華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「愛と憎しみの……」UTSのコラムを勝手に再掲

2006-08-30 21:56:13 | 箸休め的無駄話

いろいろ書き留めておきたいことはあるのだが、少々疲れていて字を書く気になれない。ほんの気まぐれに、Under the Sunのコラムに書いた記事を勝手に再掲する。掲載日は8月11日、タイトルは「愛と憎しみのラプソディ・序」。UTSでは「前口上という名の(長い)言い訳」を付けていたが、その部分はカットして、本文?だけ。これはまあ、自分の覚え書きみたいなものである。自分の所以外で書いたものは、何書いたかすぐ忘れてしまうので。(……というわけで、御用とお急ぎのない方だけ暇つぶしにお読みくだされ。暇な人だけ集まるってのも困りますがね)

◇◇◇◇◇◇◇

ムル:こんばんわ~。おいおい、何かえらく疲れた顔してるなあ。また徹夜したのかよ。仕事? それともまたくだらねぇ本でも読んでたのかい? どっちにしても、疲れてるんなら酒なんか飲んでないで早く寝ろよな。


華氏:何だよぉ、またおまえか……。そりゃ早く寝ちまいたいけどさ、ヤなことが山ほど頭の中に押し寄せてさ、なかなか幸せな眠りってわけにはいかないのさ。

ムル:ふン。おまえがいくら悩んだって世の中1ミリも変わりゃしない。つまり、屁の突っ張りにもならねぇと思うがなあ……まあいいや、何がおまえの眠りを妨げているのか、ちょっと言ってみんしゃい。聞いてやるからよオ。

華氏:(な、なんか猫のくせに、いつもながら偉そうな奴だな……)言ったろ、山のようにあるって。そうだな、小さいことから言うと……たとえば「足し算か引き算か」という問題とかさ。

ムル:足し算か引き算?

華氏:そうだな……ええっとさ、ネット右翼、というのを知っているかい。

ムル:何となくね。左翼的なサイトやブログに殴り込みをかけていちゃもんをつけ、袋叩きにする連中のことだろ?

華氏:うん。定義としてはそうなんだろうな。

ムル:華氏のブログもネット右翼の標的にされてるってわけ?

華氏:まさか(苦笑)。「華氏451度」はちまちまと片隅で呟いているような、どっちかと言えば過疎ブログだからね。自分からネットで世論を形成しようなんて大それたことは考えていない。ネットで問題を提言し、それを大きな流れにする人達はいる。それはそれですごいことだし無条件で尊敬するけれど、「華氏451度」はそれとはちょっと違う。ごくごく個人的に考えたことのメモ、なんだよね。八方破れの。きちっと裏取ったり、資料を挙げたりする形では書いてないしさ。

ムル:きゃははは。開き直りやがった。要するに公開はしているけど単なるメモだし、いようがいまいがどっちでもいい「その他大勢」ってわけだな?

華氏:(う……いつものことながらこいつ、言いにくいことを言いやがる)ま、まあそうだね。だからさあ、標的にしようなんて酔狂な奴はしないさ。ほんの時たま、悪意の感じられるコメントが入ることはある。でも「大挙して押し寄せられる」なんてことはないし、無視したり、場合によっては「ネット上だろうと対面だろうとコミュニケーションの基本は同じ、それを踏まえて欲しい」と要求することで、たいていは2度と来なくなる。ただ、知り合いのブログはしばしば被害に遭っているからね。時々、さすがに真面目に考えるんだ。

ムル:ネット右翼にどう対処するかと?

華氏:いま言ったようにさ、「華氏451度」は実際の被害に遭ってない。だから現実に被害に遭った人からすると、「おまえは甘い」と言われるかも知れない。それを恐れているんだけどね。

ムル:けけけ。華氏って小心者だからな~。

華氏:ほっといてくれ!……って、何の話だっけ。そうそう、「おまえは甘い」と言われるかも、という話だね。若い頃はさあ、理想が先立って、「これでなきゃダメ」という引き算思考だったんだ。ところが年を経るにつれ、だんだんストライク・ゾーンが広くなってきてさ。

ムル:それはおまえさぁ、年とった証拠じゃーん。「そろそろ自分のピリオドが見えてきたかンね、世の中のことなんざ、どーでもいいや」になってきたんだよ。やだねえ、人間が年取るって。

華氏:やかましいっ! このバカ猫!(と、手近にあった広辞苑を投げる)

ムル:おおっと……暴力はんたーい。

華氏:ふン、バカ猫め。真面目に聞きやがれってんだ。

ムル:聞く、聞く。だからモノ投げるなよな。ストライク・ゾーンの話だよな。具体的にどういうことなのさ?

華氏:たとえば……若い頃は「うちの子は」と盲目的に信じる母親の愚劣さなんていうのは唾棄すべきものだった。ニッポンの母、なんておぞましいだけだった。でも今は、そういう母親が後ろにいるから、子供は好き勝手に出来るのだと思ったりする。

ムル:けけけけけ。華氏は根っこのとこ、マザコンだからな~。

華氏:うるさいッ! じゃあ別の話をしようか。以前はジャーナリズムなんて腐りきっていて、橋の端まで権力の手先だなんて思っていた。

ムル:自分もその中で飯食ってるくせに、よく言うぜ。

華氏:そう……飯食いながら、これは生活のためだと思っていた。でも同じように生活のためだと割り切ったつもりで働きつつ、怖ず怖ずと報道者の良心を小出しにする人々と出会って、ジャーナリズムは決して腐りきっているわけではないと感覚的にわかったのさ。「マスゴミ」なんて嘲笑されてはいるけれども、みんながみんな、腐っているわけじゃない。

ムル:ふん。華氏お得意の、ジャーナリズム擁護だよな。まっ、いいや。あんまりそんなことばっかり言ってると、自分がマスコミの人間だから身びいきしてヒステリックにかばってる、と思われるぜ。

華氏:別にいいよ、そう思われたって。身びいきってのは事実その通りかも知れないし。人間誰でも、自分が見通せる限りの範囲でしかモノを考えられないんだから。一部の天才は違うかも知れないが、私は天才じゃないし、こう言うと負け惜しみみたいだけれど天才に生まれたかったと悔やんだりもしない。「ひと山いくら」の庶民で結構。

ムル:あっちゃあ、また開き直りやがった……。

華氏:ほかに思いつくままに適当に言うとだよ、昔(笑)は天皇制を否定していたから、それを認める人達とは絶対に手を携えることができなかった。いや、今でも自分自身の思想としては天皇制否定だけれどね、最近は天皇制を認めている人達とも、「ま、いいか」という感じで一緒に行動できるようになってきたのさ。彼らの考え方も、「容認」できるようになったというか。それからひどく日常的な話題になるけれどね、昔は婚姻制度に対して強い疑義があった。

ムル:それは、おまえがモテなかっただけの話だと思うが……(モテるわきゃねぇよな)。

華氏:やかましいッ!!!! タヌキ汁、じゃなかった、猫汁にするぞーッ! もとい。さらに配偶者を「主人」「家内」と呼ぶことに抵抗があった。友人がそう呼ぶと、「その呼び方の根拠は何か」と言って、いちいち訂正を求めていたんだ。今だって「うちの主人が」「うちの家内が」と言われれば違和感ないことはないけれども、「生活上の、ひとつの習慣」としてサラッと容認することが出来る。

ムル:華氏よぉ、酔ってるだろ? 何か、話が随分と逸れてる気がするけど。結局、何が言いたいわけ?

華氏:う……。答えの代わりに、好きな詩人の一人である茨木のり子の詩を……。

【おらが国さが後進国でも
駈けるばかりが能じゃない
大切なものはごく僅か
大切なものはごく僅かです】
(「大男のための子守歌」より)

ムル:大切なものは僅かなんだから、それ以外は「どうでもいい」、「みんな容認」でいいっていうわけ?

華氏:そう言っちゃうと誤解を生みそうだけどね……ま、いいか。あそこが違う、ここが違うと角突き合うより、「大切なもの」を守ることにエネルギーを注ぎたくなったわけさ。ターニング・ポイントを回って、ようやく「大切なもの」が見えた気がする、ってことかも知れない。

ムル:それと、ネット右翼とどういう関係があるわけさ。

華氏:関係? なーんも、ない。

ムル:うぎゃ……。

華氏:でも、あるかも知れない。ともかくさ、馬齢重ねるごとに、「分断して統治せよ」っていう言葉が身にしみてきたわけ。

ムル:けけけ。馬齢、ときやがった。おまえの場合は、豚齢じゃねぇの? 栄養が足りてないふうだから、山羊齢かね。

華氏:やかましいーーー! 黙って聞けったら! ともかくだよ。弱者というのはいやが上にも細分化され、互いに角突き合うような構図になりがちなんだよな。為政者が意図的にそうしているという面もむろんあるが、同時に人間には「何ものかに対して少しでも優越感を持つことによって、自我を支えたい」という気持ちがあるのも事実だと思う。その二つがあいまって、血に飢えた狂気を産み出すんだろうね。

ムル:何か話が飛躍してきたなぁ。

華氏:飛躍は自分でもよ~くわかってるって。二晩徹夜して、ただでさえ冴えない頭が朦朧としてるんだから。たださ、「不安」とか「不満」とか「憎悪」とか、要するにマイナスのベクトルを持つ感情って、誰にでもあるじゃん。

ムル:華氏もあるのかい?

華氏:むろんあるさ。いっぱい、ね。私は平凡な人間だからね。具体的な他者に殺意持ったこともあるし、世界なんか滅びてしまえばいい、と夢想することもあるさ。破壊的な欲求が膨らんで、何でもいいからそれを満足させてくれるものはないかと右往左往することもある。だから、何かあった時に尻馬に乗ってお祭り騒ぎしたい気持ちは痛いほどわかる。私が子供の頃はインターネットがなかったけれど、あったら一歩間違えば私もネット右翼になっていたかも知れない。あるいはハッカーになっていたかも知れない。暴走族にもシンナー中毒にも殺人者にもならなかったのも、ほんの紙一重のこと。ちょっと話は違うが、今もたとえば自分がホームレスになっていないのは「たまたま」だと思っている。人間て、そんなに強いものでも優れたものでもない。そりゃさ、一部には特別な人もいるかも知れないけれど。

ムル:いい加減に、話をもとに戻してくれよなあ。で、何が言いたいわけ?

華氏:聞いてやるとかって寛容ぶりながら、あいかわらず態度のデカイ奴だな……。ま、いいや。ともかくさあ、マイナスのベクトルを「あっ、そこは危険」という所に向かわせちゃあいけないと思うんだよね。話のとっかかりに使ったネット右翼もさ、組織的にいわゆる護憲派ブログを破壊しに来る連中は論外だよ。でも「世の中はみんな敵だぁ」というハリネズミ風の感覚が昂じて、つかの間の攻撃快感に身を浸している若い子や、改憲論者の威勢のよさに乗せられて――マイナスのベクトルにガンジガラメになった時って、人間、どんなに薄っぺらでも威勢のいい言葉に酔うんだよね。と言うか、あえて乗ってしまうんだよね――尻馬に乗っているだけの若い子たちを、一律で敵視するわけにはいかない。

ムル:けけけっ。いい年して、甘い奴だよなあ。

華氏:ほっといてくれってば。でもね、これは不思議なんだけど(学者や評論家はきちんと説明してくれるけれども、一人の人間としてはやはり根源的に不思議だ)、人間て絶望すると右へ右へと惹かれていくことが多いらしい。右、という言い方は漠然としすぎてよくないかな。じゃあ、マゾヒスティックな方向、と言おうか。国のために。大義のために。正義のために。自分をゼロにしてそういう空疎な概念語に支配される世界だけが、彼らの救いになる。崇高めかした概念に殉じることができると信じる一点で、彼らは救われるのだろう……。むろん、左に寄っていく場合も少なくないけれどもね。

ムル:どっちにしろ、幸福なことじゃないって言いたそうな顔だな。

華氏:目覚めた時、窓から射し込む朝の光、寝巻のまま起き出して挽いたコーヒーの香り、人によってはひとつベッドで朝を迎えた異性(同性でもいいが)のおはようの一言。……この世は本当は、おいそれと絶望することができないほど祝福に満ちているからね。むろん絶望するのも勝手だけれどさ、他人を巻き添えにした絶望は困るよな。……いや、話が逸れてるな。若い子が甘美なニヒリズムで観念語に流されるのを止めるのは、大人の責任だと思う。

ムル:止めるために、どうすればいいのさ?

華氏:わからない。……わかってたら、こうしてグダグダと酒なんか飲んでないさ。でも今のままでは、この国は遠からず、勇ましくて綺麗な言葉に酔って「いつか来た道」を辿り始める。それを見る前にさっさと死にたいという思いと、死んでも死にきれないという思いに引き裂かれて、こうやって朦朧とし、早くベッドに倒れて眼が腐るほど寝たいと思いながら美味くもない酒を飲み続けているわけ。

ムル:おまえねえ、やっぱ疲れてるぜ。何か話が散漫で、言いたいことはわかる気がするけど頭も尻尾もないじゃん。他のコラムニストはきちっと起承転結整えてモノ言ってるのに、これじゃあ恥かいてるようなもんだぜ。日本語書いて飯食ってきたなんて、どの面下げて言えるのかね~。

華氏:くそーッ、うるさい、出て行けーッ!!
(六法全書か広辞苑か、ともかく分厚い本が窓枠にぶつかった音がして、暗転――)

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続・コメント欄への雑感(しつこい)

2006-08-29 08:11:38 | このブログについて

コメント欄についての雑感」(26日のエントリ)というどうでもいいような無駄話を書いたところ、数人の方にコメントをいただいた。その少し前に書いた「コメントに対する私の姿勢」にも思いもかけず多数のコメントをいただいている。お忙しい中、しょーもない愚痴にお付き合いいただき、コメントまで書いてもらって、ほんとすみません……。何かもう、悪いことしているように気になりまする。

 それはさておき……。ネット仲間の一人である喜八さんもコメントの扱いについての記事「コメント欄について」を書かれ、そのエントリをTBしていただいた。詳しい内容は当該エントリを読んでいただく方がよいのだが、一応簡単に紹介すると、喜八さんは「不快なコメントは削除すればいい」という意見。そのキーワードとして「編集権」という言葉を使っておられる。また削除が面倒な人の場合は、コメント欄撤去という方法があるというお勧めも。

 喜八さんの論理は明快で、かつ非常に納得できる。彼は編集権の話をするにあたって、次のように述べている。

【ブログを一個の「雑誌」だと考えるのです。各ブロガーはブログ雑誌の発行者であり編集長であり執筆者でもあります。ブログのコメント欄は雑誌一般における「読者投稿欄」に相当します。この場合、コメント欄を含むブログ全体の編集権は(発行者・編集長・執筆者である)管理人にこそある。コメンターにはない。】

 基本的に、私はこの意見に賛同する。非常にまっとうな意見だと思う。「雑誌」とまではいかなくても……ブログは要するに「個人通信」である。少し前は紙に印字したものをしばしば貰ったし、最近はメール形式の個人通信もよく受け取る。個人通信というのは、基本的に友人(仲間)達に対して日々自分が考えていることを書き送るもの。編集権?は発信する側にのみ在る。

 多くの方が、「議論を拒否するようなコメントは削除すべき」と言っておられる。特に、明快に何度も助言してくださったのは、布引洋さんとkaetzchenさん。その一例を挙げると――

【どんな恥ずかしい事柄でも家の中なら許されます。公衆の面前に触れさせるべきでない社会の恥は現実に存在します。】(布引さん)

【ああいうのは対応せずに,私のようにざっくりと「保留」「削除」するのが一番ですよ。】(kaetzchenさん)

 そういう意見を正しいと思いつつ、それでも――自分自身が不快だと思うコメントも削除せず公開したままにしている自分はいったい何なのだろうとふと首をひねった。

 よほどのことがない限り削除しない理由については何度も述べた。むろん私が1日のアクセスが3000も4000もに達するというようなメジャーなプロガーであればそんなのんきなことは言っておれないだろうけれども、幸か不幸か私のブログはさほどのものではない。(ネット上、実生活を併せた)何人かの友人が時々覗いてくれる程度のそれこそ「個人通信」で、「へ???」というコメントはたまに入る程度。だからのんびりと構えておれるというのも歴とした事実である。

 だがそれらもろもろのことどもを計算に入れた上でも、私はやはり、当面は(あくまでも当面は、である)なるべくコメントを削除しない形でブログを続けたい。削除するのは18禁その他、私のブログの性格と相容れないものだけにしたい。

(前にも書いたが、TBについては――結構多忙なこともあるので、気がつけばということだが――私が「友達に推薦できるエントリ」以外は削除する)

 これは愚挙だろうか。……喜八さんは彼のエントリで次のように述べておられた。

【とはいえネットの世界には「厳格主義ブロガー」とも呼ぶべき人々がいて(中略)「厳格主義の方は自分なりの基準で行動されてください。でもその基準を俺に押しつけないでくださいね~」と答えるだけであります。】

 むむむ……。私は厳格主義なのかなあ。

 私は正統派のブロガーではないのかも知れない。いや、そもそもブログとは何かをわかっていない、あるいはインターネットの怖さをわかっていない、もしくは……敵のの攻勢を甘く見ている、のかも知れない。

 だが、それでもなお――私はやはり、当面はコメントをできるだけ削除しない方向でやっていきたいと思う(ほとんど意地になっているな。ガキだなと自分でも思う。汗)。もっとも実を言えば、頓狂なコメントが入っても大して苦にはならない。コメントは時間の余裕がある時にまとめて読むけれども、ひとつひとつのコメントに丁寧に返辞を書く習慣はないのだから。おもしろがるだけである。

 素っ頓狂なコメントは、素っ頓狂なりに貴重な資料になる。ささっと削除してしまうのは勿体ない(むろん素っ頓狂ブログを丹念に読めばわかることだけれども、私もそれほど暇ではない。必死で食い扶持かせいでいる負け組庶民なのだ。昼日中にネットの世界を探索するほど暇じゃあねぇ。だから向こうからアプローチしてくだされたのであれば御の字)。いずれ暇を見て、コメント集をまとめておきたいとも思う。

 私は間違っているだろうか(あんまり性格がよくないのは事実であるが……泣)。いわゆる護憲派ブロガーに間に、ちいさな違和感を持ち込んでいるのだろうか。

――久しぶりに、多勢に無勢という言葉が身にしみた早朝に。――

 

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コメント欄についての雑感(ああ、しんど)

2006-08-26 02:18:02 | 箸休め的無駄話


 夏バテで疲れている。気候がよくたって働きの悪い頭と神経がなおさら鈍っているので、簡単な雑感のみ。

〈ああ驚いた〉

 もともと私のブログは自分自身「単なる覚え書き」と煙幕張ってるぐらいで、これで世論を喚起しようなどとは毛ほども思っていない。第一、そんな立派なことなぞ言ってやしない。

 私のような普通の庶民でも日々の生活の中で考えることはあり、それをちまちまとメモしておく習慣は昔からあった。そのうち完璧にプライベートな範疇のものなどはひとさまに見せる気はないが、友人に見せて意見や感想を聞いてみたいようなものだけ、「世の人々がすなるブログというものを、負け組庶民もしてみむとてすなり」てな感覚で公開しているだけだ。基本的には自分が何かを考え続けるためのメモであり、一緒に考えてくれる人が少しでもいればラッキー。何人かの人にさっと読んでいただければ嬉しく、その上でもしもコメントなど戴ければ望外の喜び、というだけの話である。

 そういういい加減な覚え書きブログに、56ものコメント(現時点の数。もっと増えるかも知れない……)が連なるとは、これはもう天変地変の前触れか。ほんともう、驚いた。

 いや、56といっても、その大半は布引洋さん(いつも私の文章の足りないところを補ってくださったり、助言して下さる方)と、久々さん(最近よく来てくださる方)、このお二人のやりとりである。途中で自分の意見を書こうかと思ったこともあるが、なぜか気が引けて言葉を挟めぬまま。「横レス、失礼ですが」と言いそうになる自分に気づき、「自分が管理しているブログで横レスってのも変だよな」と思ったり……。

 コメント欄で論争していただくのは大いに結構である。コメント欄というのは、そのためのものという性格もある。私自身、コメント欄で丁々発止と議論を展開してもらうのは大歓迎だ。ただ、二人なり三人なり、ごく一部の人達のやりとりの場になってしまうのは私としてはあまり本意ではない。できれば多くの方のご意見が欲しいところである。もっともここまで突き詰めた一対一のやりとりになると、新たにコメントを入れようと思っても二の足を踏むだろうなあ……(何せ管理人が、横レス失礼、と言いかけるぐらいだから)。バッサリ削除という方針を採らない私が悪いのかなあ、などと、またしても酔っぱらいつつ反省?してもいるのだが。


〈久々さんのコメントについて〉

 久々さんは、私の考え方について批判的なコメントを寄せておられる(途中から布引さんに対する批判的な言辞に変わったけれども)。そのひとつひとつについて、細かく私の意見を述べる気はない。逃げているわけではなく、コメントが膨大すぎて、「ひとつひとつ」に答えてはいられないからだ。答えは今後の私のブログの中で、少しずつ出していきたい。

 ここでは彼の考え方そのものではなく、彼が書いておられた中で引っかかったことを1つ2つ取り上げ、私の感想を書いておく。揚げ足取りをするな、と言われるかも知れないが、プロであれアマチュアであれ、有償であろうと無償であろうと、文章を書くということは常に揚げ足をとられる危険性と背中合わせであると思う。ついでながら、私はブログの世界では良質のアマチュアでありたいと思ってもいるが、公開した以上、揚げ足をとられるのもバカよばわりされるのも承知の上である。変な言い方だが……長年の仕事で、それだけは慣れている。加藤紘一氏のように放火されるとそりゃ困るが(速攻でホームレスになる……)、「バカ。もっと勉強しろ」と罵倒される程度は屁でもない。

 以下、【】でくくっているのは久々さんのコメントである。

【よしりんの漫画に騙されてる? あのねぇ、私は本一冊読んで思想を変えるほどバカじゃないよw】

 いやぁ、はっきり言って感心しました。皮肉ではありません。私は貴君のように頭がよくないので、「一冊の本」でパッと視界が開け、人間観や人生観が変わったりします(苦笑)。小説でも童話でも詩集でもノンフィクションでも歴史書でも思想書でも、はたまたマンガでもいいですが、良質の本は、読めば人生について、人間について、命について、国について……エトセトラ、こちらの存在を揺さぶるほどの力がある。本というのはそのぐらい重みがあると思う私は、もう古い人間の部類に入るのでしょうか(ナサケナイ)。しかし「もしかすると自分もバカかも知れない」と思うのが、人間の「知」の基点かも知れないとも思っています。一冊の本を読んで思想を変えるほどバカじゃないと断言できるのは、あるいは不幸なことであるかも知れません。

【口が汚いのは自負してますし、左翼にとっては無茶苦茶な意見を言ってますから】

 ははあ、自認ではなく、自負ですか……。なるほど。私も(文章では猫かぶってますが、実生活では)口の汚い人間。でも、いいことだと自慢しているわけではなく、むしろ「口が悪くてゴメンね」という感じです。挑発的な言葉を使わずにものが言えれば、それに越したことはない。私はそう思っています。


〈ついでに:私が顔文字その他を嫌う理由〉

 これはお願いであるが――

【つまりは自分の価値観に会わないやつは子供かw まぁ当たってる。アホの左翼の嘘が次々とバレていっちゃ、子供はどんどん嫌中、嫌韓になるからなw】
【日本人には死者に鞭打つような風習はありません(><)】(共に、久々さんのコメント)

 顔文字の使用は控えて欲しい。「文字化けの原因になるので控えて欲しい」と、コメント投稿欄にも注意書きがあるはずだ。顔文字がいけないとか、まずいなどという気はさらさらない。私自身はほとんど使わないが、これは単なる習慣および趣味の問題であって、他人に強制する気もない(使いたい方は、どんどん使ってくだされ)。

 ただ私は、多くのコンセンサスを得ている顔文字で感情や感覚を易しく表現するのでなく、拙くとも「自分の言葉」で表現したい、表現してほしいと思っている。だから私のブログのコメント欄では、顔文字は(ゼロにせよとは言わないが)なるべく少なくして欲しいのである。「w」といった書き方も同様。「笑」と同じ意味だということは承知しているが、笑っている(嗤っている、嘲笑っている、何でもいい)ことを表現するのであれば、もっと言葉を工夫したい――と、少なくとも私は思う。「自分の頭で考え、自分の言葉で語る」というのは、そういうことではあるまいか。何かを表現しようとするならば、易きに流れてはいけない。
(ここは私のブログ。一銭ももらうわけではなく、アホかと言われつつマスターベーションしている私のブログである。いくらしょーもないブログでも、この程度の要望をする権利はあると思う。むろんそれぞれの方が、自分のブログでどういう表現方法を採られようと、それはご自由である)
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ムル、靖国について適当に喋りまくる

2006-08-25 01:44:08 | ムルのコーナー

 野良猫・ムルと華氏宅の居候のトマシーナが、今夜も公園のベンチで何やら喋っている……(こいつら、いったい何なんだ?と気になる方は……7月30日のエントリ「小泉から安倍へ」で簡単に紹介?しておりまする)。

トマ:ねえ兄貴、ヤスクニって何なんだろね。

ムル:な、何だよいきなり。靖国神社のことかい?

トマ:うん、そう。この間、総理大臣が参拝したっていうんで、気分悪いって言ってる人がたくさんいるみたい。

ムル:けけ。おまえんちの華氏もだろ。

トマ:靖国って、神社なんだよね。すぐそこにも神社があるけどさ、ああいうのとは違うの?

ムル:おまえなあ……。そりゃ神社ってことでは同じだけどよ、氏神サンを祀った、その辺の神社とは違うんだよ。あそこは国家神道の総本山みたいなとこなのッ。

トマ:コッカシントーって……「現人神である天皇を絶対者として崇めて」という感じのやつよね? 

ムル:そう、そういう「感じ」(笑)。山にも川にも台所にもカミサマがいるよっていうんじゃなくて、神は天皇ひとり。

トマ:でもあれって、60年ぐらい前になくなったんじゃないの?

ムル:GHQの指令、とかで解体させられたそうだけどね。制度が変わったり無くなったりしても、それですぐ「ものの考え方」まで消えてなくなるわけじゃない。

トマ:じゃあ、今も「天皇は現人神だ。日本は神国だ」と思っている人達がいるわけ?靖国は、そういう思想の総本山だっていうわけ?

ムル:天皇を現人神だと思っている人間……あるいは現人神にまつりあげたい人間……ねぇ。うーん、いるかも知れない。多分いるだろうさ。麻原ナントカっていうおっさんだって、信者には生き神さんみたいに思われてたわけだし。ただ、「小泉首相の靖国参拝を支持する」っていう連中の多くは、そうは思ってないだろうな。コイズミ自身、そんなことこれっぽっちも考えてないと思うぜ。次期首相候補ナンバーワンの御仁だって同じさ。ただ、国家神道ってのは単に「天皇を神として崇める(変な)宗教」じゃないんだよな。もともと国民をひといろに染めて、「お国大事」の感覚を骨の髄までしみわたらせるための道具だったわけでさ、「一にも二にも、国、国、国」の思想が生きている限り、「国家神道ふう」のものは生き延び続けるだろうよ。

トマ:何か兄貴、話が飛んでるような気がするけど……ま、いいや。要するに靖国神社は「お国大事」の思想の総本山、と考えればいいのかな。

ムル:そんな気がするんだよな……おいらなんぞは。あそこはさぁ、「お国に命を捧げた英霊」を祀る神社、なんだそうだ。綺麗事だよなぁ。国に殺された人達、だとおいらなんざ思うけどね。

トマ:A級戦犯が祀られているからダメ、とかいう人もいるね。

ムル:それはすり替えだっつーの。今も「あの戦争は間違っていなかった」と言い続け、「お国のために死ぬこと」を美化しているというのが靖国の本質で、参拝するのはそれに同意することなんだってば。戦死者の遺族にとってみれば、「犬死にしたとは思いたくない」感情があるのもわからんじゃない。戦死した人達のことを考えると、そりゃ、おいらみたいなご意見無用のヤクザな猫だって言葉が重くなるよ。でもさあ、だからって飾っちゃあいけないと思うんだよな。犬死にだったのだ、だからああいう死は二度と存在させちゃいけないとはっきり言う方が、よっぽど供養になると思うけどなあ。

トマ:A級戦犯といえば、次期首相候補・安倍官房長官のお祖父さんもA級戦犯容疑者だったそうだね。

ムル:うん。死刑にならなかったのは、たまたまアメリカが日本を共産主義に対する防波堤にしようという方針を決めて、容疑者のうち役に立ちそうなメンバーを不起訴にしたからさ。おいらなんざ、なんであの男がA級戦犯じゃなかったのか不思議なぐらいだけどね。昭和天皇が戦犯にならなかったのも、アメリカが「ほうっておいた方が便利」と思ったからだろうさ。ま、そういうわけで、A級戦犯(死刑判決は7人)の選ばれ方が本当に「すべて妥当」であったかどうかは、おいらにはわからんよ。ほんとは国民が裁くべきだったんだろうと思うし、A級戦犯、つまり平和に対する罪を犯した人間は、もっともっと多かった気もするしね。ただ、だからと言って東京裁判をまるごと否定するのはあまりに短絡だよな。

トマ:「死者に鞭打つな」なんて人もいるよね。

ムル:それはちょっと、言葉の使い方が間違ってるような気がするんだよなー。死んだ人間は弁明できないから、一方的に罵倒するな、というのは確かかも知れねぇよ。でもさあ、死んだら罪は消える、その人間がやったことはみんなチャラになる、というわけじゃねえよなあ。死者に鞭打たないのが日本人の美徳、なんていう言い方があるけど、日本史の中で「ワルモノ」呼ばわりされてるのって、たくさんいるじゃん(笑)。『忠臣蔵』の吉良上野介とかさ。まっ、それはどうでもいいけど、「人間が過去に犯した罪」は水に流しちゃあいけないのさ。これは、死者に鞭打つとか打たないとかいうのとは話が違うんだよな。

トマ:中国とか韓国とかが首相の靖国参拝を批判することについて、内政干渉だの、他の国からガタガタ言われる筋合いはない、なんて言う人もいるみたいだね。

ムル:うん、いるみたいだ。死者を神として祀るのは日本の文化であるとか何とか。さっき言ったように靖国は単に死者を神として祀ってるんじゃなくて、お国のために死んだ兵士を讃えている所なんだけどね……。それは別として、「これは日本の文化」とかっていう大声を聞くたびに、おいらは思い出すことがあるんだ。服部剛丈君銃殺事件って、おまえ、知ってる?

トマ:何か、聞いたことがある……アメリカに留学していた日本人の高校生が訪問先を間違えてしまって、その家の人が銃を構えて「フリーズ」と言ったんだけど、それがわからなくて近づいちゃって、撃ち殺されたって話でしょ。僕はまだ生まれてない時の話だけど。

ムル:馬鹿野郎、おいらも生まれてないわい。もう10年以上前、1992年のことだかンね。高校生を銃殺した男は刑事訴訟されたけど、結局、無罪になった。アメリカの憲法では武器の保有と携帯の権利を認めているからね。裁判の最終弁論では、弁護人が「玄関のベルが鳴れば、(アメリカの国民は)誰でも銃を手にしてドアを開ける法的権利がある」と言ったそうだ。この事件があった時さあ、日本では「武器で自衛するのが当然というアメリカの思想」を批判する声が相次いだらしい。服部君の両親も、アメリカの銃規制強化を求める運動とかに参加して活動を続けてるそうだ。

トマ:それが靖国とどう関係あるの?

ムル:おいらも又聞きなんだけどさ、日本で起こった批判に対して、アメリカでは「何で極東のちっぽけな国が、わが国のことに口を出すのだ」と不快感を表明する声がけっこうあったらしい。「自分の身は自分で守る、場合によっては武器も執るというのはアメリカの文化である。他の国にとやかく言われる筋合いはない」とか。

トマ:わかった……。「固有の文化」がアプリオリに正しいわけじゃない、「固有の文化」という言葉を盾にしちゃいけない、ってことだね。

ムル:国、民族、集団……何でもいいけどさ、そのそれぞれの習慣とか価値観とかいったものは、そりゃ尊重しなきゃいけないよな。「腰掛けてウンコするのが正しくて、しゃがんでウンコするのは野蛮」なわけじゃないし。

トマ:兄貴、また話が逸れる……。

ムル:あ、わりぃわりぃ。ともかくだよ、固有のものは尊重しなければいけないけれど、同時に「誰が見てもおかしい」ことはあるんだよなあ。

トマ:そろそろ眠くなっちゃった。続きはまた話そうねっ。おやすみ、兄貴。

(多分、続く)

 

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どれほど低レベルでも、私は自分の頭で考え、自分の言葉で語りたい

2006-08-22 01:55:32 | 雑感(貧しけれども思索の道程)


 私は自分のブログで、なるべく学者や評論家の言葉(文章)を引用しないようにしている。誰それはこのように論じている、とは言わないようにしている。専門用語的なものも使わないようにしてきた。いや、むろんよくよく考えれば結構引用し、使ってもいるのだけれども、「なるべく少なく」というのが基本的なスタンスである。(この文章や言葉に惹かれたといって紹介したり、こういう問題が提起されています、などといって紹介するのは話が別)

 実のところ、一番大きな理由は「さぼっている」ということだ。私は何を隠そう(笑)大して頭のよくない人間で、本を読んでもきちっと記憶にとどめることができない。何せ猛スピードで忘却していくので、それに何とか追いつくだけでも大変(このあたりは知力の優れた人には理解できないかも知れないが……)。正確に引用しようと思えばいちいちその箇所を開いて確認せねばならず、それが面倒臭いのである。

 もうひとつは、本当に理解できているのかどうか、自分でも自信がないからであろう。私は活字中毒なので本の冊数だけはこなしてきたけれども、それを何処まで理解できたか。そして、それがどれだけ自分の血肉になったかどうかはわからない。そんな曖昧さのままで気軽に引用するのは、知識や情報への冒涜であると私は思う。

 いや、こんなことを言うのは、私自身の中に、学者や評論家や……何でもいいが、ともかく自分よりエライ人の思想や言葉を「箔付けに使いたい」ふうな意識がシッカリとあるせいだ。無名ジャーナリストの華氏が言った、その他大勢の庶民ブロガーのひとりである華氏が言った――というのであれば「ばっかじゃねーの」と木で鼻をくくったような反応しか返って来ないことでも、マルクスが、レーニンが、ルソーが、サルトルが、ユングが、フーコーが、ヴィトゲンシュタインが、アウグスティヌスが、孟子が、親鸞が、三島由紀夫が、大江健三郎が、高橋哲哉が、日野原重明が(何でもいい。思いつくまま順不同にただ並べただけである。もっとずらずら並べてもいいが、自分でもアホらしいので止める)……述べているのだと言えば、「うんうん、そうだよねえ」と納得されたりする(それはそれで白けるんだよなあ……)。

 私はジャーナリズムの世界で仕事をしてきて、そういう「虎の威を駆る」行為もいやというほどやってきた。本当に恥ずかしいことであるけれども。だからこそ、「えらい人」の知識や論理によって自分の言葉を底上げするというふるまいに、今でも吐き気がするほどの嫌悪を持っているのだ。その思想や言語と真向かって自分の血肉にした末ならば、むろんいくらでも引用すればいい。己の論理を補完するために使うのも、もちろんいい。だが、ろくろくわかってもいないくせに単なる「箔付け」のためには使うようなことはしたくないと悲鳴のように思い続けてきた(と言いつつ、つい使ってしまうのが私の凡人たるゆえん。実になさけない)。

 ここを覗いて下さった方の、すべてとは言わない。だがおそらく過半数は、私とおっつかっつの人々ではあるまいか。え? 世の中にはおまえみたいなアホは少ないって? とほほほほ……。まあいいや、覗いて下さった方の「ごく一部」でもいい。それどころか、1人でもいい。自分が「箔付けのために」エライ人の文章を引用したことがあるな、と忸怩たる思いを持つ人がおられたら、この問題に関してあなたは私の同志である。同志よ、あなたならおわかりのはずだ。

 過去の膨大な思想書を紐解けば、「私」がいま抱えている問題は綺麗に解決されるような気がする。政治学や歴史学や社会学や心理学や……何でもいいけれども、ともかく学問的な専門用語で説明されたり定義付けられれば、「ひぇぇぇ~かいつまんで言えばそういうことなんすか。知らなかったよ~」と、目からウロコが落ちたような気がする。え? しないって? だからさぁ、そういう人には話をしていないんよ。今夜は自分と同じレベルの人(って、いるのかね)だけに発信してるんだってばさ。

(酔っているので失礼)――いかん、話を戻す。


 たとえば、誰か権威のある人に説明されて、全部わかったと思うこと。専門用語(学術用語、と言ってもいい。この2つは別のものであるが、私にとっての距離は等しい)に無条件でひれ伏すこと。……それらを私は拒否してきた。「誰それが言っているから正しい」のではなく、「権威のある人ないしは組織の言葉だから正しい」のではなく、「学術用語によって解説できるから正しい」のでもなく、あくまでも自分がどう思うか。大切なのは、ただそれだけである。

「下手な考え、休むに似たり」という諺もあるように、どうやら昔から「アホは考えても無駄」と思われているらしい。しかし利巧といいアホといい、その基準はどこにあるのか。モノゴトを3分で理解して得な方に荷担できるお利口さんと、正義とは何かと死ぬまで考え続けて結論に達することのできなかったバカと、どちらが生き物として賢いのか。

 何か、話が逸れっぱなしだな……(私は寝る前に時間があればブログを更新するという習慣なので、ブログ書いてる時はたいてい酔っているのだ。要するに気楽にクダ巻いてるだけですので、お気になさらずに)。

 要するにですなあ、私が言いたいのは……「誰それがこう言っている」「何々にこう書いてある」「社会学(心理学、政治家、その他何でもいい)でいうところの○○現象である」等々、「知識」だけを金科玉条のように振りかざしてくる言説は何の魅力もない、ということである。知は力なり、という。知識はないよりあった方がいい(私自身、自分の知識不足に愕然とすることは多いのだ)。だが、携帯電話のストラップみたいな知識なら、あっても仕方ないのである。


 繰り返して言うが(というより、恥を晒すみたいなものだが)私はさほどの知識は持っていない。職業に絡んで多少の知識はあるが、これは社会人として長い年月を過ごしてきた人なら誰でも同様であろう。また本だけはやたらに読んでいるが、前述のようにきちっと自分の中に知として取り入れているわけではないし、はっきり言って頭もよくない(泣)。自分で言うのも何だが、絵に描いたような「その他大勢」の「凡人」である。

 だが……というべきか。だからこそと言うべきか。私は「自分の頭で考えること」と「自分の言葉で語ること」を大切にしたいと思う。先人の、あるいは同時代の人々のでもいいけれども、知識からは謙虚に学びたいと思うが、それを「自分の言葉の後見人」のようには使いたくない。どれほど稚拙でも、自分の頭で考えたことを、自分の言葉で語ること。そのあたりのことについては実は何度もブログで書いてきたような気がするのだけれども――それだけが、人間の最低の証であるように私は思ったりもするのだ。

(第一、自分の言葉を探さずにエライ人の論説を引用するだけですませるなら、ブログなど書く意味はない。ついでに言うとコメント欄も同様。削除はしませんが、誰がこう言った、どこそこにこう書いてある、というだけのコメントは読んでいて共鳴するところ皆無。人間を動かすのは、同じ人間の肉声だけである)
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麻生外相、総裁選出馬を正式表明

2006-08-21 23:43:09 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 麻生太郎外相が、自民党総裁選への立候補を正式表明をした。安倍晋三官房長官、谷垣禎一財務相と麻生外相の3人の誰かが次期総理大臣に選ばれる(でもって、日本の首相になる)らしい……。「この中では誰がいいと思うか」などという話になると頭痛がしてくる。以前、「『どちらがマシか』の話ではない」という記事を書いたことがあるが、私の基本的な考え方はこれに尽きる。また麻生外相について私がどう思っているかは、2月2日2月3日のエントリでも少しだけ触れている。繰り返して書くのは面倒であると同時に馬鹿馬鹿しい気もする(その他大勢ブログでトクトクと愚にもつかぬ同じことを書いててどうするんだ、アホか、という気分ですな)ので、重ねては書かない。万が一興味を持ってくださった奇特な方があれば、そちらをお読みいただければ幸いである。

 代々の首相はため息の出るような御仁が続き、しかも私のひが目かも知れないが代が替わるごとに我々にとってありがたくない方向が強まっている気がする。「これがどん底だろう」と思った途端に、次の幕で最低ラインが更新される。これは良くない徴候だ。ひとつには、この国は自浄という言葉が存在しないのかと絶望するがゆえに。そしてもうひとつは、「前の方がよかった」という“よりマシ論理”に足をすくわれかねないという意味において。私達は底なし沼にはまりこんだのであろうか。

(盆休みが明けて妙に多忙になったので、尻切れトンボの……どころか、書き出しだけ投げ出したようなエントリになった。って、実はいつものことなのだが。追々考えてみることにしたい)

◇◇◇エントリとは何の関係もない「お願い」◇◇◇

コメント欄に書こうかと思ったが、御覧になる方はごく少ないと思うので、ここに書いておく(ここも見る方は多くはないが、コメント欄よりはちょっとは多いだろう……)。

コメント欄で論争を展開していただくのは多いに結構。しかし何度もしつこく申し上げていると思うが、コミュニケーションの最低のルールは守って欲しい。たとえばコメント欄で誰かを指して「おまえ」呼ばわりするのは止めていただきたい。むろん私も他者を「おまえ」呼ばわりすることがあるが、それは気心知れた友人同士の間か、もしくは一種の「宣戦布告」(おまえは敵だ!という宣言をする)の場合だけである。

念のため言っておくと――諸兄はおわかりのはずだが、「おまえ呼ばわり」というのは一種の比喩である。コミュニケーションというのは、「一方的に言うだけ」のものではない。(言いっ放しというのは、気分をスカッとさせるものではあるけれども)

たとえ虫けらのような庶民といえども私にもスタンスというものがあり、それゆえにしばらくはコメントの削除はしない(ほとんど意地になっているな。笑)。だが、この先、不毛な罵倒が多出するようであれば、バッサリと削除することも考慮する。  

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「愛国」に背を向ける生き方

2006-08-20 23:43:11 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 8月16日付けのエントリで、加賀乙彦の『悪魔のささやき』を紹介した。加賀は「どんな思想・学説・主義・組織にも自分を預けてしまうことはすまい」と思って生きてきたそうで、その思いの原点は1945年8月15日に遡る。彼は国家のマインド・コントロールに踊られてみごとなまでの軍国少年だったのだが、8月15日を境にした世の中のあまりにも見事な180度の転換を見て、「人間の思想や国家のイデオロギーの脆さ」に激しいショックを受けたのである。

 この本の余韻がまだ自分の何処かに残る中、「なぜ日本人はあれほど鮮やかにマインド・コントロールされてしまったのだろう」と考え続けている。むろんそれだけ、国家のやり方が巧妙かつ強力だったのではあろうけれども。そしてどれほどおかしなことでも、それを主張し、信じる人の割合が集団の中で一定程度以上に達すると、「れっきとした正論」になってしまうのも確かであるけれども。

 冷静に考えて、「おかしい」と思った人はどれだけいたのだろう。むろんいたには違いないが、私達がいま想像するよりもはるかに少なかったのではあるまいか。「おかみのすること」すべてに喜んで従ったわけではなく――たとえば経済統制下で強いられる耐乏生活に不満を持ったり、息子が徴兵されることを内心辛く思ったりはしただろうが、「やむを得ない」と諦め、あるいは「国のために」と自分自身に言い聞かせ、つまりは「おかしい」という認識に達しないまま、皆で地獄への道をひた走っていたのではないか。随分前にはやったギャグを使うと、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。

 文化人とか知識人とか言われる人達も、その多くが同じ方向を向いて走った。小説家や詩人の多くが戦争賛美の文章を書いたことは、よく知られている。戦後になって「生活のため仕方なかった」「国家の要請に逆らえなかった」といった言い訳がボロボロ出て来たが、みっともないこと夥しい。彼らの中には庶民と比べれば多くの知識や情報を持つ人々もいたはずなのに、世の中がひとつの方向に疾走し始めると、そんなものは何の役にも立たなかったらしい。
 
 もちろん同じ方向を向くのを拒否した「文化人」も、いないわけではない。永井荷風はそのひとり。40年以上にわたって書き続けた『断腸亭日乗』には、「イケイケ」の世の中を揶揄する言葉が散見する。たとえば「(新聞などの)時局迎合の記事論説は読むに耐えない」「文壇の迎合ぶりは憐れというほかない」といった意味の言葉――。とくに印象に残っているのは、「人間の美徳や善行を意味する言葉はその本質を失ってしまい、代用語に成り下がった」と皮肉たっぷりに書いているところだ。
(原文は文語体。いま手元にその箇所を開いているわけではないので、細かい言葉遣いは誤りがあるかも知れないが、内容は間違っていないはずである。興味がおありの方は、ぜひ『断腸亭日乗』をお読み下さい。どんなものでも自分で直接読むに限る。他人が言うことをそのまま信用してはいけない。私は時々本の紹介をするが、すべて私という個人のフィルターを通した紹介に過ぎない)

 永井荷風はいわゆる左翼ではないし、別に「反戦運動」をしたわけでもない。国家というものに鋭く反逆する思想の持ち主でもない(ついでに言うと、戦後はシレッと文化勲章も受けている)。皮肉屋の偏屈ジジイ、という感じではある。ただしその偏屈には、徹底した個人主義の筋金が入っている。だから世の中がどう動こうと、周囲の人々がどう考えようと、「知るか、そんなこと。ワシには関係ないわい」という冷ややかな眼を持ち続けられたのである。むかし『断腸亭日乗』を読んだとき、彼は「日本」が嫌いだったのだな、と思った。大正期の日本も、昭和初期の日本も、戦争に浮かれる日本も、そして戦後の日本も。

 私は文芸評論家でも日本文学史の専門家でもないから、永井荷風や『断腸亭日乗』について論じる気はないし、その力量もむろんない。だが、「こういう人間が多ければ、国全体がむやみに熱くなって妙な方向に突っ走ったりせずにすむのではないか」とは思う。「国を愛そう!」「国を守ろう!」あるいは「国を憂える」エトセトラ、1オクターブ高い声が響くとき、「関係ねぇ」と背を向けるのもひとつの勇気ある決断。みんなが酔っているときは醒めている人間がおかしいと言われるが、そんなときほど距離を置き、冷ややかに醒め続けるのもひとつの決断であると思う。

追記/念のため言っておくと、「冷ややかに醒め続ける」ことと、「白けている」ことや「無関心である」こととは全く違う。 

 
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「コメント」に対する私の姿勢

2006-08-17 17:22:44 | このブログについて

〈布引洋さんの助言への返事〉

 布引洋さんから、次のようなコメントを戴いた。

「(前段略)ネオナチモドキに対して私達が甘すぎるのでは有りませんか? すき放題に発言させて何も批判しないでは、すまないのではないですか? 中国はA級戦犯合祀を問題にしていますが、私達日本人は明かな犯罪行為の実行者BC級戦犯に対して何も言わないのは問題では有りませんか? 日本人自身が戦争犯罪を真摯に考えないと、諸外国の理解と尊敬は得られない。最初から議論を拒否する態度のコメントは削除すべきでしょう。自分の部屋の掃除は住人の責任です」

 戦争犯罪を真摯に考えなければ――というのは、むろん当然のことであると思う。それはさておき、ここでは「議論を拒否する態度のコメント」に関する私の基本的な姿勢を書いておく。

 まず、布引さんに対する私の返事は――

【言われていることはわかります。確かに自分のブログのコメント欄は、きっちり掃除をするべきかも知れません(注※)。ただ、私は当面、「議論を拒否する態度のコメント」もそのまま置いておこうかと思います。最も大きな理由は、「そういうコメントがあった」ことを目に見える形で残しておくため、です。今後、たとえば「こういうコメントがあり……」と例を挙げる時、私が意図的にでっち上げたのではないという証拠になります】

注※「部屋の掃除」という言葉を、布引さんは「日本人は自分の国をきちんと掃除すべき」という意味で使われたのかも知れない。だが、コメント削除に関する文の後に続いているところから見て、「自分の部屋=自分が管理しているブログ」という意味にもとれる。一応、そちらの意味に解釈したということで書かせていただく。

〈TBの扱いについて〉

 私は以前から、あまりコメントやTBの削除をしていない。ただ、TBについては「ここを訪れた方に、TBされているブログも是非覗いていただきたい」と思っているので、多少の整理はしている。たとえば二重に入っていた場合はむろん片方削除するし、私のブログの目的と異質なもの(営利を目的としたTBや、いわゆる18禁系のものなど。私はポルノグラフィーは嫌いではないし、エロ系のサイトもそれなりにおもしろいかも知れないとは思うが、異質であることは確か)も削除する。差別的な視点で書かれたものも、気がつけば削除する。

 TB欄はいわば「皆さん、このブログも是非お読み下さい」という紹介でもあるので、私が「友人にお勧めする気のない」TBは削除して当然であると思う。表示される数には限りがあるのだし。(忙しくてTBされたエントリをきちんと読めないこともままあり、実のところ削除しそこねることもあるが、原則はそういうことである)

〈コメントの扱いについて〉

 コメントは、私自身が「納得できる」ものであるか否かを問わず、原則として削除しない。正直なところサボっているだけという面もあるが、布引さんへの返事で書いたような気持ちがあることも確かである。親しい友達でもない相手をいきなり「おまえ」呼ばわりするコメントや「おかしいのはアンタの方だろ」「左翼のバカ共が……」といったコメントははっきり言って不快であるが、いろいろ考えた末、すべてそのままにしてある。かなり前に「罵倒のための罵倒」的なものを削除しようかと思ったこともあるが、その時もやはり削除しなかった。

 たとえば、自分の家の塀に(私はマンション暮らしなので塀はないが)「日の丸を掲げないのは非国民だ。死ね」などと落書きされたとする。そのとき、すぐに消すという方法と、書かれたという事実を自分が忘れないために、そして通りがかる人達に見てもらって「こういう発言を、どう思われますか」と尋ねるために、あえて残しておくという方法があるだろう。後者を選んだ、ということである。

〈ただし今後のことはわからない〉

 とは言っても、この姿勢は「今のところは」という但し書き付きである。もともと私のブログの場合、コメントはさほど多くないし、「議論を拒否する態度のコメント」はそのごく一部でしかない。だから「そのままに」しておけるのだとも言える。1つのエントリに対して40も50ものコメントが入るブログであれば、訪れた人達にコメント欄も読んでもらうためには、かなり整理せざるを得ないはずだ。また、「議論を拒否する態度のコメント」ばかりが多くなった場合も、削除するのが正解であろう。さもないと、真面目なコメントを書いていただきにくくなるから。

 だから私も、コメント欄に「まともに議論する気がない」「単なる罵倒」のようなコメントが増えてきたら、あっさり姿勢を変えるつもりである。

〈コメントに対する批判ということ〉

 布引さんのコメントには「好き放題に発言させて何も批判しないのはよくない」という言葉もあったわけで、それについては耳が痛い。確かに私は、「それは違うだろう」と思うコメントに対しても、あまり反論はしていない(時々はやるけれども)。これは確かによくないのだろう。削除しないならしないで、本当はひとつひとつ、きちっと反論・批判しなければいけないに違いない。

 なぜ、あまり批判していないか。「多忙を理由に単にさぼっている」というのが一番大きいのだが、「何も言わずに、皆さんに見ていただこうか」という気持ちもある。私の答えはブログの記事で出そう、と。この点については、じっくりと考えてみたい。

◇◇◇◇

TBやコメントの扱いと絡めて、以前、「コミュニケーションのルール」という一文を書いた。コミュニケーションに対する私の基本的な考え方は、ここで述べている通りである。

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加賀乙彦『悪魔のささやき』

2006-08-16 10:56:09 | 本の話/言葉の問題


夏期休暇中である。と言っても何処かに行くあてもなくゴロゴロし、誰かから電話が入って誘われれば尻尾振って出て行く、という程度。……などという身辺報告?していても仕方ない。昨日読んだ、加賀乙彦『悪魔のささやき』(集英社文庫)を紹介しよう。比較的軽く読める新書なので、書店に行かれたらちょっと覗いてみられることを勧める。むろん買われてもいいし。
(すみません、後で気がつきました。集英社文庫でなく集英社新書です)

〈文章には加賀乙彦の特色は薄いが〉

 著者は多忙で書き下ろしが出来ず、この本は「口述筆記」にしたと書いてある。ちなみに口述筆記というと一般には語り手が語るそっくりそのままの順番、そのままの言葉で活字になると思われているようだが、そういうケースはほぼゼロ。それで本が出来るなら、テープレコーダーに吹き込んでもらえばいいわけである。専門の編集者なりが筆記者として付くのは、話し言葉を書き言葉に改める作業を含め、語り手が思いつくままに喋ったことを整理する(場合によっては質問を挟んで語り手から言葉を引き出したり、資料的なことを補ったりする)必要があるからだ。加賀乙彦は小説家だし講演などもしているので、まとまりのつかない喋り方はしないはずだが、それでも彼が一人で書き下ろしたものとは少し違ってくる。実際、彼の小説などと比べて文章はかなり平明で軽快。文章自体をうんぬんされると、著者も眼をパチクリさせるだろう。だが、内容は彼が考えていることを正確に表現しているはずで、私もそのつもりで読んだ。

〈悪魔のささやき〉

 彼は精神科医であり、東京拘置所の医務部技官として務めた経験もある。その経験から、「人間には誰にでも、悪魔にささやかれたとしか言いようのない現象が起こりうる」「日本人は特にその傾向が強く、近年ますます強まっている」という。そして悪魔のささやの恐ろしさは影響が持続することで、1人でなく大勢の人間に働きかけて、場合によっては10年以上もとんでもない方向に走らせるエネルギーを持っているともいう。人間はどういう時に、どういう形で悪魔のささやきを聞くか、つけ込まれないためにどうすればよいか、というのが同書のテーマである。

〈社会の刑務所化〉

 加賀は日本の社会が「刑務所化している」という。刑務所の囚人と比べればはるかに多くの自由を与えられているが、かといって、のびのび生活を楽しんでいるとはとても言えない。決められたスケジュールに合わせて仕事や勉強をし、夜は決まり切ったテレビ番組を見、休日には大企業が準備した娯楽の場を決まり切ったやり方で利用する……。
 刑務所化した社会では、刑務所で起こるのと同様の問題が発生する。たとえば
「爆発反応」(些細な刺激で、突然キレる)。また、「関心の狭隘(きょうあい)化」も長期囚によく見られるという。日々の単調な生活に自己の精神を合わせるかのように、興味を持つ対象が極端に狭くなり、話すことも昼飯のおかずや囚人仲間の悪口などに限定される。自分達がまさしくそうなりつつあるような気がする、と加賀は語る。国内外のニュースに接しても、一過性の興味しか抱かない。

〈他人指向型の心が悪魔の餌食になる〉

「他人指向型」の生活をして、暮らしからも人生からも「自分」が失われていく。そういう状態の心こそ「悪魔の餌食」であると述べ、何を隠そう、自分もひどいものだったと加賀は振り返る。
 加賀は1929年生まれ。戦争中は国家のマインド・コントロールに踊らされ、みごとな軍国少年だったそうである。「護国の鬼」になるのが国民の務めと思って1943年には陸軍幼年学校に入学した。そして、戦後は「あっという間に民主主義少年になり」、「大学時代はマルクス・レーニン主義のシンパになり」……と回想する。

〈原点は1945年8月15日〉

 それでも彼の中には、「どんな思想・学説・主義・組織にも、自分を預けてしまうことはすまい」という思いがあったという。それは1945年8月15日を境にした180度の転換を、自分の目でまざまざと見たからである。
【あのとき感じた、人間の思想や国家のイデオロギーというのはなんて脆いものなのかという驚きは、今もずっと続いています】(65ページ)
 1947年に新憲法が施行され、都民大会が開催されてお祭り騒ぎになった。それを見て18歳だった加賀は、「本質は何も変わっていない」と感じた。
【いつの日かまた民主主義にかわる何かが入り込み、日本人をとんでもない方向に突き動かしてしまうのかも知れない。そのとき私が感じた不安は、残念ながら杞憂ではありませんでした】(同ページ)

〈悪魔につけ込まれないために〉

 戦争中の被コントロール体験、医学生時代に広島・長崎で被爆した人達の脳組織を見た時のショックや、アメリカで子供達に「原爆は科学と民主主義の勝利」と教える小学校教師に出会った時のショック、オウム真理教・麻原彰晃と会って思ったこと(精神鑑定結果の検証のため接見)……その他多くの自分の体験を背景に、加賀は「悪魔のささやきに身を委ねてはならない」と呼びかける。

 逃れるために、彼は幾つかの方法を挙げている。たとえば、視界を360度広げ、ものごとを正しく知ること。自分がアメリカで出会った教師も、もし原爆の悲惨さと今も続く被爆者の苦しみを知っていたら、子供達にキノコ雲のビデオを見せながら拍手したりはしなかっただろう、という。

 ただし、人間は無意識のうちに好ましい情報だけをピックアップする(個人内情報操作)。今はインターネット上でたくさんの情報が飛び交っているが、多くの人は自分にとって好ましい情報だけをピックアップしている。選り分けられた情報はその人の一面的なものの見方を補強する材料に使われ、より悪魔につけいられやすい状況を生み出すので注意しなければいけない。また、政府やメディアがおこなう情報操作もあるし、意図的でなくても間違った情報が流れることもあるので、できるだけ客観的に弁別・考察していく必要があるとも、加賀は念を押す。

〈考える主体は私〉

 加賀は自分の友人でもある哲学者・鶴見俊輔の、次のような言葉を紹介している。
【状況にのまれず、自分を引き離して自覚的に自分の生き方を選択する。大切なのはイデオロギーではなく、人生への『態度』なんだ】
 確固とした人生への態度を持つこと。個人主義を貫くこと。それも悪魔を避ける有効な方法であると加賀は断言するのである。夏目漱石、会津八一、永井荷風などの文を引用しながら、加賀は次のようにいう。
【雑誌やテレビやインターネット】から得た情報も、誰かのアドバイスや識者とやらの意見も、流行も、昔からの習慣や伝統も、宗教も、占いも、お隣さんがどうしたこうしたも、そのまま鵜呑みにしない。(中略)「みんなはどうなんだろう」ではなく、「私」から出発していく。私自身は常々、そうありたいと願っています】(198ページ)

◇◇◇

ダラダラと長い紹介になってしまった。最後まで読んでくださった方がおられましたら――どうもすみません。私は「個人が一番大事」、国家や公共などというものは二の次だと思っている(だからこそ1人1人の個人の尊厳を何よりも重いと思う)人間であり、同時に「人間は結構弱くてだらしないものだ」とも思っているので、この本は興味深く読んだ。

10代半ばの加賀乙彦は国家によって完璧にコントロールされ、鬼畜米英と思っていたわけだが、今の若い層にもそういうコントールの手(悪魔のささやき)がひそかに伸びていないか。


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小泉首相、8月15日に靖国神社に参拝

2006-08-15 21:23:27 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
 ここ2週間ばかり死にそうに忙しかった代わり……というのも変だが、今週はおそろしく(?)暇である。本当はいろいろやるべき雑用があるような気がするのだが、疲れ果てて一昨日からぼーっとしてしまい、「朝寝して、夜早く寝て、昼寝して」「起きてる時はゴロゴロ寝転んで本を読む」という状態。まあ、たまにはいいか……。

 ついさっき読み終えたのは、加賀乙彦の『悪魔のささやき』(集英社新書)。比較的軽く読めておもしろいので、書店に立ち寄られたらパラパラとめくってみられることをお勧めする。

 実はこの本のことを書こうと思っていたのだが、急遽、別の話を――

 小泉首相が今日、靖国神社に参拝した(既に皆さん、御存知のはず)。報道によると、首相は「8月15日を避けても、反発、批判は避けられない。いつ行っても同じ。ならば今日は参拝に適切な日」と述べたという。さらに「戦没者全体に哀悼の意を表すために参拝している。(憲法との関連については)思想信条であり、心の問題」とも繰り返したそうである。

 真っ先に頭をよぎったのは、やはり行ったか……という感想だった。政治家の中にはある意味で利巧というか、巧妙に立ち回るタイプの人物も多い。彼らは時計の針を逆戻りさせようとするにあたって、表立たない所、反対の声が少なそうなところからじわじわと包囲していく。その点、小泉純一郎というのは実にストレートな人物だ(別に、褒めているわけではない。念のため)。多分、小泉を歓迎した人達は、彼のいかにも「裏表のない感じ」に惹かれたのではないか。何しろ今までの自民党の政治家は、「いかにも裏表のありそうな人物」揃いだったのだから。(裏表がないというのは、それ自体はまあ結構なことではある。しかし裏表さえなければ、何でもいいというわけではない。裏も表も危険、ということも多いのだ。ただし表は綺麗で裏は危険というものより、両方危険なものの方がわかりやすくていいかも知れない)

 しかも小泉純一郎という人は、困ったことに自信過剰で他者を見下しがちで、しかも「千万人といえども吾ゆかん」の人物でもある(孟子が泣くゾ……)。こういうタイプの人間はわざわざ人の心を逆なでするような振る舞いをすることで、自分の力や能力を誇示する。自分の言動に対する批判が多ければ多いほど、「バカどもが何を言っているか」という気分に酔ったりもする。今回の参拝も、ひとつにはそういう臭いがする(むろん政治的な意味合いが多いわけだが、そのほかにということである)。

 8月15日を避けても、どうせ批判はある――と、首相は言った。そりゃそうだ。靖国神社は単なる「神社」ではない。あなたが近所の「お稲荷さん」や「恵比寿さん」にお参りするのなら「心の問題」で結構ですが、それとは話が違うのです。

 靖国神社は(行かれたことのある方はおわかりと思うが)ひとことで言えば「国のために命を捧げた人達(英霊)」を祀る神社である。国のために命を捧げて何が悪いか、という人もいるだろう。私はそういう考え方を一方的に否定しようとは思わないが、しかし第二次大戦の戦死者の人達の多くは、「国に殺された」のだと私は思っている。いやいや徴兵された人達もいる。勇んで戦場に行った人達の中にも、「それが正しい」といわば洗脳された結果であったりもした。無理矢理に命を捧げさせられ、それを美化されれば、むしろ彼らの魂は浮かばれまい。

 同神社の遊就館では、常時、いろいろな映画も上映している。「戦後の誤った大東亜戦争批判によって、祖国に着せられた汚名を挽回する」など、ある特定の思想によって作られた映画である。また、同神社には「崇敬奉賛会」という名の会があり(宮司が名誉会長)、「英霊に感謝と報恩をささげ」「英霊の精神を後世に伝えるべく」さまざまな活動を展開している。東京裁判を否定し、あの戦争は間違っていなかった、という視点による講演会なども開催しているようだ(※)。

《※コメント欄で「汚名を挽回という表現は変、返上が正しいのではないか」というご指摘がありました。はい、その通りです! 私がアホでした。汚名は返上。挽回するのは名誉ですね。(ボーッとした頭で文章書き、見直しもせぬまま公開しているので恥をかくこと多し)
間違いはどんどんご指摘下さい。アホなこと書いてますから。でもコメント欄が「間違いの指摘」と「ご教示」ばっかし、というのも、正直言って何だか淋しいですね。そういう読まれ方しかしてないとすれば、私が悪いのですけれども。できるだけ多くの方に、自分はこう思ったとかこういう見方もあるのではないかとか、忌憚のないご意見お聞かせくださる方がおられると嬉しいのですが……。》

 私は、靖国神社は「非常に特殊な思想の、いわば総本山的な存在」であると思う。カルト神社と言ってもよい。むろん思想信条の自由は憲法で保障されているから、そういう考え方を(私自身は否定するけれども)強引に抹殺しようとする気はない。広めようとするのも自由である。

 だが、そこに政治家が参拝するのは困る。小泉首相はいつも「心の問題」と言うが、それは素朴におかしい。いや、心の問題なら心の問題でもかまわないのだが、「誰それを愛するのは心の問題」などというのとは話が違う。心でなくて、「考え方の問題」でしょう、小泉純一郎どの。

 私達は、「靖国神社」という「特殊な思想に支えられた組織」のありようを認め、その思想でもって戦死者達が祀られていることを是とする人物を首相にしてるのだと、あらためて肝に銘ずるべきなのだ。「8月15日の参拝」は、あの日葬られた亡霊を「実は間違ってなかったんだよ」と囁く、靖国神社の思想への賛同表明であると私は思う。




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「とくらさん参院選立候補」に対する応援メッセージ

2006-08-13 00:10:30 | お知らせ・報告など

 

とくらブログ」の戸倉多香子さんが来年の参院選に民主党候補として立候補されることになり、既に何人ものブロガーが応援の言葉を述べておられる。遅ればせながら、私もひとこと――。

とくらさん;

 貴女が参院選に立候補なさると聞き、ブログを読ませていただいている者の一人として本当に嬉しく思っています。貴女の書かれる記事はいつも地を這うような目線に支えられ、私達庶民が持っている「素朴な感覚」に裏打ちされていました。貴女は知ったかぶりして上からモノを言うことは1度もなかった。知識や情報が足りず、足も遅く、それでも「少しでもマシな世の中になって欲しい」と願い、真剣にその道を探ろうとする人達を軽視することも1度もありませんでした。

 そんな人物をこそ、私は国会に送りたいと思います。貴女のような人達が1人でも多く政治の場に集った時、この国は今よりずっと風通しのいい、明日に希望の持てる国になるでしょう。

 正直なところ、私は民主党という政党の支持者ではありません。小沢代表のものの考え方にも、多くの疑問があります。それでも、今のところは野党第一党である民主党に「期待」するほかなく(その辺のことは3か月ほど前、新代表決定を巡る記事の中で書きました)、それならば民主党にははっきりと、新自由主義に反対する方向を目指して欲しい。民主党に新しい風を吹き込むためにも、戸倉さん、どうか頑張ってください。はるか東の地から応援しています。

◇◇◇◇◇

追記1/ここ1週間ひどく忙しく、4日ほどはとうとうブログ更新どころかTBやコメントを見ることもできなかった。そんなわけで、取り急ぎ「ひとことメッセージ」だけ……。

追記2/Under the Sun のコラムは昨夜、ちょっと書いている。お暇があれば覗いてください。 

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「都知事三選にNO!」&石原慎太郎の文章を巡って

2006-08-08 21:46:56 | 東京都/都知事

 本日のメモ――。

〈石原都知事の三選は……〉

 ハムニダ薫さんが「東京都民の皆さま、三選だけは阻止してください」という記事を書いておられる。むろん我らが石原都知事の三選……のことである。「こんな男が三度も選ばれたら、世界中から都民の品位が疑われる」と言われると、小心者の私なんぞ、つい「すんまへん」と謝ってしまう。

 むろん私は都知事の支持者ではない。それどころか「石原都知事は天敵」みたいな感覚があり、何度か批判(というほどリッパなものじゃない。都民の素朴な声、ですな)を殴り書きしたことがある。三選に意欲を示しているという情報を得たときは、「都知事殿、三選に意欲など出さないでくだされ」と悲鳴も上げた。

 ……と書きつつ、「言い訳してるなア」といささか後ろめたい。「私は石原嫌いである。彼に票など入れたことはない」といくらそっくり返っても、そんなものは屁の突っ張りのにもならない。単なる自己満足である。戦争が終わってから、「実は私もあの戦争には反対だったんだよ~」と言うのと、五十歩百歩である。彼を都知事の椅子に座らせ続け、三選に意欲を出させているのは我々都民の責任であり、私もまたその一人なのだ。やはり「すんません」と詫びて、体張って阻止すべき時……が来ている。

(ブログなんか書いてる場合じゃないな。ブログは所詮ブログ。特に私程度のその他大勢ブログは金魚の寝言みたいなもので、いわばアイバイ、マスターベーション。世の中をたとえ1ミリでも動かす力はなく、それならばスパっと止めてしまって現実行動に力注ぐほうが潔いかも知れない。書を捨てよ、街に出よう――じゃなかった。ブログを捨てよ、街に出よう――と思うことしきり)

 

〈文章ということ――都知事の文章を巡って〉

 前出のハムニダさんのエントリのコメント欄に、「文章が下手」「とても作家とは思えない」といったコメントが幾つも寄せられていた。……というわけで、都知事殿の文章について。

 まず言っておくと、私は「文章が下手」ということ自体は、それほど大きな問題ではないと思う。このことはちょっとハムニダさんの所にもコメントしたのだが、文章でも絵でも「下手ウマ」というのがあるのだ。絵でいえば、たとえばシャガール。彼はデッサンが不得手で、絵の先生に匙を投げられたという話もある。真偽は知らない。一種の伝説かも知れないが、彼の絵は下手ウマのひとつの典型であろう。

 小説で言えばたとえば小栗虫太郎。非常に癖のある読みにくい文章で、日本語としてはかなり下手な部類だという評論家もいる。だがその一種の「下手さ」が、奇妙な魅力になってもいるのだ。同じ推理小説分野で言えば、横溝正史なども文章は巧くない。読んでこそばゆいような大仰な表現が多様されているし、ときどきテニヲハもずれているが、それがまた変に雰囲気を醸し出している。

 だから私は、文章に関しては「巧拙」そのものはあまり気にしない。単に巧いだけの文章の書き手なら、古手の新聞記者の中に「ひと山いくら」というほどいる。 

 そんなわけで……石原慎太郎の文章に対して、「下手だ」というだけの批判はあまり力を持たないと私は思う。 いや、下手だと批判してもむろんかまわないのだけれども、それなら「下手」とはどういうことか、を明確にしておく必要があると思う。

 私も彼の文章は下手だと思う。たとえば彼の最近の文章で言えば、産経新聞に連載しているエッセイ『日本よ』の最新記事(8月7日付け)。

【そうなった時、北京政府が国民の目をそらせ経済破綻を糊塗(こと)し、内部の分裂を食い止めるために軍事的な冒険主義に走る可能性は十分にありえる。それに間に合わせての準備の時間はあまりないということを我々は知るべきに違いない】

 全く同じ内容・意味の文章を、私なら次のように書く(おそらく一般的なジャーナリストは同じだろう)。

「そうなった時、北京政府は経済破綻に対する国民の目をそらせて国内の分裂を食い止めるため、軍事的な冒険に踏み切る可能性は充分にあると言える。その脅威に対する準備期間はさほど用意されていないのだということを、我々は心底、知るべきではなかろうか」

(ぎへぇ~何でこんな文を書かねばならないのか、という感じであるが……わかりやすい日本語とはどういうものかを考えてみるために、ちょっと書いてみた)

 それでもなお、石原慎太郎の「文章」自体は別に大した問題ではない。

 問題にすべきは「日本語としての巧拙や整合性」ではなく、叫んでいる中身である。「文章」はむろん巧いに越したことはない(私も、巧い文章書きたいとは思っているのだ……。もっと巧ければ、原稿の注文がたくさん来るかも知れないし←嘘)。文法的な誤りや誤字脱字は、ない方がいいに決まっている。だがどれほど流麗な文章でも、うつくしいだけの薄っぺらな文章を私は認めない。

 文章の巧拙に真っ先に着目してしまうと、肝心のところが抜ける。キレイキレイな言葉に騙される。都知事の書いているものは、日本語として下手だからダメ、なのではない。噴飯ものの愛国心を振り回し、「国家の敵」を作ろうとしているがゆえに退けるべき――なのである。

 私の感覚は間違っているだろうか? 

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結城昌治著『軍旗はためく下に』

2006-08-07 23:53:04 | 本の話/言葉の問題

   8月15日が近いからだろうか。書店に戦争関連の本のコーナーが出来ていた。さまざまな種類の本が並ぶ中、結城昌治の『軍旗はためく下に』(中公文庫)を見つけた。

  私はちょうど10年前に亡くなった結城昌治の小説が好きなのだが、最近はそのほとんどが絶版になっており、古書店でもめったに見掛けなくなっていた。だから思いがけぬ所で旧知の人物に出会った気がして何となく手にとってみたところ、ごく最近改版されたとわかった。

 以前「子供がいたら読ませたい本」を何冊か書き出してみたことがあり、その中でも『軍旗はためく下で』を紹介した。子供といっても「小さい子供」向けではないけれども……。

 内容は5話連作で、すべて「陸軍刑法に基づいて処刑された兵士」の話である。フィクションではあるが、軍法会議の記録を調べたり、戦争体験者に丹念に取材した話がもとになっている。(ちなみに結城昌治はこのほかにも、取材をもとにした戦争小説を幾つか書いている)

 兵士達に着せられた罪名は「敵前逃亡」や「従軍免脱」(従軍を免れるために自傷する行為。たとえば指1本傷つけても、銃を撃てず兵士として役立たなくなる)など。陸軍刑法によれば、敵前逃亡その他多くの「罪」の最高刑が死刑に定められていた(海軍刑法も同様であったらしい)。 

 改版文庫の巻末の解説をさっと立ち読みしたら、次のような意味の文章があった。

「戦争においては、殺し合いが嫌で逃げ出すとか、自傷して戦いを回避するとか、上官の出撃命令に従わない等々、自分の命を守るための行為に対して死刑が科せられる」

 5つの話が切ないのは、登場する兵士達は確固たる反戦思想の持ち主だったり崇高な精神の持ち主だったりするわけではなく、みんな「普通の男達」――心弱く、ちょっと狡いところや卑怯なところもあり、「お国のために戦う」ことに特には疑問を持っていない男達であることだ。ごく素朴な「忠臣愛国」の念を持っていたりもする。それでもこっそりと「いつ国に帰れるのだろう。家族に会いたい」と愚痴を言い合い、「虫けらみたいに殺されたくない」と呟いたりするのだ。そんな彼らが、ひょんなことで軍規違反に問われ、容赦なく殺されていく……。

 これは正面切った反戦小説、という趣の小説ではない。登場人物が明快な戦争批判をおこなう場面はほとんどなかったはずだし(厭戦気分、はある)、戦争の悲惨さを大所高所から描いたものでもない。登場人物達はいずれも「鬼畜米英」(という言葉が当時はあった)の気分を叩き込まれており、その気分のままに敵を憎悪し罵っているし、平気で人種差別的な発言も繰り返す。そして描かれている悲劇はいずれも底辺の悲劇であり、その死は思想信条に支えられた崇高な?死ではなくそれこそ虫けらのような犬死にである。しかし――だからこそ、これは逆に言えば強烈な反戦小説であるとも言える。

(むろん、処刑以外にも、小説の中には死が充ち満ちている。たとえば野戦病院に送られて手当も受けられず放置された揚げ句、敗走時に足手まといになるからと空気を注射されて殺された兵士達……)

 興味が湧かれたら、是非お読み下さい。文庫とはいえ約1000円、決して安い買い物ではないが、何なら10人ぐらいで1冊買い、回し読みしてもいいのでは?(ちなみに私は回し読みするはたまにしかしないが、本を友人と交換することはよくある。私が買った本が1000円、友人のは1200円だったりするが、その辺はまあ固いことは抜きである。本は1人が死蔵するものではない)

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皆さん、吉田松陰が好きですね

2006-08-06 23:35:07 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

暑中お見舞い申し上げます。例年、いわゆる「盆休み時期」の前は仕事が詰まった感じになって非常に忙しい思いをします。特にここ数日は、付き合いのある方のブログを読むことも自分のブログを書くこともできずにおりました。今週末までドタバタ状態が続きますが、少しずつ簡単なメモ程度のものは残しておこうかと思います。皆さんのエントリも暇を見て読ませていただきたいと思いますので、よろしければTBを入れておいてください。

 

さて、本日のメモ――

〈小泉首相は松陰がお好き!?〉

 小泉首相は4日・5日、山口県を訪れたそうだ。

【自民党総裁選で圧倒的優位が伝えられる地元の安倍晋三官房長官へのエールとの見方もあるが、小泉首相は最後まで触れずじまい。安倍氏の支持者らも「プライベートな訪問で総裁選とは関係ない」と冷静に受け止めている。】(8月5日付け毎日新聞記事より)

  安倍支援の雰囲気作り――などいろいろな狙いがあるだろうが、それはまあどうでもいい。妙に気になったのは、「幕末の志士」なる人々のゆかりの地を訪れたそうで、それが報道されているということだ。

 【山口県入りしている小泉純一郎首相は5日、萩市などを訪れ、吉田松陰ら幕末の思想家や志士ゆかりの地をめぐる旅を続けた。首相は多くの人材を育てた松陰を尊敬する人物に挙げ、たびたび歌や言葉を引用している。松陰が主宰した松下村塾などを見学した後、記者団に「時代の変革者は想像を絶するような熱い志を持ち、苦労をしてきたんだなあということがよく分かった」と感激した様子で話した。】(8月6日付け毎日新聞記事より)

  小泉首相は吉田松陰が好きなのだそうである。高杉晋作も好きだそうだ。私は吉田松陰も高杉晋作もそれほど好きではない(別に嫌いでもないけれども)。だからどうでもいいようなものだが、そう言えば安倍官房長官も吉田松陰が好きなようだ(彼の本をわざわざ買って読んでしまった。ご愁傷様と言われて、自分は何をしているのかと馬鹿馬鹿しくなったが……)。

〈英雄への憧れ〉

 みんな、どうして「英雄」が好きなのだろう。「立派な人」が好きであったり、尊敬するというのは悪いことではない。しかし「英雄好き」の心情の中には、ひそかに自分と重ね合わせて陶酔する気分が混じっているようにも思う。子供達がRPGの主人公に感情移入して、自分もヒーローになったような気分を味わうのにも似て。

 いや、ゲームをしている子供ならよいのだけれども、政治家にむやみに英雄に憧れられては困る。ある人が立派であったかどうか、おこなったことが崇高であったかどうかは他人が判断することである。英雄も偉人も、なろうとしてなるものではないのだ。(その点、政治家や思想家も本当は同じかも知れない。政治家にせよ思想家にせよ、「将来は○○になります」と決意してなるものではあるまい。政治屋や思想屋なら別だけれども)

 安倍官房長官は、孟子の「自らかえりみてなおくんば、千万人といえどもわれゆかん」という言葉も好きだそうである。私もこの言葉は結構好きなので、正直なところゲッソリした。(あなたと同じ趣味だとは思いませんでしたよ……)

 むろん孟子に罪はない。こういう短い「言葉」というのは、上下左右どのようにでも自分流に解釈し、自分の側に引きつけて味方にすることができる。その点、新興宗教の教祖の「お筆先」や、占いのご託宣とよく似ている。いや、言葉というものは気をつけなければいけません。「自らかえりみて」何を正しいと思うかは人それぞれ。それが正しいと思って戦争始める為政者もいるし、それが正しいと信じて子供にあやしげな健康法を強要する親もいるのだ。

〈ヤマトダマシイ〉  

 私が吉田松陰や高杉晋作ら、いわゆる「幕末の志士」の名前を知ったのは、多分、小学校の3~4年生の頃だ。子供向きの伝記シリーズのようなもので読んだのだと思う(その手のシリーズで、昔のいわゆる“エライ人”達の事績のあらまし程度はいろいろと読んだ。野口英世、夏目漱石、津田梅子……エトセトラ。海外ではガンジー、ニュートンその他大勢。シュリーマン、なんてのもあったかも知れない。考えてみると、よくもまあ何の基準も脈絡もなく頭に詰め込んだものだとあきれるけれども)。

 その手の本はたいていの場合ひたすら美談仕立てに、拍手喝采の形で書かれているから、単純な普通の子である私はただただ感心して読んだ。松陰に関しても「エライ人なのであるなあ」と思ったようだ。だがもう少し大きくなって普通の歴史の本(中央公論『日本の歴史』とか、その手の本)を読んだ時、ちょっと違和感を覚えた。違和感の対象は、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちるとも 留め置かまし大和魂」という有名な辞世の歌である。

 当時、私の中には「右翼的な考え方」(右翼思想、とまではいかない。右翼思想というものはよく知らなかった)に対する反発があり、「ヤマトダマシイ」だの「アイコクシン」だのという言葉に不快感を持ったのだと思う(ちょうど戦争小説などを読んでいて、お国のためとか大和魂うんぬんなどの言葉に対する嫌悪感が育っていた時期だったかも知れない)。実際、松陰が好きだという人は右にもかなり多く(左にも結構いることはいる。ひたすらに駆け抜けた短い生涯が、思想的な問題とは別に人を魅せるのだろう)、あの歌は彼らの心情を揺さぶるらしい。むろんこれも孟子の場合と同様、松陰の責任ではないのだけれども。

付/幕末の志士、という言葉も私はあまり好きではないが、これは言葉に対する好みの問題(1オクターブ高い感じの言葉は好きじゃないのだ。だから書くときは「」でくくった)。

〈尊敬する人物・好きな本〉

  少々話が変わるが、ときどき「尊敬する人間」や「好きな作家」を聞けば相手がどういう人間かわかる、という意味のことを聞く。私はそれに関しては、全面的に正しいとは思わない。むろんある程度はわかる。たとえば「松下幸之助を尊敬する」(松下政経塾の人達は本当か嘘か、そう言いますね。……前の民主党代表とか)と言われれば、相手のある程度のところが見えるような気はする。

 だが、尊敬する「相手」によっては、よく見えないこともある。おそらく松陰もその一人だろう。他にランダムにあげてみると、たとえば――湯川秀樹、福沢諭吉、といった人々も見えにくい。「その人の何処に惹かれるのか」をよく聞かなければ、なかなか見えてこないのだ。

 作家も同じ。私は司馬遼太郎が嫌いで、以前「二人の太郎」という駄文を書いたことがある(ちなみにもうひとりの太郎は山田風太郎。私は彼のファンである)。しかし、司馬ファンだからといって、必ずしも私とは話が合わないとか、感覚が違うとは思わない(いや、感覚はある程度違っているはずだが……少なくとも完全すれ違いではない)。「何を読み」「どの部分に、どう惹かれたか」まで聞かなければわからない。初期のやや伝奇小説風の作品が好きな人と、維新のいわゆる「英傑」を描いた小説などを好む人では、やはり感覚が違うだろうし。

 三島由紀夫なども、よく聞かなければ……という作家のひとり。私は彼の『近代能楽集』など幾つかの作品が結構好きだったが、晩年の作品は好まない。特に『豊饒の海』は、政治思想(的な好み)が強く出過ぎてダメである。読むのが非常にしんどかった。活字なら何でもいいという中毒の私にとって、読むのがしんどいというのは大きなことなのである……。

 また、小林多喜二という作家。1930年代に治安維持法違反で逮捕されて虐殺された作家であるが、「小林多喜二が好き」という場合、彼という人間が好きか、小説が好きなのか。私は彼の生涯には瞠目するし、作品も一定の評価をされてしかるべきと思っているが、小説としての完成度はそれほど高いとは思わない。だから「小林多喜二は好きですが、小説は好きではありません」ということになる。

◇◇◇

尻切れトンボになったが、「メモだからいいや」と勝手に理屈を付けてこれでおしまい。関連して思いついたことがあったらまた書き留めることにしよう。 

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続・医療と「市場原理・競争原理」

2006-08-01 00:49:20 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 昨日のエントリに、「消費アドバイザーの眼」・「tsurezure-diary」お二方からTBをいただいた。共に、診療報酬ランク付けのニュースに関する記事である。

 詳しいことはお二人の記事を読んで戴いた方がよい(簡潔に紹介されており、さらに書かれた方の意見も非常に参考になる)のだが、一応、ここでもごく簡単に紹介しておこう(実は私は、このニュースはキャッチしそこねていた。TBを送っていただいて、心から感謝している)。

 ニュースの中身は、厚生労働省の諮問機関である中央社会保険医療協議会(中医協)が、今月末から「医師の技量に応じた診療報酬ランク付けの検討を始める」というもの。現行の診療報酬は医師の技量と関わりなく一律になっており、そのため医師の能力向上が妨げられている上、腕のいい医師に高額の謝礼を払う慣習が無くならない。だから診療報酬に差を付けるべきだ――というのである。厚生労働省は医師の技量に応じて初・再診料や手術料にランクを付け、最高ランクと最低ランクでは2倍程度の開きが出るようにしたいと考えているようだ。

 ついに来たか――というのが真っ先に浮かんだ感想である。昨日のエントリで、私は仕事で取材した一人の医師の次のような言葉を紹介した。

「診療報酬の規定も取り払うべきだ。報酬は病院、または医師の側が自由に設定すべきである。たとえば外科医が手術1件1000万円と提示したとする。それでも彼が
優秀な医者であれば、1000万円払っても手術して欲しいという患者はいくらでもいるはず。逆にヤブであれば、1回1万円でいいと言っても患者は来ないだろう。腕を磨けば「1回手術して1000万円」の収入を得られるとわかれば、医者はみんな必死で努力する。結果として、医療の向上に役立つ。「優秀だろうとヤブだろうと診療報酬は同じ」などという状況で、誰が本気で努力するだろうか」

 彼と話をしていて単細胞の私はひたすら腹が立ったのだが、どうやら彼のように考える人々は少なくないらしい……。しかし……「技量に応じたランク付け」というのは本当に可能なのだろうか。そして万一可能だったとすれば?

【診療報酬に2倍の差がつくってことは、貧乏ならば泣く泣くランク下の医師に診てもらうしかなくなる場合もありうる。ってことは、貧乏でお金が払えなかったばかりに医療事故や診療ミスの起こる確率が高い医師を選ばざるを得ず、(中略)これが「改革」の成果だよ。】(「消費生活アドバイザー」黒川葉子さんの文より)

 そう……。それを「当然」と思うか、「おかしい」と思うかの戦いなのだ、これは。何度も繰り返しているようだが、金さえあれば最高の(医療を含めた)サービスを受けられ、金がなければ最悪のたれ死ぬような社会は、私は「まっとうな社会ではない」と心の底から思うのだ。

「貧富にかかわらず、すべての人が平等に医療を受けられる」ということ――これが日本の健康保険制度の思想であったはずで、私はこれは胸を張って自慢できる制度(愛国心の薄い私が言うのは、自分でも何だかこそばゆいけれども。笑)だと思っている。それを根底から崩すような「改革」が、庶民に敵対するものでないはずはない。

「全員が60点、70点のサービスを受けつつ、全員100点を目指して少しずつ少しずつ前進し続けるか」「100点から0点までの格差を認めるか」――私達はいま、その選択を迫られている。

 私は迷うことなく「たった一人でも0点に甘んじるほかない社会よりは、みんなが辛うじて合格点の社会」を選ぶ。平等というのは究極のところ、そういうことだ。泣く人を減らすためならば、今より少し生活がダウンしてもいい。煙草を減らさざるを得ず(私はハタチ前からのスモーカーなのだ……何と反社会的な人間であることか)、ビールを発泡酒に変えざるを得ないとしても、そんなことはかまわない。さあ皆さん、我々はそういう覚悟?を迫られる局面にいるのです。

〈余談めいた追記〉

 私は15人のイトコがいる(ほとんどが母方のイトコ達。母はきょうだいが多かった――6人きょうだいの4番目で娘としては末――上、兄弟の一人は5人もの子持ちなので、イトコがやたらに多いのだ)が、その中で3人が医療関係者の仕事に就いている。1人は医師、2人は看護師である(ちなみに看護師の1人は男性で、現在老人保健施設に勤務)。さらにイトコの息子が2年ほど前に医師になったし、医療関係者の友人も多い。だから医療職が激務であることは充分知っているつもりだし、その専門性には敬意を払ってもいるつもりだ。しかし、だからと言って「命を削るような仕事、高い専門性を要する仕事だから、他の職業人よりもはるかに高給をとって当然」とは思わない。むろん超過勤務等々に対する手当は手厚くあるべきだけれども、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という私の基本的な考え方からすれば、「すべての仕事は(その価値も、そして受け取る報酬も)本来、平等である」と思う。自分の能力を生かしきって他者の幸福に寄与できれば、それ以上の報われ方はあるまい……。
 

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