華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

もうすぐ憲法記念日――クーデターの「共謀」を許すな

2007-04-29 23:54:36 | 憲法その他法律

 4月も明日まで。そして間もなく憲法記念日がやってくる。何年か先にも、この祝日を私たちは祝うことが出来るだろうか。

 新聞等の報道によると、自民党が24日に開催した「新憲法制定推進の集い」で安倍晋三首相は「党の総裁として(憲法改正を)約束した以上、政治スケジュールに乗せる」と改めて表明したそうだ。「改憲は祖父の岸信介元首相が果たせなかった宿願だった。私たちの時代に宿題を果たさなければならない」とも述べたという。 また、25日に衆参両院が開いた憲法施行60周年記念式典でも、「憲法を頂点とした行政システム、教育、経済、雇用、国と地方との関係など基本的枠組みを時代の変化に対応させるため、改革が求められている」「自ら属する国、社会を愛情と責任感、気概を持って支え、守る責務の共有も重要だ」と述べ、憲法改正論議の高まりに強い期待を示した。

 祖父・岸信介の宿願……ですか。ファザコンならぬグランパ・コン首相には、ほんと困ったものだ。おじいちゃまの宿願をかなえようというのは、それ自体は別に問題はない。ただし個人的な事柄にとどまるならば、である。たとえば「富士山の見える所にドーンと豪邸建てるのが祖父の宿願だったから」とか、「商売を繁盛させて全国に支店を出すのが祖父の宿願だったから」とか、あるいは「郷土史を完成させるのが祖父の宿願だったから」などと言うのであれば、私も文句は言いませんよ。ああそう、おじいさんも喜んでおられるでしょうね、と言うだけだ。おじいちゃまの宿願うんぬんは、そういう私的な範囲にとどめて欲しい。公的な事柄で張り切られると、周囲はいい迷惑である。(余談だが――私は岸信介はそれこそ、超のつくA級戦犯だと思っている。アメリカは反共体制の確立のために彼を無罪放免?したのだが、彼はあの戦争で死んだ人達に対して償いきれないほどの責任があると私は思う。その責任に口を拭って権力の座に座り続けたこと一点をとっても、私は彼を許してはならないと思っている)

 首相は「責務」がどうこう、とも言う。これは彼(および彼と同様の思想を持つ政治家その他)が以前から言っていたことだから今さら驚かないが……と言うよりほとんど耳にタコ状態だが、聞くたびにゲンナリする。人権メタボリック症候群などという薄汚い言葉を吐いた大臣がいたことは、まだ記憶に新しいけれども……まったくもって権力者は「義務」や「責任」が好きだ。ほとんど責務フェチという感じである。

 いや、むろん趣味的に責務を好んでいるわけではない。彼らは権利よりも義務を重んじ、黙々と義務を果たしてくれる国民が大好きなのだ。そういう国民であって欲しいのだ。本当は権利などうるさく言う輩は邪魔で、できれば昔の社会のように「オカミ」に従順な、何をされても上から言われたことだからと諦め顔で従う国民が欲しいのだろうが、さすがに現代ではそこまで露骨なことは言えない。だから声高に「義務や責任」を強調するのだ。まず義務を果たしてから、権利を主張しなさい。それが人間として当然のことでしょう?と。

 これは、ぼーっと聞いていると正当な考え方のように響く。しかし、である。個人対個人の関係なら、それも一理も二理もあるだろう。たとえば友人同士、たとえば恋人同士の間で、権利だけを主張していては関係がおかしくなる。もっとも権利と義務とどちらが先というわけではなく、この二つは等価なのだけれども。ついでに言うと、権利とか義務とかというものを超えたところで人間の信頼関係は成り立つのであるけれども――いずれにしても、友人であれ恋人であれ、力関係が対等であるからこそ、そして同じ地平で拮抗できるからこそ、二つのものが等価になる。

 組織と個人の関係は、そうはいかない。組織と個人が向かい合えば、前者の方が強いに決まっている。精神的な問題として対等を主張することはできるし、私自身もそうしたいと思うが、現実問題としては個人など限りなくはかなく弱い。だからこそ、最大限、権利を守られねばならないのだ。

 国を守る責務? バカ言っちゃいけない。冗談は休み休み言ってくれ。私は……生きていくための便宜上、一種の必要悪として国家というものを認めているのだ。我々の(生存権をはじめとする)権利を守るために、国家という虚構を容認したのだ。中世の騎士物語の主人公達が貴婦人に無償の愛を捧げたのとは、話が違う。命を賭けて守る対象などであるはずがない。笑わせちゃ困る。

◇◇◇◇◇

 世の中は連休だが、私は休めるのは1日か2日だけで、後はほとんど仕事である……。働けど働けどの気分で手を見る気にもなれず、ヤケクソで酔っぱらっている。というわけで、いつもながらのまとまりのつかない文章でありました。お笑いくだされ。

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クーデターを許すな

2007-04-25 00:35:44 | 現政権を忌避する/政治家・政党

「そいつは帽子だ!」のgonさんが「七色の風よ吹け」の中で、「私たちは現日本政府の体制変革(レジームチェンジ)に反対します」という共同声明文案を出してておられる。私も今の政府がやろうとしていることは「クーデター」だと思う。

 gonさんへの賛同表明として、1月4日付けのエントリを再掲しておく。

◇◇再掲/安倍「改憲」内閣は右派クーデターを目指す◇◇

夕刊各紙を買い集めて来たら、何処にも出ていました、安倍首相の「年頭記者会見」の記事(おそらくテレビでも報道されたのだろうが、私はテレビはほとんど観ないので……)。

 この会見で、首相は「安倍政権のうちに改憲を目指す」ことを表明した。むろん彼は前々から何とかの一つ覚えのように「ケンポーカイセー、ケンポーカイセー」と繰り返している。だからいちいち驚く話でもないのだが、まあ庶民の一人としては彼の発言に毎度神経が反応する。このブログでも 「安倍改憲内閣、宣戦布告す」など、いくつかの記事を書いたように思う。

 むろん改憲の話だけしたわけではなく、ほかにも「教育再生(新しい教育基本法にのっとり、教育再生会議で具体案をまとめて必要な法改正をおこなう)」、「社会保険庁の廃止、解体、6分割」、「景気回復(成長戦略を推し進め、かつ競争力を高めて強い経済を目指す)」など、いわゆる「抱負」をさまざまに語ったそうだ。さらっと聞き流せば何と言うこともない――よく政治家などが並べる綺麗げなお題目だが、読めば読むほど胡散臭さを感じる、と言うかヒヤリとする。たとえば「競争力」「強い」などの言葉ひとつとっても、いかにも新自由主義の信奉者らしい臭いが満ち満ちているではないか。   

 だがやはり、何と言っても焦点は「改憲宣言」(教育や経済、医療福祉などに関する問題は二の次と言っているわけではない。すべてはリンクしており、その象徴が改憲であるように……ふと感じられた、ということである)。

 それにしても、内閣総理大臣が憲法改定を「重要課題」として挙げるというのは、いったいどういうことだろう――と、ごく素朴に思う。もちろん一国の憲法は、「何が何でも変えてはならない」ものではない。場合によっては、新しい憲法を制定する必要もある。だが、それは「よほどの場合」のはずである。たとえば革命によって体制がひっくり返ったとか、憲法があまりに不備または国民の不幸の源泉であるために国民の不満が噴出たとか。

 誰も不都合を感じていない――いや、そう言うのは乱暴かも知れない、一部の人を除いては不都合を感じていない、と言い直そう。ともかく大多数の国民は何ら不都合を感じず、むしろそれを守られているという感覚の強い憲法を、なぜ今、変えようとシャカリキにならねばならないのか。私たちはその「原点」の部分を、いま一度よく考えてみるべきだと思う。誰も不都合を感じていないものを強引に「変えなければ」と言いつのるのは、畢竟、「国の姿」を変えたいからだ。これはクーデターである。クーデターというと、軍が蜂起して……的なイメージが強いかも知れないが、こういう一見穏やかな?クーデターもあるのだ。

 首相は、今夏の参院選でも改憲を訴えると断言した。参院選は憲法選挙になるわけだ。一昨年の郵政民営化選挙(と、小泉内閣が勝手に位置づけたわけだが)より、はるかに国民の性根を問われる選挙になる。

 さて、あなたは憲法を変えたいですか。与党は「新しい時代にふさわしい憲法を」などとほざいているけれども、人間のモラルに古いも新しいもあるか。憲法はいわば「国の根幹のモラル」を規定するもの。それをころころ変えていいのかどうか。

 国民の大多数が、よくよく考えた末に「強い国」「他国の国民を踏みにじっても豊かになりたい国」「武力にものを言わせる国」を選択したいというのなら、何をか言わんや。私はさっさと日本を脱出します……と言いたいところだが日本以外で食って行ける自信がないので、人の世に背を向けて世捨て人にでもなります。税金なんか払わんぞ。生涯、猫一匹肩に乗せて流浪するぞ。

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「留学生の素朴な疑問」に答えてみた

2007-04-24 22:55:12 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 luxemburgさんが、自宅で預かった短期留学生から出た「素朴な疑問」を紹介しておられる。「私なりに全て答えたが、非常に難しかった」そうだ。「Under the Sunの皆さんならこれらの問題にどのようにお答えになるだろうか」という一文もあったので、Under the Sunの隅っこにいる1人として私もちょっと考えてみた。熟考したわけではなく、考えている途上なのだけれども、いったん答えを試みる(それぞれの質問についての詳しい説明は、上記のエントリをお読み下さい)。

1. どうしてみんな制限速度を守らないのか
 
 これは私にとって、今まで考えてもみなかった問題だった。ひとつには自分が車を運転する習慣がないため、実感としてわからないということもある。したがってどう考えればいいか迷うのだけれども……。もしかすると日本では、「法律はオカミの都合で勝手に決めているものであり、国民とはあまり関係ない」という感覚が底流に流れているのかも知れない。あっ、そう考えれば政治に対する関心の低さも頷けるなぁ。

2. 憲法9条というモデルは日本に成功をもたらしたと考えられるが、どういう必要があって変えるのか
 変えたい理由は、堂々と軍事力を持ちたいからだ(現在もむろん実質的には軍事力はもっているのだけれども)。集団的自衛権とやらを正当化したいと思っているのだ。だが、積極的に「変えたい」「変える必要がある」と思っている人達は、そんなに多くない。大多数は、変える必要性を感じていないと思う。どんなことでも「今、現在あるもの」を変えようとする声が大きく響くのは当たり前で(今のままでいいんじゃないの? と思っている人は特に大声を上げたりしない)、それは決して多数の声ではないことを世界に訴えたい。

3. どうして安倍は明らかに日本の威信を傷つけるとわかりながら、従軍慰安婦などの問題であのようなことを言うのか
 威信を傷つけるなどとは思っていないから、言うのである。彼は逆に、過去の過ちを認めれば威信が傷つくと思っているのだ。よく考えれば変な話だが、「自分が間違っていた」の一言が言えず、かえって何だかんだと屁理屈をこねて強引に「自分が正しい」ことにしてしまう人間は(日本だけではなく、おそらく世界中に)時々いる。ちょっとでも弱味を見せるのがイヤなのだ。それは本当はひ弱な人間であることの証拠なのだけれども。こういう首相を持つことは、日本の恥である。  

4. 日本はどうして死刑を廃止しないのか
 死刑廃止を訴える声も多いのだが、いまだ廃止への道は遠い感もある。なぜだろう。……おそらく「悪いことをすれば罰を受けるのは当然」で、特に悪いことの極みである殺人を犯した場合などは「自分の命で償うべき」という感覚が根底にあるのだろうか。そして死刑廃止を言う場合のひとつの理由は「国家に、人間の命を奪う権利まで与えていない」ということなのだが、その観点は抜け落ちることが多い。「国家と個人」を対峙させて考える習慣があまりないせいかも知れない。 

5. 何故石原を選ぶのか
 石原は200万票を超える得票数で当選したが、東京都の有権者数は1000万余。つまり石原を「支持」しているのは都民の20%程度である。残りは反石原か、もしくは「カンケーねぇよ」。問題は次の疑問にもある「投票率の低さ」だ。

6. 何故日本の選挙はここまで投票率が低いのか
 まさしく、「どうでもいい」と思っている人が多いのだろう。政治に何か期待するのは間違いだ、何を言ってもムダさとか、勝手にやってろと思っているのだ。

7. 日本人はNHKを公正と信じているのか
 多分、公正だなどとは思っていない。というと言い過ぎかも知れないが、無条件に信じているわけではないと思う。

8. 何故大学生は勉強しないのか
 私も勉強しない学生だったから恥じ入るばかりだが……ひとつ言えるのは日本の場合、小学校からずっと勉強というのは「つまらないもの」だからかも知れない(いや、おもしろい面もあるのだけれども)。「なぜなのか」「自分はどう思うか」とゆっくり考える余裕なく、慌ただしく「知識」を詰め込む。あまりおもしろくないけれども、やっておかないと将来苦労するよとか、やっておかないと損するよと言われて義務としてやり、その延長で大学にも行く……からではないだろうか。勉強というのは義務ではなく権利なのだとわかったとき、大学生も勉強するようになると私は思う。

◇◇◇◇◇

「最終的に彼の一番大きな疑問は、どうして日本人はここまで悪い政治に黙っているのか、ということであった」と、luxemburgさんは終わりの方で書いておられた。

 うーん、なぜだろう。もしかすると日本人はかなりのニヒリストなのだろうか。「こんな国、どうなってもいい」と思っているのだろうか。これはちょっと落ち着いて考えてみよう……。

 

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「恩」という言葉のまやかし

2007-04-23 23:55:36 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 ごくたまに、古いエントリに対するコメントが入ることがある。何か月も前の記事をわざわざ読んでもらって有り難い――と言いたいところだが、たいていは非難的コメントというところがおもしろいと言うか何と言うか(いや、むろん批判は大いにして欲しいし、場合によっては非難もいいのだけれども、議論の余地無し的なものはちょっと)。

 昨年8月15日付けのエントリ(小泉首相の靖国参拝に関するエントリ)に、次のようなコメントが入っていた。コメントのタイトルは「恩知らず」。

【日本人として、当たり前の事です。 後世の為に命を落とされた英霊に、感謝する。 なんだかんだ理屈をくっつけて、これが出来ない日本人は単なる恩知らずです。自分が自分だけで生きていると錯覚している、たんなる思い上がりです。】

◇◇◇◇◇◇

 正直なところ目が点になったような気分である。まず、そのエントリの中の一部を再掲する。これは上記のコメントに対する私の答えでもある。

【靖国神社は(行かれたことのある方はおわかりと思うが)ひとことで言えば「国のために命を捧げた人達(英霊)」を祀る神社である。国のために命を捧げて何が悪いか、という人もいるだろう。私はそういう考え方を一方的に否定しようとは思わないが、しかし第二次大戦の戦死者の人達の多くは、「国に殺された」のだと私は思っている。いやいや徴兵された人達もいる。勇んで戦場に行った人達の中にも、「それが正しい」といわば洗脳された結果であったりもした。無理矢理に命を捧げさせられ、それを美化されれば、むしろ彼らの魂は浮かばれまい。】

【私達は、「靖国神社」という「特殊な思想(注)に支えられた組織」のありようを認め、その思想でもって戦死者達が祀られていることを是とする人物を首相にしてるのだと、あらためて肝に銘ずるべきなのだ。「8月15日の参拝」は、あの日葬られた亡霊を「実は間違ってなかったんだよ」と囁く、靖国神社の思想への賛同表明であると私は思う。】(注=東京裁判を否定し、あの戦争は間違っていなかったのだという視点に立つ思想)

◇◇◇◇◇◇

 私は戦死した人達をバカにしたり貶める気はないし、個々の兵士をひとりひとり人間として否定する気もない。冥福を祈りたいとも思う。彼らは戦場に引っ張り出され、国に殺されたのだ。哀惜の念を持つのはいわば当然のことなのだが、だからといって美化してはいけない。

 死者に鞭打つなという言葉がある。死んだ人の悪口は言わない、という習慣めいたものもある。内心「早く死ね」と思っていた相手でも、死ねば「惜しい人を亡くしました」的な言葉で弔う。それが死者への礼儀だと思われているようだ。そういう習慣との絡みで、「戦死した人のことを、無駄死にと言っちゃいけない」と思われているのかも知れない。だが、それが本当に死者への礼儀だろうか。

 親兄弟や先祖がやったことでも、尊敬する人や親しい友人がやったことでも、過ちは過ち、である。身内だから、親しい人間だからといって隠したりごまかしたりして、あまつさえ「正しいことだった」とねじ曲げるのはかえって礼に反する。過ちや愚行がなされればそれを認め、繰り返さないようにするのが真の意味の「恩返し」ではあるまいか。

 いわゆる「英霊」は、感謝されたいと思っているだろうか。第二次大戦で命を落としたのはむろん兵士達だけではない。空襲で亡くなった人、原爆投下によって亡くなった人達。集団自決に追い込まれた、沖縄や満州開拓団の人達……等々、彼らは感謝されたいと思っているかと考えれば答えは明らかだ。兵士とその他の人達は違うって? 基本的には違いませんよ。戦場で「敵」を殺したかどうかなどの点はもちろん違うけれども、どちらも――何度も言うが、国によって、無くさなくてもいい命を無くさせられたのだ。私達が彼らに言う言葉は、「(死んでくれて)ありがとう」ではなく、「(死なせて)申し訳ありません。二度とこんなことが起こらないよう努力します」であるはずだ。

 

「息苦しい社会はイヤだ」というブロガーの輪、Under the Sun に参加しています。

 戸倉多香子さんを応援しています。(戸倉さんには申し訳ないが、民主党は支持していません。ただしもう少し何とかしろという意味を込めて、貴女を応援します)

 

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これは私の「原罪」

2007-04-19 23:49:19 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 ドタバタしているので(って、いつもだなぁ……)ものを考えるためのメモ書きのみ。

 私は確信犯的な無神論者だから、原罪なんぞという言葉を使うことにひどく忸怩たるものがある。でもやっぱり、原罪とでも呼ばねば他に呼び方のない戦慄もあるのだ。死んでも許されないだろうなというおののき。私の命など二乗どころか、百乗したって許されないだろうな……。

 もう1週間以上も前になるが……luxemburgさんのエントリ「日本軍による性奴隷問題、安倍訪米でどうなるのか」の中で、森村誠一著『悪魔の飽食』に触れられていた。それに対して私が入れた、辛い本だったという簡単なコメントに対して――「どんなにショックでも国民がこれにきちんと正面から向き合わなければと思います」という返事が書かれていた。そう……向き合わねばならないことが、これでもかというほど立ち現れる。眠ることさえも許されないほどの恥ずかしさ。

 ごめんなさい、生きていてもいいですか。そう言えば敬愛する お玉さん が好きだという中島みゆきの、その歌のひとつに『生きていてもいいですか』というタイトルのものがあったように思う(違ったっけか)。ごめんねごめんね、私が無神経に踏んでしまった無数の足達よ。そして私の親たちや祖父母達が踏んでしまった足達よ。二度と踏まないよう、感覚を研ぎ澄ましていきたいと思う。いや、性懲りもなく何度も踏んでしまうかも知れないけれども、それは人間として恥ずかしいことだということだけは忘れないでおきたい。あ、踏んだかなと思ったら、すぐにゴメンネと言い、自分の言動を検証する程度の勇気は持ちたい。

 長崎市長の伊藤氏が銃で殺された。何か言おうとしても、言葉が出てこない。報道に接した瞬間、17年前に同じく長崎市長だった本島氏が襲撃された時のことをありありと思い出して思考停止に陥ってしまったのだ……。天皇に戦争責任があると思うと言ったことで、本島氏は右翼に殺されかけたのだった。あの時の衝撃は、今も心の隅っこに尾を引いている。伊藤氏狙撃は思想的な背景とは密接に結びついていないかも知れないが(そのあたりは不明。今週はむやみに多忙で、情報を集めたりゆっくり考えたりしている時間がなかった)、それでも「気にくわない奴は抹殺せよ」という短絡的な思考と行動によって「殺害された」のだということだけは間違いない。それは誤っているのだということを、人間は血を流しながら学び続けてきたはずなのに。

 ひとを殺すという究極の暴行がおこなわれた、(むろんピッタリ同じではないけれども)ほぼ同じ時期に少年法改正案が強行採決された。教育基本法、国民投票法……エトセトラ。畳みかけるように連続する強行採決のおぞましさ。この国は、いつから独裁政権になったのだろう。それを許し、指くわえて見ていることも、私の原罪なのだと眠れぬ夜に思う。

 自らのブログに『美しい季節とは誰にも言わせまい』というタイトルをつけたのはnizanさん だ(私はこのブログのファンである。私などがグシャグシャと考えあぐねて堂々巡りしていることを、ユーモア感覚※に満ちた言葉で鋭く切り取る。もし読まれていない方があったら、ぜひどうぞ。お勧めである)。ポール・ニザンが美しいと言わせまいと叫んだのは二十歳という季節のこと。私はこれを十七だか十八だかで読み、その二十歳に満たない年齢ゆえにピュアに反応したのだけれども……二十歳が遠く去るにつれ、その言葉に対する苦みがいや増した。刻々と遠ざかりつつある青愁の日を悼みながら、やがて死ぬときに自分は生まれてこなかったほうがよかったのだとだけは叫びたくない。羞恥のあまり、私の死に顔を覆ってくれと泣くことだけはしたくない。二十も三十も四十も五十も六十も(以下略)、美しい季節でなどあろうはずがない。

※ユーモア感覚、という言葉に他意はない。感性の余裕、という感じだろうか。私もああいう文章書きたいと思うが、背伸びしても仕方ないんでまあ私は私なりに(恥)。

◇◇◇◇◇

 脈絡ない文章になった。ひょっとして読んでくださった方があったら、す、すみません……。 

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「憲法問題は関心が低いから最低投票率を設けられない」!?

2007-04-16 23:02:30 | 憲法その他法律

 何と申しましょうか……。

 国民投票法案は16日に参院本会議で審議入りした。その席上で簗瀬進議員(民主党)の質問に対して自民党の党憲法調査会会長・保岡興治衆議院議員が答弁に立ち、最低投票率について「国民の関心の薄い憲法改正においては最低基準に達しない可能性がある」と言ったそうだ。

「な、なぬ???」と耳を疑ったのは、私だけではあるまい。はン、関心の薄い問題だから投票する人は少ないだろう、だから最低投票率の設定はできないのだ――という意味ですか。どれほど与党の言い分を好意的に解釈したい人にも、そうとしか聞こえないはずだ。違いますかね。

 憲法というのは国の「基本方針」を決めるもの。この国をどんなふうに形作りたいか、どんな方向を目指したいかを規定するものである。学校でいえば建学の精神に相当する。不磨の大典などとは言わない。必要があれば変えてもかまわないとは思うけれども、変えるのは「よほどの時」である。まずは、革命なりクーデターなりによって国の形態が変わったとき(もし天皇制が廃止されたら、当然いまの憲法は変えざるを得ませんね)。それから多くの国民がその憲法によって不利益を被り、変えたいと悲鳴を上げた時だ。「何十年も変えていないから」と、いじくるものではあるまい。車やパソコンのモデル・チェンジじゃあるまいし。やや言葉が古いというのは確かかも知れないが、源氏物語ふうの、古語辞典と首っ引きでなければわからない文章ではない。誰でも意味はよくわかる。いいじゃないですか、それで。少なくとも私は何ら支障を感じていない。言葉というものは表層的な部分などは刻々と変わるが、一見古くさく見えようとも根幹の部分はおいそれと変わるものではないのだ。そんな、安っぽいものじゃあない。

 憲法を変えて欲しい、変えてもらわなければ我々は苦痛で耐えられない――と叫んでいる国民が、いったいどれだけいるのか。むろんいるでしょう、いるでしょうけれども、それが大多数だとは私は思わない。

 憲法に関して、国民の関心が薄い――というのは、ある意味で事実だと思う。だがそれは憲法が国民の間に浸透し、国民がその憲法に安心して身を委ねている証左でもある。たとえば人間関係においても、ピリピリと意識するのは疑念を持つ時、そして危機に瀕した時だ。さして問題がなければ、ことさらには意識しない(意識することが正しいのかどうか、常に意識しておくべきかどうか、さらに言えば意識しておくことの意味などについては、話が別である)。普段は特に考えもしないけれども、深層意識の中にしっかりと根付いている。基本方針というのは、元来がそういうものである。

 その「国民の多くが合意している国の基本方針」を、安倍政権は強引に変えようとしている。関心が薄い(と言うより、私の感覚では空気のように自然に共有されている)憲法の精神を、やみくもにドブに叩き込もうとしているのだ。脈々と息づいてきた庶民の感覚を強姦しようとしている、と言ってもいい(強姦なんて言葉を使うと、またしても18禁系TBが殺到するかなあ……ほんと、いい加減にしてくれ。削除するのは結構面倒、というか時間を無駄にしている感じに苛まれるんだからね)。

 関心が薄いから、最低投票率の基準に達しない可能性がある? はい、よく言ってくれました。これは安倍政権の正体をまざまざと見せる言葉であると私は思う。国民があまり関心持たないうちに、ドサクサ紛れに何もかもやってしまおうという。

 改憲がこの国の未来にとってプラスであると本当に思っているなら、それこそ「万機公論に決すべし」(わっ、明治初頭の話)。多くの国民が現憲法の精神を無意識のうちに信頼し、とは言っても日々の生活に追われて憲法のことを切羽詰まって考えておれないうちに、ドタバタと改憲しようなんて、そりゃズルイんでないの。

 国会議員のセンセーがたに言う。私はあなたたちに、国のゆくえを勝手に決める権限まで渡したつもりはこれっぽっちもありません。国民をバカにするのはいい加減にした方がいい。民衆は「愚」であるほうが楽なのだろうが、あなたたちが思っているほど、そしてその地平にとどめたいとひそかに願っているほどには愚かではない。ついでに言うと、目覚めた者は一部であり、その目覚めた者達は今なお眠り続けている大衆を啓蒙せねばならない――という熱にも私は組みしない。庶民は、眠り続けてなどいない。怯えおののきながらも、自分とそして自分の子孫達の命にかかわるものとして、この国のゆくえに激しい疑義を呈している――と私は信じる。なぜならば……思い上がりと言われてもいい、いい気なものだと言われてもいい、それでもなお、私は自分もまた庶民のひとりであると確信しているからである。いざとなれば徴兵されて戦場に狩り出され、ちょっと違うよなあと思いながらも流されてしまいかねない庶民、逮捕されて脅されればすぐに震え上がり、ヘコヘコと頭下げて転向してしまうであろう心弱い庶民であると。

 強くありたいと幼い頃から願ったが、ついにこの年まで強くなれなかった。しかしそれだけに、私は死を賭けて志を貫く人間に憧れると共に、脅されてつい逃げてしまう人々に限りない哀惜の念を持つ。私を含めたそんな人々を、断崖に追いつめるような国だけは許せないと思うのである。

 

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私にとってのブログの意味(再)

2007-04-15 23:37:26 | このブログについて

「再出発日記」のKUMAさんから、「悩んでいます『ブログに力はあるか』」というエントリをTBしていただいた。私はヒトからよく風邪を伝染されるが、悩みも伝染りやすいたちである。むろん悩みったって深いものでも何でもないし、すぐ忘れてしまったりするから、悩むというより「ちょっとギクッとして引っかかる」と言った方がいいかも知れないが。

 ブログ……う~ん、ブログねえ。普段はほとんどナンも考えずにいるけれども、それでも何度か(少しだけ)考えて、書いてみたことはある。比較的新しいもの(と言っても去年の10月4日。げ、もう半年も前ではないか)を再掲しておこう。KUMAさん、答えにも何もなってませんが、貴兄のエントリを読んで刺激されたということで……。

◇◇◇私にとってのブログの意味(以下、そのままコピー)

〈明け方の書斎(仕事部屋)にて〉

――明けるのか、明けぬのか――この宵闇に、誰がいったい私を起こした。――(誰かの詩の一節)

 午前6時過ぎ。夜がしらじらと明け、窓の外では雨に濡れた落葉樹の梢が恥じるように頭を垂れている……。ついこの間まで、この時間には既に日中の暑さを予告するような抑えた熱気が窓を叩いていた。その頃からまだ1か月と経っていないのに、空気は確実に冬へ向かって衣替えを始めているではないか。おう、季節よ。ひとのいとなみなど笑い飛ばして太古から繰り返してきた季節のペエジよ。冬の時代を予感しておののくヒトの吐息を、おまえは知っているのか。おう、季節よ。憎しみと裏切りのつづれ織りをはねのけて、おまえは未生の愛を囁くのか。

 私はたいてい8時半頃まで寝ている人間だが(飛び起きて顔を洗いコーヒーを飲み、ドタバタ飛び出すという生活が長年続いているのだ。ちなみに私が大学を出て就職した先は始業時間10時。交通の便を最優先して住まいを選んだので、9時半に出れば間に合ったのである)、今日は仕事の都合で朝7時に家を出ねばならない。その準備で4時頃まで起きていたので、そのままついでに本を読みながら徹夜をしてしまった(2時間強の仮眠で起きるというのは、けっこう辛いのである)。パタリと本を閉じた瞬間に私の袖にしがみついた、まとまりもつかぬおぼろな想念を(かなり慌ただしくではあるが)メモしておこう。

〈私にとってブログとは〉

 ブログについての考え方は、ブロガーごとにそれこそ千差万別であろう。それが当たり前だ。

 私の場合で言えば下書きは一切せず、思いつくままに書き留めておく覚え書きである。(多くの場合、酔ってもいる。1日の労働を終え、明日の仕事の準備もし終えてホッと一息ついた夜中に書くものだから、自然にそうなる。おかげで誤変換も多々)。実は今も「美しい日本語を殺すな」という記事を書こうと思って、その前にヒトコト書き留めておきたくなったのである(日本語うんぬんのエントリは、時間の余裕があれば今夜にでも)。

 何かの問題について論考しようとか、大々的に世の中に訴えようなんて大それたことなんざ思ってやしない。ふと思いついたことをメモし、友人達に暇がある時に見てもらい、共に考えていければ――というだけのことだ。みんなそれぞれに忙しいから、是非読めと押しつける気もさらさらない。読んでもらえればラッキイ、という程度である。

 だから本来は個人通信のような形で、限られた友人だけに配信する方がいいのかも知れない。実際、「○○通信」と名付けたものを定期的にメールで送ってくる友人も3人ほどいる。「実際に顔を合わせて言葉をかわし、(思想信条は少しずつ違うけれども)響きあう部分があった友達だけに読んでもらえばいい」というのが彼らのスタンスだ。

 私も、そのような形式を採った方がよかったのかも知れない。別に、全世界に向けて発信しようなどとは思ってもいないし、庶民のネゴトに過ぎない私のメモで世の中を動かせるなんて、勘違い的なことなんざ1ミリも思っちゃあいない。ましてや、ネット上のコミュニケーションに全幅の信頼を置いているわけでもない。

 私は――もしかすると子供の時からパソコンを使いこなしていた世代ではないからかも知れないが、人間が本気でコミュニケーションできる範囲はそんなに広くない、と思ってもいるのだ。私はこのブログで既に何度も書いているように、マスコミの片隅で働いている人間である。社会人になって以来ずっと、幻のような「(想定された)読者」を相手にして語りかける仕事を続けている中で、次第に「コミュニケーションという幻影」にうんざりしてきたのかも知れない。コミュニケーションというのは、そんなキレイキレイな甘いもんじゃあねぇ。 

 実際に1年ほど前までは、私にとってインターネットを利用したコミュニケーションというのはMLで意見を流したり、個人通信に対して意見を送ったりする形でしか存在しなかった。むろんそのほか友人との個別のメールのやりとりは始終おこなっていたけれども――要するに「仲間内のコミュニケーションに、インターネットを便利な道具として使っていた」に過ぎない。それで充分だ、と思ってもいたのだ。

 それなのに昨年の衆議院選挙が終わって少し経った頃、私はブログという形で自分の拙い考えを全面公開するに至った。そのことは実のところ、自分でも恥ずかしい。と同時にアホらしくもある。所詮は庶民のネゴト。もっと言えば精神的マスターベーションである。まとまりのつかぬ覚え書きを綴りながら、クククッと嗤う自分がいる。

〈微かな繋がりを求めて〉

 それでも私がほそぼそとブログを続けているのは、やはり私も――微かにではあっても繋がっている仲間、が1人でも多く欲しいからだろう。ブログを始めてから、私は多くの出会いを持った。それはあるいは幻影かも知れないけれども、「一人ではない(らしい)」と知ることの快を私は知った。いや、むろん私にも、実生活上における仲間は何人もいる。しかしみんなそれぞれに自分の生活に忙しいわけだから、常にコンタクトをとり続けているわけにはいかない。そんなことはむろん百も承知であるけれども、はち切れそうなほどに頭を占めている何ものかを聞いて欲しい、一緒に話して欲しいと思う――それが自分自身の中にも存在していることを、ブログを始めて私は初めて思い知った。

 所詮は庶民のネゴトさ――というスタンスは、今も変わっていない。ブログの世界には常時3000、4000……どころか1日1万件に迫るアクセスがあり、オピニオン・リーダーの役割を果たしているカリスマ・ブロガーもいるそうだが、私は逆立ちしてもそんな存在にはなれっこないし、(負け惜しみと言われればそれまでだけれども)なる気もない。私はカリスマというのは危険なものだとも思っているのだ。数人でもいい、いや1人でもいい。忙しいなか読んでくださり、手を差し伸べてくださる友人が得られれば、私はそれだけで本望である。

 そういう「人と人との繋がり」をこそ私は求めていたのだ。こんなことを言うと非常にヤラシイのだけれども、それを抜きにするならば私は本業だけに専念する。今のマスコミは「マスゴミ」などと言われるぐらいでホントなさけない限りなのだが、良心が死に絶えたわけではない。息も絶え絶えな良心を守り育てる仕事に専念した方が、ある意味、よっぽどいいのだ(私は三文ジャーナリストだから自分で企画を立ち上げてキャンペーンを展開する力はないが、パシリの形で協力する程度のことは何とかできる)。だが……こちらで想定した枠組みの中だけで語る時に漏れてくるたくさんの声や思いと連帯したいと切望し、私は1円にもならぬブログを始めた。そしてそろそろ、1年になろうとしている。我ながらあきれたものである。

(以下はコメントの扱いについての話なので、略)

 

 

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国民投票法案/各紙の社説などを読んでみた

2007-04-14 23:17:20 | マスコミの問題

 国民投票法案衆院通過に関する社説や論説を、新聞各紙がいっせいに載せている。活字で読んだのは2紙ほどだが、改憲国民投票法案情報センターのサイトで各紙の社説・論説をまとめて読んだ。

 産経や日経など一部の新聞を除き、少なくとも「与党の横暴」には批判的。可決した与党の法案は改憲のハードルが最も低い、ということをはっきりと、かなり丁寧に書いている新聞も少なくない。「取り上げるの遅すぎ!」とお玉さんの口真似をしたくなるが、まあ何も書かないよりはマシか……。

 一部を紹介しておこう。なお掲載日はすべて4月14日である(上記センターのサイトには、それ以前の社説なども載っている)。

【そもそも急ぐ必要があるのだろうか。最近の世論調査(NHK)では、国民投票法案への賛成は三割弱しかなかった。賛成者でも、今国会にこだわらず時間をかけて論議するべきだと七割が考えている。(中略)(華氏注/憲法改正については)その賛否は分かれるかもしれない。それでも、いま多くの国民が政治に望むのは、たとえば格差解消であり医療や教育の充実だ。「なんとか還元水」に象徴される政治とカネの問題も未解決ではないか▼国民の望み、世論の動向がどこにあろうとも、自らの信念に合わせ力ずくで政治を進めてゆく。このベッドの上で息絶えるのは、おそらく民主主義なのだ。】(北海道新聞)

【法案自体にも問題点が少なくない。憲法改正を承認する「過半数」の母数が、有権者総数や投票総数ではなく、最もハードルの低い「有効投票総数」とされたのである。もっと問題なのは国民投票を有効とする「最低投票率」の規定がないことだ。仮に投票率を40%とすれば、有権者の20%余りの賛成で憲法改正が成立することになる。】(秋田魁新報)

【国会の外からも、有効投票数の二分の一とされた「過半数」の定義の見直しや、最低投票率制度の必要性を強調する意見など、改憲派、護憲派の双方から問題点の指摘が相次いだ。今回の採決は時期尚早の「見切り発車」との批判を免れないだろう。】(山陰中央新報)

【法案処理を急いだ結果、議論のあった最低投票率は定めなかった。投票率がどんなに低くても成立することになる。地方公聴会はわずか二回。それも大阪と新潟で同じ日に開いた。国民的議論があまり盛り上がらないように済ませたとも映る】(中国新聞)

【中立的な手続きルールを定めるだけなのだから、成立は当然だ。遅すぎたぐらいだという論調が、メディアの中にもあることに正直驚く。(中略)憲法改正への第一歩がついに踏み出された。歴史の節目をこんなふうに越えてもいいのか。(中略)防衛庁を省に昇格させ、手続きルールだと言っては改正への国民投票法をつくる。そんな外堀を埋めてから本丸を攻めるような姑息(こそく)な方法で国家百年の計を決めるな。】(東京新聞)

【国民の間に憲法改正を求める声が広がっているわけではない。法案を急いで成立させる必要性はどこにあるのか】(新潟日報)

◇◇◇◇◇

 それにしても思うことは……「強行採決されてから、評論家みたいに喋るんじゃなーいッ」。(いや、むろん以前から取り上げていた新聞もあるが、全体の雰囲気としては可決されて慌てて横並びで批判姿勢を見せた、という感じが否めないのだ)

 私はメディアの役割は社会の動きに神経を尖らせ、庶民の代理として「知っておくべきこと」を取材し、報道することだと思っている。権力側が隠そうとしていること、ごまかそうとしていることを、広く知らせることだと思っている(むろん娯楽的な側面などもあり、それはそれでいい。人間、24時間緊張はしていられないのだから)。だから昔は「社会の木鐸」などと言われていたのだ(古いなぁ)。いつから新聞は評論家になってしまったのだろう。

 社説で【あれよあれよという間にもうここまで来たか…という印象である】と書いていたのは、宮崎日日新聞。これにはつい笑ってしまった。あれよあれよという間に、ってねえ。あなた達は情報の収集にかけては国民ひとりひとりとは比べものにならないほど、たけているはずでしょう。もちろん現代は個人でもその気になれば相当の情報が集められるが、個々人が全国津々浦々取材して回ることはできない。会える相手も、読める資料も限られている。メディアは「その代理人」であるという意識を忘れてはならないと思う……。

 少々ガックリしながらも、なお私は「メディアへの叱咤激励」を続けたい。「憲法改正をしたいがために、議会制民主主義を踏みにじっても国民投票法案を通す。その与党の暴挙に対して社説等で抗議されたことを嬉しく思います。しかし、それだけでジャーナリズムの責務を果たしたと思って欲しくありません。同法案の問題点などを、さまざまに工夫してわかりやすく報道していただけることを切に望みます」という簡単なメールを、各新聞社に送った。

◇◇◇◇◇

 民主党にももう少しシッカリしてほしいという願いをこめて、戸倉多香子さんを応援しています。

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国民投票法案、委員会で可決

2007-04-12 23:33:25 | 憲法その他法律

 国民投票法案(壊憲法案、もしくは改憲準備法案)が、衆院憲法調査特別委員会で可決された。採決前提の審議には応じられないとして国民新党が途中退席するなどの野党の抵抗も蛙の面に何とやら、強行に押し切ったのである。与党は明日衆院本会議で可決し、参院へ送ると「決め」ている。

 国民投票法というのが必要なもの、あった方がいいものだったとししても、無理矢理に通すのは議会制民主主義を踏みにじる行為。私は民主主義の理想は直接民主制だと思っているが、現実問題として集団に属するメンバーがいちいち集まって話し合うわけにはいかない。だから私達は次善の策として、代理人を議会に送っているのだ。ただそれだけのことであり、国会議員のセンセー達に暴走する権限まで与えた覚えはない。

 国民投票法案について、新聞などはさほど大々的に報道していない。むろん少しずつは報道していたけれども、どちらかと言えば地味な扱いだったように思う(地方新聞まで丁寧にチェックすれば、執拗に大々的な報道をしてきたところもあるかも知れないが)。明日の日本の行方にかかわる、大特集を組むべきテーマなのに。

 ……とイライラしている時に、ペガサスさんがブログで紹介されている、佐賀新聞の社説を読んだ(11日の紙面)。タイトルは「国民投票法案 このままでは通せない」。国民投票法案の採決に反対する、と明確に書いたものである。

【党修正案では「白票は無効票とし、有効投票総数の過半数の賛成で成立」することになっている。ここでは「有権者の過半数」とすることや「無効票を含めた投票総数の過半数」とすることもあり得た。改正のためのハードルとしては最も低い方法が選ばれたわけだ。法案には最低投票率の規定がない。このため仮に投票率が50%だった場合、全投票権者の半数の過半数、つまり4分の1の賛成で憲法が改正される。これは白票がゼロとしての場合で、白票は無効票なのだから、もっと少ない賛成で改正に至る。憲法改正は高度な判断力が必要で、「分からない」「どちらとも決めかねる」という白票も当然多いことが予想される。だが現状では白票の扱いや、最低投票率規定はいらないのかなど、納得いく論議にはなっていない。】(社説の一部を引用)

「改正のための最も低いハードルが選ばれた」という歴とした事実を、マスメディアは大きく知らせる義務があると私は思う。

 村野瀬さんが、「与党による4月12日の国会運営の暴走に歯止めをかける電話、ファクス、メールを!」と呼びかけておられた。国会議員に対する電話等による抗議はまだまだ必要だが、私は同時に、各メディアにも「はっきりと報道して欲しい」と要請したいと思う。新聞、雑誌に読者の声を伝える窓口は村野瀬さんが2月7日にリストアップしてくださっている。地方新聞の窓口は私のこちらのエントリの後ろにも付けており、地方新聞の分だけ知りたければ短くて便利かも知れない。自由に使ってください。


 

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「紅旗征戎はわがことにあらず」……そりゃ言ってみたいよアタシも

2007-04-11 23:31:39 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 本日の寝言。もし読んでくださる方がおられたら、なにとぞ寝言とご承知の上で。

 タイトルは御存知、藤原定家の言葉。そりゃ言ってみたいですよ私も。……というか、そう吐き捨てられたらどんなにいいかと常に思う。もともと本読んでフィクションの世界を漂ってりゃハッピーで、できれば山頭火みたいに生きられたらどんなにいいだろうと思い、そのくせ山頭火になれなかった自分のヘタレがよくよくわかっているから、それならば自分のアホさ加減と向き合ってボチボチ生きていくしかないかと泣き泣き断念した。査証なき惑星になりきれない以上、日常のことどもに真面目に向き合うしかないのだと、あるとき芯から思い知った。随分昔……のことだけれども。ある「なし崩しの敗北」に打ちのめされた時、私は自分が「なんぼのものでもない」存在であり、だからこそ愛しいのだということを思い知った。私はアホや、だからアホの気持ちは泣けるほどわかるんや。でもなんぼアホでも生きていていたいんや、明日を夢見たいんや……と、これだけは掛け値なく思い知った。

 これもかなり前のことだが、難民キャンプで何かできることがあればやりたい、とかなり真剣に思ったことがある(私は家族というしがらみから逃げ続けてきた人間なので、その意味では身軽なのだ)。だが仲間や知人達にその相談した時……「あんたが行っても邪魔なだけ」と言われてしまった。医師や看護師であれば働く場があるし、それ以外でも何らかの専門的な技術や知識を持っていれば役に立つ。神父などの宗教者も、有用である。でも何もない人間に来て貰っても、正直なところ足手まといなのだと。

 それらの返事を聞いて落胆する一方で――自分の卑劣さにひそかに涙が出るのだけれども――ある一面、ホッとしたことも歴然とした事実。私はいわゆる自由業、と言えば聞こえはいいけれども「飢え死ぬのも自由だぜ」と言われている人間だけれども、それでもこの日本で生きている限り、何とか食べては行ける。そのヌクヌクした場をすべて放擲できるかと真っ正面から問われれば、私は言葉を失って立ち尽くしただろう。危うい砂上の楼閣であっても、失うのはやはり怖かったのだ。

 そう……覚悟も何もなく、ただ単に卑怯者と言われたくなく、自分も少しは他者の役に立ったと思いたく、それだけの思いに突き動かされていただけなのだ。そんな自分を、私は自らが生きていたということ自体が壮大な恥辱であると思わざるを得ないほど恥ずかしい。どうせポーズだろ、安逸な場にいて綺麗なことを言ってるだけだろ、という声が今も私を責め続ける。

 ブログなどという柄にもないものを始め、さらに柄にもなく「しゃかいじょうせい」に対する意見など書き込みながら、常に私は引き裂かれている。あたしゃそんなえらそうなこと言える人間ではないのです、ほんと、いつも逃げ出すことばかり考えているのだから。ゴメンナサイ、カンベンしてください。でもそうやって見えない相手にヘコヘコ頭下げながら、私は私だと囁くものが確かに私の奥底に棲む。

 円心に向かって収束していこうとする感覚と外に向かおうとする感覚の間で引き裂かれながら、どちらにも全身を委ねることが出来ず、しじゅう軸足がブレ続けた私への、これは罰だろうか。未来永劫おまえは許されないのだという緋文字だろうか。

 ネットというある意味でのイリュージョンの世界で、寝言を吐き続ける自分を嫌悪する自分がある。

【飢えて泣く子の前で、文学は何の役に立つか】

 という言葉がある。10代の私はこれに衝撃を受けて、「本読んでりゃ幸せ」の自分を絞め殺してやりたいほど恥じた。そしてそれが、私を(薄っぺらであるかも知れないけれども)政治運動に駆り立てた。柄にもないことはするな、と友人達にあるいは冷笑され、あるいは必死の形相で引きとめられつつ……。

 この問いに対する答えは、まだ見付けることが出来ない。そして「引き裂かれ」に対する答えも、また。

 酔いながら、不意に寺山修司の短歌を思い出した。

【吸ひさしの煙草で北を指すときの 北暗ければ 望郷ならず】

 私は寺山の作品が好きで、特に短歌が好きで、それについては1年以上も前に「好きだった本を思い出してみる・2」というメモ的な文章を書いたこともある。これは私の原点のひとつ(あくまでも、「ひとつ」に過ぎないのだが)である。(注)

 望郷ならず。

注/何年か前、新宿のゴールデン街(すんません、地域限定的な話で。……飲み屋街、と単純に解釈してください)で友人と飲んでいて、何となく寺山修司の話になった。私もその友人も寺山修司に幾分かずつのシンパシィがあり、ああでもない、こうでもないとグシャグシャ話をしてたのだが、その途中を突然、店のマスターに遮られた。マスターは若い頃、寺山と一緒に活動していたらしい。で、「おまえらみたいな若僧に寺山の神髄がわかるかッ」と叱られてしまった。いや、若僧、なんて言われる年じゃあないんやけどね。一緒に飲んでた友人なんか、子供二人の教育費でアップアップしている、押しも押されもせぬ中年おやぢだったのですが。でもまあ彼から見れば年下のヒヨッコだったのだろう。……で、その時に思ったことがひとつ。「おまえらにわかるか」という言葉が錦の御旗になるとき、どれだけひとを離反させるか。リアルに体験できていなくても、人間はイマジネーションによってそれをまざまざと追体験することができる。それが嘘だというならば小説や物語などには何の値打ちもない。

(自分でも怖いほど酔っております。脈絡のないところは、いずれぼちぼちメモ書きするということでお許しを)

 

 

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都知事解職請求へ

2007-04-08 23:41:18 | 東京都/都知事

みんななかよく」さんではありませんが……すみません、私は都民です……。都民やめたいと何度も思いつつ、引っ越すカイショがなくていまだに都民。

 石原都知事、早々に当確――仕事しながら横目でちらっとテレビを観ると、「世論調査によると、(支持・不支持にかかわらず)都民の75%は政策の見直しをしてほしいと考えていますが」という質問に対し、「いったいどこを見直せと言っているわけですか」ふうのあいかわらず高飛車な答え方をしていた。

 都民のひとりとして、あの御仁にこの先まだ4年も知事の椅子に座っていただくのは耐え難い。私は多くの間違いをやってきたかも知れない。ただ、「石原を都知事の座に居座らせ続けるのは都民の恥」という思いだけはホンモノだったし、その思いはむろん今も消えていない。

 Rolling Beanさんが、「すぐにできることがある、そう考えるしかない」という記事を書いておられた。その中で提案されているのが、次の3つの事項。

(1)十分に満たしているリコールへの要件(←都政として)を踏まえた行動に向けて動く、すぐに。 (2)この高すぎる授業料から参院選でのアクションを考えたい。 (3)ネット界の連携による都政オンブズマンを発足させたい。

 私も、少しずつ、少しずつ……ではあっても、本腰を入れて「解職請求」へ向けて歩き始めたいと思う。石原都知事を、いや、すべての「石原なるもの」を倒すまで「ぺちゃんこにされてもへこたれないぞ」(発作的にヘントフの本の題、パクってしまった……)。

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「うるさい、黙れ」がリーダーシップ?

2007-04-07 01:19:44 | ムルのコーナー

 久しぶりの登場。都の東北をうろつく野良猫・ムルと、その腰巾着で華氏宅の居候・トマシーナ(通称トマ)の会話でございます。(こいつら何だ?と気になる方は、エントリ末尾をご参照のほど)

トマ:ねえ兄貴、人間て「まぞひすと」なのかなぁ?

ムル:な、何だよ、いきなり。おまえ、マゾヒストなんて言葉の意味、わかってんのかよ。

トマ:だってさあ、これ見てよ(と言いながら、前足でしわくちゃになった新聞の切り抜きを広げる)。毎日新聞のさ、世論調査ってやつ。

ムル:ふ~ん。都知事選の世論調査か。なになに、現職の石原優勢……。

【(投票で最も重視する基準で)「公約やマニフェスト」を挙げた人が最も支持するのは、政策の数値目標や達成期限を示している浅野氏だった。これに対し石原氏は、「指導力」を重視する層から7割の支持を集め、依然として「強いリーダーシップ」が評価されている。「経歴や実績」「人柄やイメージ」「改革への意欲」を重視する人からも高い支持を得た。一方、新知事に最も取り組んでほしい課題は、福祉政策が44%でトップ、教育問題30%、雇用・景気対策17%と続いた。浅野氏は厚生官僚の経験から「福祉は私の本籍地」と訴えるが、福祉政策を望む人たちが最も支持するのは石原氏。教育問題に取り組んでほしい層では、学校式典での「日の丸・君が代」徹底を進める石原氏が6割弱の支持を集めた。】(毎日新聞記事より)

トマ:今の都知事を支持する人は、強いリーダーシップを評価してる、っていうけどさあ。……いや、リーダーシップっての、よくわかんないけどね。僕なんか、単に「えらそーな人」っていう印象しか持てないんだけどさ。

ムル:そっ。マッチョの典型だよな。てめぇら、文句あるか~!って人を怒鳴りつけるしか能が無い。自分の息子を「余人をもって代え難い」と言ったそうだけど、実のとこ、自分のことをそう思ってるんだろうなって気がするよな。「うるさい、黙れ」ってブチ切れたりしてさ。まっ、おいら達猫族から見れば、最も理解しがたい存在だよな。

トマ:何かもう、僕なんか素朴に疑問なんだよね。「ごちゃごちゃ言うな、オレの言うこと聞いてりゃいいんだ!」ってこわもてで押し通されて、それを「いいじゃ~ん」と思うなんてさ、やっぱりマゾヒストなんじゃない?

ムル:へっ。マゾヒストか何か知らねぇけどさ、そういうとこ、あるのかも知んねぇなあ。厚かましいほどの大きな声とデカイ態度を示されると、その自信たっぷり具合に思わず「はいはい」と言っちゃう。あ、コイツについてったらとりあえず食いっぱぐれないかも、と思っちゃう。おいら達猫族には信じられないけど、群れ動物にはそういうところがあるのかも知んねぇ。

トマ:人間て、群れ動物なの?

ムル:知んねぇや、そんなこと。おいら達にはどうでもいいことで、勝手にやってろてなもんだしさ。たださぁ、群れ動物じゃないおいら達だって、そういうとこがあるかも知んねぇ。よくわかんないけど自信たっぷりなボス猫が現れてさ、「オレの言うこと聞いてりゃ、エサに困ることねぇぞ」っと喚けばさ、つい「あ、ちょいとついてってみよーかな」と思うだろ? おいらも何度もそういうこと経験したさ(恥)。ま、究極的にはなーんも信じてないご意見無用動物だから、とことん引きずり込まれることはないにしてもよ。つい、ふらふらっとしたりさぁ。

トマ:えらそーに言われるとコロッとなびくって、すっごく悲しい……。

ムル:ふン。おまえも人間と一緒に暮らしてるうちに、妙にセンチメンタリストになりやがったなぁ。

トマ:福祉政策を望む人が石原支持、ってのも、僕はどうしてもわかんないんだよね。ほかの誰を支持するかってのは別として、少なくても現都知事は支持しないんじゃない? と思うんだけどなあ……。

ムル:だからさぁ、「福祉政策だから現都知事」っていうんじゃあねえんだってば。都知事にどんな政策を望むかってのと、誰を都知事に望むかってのは、別の問題なんだよ。世論調査ってのは項目ごとにぶつ切りに聞くし、聞かれた方も慌てて適当に答える面があるから、あんまり信用しちゃいけねぇぜ。設問によって、いくらでも誘導が可能だしよ。その辺のことは、前に華氏も何度か言ってたんじゃなかったっけ(「世論調査の陥穽ということ」、「世論調査のいかがわしさ」など)。ただ、それをきちっと考えた上でなら、世論調査からもいろんなことが見えてくるとおいらは思う。たとえばさあ、おまえが言ってるその新聞の世論調査で言えば、政策として何を重視するか何てのは付け足しなんだよなーとか。

トマ:付け足し?

ムル:だからさぁ、おまえも言ったじゃん。福祉が一番大切だと思うなら、今の都知事殿がベストだなんて誰が思うかよ? まじィ? うっそー、てなもんだよな。共産主義革命を志向するから安倍総理支持します、っていうぐらい、ムチャクチャけったいな話さ。政策の上で何を重視するんなんて、どーでもいいんだよ、ほんとは。

トマ:あ、兄貴もなんか滅茶苦茶になってる……。

ムル:いいじゃんか、猫だもん。都民でもないし国民でもないもん。要するにおいらが言いたいのはだよな、政策とかマニフェストとかはほんとはそんな大事じゃなくて、「強いアナタ」にすがりたいかどうかってことなんだよな。

トマ:だからさぁ、僕は人間てマゾヒストじゃないかって疑ってるわけなの……。

ムル:サディストかマゾヒストか、そんなこたぁ知らねえ。おいらにゃあ、どうでもいいさ。ぶん殴られてコケにされて、それでも「あなたについて行きます~」「捨てないで~」と言いたきゃ、お好きにどうぞってなもんさ。たださあ……そう言っちゃう、てか、言わされちゃう構図って、見るに見かねるよなあ、やっぱし。

トマ:なんでそんなことになるんだろうね、兄貴?

ムル:話してるとむっちゃ長くなりそうだな……。おいら眠くなったから、続きはまたにしようぜ。ともかくこれだけは言っとくけどよ。おまえんちの華氏だって、えらそーなことほざいてるけど、おいらから言わせりゃ完璧なアホだぜ。これだけは譲れないんだってことを、もっとシャキッと自分の中で確認しなきゃ負けるぜ。一生アホやってる気か、って言っとけよな。

◇◇◇◇◇

ムルとトマシーナに関わるエントリ(一部)

世の中、露骨になってきた……」、 「小泉から安倍へ」、 「あなたに守ってもらわない決意」、 「牡猫ムルの人生相談・1――総理大臣の巻」(人生相談は今のところ勝手に5まで続けています)などなど。そのほとんどは(時々間違えてるところもあるかもですが)「ムルのコーナー」に収録。 

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都知事選まであと24時間余

2007-04-06 23:39:06 | 東京都/都知事

 らんきーブログさんが、いみじくも書いておられた。 「『うるさい、黙ってろ!』扱いの都民でいいのですか?」と。「我こそは」意識を漲らせ、気にくわない存在を力でねじ伏せようとする姿勢の持ち主に、これ以上東京を牛耳らせるのは都民のひとりとして耐え難い。その意思表示をする日、4日8日まであと24時間と少し。

 はじめの一歩さんのブログから、既に多くの方(とくらさんとむ丸さんnizanさん、その他)が「東京都知事選から全国の政治を変える!」という記事を転載しておられる。御覧になった方が多いと思うが、1人でも多くの目に触れることを願って、私も前半部分だけだが転載させていただく(全文は上記いずれかのブログを参照)。

◇◇◇◇以下、転載◇◇◇◇

 東京の都知事選の投票が8日にせまっています。

 2期におよんだ高齢の石原知事による都政をこの機会に転換させるべく、皆様にこの記事の転送、ブログ転載をお願いしたいのです。落選運動です。

 石原知事の都政は、ディーゼル車規制や国への対決姿勢などプラスに見える部分もあるものの、あくまでそれは例外。人権無視で好戦的、福祉の著しい後退、そしてその一方で税金の私物化など、筆舌に尽くしがたいひどいものでした。

 銀座に戦車を走らせたことに象徴される彼の都政は、市民社会に必要な、異なる考え・価値観の者が「共生できる寛容」を失わせる「強制による一様性」の政治です。「君が代を歌わない者も存在できる多様性」を処分によって否定する彼の教育行政がその頂点です。これには天皇も苦言を呈する(園遊会)ほどですが、拍車がかかるばかりで見直される気配はありません。

 こうした政治のもとで、障がい者やセクシャル・マイノリティ、在日外国人などのマイノリティはその生を否定され、苦渋にみちた人生を強いられています。人間の尊厳を否定する政治、それが石原都政です。

 また、マイノリティだけでなくマジョリティにも悪政が及んでいます。福祉・保健医療の後退は著しく、保健所につづいて、都立病院も半減させられようとしています。性教育の抑圧により、HIV感染はおそろしい勢いで広がっています。

 さらに困ったことは、こうした悪政が全国へ、そして国政へと影響を及ぼしていることです。

 石原知事は、この3年間でもっとも多く税金による高額接待をした相手である佐々淳行氏を選対本部長に据えました。納税者をなめきっているのです。

 しかし、私たちには希望があります。

◇◇◇◇以下略、転載終わり◇◇◇◇

 とくらさんがブログで掲げておられる言葉を真似れば、「まだ間に合うかも知れない」。やればできる、決して無力ではないということを実感したい。

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忘れることは恥

2007-04-04 00:45:23 | 戦争・軍事/平和

 戦時下を生きた人々の体験については、多くの記録が残されている。聞き書きであったり、書簡や日記であったり、ルポルタージュであったり。国民総動員体制の下で人々が具体的にどんな生活を送ったのか、何を考え何を恐れたのか……等々の詳細を、私はそれらの本によって知った。私は今の若い人達、というか子供達にも、それらを読んで欲しいと思う(むろんじかに体験を聞くことも大切である。体験者は高齢だから、早く聞いておかないと機会を逃しかねない。私自身、東京大空襲については、体験者の人達の話を聞いて追体験することが出来た)。政府が、先の戦争の姿をぼんやりと曖昧な姿に塗り替えようとしている時だからこそ。

 読むものは何でもいい。個々人が最も読みやすいものでいい。ルポルタージュがよみやすいとか、対談みたいなものが読みやすいとか、それぞれに好みの癖があるだろうから。ちなみに私の場合は聞き書きなどもおもしろいけれど、それとは別に、無味乾燥な条例その他を並べた「資料」や、当時の雑誌記事なども結構おもしろかったりする。戦時下の状況を知りたいと思って資料をあさった時は、神田の古本屋街を回ってあの頃の雑誌を随分買ってきたりした。(これだけまとめて買うから安くしてよなどと店主に食い下がり、マケてもらった分で昼ご飯を食べたっけか。いや、これは余談)

 詩歌、というのも心を鋭く切り裂く力がある。たとえば『昭和万葉集』にも過去の日本に対して深い呪詛を込めた歌が幾つもあるし、『非戦のうた』(高崎隆治著、日本評論社)などにも、(芸術的に優れているかどうかは私はわからないが、そんなことは別として)忘れることの出来ない詩歌がたくさんおさめられている。人によっては、そして場合によっては、こういうものを読む方がイマジネーションが刺激され、心揺さぶられるだろう。 

 特に、沖縄戦で何が起きたのか――を知るための資料を、エントリの後ろに「注1」としてランダムに挙げておく(むろんほかにも貴重な資料はたくさんある。これはほんの一部、である)。絶版になっているものが多いので、図書館か古書店で探すほかないのが難だけれども。私は今――あの、沖縄戦の集団自決を「軍の強制はなかった」などと言う政府に対して、「どの面下げて、そんな寝言を」と怒りで青ざめているのだ。

 さまざまな資料を読んでいると、いま素知らぬ顔でヌクヌクと生きている自分を責める声が立ち上る。1945年3月26日に米軍の沖縄上陸が始まり、米軍戦史にさえ「ありったけの地獄をひとつにまとめた」と記載されるほどの、此の世の地獄が出現した。集団自決については「手榴弾を渡されて」という話が衝撃的な事柄としてよく語られるが、自決の方法自体としては、一本の縄に数珠つなぎになり、互いに引き合って死んだ例が多かったという。手榴弾による自決もとてものこと心穏やかには聞けないが、大勢が首を縄を掛け、引き合ってくびれ死んだという構図はさらに恐ろしい。

◇◇◇◇◇

 集団自決と言えば……死を強制されたのは、沖縄の住民だけではなかった。「満州開拓団」の人々の中にも、自決に追い込まれたり(追い込んだのは「国」です、むろん。沖縄戦の場合と同様、別に公文書が出されたとか、そういうわけではないけれど)、子供を殺した人達がいた。たとえば東安省鶏寧県の「哈達河」では465人が自決、村はほぼ全滅したという。

 国策移民として「満州」に渡り、夫のほか、6人のうち4人の子供を失って日本に戻ってきたある女性の体験の聞き書きを読んだことがある(注2)。彼女の子供達は引き上げの途中で餓死したのだが、同じ村では敗戦後に9人の自決者が出、子供を自らの手で殺した人達もいたという。「こうなればみんな一緒に死ぬより仕方ない」「まず各自、自分の子供を始末せよ」と「上」から言われたそうだ。その部分の聞き書きを一部、引用しておく。

「子どもを始末せよ、と言われたってねえ、どうやって殺せばいいだか……。みんなおろおろと顔を見合わせていたとき、むかし看護婦さんやってた奥さんが、子どもを殺すなんて簡単ですよっていうんです。見ててくださいっていって、二尺ばかりのひもを取り出すと、そばにいた5つの男の子をひざに抱いて、あっというまに締めちゃったの。そしてさっとひもをはずすと、今度は3つの子の首に巻いて……。ほんとうにあっけないもんだね(略)それでみんな、腰ひもをほどいて真似して子どもの首を締めたんだけれども、なかなかその奥さんみたいにはうまくいかないの。子どもは鼻血出して苦しがってバタバタあばれるし……」

 自決と言っても、実際のところは子供を抱きしめた女や老人、つまり足手まといになる人々に向かって男達が銃を乱射したという例もあり、要するに集団殺戮がおこなわれたのだ。

 先述した「沖縄戦の集団自決」で奇跡的に助かった女性が、戦後40年近くを経てから重い口を開いてこう言った。「戦争はおそろしいけど、死を美化して、死ぬことを何とも思わぬ人間を作ることはさらにおそろしい」。また、別の女性は、こう言っている。「いったん戦場になったら、軍隊は決して住民を守ることはない。それどころか軍隊がいるために悲劇を招く」。これは『校庭は戦場になった』に収録された聞き書きである。

「死ぬことを何とも思わぬ人間を作ることはおそろしい」――この言葉を、私は忘れまいと思う。戦後はまだ終わっていない。

注1/『ドキュメント昭和史』(平凡社)、『一億人の昭和史』(毎日新聞社)、『沖縄の証言』(名嘉正八郎・谷川健一著、中央公論社)、『校庭は墓場になった』(退職婦人教職員全国連絡会編、ドメス出版)、『いくさ世(ゆう)を生きて――沖縄戦の女たち』(真尾悦子著、ミネルヴァ書房)など。

注2/『女たちの〈銃後〉』(加納実紀代著、インパクト出版)。なお同著の中では、この語り手の姓名などもはっきり書かれている。

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コメント (2)
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そうなのだ、「悲観することはない」

2007-04-02 23:55:32 | 現政権を忌避する/政治家・政党

  

 一昨日、「沖縄戦集団自決は軍の強制ではなかった!?」という記事を書いた。高校教科書の検定で集団自決の記述にマッタがかけられ、削られたり修正された――というニュースに関する簡単なメモである。この問題については多くのブロガーが書いておられ、私がさらに付け加えて言うことは何もないのだが、そのエントリに対してなめぴょんさんがいいコメントを下さったので今夜はそれを紹介しておこうと思う。

【自分で考えようとする心を持ってればこんなわかりやすすぎる小細工にはだまされない。(略)集団自決そのものが教科書からなくなったわけじゃない。「集団自決に追い込まれた人々もいた」。この記述だけでも「何が人々を追いつめたのか」はじゅうぶん想像できるはずです。世の中、クラスの中の「空気」がどれだけ重く行動を縛るものか思い知っている者ならなおさら。必要以上に悲観することはないのだと思います。世の中バカなようでそんなにバカじゃない。】

 上記はコメントのほんの一部。詳しくは3月31日のエントリのコメント欄を見ていただければよいのだが、ともかくこのコメントで私は少し元気が出た。ありがとう、なめぴょんさん。

 そうなのだ……いくら権力側が姑息に規制しても、そこから見えてくるものがある。私達はそれを大切にして、伝えていきたいと思う。

 そして「これを言っちゃダメ、こんな表現はダメ」と言われても、私達はその締め付けをかいくぐって物事を、思想を伝えていくことは出来る。突然思い出したが、以前、「言葉への規制は言葉で破る」という記事を書いたことがあった(書いたはずだよな、と思って探したら、何ともう1年も前の話でありました)。内容をかいつまんで言うと、「憲法違反のアメリカ追従イラク派兵に反対し、即時撤退を求めます」という意見広告を新聞に出そうとしたところ、広告での審査で憲法違反という表現がひっかかった。それで「憲法を踏みにじるアメリカ追従の……」という表現に変えて、掲載したという。

 同エントリの最後の部分を、引用・再掲しておく。

【言論の統制・封殺にはまだまだ穴があるということだ。人によっては楽天的すぎると思われるかも知れないが、幸いにもまだ、国家総動員法の下、精神総動員運動が展開された頃の状況にまでは至っていない(規制する側も、やや人目を気にしているところが窺える)。だからまだ、網目をくぐったり逆手にとったりする余地は充分にある。アレは駄目、コレは駄目と規制されれば、「なら、これはどうよ?」と突きつけていくことができる。言葉には理論の裏打ちが欠かせないが、それを根っこの部分で支えるのは感性(この字を書くたびに、ほんとに恥ずかしい……のだけれども)だと私は思っている。そして感性は、無限に言葉を創造していくことができる。「戦前」を感じさせる世の中になってきたが、しかしまだ間に合う。ガンジガラメになってしまう前に、私は1つでも多く「抵抗の言葉」を探し、共有していきたいと思う。】

 私の現在の思いは、これに尽きる。……負けるものか。

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 都知事選で、浅野候補を支持しています。都民の一人として、これはある意味であやういほどのギリギリの選択。自分の中では、現都政にピリオドを打つのが最大の課題だと思うからです。

 ただ、だからといって、「吉田さんは出馬を取り止め、浅野さんに統一すべき」などとは毛頭思わない。んな、アホな。吉田さんの方が先に出馬表明したのだから降りろなんて失礼だとか、そういう話では無論ない。吉田候補に出馬取り止めを迫るのは、思想信条の封殺である(もっとも、逆も同じ)。

 現都政にピリオドを打ちたいと思う都民は多いが、その思いは個々の体験や生活感覚や仕事上の息苦しさや思想信条その他によって、相当グラデーションがある。あって当然であり、そのグラデーションと(それを容認するかどうかは別として)出来る限り真摯に向き合いたい。たとえ歩く道は違っても、いつの日にか、共に夢見た地平に達することができると私は信じる。いや、信じたいと思う。それを信じなければ、私はすべてを失った者のように荒野に立ち尽くすほかない。

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