華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「美しい日本語」を殺すな――上滑りな言葉たち(2)

2006-10-07 00:28:25 | 本の話/言葉の問題

 つい今し方、帰宅したばかりである(遊んでいたわけではない。近県に日帰り出張していたのだ。食い扶持を稼ぐというのは、まことにしんどいことだ)。「美しい日本語を殺すな」問題の続きを考えてみようと思ったが、忘れないうちに整理しておくべきものもあるし、頭も疲れていることだし、今夜は幕間という感じで簡単に思いつくままに書き留めておく。 内容的に(1)とかなり重複するかも知れないが、自分のためのメモということで……ま、いいか。

 世の中には、取り扱いに注意を要するものがたくさんある。……と言えばすぐ思いつくのは火薬だの銃器だのといった「危険物」だが、言葉もある意味で、いい加減に取り扱ってはいけないもののひとつだ。(私自身の感覚の中では、最も危険なものであったりする)

  以前、「愛国心はなぜ危険か」という記事を書いた。私はそこで愛国心とは「自らが帰属している(あるいは帰属していると考える)国」に対して、それを特別なものとして思い入れを持つこと。その思い入れの中身は「愛着心」と「忠誠心」の2種類がある」と定義し、問題は後者だと書いた。ついでに忠誠心に関する部分を引用しておくと――

【忠誠心というのは相手が何ものであれ、その相手だけに捧げられる(あなただけを愛する、というやつだ)。そして、忠誠を誓った相手のために、彼の敵を滅ぼすことに情熱を燃やす。忠誠心は一面美しいものであるらしく、王に忠誠を誓ったり、帰属集団に忠誠を誓って華々しく戦いそして死んでいった英雄達の物語は世界中に枚挙のいとまもないが、一歩下がって見てみれば「何だそれ」でしかない。忠誠心に燃えた人間達同士が殺し合って、いったい何してるんだ。いや、本気で忠誠心に燃えている人はいいとしても、巻き込まれて犬死にしたり家を焼かれた人間はどうなるんですか。】

 今でもむろんその定義づけなどは変わっていないが、言葉というものを考えているうちに、「愛というのは危険な言葉だな」とふと思った。1か月ほど前になるか、doll and peaceぷらさんが「『愛』と『美しい』の連発にご用心!」という記事を書いておられたのを思い出す。

 そう、「愛」も「美しい」も非常に危険な言葉だ。

 そもそも観念的な言葉というのは、常に危険なものである。なぜなら具体的なもの(いわゆる物質、だけではない)を指す言葉と違って、人それぞれで抱いているイメージや解釈が違うからだ。むろん、具体的なものを指す言葉であっても受け取り手の頭に浮かぶものが100%同じであるとは言えないが、観念的な言葉に比べればはるかに共有部分が大きい。

 そしておそらく――人間の精神的ないとなみと深くかかわり、解釈が個々人に任され、詭弁を弄する余地も多分にあり――すなわち極度の危うさと共に存在しているものであるがゆえに、かえってその言葉には「プラス・マイナス」の価値判断がつきまとう。それはあるいは、観念語を発見?した時の人間のおそれに由来しているのかも知れない。

 逆に「富士山」「学校」「猫」「携帯電話」「大江健三郎の『死者の奢り』」「本を読む」「コーヒーを飲む」……何でもいいけれども、すぐに具体的なものが浮かぶ言葉については、少なくてもそれ自体には価値判断はそれほどつきまとわない。

「愛する」や「美しい」のほか、「やさしさ」「思いやり」「希望」「恩寵」などなどの言葉は、圧倒的なプラス・イメージをもって私達に迫る。問答無用の感じ、と言ってもいい。だがそこにこそ、毒蛇のような危険性が潜んでもいるのだ。片思いの女に無理心中を迫った男は「愛していたから」と叫ぶ。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の女主人公は、ヨカナーンへの愛ゆえに彼の生首を望んだ。

 国を愛すると言い、美しい国と言う時、人々の心の底に去来するものはおそらく想像を絶するほどに千差万別であるはずだ。そのことをよく知った上で、あえてシレッとした顔で観念語を使う政治家を、私は信用することはできない。  

 最近、悲しいことに「美しい」という形容詞にあまり積極的なプラス・イメージを持てなくなっている。むろん、安倍総理のおかげである……。

 

 

コメント (2)
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