル:そういう感情はあるだろうよね。それをいいとか悪いとかは言えないさ。麗子ちゃんたちも名前聞いたことがあると思うけど、池田浩士っていうドイツ文学の研究者がいてさ。この人は死刑廃止論者なんだけど、死刑廃止委員会が編集した年報とかで、いつも言ってることがあるんだよね。

【死刑廃止を考え、また口にも出すとき、そのつど逃げることの出来ない自分自身への問いがあるとすれば、それは、おまえの大切な人を無惨に殺害した犯人が死刑になる時も、おまえはそれに反対するか――という問いかも知れない】(上記年報2005年版・インパクト出版会刊行)  

ほんと……軽く答えることはできない問いだよね。おいらだって、たとえば愛している猫がおもしろ半分に人間に殺されたりしたら――と思うとゾッとするさ。随分前だけどね、おいらの友達の子供が浚われて、化粧品会社だか薬品会社だかの実験に使われて死んだことがある。その時おいらの友達は、一生許さない、(実験に携わった人間達を)殺してやりたい、と叫んで血のような涙を流し続けた……。わかるんだよ。憎悪で身を焼かれるような、その気持ち。たださあ……復讐心を心ゆくまで満足させることに合意したら、ヴァンデッタの世界になるじゃん。

玲奈:『Vフォー・ヴァンデッタ』?

ムル:それは映画!! おいらが言ってるのは、一族同士が何代もにわたって、血で血を洗う復讐を続けるというやつ。むかしコルシカ島にあったものとか聞いたことがあるけど、なーに、何処の国だって多かれ少なかれそういうものはあったと思うよ。父親を殺された息子なり娘なりが、相手を殺す。次はその子供達に殺される……。憎しみの連鎖、ってやつだよなあ。そういう連鎖を断ち切るために、人間は必死で宗教とか哲学とかをこね回してるんだと思うけどな。

麗子:個人の復讐は禁じた社会でも、「代わりに法の下で復讐してもらう」制度は残りましたのよね。永遠の報復合戦にピリオドを打つための方策、という方もおられますわね。

トマ:ねえねえ、個人的復讐の代替、って考え方はおかしくない? 復讐心は感情の問題だもん。法律にはなじまないよ……。

麗子:そうね。報復感情や憎悪や、人を差別する心や……みんな、私達がひとりひとり苦しみながら解決していかなければいけないんですわ。

玲奈:感情と言えば……とむ丸ちゃんのママさんが、「死の囲い込み」というお話をしてくださいました。カミュのお父さんがギロチンによる処刑を目撃した後、家に帰って激しく嘔吐したことなどを話され、「いま、処刑が目の前でおこなわれたら、私達の感性はどれだけ耐えられるでしょうか」って言っておられましたわ。公開されないから、私達は考えずにおれるのだと。

ムル:非公開性の問題だけど……日本でも、明治になるまでは死刑が公開されていたよね。むろん全部の死刑がじゃないけど。市中引き回しをして、河原で首斬ったりさ。キリシタンの磔なんかも公開されててさ。残虐な刑を見せることで「おまえらも犯罪を犯すと(おかみに逆らうと)こうなるぞ」と脅しつけたわけ。何処の国でも同じだけど。それを見て、カミュのお父さんみたいに耐えられない思いを抱く人もいただろうけど、その一方で、素敵な見せ物みたいに喜んでた人々もいると思うんだ。ほら、昔は村とか小さな集団の「私刑」ってのがあったじゃない。重大な犯罪じゃなくても、たとえば物を盗んだとか放火したとか姦通したとか……集団のモラルやルールに違反した人間を、生き埋めにしたり、村はずれの丘でしばり首にしたりさ。それを嬉々としてやった人々がいて、さらにその何倍何十倍も、ワクワクしながら見ていた人々がいるわけでね。彼らだって、今の麗子ちゃんたちと違う人間だってわけじゃないんだぜ。死刑を公開したとするじゃん? そしたら、それを楽しむ連中がいる……と言うよか、楽しんでしまうものが誰の心の底にも潜んでるんじゃないかとおいらは思う。実際に首を斬る役目の人は別としてさ、見ているだけの方は、自分が手を汚すわけじゃあないもん。今この瞬間だって、ネット上に残虐な写真が流され、それにアクセスして興奮する人間がいる。強姦願望を持つ人間や、単なる好奇心で人を殺してみたいという人間もいる……。

麗子:人間の中には、そういう残虐性もあるんだと言いたいわけですの?

ムル:うん。死刑の公開は、そういう残虐性をエスカレートさせてしまう危険性もないじゃない。むろん、近代以降多くの国で死刑が非公開になったのは別の理由だけどさ。とむ丸ちゃんのママも言ってるように「臭いものにフタ」って感じで隠してるわけだけどね。善良な庶民の皆さんには関係ありませんよって。市民の目から隠すのは、多くの人が近代以前のように「おかみの言われることは何でも正しい」とは思わなくなってるからかも。「おかみ絶対」じゃあない場合は、「見せしめ」のつもりで見せたものが逆の効果を生みかねないからね。ま、処刑の公開は国家の側にも市民の側にもリスクがあるということさ。ただ、さっき言った残虐性のことは、麗子ちゃんたちにも考えて欲しいんだ。自分の中のそれと向き合って、その上でひとりひとりがそれを昇華して欲しいんだよね。さもなきゃ戦争の放棄や死刑の廃止をしても、いつかまた、何かでうまく刺激されて「あいつを殺せ」の声が復活する危険性が残ると思うんだよな。

玲奈:うーん、バダンテール演説を読んで、死刑のない期間は殺人発生件数が減っていたということを知って、死刑という制度が人間の残虐性を拡大しているんじゃないかと私は思いました。

ムル:むろん、そういう面もあると思うさ。ただ、もともと存在しないものならば、刺激されも拡大されもするわきゃあない。

麗子:人間の残虐性……そんなものの存在など信じたくありませんけれど、あるんでしょうね……。

ムル:おいらみたいなご意見無用の野良猫が言うのは変だけどさ……人間てほんと、どっちに転ぶかわからない、危うーい生き物だと思うんだよな。自分の中にある衝動みたいなものをきちんと分析して、それを乗り越える哲学を持てるかどうか。それが人間が崇高な存在でいられるかどうかの境目だと思うけどね。あっ、哲学なんて言ったけどさぁ、カントが、サルトルが、ラカンが、なんてこと言ってるわけじゃあねぇよ(そうい言えばカントの死刑肯定論は有名だけどさぁ、彼の論理を突き詰めれば究極のところ、ぐるっと回って死刑否定論と重なったりするんだよな)。もっと……何というか、素朴な……生き物の倫理、みたいなものかな。そんな、むつかしく考えるようなことじゃないと思うんだよな……。

ばあや:日が傾いてまいりましたよ。お嬢様、玲奈様、そろそろお戻りになりませんと……。

麗子:そうね。じゃ、失礼しましょうか。

ムル:名残惜しいけどさー、泊まってもらうわけにもいかないし、じゃあこの辺でね。次も何処かに行くの?

麗子:ええ。ぷらさんのお宅にお邪魔しようかしらって。

ムル:ああ……あの人は感覚の鋭い人だからね。全く違う角度から、普通はなかなか気がつかないことをしゃべりまくってくれると思うぜ。華氏なんぞに会ってゴタク聞くより、ずっとおもしろいはずさ。こんなこと言うのはシャクだけどよ、華氏にしてもおいらにしても、所詮は小理屈をこね回してるだけさ。生半可な知識だの理屈なんざ弱いもんで、ひょんなことですぐコロッとひっくり返る。最後まで残るのは感性だけだって……いや、これは華氏がいつも言ってることだけどね。

トマ:(最後のクッキーのカケラを慌てて飲み込みながら)ばいばーい。また来てね。

麗子&玲奈&ばあや:(もう来るか、こんなとこ)

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「国旗・国家問題」東京都の指導は変わらず……

2006-09-27 02:19:43 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 日の丸・君が代の強制は違憲・違法――という判決が出たにもかかわらず、下の方にコピーした資料(新聞記事)を見ていただければわかる通り、都教委は自らの方針に自信満々。臨時の校長連絡会を開いて、「今まで通りに国旗・国歌の指導を」と釘を刺した。

 なぜ、それほどまでに国旗に敬礼させたがり、国歌を歌わせたがるのか(あのですね……学者や評論家の方たちによる詳細な論考は、いくら私でもわかっています。私は活字オタクですから、活字だけはあれこれと読みあさってますし。ですからまことに申し訳ありませんが、このエントリに対して学者や評論家の言葉を引いて解説を加えていただくのは御容赦ください。ただ、知識として理解するということと、感覚として理解するということはまた別。私の存在の根底にあるものが、「なぜ? なぜ?」と悲鳴を上げているのだ。ですからご自身の存在を賭け、肉声でもって発言してくださるコメントならば、賛同であれ批判であれ大歓迎である。肉声のぶつかり合いの歓びがなければ、アホらしくてブログなんかやってられっかよ。1円にもなるわけじゃなし、こんな過疎ブログが世の中を変える力なんざ持てるわけないし。かすかに響きあうものを求める思いがなければ、おかしくってやってられるもんか。冗談じゃあねぇよ)。

 我らが都知事は、「子供達の規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要」と言い、そのひとつが国旗・国歌への敬意だと断言したそうな。ふうん……規律、ねえ。統一行動……ねえ。子供達の世界が凍原のように荒れているのは事実だとしても、それが「統一行動」によって救われるというのはあなたの思い込みでないの? 出口を求めて苦しむエネルギーや感性を、上から統制するのでなく、どう育ててやるかを考えるのが教育というものじゃあないんですかね。ありもしなかった父権幻想(父権と母権については河合隼雄がよく言ってますね。彼の論の是非はともかくとして、日本にほんとうに父権なんてものがあったのか、というあたりは結構納得できる)に魅せられた父権オタクのマッチズモ知事は、都民を戸塚ヨットスクールの生徒扱いして、上から言われたことに忠実に従う「純粋な青少年」を作り出したいらしい。上の世代を否定し、世の中に疑問を持ち、権力に反抗するのは10代の人間に共通したごく自然なメンタリティ(ただし、それをいつまでも持ち続ける人間は――少ないとは言わないが、大多数でないことはおそらく確かである)。『太陽の季節』(はっきりいってつまらない小説だった。風俗的にちょっと目立つことを書けば評価してしまうと言う、文壇とやらの体質にも私は失望した)を書いた作家なら、わかっているはずだと思うが……。もしかすかるとよくわかっているがゆえに、自分が年をとるにつれ、そのエネルギーが怖くなったのだろうか(苦笑)。

 私は国旗を拒否し、国歌を歌わない「最後のひとり」になってもかまわない(何度も言うが、私は「日の丸・君が代」がダメと言っているわけではない。世界中どこのものであれ、国旗も国歌も私は自分自身のメンタリティとして認められないのだ。日本で革命が起き、日の丸・君が代ではない国旗と国歌が生まれても、私はそれを認めないであろう)。かなり前にも書いたような気がするが、私は生まれてこのかた、国旗を掲げたことも国歌を歌ったこともない。ついでに言うと、制服なるものを着たこともない。特に深い思想的な背景があったわけではなく、単に「右へならえ」の日常が嫌だったのだ。そういう人間は、決して少なくないと思う。その感覚を押しつぶそうとする一糸乱れぬ靴音に、私は死ぬまで抵抗する。むろん「いくじなし」なもんですから、勇ましい抵抗はできませんけれどね。

 怒り狂っているせいで、変な記事になった。私は原則として下書きはせず、書き流すだけなので……まっ、所詮は「庶民のメモ」ということで、御容赦。
 

◇◇◇資料◇◇◇
 東京都教育庁は22日、入学式や卒業式での国旗・国歌の強制を違憲とした東京地裁判決(21日)を受け、都内で都立学校の校長を対象にした臨時校長連絡会を開いた。都立高校や盲・ろう・養護学校の校長251人が出席し、同庁は、日の丸と君が代の指導について、今後も従来通りの方針で臨むことを説明した。
 連絡会は非公開。同庁高等学校教育指導課によると、同庁側が控訴する方針を示したうえで、判決の内容を説明し「私どもの行政行為が何ら阻まれるものではないので、今まで通り、通達に基づいて国旗・国歌の指導を実施してほしい」と要請した。また、校長2人から質問があり「控訴審はどうするのか」との問いには「訴訟態勢を強化する」、「(教職員への)職務命令をどう考えたらいいのか」との質問には「一向に変わらない」などと返答があったという。
 同課の高野敬三課長は連絡会後「周年行事や卒業・入学式に向けて課題が出てくる場合、教育庁一丸となって支援していきたい」と話した。
 東京都の石原慎太郎知事は22日の定例会見で、東京地裁判決について「(裁判官は)都立高校の実態を見ているのかね。現場に行って見たほうがいい。乱れに乱れている」と疑問を呈し「子供たちの規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要。その一つが国歌、国旗に対する敬意だ」と指摘した。さらに「(学習)指導要領でやりなさいといわれていることを教師が行わない限り、義務を怠ったことになるから、注意、処分を受けるのは当たり前」と語り、指導徹底を打ち出した03年10月23日の都教委通達の意義を強調した。(9月23日付・毎日新聞)
コメント (7)
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「国旗・国歌問題」都教委への緊急要請署名を

2006-09-26 23:28:34 | お知らせ・報告など

〈緊急のお知らせ〉

 国旗・国歌の強制を違法とした東京地裁の判決を不服として、東京都教育委員会は控訴を宣言している。それに対し「学校に自由の風を!ネットワーク」が控訴の取り止めと教職員の処分や国旗・国歌の強制の停止を求めて要請書を作成した。ちなみに同ネットワークは、杉並区で「新しい歴史教科書を作る会」の教科書採択に反対する活動から生まれたもので、学校に通う子供を持つ母親たちが中心。

 この要請書提出に際しての賛同署名を、是非――という情報が知人から送られてきた。署名集約期限は9月28日(木曜)正午。以下、呼びかけ文と要請書を、ほぼそのままコピーしておく(一部、重複したり読みにくい箇所だけ整理してある)。

<都教委への緊急要請賛同署名のお願い>

賛同署名の集約先→youseishomei@yahoo.co.jp

21日の東京地裁判決、原告・弁護団・支援者の皆さんのがんばりが生んだ勝利だったと思います。しかし、都知事や教育長は間髪をいれずに「控訴する」と明言し、マスコミもそれを大きく流すような傾向が生じています。ここは、世論が都・都教委を包囲していること、東京地裁の判決がきわめて当然のものであることを広く示していかなくてはなりません。今週中に、私たち市民の声を届けたく、下のような要請書を用意しました。賛同署名をつけて都教委に提出したいと考えています。この要請書にご賛同いただき、ご署名をいただければ幸いです。ご賛同いただけます場合は下記のアドレスまで、下記3行をコピー貼り付けして必要事項を記入返信ください。
(機械的に読み取りますので、このままコピー貼り付けしてください)

1氏名:         

2ふりがな:

3肩書き:

送り先⇒  youseishomei@yahoo.co.jp

(注/肩書きは職業でも居住市区でもOK。なくてもかまわない、とのこと)

〈賛同呼びかけ人〉
太田淑子 (君が代強制「解雇裁判」原告)、大山早苗 (子どもと教科書を考え府中の会)、岡 史明  (闘うシンガー・ソングライター)、沖野章子 (子どもと教科書全国ネット21)、記田和子 (杉並の教育を考えるみんなの会)、楠典子 (学校に自由の風を!ネットワーク)、楠正昭 (学校に自由の風を!ネットワーク)、洪美珍 (「こころとからだの学習」裁判支援全国連)、小島昌夫 (元女子美術大学教授)、近藤徹 (「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会事務局長)、近藤光男 (被解雇者の会)、柴田 章 (東京・教育の自由裁判をすすめる会)、荘司美子(学校に自由の風を!ネットワーク)、鈴木加代子 (教育基本法「改正」反対市民連絡会)、鈴木国夫 (学校に自由の風を!ネットワーク)、醍醐 聰 (東京大学)、谷森櫻子(「こころとからだの学習」裁判支援全国連)、寺島やえ( 元私立高校教員)、東本久子(教育基本法「改正」反対市民連絡会)、西村恵子(学校に自由の風を!ネットワーク)、平野時英(生かそう教育基本法!子どもと教育を守る世田谷の会)、古荘斗糸子(うちなんちゅの怒りとともに!三多摩市民の会)、古荘暉(原告)、星野直之 (被処分者の会)、松井奈穂(図工教師)、松尾ゆり(都立高校保護者)、丸浜江里子( 学校に自由の風を!ネットワーク)、山本直美(杉並の教育を考えるみんなの会)、わしお由紀太(とめよう戦争・日野市民の会)

〈要請書全文〉

東京都教育委員会 教育長 中村正彦殿

「日本人なら日の丸・君が代に敬意を表すのは当然」「国旗・国歌なんだから尊重するのは当たり前」・・・そんな言葉が独り歩きし、日の丸・君が代、国旗・国歌に対するそれぞれの思いや意見を自由に口にすることすらはばかられるような雰囲気が作られていることに、私たちは大きな危惧をいだいてきました。また、そんな今の状況は、かつて国の中枢にいる人たちが「バスに乗り遅れるな」を合言葉に開戦派に同調し、アジア太平洋戦争に突入していった時代を思い出させるような状態であるとも感じています。法や通達などで人の心を縛ることが、どんな結果を導くか、日本の歴史は雄弁に語っていることを忘れてはいけません。
 そんな中で、9月21日に東京地裁で出された判決は、そんな過ちを繰り返してはいけないことを、今あらためて明確にしています。また、判決は思想・良心の自由は、決してだれも侵害してはいけないことをはっきりと示し、東京都教育委員会の2003年10月23日付通達の違憲・違法性を認定しましたが、これは憲法や国際的な常識に照らしてみても、至極当然のことです。
 判決を待つまでもなく、処罰してまで起立を強制し、君が代を歌えと言うこと、さらにそれを生徒に教えるよう強いることは、教職員の思想・良心の自由を侵害し不当な支配になるだけでなく、教職員や生徒、保護者の人権を侵害することです。
 都教育委員会がこの判決に従わず控訴し、こんどは自らが原告(控訴人)の立場になって争いを続けることは、都教育委員会に対する都民の信頼をさらに損なうことになるでしょう。子どもたちの将来を真剣に考えなくてはならないはずの都教育委員会が、多大な時間と労力、そして税金を使って裁判を続けることは、都民にとっても大きな損失です。
 東京地裁の判決を真摯に受けとめ控訴しないこと、また判決に従い教職員の処分や日の丸・君が代の強制をやめ、2003年10月23日付通達をただちに撤回することを、強く要請いたします。

◇◇◇

都民の皆さん、都教委へ抗議の声を! その手段の一つとして、上記の要請書に賛同署名を。

 

 

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法律「以前」の問題? それならばなぜ…… 

2006-09-23 01:37:53 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 卒業式や入学式などで日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教委の通達に対して都立学校の教職員らが「義務はない」と訴訟を起こし、9月21日に東京地裁で原告側全面勝訴の判決が出た。裁判長は「通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、教育基本法にも違反する」と述べ、通達違反を理由とする処分も禁止した。(嬉しいニュースだと思い、昨日のエントリでも書いた)

 この判決について、小泉首相は「人間として、国旗や国歌に敬意を表するのは法律以前の問題ではないか」と感想を述べた――そうである。また出ましたね。「心の問題」と同じモノの言い方が。

 法律以前の問題というなら、それはそれでもいい(私は法律以前というより、法律で規制する問題ではないと思っているが)。だが、それならばなぜ「通達」で縛らねばならないのか。むろん通達はいわゆる「法律」ではないが、遵守すべきルールとして提示される点においては法律と同じである(と、ごく普通の感覚では思う)。

 愛国心だって、小泉首相はもしかすると「自分の帰属する国を愛するのは、人間として当たり前のこと。法律以前の問題」とおっしゃるかも知れない。それならば、なぜ教育基本法に盛り込もうとやっきになるか。「法律以前の、心の問題」ではないからこそ、法律で決めてしまわないと不安なのでしょう? 人間として自然なことではないから、守るかどうか目を光らせなければ不安なのでしょう?

 ほんとうに「法律以前の」「心の問題」であるならば、国や自治体でルールを決めるな。法律以前の問題まで決めなければ気が済まないのは為政者のサガであるとしても、ルールというのは決めれば決めるほど「こういう場合は」「ああいう場合は」とシュミレーションせざるを得なくなり、重箱の隅をつつくようになりまさる。紳士協定、などというものはすっ飛んでしまうのだ。それは人間――自分の頭で考え、自分の言葉で語ろうとする人間に対する冒涜である。

 ついでに言うと――「敬意を表せ!! 起立せよ!! 歌え!!」とやかましく言わなければ、日の丸や君が代が好きだという人がもっと増えるかも知れないのにねぇ……。

 
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祝・「国旗・国歌」学校強制に違憲判決

2006-09-22 01:30:53 | 憲法その他法律

 東京都の教育委員会は、卒業式や入学式などで国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するようにと義務づけた通達を出している。これを違憲違法だとして都立校の職員らが訴訟を起こしていたが、東京地裁で昨日それに対する判決が出た。原告側の全面勝訴――である。(詳細は末尾に資料として載せた新聞記事を参照してください)

 帰宅してメールをチェックしたら、何人もの知人友人からこの判決についてのお知らせが入っていた(コメント欄でお知らせ下さった方もいる。ありがとうございました)。すべて、違憲判決をを喜ぶ声である。また、さすがにお付き合いのあるブロガー達の反応は早く、眠り猫さんdr.stoneflyさんuchya_xさん はいちはやくTBも送ってくださった。

 メールをくれたひとりは公立校の現役の教諭。よく槍玉に挙げられる(笑)日教組に所属しているわけではなく、実のところ(ナイショだが)結構保守的なところもある人間で、選挙では時には自民党に投票したりもする。天皇制についてもまさか「天皇は神様」だとは思っていないが、国の象徴として敬意を払っているふうで、話すときにはちゃんと「陛下」と付けたりするのだ。オリンピックでは日本が幾つ金メダルを穫れるかに多大な関心を寄せ、海外旅行して日本に対する批判を聞くと憤然として反論したりもする。私など、会うたびに「日本人としての自覚が足りない」と説教され、こちらはこちらで嘲笑を返したりするのだが……。そして政治にはあまり興味がなく、ひたすら子供が好きで教師になり、子供と接していれば幸せで、面倒なことは考えたくないというほうである。

 そんな(私から見ると)歯がゆいような彼でさえ、昨今の東京都教育委員会の締め付けには音を上げていた。「知事? 別に誰でもいいよ」(石原支持というわけではないが、石原慎太郎が知事になったからといって大騒ぎしようとまでは思わない)と言っていた彼が酒を飲みながら、「石原知事になってから、何だか現場が息苦しくて……」と漏らしたのは何年前のことだろうか。ちなみに彼は石原都政、そして石原都政のもとでの都教委の管理統制を全面否定しているわけでもない(その辺が私とは意見の合わないところだが)。たとえば「ジャージで教壇に立ったりするのは、自分もよくないと思う。(都教委の指導にあるように)きちんとした格好をするのは当然のこと」などと言っている(いえ、私もジャージで教壇に立つのを推奨しているわけではありませんよ。何が良くて何が悪いと決めつける気もありませんが、まあ寝起きのような格好はしないほうがいいとは思う。その辺は常識の範囲で。って、私もあまり常識には自信ありませんが……)。

 重ねて言う。そんな彼でさえ――矢継ぎ早にこまごまと指示命令してくる都教委の通達には音を上げ、特に国旗・国歌についての強制は「まるで、ハイル・ヒットラーだ」と小声でぼやいたのだ。私はこの時、「自分が左翼?だから石原都政に反対しているわけではない」という確信を持つことが出来た。

 この判決が、石原三選を望まない人々を勇気づけることを願ってやまない。

◇◇◇資料――判決に関する報道

【卒業式や入学式などで、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教委の通達は違憲違法だとして、都立学校の教職員ら401人が義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は21日、原告全面勝訴の判決を言い渡した。難波孝一裁判長は「通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、教育基本法にも違反する」と指摘。教職員らに従う義務がないことを確認したうえ、通達違反を理由にした処分の禁止や1人当たり3万円の賠償も都と都教委に命じた。都側は控訴する方針。判決は、国旗国歌の生徒への指導が有意義であることを認めつつ、懲戒処分などを背景に教職員に強制するのは「行き過ぎた措置」と明確に断じ、教育現場での日の丸、君が代を巡る訴訟で初めて違憲判断を示した。処分の「事前差し止め」を認めた判決は異例。全国各地の同種訴訟に大きな影響を与えそうだ。争われたのは、都教委が03年10月23日に都立の高校や盲・ろう・養護学校長あてに出した「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」。都教委は通達に基づき、教職員に式典での起立などを命じる職務命令を出すよう校長に指示した。判決はまず、日の丸、君が代について「第二次大戦までの間、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として用いられ、現在も国民の間で宗教的、政治的に価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と指摘。「掲揚や斉唱に反対する教職員の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」と位置づけた。
 通達については(1)斉唱などの具体的方法を詳細に指示し、校長に裁量を許していない(2)校長が出した職務命令違反を理由に、多くの教職員が懲戒処分などを受けた――などと認定した。そのうえで「通達や都教委の指導、校長の職務命令は、教職員に一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するに等しい」として、教育基本法10条1項で定めた「不当な支配」に当たり違法と判断。「公共の福祉の観点から許される制約の範囲を超えている」として、憲法19条の思想・良心の自由にも違反すると結論付けた。さらに、通達に違反したことを理由にした懲戒処分は「裁量権の乱用に当たる」として今後の処分を禁止。「教職員は、従う義務がないのに思想・良心に反して職務命令に従わされ、精神的苦痛を受けた」として、退職者も含めて慰謝料を認めた。】(9月21日付・毎日新聞)

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「愛国心」はなぜ危険か

2006-09-21 01:23:50 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

〈前口上〉

愛に関するメモ――愛国心に興味はない」「愛国心・お客さまコメント(番外)」など、「愛国心」関係のエントリで、コメンテーターの議論が続いている。 さまざまな意見をいただくこと、知識や情報を提供していただくこと、そして活発な議論を展開していただくこと――原則としてすべて大歓迎である。賑やかなのは大いに結構。ただ、ポカンと口開けて横で見ている間に、どんどん話が拡散してきているので、昨日、次のようなコメントを入れた。

【議論のテーマが「愛国心」そのものから少しずつ逸れてきているような気配が……。むろん人権の問題も共謀罪の話も愛国心問題と根っこの所でつながっていますが、それを言えばきりがない。たとえば先日ご紹介した『虫たちの墓』紹介の記事を読み、戦争に関わる問題として東京裁判についてのコメントを入れる――ご自身の感想にからめて軽く触れる程度ならいいのですが、唐突な感じで持ち出してこられたり、コメント欄で東京裁判論争が始まったりするのはちょっと違う気がします。私はせっかくいただいたコメントはなるべく読みたいと思っていますので、あまり広げてくださらぬよう、お願いします(関係ない話が出て来た時に、すぐにストップかけなかった私が悪いのですが……すみません)。】

 これからも、そういうことでよろしくお願いします。愛国心の問題はきっちり煮詰めていきたいと思うので、「国を愛するのは自然なことでしょ」といった粗雑なご意見や、言葉尻を捉えてうんぬんするようなことは御勘弁を。

〈愛国心の定義〉

 愛国心というのは人によって受け取り方が違うので、まず愛国心の定義をはっきりてせるべきだという提唱があった。どんな言葉であれ、その解釈や感じ方は人によって違う。ひとつひとつについて定義づけながら話を進めていかねばならないとすると、もともと言葉に変なこだわりのある私なんざ、それこそ何も書けなくなってしまう虞もあるのだが……「愛国心」に限っては議論の方向性を明らかにするためにも、定義した方がいいだろう。まずは一応、私の愛国心の定義を書いておく。

私が解釈している辞書的定義/ごく単純に「自分が生まれた国、あるいは育った国、住んでいる国等、自分自身がそこに帰属していると考える国」に対して、特別な思い入れ(愛着する心)を持つこと。

(自分の国という簡単な言い方をしないのは、生まれた国、育った国、いま所属している国等が異なる人もいるから。たとえば小泉八雲が自分は愛国心を持っていると言ったら、その対象は母の祖国であり彼が生まれた国でもあるギリシアか、父の祖国であり幼児期から育ったアイルランドか、最も長く生活したアメリカか、それとも最後に国籍を持った日本か。何処でしょうね)

私自身の愛国心の定義/「自らが帰属している(あるいは帰属していると考える)国」に対して、それを特別なものとして思い入れを持つこと。その思い入れの中身は「愛着心」と「忠誠心」の2種類がある。

〈問題は忠誠心〉

 愛着を持つというメンタリティは、誰も否定・非難することは出来ない。子供が「うちのお母さんは世界一すばらしい人」と思ったり、特定の土地が好きで好きでたまらなかったり、伝統芸能を大切に守りたいと思ったりすることについては、基本的に(あくまでも基本的に、である)問題はない。

 問題は「忠誠心」の方にある(それはまあ、持ちたい人は持ってもかまいませんけれども)。そして国家に代表される人間の集団においては、しばしば「愛着」よりも「忠誠」が重視される。愛国心なるものの危険性は、そこにある。

 よく「自分の国を愛するのは自然なことじゃないか」と言う人がいる。愛着を感じる、という意味だけならばあるいは「自然なこと」に近いかも知れない。私は愛着心も比較的薄い方だが、それでも日本の文化の中で育った人間として、ヘソの緒でつながっている感覚はある。イヤな国にはなって欲しくない。

 しかし、本当に「ごく自然なこと」であれば、なぜわざわざ「愛する心を育て」なければいけないのか。答えは簡単で、実は自然なことでも何でもないからだ。前にも書いたような気がするが、誰も絶対に立ち小便や違法駐車するわけない所に「立ち小便禁止」「駐車禁止」の張り紙などするわけがない。そういった張り紙があるのは、そこでする奴がいる、という証拠みたいなものである。「愛国心教育」の必要性を声高に叫ぶ人々がいるのは、自然に任せていては生まれにくいものだからであり、その場合の愛国心の中身は間違いなく忠誠心の方である。

 コメント欄で「アメリカでもドイツでも国旗に礼を払うのは学校で教えます。国家ならば当然の行為でしょう」と書かれた方がおられるが、そう、まさにその通り。国旗にせよ国歌にせよ忠誠心を養うための小道具であり、だから私はいかなる国のものであっても国旗や国歌は好きになれないのだ。

〈忠誠心にNOを〉

 忠誠心というのは相手が何ものであれ、その相手だけに捧げられる(あなただけを愛する、というやつだ)。そして、忠誠を誓った相手のために、彼の敵を滅ぼすことに情熱を燃やす。忠誠心は一面美しいものであるらしく、王に忠誠を誓ったり、帰属集団に忠誠を誓って華々しく戦いそして死んでいった英雄達の物語は世界中に枚挙のいとまもないが、一歩下がって見てみれば「何だそれ」でしかない。忠誠心に燃えた人間達同士が殺し合って、いったい何してるんだ。いや、本気で忠誠心に燃えている人はいいとしても、巻き込まれて犬死にしたり家を焼かれた人間はどうなるんですか。

 愛国心、などという曖昧な言葉がいけないのかも知れない。いっそ「忠国心」と言っていただければ、わかりやすいと思うのだが。

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ご一緒に「いくじなし宣言」しませんか

2006-09-19 23:33:14 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

〈マッチズモを嫌悪する〉

 私はマッチズモが嫌い――というか感覚的に受け入れられない人間である。私が石原都知事と自分を「永遠の平行線」だと思う理由は幾つもあるが、そのひとつとして彼がマッチズモ剥き出しの人間だという点が挙げられる。

 私は正真正銘の腰抜け、いくじなしだ。かなり前に、恥も外聞もなく「いくじなし」という記事まで書き、その中で次のような呟きをした。(読むのが面倒な方は、次の小見出しまで飛ばしてください)

【私はいくじなしだから、勇ましい言葉が恐ろしい。私はいくじなしだから、できれば面倒なことになど関わらず、ひっそりと息づきながら街の裏通りで生きていたい。食べていけるだけの稼ぎをして、本を読みながらぼんやりとつまらない空想の中に漂っていたいのだ。それなのに共謀罪反対だの、憲法改定反対だのと怖ず怖ずとではあれ声を出したりするのは、これまた私がいくじなしだからだろう。 いくじなしにとっては、「不寛容な社会」は何より怖い。精神総動員がかかったら(むろん既にかかり始めているのだが、それが法制度に支えられてさらに露骨になったら)「イチ、抜~けた」と言ってすたこら逃げ出したくなるに違いない。でも本当に逃げられるのだろうか。とっつかまって、連行されるのがオチではないだろうか。机叩かれながら怒鳴られ、死ぬほど殴られたりしたら、いくじなしの私は「すみません、すみません」とヘイコラ頭を下げてしまうだろう。それどころか、とことん卑劣な人間に堕ちて、友人も親も売ってしまうに違いない。前にも言ったような気がするが、私は脅し上げられれば白目を剥いて小便を漏らし、意気地なく踏み絵を踏んでしまう人間なのである。自分でもなさけないけれども、客観的に見てそうとしか思えない。だから……そんな社会になる前に必死で食い止めなければ、ご先祖様に申し訳ない……じゃなかった、自分に唾吐きかけたくなるだろう。藤原定家は「紅旗征戎わがことにあらず」とのたもうたが、いくじなしの私はこんなカッコイイことはとても言えないのだ……。】

〈森毅のいくじなし宣言〉

 こんな開き直りめいたことを言う私はやっぱりダメな奴なのかも知れないな、と内心忸怩たる思いもあったのだが、ふとしたことで数学者・森毅氏の『いくじなし宣言』という一文を読んで膝を打った。彼も自分をいくじなしだと堂々と言っている。マッチョなヒロイズムは大嫌いだとも。頭のレベルは天と地ほど違っても、感覚が共通することは大いにあるのだ。(初出は青土社『現代思想』第32巻第3号だが、既に彼の短い文を集めた著書におさめられているかも知れない。その辺はまだ確かめていない)

 全文紹介すると膨大になるので、ポイントになる部分をいくつか紹介しておく。

【そうなったら(注・人が人を殺すことのできる世界になったら)たぶん、ぼくは殺される側にまわるだろう。なにしろ、生まれてからただの一度も、喧嘩というものに勝ったことがないのだからなあ。負けると決まっていることをやるのは、自殺のようなもので、ぼくはそれほど自虐的でない。】

【靖国問題のややこしさは、殺された人の魂が美化されていることにあろう。そのうえに、東条さんが昭和さんの身代わりで死刑になったようなイメージまであったりしては、ややこしすぎる。隆盛さんを祀らなくてよかった。】

【いくじなしは女の子にもてない、というアメリカ文化の伝統があるが、女はみんなヒーローに憧れるなんて、一種の女性差別。それに、いくじなしが多いほうが、平和でいいじゃありませんか。死はすべて犬死にと思って、いくじなしのままで死にましょう。今でも「身命を賭して」なんて言いたがる人もいるが、それはチャンバラ映画とヤクザ映画だけにしてほしい。】

【ぼくはいくじなしと、ここに宣言する。サムライなどにはなりたくない。ヒーローや、プライドとは無縁。そして、一人のいくじなしとして、戦争や死刑はないほうがよいと思います。少なくともそこに、国家や宗教を持ち出さないでください。】

〈今こそ、いくじなし宣言を〉

 いくじなしが多いほうが平和でいいとか、サムライなどになりたくないとか。さすが巧いことを言うなあ。そう……「人を殺すなんてヤだ。怖い」「勇ましいことなんか言いたくない」「強くなんかならなくていい」「ヒロイズムなんぞとは無縁で暮らしたい」等々、いくじなしの生き方を肯定することで、人間は初めてオカミの管理・統制から自由になれるのかも知れない。皆さん、ご一緒に「いくじなし宣言」をしませんか。

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痩せた豚から都知事殿へ――UTSコラムやや改稿

2006-09-18 23:57:34 | 東京都/都知事

「当面ターゲットとしなければならないのは、来るべき参院選挙」と、反戦老年委員会のましまさんが書いておられた。憲法や教育基本法の改定を阻止したい人達は、みな同意見であると思う。むろん私も来夏の参院選は正念場だと思っているが、個人的な気持ちとしてはその前にもうひとつ、都知事選という大きな山がある。知事はあくまでも地方自治体の首長。誰がその座に就いてもそれで国全体が変わるわけではないが、首都の知事となれば他の府県の知事以上に影響力は大きい。特に知事本人が「有名人」でマスコミに登場することが多い場合は、彼の主張の影響力はその他大勢的な国会議員の比ではない。

 その都知事選に石原現知事が出馬するという情報をキャッチして以来、私は神経がかすかにささくれだったままである。石原都知事のことは何度か書いた覚えがあり、10日ほど前にはUnder the Sun のコラムでも少しぼやいた。以下はそのコラムの後半部分を加筆訂正したものである。

〈オトコを誇示する男〉

 なぜ石原慎太郎などという人物に人気があるのか私はわからない。いや、学者や評論家はその理由を綺麗に分析してくれており、その分析を言葉としては理解できる。ああいった一見勇ましげな人物にふと惹かれる人間の心理だの、社会心理だの、といったものも知識としてはわかる。ただ、「わからない」と言い続ける側に、私は立っていたい。

 「ああいう暴言男が都知事の椅子に座っていると、他の国の人達に対して恥ずかしい」からではない(私はそれほど愛国心のある人間ではない)。人間を有用であるかどうかによって峻別する思想の持ち主であり、これ見よがしな浅薄な男らしさを賞賛したり(※)、国のために死ぬなどという世迷い言に酔ってあまつさえそれを他人に押しつける(あなたが死ぬのは勝手ですが……)――つまりははた迷惑な人物で、こういう人間が知事の座に居座っていると、私達都民は枕を高くして眠れないからだ。まったく、危なくて仕方ない。

 ※彼が書いたものを覗くと、男・男・男の連呼に反吐が出そうになる。マッチズモを誇示する男ほど、実は「男らしくない」連中が多いのだが……。というより自分に自信が持てないから、(せめて生物学的な事実としてこれだけは疑いようがない)「男であること」にすがりつくのではあるまいか。男、だけではない。「女」の強調、「親」の強調、さらには「日本人」の強調……すべて同じことのように私には思える。

〈東京オリンピックはいらない〉

 石原都知事は記者会見で、「自分は五輪誘致の言い出しっぺだから、(それに関して都知事として最後まで尽力する)責任がある」と言ったそうである。誰もそんなこと、頼んでないって……。私は東京オリンピックなどいらない、と思っている。それどころか東京以外の日本の何処にも、オリンピックなど誘致してもらわなくていいと思っている。そんな「国家的イベント」などで、また幾つも幾つもの重大な問題が霞まされてはたまらない。(私はスポーツに無関心で、しかも日の丸に限らず国旗というものが嫌いなせいでオリンピックのテレビ中継なども見たことがない。国威発揚の祭典、としか思えないのだ。そういう人間だから、なおさら目が冷ややかになるのかも知れないが)

  彼は「スパルタ主義」(厳密な意味で使っているわけではない。戸塚ヨットスクールの戸塚氏に共感し、あれこそ真の教育者の態度と絶賛する奇矯な傾向を、ここでは一応、スパルタ主義と呼んだ)の男である。自分の子供をその主義で育てるのは(虐待にならない限り)まあご自由にとしか言いようがないが、都民にまでその主義で臨まれては困る。

〈私は豚だけれども〉

  石原慎太郎には『狼生きろ豚は死ね』という作品がある。私はこれを読んでいない(読まずにアレコレ言ってはいけないと思って、以前彼の本を少し読んだものの、さすがに数冊で力尽きた)。だから内容については何も言う気はないが、タイトルの印象からひとつ思うことがある。彼は自分を「鋭い眼で荒れ野を睥睨する、気高い狼」だと思っているのだろうな……。まさか「蒼き狼」だとまでは思っていないだろうけれど(いや、思っているかも知れない……)。なんとまあ、すさまじい自己陶酔よ。

 彼から見れば眼を輝かせ、直立不動で「国のために死ににいきます」と宣言する若者は狼、――彼をボスとして仰ぐ狼集団の一員なのだろう。そして「国家なんか知らねーっと」とほざく人間は豚、なのだろう。与えられた餌を喰い、やがてハムになるだけの存在。

 余談をひとつ。豚といえば、「肥ったブタよりも痩せたソクラテスたれ」という有名な言葉がある。40年ぐらい前に東大の卒業式(だったと思う)で、大河内一男総長が学生達にこう訓示したそうだ。一時は流行語にもなったそうで、今でもエッセイなどの文中に引用されているのを見ることがある。名言集に載っていそうな言葉だけれども、私は正直なところあまり好きではない。この言葉を何処かで読んだ時、「カッコよすぎるよな……」と思ったことを覚えている。いや、むろん大河内総長が何を言いたかったかはわかっているつもりだし、それは正しい――というよりも「人間としてまっとうな」意見だとも思う。それでもなお「感激」できなかったのは、おそらく人間が勝手に「ブタ」のイメージを作り上げていることに違和感があったのと、もうひとつ、エリート臭を嗅いでしまったからだろう。私はソクラテスにもなれず、鼻先を血だらけにして柵を壊そうとしているだけのブタの一人であったから。

 まあ、それはどうでもいい。狼と豚、である。

  豚で結構。あなたをボスとして仰いで声を揃えて遠吠えするぐらいなら、私は「ノラ豚」(?)になる。ハムにされないために、私は何としてでもあなたの三選を阻止したい。都民の皆さん、それぞれの場で、それぞれのやり方で、できる所からできることを。他府県の皆さん、都民への応援を。

〈追記〉

 石原都知事について、これまでに書いた記事を2つほどで挙げておく(何度も書いた気がするが、メモ感覚で書き飛ばしているのでちゃんと思い出せないのだ。列挙しようと思って、何処に書いたかすっかり忘れていることにはたと気づいた。笑)。もしも関心を持っていただけたら、お暇なときに覗いてくださるとありがたい。(特に、私の石原嫌いを不愉快だと思われる方は、過去のエントリもお読みの上で反論していただきたい)

上からモラルのうさんくささ。そして――都知事殿。三選に意欲など出さないでくだされ

「都知事三選にNO!」&石原慎太郎の文章を巡って  

◇◇ご意見歓迎。ただし揚げ足取り、嘲弄口調の詰問、記事と関係ない持論の長々とした展開はお断り。コメンテーター同士の記事と関係のないやりとりもご遠慮ください。私はコメント欄は基本的に何を書いてもらってもいい「落書き帳」だと思っていますが、落書き帳は落書き帳なりにマナーがあるはずです。また私は原則としてよほどのことがない限り削除しませんけれども、別にそれが正しいとは思っていません。コメントに対して厳しい基準を設けて削除するという考え方もあり、実のところ管理人の態度としてはその方が良質だと思います。ですからコメント削除等々の方法を採っているブログを非難するようなコメントも、いっさいお断り。今日以降、そういうコメントは削除します◇◇

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なりふりかまわぬ「目玉探し」の見苦しさ

2006-09-15 23:22:10 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 女優・藤原紀香に、自民党が来夏参院選出馬を要請しているらしい。護憲派である彼女に自民党が手を伸ばしたことに驚いたブロガーたちが、さっそく「要請を受けないで欲しい」という記事を書いておられる。TBをいただくなどで私が現在読んだ限りでも、次のようなエントリがある。(ほかにもおそらく多くのブロガーが同じことを訴えておられるだろう)

藤原紀香さんへ自民党から出馬しないで!メールを出そうキャンペーン」(お玉おばさん)

藤原紀香さんにファンメールを!」(とむ丸さん)

藤原紀香さん」(喜八さん)

拝啓、藤原紀香さま」(ハムニダ薫さん)

紀香への手紙」(大津留公彦さん)

 実のところ、私は藤原紀香という女優のことをよく知らない。テレビをほとんど観ないので、顔もパッと浮かんでこない。井上ひさしとの対談などで護憲を表明しており、アフガニスタンなどにも赴いて反戦活動をしている人――程度のことを、それも何となく曖昧な形で知っていただけだ。そんな私でさえ、「自民党からの出馬要請」には驚く。いったい何を血迷ったのか、という感じである。改憲論者である安倍晋三氏が率いることになりそうな自民党が、「憲法の味方です」と言明している人に出馬要請ねぇ……。本人がどんな思想信条を持っているかなどはどうでもよく、単に有名だから、人気があるから、票を集められそうだから、人寄せパンダになってくれとヌケヌケ言っているのが丸わかりではありませんか。これで「OK」する人がいると思ったら、思う方がよほどどうかしている。だからまず要請は受けないと思うが、「NO」を期待している人間が多さを示すために、私もメールを送っておくつもりだ。

 ところで藤原紀香のほか、自民党は野球選手の新庄剛志にも出馬要請をしているらしい。自民党だけでなく、民主党も出馬要請しているとか。

【新庄選手のマネジメント事務所担当者は同日、自民、民主両党から新庄氏側に出馬をめぐる接触があったことを「事実」と認めた】(毎日新聞9月15日付)

 新庄剛志がどのような考え方を持っているのかは知らないが、「自民党とも民主党とも一致している」などという不可思議な話はあり得ない。これまた両党とも、単に票を集められそうだからというだけで要請したとしか思えない。

 自民党は昔から、すぐにタレントその他の有名人を掻き集めようとする。だから「またか」という思いもあるが、民主党までその真似をするとは。民主党よ、おまえもか。(むろん、新庄剛志が以前から民主党の政治的な理念に共感を示しており、それで出馬の話が出たというなら話は別。もっともその場合は、それでもなお要請などをおこなった自民党の神経を疑うが)

 これからも自民党は、多くの有名人に出馬を要請するだろう。むろんタレントやスポーツ選手、あるいは小説家、音楽家、評論家、教育者……何でもいいが、つまりはある世界で実力を発揮し、世の中に広く知られている人々――が政治家になって悪いわけではない。自身の思想信条や理想を持ち、その実現のために政治の世界に入ろうというのであれば、それは大いに結構なことだと思う。だが、甘言に乗せられて広告塔になることだけは止めて欲しいのである。

 そして民主党には、自民党と同様の「票になる有名人なら誰でもいいから」的な出馬要請は止めていただきたい(野党第一党の誇りぐらいは持ってくださいよね)。そのあたりは私達が政党の体質を見る際の、ひとつの基準でもある。

 

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お読み下さい、「愛国心に興味なし」コメント欄

2006-09-14 22:49:24 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

愛に関するメモ――愛国心に興味はない」に、多くのコメントを寄せていただいている(と言うより、コメント欄で何人もの方が論陣を張ってくださっている)。ブログの記事1回分ぐらいの長さで中身も充実した堂々たる一文もあって、放っておくのは何とも勿体ない限り。特に村野瀬玲奈さん、ブログを持っておられないということでコメント欄で緻密な国家論、歴史論を展開してくださり、これは別途取り上げなければと思って「お客さまコメント」のエントリを立てようと考えた。

……のはいいが、前置きを書いたところでストップ状態になったままというお粗末。言い訳がましいけれど、まだ議論が続いており、私がそれを追い切れないのである。何せ提起されている問題が、ちょっとやそっとでは片付かない大きな問題ばかり。これは一段落するまで皆さんの白熱した愛国心論を読ませていただき、ちょっと間を置いてから私なりに考えたことをまとめた方がよさそうだという結論に達した(少なくとも現在のところはそう思っている。明日になったらまた変わるかも知れないが)。村野瀬さん、大きなことを言っておきながらスミマセン。

ともかく、である。愛国心は一休みするが、ここを訪れた方には是非、上記のエントリのほか、それに続く次の2つのエントリの「コメント欄」をお読みいただきたい。私の記事は、お暇があったら読んでいただけると嬉しいのですが……という程度。実際問題として、記事よりコメント欄の方がおもしろいことを保証する(なさけな)。

愛国心に興味なし・お客さまのコメント前編

愛国心に興味なし・お客さまのコメント番外

追記/もうひとつの小さな理由――コメント欄で議論が白熱してくると、(これは私のブログの場合だけかも知れないが)どうしてもコメンテーターが限定されがちになる。また、真剣な議論の間に軽いコメントを入れるのは誰しも気が引けるので、簡単な挨拶コメントなどはどうしても入れていただきにくくなる。むろん議論をしていただくのはある意味望むところ。これからも議論の場として使っていただければ少しは自分のブログも役立っている気がして嬉しいのだが、たまには愛国心とは何か!という重いコメント以外の、ほんわかしたコメントもいただけると気分が変わって嬉しいなあ……という欲張った気持ちもあったりする。

そんなわけで先ほど、自分自身の一休みも兼ねて全然違うエントリを立てた(広い意味では似たようなテーマなのだが)。もっともまたしても本の話だから、活字中毒以外はおもしろくないかも知れないが……。

 

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結城昌治著『虫たちの墓』

2006-09-14 22:10:20 | 本の話/言葉の問題

〈20年ぶりの『虫たちの墓』〉

 1か月ほど前に、結城昌治『軍旗はためく下に』を紹介した。この小説は戦争体験者に取材した話がベースになっているのだが、同じ取材から生まれた小説はもう1編ある。『軍旗はためく下に』の翌年(1971年)に書かれた『虫たちの墓』である。3日ばかり前、急に必要になった本を探しがてら本を整理していると(本棚をいくつ並べても間に合わず、その前や、廊下にまで本を積み重ねているのだ。おかげで何が何処にあるのか自分でもさっぱりわからない。整理整頓能力ゼロなのである)、重ねられた下からこの本が出て来た。奥付を見ると、もう20年も前に買ったものだ。そう言えばその頃、結城昌治の本を読みあさったっけ。

  文庫本だからかなりヨレヨレになっている。「あ、こんな所に隠れていたのか」と懐かしくてその場に座り込んで読み始めてしまい(皆さんもよく、そういう経験しませんか)……結局最初の目的だった本はまだ見つけられないままだが……。もののついでに、この本もご紹介を。『軍旗はためく下に』と同じく、これは正面切った反戦小説ではない。登場人物達が明快な反戦思想や国家に対する批判などを語ることはほとんどないし(戦争や国家に対する嫌悪は満ち満ちているが)、彼らはある意味で卑怯で言い訳がましくもある。言い換えれば毅然としていない。ただ、それだけになお、この小説は「私達もその場にいたらそうであったかも知れない」姿をつきつけて切ない。

  既に絶版だが、お読みになりたければ図書館にはあるだろうし、買おうと思えばインターネットでも買えるはずだ。

 〈国家に裏切られた男〉

 これは「国家に裏切られた人間達」の物語である。主人公――というより狂言回しの役を振られているのは村井というごく平凡な中年の会社員だが、彼は同年代の多くの男と同じく、徴兵されて戦場に赴いた経験を持つ。しかも戦後、捕虜を殺した容疑でB級戦犯として捕らわれ、絞首刑を言い渡された男であった(サンフランシスコ条約の締結に伴って無期に減刑され、その後、日米関係の好転に伴って減刑が重ねられた)。

  その村井が、戦場で一緒に過ごし、現在もわずかに付き合いを続けている阿久利から「門馬が自殺したそうだ」と聞く場面で、小説は幕を開ける。そして葬式にも行ったという彼から、「西関が来ていた」と聞き、「もうたくさんだ」と思って逃げていた過去に呼び戻される。西関というのはかつて村井が属していた大隊の隊長で、村井(たち)は彼を殺してやりたいほど憎んでいたのだ。その西関と、門馬は戦後もひそかに関わりがあったらしい。門馬はなぜ死んだのか。なぜ、西関のことを隠していたのか。村井は否応なく、自分の過去への旅を始める。

 〈戦中・戦後を生きた群像〉

 小説では戦中と、戦後間もない時期における彼の体験――「波のうねりのように押し寄せてくる」「忘れかけていたさまざまな過去」が描かれる。だが彼を主人公と呼べるかどうか。村井と関わる登場人物達は、その出番の多寡にかかわらず、村井と同じぐらい、時には彼よりも強烈な印象と共に舞台を横切る。その意味で、彼はやはり主人公ではなく狂言回しと言うべきだろう。

  わざと体を壊して徴兵を逃れようとした「前科」によって(懲役1年の後、戦場に送られてきた)、ことあるごとにリンチの対象になり、ついに小銃をくわえて自殺した男。敵前逃亡した男。他の部隊がつくっている農園に芋を盗みに行って射殺された男。そして、村井たちの隊の捕虜になったアメリカ兵――村井は彼の「管理」を命じられて片言の英語でしゃべるうちに親しみを感じるようになり、「平和なときに知り合ったら友達になれたかもしれない」などと思ったりするのだが、「死を決した最後の総攻撃」の前に、捕虜を連れたままでは行動の邪魔になると判断した上層部の命令で斬首したのである。

  復員してみると家は空襲で焼け、両親も死んでいた。彼は叔父の家に身を寄せ、叔父の商売を手伝い始める。ちっぽけな闇商売で、むろん法律に反しているのだが、「国家は自分たちにもう、何の言う権利はないはずだ」と村井は開き直っていた。やがて恋もするが、捕虜殺害の件で関係者全員に逮捕令状が出ていると聞き、すべてを捨てて逃亡する。その逃亡の中でも彼は何人もの男女と出会う。かつての画家志望の仲間で(村井は美術学校の学生だったという設定)戦後はヤクザになり、縄張り争いで刺殺される男。彼をかばい、泊めてくれた夜の女。……

〈卑劣の類型〉

  村井は偽名を使い、露天でいい加減な品物を売る詐欺商売の仲間に入るなどして生き続けたが、ニセの戸籍を作ろうとしたのがきっかけで、ついに捕まってしまう。留置所で彼は、阿久利や門馬など、同じ隊に所属して捕虜処刑(殺害)事件に関わったもと兵士達と再会する。その時、彼らから、大隊長である西関が処刑事件の詳細をすべて喋ったのだと知らされる。ただし西関は「自分はマラリアで寝ていたため、何も知らなかった。後になって知らされた」と主張しているという。現場の兵士が早まって勝手にやったことだ、というわけである。むろんそれは嘘で、捕虜の処刑は軍司令官→師団長→連隊長→大隊長の順番でおりてきたのだが、彼らは口を拭って「知らない」と言う。現場に対して西関が直接命令を下したことを証言できる副官や、現場指揮官である中隊長、小隊長はすべて戦死しており、厳然と存在するのは捕虜処刑の事実だけ。直接に手を下した村井が主犯であり、立ち会った阿久利らは共犯というわけである。

  西関に下された判決は無罪。彼は自分一人が助かるために、調査官に迎合し、かつての部下達を売ったのである。だから村井は西関をずっと憎んでいたのだが、憎む理由は裁判のことだけではない。西関は戦争中も、兵士達の戦死の数を自分の手柄のように誇るくせ、自分は常に安全な所を身を置き、軍隊という組織の中でうまく立ち回ることばかり考えて恩給の計算に余念がないという男だった。彼のために、死ななくてもいい兵士までが大勢犬死にをした(やや類型的な書き方なのかも知れないが、著者はこれでもかというほど西関という男の卑しさを描いている。西関は個人ではなく、あるいは象徴として用意された人物であるかも知れない)。

 〈終わらない旅〉

  村井は過去を訪ねて憑かれたように歩き回り、門馬が隠していた暗い部分を知り、最後にはついに西関にも会う。だが、彼の旅は終わらない……。『虫たちの墓』の最終章の題は、「終わらない旅」である。

 やや蛇足だが、著書の中の文章を1か所だけ紹介しておく。

【日本は小さな島国だ。ヨーロッパのように、となりの国へ逃げるというわけにはいかない。逃げれば、たちまち捕まってしまう。だから例えばフランスのように、レジスタンスの運動は不可能だったし、反戦思想の持ち主はことごとく投獄された。いや、それよりも――と村井は思った。日本でも反戦運動が可能な時代があったに違いない。しかし、村井が生まれたときは、そういう時代が過ぎ去っていた。子供の頃から軍国主義で育てられ、国のために死ぬことを教えられて成長した。民衆が愚鈍だったというなら、村井もその一人に過ぎなかった。戦争の是非を疑うことすら知らず、ただ祖国のためと信じ、軍隊は嫌いだったが、当然の義務として戦列に加わった】

 飲み屋で学生から戦争について質問され、嫌ならなぜ拒否しなかったのかと尋ねられた村井が心の中で呟く言葉である。

  日本でも、反戦運動が可能な時代があったに違いない。――そうなのだ。ふつうの国が、半年や1年でいきなり軍国主義国家になったわけではない。長い戦前があり、その間に少しずつ地獄への道が拓かれていったのだ。後から見て「なぜ気がつかなかったのか、馬鹿だなあ」と笑うのはたやすいが、もしかすると私達だって、半世紀1世紀先の人々から同じように笑われるかも知れない。 「なぜ拒否できなかったのですか」と聞かれて、たとえば現在まだ乳幼児である者達や、これから生まれる子供達は、「国のために死ぬのが正しいことだと教えられて、そう信じていたのです」と答えられるかも知れない。だが私達には、そういう逃げ口上は用意されていないのである。……

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「愛国心」お客さまのコメント・番外――愛「人」主義に乾杯

2006-09-12 22:13:04 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 世界の中心……じゃなかった、世界の片隅で「愛国心に興味はない」と叫んだところ、「私もひとこと」という方がたくさんいらっしゃった。中でも村野瀬さんはかなりまとまった形で理論的に書いて下さり、コメント欄に置いておくのはもったいないので紹介がてら別途エントリを――と思って前口上だけ書いたのだが、さてどんなエントリにすればいいのだろう。ただいま思案中ということで、いきなり番外編。

 同じエントリのコメントで、Looperさんがこんなことを書いてくださった。

【私は、家族や親戚や友人が、平和で穏やかな人生を歩むことができるように、社会がよりよくなる事は望んでいますね。特に、病気や障害を持ったような時にでも、ちゃんと希望を持って生きていける社会になることをね。

それと同じように、中国や北朝鮮や韓国やアメリカやイスラエルやヒズボラやイラクなど、世界中の人々、特に子どもたちが、衣食住に困らず、希望する教育を受けられ、他人に命を奪われる恐怖を受けることなく自分の道を追求できる社会になることを心より願っています。

だからこそ、自分の子どもだけでなく、地域の子どもたちを世話する活動もしているし、地域をより良くする運動にも手を出しているわけですね。地域の自然や文化を子どもたちに知ってもらう運動もやってる。

しかし、国家を無理やり愛させる必要ってなんだろ?
それは、自分より国家が大事だっていう下らない思想を押し付けたいだけにしか思えない。つまり、「お国のために死ねる人」、正確には、「お国のためという名目で、人を殺し・殺されにいく人」を作る事ですね。私は、自分が殺されたくないのと同じくらい、他人を殺したくない。だから、国(郷土のことではない、国家体制の事)なんか愛さない。人を愛する。だから「愛人主義」(爆)なのだ。】

 なるほどなるほど。この「愛人主義」という言葉、お玉さん やとくらさんが同感してブログで取り上げられたこともあって、ひそかにはやり初めている……かも。ご本人はギャグのつもりで書かれたのかも知れないが、こういう軽快なユーモアに触れると本当にホッとする。

 私も基本的にはハゲシク同感。もっとも私は人間以外も(犬も猫もトカゲも赤トンボも、お化けや幽霊も)できるだけ愛したい方なので、「愛命主義」かな。でもそれだと愛人主義、という言葉のように〈爆〉とはいかないのが困るところ。

……などという話はどうでもいいのであって。国などというのは、所詮は道具。こんなことを言うと怒り心頭に達する人もおられると思うが、人間が「うまく暮らしていく」ために、こしらえたものに過ぎない。組織とか社会的仕組みというのは、みんなそうさ。生きている人間の方が大切で、その組織や仕組みのおかげで風通しが悪くなったり息苦しくなったりしても、我慢して守り続けるものじゃあない。

 そういえば村野瀬さんに対して、久々さんが「嫌ならどうぞ他の国に行って下さい」と書かれていた。嫌なら出て行け、というやつですね。これはよく聞く言葉。たとえば高校でも大学でもいいが、通っている学校の教育方針なり規則なりに疑問を持って「変えたほうがいいんでない?」と言うと、「自分で選んで入学しておいて、文句言うな、嫌なら辞めろ」と罵倒されたり……。そういう話じゃあないでしょう。

 しつこく言うが、私は「愛国心」なんぞと言うものに個人的にはまったく興味がない。いま地上に存在している中で、100%信頼できる「国家」などはひとつもない。国家という枠組みは一種の必要悪。現実問題として少なくとも現在のところは存在を認めざるを得ないのだが、そこから可能な限り自由でありたいと思っている。「生活の便」のために、税金も払いますよ。選挙にも行きますよ。法律だって、基本的にはきちんと守ります。でも私の命や想いよりも、そして私とつながる大勢の人の命や想いよりも「国体」が大切だなどとは、0.000……1%も思わない。

 国家フェティシズムに巻き込まれたくないというのが、私のささやかな望みである。

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「愛国心に興味なし」お客さまのコメント・前編

2006-09-11 03:43:56 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 先日「愛に関するメモ――愛国心に興味はない」という記事を書いたところ、多数のコメントをいただいた。私のブログは公開しているとはいえ他者へ呼びかけようという意識のやや薄い「日記」「覚え書き」なので(※)、普段はそれほどたくさんのコメントを頂戴できるわけではない(たいしてアクセスのあるブログでもないし。汗)。だが憲法だの教育基本法だの愛国心だの靖国神社だの天皇制だの……をテーマにするとしばしばコメントが2桁台になり、ヘタレ・ブロガーとしては眼が点になりそうだ。やっぱり皆さん、興味のあるテーマなんだなあ。

(※自分のブログに1ミリでも世の中を変える力があるなどとは、ゆめにも思っていない。私にとってブログとは自分の中で何ものかを確信し続け、さらにごく少数であっても同じ問題意識を持つ人達に対して思いつくままに語りかける手段の一つにしか過ぎない。そういう感覚で気楽に気軽に書いているだけだ)

 コメントは当然のことながら短い感想が多く、「読みましたよ」「同じテーマの記事を書いたのでTBします」などのひとこと挨拶コメントもある(孤掌鳴りがたし。言いっ放しの覚え書きだから原則として読んでくれる人がゼロでもかまわないのだが、所詮は私も凡人。読んだよと言ってもらえれば、それだけでも自分が独り凍原を行く旅人ではないとわかって非常に嬉しいのだ)。ときには難詰調のものや、何を言いたいのかよくわからないコメントもないではない。

 でも同時に自分がわかっていなかったことを教えて貰ったり、新しい視点を提供していただくものも少なくなく、これがブログのおもしろさなのだろうなとふと思ったりする。

 前置きが長くなったが、愛国心関連のコメント群のうち村野瀬玲奈さんが書いてくださった一文について、luxemburgさん から次のようなアドバイスをいただいた。ちなみに村野瀬さんは多くのブログに意見を書いておられる方で、時々私の所なんぞへも来てくださっていつも恐縮している(歴史認識の正確さ、文章の論理性ともに秀逸で、教えられることが多い。ほんとすんません、私みたいなしょーもない寝言ブログまで読んでいただいて……勘弁してください。汗)。

村野瀬玲奈さんがここまで書かれたのはコメント欄ではもったいないから、私なら「お客様エントリーシリーズ」で一個エントリーにしますね。いつものことながら正確な歴史認識に感服します。】

 そっか。そうだよな――というのが率直な感想。私ひとりで納得したり、おもしろがってちゃいけないんだよな。エントリを覗いてくださった方が、みんなコメント欄も読んでくださるとは限らない。それならば、独り占めするのが勿体ないようなコメントは、エントリを立てて積極的に公開していくべきだろう。(これまで私はブログ=覚え書き論者で、要するにあくまで私的なものだという感覚があった。だがいくら私的な寝言でも公開した以上は公的な性格を持つわけで、それならば自己チュー的な感覚は少し改めるべきだろう)

 ――ということで、村野瀬さんのコメント。

【たとえば、「パトリオティズムはならず者の最後の逃げ場所」という言葉に深くうなづく私です。「愛国心」とは何かいろいろな考え方があるでしょう。しかし、現実には、個々人(たとえば久々さん)がどう考えようとも、「愛国心」と国家が呼ぶものを国家は人々に押し付けようとする。国旗という形で。国歌という形で。国家のために死ぬことを称揚するという形で。「~に従わない者は非国民だ」という圧力とともに。】

【我輩はムルである。「愛国心! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした。愛国心! と新聞屋が云う。愛国心! と掏摸が云う。愛国心が一躍して海を渡った。英国で愛国心の演説をする。独逸で愛国心の芝居をする。東郷大将が愛国心を有っている。肴屋の銀さんも愛国心を有っている。詐偽師、山師、人殺しも愛国心を有っている。愛国心はどんなものかと聞いたら、愛国心さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた。三角なものが愛国心か、四角なものが愛国心か。愛国心は名前の示すごとく心である。心であるから常にふらふらしている。誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。愛国心はそれ天狗の類か。」
愛国心に興味のない人はいいのですが、愛国心を他人にも持ってもらいたいと思っている人は、愛国心とは何か、愛国的行為とは何か、きちんと定義してから書き込みをお願いしますね、と言いたくてパロってみました。】

 ムルの奴、最近顔見ないと思ったら、村野瀬さんとこに行ってたのかよ(笑)。うちのトマシーナが、「兄貴、何処うろうろしてんのかなぁ」と寂しがってるぞ。

……てな話はどうでもいい。ここで一部紹介したが、村野瀬さんが提起された問題はいくつもある。それについてこれからひとつひとつ、私なりに――馬鹿の考え休むに似たりと言われようとも――エントリを立ててみたい(という、今回は幕が上がる前の簡単な口上)。今日は狂乱するほど忙しかったので前置きプラスアルファということで、以下、明日以降。 

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「関心あるもの」と「関心ないもの」

2006-09-09 00:51:01 | お知らせ・報告など

昨日ブログを書きかけて、Under the Sun のコラムをお引き受けしていることを思い出した。急遽、そちらに書いてしまったので、よろしければどうぞ。タイトルは「真夜中のぼやき2つ」、テーマは「皇室に男子誕生」と「石原都知事三選」。読んで何か感想を持たれた場合も、そちらにお書き込みのほどを(さもないと本文のどの部分を取り上げて言っておられるのか、ほかの人にわからないので)。

UTSではほぼ隔日の割合で、コラムが更新されている。私は人数合わせで適当に書かせてもらっているだけだが、他の方のコラムはそれぞれに個性が出ていておもしろい。直接には社会的な問題、政治問題を扱っていないものも多いが、私は読むたびに「ストレートに叫ぶだけが能じゃないんだなあ」と思う。皆さん、どうぞ時々お読み下さい。 

 

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愛に関するメモ――「愛国心」に興味はない

2006-09-06 01:57:19 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

〈おまえは愛国心がないのか、と言われても……〉

「おまえは愛国心がないのか」という言い方がある。私自身は自分を愛国心のある人間だとは思っていないので(※1)「愛国心がない」、あるいは「反日」「非国民」などと言われても「はあ? それがどうしたの」という感じであるが、私よりも真面目な人達は、愛国心話に引きずり込まれることがままあるようだ。だが私は、愛国心があるのないのという議論は何処まで行っても不毛であると思っている。なぜならば愛というのは――相手が国であれ何かの思想や宗教であれ、具体的な人間その他の生き物であれ――小泉首相ではないけれども、それこそ「心の問題」だからである。

※1/ときどきTBをいただいたり、こちらから送っている喜八さんによれば、私も愛国者だそうであるが……(苦笑)。いや喜八さん、すみません。おちょくる気はないのです。私を愛国者と言ってくださる方は非常に珍しいものですから……。

〈愛にもいろいろな形がある〉

 いきなり妙なたとえをすると、ある男がひとりの女を愛したとする。その愛し方には、いろいろな形があるだろう。

 自分のような男は彼女に愛される資格はないと思い、遠くからそっと見守るという愛。女が別の男を好きになった時に潔く身を引くという愛、あるいは女の心を取り戻すために修羅場を演じる愛。いっそ来世で(ほとんど文楽の世界……)と思い詰めて共に死ぬ愛。無理心中に至る愛、というのもないわけではない。

『春琴抄』の佐助の愛も、オスカー・ワイルド描くところのサロメの愛も、シラノ・ド・ベンジュラックの愛も、軽大郎女(※2)の愛も、萬貴妃(※3)の愛も、同じ愛であり、愛という意味においては等価である。たとえば軽大郎女の愛は当時の法や倫理から言っても認められないものであったが、そのことと、彼女の「愛」が純粋であったかどうかとは何の関わりもない。

※2/同母兄とのインセストで有名。『古事記』や『日本書紀』に記載がある。事実かどうかまでは私が自分で取材したわけではないので保証できないが、少なくとも私のデッチアゲではない。

※3/明・成化帝の時代に後宮で絶大の権力を振るった妃。皇帝より20歳近く年上で、母と妻を兼ねたような存在だった

 愛はおそらく人間の中で最も尊いもののひとつだが、諸刃の剣でもある。時としてモラルを超え、「この愛のためならば世界が滅びても構わない」と思わせるほどの力があるからだ。いわば美しい危険物でもある。

 自分と、そして愛する対象のことだけしか考えず、成就のためには他者を踏みにじっても構わないという愛。あるいは愛の名のもとに相手を踏みにじっても許されると思う愛、もある(ストーカーなどはそのひとつの現れだろう)。それを「あなたの考え方は間違っている」と言うことは出来るが、彼の心を満たしている愛情を「存在しないもの」として否定することは誰にも出来ない。もしかすると神や仏であればそう言えるのかも知れないが、あいにくと私は確信犯的無神論者である……。

〈愛に深入りしたくない〉

 ともかくそういったわけなので、私は政治や社会を語るときに「愛」という言葉に深入りしたくない。言い換えれば、国その他抽象的なものを語るときには「愛」という「心の問題」は排除したい。

 たとえば国を愛するということ。神国・日本を守りたいと思うのも、憲法を改定して天皇を元首とすべきだと思うのも(と、石原都知事が言っている。でっちあげではなく、彼が著書の中で明言していることだ)、「国を愛している」からだろう。アメリカのパシリになりたい、東京裁判は間違っていると思う、他国からとやかく言われたくない、……すべて「国を愛している」ゆえであろうことを、私は疑ってはいない。ときどき「左翼は愛国心がない!」と叫ぶ人がいるが、左翼も(その多くの人は)国を愛しているのである。愛しているからこそ「これではいけない」と思うわけだ。

 オレの方が愛国心が強いぞ、という――愛国心の取り合いは、もうそろそろ止めようではないか。話が泥沼に陥るばかりである。

〈愛する心は独立して存在しない〉

 私は自分が「反日」「非国民」と言われても結構だと言ったが、「ではおまえは国を愛していないのか」と言われればふと戸惑う。

 たとえば、家族。私は両親を特に愛してはいなかった。愛するとか愛さないとか、そういうことを意識したことはあまりないし、ご多分に漏れず、子供の頃は幾分か親というものを憎んでもいた。だが両親の子としてこの世に生を受けたのは紛れもない事実であり、否応なくヘソの緒でつながっているのだという意識は今もある。

 そう……私は6歳で死別した父親が好きで、目を吊り上げて必死で私を育ててくれた母が好きで、春・夏・冬には長期で私を預かってとことん甘やかしてくれた祖母が好きだった。好きだからこそ、自分が安心して戻って行け、誇りを持ってひとに紹介できる存在であって欲しいと思ったのだ。国とか郷土とか言うものも、おそらくはそれと同じである。  

〈国を愛する心を育てるよりも、愛せる国をつくるのが先〉

 たとえば親。子供を博打のカタに遊郭に売ったり、性的虐待をしたり、子供ができないことを無理強いしたり(本人の資質や能力とかけ離れた要求をすることのほか、反社会的な行為を強いることも含む)……自分を苦しめる親を、愛せるはずがない。時には殺意を覚えることもあるだろう。だがしかしどんな親でも――子供は愛したいと思うのだ。その、ほとんど「本能的」と言ってもいい「親を愛したい気持ち」を逆手に取る人間を、私は憎む。

 愛されたいならば、多くの人間は「相手に愛される存在になりたい」と思い、さらに「愛する対象のために自分は何ができるのか」と考える。のっけから「自分を愛せ」と高飛車に言うのは、それは順序が逆だろう。

 愛せ、愛せとお題目のようにとなえずとも、愛するに値する存在ならば愛される。けったいな奴に拉致されて「てめぇ、オレを愛せっちゅうんだ」と迫られても(怖いから口先では愛しますと誓っても)愛せるわけがなかろう。

 繰り返して言う。愛は言葉ではない、「心の問題」である。私も好むと好まざるとにかかわらず日本に生まれ、日本語を母語とする人間だ(※4)。愛憎半ばするとはいえ、ある種の愛着がないはずはない。

※4/ナサケナイ限りだが、私は日本語以外の言語はきわめてあやしい。趣味的に囓った言語はむろんのこと、10年間ならったはずの英語でさえ、社交辞令を述べたり旅行に行って道を聞く程度ならともかく、ある種の武器として使う自信はない。

  日本語でものを考え、表現するしかない人間のひとりとして、この国が、この国の文化が、この国の言語が滅びて欲しくないという気持ちは多分にある。だが「とうちゃん、かあちゃん。やめてよお、違うよォ」と悲鳴を上げざるを得ない両親を持つよりは、親のない子に私はなりたい。

 だが幸いにして「国」というものは、「親」や「家庭」よりも変えやすい。親とつながったヘソの緒は生物学的な現実だけれども、国とつながったヘソの緒は幻想だからである(ついでに言っておくと、私は幻想という言葉を悪い意味には使っていない。見果てぬ夢、と言ってもいい。見果てぬ夢を持たずして、人間は自分が人間であることを主張できるだろうか)。私のようなヘタレ庶民ですら「愛している」と言えるような国を、私は死ぬまで夢見続けたい。 

追記/お玉さんのように「華氏は間違っているかい?」と言いたいのはヤマヤマなのであるけれでも(笑)、我ながら似合わないのでやめる(私が言えば、さぶいギャクにしかならない。これが人徳の差というやつである)。 

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