華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

働けなくなった人間は死ねという国

2007-02-27 22:33:00 | 格差社会/分断・対立の連鎖

〈4万5000人のリハビリ難民〉

 河北新報に、「リハビリ日数制限から1年 治療求めさまよう患者」という記事が掲載された。昨日「Yahoo!ニュース」の国内トピックス欄に上げられていたので、読まれた方も多いと思う(私も河北新報を取っているわけではなく、むろんそこで発見した)。記事の一部を、次に引用してみる。

【医療制度改革の一環として、厚生労働省が昨年4月、保険診療で受けられるリハビリに日数制限を導入した。ところが、日数制限後、リハビリ継続が必要な患者の受け皿となる訪問リハビリや病院外施設の整備、専門職の育成が進んでいない。このため、「リハビリ難民」とも呼ばれる患者が生まれ、治療打ち切りに対する不安や悲痛な叫びが広がっている。(中略)厚生労働省が、リハビリ患者の受け皿とみていた介護保険適用のリハビリサービスは、認知症予防や自宅に引きこもりがちな高齢者のレクリエーションが中心だ。「身体機能の回復を目指すものになっていない」と指摘する関係者は多い。(以下略)】

 同記事によれば、リハビリを打ち切られた患者は全国で推計4万5000人にのぼるという(全国保険医団体連合会の昨年9~11月の調査)。

 昨年、「リハビリテーション診療報酬改定を考える会」(※注)が署名運動を展開した。それに応じて、多くのブロガーが署名の呼びかけをおこなったことも、まだ記憶に新しい。そして44万人の署名が集まり、6月30日に厚生労働省に提出されたのだが、それから250日近くを経ても未だに厚労相は知らぬ顔である。

※注/上記の会のHPには、打ち切り被害実例の報告や、患者・家族・医療関係者のメッセージなども寄せられている。

〈75歳以上の高齢者を分離する医療制度〉

 リハビリ日数制限の話を考えている最中に、ふと思い出したのは2008年度から導入されることに決まった「後期高齢者医療(保険)制度」。75歳以上の高齢者を独立した健康保険に加入させる仕組みである(むろん、それまで加入していた国民健保などは脱退)。保険料は年金などからの天引きで、厚労省の試算によると月額平均6200円ほどになるそうだ。

 この制度は「医療制度改革」(!)の一環としてかなり前から検案されていたもので、政府・与党社会保障改革協議会の「医療制度改革大綱」によれば、「高齢者自らが負担能力に応じて保険料の負担をすることを基本としつつ、保険制度間の公平な負担が確保されることを目指す」ものであるという。

 大雑把な言い方をすれば、医療を受ける人達の中では高齢者、特に後期高齢者と呼ばれる75歳以上の人達の割合が非常に高い。そんなのは不公平だから、彼らは彼らで別の保険制度を使ってもらおうぜ、ということである。

 しかも、である。厚労省は後期高齢者医療制度において、「定額制」を中心とする方針を固めているという。 定額制というのは、病気の種類によって決められた額だけ払うというもの。ちなみに現在の診療報酬は診察や投薬などの診療行為を加算していく「出来高制」が中心で、ごく一部に「定額制」が採用されている。

 定額制にすれば、大して必要のない薬まで出したりしなくなるので医療費の抑制に効果があるし、「薬漬け」が無くなるから患者にとっても大いに結構、と言われている。それはある意味で正論なのだが、問題はそれは「どんな考え方を背景にして(またはどんな考え方と結びついて)出て来たのか」である。

 意見というのは、何でもそうだ。たとえば「信仰の自由は保障されるべきだ」というのは誰が聞いても納得できる正論である(納得できない人もいると思うが、まあ大多数は納得すると思う)。でも、それを「首相が靖国神社に参拝するのも信仰の自由。とやかく言う筋合いはない」という話と結びつけて語られると、ちょっと待てよと言わざるを得ない。 

 うーん、たとえがちょっと変かも知れない。ではこんなたとえはどうだろう。「健康管理は大切。自分の体は自分で守らなきゃね」というのは、ほとんどの人が頷くであろう正論。でも、「生活習慣病になるのは本人が悪い。自己責任なんだから、そんな病人の医療費を保険でまかなう必要はない」と思っている人が言うのと、「健康管理は大切だが、どんな病気でも、誰もが罹患する可能性はある。第一、生活に追われている人ほど健康管理だって困難なのだ。メタボリック・シンドロームだって、職業性ストレスの高い人は平均の2倍だと言うし。病気になった時は、皆で支え合うべきなのだ」と思っている人が言うのとでは全然違う。(ついでだがこのあたりの話を2月6日のエントリにも書いた)

〈病人や老人はお荷物なのか〉

 これも変かもしれないが、言いたいことは何となくおわかりいただけただろうか。私は厚労省が後期高齢者の医療を定額制にしたがっているのは、ひとえに「安上がりにしたいから」だと思っている。多くの方が既に言われたり、新聞などでも書かれたりしているはずだが、定額制にすれば、病院側はその範囲内でなるべく安上がりにしようとするのは火を見るより明らか。むろん良心的な病院(や医療者)は大勢いると思うけれども、いくら良心的でも、自腹を切ってまで治療に当たることはできまい。いや、たまにはそういうこともあるだろうが……自腹切ってばかりでは病院が潰れてしまう。

 要するに、国にとって後期高齢者は「お荷物」なのだな。いや、金と社会的地位があり、さらに政府を支持してくれる後期高齢者は別だろうが。厚労省は、さすが「産む機械」うんぬんと豪語した大臣をトップに抱く官庁だけある。子供作りにも労働にも役立たなくなった(兵士にも役立ちませんね)お荷物には、あまり長く生きて欲しくないのだろう。リハビリ日数を制限したのも、本当はリハビリテーションの必要な人達は「国家のお荷物」だと思っているからだ。

 誰だって障害を持つ可能性はあるし、生きていれば間違いなく1つずつ年を取る。そして高齢者になれば、誰だってあちこち故障が出てくるのは当然の話ではないか。それを支え合うために、私達は皆がそれぞれに金を出しているのだ。ちなみに私は今のところあまり病院に行くことはなく(ちょくちょく病気はするが、たいてい2~3日寝込めば治ってしまう程度の軽い病気だ)、健康保険料は払う一方に近い。しかしそれを惜しいとか、バカらしいと思ったことは一度もない。いつか私も大きな病気をするかも知れないし、私はしなかったとしても、母や、友人達が医療を受けるかも知れない(あ、母はもういろいろと受けているのだった。近々、白内障の手術をすると言うし)。

 すべての人間が、出自や性別や年齢や、そして健康状態によって差別されない国。美しい国というのは、そういう国を言う。

◇◇◇◇◇

 戸倉多香子さんを応援します(民主党支持ではありませんが)。

 

 

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戸倉多香子さんと「日本の笑顔」

2007-02-25 17:45:44 | お知らせ・報告など

 

とくらblog」のとくらさんが、 「民主党・戸倉多香子」として開設しておられるHPを覗いた。

 皆さんよく御存知の通り、戸倉さんは今夏参院選で山口選挙区民主党公認候補として立候補が決まっている。上記のHPは、候補者・戸倉多香子の活動報告やお知らせを掲載したもの。そこには「日本の笑顔を守りたい」という大きな字が躍っている。この言葉は、「美しい国」などという薄ら寒い言葉とは比べものにならないあたたかさを感じさせる。

 私は主権者である国民の一人として民主党自体には「おかしいぞ」と思うことも多々あるが、それでも、いやそれだけに、戸倉さんのような「良識を持った人」を国会に送りたいと思う。とくらさんのブログを読まれている方は皆さん同じ感想を持たれると思うが、彼女の目線はあくまでも庶民のそれである。彼女が上から目線でものを言ったような文章、「勝ち組」の目で世の中を見たような文章は、一度も読んだことがない。多くの庶民が首を傾げることについて、平易な文章で語りかけるものばかりだ。

 HPの中に、「友人のひとりは、『大事な家族や友人たちと、一日一日を大切にして平和に過ごすこと』が、私たちおばさんの願いだと言いました。こんな小さな願いさえ、“ぜいたく”だと感じる日本にしないために、今ならまだ間に合います」という一文があった。

 庶民のひとりとして、庶民が願う社会を実現するために地元で市民運動を続けてきた戸倉さんが、その活動を全国レベルでおこないたいと思っているのだ。

 喜八さんほか何人ものブロガーがバナーを貼り、彼女の応援を表明している。遅ればせながら私もバナーを貼って、声援を送りたいと思う。残念ながら東京在住のため彼女に投票することはできないけれども、せめて気持ちだけでも。私も少しずつ声を上げ、小さなことでもできることを積み重ねていきたい。

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都民はツライよ

2007-02-22 23:59:48 | 東京都/都知事

 建築家の黒川紀章氏が、都知事選に出馬表明した。それに関して、私の周囲でも困惑が広がっている。知人の間では「石原以外なら、もう誰でもいい」と叫ぶ声もあったのだが、それにしても黒川紀章とは……。

 東京オリンピックの誘致を中止するというのは結構なことだし、無給で勤めるというのも(ほんとに可能かどうかは別として)まあ結構なことである。だが、彼は「石原都政の良かった点は継承する」と言っている。元来が右寄り……というか、現都知事と同じくマッチズモ的な面(※)のある人だから、「石原都政の基本的な考え方は間違っていない」ということだろう。

(※ここでは、力を信奉し、権威を重んじるという程度の意味で使っている)

 以前、小泉前首相の後継者がどうこうという話が出ていた時、続けて「どちらがマシかの話ではない」、 「『よりマシ』はない」という記事を書いたことがある。その時の気持ちを、私は自分の中で改めて噛みしめている。(ついでだから、このエントリの後ろにその時の記事の一部を再掲しておく)

 ……と言いながら、「石原三選を阻止するためなら、とりあえず黒川紀章という選択もありなのかなあ」とフラフラしそうになる自分もあって、情けないやら悔しいやら。都民の一人として、よほどイシハラ後遺症がひどいらしい。

 dr.stoneflyさんには、昨日のエントリに対するコメントの中で「究極の選択を強いられそうですね」と同情されるし……。「保・保対決の都知事選」なんて、シャレにもならない。石原都知事が三選を目指すなら自分も出馬する――ということなので、都知事が出馬を止め、それによって黒川氏も止めるというのが最も望ましい形なのだが……。いっそ「東京には知事はいりません」という選択は……む、無理か。

 前門の虎、後門の狼。ほんともう、都民は辛いよ。

 

◇◇◇6月20日のエントリから一部再掲◇◇◇

 我々はしばしば、「どれも嬉しくないもの」を複数示されて、「どちらが(あるいはどれが)マシか」という選択をさせられる。たとえば空腹で目の回りそうな時に、3日前に賞味期限の切れたシャケ弁当とカビのはえかけたパンを出されて、「好きな方を食べていいよ」と言われるとか。私の仕事に引きつけて言えば、財布が空っぽで何でもいいから稼がなければと焦っている時に「政治家のチョウチン記事と、タレントさんの講演草稿作りの仕事があるけど、どっちか好きな方やらない?」と声かけられるとか……。

 そういった場合、いやいやながらマシそうなものを選んでしまうことが多いのだけれども、よく考えれば示された中から選ばねばならないわけではない。選ばせる方は賢く、それ意外に選択肢は皆無のように思わせてくるが、ナニ、そんなのは真っ赤な嘘である。むろん状況によっては切羽詰まって選ばねばならぬ場合もある。「シャケ弁とパン」ぐらいならば(私の場合は)腹を下すことを覚悟の上でどちらか食べるだろうが、多くの人は「チョウチン記事書いたり、自分の思想信条に抵触する講演草稿作るぐらいならば、ほかにバイト探す!」と言うのではないか。私も言う……というより、言いたいと思っている。実のところ、食うために「何だこりゃ」みたいなゴースト・ライター、スピーチ・ライターの仕事もしてきたので偉そうなことを言う資格はないのだが、ギリギリの線だけは(ほんとにギリギリの線、ですがね)何とか守ってきた……と思う。

「どちらがマシか」という発想に希望があるかのように見せてきたのが、民主党の(例の前原・前代表がぶちあげたところの)「対案路線」。いや、私は別に民主党に恨みがあるわけではなく、今の世の中の流れに少しでも歯止めをかけるために頑張ってもらいたいとそれなりの期待もしているのであるが、何でも対案を出せばいいという姿勢はいただけない。たとえば共謀罪、たとえば憲法改定国民投票法案、たとえば教育基本法改正案。はっきり言って、「今からおまえを殺す」と言われ、「じわじわ砒素を飲まされるのと、すぐにギロチンで首斬られるのとどっちがいい?」あるいは「なぶり殺しに遭うのと一瞬で殺されるのとどっちがいい?」と聞かれているようなものだ。

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「忠誠」って……相手が違うでしょうが

2007-02-21 23:23:01 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 3日ほど前の話なので、既に多くのブロガーが書いておられることだが……遅ればせながら私も少しだけ(生活に追われている身なので、反応がいつもワンテンポ遅れるのである……)。

 去る18日、中川秀直官房長官が仙台市で講演した時にこんなことを言ったらしい。
「安倍晋三首相が(閣議で)入室したときに起立できない、私語を慎めない政治家は美しい国づくり内閣にふさわしくない」「閣僚、官僚のスタッフには首相に対して絶対的な忠誠、自己犠牲の精神が求められる。首相の当選回数や、かつて仲良しグループだったかどうかは関係ない」。

 これに対する批判、というか「あきれたもんだ」と肩をすくめる姿が見えるようなコメントも多い。ケッサクだったのは、亀井静香議員(国民新党)の「日本はいつから北朝鮮になったのか」。(記事末に資料掲載)

 なるほど。中川官房長官の頭の中では、安倍首相は「将軍サマ」であるらしい。


〈起立を求める滑稽さ〉

 起立しろとか私語を慎めとか、その部分だけ読むと言われた相手は小学校の生徒かと思ってしまう。「先生が教室に入ってこられたら、起立しましょう。授業中は勝手にお喋りしてはいけません」。……あはぁ。

 まあどんな会議でもその最中に後ろの方で関係ないお喋りばかりしているのはよいことではないが、起立の方はバカバカしさを通り越して発言した官房長官の神経を疑う。

 トップが入室したときに起立するなんていう話は聞いたことがない。一般企業でも――たとえば式典の時などには会長を起立して迎えるなんてことはあるかもしれないが、日常的な会議で社長が入室する時に起立するなんて話は聞いたことがない。むろんそんな会社は存在しない、とまでは断言できないが、少なくとも私の知る範囲では。営利企業以外のいろいろな組織――たとえばNPOなどの会議で代表が入室する時に起立するとか、労働組合の会議で委員長が入室する時に起立するなどという話も。

 首相が入ってくる時、閣僚がサッと起立して迎える。その図を滑稽だと、官房長官は思わないのだろうか。礼儀の問題とからめて「よいことだ」と言う人もいるかも知れないが、これは礼儀の問題ではない。礼儀正しくしましょうということでなく、「一糸乱れぬ行動」の要求である。私は先に神経を疑うと言ったが、疑っていてはいけないのだ。そういう感覚の持ち主なのだと改めて認識すべきであった。



〈忠誠や忠義ほどうさんくさいものはない〉

 だから、「忠誠心」などという言葉が出てくるのだ。官房長官の発言の中で私が最大のポイントだと思い、ほとんど肌が粟立つような印象を持ったのは、「絶対的な忠誠」という言葉。官房長官は、閣僚や官僚は「首相に絶対的な忠誠を誓うべき」だと明言したのである。

 忠誠とは何か、忠誠心とは何か。――語源がどうで、歴史を紐解くとどうで、学問的な検証はどうで――といった話を始めるとコトがややこしくなるので(むろんそういうことを正確に論じられるような知識もないし)、このさいそれらは無視して話を進めたい。

 で、自分のいい加減な感覚だけに頼った話になってしまうのだが……最初に言っておくと、私は「忠義」とか「忠誠」などというものが大嫌いである。忠義や忠誠の名のもとに、過去多くの人々が踏みにじられ、泣かされてきたからというだけではない。

 余談になるが、国への忠、天皇への忠のために多くの人達が戦争に駆り出されて死んでいったのはたかだか半世紀余り前のこと。それ以前でも洋の東西を問わず、無数の人々が忠義のために生活を、そして命までも奪われた。それを肯定的に美しく歌い上げたものはたくさんある。小説もあるし、叙事詩のようなものもあるが、私はそれらすべてが嫌いである。

 話を戻すと――そういった過去の事実があるゆえに嫌いなのではなく(もちろんそういう面も大きいけれども)、そのような「歪んだ美談」の温床になるから嫌い、なのである。

 組織・集団は、そして組織・集団のトップ(とその周辺)は、常に――とまでは言わないが、少なくともかなり多くの場合、構成員に対して「忠誠」を求めたがる傾向がある。「国」のような巨大なものだけではない。小さなサークルのようなものでさえも。その組織・集団と、トップに立つ人間を神聖視もしくは絶対視し、「たとえ火の中、水の中」という気持ちを掻き立てるのが、組織・集団を守るにあたって非常に有効な手段だからだろう。「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という非人間的なモラルほど強いものはなく、おそらく組織・集団のトップはそれを徹底させたいと思うのだ。いったん神聖視・絶対視に成功すれば、トップがどれほど「トンデモナイ奴」でも逆らうことは不義になる。そんな神のような存在になるのは、気持ちがいいのだろうなあ。私はなりたくないけど(むろん、これから先、100年生きたってなれるわけもないけど)。そして、祭り上げた人間達にとって都合がいいんだろうなあ。

 傀儡、という言葉がふと浮かぶ。閣僚を初めとする与党の政治家や官僚が首相に絶対的な忠誠を誓えば、首相の名を借りて何でもできるよなあ。総理のご意向ですと言えば、何でも通るよなあ。むかしむかし、天皇や将軍の名のもとに、好き放題のことをできたように。


〈忠誠を誓いたければ国民に誓え〉

 私自身は忠誠や忠義は嫌いだと言ったけれども、その手の観念に価値を見出す人がいるということまでは否定しないし、価値を見出すのは個人の自由だとも思っている。

 ただ、それにしてもである。忠誠誓うのはいいとしても、誓う相手を間違ってりゃせんか。

 何度も繰り返して言っているので、ホント自分でもあほらしいけれど、政治家は「公僕」なのだ。ナントカ省で働く人達も市役所で働く人達も、すべて公僕、パブリック・サーバントなのである。「パブリック」は「国」ではない。ましてや「時の政権」でも「与党」でもない。もともとpublicは「人民」という言葉から出ているそうで(うわ、知ったかぶりしてゴメンなさい)、だからパブリック・サーバントというのは要するにその国に属するすべての人民のために働く人々のことである。


 忠誠を誓いたいのならば、誓う相手は「この国で暮らしている、すべての人々」だろう。それ以外に、誓う相手はいない。


◇◇◇資料◇◇◇

【自民党の中川秀直幹事長が閣僚に安倍晋三首相への「絶対的な忠誠」を求めたことに対し、野党内から21日、「日本はいつから北朝鮮になったのか」(亀井静香国民新党代表代行)などと厳しい批判の声が上がった。亀井氏は記者会見で、自身の閣僚経験を振り返り「(閣議の際)自分は直立不動で首相を迎えたことはなかった」と説明。中川氏をPTAに例え「父兄がしゃしゃり出てくると首相にとって良くない。『政権はおかしい』と世間に言ったのと同じで、PTAとしての愛情がない」と皮肉った。社民党の福島瑞穂党首も会見で「日本は『ハイル・ヒトラー』の世界ではない」と指摘し、「首相の求心力がないと天下に暴露してしまった。首相も立つ瀬がない」と語った。】(時事通信・2月21日配信)
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HP「サヨナラ!石原都知事」を覗いてみた

2007-02-20 23:39:06 | お知らせ・報告など

 都知事選告示直前までの「期間限定」で、石原都知事関連のデータを整理したサイトがある。内容は都知事の「発言」と、都政の年表である。

 サイトの名前は「サヨナラ!石原都知事」。

 2月8日に開設されたのでもうご存じの方が多いかと思うが、私はここしばらくあまりインターネットの情報をチェックしていなかったので、昨日知人経由で「開設のお知らせ」をもらうまで知らなかった。まだ見ていない方は、是非どうぞ。

 発言は「そう言えば聞いたことがある」ものが結構あるが、こうやって問題別に整理されると改めて「な、なんなんだ。こいつは」と気分が悪くなる。ちなみに出所の明確なものをということで、主に定例記者会見や都議会議事録から採録してあるから、いくら石原ファンでも「デッチアゲだ」などと言えるはずはない。

 怒りを確認するために、同サイトからごく一部を拾ってみよう。

〈憲法について〉2005年5月27日の定例記者会見で――「憲法自体が非常に歪んだ、狂ったもので、私は歴史的正当性がないと思いますから」。

〈団塊の世代&ニートについて〉2006年2月24日の定例記者会見で団塊の世代の高齢化対策に関して質問されたことに対して――「その団塊(の世代)が抱えている子供達が働かずに、ぶらぶらしているんじゃないの。あんなの、ただのごくつぶしだよ。日本は手不足なんだから。親が甘い顔してるから、ニートなんて出てくるんだよ」。

〈障害者差別〉1999年9月17日、府中療育センター(※重症の心身障害を持つ人のための施設)の視察をした時の記者会見で――「ああいう人ってのは人格あるのかね」「もう絶対よくならない、自分が誰かわからない、生まれてきたか生きてきたかもわからない。ただ、人間として生まれてきたけれども、ああいう障害で、しかもああいう状況になって、かけてるお金も大変なものだけど、しかし、こういうことやってるのは日本だけでしょうな」

 新聞記者に対する侮蔑的発言、というのもある。2005年6月3日の定例記者会見で「毎日新聞の記者が何も知らないくせに、馬鹿なことを書いて」と発言。それに対してある新聞の記者が「その問題は私も書きました」と言い、質問しようとすると「そのくらいのことわかるだろ、物書きなら。そうか物書きじゃないか、ただのブン屋か」と軽蔑したような口ぶり。「ブン屋、じゃありません」「じゃあ何様なんだ」とケンカ腰のやりとりが続く(都知事殿、よく袋叩きに遭わなかったものである。新聞記者はおとなしいなあ)。 

◇◇◇◇◇

 石原三選阻止へ向けて、秒読み段階に入った。  

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ふるさとは私の中に――UTSコラム再掲

2007-02-17 01:36:16 | 箸休め的無駄話

 今の世の中は息苦しいよ、もっと住みやすい社会を作りたいね、みんなで幸福になりたいね、と考えているブロガーのゆるやかな輪であるUnder the Sunの隅っこに参加して、ほぼ1日おきで掲載されるコラムを手伝ってます。ここのところ忙しくてプライベートでパソコンに向かう時間はごく僅かなんですが、一応元気で生きている証拠として、先日――と言っても2月1日――のコラムを(前書きと後書きを除いて)再掲しておきます。ほんともう、箸休め。

 でも本当は私のコラムよりよほどおもしろくて、考える手掛かりになるコラムが常時掲載されておりますので、皆さん、それをお読みください。

◇◇ふるさとは私の中だけに在る◇◇

 今回のお題は「ふるさと」。この言葉を聞いてすぐ反射的に思い出すのは、たとえば――(あまりに有名なものばかりで改めて言うのも気恥ずかしいほどだが)――
「兎追いし彼の山……」の歌。kikyoさんが引用しておられた、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる室生犀星の詩。そして啄木の短歌「ふるさとのなまりなつかし停車場の人混みの中にそを聴きに行く」。

〈ふるさとは言語の響き〉

 私は兎を追いかけた記憶も鮒を釣った記憶もないから、実のところ「彼の山、彼の川」の歌はさほどしみじみと響かない。故郷に歓迎されなどしないが逆に石持て追われたわけでもないから、「うらぶれて異土の乞食となるとても、帰る所にあるまじや」という感覚もない。ただ、啄木の歌は何となく感覚としてわかる。

 私は関西で生まれ、関西で子供時代を過ごした。年月としては既に東京暮らしの方が長く、普段使う言葉はほとんど東京のそれになった(時折関西弁も使うけれど、それはかなり――とまでは言えないまでも、相当に意識的な行為である)。それでもいまだに、関西風のイントネーションに懐かしさを覚えるのだ。お笑い番組などでやや大げさな感じで使われたりする「関西弁」ではなく、かすかなイントネーションに。そしてしばしば――特に(否定的な意味合いを含まない)感情的な発言をする時に、関西弁を使った方がピタッと来ることもある。たとえば「ワヤやがな~」とか「それが、なんぼのもんや」「どないせいっちゅうねん」とか。
 このところさまざまなブログで厳しく批判されている(私もつい書いてしまった)「女は生む機械」発言の厚生労働大臣。私の不快感は、実のところ次の一言に尽きるかも知れない。
「あほんだら!!」
(下品に感じられたら……すみません)

 実は私にはもうひとつのというか、第二の「ふるさと言葉」がある。母の郷里である、四国の田舎の言葉だ。子供の頃――特に小学校3年生頃から卒業する頃まで、私は春夏冬の長期休暇の半ば以上、母の実家で過ごした。そこで皆が使っていた何トカ弁も、幾分か私の中に刷り込まれている。むろん時として他郷の人にはわかりにくいほどの言葉を使うのは年寄り達に限られており、中年以下の人々――特に私と同世代のイトコ達などの言葉は、私とほとんど変わらなかった(ちなみにイントネーションは大阪神戸と変わらない)。だが、時たま私が普段暮らしている地域とは微妙にニュアンスの違う表現や語尾もあり、それが私の中に少しずつ少しずつ降り積もった。自分では使いこなす(?)ことはできないが、今もその微かな響きを聞くと――いささかだらしないことに、そしてハードボイルドを気取って生きている関係上あまりヒトサマには言えないのだが――ふと心が緩む。

〈ふるさとは原風景〉

 これはいったい何だろう……と改めて考えた。関西や四国の言葉が好きなのかと聞かれれば、それに対しては「否」とはっきり言える。いや、むろん嫌いというわけではない。要するに言葉としてのそれらには何らの思い入れもないのだ。
 だからおそらくは、その遠くでひそやかに響く音声が、私に自分が愛され抱かれていた日々、限りない未来があると信じていた日々を思い出させるということだろう。私の母も、母の身内の大人達も、子供に指示命令するタチの大人ではなかった。私を取り巻いていた身内以外の大人達も、(一部例外はあるにせよ)ひたすら優しかった。
 下校途中の私を呼び止めて、「ドーナツがあるから食べて行きぃな」などと声を掛けてくれた商店街のおじちゃんおばちゃん達(いやしいって? す、すみません)。毎年クリスマスになるとプレゼントを贈ってくれ、さらには代わる代わる会社の保養所を取って自分の家族と一緒に連れて行ってくれて「頑張って勉強しいや」「お母ちゃん、大事にしいや」と同じことばかり言った亡父の旧友たち。従兄に負けまいとして登った木から落ちて怪我をした時に、「おうおう、痛かったやろうのぉ。ばあちゃんが薬つけちゃるけんのぉ」と言いながら駆けつけて来た祖母(でも彼女は、もう木に登ってはいかんとは言わなかった。祖母だけでなく、私は周囲の大人達からよほどのことがない限り、あれをしてはいかん・これをしてはいかんと言われなかったという記憶がある。やってみい、行ってみい、読んでみい、考えてみい、と言われて育ったように思う。おかげでしょーもない人間になったと言われればそれまでだけれども)。あの頃の私は――他者から愛されていることを感じ、近づいてくる他者を無条件で信じることができたのだ。耳の底に残っている言葉の響きは、その時代を思い出す時に欠かせないBGMである。

 BGMと言えば、いわゆる「山や川」もBGMであろう(というより、記憶を呼び出した時の壁紙、かな)。その意味で、「兎追いし彼の山」の歌がよくわからないというのは半ば嘘かも知れない。
 私が生まれ育った土地は山と海がそれぞれ目の前に迫った所だったので、今でもそういう地形にはわずかではあれ懐かしいものを感じる(余談だけれども、東京で暮らすようになって何より驚いたのは、近くに山も海も見えず、従って方向の見当がつかなかったことである。私の育ったあたりでは山の見える方が北、海の見える方が南に決まっていたのだ)。だがBGMでも壁紙でも何でもいいが、いずれにせよそれだけが独立して存在しているわけではない。人は所詮、人との関わりの中で生きていくのであり、関わりのありようが風景の色も変えるのである。

 すべてを失っても、私には幼年時代がある――と詠ったのは、ヘルダーリンだったろうか。詩集を紐解くわけでもなく、単にいい加減な記憶で書いているので間違っているかも知れないが(皆さん、間違ってたらすみません。私は物覚えが悪いのです)……ともかくそういう意味の絶唱を綴った詩人がいた。
 幼年時代、とは言うのは当たらない。もっと広く、子供時代と言うべきだろうが――私は大人達に守られていると感じることが出来た。むろん人の常として思春期と呼ばれる頃になると物事を斜にかまえて見る癖がついたのだけれども、少なくとも十歳頃までの自分は紛れもなく「見守られ、そのことを信じている」子供だった。そういう時があったというただ一点で、私はギリギリ世界を見放さずにいることができる。今育ちつつある子供達、そしてこれから生まれてくる子供達にも、私はそういう「ふるさと」を残したい。
 ふるさとは人工的に創るものではない、ましてや愛せと強要するものではない。あたかも母の胎のように――自分というものが崩壊しそうになったときに、「私が生きていることを歓び、私を見守ってくれた存在たちを裏切ってはいけない」と踏みとどまれる砦。うつくしい国、などと薄っぺらな言葉で語る輩に、この砦を蹂躙させはすまい。

 突然思い浮かんだが、「国破れて山河あり」という、これまた有名すぎるほど有名な漢詩。私はこれをいつも「国破れても、山河あり」と読んでしまう。国なんざどうでもいい。国がなくなったって、私の、そして私たち一人一人の原風景は残る。いや、むしろ――国などという虚構の枠組みは、なくなってしまった方がいい。その時はじめて、私はふるさとという言葉を何の衒いもなく愛せるかも知れない。

(了)

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与党、国民投票法案成立強行を「共謀」す

2007-02-14 23:40:26 | ムルのコーナー


 野良猫のムルと華氏宅の居候トマシーナが、今夜も例によって公園の隅で――。

トマ:ねえ兄貴、こんなニュース知ってる?

【自民、公明両党の幹事長、国対委員長らは14日午前、都内で会談し、憲法改正の手続きを定める国民投票法案について、民主党が衆院憲法調査特別委員会での審議に応じない場合は、与党単独採決で臨む方針を確認した。また、自公両党は5月3日の憲法記念日までに同法案の成立を図ることで一致した。】(2月14日付、時事通信配信記事)

ムル:ふ~ん。おまえ、猫のくせに、しゃかいじょーせーとかに興味あるのかよ?

トマ:(何言ってんの。兄貴の影響じゃん。)興味とかって言うんじゃないけどさぁ、人間と暮らしてると、いろいろ耳に入るでしょ? で、人間の世の中って、僕らには理解できないことばっかりだなーって感心してるわけ。国民投票法案とかって、そんなに急いで無理矢理にでも通さなきゃいけないものなの?

ムル:な、わきゃねーだろ。

トマ:華氏はね、国民投票法なんか、全然必要ない法律だって言ってる。少なくとも今の日本には、って。そうなのかな。

ムル:そうなんだろうな。ま、その辺はちょっと譲って、「あった方がいい」「あってもいい」法律だとしてもだよ、そんな急ぐこたぁねえやなあ。5月3日までに成立させるって? 普通に考えてみろよな。それまでに成立しないと日本はニッチもサッチもいかなくなるとか、国民が困窮するとかっていう話じゃないだろ?

トマ:うん、そうだよね。それなのに、なぜ強引にでも通すって言うんだろ? 単独採決なんて、普通、やっちゃあいけないことなんじゃない?

ムル:そう。議会制民主主義、ってやつを掲げている国ならばね。今の与党ってのは、議会制民主主義に宣戦布告してるんだよなー。日本の国民って、完璧に馬鹿にされてるっていうか、舐められてるよなあ。そんなこと言っても国民はボーッとして気付かない、怒らない、と思われてるんだぜ? こんなにコケにされて怒り狂わないってのは、おいらたち猫なんかにゃ信じらんないことだよな。

トマ:怒ってる人も多いと思うけど……。

ムル:多いか少ないか、おいらは知らねぇさ。ま、いることはいるだろうね。それも多分、少なくない数で。あちこちで集会とかも開かれてるそうだしさ。でも、ここが正念場なんだぜっ、ともっと身にしみて思った方がいいんじゃねぇかなあ。華氏のバカにもよくよく言っとけよ。「私は反対しました」なんて後で言っても屁の突っ張りにもならねぇぜ、って。

トマ:な、なんか兄貴も怒ってない……? 

ムル:けへへ。ひとごとながら腹が立つ、ってやつかな? 共謀罪がどうとかっていう話もあるけど、「単独採決の宣言」なんて、ほんと与党の「共謀」だぜ。

トマ:何罪の共謀?

ムル:何罪かね。名称は何でもいいけど、主権者たる国民の権利を尊重する義務を放擲し、民主主義に敵対した罪。公僕にあんなことを言わせちゃ、絶対にいけないと思うぜ。1度舐められたらおしまいだよ。いや、もう1度どころか何度も舐められて……舐められっぱなしかも知んないけどさ、そろそろ本気で踏ん張らないと――いや、踏ん張ってきた人間が本気じゃなかったなんて言う気はねぇよ、むろん本気だったと思うけどさ――、マジでやばいんじゃねぇかなあ。

トマ:踏ん張るって、どんなふうに?

ムル:踏ん張り方のマニュアルなんかねぇさ。それぞれの場所で、それぞれにできることを、っていうしかねぇけど。華氏にもそう言っとけよな。 
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続・なぜ少子化がそんなに怖いのか

2007-02-13 23:51:09 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 ちょっとドタバタしていて、パソコンを立ち上げてもメールをチェックするのが精一杯だった。で、2日ぶりぐらいにブログを開いたら……先週末のエントリ「なぜ少子化がそんなに怖いのか」に対していろいろと有意義なコメントを戴いておりました。皆さん、ほんとうにありがとう。私がコメント欄を開放しているのは、「なるほど~!」と膝を打ち、自分がモノゴトを考える上で役に立つ情報や意見が欲しいから(自己チューですね、すみません)。時には私のアタマと感覚では理解し難い――「げげげ」というコメントもないわけではありませんが、それはそれで別の意味で役に立つ?ので、たまにはいいかと(私の方針として、単なる罵倒や、特定の私人を中傷するものは原則として削除しますが、それ以外はなるべく残しておきます。これについては異論もあると思いますが……。むろん、今のところはです。その手のコメントばかり増えた場合は方針を転換するでしょう)。

 前置きはそのぐらいにして。私が「そっかぁ、なるほどな~」と感心したコメントを1つ2つ紹介し、私の感想を書いておこう(全文ではなく、一部を引用。また、他のコメントもそれぞれおもしろい。興味を持たれたら、ぜひ2月10日のコメント欄を御覧ください。いえ、別に私のエントリは読まんでいいです。そんな大したことは書いてまへぬ)。

〈人間が多すぎる〉

 まず、私が時々読ませていただいて目からウロコ的な刺激を受けている、「A Tree at ease」のluxemburgさん。


【わたしも多少急激であれ、少子化が進むのは自然の摂理と思っています。自国の国土で食えない状態である以上、食える範囲まで減るのは当然ですし、政治家が安全保障なんて語るのもちゃんちゃらおかしい。EUなどは加入の前に基本的に食えるようになって死刑を廃止してから加入となるようです。】

 まずは「そうか!!」と頷いた。私は漠然とした感覚でしかモノ言えない人間だけれど、こんなふうに言われると、何かすごくよくわかる。

 自然の摂理であるかどうかまでは私は確信持って言えないのだけれども、人間が多すぎるのかも知れないな、という感覚はある。実のところ地球全体で考えても「ヒトという生きもの」は多すぎるんじゃないだろうか、という気がするのだが、それはそれとして――少なくとも日本はちょっと過密。酸素不足、という感はある。

 
〈価値判断の入った言葉〉 

 次に組合員Aさんの、「価値判断が入った言葉」というコメント。

【私の職場では、晴れの天気を「良い天気」とか「好天」とか公式には使わないように指導されています。特に水不足の時などそうです。(中略)理由はもちろん、雨を望んでいる人にとっては晴れは「好天」でも何でもなく、望ましくない天気だからです。「良い、悪い」は非常に主観的なものです。公的な立場にいる人ほどこのことを肝に銘じなければならないでしょう。】

 晴れを「よい天気」と表現しない、という話は初めて聞いた。組合員Aさん、ありがとう。

 そ、そうなんですよ。私が不愉快に思うのも、公僕が価値判断の入った言葉を使うこと。いいとか悪いとか健全とか不健全とか、そういう価値判断をするのはほんと、越権行為だと私もずっと思っている。

〈増えることが値打ちではない〉

 価値観と言えば……「大きいことはいいこと」「多いことはいいこと」「増えることはいいこと」――それらすべての価値観に対して、私は疑問を持っている。

 人間は野放図に増え、母なるテラの身体を食い、傷つけてきた。多くの生きとし生ける同胞を絶滅させてきた。何の権利あって、そんなことができるのか。

 私はふと夢見る。狂気におかされたような競争と、進歩の幻想とのばかばかしさに気付き、やさしくゆったりと息づくことのできる社会を。

 

〈珍説展開〉

 冒頭で書いたエントリのコメントで――「ほんまかいな」と目がテンになったのは、漢魂さんという人のコメントだ。「男女は平等ではない」「少子化は、女性が役に立たないプライドを持って社会に出たせい」等々。ときどきTBやコメントを下さる水葉さんによれば、彼女のブログにも「男女は平等ではない」「生殖機能がない女なんて論外」「レイプされた結果の妊娠でも、子供を産んでほしい」といったコメントが寄せられたそうだ。

 私はあえて、この人のコメントを残しておく。結構ですよ、どんどんおっしゃってください。なぜならば、こういう(ご本人が本気で信じているのかどうか疑わしいほどの)考え方は、いわゆる保守層でも反感を覚える人が多いと思うからだ。たしか我らが都知事も子供を産めなくなったババアが生きているのは害悪みたいな発言をしたはずだが、ジミン党の女性議員先生がたの多くは(そして男性議員もかなりの割合で)そういう発言にはムッとすると思いますよ(笑)。うちの亡くなったジイチャンバアチャンなんかも絶対怒るね(笑)。彼らはそこそこに保守的な感覚の持ち主で、それこそ天皇のことを語る時は必ず「陛下」を付けるし、孫達にも「男の子じゃけん」「女の子じゃけん」なんて普通に言う人だったが、人間は国籍・出自や性別・年齢にかかわらず平等だという、人権の最低線ぐらいはわかっていた。

 その意味で、たまには(自民党や公明党を支持している人でも眉をひそめるような)暴論を述べていただくのも、実のところ私は嬉しいのである(イジワルだって? えへ)。ついでに言うと、そのうち「私が驚いた意見の数々」をまとめて、後々のために残しておくつもりでもある。 

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牡猫ムルの人生相談・4――とむちゃんの巻

2007-02-11 04:01:57 | ムルのコーナー

 都の東北を縄張りとするボス猫のムルが、皆さんの悩みに勝手に答える「牡猫ムルの人生相談」。第一回は某国総理、第二回は憲法の話をしたい若いママ、第三回は厚生労働大臣――と勝手にやってきて、全然ご好評を博してもいないのにまだまだヤケクソで勝手に続けております。今回は、とむ丸さんちのとむちゃんを、引っ張り出してまいりました。とむちゃんのママさん、怒らないでくださいまし……(え? おまえはもう出入り禁止だ? ま、まさか。泣)。

 

【質問】絆という言葉の怖さを、どんなふうに整理すればいいのかしらん。

 あのね、最近あたしのママさんが怒りまくっているの。うーん、昔からいろいろなことで「そんなことは許せないわっ」と怒る人ではあったけど、最近、特にもう、ムカツクことが無茶苦茶多いみたいなのね。で、あたしのご飯も忘れる……ってことはさすがにないけども。で、あたしもやっぱり家族の端くれだし、ママさんが何怒っているのかちゃんとわかって、気持ちを共有するってのかしら、そういうことをしたいわけ。そりゃあたしは猫だもん、むつかしいことはわかんないけど……。たとえばね……ママさんが「戦後日本が失ったもの?」というタイトルで書いてるんだけど(詳しいことはそっちを見てね)、国会議員の人に対して「戦後日本が失ったものは?」というアンケートがあったんだって。そこで上位になった3つが、「地域のきづな」「他人への思いやり」「家族のきづな」だったそうなのね。で、ママさんはこれをすごく不愉快に思ってるふうなの。教員免許の国家試験かとかにも怒ってるみたいだけど、「失ったもの」の話は怒りが爆発するんじゃなくて、一瞬まともに怒る気にもなれない、みたいな絶望的なため息を感じるの……あたしの思い過ごしかも知れないけどね。ちょっと引用するわね。

【「地域のきずな」は、落語に登場する長屋のご隠居さんはご愛敬として、下手をすると隣近所の干渉になりかねません。】【「家族のきずな」ってなんだろう、「イエ」の成員間の関係を指してはいないか?】【さらには「美しい家族のきずな」がことさら強調されると、ただでさえ「小さな政府」が目指されている社会では、福祉問題も家族問題に還元されてしまうのではないか? と心配します。】【「地域のきずな」「家族のきずな」が失われたと判断した議員の一人ひとりは、いったいどんなきずなを思い描いていたのか、訊いてみたい気がします。】

 ママさんが不愉快に思うのって、わかる気はするの。でもあたしはそれを、うまく頭の中で整理できないのよね。何せ、地域も家族もない「猫」だもん。それに、ほんとにそういうものが失われてきたのかも知れないなと思ったりするし。世の中がどんどん悪くなってきたのは確かかも、とか。ムルちゃん、どう思う?

 

【回答】「昔はよかった」なんて言葉は、眉に唾付けて聞くべしだね。

 やぁ、とむちゃん、お久しぶり~。ほんと、ママさん怒ってるね。とむちゃんの言う通り、ズバッとした直球じゃなくてちょっと遠回しな表現になっている分、かえって深く静かに潜行する感覚みたいなものを感じるね。

 いや、おいらもさぁ、国もなければ親もない、ご意見無用の野良猫だからよ。絆なんて言われると「わかんねえー」と首振るしかねぇけどさあ。ただ、「昔はよかった」風なことが言い出される時って、ちょいと気をつけた方がいいとは思うんだ。たとえばさ、江戸時代はよかった、人情があふれてて……みたいに言う人っているじゃん。そりゃまあ、今より人情は厚かったかも知れんさ。おいらには、その辺のことはわかんねぇよ。でもよぉ、江戸時代っつーのは、庶民の人権なんか認められてなかった時代だぜ。そりゃ、いいところもあっただろうけど、社会の仕組みとしては決してユートピアじゃなかったはずさ。だから、ギリギリのところで嫌でも助け合わなければならなかった、のかも知れない。時代小説、ってのがあるだろ? いや、むろんおいらは猫だから1冊も読んじゃいねぇけどさ、いろんな小説家が時代小説書くのは、「自分の意思ではどうしようもない有形無形の掟に縛られた世界での悲劇や喜劇」を書くのに、すごく便利だからじゃないかなって思ったりする。ひょーろんなんかする気はないけどさ。

 戦前の社会でも、そりゃあさあ、いいとこはいろいろあったと思うよ。失われたものもいっぱいあるかも知れない。その辺は猫の長老にいろいろ聞いたりしてる。でもさあ、明治憲法と、今とは全然違う民法に縛られてた時代なんだぜ? 息苦しかったと思うけどなあ。

 ま、それはそれとして。失われたものは、あるかも知れない。失われた風景、とかは確実にあるだろうしね。でもねえ、とむちゃん。さっきちょっと言いかけたけど、それが「昔は良かった」とは絶対イコールじゃないとおいらは思うんだよな。「昔はよかった」ふうなことを言う連中の言葉を、よくよく聞いてりゃわかるじゃん? そういう連中は、自分達に都合のいいところだけ取り上げてるだろ。いや、誰だって何か言うときは、自分に都合のいいところをピックアップするさ。そのぐらい、おいらでもわかってるさ。おいらもしょっ中、やってるからさぁ。だから問題は、「何が言いたくて、それを持ち出したか」だと思うんだよな。聞いてるとわかると思うけど、「昔はよかった」論者がいうところの「よかったもの」って、分際を知った生き方とか自分を抑えて誰かに尽くす精神とか、オカミに都合のいいモラルと関係の深いものが多いと思わない? 

 本当のこと言うと、おいらは「人情」とか「絆」とかの基本みたいなものは失われたわけじゃないと思うんだ。自分の命を賭けて誰かに尽くす、みたいな心意気も在る。話が逸れちゃうから具体的には言わないけどさ、おいらだって、人間社会と接する中でそういうのを感じることは結構あるもん。ただ、「昔」とはすこーし色合いが違うかも知れないけどね。当たり前じゃん、世の中は変わっていくんだもん。表現方法だって変わって当然じゃんか。

 地域の絆がとか家族の絆がとか、何とかのひとつ覚えみたいに言われるけどさぁ、そんなもん、ほんとのとこどうだっていいじゃん。人間が生きていく上で必要なものであれば守られるし、不要なものであれば捨てられる。多分必要なものなんだろうけど、それなら無くなったりはしないさ。もし無くなるとすれば、それは人間が地球にとって不要、つーか有害無益な存在だったというだけのこと。ま、静かに絶滅するんだね。既に消え去った数え切れないほどの種の後を追ってさ。いずれにしたって、絆なんてものは無理矢理作りあげたり押しつけたりするもんじゃねぇし、そんなことしたってうまくいきっこないさ。

 それなのにことさらに「絆が失われた、失われた」と言いたがるのって、すごく危険だなとおいらは思う。そういうこと言う人の頭にある「絆」のモデルは、過去のものでしかない。昔を懐かしむことでしか自分という存在を確認できないジイチャンの、老いの繰り言だね。……って、そこそこ若いくせにそういう老いの繰り言する連中もいて、その辺はちょっと信じらんない気分だけど。懐古趣味って、たぶん、人を酔わせるんだよね。未来は不確実だけど、過去は確実に存在するわけだし。

 でもさぁ……昔のことを考えるのはいいよ。て言うか、昔のことは知っておくべきだし、いいところはきちっと評価して受け継いでいくべきだけど、「昔はよかった~」だけにはなっちゃいけないと思うんだよな、おいらは。

 それと、もひとつ。ママさんの言葉にもあるけど、「いったいどんな絆をイメージしてるんよ?」ということ。おらが村さえ豊かになればいいとか、よそ者は排除しようぜっていう絆もあるしね~。

 無理矢理引きずり出したのに、まともな話できなかった。ごめんね。これからきちっと考えとくから、勘弁して~。……てことで、とむちゃん、ママさんによろしくねっ。いつぞやはご馳走さま、また遊びに行くからサカナ食べさせてね~と伝えておいて。おみやげも持ってくからねって。おいら、とむちゃんに色目使ったカドでママさんに嫌われてるかもだからさぁ、これでも結構、気にしてンのよ。こう見えてもおいら、繊細なんだぞ。

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なぜ少子化がそんなに怖いのか

2007-02-10 01:18:08 | 現政権を忌避する/政治家・政党

〈前置きとして〉

「若い人達は2人以上の子供を持ちたいという極めて健全な考えを持っている」とのたもうた、柳沢厚労相。女性を「産む機械、装置」にたとえた発言については「陳謝」を繰り返しているが、「健全発言」のほうは陳謝・撤回を拒否している。7日の衆院予算委員会で、「みんなが子どもを持ちたくないと意思表示をしたら、私は困ってしまう。その言葉を撤回しなければならない理由が分からない」と述べたそうだ。何度でも言うが、この人はホントにわかっちゃいない。最初の問題発言に関して、「うっかり(何の悪気もなく)機械なんて言葉を使ってしまったからマズかっただけ」と思っているだけなのだ。    

おばさんをお嬢様と言っているだけの言葉にだまされない!」ととくらさんは怒っておられたが、柳沢厚労相はまさしく その手の表面的な言い換えだけでモノゴトが解決すると思っている御仁の典型。「ジジババ」を「お年寄り」と言い換え、「おんなこども」を「ご婦人やお子様」と言い換えたりして、それで文句ないだろと思っているのだ。

 

〈公僕の価値判断は越権行為〉

 それはともかくとして、「健全」発言の方である。「機械・装置」発言以上に、不愉快きわまりない。なぜ不愉快かと言えば、明確な価値判断が入っているからだ。

 私は沸騰しやすい「小さなポット」だけれど、それでも親戚のジイサンバアサンが「子供は2人以上持ちたいっていうのが、やっぱり健全な考え方ではなかろうかのう」と言ったのであれば、いきなり烈火の如く怒ったりはしない。そういう考え方を持つのは、いわば個人の自由であるから(その考え方は違うと噛みつくかも知れないが)。柳沢厚労相にしても、自分の家族の集まりか何かで言うのは自由。しかし厚生労働大臣の立場で、公の席で言ったというのが最大の問題なのだ。

 私は選挙権を持ち、税金を納めている国民の一人として、「公僕」に「勝手に価値判断する権利」を与えた覚えはない。それは越権である。(そんなこと言われれば自由にモノが言えなくなるじゃないかって? 当たり前です。公僕というのは、そのぐらい縛りのきつい立場なのだということを自覚してもらわないと困る)

 

〈後ろめたさとほろ苦さ〉

 私は子供というものを持っていない。考えれば考えるほど親という存在になることに腰が引け(自分がよっぽどろくでもない子供だったからかも知れない)、この年まで(苦笑)子供を持つという選択をできないままで過ごしてきた。だからこそ、というべきだろうか。私は子供を育てている、あるいは子供を育てて独立させた友人知人達に対して、常に後ろめたい、ほろ苦い思いを抱いている。

 だが、これだけは断言できる。後ろめたいのは、「自分は不健全だ」と思っているからではない。「見る前に跳べ」なかった自分のことを顧みるつど、勇気ある決断をした友人達に無条件で敬意を表するからである。いわば、自分が面倒なことから逃げてきたような気がするわけだ。ほろ苦いのは、ひとつ楽しみを捨てていたんだなと思うからだ。

  私の高校時代からの友人のひとりが、少し前に癌で手術した。一応手術は成功したが、はっきり言って予断を許さない状態。その手術前に彼が真っ先に言ったのは、「子供つくらなかったことを、ちょっとだけ後悔しているんだ……」。彼は二十代前半で結婚したのだが、(私とは理由も感覚も違うと思うけれども)さんざん迷った末に子供は作らないという選択をした。その選択を間違っているとまでは思わないだろうが、「子供を持ち、育てるということもしてみたかったな。きっと楽しかったと思う」と言って、深々とため息をついた。人生のターニング・ポイントを回ったひとりの男が、「大きな忘れ物をした気分」について――表面的にはサラリと冗談に紛らせた口調で漏らしたのだ。その気持ちは、私には痛いほどよくわかる。

 そして、後ろめたいのもほろ苦いのも(小泉前首相の真似じゃないけれども)私の「心の問題」である。他人にとやかく言われる筋合いはない。健全だの不健全だのと、シタリ顔で言って欲しくない。ましてや、我々の税金で雇っている「公僕」には。

 ひらべったい表情で、手垢にまみれた言葉で語って欲しくない問題のひとつ――おそらくは代表的な問題のひとつ、なのだ。人間という存在に対する愛情と憎悪のはざまで揺れ動きながら、ひとは子供を持つ、あるいは子供を持たないという選択をする。結婚してもしなくても後悔するだろうと言った昔の哲学者がいたが、子供を持つことも同じ。乏しい脳髄を絞り上げるようにして考え、考えた揚げ句にひとはひとつの道を選択する。その責任は性根を据えてとるべきであるが、他人に、ましてやオカミに健全だの不健全だのと言われる筋合いはない。

 

〈みんなが子供を持ちたがらなくなったら、って?〉

 みんなが子供を持ちたがらなくなったら、ますます少子化が進む。それでは困る――という考え方を持つ人は(多いか少ないか知らないが)いるようだ。でも、それはためにする類の極論だと思う。「みんなが子供を持ちたがらない」なんてことが、本当にあり得ると大臣は思っているのかね。私の友人知人は、圧倒的に子持ちが多い。中には5人もの、現代では珍しい大勢の子供を持つ友人もいる(あと1人2人欲しいそうで、仲間はみんなで勝手にしろと好意的にからかっているのだが)。ついでに言うと、シングル・マザーやシングル・ファザーもいる。

 出来る限り大勢の子供が欲しいと思うのも、子供はいらないと思うのも、配偶者はいらないから子供だけ欲しいというのも個人の自由。オカミに口出される話じゃあない。子供が(できるだけ大勢でも2人でも何でもいいけど)欲しければ欲しいなりに、子供が欲しくないなら欲しくないなりに、生きていける土壌を作るだけが、あんたがたの仕事なんだってば。そして子供を産み育てたい人達の応援するために、税金の負担をする気持ちも用意も充分にあるさ。別に年取ってから、次世代の人達に養ってもらおうなんぞという下心があるわけじゃあない。未来へ希望をつなぐ投資は、今を生きている私たちの責務だと思うからだ。

 

〈少子化、別にいいではないか〉

 話があちこちブレ続けて、ようやく今日書いておきたかった話にたどりつきつつある。そう、少子化の問題。

 結論から先に言うと、私は少子化がなぜそんなに問題になるのかわからないのだ。人口が減る? 別にいいじゃん、というのが私の素朴な感覚である。人間は、絶滅寸前の生物ではない。(こんなこと言うと語弊があるかも知れないが)地球のためには少し減った方がいいかも知れないぐらいだ。パンダじゃないんだからね、大丈夫ですよ。あんまり野放図に増えすぎたので、自然に歯止めがかかっているのではないかという妄想すら抱くことがある。

 ほかの国は人口が減らないのに、日本だけが減ることに危惧を抱いている人もいるのかも知れない。でも私は――あまり日本という「国」に執着はないので、それも別にいいじゃないか、と思っているのだ。正直なところ。

 子供に毛の生えた年齢の頃、老子の「小国寡民」にちょっとだけ憧れたことがあった。浮き世のゴタゴタの中で当時の切ないほどの純粋さは失ったけれども、今でもほんの少しそれに魅かれるものはある。日本などという「国」が張る肩肘を失い、ひっそりと息づくようになった時、この国が持っていた本当の宝物が鈍い光を放ち始めるかも知れない(うへ。私も愛国者なのかなあ? 嘘みたい)。

 今夜もまた、とりとめもない戯れ言でありました。

 

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えっ、過労死は自己管理の問題?

2007-02-08 22:44:51 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 一昨日「自己責任という言葉を使うな」という記事を書いた。私が「生活習慣病」という言葉が嫌いな理由――をウダウダと書き殴ったのだ。この言葉がいつから一般に使われるようになったのかよく覚えていないが、「自己責任」なる言葉の蔓延と軌を一にしているのではないか、というのが私の感触である。そして、

【生活習慣病になるのも、リストラされるのも、子供抱えて路頭に迷うのも、過労死するのも自己責任。馬鹿言うんじゃないっ! この国はいつから、こんなうそ寒い国になったのだろう。】

 と書いたのだが……その矢先に、「過労死も自己責任」と言わんばかりの奥谷禮子氏の発言をめぐって、衆院予算委員会で論議があったそうだ。この問題に関してみやっちさんが「過労死は自己管理不足?」と題するエントリをTBしてくださったが、ほかにも大勢の方が目を剥いておられるだろう。わかっちゃいない人が、ここにもいた。

〈遺族の前で同じことを言ってごらん〉

 奥谷氏は人材派遣会社の社長で、厚生労働大臣の諮問機関である「労働政策審議会」の委員のひとりである。問題になったのは『週刊東洋経済』1月13日号のインタビューで、「経営者は過労死するまで働けなんて言いません。過労死を含めて、これは自己管理だと思う」と語った部分など。ちなみに奥谷氏はホワイトカラー・エグゼンプションの積極的推進論者で、分科会では「労働者を甘やかしすぎ」などの発言をしているという。

 むろん、経営者は「過労死するまで働け」とは言わないだろう。死ぬ気で働け、みたいなことを言った人はいたような気もするが。昔々の為政者だって、民にどんどん死なれちゃ困るから(労働力が減るし、ヤケを起こされても面倒なので)「生かさぬよう殺さぬよう」という微妙なバランスで絞っていた。

「過労死などされたら寝覚めが悪いから、なるべくしないで欲しい」と思っているはずだ。経営者だって鬼でも悪魔でもないのだし、社員はドレイだとも機械だとも思っていないだろうから(ドレイや機械扱いする、ということはあるにせよ)。「なるべく死なないように働いて欲しい。でも万一過労死という事態が起きても、競争に勝ち抜くためには、それはそれでやむを得ない。名誉の戦死、の扱いをしてあげるから、迷わず成仏してネ」というあたりが、最も本音に近いのではあるまいか。

 ブログで以前父のことを書いた覚えがあるが、私の父は40歳を目前にして過労死(くも膜下出血で死亡)している。だから自己管理の問題などと言われると、猛烈に腹が立つ。

 父は朝は早く夜は遅く、日曜もしばしば出勤していた(当時は休日は土日でなく日曜だけ)。帰宅が深夜近くなる日が続き、3日ぐらい父の顔を見なかったことも稀ではない。むろん昼食のみならず夕食もほとんど外食。何を食べていたのか知らないが、要するに栄養バランスの悪いものばかりだったろう。結核の既往があり、あまり丈夫でない人だったから、母は働き過ぎを心配したらしいが、もう少ししたら楽になるというのが彼の口癖だったようである。だが、彼は死ぬことでしか楽になれなかった。

 疲れていたと思う。それならたまの休日はゆっくり休めばいいようなものだが、彼にとって休日は子供と遊ぶ日だった。特に遠出するわけではなかったが、公園だの、電車で2駅か3駅程度の遊園地だのに行き、帰りには本屋によって好きな本を選ばせてくれたのを覚えている。一緒に犬の散歩に行き、雨の日はよく、家の中でゲームをした。

 私の父が死んだのは、自己管理が悪かったのですか。そうですか。

 社会に出てからも、周囲で何人もが過労死した。たとえば去年も知人のひとりが(この人とは友人というほどの仲ではないので、後で知らされたのだけれども)。勤め先の銀行が合併し、仕事が過剰になった上、職場の人間関係はややこしくなり、さらに通勤は遠距離になるなどで心身の疲労が重なったあげくのことだった。辞めたい、と家族に漏らしたこともあるそうだ。それでも高校生の子供がいて、家のローンがあって、この年で辞めたら次の職場はみつからないだろうとしう不安もあり、働き続けた末に彼は突然死んだ。過労死寸前まで働き、鬱病になって自殺した人もいる。奥谷さんあなた、彼らの遺族の前で、とうちゃんは自己管理が悪かったんだよと言えるか。

「勝ち組」の言葉だなあ、とつくづく思う。奥谷さん、あなたのような人であれば、きっちりと自己管理できるかも知れない。しかし選択肢が限られ、えらい方たちのおっしゃる自己管理なんて絵に描いた餅だよという労働者も世の中には多いのです。競争に勝った人達はすぐ、自分の能力が優れていたから、人一倍努力したから、徹底的な自己管理にも努めたから、今の自分があると言う。負けた人間は能力が、努力が、なかったからだと。

 そりゃ、能力はあるのだろうし(少なくとも私よりはあるな、ウン)、努力もしただろう。自己管理もしたのでしょう。それは認める。だが勝ち組なるものに入れなかった人達が、能力も低く努力もせず、自己管理もできないダメ人間のような言い方をするのは不遜を通り越して、人間としての基本的な部分が疑わしい。 

 

◇◇◇エントリと関係のない雑談◇◇◇

 nizanさんが、高橋和巳『邪宗門』にかかわるエントリをTBしてくださった。ありがとう。あ、朝日文庫で手に入るのですか。誰かがかっぱらって行ったことばかりしつこく覚えていて、どこかで文庫になっていることなど考えてもいませんでした(汗)。私もこの本は愛読書の1つで、初読はnizanさんと同様10代の終わり頃。その後、何度か(といっても3度ぐらいだが)読み返した。

 鮮明に残っているシーンのひとつが……(これも何度か書いた覚えがあるが、まあいいや。読んでくださってる人少ないし)……戦争中、弾圧されて解体させられた「ひのもと救霊会」の人達がちりぢりになり、その一部の人達が素人劇団をやっていた時の話。その劇の中に、「国には国の掟あれど、我らにはまた我らの道」というセリフがあった。劇の筋立ては陳腐で、演技もヘタクソという設定になっていたが、それだけになお、このセリフの部分は私の中に強烈な印象を残し――今も残っている。

 国には国の掟あれど。

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「自己責任」という言葉を使うな

2007-02-06 23:34:06 | 本の話/言葉の問題


 柳沢厚労相、今度は「若い人達は、子供は2人以上という健全な考え方を持っている」と発言した。まだ言ってるのか、このヒト。何もわかってないんだね。先日の「女性は産む機械、装置」発言も、ゴタゴタ言う奴が多いからいちおう頭下げておこうかと計算しただけで、何が問題なのか全くわかっていないということがアリアリ。健全だとか美しいとか、あんた達は判断する立場じゃないんだってば。

 ……ということで柳沢厚労相のことをしつこく書こうかと思ったが、あの顔を思い浮かべるだけでも不快なので(ついでに、擁護した都知事の顔まで浮かんだりしてさらに不快である)、別のことを書こう……。と言っても、楽しい話題じゃあないけれども。

◇◇◇◇◇

「不愉快な言葉」や「引っかかる言葉」は、たくさんある。世の中にはそれが満ち満ちていて、時折心が酸欠状態になりそうな気がしたりする(むろん逆の言葉、希望を感じさせてくれる言葉も多いのだが、最近ははもともと美しかったはずの言葉にまで泥を塗るようなヒトが多くて困る)。これまでも「嫌いな言葉」についていろいろ書き散らしてきた覚えがあるが、今日は日常会話の中で使われる言葉をひとつ取り上げてみる。

 たとえば「生活習慣病」。これも私としては非常に引っかかる言葉だ。もう何年も前から普通の言葉として定着しているふうで、私の母などでさえ「生活習慣病の予防」がどうのこうの――と、旬の野菜の話をするのと同じようなさらりとした口調で語る(もう、予防という段階ではないと思うが……)。

 だが私はいまだに違和感が拭えず、文字にする場合は「いわゆる生活習慣病」とか「生活習慣病と呼ばれる病気」という書き方をする。生活習慣病という言葉には、「アンタの生活習慣が悪いからだ」という価値判断が入っているからだ。

 以前は「成人病」と呼ばれていた。これも納得できる言葉とは言い難いが、まだマシだったと思う。この呼び方は、いったいいつ変わったんだっけ。正確なところは記憶に残っていないが、「自己責任」という言葉がじわじわと広がり始めた頃と軌を一にしていたような気がしてならない。

 そう言えば少し前に、「生活習慣病になったのは本人の責任。全然同情できない」という言葉を聞いたことがある。いや、政治家や有名人の「発言」ではない。私的な席で、何かのついでという感じでこんな発言が出たのを聞いたのだ。発言者は酔いに任せて、「そんな病気に健康保険を適用する必要はない」とまで言った。さすがに非難の声が上がり、本人も言い過ぎたと認めたけれども、「生活習慣病は本人の責任」あたりまでは同感に近い人もいたような感触を受けた。その時の何とも言えない不快さを、私は今も引きずっている。

 最近、メタボリック・シンドロームという言葉が広まっている。これも何だか「そうなったのは本人が悪い。もっと厳しく自己管理しろ」ふうな匂いがつきまとうが、職業性のストレスが多い人の場合、メタボは平均の2倍もに跳ね上がるという報告もあるのだ(医学関係の論文であるが、私は原文で読んだわけではなく引用を、それも翻訳されたものを見ただけだし、出典も忘れた。調べている時間がないので、すみません……。何せブログは私の覚え書きに過ぎないので。って、こればっかり言ってるな)。 

 ちなみにストレスの多い職業というのは、必ずしも「激務」とはイコールではない。むろん、残業に継ぐ残業でボロボロになったサラリーマンもストレスが多いことは確かだが(私は自分の親父が過労死した人間なので、この辺は自信持って言える)、労働時間が過剰でなくたってストレスの多い仕事はいくらでもある。正社員と同程度の責務を負わされながらも、報酬が低く、いつ契約を切られるかわからない不安に苛まれ、そして裁量権などほとんどないという派遣やパート・アルバイトの人達も、日々激しいストレスにさらされているのだ。

 話が混乱してきたが、生活習慣病だって――中には百も承知でわざと暴飲暴食続けたあげく、という人もいないとは言えないが――本人が好きこのんでなるわけではない。

 生活習慣病になるのも、リストラされるのも、子供抱えて路頭に迷うのも、過労死するのも自己責任。馬鹿言うんじゃないっ! この国はいつから、こんなうそ寒い国になったのだろう。「みんなで幸福になりたい」「ひとりでも不幸な仲間がいたら、辛くて耐えられない」という、生きとし生けるものの素朴な感覚を失ってしまったのだろう。いや、昔々っからそんなものは幻想だったのかも知れないけれど、人間には見果てぬ夢というものがあるはず。一歩でも近づきたい地平、というものがあるはずではないか。そんなものはないというのであれば、私は――人間をやめたい。やめて野良猫にでもなって、ムルと一緒に暮らしたい。


〈蛇足〉

 阿弥陀の本願に、たしか「すべての人が救われるまで、私は極楽浄土に行かない」というふうな言葉があった(原典調べて書いているわけではないので、言葉としてはかなり違っていると思う。私が受け取った感覚で書きなぐっているだけである。だから実際の文章と違っているなどのご指摘は御容赦願いたい。私は学者でも評論家でもないから、細かな字句は実のところどうだっていいのだ。いや、むろんきちっと書くときは、正確を期すべきだということぐらいはわかっているけれども、何せこれは寝言ふうのメモなので。正確な文章知りたい人は、個々にお調べくだされ)。

 私がごく若い頃に読んでひどく心に残り、何度も読み返した高橋和巳の『邪宗門』(これは既に絶版で、手元にもない。誰かが借りて行ってそのままなのだ。誰が持っていったかももう忘却の彼方だが、思い出したら返してくれ~)にも、同じような言葉があった。これは大本教をモデルにした小説なのだが、その教祖のお筆書きに、「すべての人が救われるまで……」という誓願があったのだ。 

 私はリッパな人間ではないから、とてものこと「すべての人が救われるまで」などと言う自信はない。無理矢理言えば自分自身のヘソが茶を沸かしそうになるが、最低これだけは言える。「私ひとりだけ、いい目を見るのは嫌だ。せめて、転んだ友人達の痛みを自分も分かち合い、彼らに手を延べて、一緒に歩いていきたい。たとえオロオロ、ウロウロとであろうとも」。



  
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ああ、似たもの同士――都知事、厚労相を擁護

2007-02-03 23:47:10 | 東京都/都知事

〈石原知事、記者会見で厚労相を擁護〉

 女性を産む機械・装置にたとえた柳沢厚労相。先日来、非難ゴウゴウといった感じで、私の周囲でも老若男女を問わず、ついでに言うと政治的立場もさほど関係なく、「不愉快だ」という声が聞こえ続けている。私も「安倍政権の正体見たり」、「オス猫ムルの人生相談・3」と2回続けて取り上げてしまった。

 いくら何でもレベルが低すぎると言うことか、さすがに「立派な表現であった。何の問題もない」と擁護する声は――少なくとも私の知る限りはまだない。ただ、「ちょっと表現がまずかっただけ」という見方は結構あり、たとえば経団連の御手洗冨士夫会長も「わかりやすく言おうとして、不用意な発言になってしまっただけ。すぐ陳謝、訂正したのだからいいじゃないか」という意味のことを言っていた。ご本人も、首相も、本気でそう思っているのだろう。ちょっと言い方が悪かっただけじゃんか、ガタガタ文句言うなよ、うるせえなぁ、と。

 そんな折も折――出ました、出ました。やっぱりと言うか何というか、石原都知事の「厚労相擁護発言」。

 東京都では毎週金曜日に、知事の定例記者会見がおこなわれる。私はメジャーなメディアの人間ではないからむろん出席できないが、知事が何を言い、記者が何を質問したかを知るためにいつもこのやりとりをチェックする習慣があるのだが(ちなみに毎回の会見は都庁HP内の「知事記者会見」のページで再現されている)、つい昨日、2月2日の会見で厚労相の発言について「騒ぐような問題ではない」と言わんばかりの見方を披瀝したのだ。

【前後の文章を読むと、話しながら「ごめんなさい」とか言っている。たとえの仕方が悪かっただけ】【男には子供を産む能力がないから、女性が結婚されたら、お子さんをたくさん産んでほしいという要望を、ちょっと短絡的に言い過ぎたんじゃないか】

 おお、似たもの同士!! 類は友を呼ぶ。(都知事殿、あなたもいやしくも作家を名乗るなら、もう少し言葉をいうものをその意味と共に大事にしてほしいもんです)

「男には子供を産む能力がないから」って、都知事殿は「子供を産むこと」はヒトゴトだと思っているらしい。マリアさんじゃあるまいし、女性が一人で産めるものじゃないと思いますがね。

「女性が結婚されたら」ってのも、何度聞いても変である。結婚した女性もしくは夫婦は子供を産むのが当然であると思い、さらには子供は結婚制度の下で産むべきだと思っているらしい。  

〈世も末、というのはこのことだ〉

 luxemburgさんが、いみじくもこう書かれた。「毒の果実は毒樹に実る」。このエントリでも取り上げられていたが、都知事は以前、「生殖能力を失ったババアが生きているというのは有害なだけ」という暴言を吐いたことがある。そんなババアを養うのは社会のムダ、早く死ね、というニュアンスだった。こんなおそるべきことを言う奴がのうのうと知事の椅子に座り続けているというだけでも驚き桃の木サンショの木(おまえも都民だろって? すみません、ヒトゴトみたいに言ってしまって。石原三選阻止!)。ところで、生殖能力を失ったジジイはよいのでしょうかね。精子は一応、死ぬまで在るからいいって? あ、そう。勝手に言ってな。

 ……それはそれとして。(何か、こういう連中の言葉にまともに反応していると、こっちまで言葉が汚くなってくるような気がする。流れに嗽ぎたい~。石に嗽いでもいいけど)

 まったくもう、「わかっていない」人間が多すぎる。言葉の問題じゃないって、何度言ったらわかるんだい(だんだんムルにも似てきた)。日本ももう、ほんと終わりかも。愛国心のない私でさえ、かなり心配になる。「反日」であるらしい私にまで(笑)心配させんといてくれ。

 この問題はジェンダー・フリーがどうのこうの、男女参画社会がどうのこうの、というだけの問題ではない。根っこのところで人間の自由と尊厳を軽視している政治家たち、個々の人間よりも「国」が大切だと思っている政治家たちの、その一人がポロッと本音を漏らしたのである。国民は「それこそ烈火の如く」怒るべきだ。こういう連中すべてを、私たちは否定し、(公僕という立場から)引きずりおろさねばならない。  

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牡猫ムルの人生相談・3――厚生労働大臣の巻

2007-02-01 21:39:20 | ムルのコーナー

 都の東北を縄張りとするボス猫のムルが、皆様の悩みに勝手に答える「牡猫ムルの人生相談」。第1回は某国首相、続けて第2回は「憲法の話をしたい若いママ」の悩みを取り上げました。久しぶりの第3回は――自分の発言がなぜそんなに非難されるのか(実のところ)わからないという、お年を召した厚生労働大臣の悩みに答えます~。(ムルって何だと気になる方は、こいつを簡単に紹介したエントリをご参照くだされ)

【質問】きちんと謝ったのに、どうしていつまでもゴチャゴチャ言うんだ!?

 私は厚生労働大臣であるが、実は先日、うっかり「失言」をしてしまった。少子化問題のことを話した時に、「産む機械、装置の数は決まってるんだから、ひとり頭で頑張ってもらわんと~」と言ったのだ。そしたらもう、ババア共、じゃなかったご婦人の皆様や、それどころか野郎共、じゃなかった男性達までがうるさいことうるさいこと。あたしゃね、別に女性の人格を無視したわけじゃあ、ありませんよ。差別意識なんてこれっぽっちもありませんよ。第一、私は自分の母親を尊敬しとるですしね。でもまあ、表現が適切じゃなかったかも知れない、と思って慌てて訂正したしね、申し訳なかったと陳謝いたしましたよ。それなのに、まだブウブウ言う輩が多くて、ほんとのとこ面食らっておるのだ。機械とか装置とかっていうたとえも、ここだけの話じゃが別におかしいとは思わんのだよ、わしゃ。単なるたとえじゃないか。キイキイ言う人間の気が知れんよ。でも、オンナ共、じゃなかった女性の反感買うと参院選も危ないとかって言われて、謝りましたよ。総理はそれで充分だって言ってくださったし、経団連会長だって「すぐ謝罪、訂正したんだからいいじゃないか」と言ってくれてますしね。それなのに、まだ「辞任しろ」という声が聞こえるのには正直言って腹が立つばかり。いったい何が不足なんだ。土下座でもしろって言うんですかね。

 

【回答】ゴメンですまない話なんだよ。あんた、わかってないね。

 あーあ、こんな話、もう喋るのもうっとうしいんだよな(設定した華氏の奴、今度ずぇったい引っ掻いてやるぞ)。

 あんた、「謝ったからそれでいい」と思ってるの? 華氏じゃないけどさ、「ゴメンですむ話ではない」 とおいらは思うぜ。形だけでもいいから謝れば、みんなチャラになる。水に流してもらえる。あんたらきっと、そう思って生きてきたんだろうなあ。口で謝ってダメなら、土下座すればいいか、ってさ。ほんともう、度し難い感性だよな。経団連も、馬脚あらわしちゃったよな。

 ちょっとまずい表現しちゃった。だから謝って、言い換えればいいじゃん、とあんた思ってるだろ? それが変なんだって、あんた気がついてないんだよな……。あんたは「機械、装置」という言葉はさすがに不適切だったとかって言って、「産む役割の人」とか、そういう表現に言い換えたんだって? 同じじゃん。何処が違うのさ。ゾゾゾゾゾっと、おいらなんか鳥肌が立つよな。おいらは数にも入んない、生きようが死のうが世界とはなーんの関係もない野良猫だけどさ、「産ませる役割の存在」なんて言われりゃあマジで怒るぜ。国民はモノ、なんだよな。おかみの言う通りに「産めよ増やせよ」をやってろっていうんだよな。個々の人間の存在とか、歓びとか悲しみとかなんざ、ぜーんぶ、なーんの関係もなくってさ。そうゆう発想なんだよな、あんたら。働け、そして産め。国に奉仕せよ。

 あんたは「美しい季節とは誰にも言わせまい……」のnizanさんが言うように、ノスタル爺かも知んない。ノスタル爺なら、それはそれでかまわねぇよ。勝手にやってな。でもさあ、それをいつまでも引きずって、それどころか若い層にまで押しつけようとするのは、やっぱしおかしいぜ。黙って消えて行きなよ、悪いこと言わねぇからさ。(だいいち、あんたがノスタル爺ぶりを振りまくと、迷惑に感じる人も多いと思う。反戦老年委員会さんとか、再出発日記さんとかも、絶対不愉快だと思うんだよな。こんな奴と、同世代じゃねえぞーって)

 ちょびっとだけ言葉飾っても、衣の下から鎧がチラチラするっていうやつ。あんた見てると、ほんとそう思う。とくらさんって人もさ、「おばさんをお嬢様と言ってるだけの言葉に騙されない」と言ってるぜ。庶民てのはね、すこーし反応が鈍いかも知れない。周囲に気イ使っちゃって、つい口ごもったりするかも知れない。おいらの友人の華氏も、そういうヘタレな奴さ。でも、いつまでもいつまでも騙されちゃあいないんだぜ。いつまでもいつまでも黙っちゃあいないんだぜ。ぎりぎりまで行けば、やっぱしキレる。あたりまえじゃんか、生き物だもん。

 ところで首相は「反省した上で職務をまっとうし、結果を出して欲しい」とか言ってるようだし、あんたも「全力を挙げて取り組む」とか言ってるんだよね? なーんかさ、あんたでなきゃ出来ない、みたいに首相は(本気かポーズかは別として)言い、あんたは「我こそは」って思ってるみたいだね。都知事流に言えば、余人をもって代え難い、ってやつかね。でもさあ、そんなこと、ゼーッタイにないんだって。いくらでも代わりはいるって。特にあんたと同程度の人だったら、自民党内には掃いて捨てるほどいると思うよ。それに気がつかない、あるいは気がつかないフリしてるってことが、そもそも問題だとおいらなんざ思うけどなあ……。

 関係ないけどさ、「なだ いなだ」って人が筑摩書房のPR誌の『ちくま』だったかな、おいらよく覚えてないけど、ともかくどっかで「安倍首相は美しい国、美しい国と連発している。よっぽどこの国が汚いと思っているらしい」と吐き捨てていた。それ読んだ時は「晋三君にとっては、この国は汚ねぇんだろーな」と思っただけだけれど、あんたの発言聞いて、おいら、「けっ、やっぱりこの国は汚ねぇや」と思ったね。そーりだいじんとは、全然違う意味だけどさ。きったねぇ!!

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