ここを覗いてくださった中にも、行かれた人はあるのではないか。本日、辺見庸の緊急講演会を聞きに行った。昨日は国会議事堂前のヒューマンチェーンに半ば野次馬的に参加した。私は6時ぐらいはたいていまだ仕事中で、2日続けてその時間帯に体を空けるのはちょっとしんどかったりするのだが、今日の講演会はどうしても行きたかったのだ。
辺見氏はいま、書き下ろしの準備をしているとのことで、講演はその草稿に基づくもの。出版されてから読んでも、内容的には同じものを把握できるだろう。私は(生活などに追われてドタバタしていることもあって)あまり積極的に講演会などに行く方ではなく、特に後で活字になると予測されるものは滅多に聴かない。だが今回は講演の情報をキャッチした時点から、何とか時間を調整して行くつもりであった。
皆さん御存知の通り、辺見氏は一昨年脳出血で倒れ、さらに癌も発見されて闘病中。著書の中でも「もう自分には時間がない」と明言し、命のギリギリの瀬戸際という感覚で発言を続けようとしている。その肉声を、きっちりこの耳にとどめておきたかったのだ。そんなことを言うといかにも野次馬的な物見高い感じでイヤラシく響くかも知れないが、私はそういうやり方で――むろん彼のようにきっぱりした姿勢はとれず、表現も出来ないけれども、大勢の無名の抵抗者の一人として世の隅で生きていくささやかな思いを、自分自身で確かめたかったのだ。ちなみに講演の中でも彼は「先は長くない」と言い、「しかし自分の(肉体的な)状況をアンフェアだとは思わない。自分が健常だと幻想を持っていた時よりも、生息していることに実感を持っている。『永遠の今』を自覚するようになった」と語っていた。
開演(午後6時半)の直前に駆け込んだ時には、明治大学・アカデミーコモンのホール(1192席)はほぼ満席。少しばかりの空席も2~3分のうちに埋まった。講演が終了して席を立った時、後ろ扉の近くで立っていたらしい人達もちらっと目に入ったので、入場率は100%超えていたと思う。ざっと見たところ半ば以上は中高年だが、学生風の若い人達もかなり目立った。講演に先立って、「講師の血圧測定のため、途中で休憩を入れること」と「講師の体調によって緊急の休憩もあること」の2点に了解を求めるアナウンスがあり、辺見氏の体調が気遣われたが、幸い特段のことはなく講演は終了した。
◇◇◇◇◇
私は昔から忘却力が旺盛で聴きっぱなしでは何でもすぐに忘れるし、思いついたことも片端から忘れていくので、何かあれば記憶が鮮明なうちに自分の覚え書きとしてメモ的な日記を書き留めておく習慣があった。ブログは公開しているとはいえ、基本的なスタンスは同じ。今回も、自分の頭にきっちりしまい込む目的で講演の要旨などをここにメモで残しておく。(録音したわけでも何でもないので、氏の発言を100%正確に再現することはできない。しかも私の耳と頭を経由しているから、あくまでも私が理解した範囲でしかないし、当然のことながら自分に関心のある部分が強く響いている。ただ、内容的には間違っていないはずである)
講演のタイトルは「個体と状況について――改憲と安倍政権」だが、辺見氏は最初に「副題とは直接関係ない話をするかも」と述べた。「医師や友人達から免疫力を上げろと言われているのですが、副題にある名前を音声にすると一気に免疫力が下がりそうなので」と言って会場を笑わせたが、安倍首相や現政権だけの話ではなく、もっと根本的な問題について語りたいということだったのだろう。事実、休憩を除いて2時間半に余る講演の中では、現政権や改憲、教育基本法改定、共謀罪新設に関する直接の話はほとんど出なかった。だが、現在の状況に不安や恐怖を持っている人間が抵抗の姿勢を保ちたいと思うときに、地を踏む足の指に懸命に力を入れるための考え方の――ベクトルのありかたのようなものを、彼は我々に必死で訴えたように思う。
〈言葉がダメージを受けている〉
辺見氏は「よく言われることだが、ここ数年で社会の状況は本当に悪くなった。ほんの数年前には考えもしなかったことが、ごく平気でおこなわれている」と言う。その中で、一番ダメージを被っているものは何かと考えたそうだ。肉体か。風景か。情勢一般か。……そのいずれでもない。
「私は、一番ダメージを受けているのは『言葉』だと思います」というところから、彼の講演は本題に入った。彼は好きな作家であるヴァルター・ベンヤミン(注1)の書簡の中から、次のような言葉を紹介した。
【言葉もそれ自体の純粋さを通してのみ、人を神的なもののなかに導きます。手段となった言葉などは雑草です】【内奥の沈黙の核へ向かって言葉を集中的に向けていく場合にのみ、真の言葉の働きを得られるのです】
注1/ベンヤミン=ドイツの文芸評論家。1940年、ナチスの追っ手から逃亡中に自殺した。晶文社から著作集が出ており(その最後の方の巻が書簡集)、ついでだが私は彼の『言語と社会』と『文学の危機』が非常に印象に残っている。
「いま、娑婆で聞く言葉、新聞の言葉、テレビで流される言葉は、ベンヤミンの言葉を借りれば雑草。私に言わせればクソです。そういう使い方しかされていないことに、恐怖を感じています」(辺見氏)
言葉は本来の神秘的な響きを失った。自分自身、自分の言葉をニセガネ、メッキだと感じると辺見氏は言う。市民運動などで何気なく使っている言葉にも、フェイクがたくさんあるとも言う。
そして、現代日本でメッキでない言葉を使える(使うことが出来た)人として彼は3人ほどの表現者を挙げた。たとえば詩人の故・石原吉郎。辺見氏は彼の思想には賛同できないが、しかし彼の詩を読むと言葉の深さに感動するという(私はあまり記憶に残っていないのだが、家には彼の詩集もあるので、さっそく読み返してみようという気になった)。余談だが、確かにそういうこと――思想信条的には必ずしも近くないのだが、言葉の真摯さに感銘を受けるということ――は確かにある。これほど苦しんでものを考え、感動的な言葉を産み出す人が、なぜこんな思想と結びつくのかと悲しみにひしがれることも。皆さんも多分、あるだろう。
〈「美しい国」という語感に……〉
話を講演に戻そう。辺見氏はフェイクの代表に「美しい国」という言葉を挙げた。
「この『美しい国』という語感に(注2)恐怖、戦慄を感じて欲しい。殺意も感じて欲しいのです」
注2/辺見氏は「言葉」でなく、「語感」という言い方をした。言葉は単に何かを表す道具ではなく生きたものであり、匂いや響きや質感を持っているがゆえに、この言い方を選んだのではないかと私は思う。
私は言葉というものに妙に過敏なたちで、常に「私たちの言葉は奪われつつある」と感じており、厭らしいほどに軽い、媚びを滲ませた言葉・言葉・言葉に鳥肌が立つ。むろん辺見氏のように明快に語れなどしないが、自分自身の覚え書きのつもりでちょっと感じたことをブログに残してもきた(注3)。だから辺見氏の語ることは、実感としてよくわかった――。
注3/比較的新しいところでは、「都知事三選にNO! &石原慎太郎の文章を巡って」、 「対話というもの」 、「『美しい日本語』を殺すな」、 「『美しい日本語』を殺すな・2」 、「『自分探し』と『自己実現』を嫌悪する」 、「『自分探し』と『自己実現』を嫌悪する・2」 、「奪われた言葉たち」、 「ねえ君、それは個性とは言わないと思うが」 など。
実はまあ、ここまで書いたのは講演の前奏曲のようなもの。ではなぜ、言葉がフェイクになりさがったのか。フェイクに抵抗するには、どうすればよいのか――という問題について彼は語っていき、そちらが講演の核である。それについては明日の夜、メモの続きを書きたい。ちょっと仕事の準備があるので、今日はここまで。