華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

軍隊が銃を向ける相手は

2007-05-18 23:52:46 | 戦争・軍事/平和

 昨日に続いてセレブがどうのこうの……という話を書くつもりだったが、それは後回しにして。

 dr.stoneflyさんが「なぜテレビはこの暴挙を映さないのか」と怒り、アッテンボローさんは「自衛隊の帝国主義軍隊化を許さない」と声を上げ、お玉さんも「マスコミが使命を果たせないなら自分達がジャンジャン書くしかない」と言う。「競艇場から見た風景」のmakuriさんは、写真にかぶせられた「主権在米軍NO!」の文字がまず目に飛び込むエントリで、この国家権力の暴挙を取り上げた。他にも多くのブロガーが抗議の文を書いている。

 そう、辺野古における海上自衛隊の「実力行使」の問題である。

 沖縄・普天間にある米軍基地(飛行場)の移設に先立つ現況調査に、自衛隊が協力している。それについて久間防衛相は「どんな場合にも対応できる万全の態勢をとっている」と言ったのだ。「場合」というのはそれこそいろいろな場合があるのだろうが、そのひとつ――というより大きなものが「妨害行動」の排除であるのは火を見るより明らかだ。現政権にとって普天間基地移設は重要課題であり、住民の反対はうるさくうっとうしく、邪魔なだけなのだから。

 国民の暮らしを守るための装置であるはずの国家が、国民を泣かせるようなふるまいを強行するとは何ごとか。そんな国家など、私は否認する。

 自衛隊――というと何となく正体があやふやになるが、要は軍隊だ。その軍隊が、反対する住民を鎮圧して米軍基地の移設をスムーズにおこなうために出動している。軍隊は国民を守るために存在するのでなく、国体あるいは国家権力を守るために存在するという証左ではないか。「国」に逆らう者は排除せよ。押し寄せた一揆の集団に対して為政者の命令で銃が乱射されるのと同じ図が、この21世紀の日本で繰り返されようとしている。  

◇◇◇◇◇◇ 

 恥ずかしいことだが、長いこと私は沖縄の状況については常識程度のことしか知らず――いや、自分ではけっこう知っているつもりでおり、考えてもいるつもりだったが、実のところ半分居眠りしているような鈍さであったと思う。その自分の鈍感さを思い知ったのは、普天間基地移設に反対して緊急出版された本『沖縄は基地を拒絶する――沖縄人33人のプロテスト』(発行・高文研)を読んだときである。ページをめくりながら、ときどき息が苦しくなるような本だった。ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思い、昨年の2月に、「『沖縄は基地を拒絶する』から」という紹介記事も書いている。まるで生け贄のように米軍の祭壇に捧げられた島、その沖縄に住む人達のギリギリの怒りがこの本には満ちている。ヤマトンチューである私は、沖縄を生け贄にし、沖縄を踏みつけて知らぬ顔をしてきたのだ。1年以上前に出版された本だが、今こそさらに多くの人に読んで欲しいと私は思う。

 闘いは長く続いてきたのだけれども、同時にまだ始まったばかりでもある。

◇◇◇◇参考資料/新聞記事の抜粋

【久間章生防衛相は17日午前の参院外交防衛委員会で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)のキャンプ・シュワブ沿岸部(同名護市)への移設に先立つ現況調査に海上自衛隊が協力することについて「妨害に対する人命救助も含め、どんな場合も対応できる万全の態勢を取っている」と述べ、海自が警備活動を実施する可能性を示唆した。】(毎日新聞5月17日配信

【「この人たち(の作業)が違法行為だ」。普天間飛行場移設先の名護市辺野古の沖合で、基地建設反対派は18日午前、カヌーやゴムボートに乗り込み、建設に伴う那覇防衛施設局の調査阻止を図った。】(琉球新報5月18日配信

【反対住民は同日午前5時半すぎから、近くの辺野古漁港周辺で集会を開催。約80人が集まり、「ヘリ基地反対協議会」の共同代表を務める安次富浩さんは「自衛隊が私たちに銃口を向けるということは民主主義を破壊することだ」と、政府の方針を厳しく非難した。】(時事通信5月18日配信

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『集団的自衛権の幻想』を読む

2007-05-01 01:09:18 | 戦争・軍事/平和

 TBいただいたエントリを中心に、時々覗かせてもらうブログの記事をまとめて読んだ。時には自分は少し考え方が違うと思うものもあるが、いずれにせよモノを考えていく手掛かりを得られる記事ばかり。知識だけでなく視点を含めて新しいことを教わる場合も多々で、なるほどなぁ、といつも感心しながら読む。他者が考えていることを聞く(読む)のは、ほんとうにおもしろい(※)。

※訪れて下さった方へ。TBエントリの中で未読のものがあれば、ぜひご一読を。私はコメントは基本的に削除しない方針だし、TBもあまり削除しない(ただし、あまりに場違いなものや、読んで私自身が全然おもしろくなかったものなどは削除する。むろんおもしろさの基準は私が同意できるかどうかではない。意見が違っても、考えさせられたものは残す)。もっともきちんと読めない日も多いので(だいたい、PC立ち上げてもやるのはメールチェックだけ、という日も少なくない)、何だこりゃ的なTBを何日も放りっぱなしにしていた、などということもよくあるのだが……そのあたりはまぁ御容赦のほど。

◇◇◇◇◇◇

 今夜は「反戦老年委員会」ましまさんの『集団的自衛権の幻想』というエントリを紹介して、簡単な感想などをメモしておく。本当は紹介したいものはたくさんある。自分の記事書いてるより、おもしろいエントリをできるだけ多く紹介したほうが役立つぐらいなのだけれど。

 同エントリは、【そもそも「集団的自衛権」という言葉ができたのは、「国連憲章」をつくった時である。どういう意味かということは、後に述べることにして、この権利が本来の意味で行使されたことは、私の記憶する限り一度もない。いま問題なのは、本来の意味からはずれて、たとえば、日米同盟を相互防衛条約化するための虚飾の道具に使われようとしていることである。】という書き出しで始まる。

 そして【戦争とは、ほとんどすべての場合「自衛のためやむをえず」開始されるものだ。】と続き、国連憲章では「あらゆる武力行使は違法、という大原則が打立てられ、自衛でさえ武力行使を認めていないことを明快に述べる。

その上で、国連による集団的安全保障措置がとられるまでの間、緊急措置として個別の自衛権を行使するのはやむをえない、という例外規定が各国間の調整の中で生まれてきた。そこへ「集団的自衛権」という概念を持ち込んだのがアメリカである。

 もともとは中南米諸国が侵略に備えて共同で防衛しようという発想で生まれた概念だったものを、アメリカはとんでもない「拡大解釈」をおこなった。

世界で飛び抜けた軍事力を持つ最強国と、戦力不保持をうたった憲法を持つ日本というアンバランスな2国間の組み合わせが、果たして「集団」と言えるだろうか】と、ましまさんは苦い口調(という感じ)で語る。そうです、集団ではありませんね。

◇◇◇◇◇◇

 圧倒的な武力を背景にした大国のごり押しさえ、「自衛」と解釈する倒錯した世界。たとえは悪いが、マンションの一室に事務所を構えたヤクザ組織が、「住民が団結してしまうと追い出されるから」と言って、そうなる前に先手を取って住民を脅し、放っておくと面倒になりそうな住民を追い出す――それもヤクザの側からしてみれば、立派な自衛だろう。内部告発しようとしている社員に圧力をかけるのも、会社の側からすれば自衛なのだろう。強者の自衛、というのもあるのだ。

 その「強者の自衛」(何と矛盾した言葉!)への参加を日本は強制されている。いや、日本の為政者達は、それに喜んで参加しようとしている。強きを助け、弱きをくじくなんて最もみっともないことのはずなのだが……。

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忘れることは恥

2007-04-04 00:45:23 | 戦争・軍事/平和

 戦時下を生きた人々の体験については、多くの記録が残されている。聞き書きであったり、書簡や日記であったり、ルポルタージュであったり。国民総動員体制の下で人々が具体的にどんな生活を送ったのか、何を考え何を恐れたのか……等々の詳細を、私はそれらの本によって知った。私は今の若い人達、というか子供達にも、それらを読んで欲しいと思う(むろんじかに体験を聞くことも大切である。体験者は高齢だから、早く聞いておかないと機会を逃しかねない。私自身、東京大空襲については、体験者の人達の話を聞いて追体験することが出来た)。政府が、先の戦争の姿をぼんやりと曖昧な姿に塗り替えようとしている時だからこそ。

 読むものは何でもいい。個々人が最も読みやすいものでいい。ルポルタージュがよみやすいとか、対談みたいなものが読みやすいとか、それぞれに好みの癖があるだろうから。ちなみに私の場合は聞き書きなどもおもしろいけれど、それとは別に、無味乾燥な条例その他を並べた「資料」や、当時の雑誌記事なども結構おもしろかったりする。戦時下の状況を知りたいと思って資料をあさった時は、神田の古本屋街を回ってあの頃の雑誌を随分買ってきたりした。(これだけまとめて買うから安くしてよなどと店主に食い下がり、マケてもらった分で昼ご飯を食べたっけか。いや、これは余談)

 詩歌、というのも心を鋭く切り裂く力がある。たとえば『昭和万葉集』にも過去の日本に対して深い呪詛を込めた歌が幾つもあるし、『非戦のうた』(高崎隆治著、日本評論社)などにも、(芸術的に優れているかどうかは私はわからないが、そんなことは別として)忘れることの出来ない詩歌がたくさんおさめられている。人によっては、そして場合によっては、こういうものを読む方がイマジネーションが刺激され、心揺さぶられるだろう。 

 特に、沖縄戦で何が起きたのか――を知るための資料を、エントリの後ろに「注1」としてランダムに挙げておく(むろんほかにも貴重な資料はたくさんある。これはほんの一部、である)。絶版になっているものが多いので、図書館か古書店で探すほかないのが難だけれども。私は今――あの、沖縄戦の集団自決を「軍の強制はなかった」などと言う政府に対して、「どの面下げて、そんな寝言を」と怒りで青ざめているのだ。

 さまざまな資料を読んでいると、いま素知らぬ顔でヌクヌクと生きている自分を責める声が立ち上る。1945年3月26日に米軍の沖縄上陸が始まり、米軍戦史にさえ「ありったけの地獄をひとつにまとめた」と記載されるほどの、此の世の地獄が出現した。集団自決については「手榴弾を渡されて」という話が衝撃的な事柄としてよく語られるが、自決の方法自体としては、一本の縄に数珠つなぎになり、互いに引き合って死んだ例が多かったという。手榴弾による自決もとてものこと心穏やかには聞けないが、大勢が首を縄を掛け、引き合ってくびれ死んだという構図はさらに恐ろしい。

◇◇◇◇◇

 集団自決と言えば……死を強制されたのは、沖縄の住民だけではなかった。「満州開拓団」の人々の中にも、自決に追い込まれたり(追い込んだのは「国」です、むろん。沖縄戦の場合と同様、別に公文書が出されたとか、そういうわけではないけれど)、子供を殺した人達がいた。たとえば東安省鶏寧県の「哈達河」では465人が自決、村はほぼ全滅したという。

 国策移民として「満州」に渡り、夫のほか、6人のうち4人の子供を失って日本に戻ってきたある女性の体験の聞き書きを読んだことがある(注2)。彼女の子供達は引き上げの途中で餓死したのだが、同じ村では敗戦後に9人の自決者が出、子供を自らの手で殺した人達もいたという。「こうなればみんな一緒に死ぬより仕方ない」「まず各自、自分の子供を始末せよ」と「上」から言われたそうだ。その部分の聞き書きを一部、引用しておく。

「子どもを始末せよ、と言われたってねえ、どうやって殺せばいいだか……。みんなおろおろと顔を見合わせていたとき、むかし看護婦さんやってた奥さんが、子どもを殺すなんて簡単ですよっていうんです。見ててくださいっていって、二尺ばかりのひもを取り出すと、そばにいた5つの男の子をひざに抱いて、あっというまに締めちゃったの。そしてさっとひもをはずすと、今度は3つの子の首に巻いて……。ほんとうにあっけないもんだね(略)それでみんな、腰ひもをほどいて真似して子どもの首を締めたんだけれども、なかなかその奥さんみたいにはうまくいかないの。子どもは鼻血出して苦しがってバタバタあばれるし……」

 自決と言っても、実際のところは子供を抱きしめた女や老人、つまり足手まといになる人々に向かって男達が銃を乱射したという例もあり、要するに集団殺戮がおこなわれたのだ。

 先述した「沖縄戦の集団自決」で奇跡的に助かった女性が、戦後40年近くを経てから重い口を開いてこう言った。「戦争はおそろしいけど、死を美化して、死ぬことを何とも思わぬ人間を作ることはさらにおそろしい」。また、別の女性は、こう言っている。「いったん戦場になったら、軍隊は決して住民を守ることはない。それどころか軍隊がいるために悲劇を招く」。これは『校庭は戦場になった』に収録された聞き書きである。

「死ぬことを何とも思わぬ人間を作ることはおそろしい」――この言葉を、私は忘れまいと思う。戦後はまだ終わっていない。

注1/『ドキュメント昭和史』(平凡社)、『一億人の昭和史』(毎日新聞社)、『沖縄の証言』(名嘉正八郎・谷川健一著、中央公論社)、『校庭は墓場になった』(退職婦人教職員全国連絡会編、ドメス出版)、『いくさ世(ゆう)を生きて――沖縄戦の女たち』(真尾悦子著、ミネルヴァ書房)など。

注2/『女たちの〈銃後〉』(加納実紀代著、インパクト出版)。なお同著の中では、この語り手の姓名などもはっきり書かれている。

◇◇◇◇◇

  

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「沖縄戦集団自決」は軍の強制ではなかった!?

2007-03-31 23:58:56 | 戦争・軍事/平和

 ある大きな「事実」を丸ごと、「なかったこと」にしてしまうのは難しい。しかし「少しずつ塗り替えていく」ことはできる。

 ごく身近な日常的なことで言えば……たとえば子供の時に喧嘩して相手を突き飛ばし、ケガさせてしまったとしよう。見ていた人達は覚えているし、第一ケガさせた相手に傷跡が残ってたりして、「やった事実」を否定することは出来ない。でも「向こうが先に殴りかかってきたんだ」、「相手が勝手に足を滑らせちゃったんだ」などと細部をごまかしてしまうことは可能だし、時間が経てばさらにごまかしやすくなる。

 政府が最近やっていることは、何やらそんな匂いがする。

 政府は先の戦争で起きた悲劇的な出来事を、否が応でも「軍が強制したわけではない」ことにしたいらしい。先に首相が従軍慰安婦の問題に関して「強制はなかった」と発言し、次いで下村博文官房副長官も「直接的な軍の関与はなかった」とトンデモナイことをのたもうたが、今度は「太平洋戦争末期の沖縄における集団自決」についての、軍の(つまりは国の)強制を「なかったこと」にする気だ。高校の教科書に対する文部科学省の検定で、その記述が削られたり修正されたという(末尾に報道文を掲載)。

 あの「戦争」自体はまさかなかったことにはできないし、集団自決についてもまだ生きた証人がいる以上「デッチアゲ」とは言えない。しかし、それを過小に扱ったり、あたかも「自由意思に基づくもの」のような印象にすり替えることはできるわけだ。

 そりゃ、一人一人がいちいち、「さあ自決しろ」と言われたのではないかも知れない。大元帥の名で「自決するように」という命令が行き渡ったわけでもないだろう。しかし国民の命より国体が大事、軍の意向は絶対、という中で手榴弾を渡され、自決せざるを得ない状況に追い込まれれば、それは「強制された」こと以外の何物でもない。

 軍の関与(つまり国の強制)を認めるのが、そんなに嫌なのか。過ちは潔く認め、悔い、記憶にとどめ、語り継いでいく――それをしない限り、個人にせよ集団にせよ未来を築いていくことは出来ないのに。

 すでにオギノフさんとむ丸さんお玉さんらがこの問題で記事を書いておられる(書こうと思って開いたらTBが入っていた)。ほかにも多くの方が、怒って……と言うよりも、ゾッとしておられると思う。ほんと、うっかりしていると、何処に連れて行かれるのか……。

◇◇◇◇◇資料◇◇◇◇◇

【文部科学省は30日、主に高校2年生以上が来春から使用する教科書の検定結果を発表した。日本史で、太平洋戦争末期の沖縄戦の際、日本軍による強制で住民が集団自決したとする記述すべてに初めて検定意見が付き、各教科書会社は「日本軍により」という部分を削ったり、「自決した住民もいた」という表現などに修正したりした。理科や数学では、学習指導要領の範囲を超える「発展的内容」が倍増した。沖縄戦の集団自決を扱ったのは6社8点。うち5社7点に「実態について誤解するおそれのある表現」と意見が付き、「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)などに改められた。2005年度(主に高校1年生対象)は申請段階から今回意見が付けられたような記述がなかったが、04年度は「日本軍に…『集団自決』を強制されたりした」と記述した中学の歴史教科書が合格している。文科省は「以前から(命令や強制はなかったとする)反対説との間で争いがあり、軍の命令があったと断定するのは不適切で、今回から意見を付けた」と説明している。】(3月30日、時事通信配信)

◇◇◇◇◇◇◇

  

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「国防アンケート」について

2006-07-18 02:14:26 | 戦争・軍事/平和

7月14日のエントリで、Under the Sunの「国防に関するアンケート」を紹介し、参加を呼びかけた。私自身の考え方はエントリの中で書いているが、「全世界の非武装を目標とする」 「武力攻撃を含めた侵略や弾圧に対しては非暴力・不服従を貫く」というのが基本である。

ところでこの記事について(と言うよりこのアンケートについて)、いつも貴重なご意見をくださる布引洋さんから「非常に悪質なアンケートである。即刻中止すべき」という厳しい指摘があった。下に布引さんのコメントをそのまま掲載する。

【最初、このアンケートを見た時、読売新聞が始めたのかと思いました。(即座に中止するべきです)非常に悪質です。(単に無知なだけかも知れませんが)まず第一に日本の安全と国防と言う名称が間違いで軍事問題とすべきです。第二に七つの選択肢の内、軍縮は一つだけでその他は現状肯定か軍備増強になっていて明かに公平さに欠ける。第三に『外国が攻めてきたら』の設問が間違いで、世界第二の経済大国が攻められる可能性より、攻める可能性の方が遥かに高い。第四に軍隊の本質を間違っている。軍とは本来国民を抑えるもので、余裕が出来た時には他国に侵攻する。第五に憲法の精神と真っ向から反するアンケートを、今する意義が考えられない。第六に軍事は政治の内で、非常に小さい問題しか解決しません。軍事は軍事問題しか解決しない。(万能薬ではない)こんなアンケートが今出てくる現状の、問題点こそ議論すべきでしょう。何時も思うのですが、正しい質問は、質問された時点で大方は正しい答えが出ています。間違った質問からは、間違った答えしか帰って来ず、正しい答えは、正しい質問からしか出てきません。】

このご意見に対して私は「ご指摘については非常によくわかるが、このアンケートは自体は悪質とは思わない」とご返事し、理由として次の4点を挙げた。○最低限でも、軍事、軍隊、自衛隊などについて「考えてみる」機会になる。○「その他」の選択をされた中に、「この設問自体に疑問」という意見もあった。そういう意見にも基づいて、ゆっくりと深めていくべき問題であろうと思う。○選択肢の多くは言われるように現状肯定か軍備増強だが、多くの人は軍縮を選ぶのではないか。○「国防ではなく軍事問題」というご意見はその通りなのだが、同時にあえて意識的に「国防」と言う言葉を使う意味もないではない。私自身、その言葉に反応して「では国とは何か」を改めて考えた。

それに対してまた丁寧なご返事があり(詳細は14日のコメント欄)、いまかなり真面目にさまざまなことを考えている。

設問に対する疑問は、「再出発日記」さん、「アルバイシンの丘」さんら、お付き合いいただいている何人かのブロガーの方が表明されていた。また、布引さんの問題提起は多くのブロガーに「考えさせた」ようで、ヘンリー・オーツさん、「独裁制をぶっ壊そう!」さんらが記事を書いてTBしてくださった。皆さんのブログを読めば読むほど、私の(もともとあまりよくない)頭はもつれた糸のような状態になる。

布引さんの指摘は正しいと思うのだ。再度いただいたコメントの中には、【皆さんご存知のように世論調査(アンケート)は設問しだいで幾等でも結果を誘導できます】という言葉があった。そう……それは全くのところ、自明の理なのである。私自身、「世論調査の陥穽ということ」「改憲賛成65%? 冗談は休み休み言って欲しい」「世論調査のいかがわしさ」などのエントリで何度か世論調査の陥穽について書いてきた覚えがある。(余談だが、社会学を専攻したことと、マスコミの世界にいることとで、答えを誘導する設問の作り方も知っていたりする……)

ただ……それは百の承知の上で、私はこういう議論が巻き起こったことだけでも、今回のアンケートは「ひとつの成功」であったとも思う。私は人間が甘いのかも知れないが、「正しい方向を模索するためには、何でもやらないよりやった方がまし」「道はすべて試行錯誤。間違っていればその場で衆知を集めて改めればいい」と思っている人間である。見る前に跳べ――なのだ。

Under the Sunは、小さな輪である。「勝手連的に集まっているだけ」と呼んだ人もいるが、要するに我々の今日と明日とを少しでも息苦しくないものにしたい、未来の人達に対して誇れる社会にするためにほんの少しでも何かをしたい、と思ったブロガーが、「小異を捨てて大同につく」精神でゆるやかに手を結んだのである。

ピラミッド型の組織ではない。カリスマもいらない。そういう「輪」だからこそ、私は伸びやかに育って欲しいと思う。そのためには、互いを尊重し合った自由闊達な議論を。今回のアンケートがそのきっかけになれば、私はワクワクするほどに嬉しい。

追記/私個人としては、「選択肢を設けない、自由回答型」のアンケートにした方がよかったかと思っている。ただしこれもいわば後知恵。アンケートが出されなければ、そんなアイデアも出なかったのだ。アンケートを作ってくれた仲間(愚樵さんが、同志という言葉を使いたいと言っておられたな……だから同志というべきか)に感謝しつつ、「さらに前向きに発展させませんか」と提案したい。

 

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「世界の孤児」を作ってはならない

2006-07-09 06:34:31 | 戦争・軍事/平和

「テポドン騒ぎ――陰でほくそ笑むのは誰か」というエントリに対して、何人かの方からコメントをいただいた。この記事については批判も多いと思うが、実際に批判コメントを書かれた方は2人だけである。

【国をよくしたいのではなく、一回ぶっこわして作り直したいわけですね。理想国家が出来るまで。結局、歴史からの学ぶ事は何もなかったと。】(ろみおさん)

【私はこのエントリーを読んでこう思いましたね。「こういう考えを持った人間がいる限り、ミサイルぶっ放して悦に浸るバカはなくならないんだろな」と。今回、重大なルール違反を犯したのは誰ですか? 北朝鮮でしょう。なぜそれをアメリカや日本政府非難に結びつけるのです?もしミサイルをぶっ放すことで世の中の反米風潮が高まるのなら、全世界の国がミサイルを撃ち乱れさせますよ。アメリカは世界中から嫌われてますからね。そうのような世の中の方がお好きですか?

>「悪い奴」と指さされる存在が出てくるとき、鳴り物入りで「正義の仮面」も堂々と登場する。

ならばこんな表現をしましょうかね。「悪い奴」がでてきたとき、中立を装って必死にかばう「正義の学級委員」がでてくる。だから「悪い奴」は図に乗って悪事を重ねる】(バイリニアさん)

ろみおさんのコメントは批判ではあるけれども記事のメーン・テーマとは少しずれるのでひとまず置くとして、簡単にバイリニアさんへの返事を書いておきたい。同じようなことを考えておられる方は多いだろうと思うからである。

◇◇◇◇◇

私のような考えを持った人間が地上から一掃されても、「ミサイルぶっ放して悦にいる○○」は無くならないと思います。言い訳に聞こえるかも知れませんが、私は北朝鮮を「必死でかばっている」わけではありません。北朝鮮が「国際社会のルール違反」をしているというのは、むろん言うまでもないこと。しかし「トンデモナイ国だ! 許せん!」と興奮して皆で指さすことが、国際平和のために有効であるとは私は思いません。

今回の事件で、私はふと第二次大戦前から敗戦にかけての日本の姿を連想しました。大戦前、日本は世界の多くの国と敵対し、国際連盟から脱退して「世界の孤児」への道を歩んだと言われています(国際連盟はアメリカは参加していませんでしたし、多くの問題も抱えていましたが、その話をしているとややこしくなるので、ここではいったん棚に上げます)。そして無謀な戦争への道へとひた走り、自国にも他国にも多大な損害を与えた。その愚を、いかなる国にも繰り返させてはならないと思います。それが「歴史から学ぶ」ということではないでしょうか。私は別に、その国に対して特別の思い入れがあるわけではない(ちなみに私は日本であろうとアメリカであろうと北朝鮮であろうと中国であろうと、国家というもの自体を好みません)。窮鼠猫を噛む形の愚挙をやってくれるのは勝手ですが、近所迷惑です。個々の人間であれ集団であれ、孤立すればするほど狂気の域に入っていく。狂気じみた愛国者達が生まれる、と言ってもいい。北朝鮮に対しては、北朝鮮という国を追いつめるのではなく、他の方法でゆっくりと向かい合うべきであると思います(どんな方法か?に関しては機会があればあらためて書きたい)。

北朝鮮という「国」が孤立し、狂気の道を(今でも充分に狂気だ、という見方もあると思いますが、今以上に)ひた走ったとして――では、「北朝鮮という国」をぶっつぶせばよいのか? 「ぶっつぶす」となればイラクに対して行って来、いまもおこなっているような「戦争」を仕掛けることになるのでしょうが、イラクの空爆では多数の「普通の庶民たち」が死んだり傷ついたりしました。ものごとの解決の手段を武力に求めたとき、不幸に陥れられるのは常に庶民です。北朝鮮という国がトンデモナイ国であったとしても(実際、とんでもない国ではあります)、たまたまその国に生まれ育ち、耳と目をふさがれたまま素朴な愛国心と共に生きてきた(それは私達の父母、祖父母たちの姿でもあります)庶民の命を奪っていいという理由にはならない。ただひとりでも弱い立場の人間を犠牲にすることを計算に入れた正義は、「正義」の名に値しないと私は思っています。

もうひとつ。「あいつは許せん!」と言って明確な「敵」を作るとき、人々の精神状態は帰属集団に対する同化の意識で昂揚します。ですからあらゆる集団は、声と歩調をひとつにするために、わざわざ「敵」を設定することもある。国とは限りません。企業でも学校でも。具体的な敵が設定されたとき、集団に所属する人々がどれほど「心をひとつにして頑張る」か、私達は自分の体験でよく知っているはずです。

「心を一つにする」のは必ずしも悪いこととは言えませんが、いま、日本は憲法改定や教育基本法改定などが具体的に取り沙汰されています。そういう状況にあって、「みんなで声をそろえて『あいつは敵だ』と言う」ことの意味を、私は考えずにはおれません。

突然話は変わって――妙な言い方ですが、私は自分を含めた「普通のおっちゃん、おばちゃん」が「テポドン、テポドン」と興奮すること自体、いささか異様な感じがするのです。社会問題に無関心であってはいけない。でも実際問題として、私達にとって最も大切なのは自分の日々の生活であり、また自分の家族であったり、友人とのひとときであったりする。社会問題というのはその延長線上にあるはずなのに、一億総評論家になって、挨拶代わりに「テポドンがどうのこうの」と新聞の論説委員のようなことを言う(実際、私はこのところそういう人に大勢会っています)。いい加減にしたらどうよ? というのが、私の今の正直な気分でもあります。

いささか尻切れトンボですが、本日はここまで。

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テポドン騒ぎ――陰でほくそ笑むのは誰か

2006-07-08 02:12:00 | 戦争・軍事/平和

連日のテポドン騒ぎに、少々うんざりしている。日々のなりわいは忙しいし、体調悪いしという時に、まったくもって、「ウザイ!」という感じだ。私は北朝鮮は問題の多い国だとは思っている(そもそも最高権力者が世襲だということ自体、信じられないほど変である。もっとも日本だって、レッキとした世襲ですが。北朝鮮ほど露骨ではなく、巧妙ですけれども)。花火に金使うなよ、という気もしている。

しかし、私がウンザリしているのは北朝鮮に対してではない。「千載一遇のチャンス、と喜んでいるのが大勢いるだろうなあ」と思い、そのことで吐き気がしてくるのだ。

北朝鮮は世界有数の弱小国家。キャンキャン吠えているけれども、世界中を敵に回して戦争する力など皆無。それでも「宣伝」には充分使えるというところが恐ろしい。自ら世界の保安官をもって任じているアメリカは、さぞ嬉しいことだろう。改憲派も勢いづくだろう……ああ、やだやだ。

それにしても、何でまた新聞各紙は、連日一面トップでこの話題を扱わねばならないのか。実のところ、私は新聞の一面にはさほど関心がない。と言うと語弊があるが……関心の程度は二番目ぐらい、である。もともと「社会面の右側」(つまり地味な社会ネタ)が専門だからかも知れないが、派手に報じられることよりも大事なことがある、といつも思っているからだ。

テポドン騒ぎで吹っ飛んだものや、陰でほくそ笑んでいる者達のことを忘れてはなるまい。浮かれたニュースが続く時こそ、足元にご用心。「悪い奴」と指さされる存在が出てくるとき、鳴り物入りで「正義の仮面」も堂々と登場する。

doll and peaceのぷらさんが、「私は比較的冷静」「今回のミサイル発射で一番得をするのって、ブッシュ政権と親米ポチだろ、と思うから」と書いておられる。いま我々に要求されているのは、こういう感性である。

ついでに余談――私は愛国心ゼロなので、「祖国」が滅びても別にかまわない(いや、かまわなくはないのだけれども、薄汚く存続するぐらいならすっぱり消えて出直した方がいい)。国破れて山河あり、という。山河とは限らないが「国」が滅びても生き続けるものはあり、私はそれらのほうがよほど大切だと思っているのだ。所属する人間を締め上げ、弱い奴は死ねとうそぶき、シタリ顔でエセ倫理を説く「国家」など、さっさと犬に食われてしまえばいいのである。

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ひそかに「戦前責任」を感じるすべての友人達へ

2006-02-25 03:50:20 | 戦争・軍事/平和
「戦前責任」という言葉がある。既によく御存知の方が多いと思うが、念のため簡単に説明しておこう。(もしかするとかなり前から用いられていたのかも知れないが、私の場合は)長崎大教授・橋眞司さんの造語のように記憶している。数年前だったかなと思って一応確認してみたところ、1998年の長崎原爆忌で使ったのが最初だそうである。何ともう、一昔前ではないか……。以下、1999年に発表された橋さんの言葉を紹介する(全文を御覧になりたければ、YahooかGoogleで検索してください)。

【責任とは、道徳的人格としてのひとが自らの自由な意志決定にもとづく行為の諸結果を自らの上に引き受けることである。そして、戦争こそ人間がなし得る最大の破壊的事業であるのだから、人が担うべき責任のうちでもっとも大きく重いものは戦争責任であろう。しかし、その戦争責任というのが感じることのもっとも難しいものなのである。とくに、戦後50年以上を経過して、今日の若者が戦争責任と言ってもこころに響くものがないというのも怪しむに足りない。ところで、私は昨年夏の長崎原爆忌のラジオ放送で、戦前責任という言葉を使って、若い世代の戦争に対する責任を指摘した。そして長崎の諸大学で出会う学生たちに、君たちにも戦争責任はある、と言ってきた。私の言う意味はこうだ。今、二十歳前後の君たちには先の戦争に関する戦争責任、そして戦後責任はないと言えるであろう。だが、次の新しい戦争の準備を着々と進めさせない、さらに、新たな戦争を引き起こさせない、という戦前責任はある、というのである】(引用終わり。以下略)

最近、この「戦前責任」という言葉がひどくリアリティを持って迫ってくるようになった。21日付けのエントリ「足元が揺れている」「続・足元が揺れている」でも書いたが、私の耳には最近、とみに「足音」が聞こえてくるようになった。むろん私もまた「戦争を知らない子供達」である。戦前の日本がどんな道を辿ったのかということについては、大半が書物から得た知識であり、それにごく一部、戦争経験者の体験談が混じっているに過ぎない。しかし幸いなことに、すべての(と私はあえて言う)人間には自分が実体験していないことでも、その気になれば鮮やかに追体験できるという能力がそなわっている。

足音を聞いている人々は、決して少なくない。古い友人達からのメールも、ある種の怯えを表現する言葉が増えてきた。「現代ファシズム形成史を実体験しているような気がします」というメールをくれたのは、大学で教師の卵を育てている友人。「久しぶりに帰国してテレビで小泉首相を見た。あの論理も何もない感情的な喋り方がブッシュ大統領の演説と双子のように似ていてゾッとした。アメリカもおかしいが、日本も狂っている」と言うのは、仕事で長くアメリカに滞在していた友人。「日本には何の未練もない。国を捨てたいと真剣に思い、移住を考えている。敵前逃亡と笑わば笑え」と言ったのは美術で飯を食っている友人だ。

ごく若い頃、戦争体験を聞いて回ったことがある。その時、「なぜおかしいと思わなかったのか」「なぜ戦争を阻止できなかったのか」という類の、教条的な言葉を吐いた自分を今、恥じる。「まさかあんなことになるとは思わなかった」という言葉が、今、骨身にしみてわかるような気がする……。

だが、私達は同じ愚を繰り返すわけにはいかない。一度目は悲劇、二度目は喜劇という。何十年か後に生まれてくる人々に、「あいつらはとことん馬鹿だった」と言われたくはない……。9条をかなぐり捨てることの意味、小学生から「国を(アプリオリに)愛するよう強要される」ことの意味、報道に規制をかけられることの意味……等々を、私たちが思い知った時は既に遅いのだ。

私は自分の弱さ、卑劣さをよく知っている。挙国一致体制になって――集団自衛権ナントカとやらでよその国を傷つけに行く同胞達を激励しなければ非国民と言われ、君が代斉唱を拒否することが罪になり、テロを想定した住民訓練に参加しなければご近所から白い目で見られる……そんな時代が来たとき、私は自分の思想信条を守り通せる自信がない。私は小林多喜二のように強くないから、逮捕されて長期間拘留され、座っている椅子を蹴飛ばされるなどの脅しをかけられただけで、「へへッ」と恐れ入ってしまうだろう。言ってはならぬことを、ペラペラと喋ってしまうだろう。そう……遠藤周作の多くの小説に登場した、心弱い棄教者たちのように(※)。

※私は遠藤周作の思想的なベクトルには共鳴できないが、10代の頃に『海と毒薬』『沈黙』などいくつかの小説を読んで、心のある部分がぞくっ……としたことを覚えている。

だからこそ、手遅れにならないうちにはっきりと「NO」を表明しておきたいのである。自分が醜悪な人間にならないために……。
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