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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

ジャーナリズムの軸足は

2007-05-27 23:56:02 | マスコミの問題

 先週の初めから出張しており、土曜日の零時過ぎにヘトヘトになって戻ってきた。今回はやたらに移動が多いので荷物を極力少なくしたく、ノートパソコン持たずに行ったためネットと無縁の1週間でありました。メールもチェックしておらず、帰宅してパソコン立ち上げたらゲンナリするほどのメールが……。むろん仕事やプライベートの連絡もあるのだが、迷惑モノの多さにブチ切れそうになる。かなり神経質に対策立ててるつもりなのに、浜の真砂は尽きるとも世に迷惑メールの種は尽きまじ。ほとんどモグラ叩きの雰囲気である。

 しょうもない愚痴を書いてしまった(笑)。まあそういうわけで、TBいただいたエントリなども先ほどやっと、まとめて読みました。更新もしていないのに、TB送ってくださった皆さん、ありがとう。毎日読めるとは限りませんが、ちょっと遅れてでも読ませていただきますし、私は自分のブログを覗いてくださった方に少しでも多くさまざまな良質のエントリを紹介したい(読んで欲しい)と思っているので、TBいただくのは非常に嬉しいのです。これからも宜しくお願いします。

◇◇◇◇◇◇

 貧乏ヒマ無しを絵に描いたような状況下にあるので、今夜は先日から考え続けていることの断片のメモ書きのみ――。ジャーナリズムって何だろう、というハナシである。

◇◇◇◇◇◇

  よく「公正中立な立場」などというが、報道にそんなものはあり得ない。いや、「ある事実」の提示についてのみ言えば、「無色透明」はあり得る。と言うか、勝手に色をつけてもらっては困る。NHKの報道だろうと「赤旗」だろうと「聖教新聞」だろうと、たとえば日本の人口は1億2000人余だし、国民投票法参院可決は2007年5月14日。昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれたのは『バーレーを揺らす風』。都知事選の開票結果なども、新聞やテレビ局によって変わったりはしない。当たり前である。相撲の優勝力士が、朝日新聞によれば朝青龍、毎日新聞によれば白鵬(相撲に限らずスポーツ中継をまったく見ないので、実はどちらも名前をうろ覚えしてるだけで顔知らないのですが……)、なんてことはあり得ません。あったら怖い。

 だが、ジャーナリズムの役割は「(誰が見ても一目瞭然の)事実」を垂れ流し的に伝えることではない。これもまた、当たり前のことだ。報道者は機械ではないのだから。

 たとえば同じ「時の人」にインタビューした記事でも、メディアの性格により、そしてインタビューする人間の個性によって、中身は大きく変わる。私も同じ話題を他の雑誌などと並走する形で取材したことが何度かあるが、事前情報の集め方や質問の項目・中身や尋ね方などは千差万別。当然、出来上がる記事も大きく変わる。変わらなければ、それは取材・報道者の恥でもある。相手が言いたいこと、表面的なことだけ聞いてくるなら記者はいらない。テープレコーダーでも置いといたほうがマシというものだ。事実を歪めてはいけないが、「事実を見る時の眼」は生身の人間ひとりひとりのものである。

 ただ――「眼」は個々の報道者個人のものであるとしても、立ち位置はあくまでも「武器を持たない側」であるべきだと私は思う。武器というのは変な言い方だが、要するにあらゆる意味の「力」。権力を握っている側と、その権力の前に右往左往し、ともすれば押しまくられてしまう側のどちらに肩入れするかといえば、後者に決まっている。前者に肩入れするのは、「御用○○」である。

 もう随分むかし(笑)になるけれども、私が「マスコミ業界」に就職したとき、親戚のオッサンが「そんなヤクザな仕事に就かなくても……」と言ったのを覚えている。そのオッサンの感覚では、報道というのはまっとうな仕事とは思えなかったようだ。そう言えばはるか昔――そう、確か明治の頃には、ジャーナリストは「羽織ゴロ」などとも言われたのだっけ。 

 ジャーナリストというのは、基本的に「情報の仲買人」である。自らは何も生産せず、右のものを左に動かすことによって(※注1)銭を稼ぐ。「言葉」を使うという点では小説家や詩人や評論家と同じかも知れないが(※注2)、共通点はただそれだけ。

(※注1/ここでいう右とか左とかは、政治的な立場のそれではない。念のため。  ※注2/確定申告時の私の職業は、「文筆業」である。この文字を見るたびに、私は穴があったら入りたいような恥を感じる……。)

 ジャーナリストの文章は、浜辺の砂に書かれた文字のようなものである。その文章の命はほんのいっときだけにしか過ぎず、何年も残るものではない。むろん歴史的な資料として残ることはあるが、それはまた話が別だ。小説や詩が何百年の時を経ても生き生きと息づくのに対し、ジャーナリズム文章はすみやかに過去のものになり、資料として使われるのはただその化石に過ぎない。読み捨てられる多くの文字達を、私も日々書いているのである。

 ……と苦い口ぶりで言うのだけれども、砂に書かれた文字であるがゆえの矜恃、というものもある。圧殺される側、表現手段においてハンディのある側、そしてマイナーとひとくくりに言われる側……に、小便漏らしそうになるほど震えながらも立つ以外に、その矜恃を守ることは出来ない。

 上からの命令で、あるいは売りたいがために、あざとい記事を作ることに耐えられなくなったとき(※注3)、私はフリーランスの道を選んだ。  

(※注3/むろん指示命令は露骨な形で下りてくるわけではない。いわゆる現場の裁量はかなりの程度認められているし、納得できない指示に対しては抵抗することも可能だ。しかしマスメディアも“利潤”を上げる必要があるため、“売れる”企画が優先されるのもこれまた厳然たる事実である……)

 フリーになったからといって、 「いい仕事(リッパな仕事)」だけできるわけではない。実際問題として、著名人のゴーストライターや、リライト(※注4)や、こまごました趣味的な話題の記事を書いてメシ代稼いでいるのである。孫子の代までフリーライターなんかさせたくない、という気も実のところないではない(子供いないんで、むろん孫とかひ孫もいるわけないですが)。

(※注4/文章を書き慣れない著名人あるいは専門家がメモ的に書きなぐった文章を、テニヲハの調整から始まって、それなりの文章に仕上げる仕事)

 しかし、それでもなおフリーのジャーナリストには――NOという自由、あるいは権利、だけは保証されている。私は小心者なのでめったにこの権利を行使しないが、それでも何回かは(貯金通帳の残高がちらついて泣きそうになったけれども)NOと言ったことがある……。「私の思想信条に反するので、その仕事は出来ません」。いやほんと、後で後悔したんですよ(あ、後悔ってのは後でするのに決まってるか)。黙ってやってりゃ何万円……テレビを買い替えられたんだよなあ……とか計算してね。

 でもねえ……ジャーナリストの背骨は、反骨でしょう。それを失えば、すべては無。何もいらない。そして自分がやっていることなんざ大したことでも何でもない。ちょっと時間が経てば、誰も覚えちゃいないさ。ただ、時代の共犯者にはなりたくなく、報道しておくべきこと・記録しておくべきことに忠実でありたいと――少なくとも私は、そういうジャーナリストになりたい。死ぬまでに、なれるかどうかはわからないけれども。

(今夜も酔言でありました。し、失礼)

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普天間飛行場移設問題とマスコミ

2007-05-20 23:35:55 | マスコミの問題

◇◇◇沖縄の新聞から◇◇◇

 辺野古の問題――米軍普天間飛行場移設のために、住民の反対を押し切って事前調査を強行。海上自衛隊がそれに協力したという問題――。全国紙でも全く触れていないわけではないが、報道は沖縄の新聞がはるかに詳しいので、このところネット上で、沖縄タイムス琉球新報の記事を読んでいる。今日はその中から2つばかりを簡単に紹介しておく。

〈自衛隊は住民から米軍を守る〉

 琉球新報18日の社説、タイトルは「辺野古に海自艦・『何から何を』守るのか」。大砲や機関銃を備えた「軍艦」が派遣されたことに対して、【沖縄は大砲や機関銃を必要とする紛争地ではない。辺野古海域には機雷もない。いるのはジュゴンと、米軍の新基地建設に反対する市民だけだ】と真っ向から怒りを表明したものだ。この社説は、次の一文で結ばれている。

【あれから62年、国民を守るはずの自衛隊は、米軍の新基地建設に反対する国民を「威圧」するために軍艦を沖縄に派遣するのか。悲惨な沖縄戦が残した歴史の教訓は、「軍隊は住民を守らない」ということだった。今や時代は変わり「軍隊は住民から米軍を守る」という悲しい現実に、沖縄は直面することになるのだろうか】

 これが「集団的自衛権」の現実である。

〈海を殺す者〉

 もうひとつは沖縄タイムス20日の記事で、タイトルは「辺野古アセス『公正に』/ネット署名 世界から1000件」。「市民アセスなご」の吉川秀樹さんが呼びかけたもので、19日間に世界各地から1000件以上の署名とメッセージが集まったという。(署名呼びかけのサイトはこちら

【ラオス共和国のマーク・ベジェエンさんは「ジュゴンは危機にさらされているアジアの海洋生物のシンボル。日本は米軍基地を造ることよりも、美しい自然を守る事を優先すべきだ」と訴えている。】(同記事より)

 美しい海を殺して「美しい国」を創ろうとは、いったい何ごとだろう。

 

◇◇◇すべてのメディアが報道しろとは言わないが◇◇◇

 最初に書いたように、全国紙はこの問題を僅かしか報道していない。さすが報道はしていますがね、問題の大きさの割にはどう考えても扱いが小さい。dr.stoneflyさんによると、テレビではほとんど報道されていないそうだ。何かがどこか歪んでいるとしか思えない。

 いや、むろん私は「メディアはすべて政治・社会問題を報道すべき」とは思っていない。「うちは娯楽(など)に徹する。政治問題や社会問題はいっさい扱わない」という新聞やテレビがあっても、別にかまわないと思う。「うちは地元のニュースだけを扱う。全国レベルの問題や世界情勢は、ほかの新聞を読んでください」という地方紙も、あってかまわない。江戸時代の瓦版みたいな新聞もアリだろう。

 ただ、いま日本に存在するいわゆる「一般紙」(スポーツ紙や、読書新聞のような特殊なもの、業界紙などを除く新聞)は、読者の耳目の代わりになって「国民が知りたいと思っていること」や「(自分達の権利や暮らしを守るために)知っておくべきこと」を取材し、報道するのが大きな役割――ということになっている。

 もちろんそれだけではなく、「娯楽や教養」という面もある。だからどの新聞でもスポーツ欄があり、連載小説やエッセイがあり、書評や劇評があり、旅行や料理や、健康情報的な記事も載っていたりするのだ。それはいい。私たちは朝から晩まで社会情勢のことを考えて暮らしているわけではない。私自身、「街の話題」など結構楽しんで読むし、やや浮世離れした記事を読むのも大好きである。

 だが、今の日本の「一般紙」はすべて、一面に「重要な社会問題」を取り上げる。そしていわゆる「三面記事」も、基本的に社会ネタである。中身は大きな問題から街ネタと呼ばれる小さなニュースまで、さまざまだけれども。考えてみれば、どの新聞も作り方はまったくもって横並び。1つぐらい「萬朝報」みたいな、新聞があってもいいと思うが……。

(※萬朝報=黒岩涙香が創刊した明治の新聞。スキャンダルの報道と、娯楽欄の充実が特徴だった。『巌窟王』など涙香の代表的な翻案小説は、同紙に掲載された)

 また話が逸れた(思いつくまま書きなぐっているので、すぐそんなふうになる……。酔ってるし)。戻そう。ともかく、今の一般紙はすべて、「重要な社会問題を取り上げる」ことになっているのだ。テレビのことはよくわからないのだが、こちらも多分そうだろう。どの程度の時間枠をとるかは別として、「ニュース報道の時間」を設けているのだから。

 それならば、である。なぜ普天間飛行場の移設問題、そして事前調査をスムーズに進めるために「軍隊」(自衛隊はレッキとした軍隊だと私は思っている)が出動したことを報道しないのか。これは単なる「沖縄という、一地方の問題」ではない。反対デモの鎮圧に機動隊が出動しました、という話とはレベルが違うのだ(むろん丸腰の市民のデモを装備した機動隊が睥睨し、時として襲いかかるのを認めているわけではない)。「もと組員の立てこもり」も「母親を殺害したと少年が自首」も、大きな事件ではあろう。だから報道するなとは言わないし、もっと小さく扱えとも言わない。しかし日本という国の足元の揺らぎ方という観点から言えば、今回の辺野古の問題の方がはるかに大きいと私は思う。

 一葉落ちて天下の秋を知る敏感さこそ、ジャーナリストの命。ほんの小さな出来事からでも、それを通してまだ表面に表れていない地殻変動のきざしや、沈黙の背後にあるものを察する感性こそジャーナリストの命。ましてや今回は、小さな出来事どころではないのだ。今からでも遅くない、報道して欲しい。場合によっては普通のニュース記事ではなく、腰を据えて特集を組んで欲しい。まだメディアは堕落していないことを我々に示して欲しい、社会の木鐸としての(古いなあ……)報道者の気概を見せて欲しいのである。

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国民投票法案/各紙の社説などを読んでみた

2007-04-14 23:17:20 | マスコミの問題

 国民投票法案衆院通過に関する社説や論説を、新聞各紙がいっせいに載せている。活字で読んだのは2紙ほどだが、改憲国民投票法案情報センターのサイトで各紙の社説・論説をまとめて読んだ。

 産経や日経など一部の新聞を除き、少なくとも「与党の横暴」には批判的。可決した与党の法案は改憲のハードルが最も低い、ということをはっきりと、かなり丁寧に書いている新聞も少なくない。「取り上げるの遅すぎ!」とお玉さんの口真似をしたくなるが、まあ何も書かないよりはマシか……。

 一部を紹介しておこう。なお掲載日はすべて4月14日である(上記センターのサイトには、それ以前の社説なども載っている)。

【そもそも急ぐ必要があるのだろうか。最近の世論調査(NHK)では、国民投票法案への賛成は三割弱しかなかった。賛成者でも、今国会にこだわらず時間をかけて論議するべきだと七割が考えている。(中略)(華氏注/憲法改正については)その賛否は分かれるかもしれない。それでも、いま多くの国民が政治に望むのは、たとえば格差解消であり医療や教育の充実だ。「なんとか還元水」に象徴される政治とカネの問題も未解決ではないか▼国民の望み、世論の動向がどこにあろうとも、自らの信念に合わせ力ずくで政治を進めてゆく。このベッドの上で息絶えるのは、おそらく民主主義なのだ。】(北海道新聞)

【法案自体にも問題点が少なくない。憲法改正を承認する「過半数」の母数が、有権者総数や投票総数ではなく、最もハードルの低い「有効投票総数」とされたのである。もっと問題なのは国民投票を有効とする「最低投票率」の規定がないことだ。仮に投票率を40%とすれば、有権者の20%余りの賛成で憲法改正が成立することになる。】(秋田魁新報)

【国会の外からも、有効投票数の二分の一とされた「過半数」の定義の見直しや、最低投票率制度の必要性を強調する意見など、改憲派、護憲派の双方から問題点の指摘が相次いだ。今回の採決は時期尚早の「見切り発車」との批判を免れないだろう。】(山陰中央新報)

【法案処理を急いだ結果、議論のあった最低投票率は定めなかった。投票率がどんなに低くても成立することになる。地方公聴会はわずか二回。それも大阪と新潟で同じ日に開いた。国民的議論があまり盛り上がらないように済ませたとも映る】(中国新聞)

【中立的な手続きルールを定めるだけなのだから、成立は当然だ。遅すぎたぐらいだという論調が、メディアの中にもあることに正直驚く。(中略)憲法改正への第一歩がついに踏み出された。歴史の節目をこんなふうに越えてもいいのか。(中略)防衛庁を省に昇格させ、手続きルールだと言っては改正への国民投票法をつくる。そんな外堀を埋めてから本丸を攻めるような姑息(こそく)な方法で国家百年の計を決めるな。】(東京新聞)

【国民の間に憲法改正を求める声が広がっているわけではない。法案を急いで成立させる必要性はどこにあるのか】(新潟日報)

◇◇◇◇◇

 それにしても思うことは……「強行採決されてから、評論家みたいに喋るんじゃなーいッ」。(いや、むろん以前から取り上げていた新聞もあるが、全体の雰囲気としては可決されて慌てて横並びで批判姿勢を見せた、という感じが否めないのだ)

 私はメディアの役割は社会の動きに神経を尖らせ、庶民の代理として「知っておくべきこと」を取材し、報道することだと思っている。権力側が隠そうとしていること、ごまかそうとしていることを、広く知らせることだと思っている(むろん娯楽的な側面などもあり、それはそれでいい。人間、24時間緊張はしていられないのだから)。だから昔は「社会の木鐸」などと言われていたのだ(古いなぁ)。いつから新聞は評論家になってしまったのだろう。

 社説で【あれよあれよという間にもうここまで来たか…という印象である】と書いていたのは、宮崎日日新聞。これにはつい笑ってしまった。あれよあれよという間に、ってねえ。あなた達は情報の収集にかけては国民ひとりひとりとは比べものにならないほど、たけているはずでしょう。もちろん現代は個人でもその気になれば相当の情報が集められるが、個々人が全国津々浦々取材して回ることはできない。会える相手も、読める資料も限られている。メディアは「その代理人」であるという意識を忘れてはならないと思う……。

 少々ガックリしながらも、なお私は「メディアへの叱咤激励」を続けたい。「憲法改正をしたいがために、議会制民主主義を踏みにじっても国民投票法案を通す。その与党の暴挙に対して社説等で抗議されたことを嬉しく思います。しかし、それだけでジャーナリズムの責務を果たしたと思って欲しくありません。同法案の問題点などを、さまざまに工夫してわかりやすく報道していただけることを切に望みます」という簡単なメールを、各新聞社に送った。

◇◇◇◇◇

 民主党にももう少しシッカリしてほしいという願いをこめて、戸倉多香子さんを応援しています。

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「拉致問題集中報道」要請と70年前の政府の指導

2006-10-23 23:59:06 | マスコミの問題

 御存知の方も多いと思うが、『資料 日本現代史』という13巻の本がある(発行は大月書店)。閣議決定されたナントカ要綱などのいわゆる公文書や、政府の調査、ナントカ局長の演説、といったものを集めた資料集である。

 難点の1つは高価なこと(約20年前の発行当時で1巻1万円近い定価が付いている。私は以前古書店でみつけたものの、さすがに全巻揃いは手が出ず、バラで出ていたものを一部だけ買った)だが、多分大きな図書館には置いてあるはずなので、暇な時に見掛けたらめくってみられては? もう1つの難点は……資料の多くが「漢字とカタカナ」であることだ。ひらがな混じり文の読み書きが習慣になっている現代人にとっては、かなり読みにくい……。これは私だけかも知れないが、普通の文章を読むのに比べてスピードが20~30%ぐらい落ちる感じがする。だから斜め読みでは頭に入りにくいのだけれども、正確に記憶しておこうなどとは思わず、現代史を理解する助けになれば程度の感覚で漠然と眺めるにはそれなりに結構おもしろい。

 それはさておき。ちょっと必要があって第10巻「日中戦争期の国民動員」をめくっていた時、偶然に「新聞指導要領」(1939年4月26日、内閣情報部)のページが開き、思わず本棚の前に座り込んで全部読んでしまった。これは日中戦争期の世論指導策の一環として、政府が新聞に対して「報道の基本方針」を示したものである。全文紹介する気はむろんないが、基本方針の第一は次のようなものである。(漢字は新漢字に改めてある。またこの文書は珍しくカタカナではなく平仮名を使用)

【新聞は政治、経済、社会、其の他各方面に於て(一)東亜新秩序建設の意義 (二)時局の多難複雑性 (三)時局打開の諸対策 (四)国民精神の昂揚 につき国民の理解啓発を促すことを編集の根本態度とすべきこと】

 そしてたとえば「新東亜秩序の建設は正義であり、それを完成するのが国民の栄光ある責務であること」、「列国(英米など)が我が国の国力の消耗を企画しつつあるため、国際関係が複雑・重大になる可能性があること」等々の趣旨に添って記事を作るようにという具体的な指導がなされている。また、海外のニュースの取り扱いや国際問題の解説については、「英米仏が日独伊の連帯を阻害するために宣伝謀略を用いて我が国の世論の分裂をはかっているので、それをよく考慮した上で扱うように」、「列国の干渉圧迫は断固として排撃するという世論の確立を目指すように」といった指導もあった。

 読みながらふと思い出したのが、総務省がNHKに対し、短波ラジオ国際放送で拉致問題を重点的に扱うよう要請したというニュースである。既に新聞各紙でも報道されているし、ハムニダ薫さんなどのブログでも扱われているので、皆さんよく御存知のはずだ。

 多くの方は「冗談じゃないぜ」と憤慨なさる、あるいは不快感を覚えられるはずなので私までシタリ顔で意見述べる気はない。ひとつだけ、感想を書いておくにとどめる――マスコミは原則として、何ものにも縛られない自由な立場であるはず。むろん政党や宗教団体の新聞雑誌もあるし、企業のPR誌というものもある。そういう「立場のはっきりした」媒体も存在してかまわないし、存在意義もあるけれども、ジャーナリズムというのは元来は「歪められない事実」の報道者であると共に記録者であり、権力の暴走に歯止めをかける役割を担っているはずだ(これは理想論であり、現在のマスコミがそうだと言っているわけではない。ただ、理想は失ってはいけない)。おかみから「これを報道せよ」「こういう方向で報道せよ」と言われ、それを受け入れた瞬間に、メディアは死ぬ。

(狭義でも広義でも)権力なるものを握っている者達は、必ず「報道」を制しようとする。およそ70年前の日本も、まさしくそうだった。いつか来た道という言葉があるが、私達は本当にその道を辿らされ始めているような、いやぁな感じがある……。

追記/拉致問題という言葉に反応して、反日がどうの、という人がおられるかも知れないのであらかじめお断りしておく。私は“拉致問題だから”政府が重点報道を要請するのがいけない、と言っているわけではない。ちょっと妙な話だが、今の政権がひっくり返って国旗と国歌が別のものになり、メディアに対してその新しい国旗・国歌に関する報道の要請がおこなわれたとしたら――? もちろん私はそれに反対する。当たり前ではないか。拉致問題などという、感傷をくすぐる話を真っ先に持ってくるなんて、ズルイよ。

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報道者というもの――その姿勢とモラル(前編)

2006-06-14 03:30:11 | マスコミの問題

PCの不具合で、ここ2日ほど画像をアップできない。UTSその他のバナーを貼りたいのだけれど、そういう事情で……。(くそーッ、また初期化しないといけないのかよっ!)

 ネット上の親しい友人である(って、勝手にトモダチ扱いしてすみません)愚樵さんが「報道者って何者?」という記事を書かれた。この中で愚樵さんはH-Yamaguchi氏の「新聞記者はえらい、という話」を取り上げ、報道機関、報道者そして報道というものについての「素朴な疑問」を提示しておられる。実は「新聞記者はえらい、という話」は、もう10日ほども前にコメント欄でご紹介いただき、「華氏さんはどう思いますか」という問いかけも受けていた。ある意味で単純、しかしある意味では非常に難しく――どんなふうに整理すればよいのか途方に暮れたまま時間だけが経過してしまったのである……。だが、報道の末端を担う人間として、この問いには真面目に答えなくてはなるまい(勝手にそう思っているだけだが)。ちょうどいい機会、かも知れない。

 「新聞記者はえらい、という話」については実際にこの記事を読んでいただくのが一番だが、一応、要点だけを簡単にまとめておく。

 ○ある大手新聞社の役員氏によれば、記者はあらかじめ何を書きたいかを決めて(明確な結論まで持って)取材するのだという。

 ○新聞記者が書くのは事実ではなく、解釈された事実でもなく、その記者自身の主張である。記者が取材に行くのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の主張に沿った情報をネタとして仕入れるためにすぎない。

 ○つまり新聞記者の仕事というのは、事実を伝えるルポライターの仕事とも、事実を解釈する学者の仕事とも違い、むしろ「小説家」に近い。つまりアーティストであり、だから彼らは「えらい」のだ。  

以下、愚樵さんの「疑問」に対して、私なりの答えを返してみるという形で構成する。【】でくくった部分は、愚樵さんの記事内の文章である。

【新聞社とそれ以外の報道の世界では、こうも報道に対する姿勢が違っているものなのだろうか?】

  新聞社もそれ以外も、基本的な「報道の姿勢」は何ひとつ変わらないと思います。私自身、新聞の仕事をしたこともありますので、この点は自分の責任において断言できます。

 【新聞記者は言わずもがな、「事実がすべてを物語る」という姿勢の雑誌編集長も「評論家やエッセイストになってしまう」、つまりアーティストになってしまうという「事実」を指摘する。】

  私は、ルポライターは、独り立ちできるようになるとすぐ評論家やエッセイストになりたがる、という雑誌編集長の言葉を紹介しました。しかし「評論家やエッセイストになりたがる」理由は、多くの場合、「アーティストになりたい」からではないと思います。私見ですけれども、ルポライターよりも、評論家やエッセイストの方が「肉体的に楽」だからではないでしょうか。昔、「刑事と記者は足で稼ぐ」などと言われました。何人も何人もの人に会い、さらに話の裏をとって回る。話を聞くためには自分があやしい人間ではないことを真に理解してもらわねばならず、一升瓶下げて行って徹夜で飲み、一緒に泣きもする。ある意味で泥臭い、体力勝負の世界です。しかし、評論家やエッセイストは、靴の底をすり減らして歩き回らなくてもいい。歩き回った方がいいに決まっていますが、必要十分条件ではない。むろんそれなりの頭脳やセンスが必要でしょうが、少なくとも肉体的には楽――なのです。その分、綺麗な仕事でもあります。だから多くのライターが、そちらに行きたくなるのでしょう。

 やや余談ですが、私もほんの数回ですけれど、恥を忍んで講演めいたもの(要するにひとさまの前でちょっとしゃべる)をやったことがあります。自分が持続して関わった記事の関連で、刺身のツマに呼ばれただけですし、ツマですから講演料も刺身本体の先生がたとは比べものになりません(1度など、予算がなくてちゃんとした方には来てもらえないから、仕方なくあんたに頼んだと正直に言われたこともあります……さすがに自嘲せざるを得ませんでした)。それでも、2時間程度しゃべって、私が雑誌などに取材記事を書くときの「仕事の時間単価」と比べると、驚くほど多額のお金をいただいて腰が抜けました。また、ペンネームを使って、幾分か評論家的な記事を新聞に書いたこともありますけれど、その時も「こんなにもらっていいのか」とビビったのを覚えています。400字あたりの原稿料は取材記事と同じですが、取材という辛い作業がないわけですから、感覚としては桁の1つ違う金をもらってしまった、という印象でした。ほとんど麻薬を嗅がされた気分だったのです。 そういう経験を経て――私は「自分が足で稼いだ仕事以外でカネをもらったら、記者は腐る」という結論に達しました。そりゃ私だって、楽して稼げるものならそうしたい。常にそういう誘惑はあります。でも……ここはもうほんと、やせ我慢の世界なのですけれども、「誘惑にのっちゃあ、おしまいよ」。芸は売っても身は売らぬ、なのです。もっともこんなノーテンキなことを言えるのは、私が養うべき何者も持っていないからだと思います。自分の始末さえつけられればそれでよく、どこでのたれ死にしても嘆く者も困る者もいない。親や妻子のことを考えねばならない人達は、そんなキレイなことを言っておれないのです……。

 【報道機関とは常にモラルを問われるところに位置する存在である。「アーティスト」たる新聞記者はそのモラルが疑われるし、その姿勢はH-Yamaguchi氏が疑問を呈するように「取材って本当に必要なのか?」と報道機関の存在意義を疑われてしまう結果を導く。】  

 新聞記者は「予断を持ち」「自分の中で明確な結論をもって」取材する、とH-Yamaguchi氏は書いておられました。これはある意味では事実であり、同時にある意味では偏見?かも知れないと私は思っています。 こんなことを言うのは語弊があるかも知れませんが、記者が「予断を持つ」のは当然のことです。記者はコンピュータでも人形でもなく、血肉を持った人間です。主張を持ち、予断を持つのはある意味であたりまえだと私は思います。たとえば私が医療関係の法律改定の取材をするのであれば(実際、間歇的に取材しているのですけれども)、「受益者負担の思想は格差社会を補完するものだ」という自分の考えにのっとって取材するでしょう。「白紙の状態」という言葉は聞こえがいいのですが、実際問題としてはそんなことはあり得ません。人はすべて、それぞれに自分の立ち位置、視点、考え方のベクトルを持っているのですから。その意味でH-Yamaguchi氏の指摘は正しくもあり、やや論点がずれているとも言えるでしょう。 ただ、いずれにしてもその「予断と偏見」は自分だけのものであると知っておくこと、そして「予断と偏見」に賭ける覚悟があること。さらに――予断と偏見を抱きしめながらも、それが「事実」の前に膝を屈することもままあると知り、その場合は潔く兜を脱げること。――それが、報道者が報道者として生きることを許されるための必須条件であろうとも思っています。

◇◇ 夜がふけ、さすがに眠くなってもきたので、話は中断。あらためて続きを書きます。このエントリは、「報道」を考える第一歩、ということで……(実際のところ、この問題は自分にとってハンパじゃない話なのだ。しつこくしつこく、私なりに考え続けたい)◇◇

 

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マスコミを乗っ取られるままにしておくな

2006-05-01 02:50:23 | マスコミの問題
連休前ということで(私は連休ではありませんが)片付けておかねばならないことが多く、取り急ぎ思いついたことだけメモしておく。

1)続・マスメディアを叱咤激励しよう

「雑談日記」さんからTBいただいたエントリ「『4月30日現在共謀罪取組政党別マスコミ別評価バナー』を作りました」(※)の中に、次のような一文があった。

【現状を見るならばマスコミ批判の潮流の方がまだまだ弱い、弱すぎると思っています。(中略)まだまだマスコミ批判の舌鋒は不十分で徹底的にやるべきです。そうする中で、良いものをほめる】
 ※http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2006/04/430_b55a.html

まだまだマスコミ批判は足りない――と思っておられる方は、ほかにも大勢おられると思う。実際、いろいろな方のブログを読むと、マスコミの姿勢に対する鋭い批判をよく見かける。

実のところ私も、今のマスコミ――特に巨大メディアと言われる所には愛想が尽きるほどだ。それでもなお、私は「この状況だからこそ、マスメディアを叱咤激励しよう」などと書いてきた。それは「まともな情報を受け取りたい」と思っている人々がマスメディアを見放した時、マスメディアは完全にダメになってしまう――乗っ取られてしまうだろうからである。

むろん、批判はすべきである。大本営発表のような情報の垂れ流しや、重要な情報を覆い隠すような働きをする紙面(誌面、番組)作り、一種のアリバイとしか思えない(薄い水割りのような)政治批評……等々、すべて「何考えてるんだ」と厳しく批判し、抗議しなければならない。

ただ、その場合、我々は「マスメディアをどう捉えるか」を自分の中で明確にしておく必要があると思う。敵であるのか、それとも味方(に引き入れたいもの)であるのか。

むろん、「マスメディアは百害あって一利なし。まったく信用できない。我々の側ではない」と言い切る立場もアリだ。だが、私はマスメディアを「百害の一方で、まだ一利ぐらいはある」と思っているし、少なくとも「あんたらは全くダメ」と十把一絡げに捨ててしまいたくない。捨てるにはあまりに惜しい、ということもある。また、私はメディアは本来、報道する側のものでも、ましてやスポンサーのものでもないと思っている。報道される情報を受け取る側のものである。だから「叱咤激励しよう」という話になるわけだ。報道の姿勢や視点のおかしさを批判・抗議し、何々を報道せよと要求し、良質の報道があれば応援し……という関わり方によって、マスメディアを我々の手に取り戻さねばならない。


2)メディア攻撃をガス抜きに利用されまい

郵政民営化を叫ぶ時に、与党は我々の中に潜んでいる「反公務員感情」のようなものをうまく利用した。公務員は親方日の丸でヌクヌクとやってる、という感情……。権力は仮想敵をこしらえるのが巧い。仮想敵というと話が大きくなるので、「みんなが石を投げる対象」程度の言い方をしてもいい。それに乗る方も乗る方ではあるのだが、それはさておき、おおっぴらに罵倒する対象が与えられればつい尻馬に乗ってしまうのは我々のなさけないところである。中国や韓国はけしからん、オウムの信者は悪いヤツラだ、このあいだ逮捕された○○(誰でもよい)は人だ、公務員は楽をしている……エトセトラ。

そのうちマスメディアも、具体的に何処が問題であるかがほったらかしにされたまま、「まともな報道など何ひとつしていない」「嘘ばかりついている」「バカだ」と気持ちよく罵倒され石を投げられる対象になりかねない……というのは私の妄想だろうか。一億総評論家になって「マスコミはダメなんだよねえ」などと言い、それで溜飲を下げてしまっては肝心のところに霞がかかる。

一番よくないのはマスメディア自身だが、「ダメだダメだ」の大合唱をしているだけではラチはあかないのである。マスメディアをこれ以上、堕落させまい。いや、むろん堕落するのは自業自得みたいなものであるけれども、堕落を嗤って眺めていた結果、ツケを払わされるのは……。


3)そして、マスコミで働くすべての友人達へ

むろん、メディアの仕事に携わる人々に対しては別のことを言いたい。私達はいま、崖の側まで追いつめられている。その崖は目に見えないから、つい日々の業務の中で見過ごしてしまいがちだが、足が崖っぷちにかかった時はもう遅いのだ。

たとえば先日来、多くのブロガーが危機感を表明している共謀罪。あれはメディアにも突きつけられた刃である。表現すること、情報を伝えていくことを使命とするジャーナリストにとって、「語ること」に縛りをかけられるのは死の宣告に等しい。与党の改定案が明示された教育基本法も同様。思想と表現を縛ろうとする動きは、すべてジャーナリズムの敵であると何度も何度も自分の中で確認し続けねばならないと私は思う。

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「80%が現憲法評価」の意味

2006-03-09 22:55:07 | マスコミの問題


毎日新聞世論調査に対する異議申し立ての記事を書いた(3月6日付「改憲賛成65%? 冗談は休み休み言って欲しい」)ところ、何人もの方からTBやコメントを戴き、大勢の方が憤りを感じておられることを知って改めて心強く思った。ありがとうございます。

それはそれとして、皆さんのご意見を読んでいるうちに、私の中で次第に重くなってきた事実がひとつある。それは毎日新聞の世論調査に「現憲法を評価するかどうか」を問う設問があり、80%が肯定的な評価を下したという「事実」だ。

【戦後日本の平和維持や国民生活の向上に現憲法が果たした役割については「かなり役立った」が26%、「ある程度役立った」が54%で評価派の合計は80%。「あまり役立っていない」は14%、「まったく役立っていない」は2%にとどまった。政党支持別では自民支持層の83%、民主支持層の75%が評価派だった】(同紙の記事より)

実のところ私は、「評価した人80%」という数字もさほど信用していない。前のエントリでもちょっと嫌味を言ったが、「簡単な質問にお答え下さい」的に聞かれた場合、人間の心理として、「×」よりも「○」を付けやすいからである。私は別に心理学の専門家でも何でもないからガクモン的な説明はできないが、その程度は常識の範囲であろうと思う。

たとえばファミレス(ビジネスホテルでも何でもいいが)に行って、「当店のサービスについて、アンケートにご協力下さい」と求められたとする。その場合、「店員の応対はいかがでしたか」「言葉遣いはいかがしたか」などという質問に対して、皆さんはどのあたりに○を付けるだろう。「すばらしい!」と感激して「非常によい」に○を付ける人もいるだろうが、割合としてはそれほど高くあるまい。大多数は、「まあよい」か、さもなければ「普通」あたりに○をつけるのではあるまいか。「あまりよくない」や「よくない」に○を付けるのは、たいていの場合、「なっとらん」と怒る積極的理由を持つ人たちだ(むろん、さほど積極的理由が無くてもダメと評価する癖のある人もいるが……)。「気に入らない点はあるが、いい所もあるし……」と思っている人のほか、「こんなアンケート、自分に関係ない」と思っている人も、さっさと「まあよい」や「普通」に○を付けておしまいにするだろう(※1)。

話を元に戻す。そう、現憲法を評価している人が80%……。いま述べたような理由で、私はこの数字もある意味で驚くべきことではなく、「まあ、そうだろうな」という感じである。積極的に「今の憲法はケシカラン」と思っている人以外にとっては、「ある程度役立った」というのが最も抵抗なく選べる選択肢であろう。

ファミレスのアンケートと憲法改定問題の世論調査を一緒にするな、と叱られるかもしれない。しかし私の見るところ、この二つが同じぐらいの重さ――とはまさか言わないが「どちらも現在の自分にとって頭痛がするほど真剣に考えるべき問題ではない」という人は多いような気がする。いや、この言い方は語弊があるかも知れない。「憲法の問題は大切だが、今日明日結論を出さねばならぬほど差し迫った問題ではない」と考えていたり、「憲法はこのままでいいけれど、少しぐらい変わったって大したことはないだろう」と考えていたり、「改憲とか護憲とか騒いでいるのは、どちらも一部の人たち。庶民には関係ないよ」と思っている人が多い、と言うべきか……。だからこそ、「80%が現憲法肯定」、それでも「改憲賛成65%」という奇妙な結果が出てくるのだろう(※2)。

そういう、はっきり言って全面的な信用は置きかねる数字ではあるのだが、私はこれに関して次の2つのことを考えた。

1)この数字は声を大にして広めるべきだ
信用しないと言いつつ「広めよう」とは……何だか自分が「目的のために手段を選ばない」人間の一種になったような気がするが……いやいや、「80%が現憲法を積極的に評価」しているかどうかは別として、少なくとも「不都合と思っていない」ということだけは読み取れる。そこからは、別に不都合でも何でもないものを、なぜ強引に変えなければならないのか? という問いかけを始めることができる。商品であれば、今のままで何の不都合もないものを買い替え促進目的でモデル・チェンジするのもアリだろう。目新しさを狙って名前だけ変えるのも、しょうもないオプション付けるのも、まあ結構。個人的には好まないが、それをとやかく言う気はない。しかし法律というものを――特に憲法を、「特に不都合はないけれど……そろそろ古くなったし」の感覚で扱ってもらっては困る。改憲推進派は、「賛成65%」の数字をことあるごとに持ち出してくるだろう。それに対して私たちは、「不都合と思わない80%」を大いに喧伝する必要がある。

2)これは現場のささやかな抵抗かも知れない
質問事項の作成者や記事を書いた記者の良識を疑う、というコメントをいただいている。私もそう思う。しかし同時に、「苦しいところかも知れないな」という思いも湧いてきた。新聞社や出版社なども企業であり、社員に給料を払わねばならず、巨大な権力には逆らえない。むろん、だからと言って権力に尻尾を振るのを容認する気は毛頭ないが、現場は苦しいだろうな……と同情はする。だからもしかすると、「今の憲法が平和維持や国民生活の向上に役立ったと思うか」という質問を設定し、その結果を(記事の一部としてではあれ)発表したのは、現場のささやかな抵抗、良識の表れなのかも知れない。これも一種の身びいきに過ぎず、「そう思いたいだけ」かも知れないけれども。だが、「改憲賛成65%」だけの記事よりも、はるかにマシだ。小さくではあれ「現憲法肯定80%」といった報道がおこなわれる限り、私は巨大メディアを全否定しない。世論調査の記事が「改憲賛成65%」だけで埋まるような事態に立ち至らないよう、これからますます監視し、応援もしていきたいと思っている。

※1 アンケートの設問
以前「世論調査の陥穽」について書いた時、村野瀬玲奈さんが次のようなコメントを寄せてくださった。
【私が学生の時、社会心理学で質問紙調査の実施方法など学びましたが、質問項目や回答の選択肢を作る時には注意しなければいけないというのは基本中の基本でした】
全くその通りである。私も社会調査の勉強をした(させられた?)ことがあるし、仕事の上でさまざまな調査に携わったこともあるので、ちょっとした言葉の使い方や、肯定的な聞き方をするか否定的な聞き方をするかによって結果がまるで違ってくることを知っている(研究しておられる方や、調査と名の付くものに関わっている方なら、そんな話は当たり前すぎて、今さら何エラそうに言ってるんだと嗤われるかも知れないが……まあお見逃しのほどを)。

※2 「改憲賛成」の中身
「改憲65%」といっても、むろん、皆が皆、自民党の草案に賛成というわけではあるまい。これまた「世論調査の陥穽」の記事で書いたことだが、昨年のNHKの世論調査では9条改正賛成39%のうち、3分の1弱は「軍事力の放棄をもっと明確に条文化すべき」という意見であったという。

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「世論調査の陥穽」ということ

2006-03-04 00:40:57 | マスコミの問題


1か月以上前になるが、ある集会でテレビ・ジャーナリズムの現状に関する話を聞いた。報告(提言)者は放送ジャーナリストの岩崎貞明さん(元テレビ朝日、現『放送レポート』編集長)。提言は大きく3つに分けられ、その1つが「世論調査の陥穽」について。岩崎さんはNHKがおこなった2つの世論調査を取り上げて、世論調査を鵜呑みにする危険性を語った。

1)分類の恣意性
昨年1月、NHKスペシャル『シリーズ憲法』で憲法改正世論調査がおこなわれた。その結果は9条を「改正すべき」と「改正すべきでない」が共に39%だったが、実は「改正すべき」のうち約3分の1〈11%〉は「軍事力の放棄をもっと明確にすべき」という意見であった。つまり、同じく改正を望むと言っても、「自衛軍を創る・集団自衛権を認める」と「非武装を徹底させる」という逆方向の意見があるわけで、「これを一緒にカウントするのは変」と岩崎さんは指摘する。

2)「やむを得ない」という言葉
今年1月、『おはよう日本』でおこなわれた消費税世論調査。「公務員削減など徹底した歳出見直しの上での、税率引き上げはやむを得ない」が59%を占めたという。これについて岩崎さんは、「やむを得ない、という言葉は世論調査で使うべきではないし、この言葉が入った調査は信用してはいけない」と語る。なぜならば「やむを得ない」という言葉を使われると、私たちは「自分の考えは違うけれども、世の中の動きはそうなのかも知れない。ま、仕方ないのかな」と思い、ついそこに賛成してしまうから――であるという。

でもって、以下は私の感想。
まず(1)について。こういったカウントを恣意的と見るかどうかは意見の分かれるところかも知れないが(単なる無神経、かも知れない)、いずれにせよ「世論調査」には指摘されたような乱暴な面がある。人間が何かを選択する時の理由はさまざまである。朝食を食べない理由、会社を辞めた理由、犬を飼った理由、結婚しない理由、……何でもいいが、10人に聞けば、10人全部バラバラとまでは言わないが4つ5つ異なる理由が出てくるだろうし、微妙なニュアンスの差まで含めれば多分みんな違っているだろう。それらをひっくるめて「朝食を摂らない人が30%」などと数値化されてしまうと、たちまち多くのものが見えなくなる。

人が何かを選択する場合、重要なのは「なぜか」という理由である。理由抜きでイエスかノーかを尋ねた調査や、理由を聞いたとしてもそれを軽視して数字的な結果だけを発表した調査というのは、危険きわまりない。

(2)についても、なるほどと頷いた。「賛成」「反対」「場合によってはやむを得ない」という選択肢を示されれば、よほど確固として賛成あるいは反対している人以外、「やむを得ない」に引きずられてしまうだろう。

日本人は他に同調しやすいとか、横並び体質であるなどとよく言われる。確かにそういう面もあるのかも知れないが、「やむを得ない」という言葉については少し違う見方もできるような気がした。提示された問題によっては100%賛成、または100%反対であると即答しにくいものもある。さまざまなことを考えれば考えるほど答えが難しくなるのだが、調査では多くの場合、「これこれならば賛成で、こういう意味なら反対」などと細かな回答を求められるわけではない。それで考えあぐねた揚げ句、最も無難な「やむを得ない」を選択することが少なくないのでは……?

上記の調査のように「……した上で」などある程度具体的な(具体的に見える)言葉がなく、単に「場合によっては」と片付けられていたとすれば、特にそうだ。「場合によって」の中身を、皆が個々バラバラにイメージするからである。だから「やむを得ない」という答えの中には、「99.99……%賛成」から「99.99……%反対」まで含まれると考えてよい。極端な話になってしまうが、「人間が人間を殺すのは絶対にいけないと思いますか」と聞かれた時、「絶対いけないに決まってるけどなあ。でも自分が殺されかけ、必死で突き飛ばしたら打ち所が悪くて相手が死んだ、などというのはやむを得ないだろうなあ」と思っている人も、「戦争の時は話が別」と思っている人も、「世の中にとってためにならない奴は殺してもいい」と思っている人も、「場合によってはやむを得ない」という答えになるだろう。

世論調査が悪いとは言わない。「多くの人の声」は聞いた方がいい。だが、その調査の結果を見る時は、私たちはよほど注意しなければいけないだろう。選択肢の作り方や、「やむを得ない」といった言葉の利用で、いくらでも恣意的な結果を出すことができるのだから……。

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「世論調査」のいかがわしさ

2006-02-10 02:22:54 | マスコミの問題
新聞などで、時々「世論調査の結果」なるものを発表している。この調査に協力を要請された経験を持つ方は、大勢おられると思う。私は昨年の衆議院総選挙の前に、生まれて始めて体験した。多分、週末だったと思う。夜の8時か9時、のんびりとコーヒー飲んでいるところに電話がかかってきた。「夜分、失礼いたします。○○新聞の者です」と言葉は丁寧。「総選挙に関して世論調査をおこなっております。お時間はとらせません。ごく簡単な質問にお答え戴くだけですので、ご協力お願いできますでしょうか」。声からすると、20歳そこそこ。アルバイトで雇われた学生さん、という感じである。

私はこの手の調査やアンケートには疑問を持っている(理由は後述のやりとりの中で話している)ので、「申し訳ありませんがご協力出来ません」と即座に断った。そうしたらまあ……粘ること、粘ること。以下、記憶をたどって一部を再現してみる(シ=新聞社の世論調査で電話をかけてきたひと)。
シ「えっ……でも、皆さんにご協力戴いているのですが……」
私「他の方は知りません。少なくとも私はお宅の新聞に、世論調査に応じると言った覚えはありません」
シ「調査対象は、無作為で選ばせていただいたのです」
私「選ぶのはそちらの勝手ですが、応じないのは私の自由です」
シ「でも、世論調査というのは非常に意義のあることで……」
私「あなた方がそう思われているからといって、誰もが同じように考えているわけではありませんよ」
シ「あの、ほんとに簡単な質問に答えていただけばいいんですけど。5分もかかりませんので……」
私「それがおかしいと言っているのです。本当に国民の意識を調査する気があるなら、そんな簡単なことですむはずがないでしょう。どの政党に投票しますかとか、郵政民営化賛成ですか反対ですかとか、数分でちょこちょこっと聞いて、それで世論を把握できたと思う方がおかしい。そう思いませんか」
シ「でも、あまり長い時間をとっていただくのは申し訳ないですし」
私「そう思うなら、はなっからやらなきゃいいんです」
シ「しかしですね。先にも申し上げましたように、世論を調査し、報道するというのは私共の使命ですし……」
私「私は新聞にそんなこと頼んでませんよ。安易な方法でアンケートとって、それを一面でデカデカと載せた調査結果とやらも、その分析とやらも、私は読みたくありません」
シ「そう言われましてもですね……」
私「第一ね、電話で尋ねられて、私が正直に言うとは限らないでしょう。虫の居所が悪くて、デタラメ答えるかも知れない。そういう可能性の上に立ったものを、麗々しく報道と言って欲しくないです」

……というような問答のあげく、やっと電話が終わったのだが、10分ぐらいしてまたかかってきた。今度は先の青年よりちょっと年上かな?と思われる男性で、「先ほどは失礼がありましたようで」と気持ち悪いほど低姿勢。「決して怪しい者ではございません。確かに○○新聞の者です。本社のナントカカントカにお問い合わせいただいても結構です」。ある種のイタズラ電話と間違えられたとでも思っているのか。

私「別にイタズラだと思ったわけではありませんよ。ホンモノだろうがイタズラだろうが、私の答えは同じなのですが」
シ「そのことでございますが、先ほどの者が説明不足で、きちんとご理解戴けなかったようですので……」
……と言って、世論調査の意義がどうの、新聞の使命がどうの、読者に求められているものがどうの、と滔々と述べ始める。ほとんど立て板に水というやつで(マニュアル読み上げているのではないかと思ったほどだ)、半ば感心しながら聞いたが、さすがにくたびれた。それで「理解してるつもりですよ、あなたのおっしゃっていることは」と、おそらくうんざりしたような声を出したと思う。「でも、ご協力できないと言っているんです、私は。どうしても調査したければ、他の人を選んでください」

それから、先ほどと同じような問答を繰り返したあげく、その日はそれでおしまいだったのだが……何ともはや、次の日の夜、またしてもかかってきた。今度は(声や喋り方からして)おそらく30代半ば以上。「いろいろ失礼がございましたようで」と言葉は先の2人と同様丁寧だが、電話口から漂ってくる気配は押しつけがましい。「無作為抽出しているので、調査の公正を期すためにもぜひご協力いただきたい」と、まるでそれが国民の義務とでも言わんばかり。先の2人に対するのと同様の話を繰り返したが、耳に入っているのかどうか、「本当に簡単な質問なので、ご心配なく。時間はとらせません」としつこく言うので、ついに私は「時間の問題じゃありません」と声を尖らせた。
「考えてみて下さい。昨日からこうやって3人の方と話している時間を合計したら、30分じゃきかないはずです。忙しくて時間をとられるのが嫌だというだけなら、5分以内ですむという質問にさっさと答えていますよ。そういう安易な紙面作りにはご協力できない、と言っているのです。長年やっていることだからと言って、右から左へ業務として流して欲しくないのです。マスコミって、そんなものではないでしょう。私と同じようなことを考えている方は多いと思います。それでも何となく言いづらかったり、面倒な気がして、黙って調査に協力なさっている方が多いのではないでしょうか。○○新聞ですとおっしゃれば、誰でも喜んで協力していると思われては困ります」

相手は「わかりました」と言い、「どうも失礼いたしました」と付け加えて電話を切った。ムッとしていたかも知れない(多分、していただろう)。頭に来て机をドン!と叩いたかも知れない。「たまに、こういうわからず屋がいるから困るんだよな」と、酒の肴にされたかも知れない。言うだけ無駄……であったかも知れないのだけれども。

(これを周囲に話すと、みんな腹をかかえて笑った。「オタクみたいなのは、そんなにいないだろうな~多分」。電話世論調査などと言われれば「ヤだ」と言いそうな奴が多いのだが、わざわざ時間かけて問答する気はないらしく、「ノーとひとこと言って電話切るだろうな」。アルバイトの青年イジメたくないから、「ごめん。猛烈に忙しい、手が離せない」と言って逃げ回る、という人も。あ、むろん、「真面目に答えちゃうかも」という人もいる)

私はヒネクレてるのか……泣。でも、私はもう少しヒネクレようよ、と呼びかけたい。マスコミに対して、もっとしっかりしなよ、巨大メディアの権威なるものにあぐらをかいていると、肝心のところで感覚が麻痺してしまうよ、と言い続けるために。





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日本のマスコミは駄目なのか

2006-02-09 02:15:53 | マスコミの問題
昨日、「辺野古における米兵の暴行事件」に関するお知らせを掲載した。この事件について、本土のメディアは(今のところ)全く報道していない。そのことに関連し、日本のジャーナリズム界に対する怒り・憤慨のコメントも寄せていただいた。

……というところから、ほんの少しばかり、「マスコミ」について考えてみた。本当はもっときっちり考えて書かねばならないテーマなのだが、今回は“自分が考えるためのとっかかり”という程度に、いくつかの問題(というほどのものではない。単に、頭の隅に引っかかっていることども)を思いつくまま1つ2つピックアップしてみる。

〈電通という存在〉
これは……実のところ私のブログなどで軽く取り上げられる問題ではない。だから「ふ~ん」程度の感覚で読んでいただきたいのだが――誰でも御存知の通り、新聞も雑誌も(多くの場合)購読料だけでは維持していけず、広告収入に頼っている。したがって(途中のややこしい話はすべて飛ばして言うと)大手広告代理店の意思を無視することは出来ない。電通からの記事差し止めの要望(高圧的な形ではなく、ソフトな形でやってくる)を蹴った編集長やデスク(編集次長)が飛ばされたといった話は、決して珍しくはないのである(むろん、電通に逆らったから飛ばされた、というわかりやすい構図にはなっていない。“きっと、あのせいだぜ”と現場で囁かれるに過ぎないのだが)。「頑張れないのはダラシナイ。しっかりせんかいッ」と批判することはたやすいが、私は自分が小心な弱者であるがゆえに、頑張りきれない現場を大声で批判することはできない……。身びいき、と言われればそれまでであるけれども。広告収入で支えられている以上、メディアは電通の(電通の背後にある力を)無視しきれない。

現在の巨大メディアの「駄目さ」の理由の一つは、この点、つまり「購読料など読者の応援だけで支えられていない」ことだと思っている。広告収入によって安定しているからこそ、私のようなフリー・ジャーナリストも原稿料を頂戴して辛うじて生活していけるのだが、私は……もしかすると自分の生活が危なくなるかも知れないことを覚悟の上で、やはりこう言わねばならない時期が来たと……思う。「原稿料は、そりゃもう戴ければ嬉しいです。有り難いことです。でも、場合によっては戴けなくてもかまいません。尻尾を振って、生きていこうとは思いません」……と。そんなことを言うのは、小心者の(って、何度も言ってるなあ。でもホントなのです)私にはとても恐ろしいことなのだけれども。

だから……このブログを覗いてくださる方たちに、お願いしたい。マスコミ現場の人間の多くは、小心翼々とした庶民です。それでも、震える脚を踏ん張りながら、何かの形で少しでも報道すべきことを報道していきたいと思っている人間が大勢います。彼らを応援し、励ましてください――と。誰かが動かなければならない。どちらかが動かなければならない。とすれば、「情報の受け取り手」の方から動いてもいい。報道を、真に「受け取る側」の手に取り戻すために。

もちろん「巨大メディアをヒモ付きの形から解き放つ」、「ヒモつきではないメディアを育て、守る」ということも大切であるが、今日はその話までは触れない(そろそろ疲れているので……)。

〈新鮮さという幻想〉
新しいこと、派手なこと、目立つことばかりをメディアが追いかけ始めたのは、いつのころだろう。もしかすると、マスコミなるものが誕生した時から、それは宿命的に存在したのかも知れないが。

「もう古いよ」「まだそんなことに引っかかっているの?」というのは、マスコミ界で耳にタコができるほど聞かれる台詞である。ニュースは日々ティッシュペーパーやコンビニ弁当のように消費され、たちまちのうちに古びていく。トイレの汚物のように次から次へと流され、昨日のことすらすでに遠い過去。いつから日本のマスコミは――いや、発信する側も受け取る側も含めて、こんなに気ぜわしくなってしまったのだろう(このあたりは酔っていない時にまともに取り組んで考えてみよう。私なりに。哲学者や社会学者等々の著書や、著名文化人の発言……などを引用すれば簡単に結論が出せるのだろうが、いま、私はそういうことをしたくない。自分のアタマで自分なりに、ということが何より大切であると思うからだ)。

こう書きながら、私は自分にも「新しいことに飛びつき」たくなる部分があることにはっきりと気づいた。日々のニュースを追いかけ、あんなことがあったよ、こんなことがあったとさ、と目の色変えて言いたがる……。こんなことを言うとちょっと語弊があるかも知れないが、「何でも知っている」態度をとりたがることを止め、自分に関心のある(身近に感じられる、と言ってもいい)事柄をしつこく追及していくことが大切なのかも知れない……。


ちょっと中途半端になったが、以下、また改めて。(マスコミについて言いたいことはたくさんあるが、自分自身にとってあまりに重い課題ゆえに思わず口ごもる……。しかし、多くの声のひとつとして囁いておきたいという衝動を抑えきれなくなってきた)



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報道に関する小さなメモ

2006-01-25 22:47:08 | マスコミの問題

私が参加しているMLに、「ホリエモン逮捕の陰で、その他の重大なニュースがすっかり飛んでしまっているのも大きな問題だと思う」という投稿があった。下記はそれについてのコメントをコピーしたもの(最近、どうもブログを書くのをさぼっているなという感じがして忸怩たる思いもあるが……)。

〈以下、コピー〉
私も、このことは強く感じていました。米軍墜落の記事にしても、10行程度のベタ記事でしたね。ライブドアの問題は確かに重要ですが、なぜ「それだけが重要な問題」のような騒ぎになってしまうのか。テレビはほとんど見ないのでわかりませんが、新聞はほとんど連日連夜、1面も3面もライブドア関係がトップ、週刊誌に至ってはさらにひどい。

もともとマスコミの報道姿勢は「熱しやすく、冷めやすい」のがいわば特徴でした。何か事件が起きると、全マスコミを挙げて、わっとそれにむらがる。そのくせ、じっくりと長く追い、報道し続けることは(皆無ではありませんが)ごく少ない。そして、派手なニュースばかりを報道したがるのもマスコミの悪い癖です。私もマスコミの末端におりますが、ルポルタージュのテーマなどに関して「そんな話は古い」「終わったこと」「はやらない」などという言葉を聞くことがしばしばあります。報道というものが、次第にショー化しているような気がします。

……と、批判していても始まりませんね。実際のマスコミの現場には、まだまだ良心的なジャーナリストが大勢います。彼らと手を携えて、少しでも日本のジャーナリズム界を変革して行ければと思います。
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「水戸黄門」的洗脳装置――ペガサス・ブログ版を読んで

2005-12-28 23:31:45 | マスコミの問題
yamamoto さん(ペガサス・ブログ版)からトラックバックいただいた記事――ドラマ『水戸黄門』を「道徳ポルノ」と断じた記事を、思わず膝を叩きながら読んだ。私は日常最低限しかテレビを見る習慣がなく(だからしばしば時代の流れに遅れたりもする……)、実のところ『水戸黄門』も1度も見たことがない。どういうドラマであるか大枠を知っている、という程度であるが、何となく不愉快な印象を持ち続けてきた。それが何に起因しているのか明快に言語化してもらい、感謝している。

(道徳ポルノという表現は、実に秀逸であると思う。道徳ポルノに比べれば、普通のポルノグラフィーのほうがよほどいい。いや、ポルノグラフィーは――ものによるけれども、少なくとも一部のポルノグラフィーは、権力側が押しつけようとしている倫理を笑い飛ばす力がある)

『水戸黄門』に人気があるのは、勧善懲悪ドラマであるからだろう。身の回りの悪に憤慨しつつ自分の無力を嘆いている庶民が、「スカッとする」のである。だがそれゆえにこそ、このドラマは罪が深いのであろう。
1つにはyamamoto 氏が言っておられるように、それが「最高権力の権威に依存した、安易な懲悪と道徳」であるからだ。誰かにすがって「悪い奴をやっつけてもらおう」という、縮こまった「しもじも意識」を助長する。
もう1つは、これが「ガス抜き」になってしまうということだ。一時的に「スカッとする」ことで、もやもやと蓄えられてきた抵抗の意識が何となく拡散し、薄められる。冗談ではない。

テレビドラマや映画などには、我々を飼い慣らす毒(と言うより麻薬)を秘めたものも少なくない。意図的にそのように作ったものもあるだろうし、制作者はあまり深く考えておらず、「はやりだから」「売れるから」と思って作ったものが結果的に毒を含んだ、ということもあるだろう。

今日はとりあえずここまでにして、「テレビや映画に潜んだ毒」については改めてきっちり考察したい。余談だが、以前、自分の思想信条とも絡んで、仕事で「雑誌や映画、流行歌などを媒介にした洗脳」を追ったことがある。それももう1度振り返って、ブログでまとめておきたいと思う。
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