4月も明日まで。そして間もなく憲法記念日がやってくる。何年か先にも、この祝日を私たちは祝うことが出来るだろうか。
新聞等の報道によると、自民党が24日に開催した「新憲法制定推進の集い」で安倍晋三首相は「党の総裁として(憲法改正を)約束した以上、政治スケジュールに乗せる」と改めて表明したそうだ。「改憲は祖父の岸信介元首相が果たせなかった宿願だった。私たちの時代に宿題を果たさなければならない」とも述べたという。 また、25日に衆参両院が開いた憲法施行60周年記念式典でも、「憲法を頂点とした行政システム、教育、経済、雇用、国と地方との関係など基本的枠組みを時代の変化に対応させるため、改革が求められている」「自ら属する国、社会を愛情と責任感、気概を持って支え、守る責務の共有も重要だ」と述べ、憲法改正論議の高まりに強い期待を示した。
祖父・岸信介の宿願……ですか。ファザコンならぬグランパ・コン首相には、ほんと困ったものだ。おじいちゃまの宿願をかなえようというのは、それ自体は別に問題はない。ただし個人的な事柄にとどまるならば、である。たとえば「富士山の見える所にドーンと豪邸建てるのが祖父の宿願だったから」とか、「商売を繁盛させて全国に支店を出すのが祖父の宿願だったから」とか、あるいは「郷土史を完成させるのが祖父の宿願だったから」などと言うのであれば、私も文句は言いませんよ。ああそう、おじいさんも喜んでおられるでしょうね、と言うだけだ。おじいちゃまの宿願うんぬんは、そういう私的な範囲にとどめて欲しい。公的な事柄で張り切られると、周囲はいい迷惑である。(余談だが――私は岸信介はそれこそ、超のつくA級戦犯だと思っている。アメリカは反共体制の確立のために彼を無罪放免?したのだが、彼はあの戦争で死んだ人達に対して償いきれないほどの責任があると私は思う。その責任に口を拭って権力の座に座り続けたこと一点をとっても、私は彼を許してはならないと思っている)
首相は「責務」がどうこう、とも言う。これは彼(および彼と同様の思想を持つ政治家その他)が以前から言っていたことだから今さら驚かないが……と言うよりほとんど耳にタコ状態だが、聞くたびにゲンナリする。人権メタボリック症候群などという薄汚い言葉を吐いた大臣がいたことは、まだ記憶に新しいけれども……まったくもって権力者は「義務」や「責任」が好きだ。ほとんど責務フェチという感じである。
いや、むろん趣味的に責務を好んでいるわけではない。彼らは権利よりも義務を重んじ、黙々と義務を果たしてくれる国民が大好きなのだ。そういう国民であって欲しいのだ。本当は権利などうるさく言う輩は邪魔で、できれば昔の社会のように「オカミ」に従順な、何をされても上から言われたことだからと諦め顔で従う国民が欲しいのだろうが、さすがに現代ではそこまで露骨なことは言えない。だから声高に「義務や責任」を強調するのだ。まず義務を果たしてから、権利を主張しなさい。それが人間として当然のことでしょう?と。
これは、ぼーっと聞いていると正当な考え方のように響く。しかし、である。個人対個人の関係なら、それも一理も二理もあるだろう。たとえば友人同士、たとえば恋人同士の間で、権利だけを主張していては関係がおかしくなる。もっとも権利と義務とどちらが先というわけではなく、この二つは等価なのだけれども。ついでに言うと、権利とか義務とかというものを超えたところで人間の信頼関係は成り立つのであるけれども――いずれにしても、友人であれ恋人であれ、力関係が対等であるからこそ、そして同じ地平で拮抗できるからこそ、二つのものが等価になる。
組織と個人の関係は、そうはいかない。組織と個人が向かい合えば、前者の方が強いに決まっている。精神的な問題として対等を主張することはできるし、私自身もそうしたいと思うが、現実問題としては個人など限りなくはかなく弱い。だからこそ、最大限、権利を守られねばならないのだ。
国を守る責務? バカ言っちゃいけない。冗談は休み休み言ってくれ。私は……生きていくための便宜上、一種の必要悪として国家というものを認めているのだ。我々の(生存権をはじめとする)権利を守るために、国家という虚構を容認したのだ。中世の騎士物語の主人公達が貴婦人に無償の愛を捧げたのとは、話が違う。命を賭けて守る対象などであるはずがない。笑わせちゃ困る。
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世の中は連休だが、私は休めるのは1日か2日だけで、後はほとんど仕事である……。働けど働けどの気分で手を見る気にもなれず、ヤケクソで酔っぱらっている。というわけで、いつもながらのまとまりのつかない文章でありました。お笑いくだされ。