華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

いつのまにやら慣らされて

2006-02-28 02:25:19 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
人間は「慣れる」動物である(他の動物も同じかな)。隣の娘のガングロ・メークも、向かいのジイチャンの短パン姿も、最初はギョッとしたが毎日見ているうちに見慣れた。……まあ、こういうのは別にどうでもいい。買い物したときに「1万円“から”お預かりします」と言われるのも、以前から古本屋の倉庫みたいだと言われていた住処がますますその傾向を強め、トイレに行くとき積み上げた本の山を崩さぬよう体を斜めにして歩くのにも慣れた……これらは若干問題あるかも知れないが(後者のほうは整理整頓能力の欠如した私の問題です、もちろん)、まあ大したことではない。少なくとも世界を不幸にする類のもの……ではない。

しかし、立ち止まって考えるたびにゾッとする「慣れ」もある。

逆進税である消費税に反対した。でも消費税法は成立し、いつの間にかモノの値段にそれが付いていることに慣れた。福祉の分野に受益者負担の考え方を持ち込む介護保険に反対した。しかし介護保険法は成立し、いつの間にかその存在を認めた形で喋っている自分に気づいた。慣れというのは恐ろしい……。

何かが動き出し、大勢を占めるようになると、私たちは知らず知らずのうちにそれが「当たり前」になってくる。「意識」だの「思想」だのと言えばいかにも立派なもののようだが、人間の頭や心のありようは、自分を取り巻く無数の断片――あまり神経を尖らせて注視していない日常的な断片たちによって、知らぬ間に少しずつ変容するのではあるまいか。(存在が意識を決定するとか、環境と人間の相互作用とか、そういう難しい話をしているのではない。もっと低レベルの、しかもまとまりのつかぬ話であることをご理解の上でお読み下さい)

たとえば、しばしば見られる医師のパターナリズム(※)。もちろん医師がみんなそうであるなどと乱暴なことは言わない。パターナリズムを持たない医師も大勢いるのだが、他に比べて持ちやすい、そして持つ割合の比較的高い職業であるとはいえる。これは医師自身あるいは医学界の責任――という面もむろんあると思うけれども、同時にそれを生み、助長してきた「環境」がある。医師はセンセイと呼ばれ――いや、先生でもかまわないのだけれども、病院に行くと「いまセンセイが来られますから待っててネ」などと言われることも稀ではない(先生と呼ばれる職業のひとつに弁護士もあるが、弁護士事務所に行ったときはさすがに「いま、所長が参りますのでお待ち下さい」と言われるよ……)。ここで一番偉い人なのだ!という雰囲気が漂い、患者の方はついつい「ははー。診ていただいて感謝感激、恐縮の至りでございます」とハナから低姿勢になってしまう。患者の方は病気になってある時はあわてふためき、ある時は意気消沈してやってくる。当然弱い立場であり、その点だけとっても、普通、医師と患者は対等になりにくい。そこへ持ってきて看護師や薬剤師といった人たちから「来られますので」、「診ていただきましょう」、「先生のおっしゃる通り」などと連発されれば、(むろん、すべての人がではないにせよ)多くの患者はかすかに卑屈な気分になってしまう。そして医師は肘掛け椅子にゆったり座り、患者は堅い丸椅子にちょこなんと腰掛けるという診察室のありよう(※)。受診する側がそういう雰囲気に対してさほどはっきりものを言わず(※)、診る側も何ら疑問を感じないという状況の中で、パターナリズムはある種の市民権?を獲得してきた……。

むろん、「慣れ」がよい方向に作用することもある。すぐに最適例は思いつかないが……そう、たとえば同性愛者に対する偏見は、周囲に同性愛者が何人もおり、彼らと普通に付き合っていく中で自然に消えていく(ちなみに私の周囲にも少数ではあるが同性愛やバイセクシャルの人々がいる)。異邦人に対するある種の気後れや恐怖も、国籍を異にする人々と知り合い、ごく日常的な付き合いを重ねることで次第に薄れていく。男性保育士や男性看護師などが増え、オムツを替えたり離乳食を作る男が増えていくにつれ、後天的に刷り込まれていた役割分業の感覚も薄れていくだろう……。

そして――「慣れ」を形作っていくものは無論多くの場合は漠然とした「世の中の雰囲気」や「世の中の好み」であるのだけれども、法律や条令の類もまた大きな力を持つ。冒頭に書いた消費税や介護保険に関する法律は私の中ではマイナスのイメージがあるが、今の憲法や民法や教育基本法は、我々の日常感覚の平衡を保つ上でプラスに働いたと私は思う(民法については部分的に疑義もあるが、それはまた別の話なのでカット)。

法律の網をかけられれば、私たちは初めは「ん?」と違和感を持つかも知れない。しかし、やがて慣れる。「そういうものだ」と思い始める。一例を挙げると婚姻に関して。戦前は家長の同意が必要であったが、戦後は家長制度が廃止され、「同性の合意のみ」で結婚できるようになった。もちろん、世の中には「許さ~ん! 勘当する!」などと落語の世界でしか聞けないような言葉を口にする人も絶無ではないらしいが、周囲から「あの人、頭が古いから」と苦笑されておしまい。おおかたの親は「両性の合意のみに基づいて」という考え方を自然に受け入れている(おまえの相手は気にくわん、オレは断固反対だと言う人はいるけれども、これはいわば“意見”である。親も子も意見を言うのは自由であり、考え方を強制されることはない。第一、勘当法などというものはなく、どれほど怒り狂っても効果ないのである――少なくとも、失うものの少ない庶民の場合には。だから訳知りの親戚などが出てきてまあまあとなだめ、最終的には何とか丸くおさまる)。

やや意図的に、憲法9条や教育基本法とはやや離れた話をグダグダと書いた。私たちの「ものの見方」は、法律や制度を基盤とする「世の中の色合い」によって少しずつ変わる、と言いたいがためであるが、さてそれを巧く語れたかどうか?

法律が改変され、世の中が少しずつ「ある方向」に動き始めれば。……おそらく私たちは「慣れる」だろう。学校で愛国心を教えられ始めると、最初のうち、親たちは(親たちの何割かは、と言ってもよい)「何か、気分悪い」と思うかも知れない。しかし10年20年経つうちに……「まあ、そんなもの」になってしまうだろう。自衛軍なるものが創られた場合も同様で、やがて「あるのが当然なもの」になるだろう。私たちの日常感覚は、かすかな違和感にひとつひとつ神経を尖らせておれるほど鋭敏ではないのだから(鋭敏な方もおられるに違いないが、私は自分がそうだと言い切る自信はない)。

今夜も独り酔っている。酔いながら書いたものを推敲もせずさらけ出す愚はまあ思い切り嗤ってもらうとして、万が一にも「慣れることの怖さ」を共に考えていただける人がおられればこれに勝る歓びはない。私もこれから繰り返し、しつこく考えていくことにする。

※蛇足※
1)パターナリズム=父親的温情主義、などと訳される。相手に対して「おまえはナーンもわからないんだからね。黙ってオレの言うことを聞いてりゃ、間違いないんだ。オレはおまえのこと考えて言ってるんだからね」という態度で接すること(華氏的説明)。
2)医師―患者関係に関する批判的な言辞/いささか乱暴な言い方だ、と非難されるのは承知の上である。しかし、私の知り合いの医師もこんなことを言っていた。「自分が患者や患者の家族の立場になると、知らず知らず、相手の医者に対してペコペコしてしまうんですよね……ほんと、受診する側に回れば弱い立場だから」。
3)むろん、患者の権利や自己決定権の問題に取り組んできた(そして今も取り組んでいる)人々は医療者側・患者側を問わず大勢いる。ただ、それがやはり圧倒的な力を持たずに今に至っていることも事実であると私は思う。


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こんなオリンピックなら観てもいい

2006-02-26 13:19:19 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
私はオリンピックは観ない、万一「君が代」が流れていたら嫌なので――と以前のエントリで書いた(相撲の千秋楽は、これはもう確実に流れるのでチケットもらっても行かない、とも書いた)。自分の国の国歌を嫌うなんてトンデモナイ奴だと思われるかも知れないが、好きになれないものは仕方ない。

ただ、私は実は「君が代」だけが嫌いなわけではない(君が代は、純粋に曲として考えても好みではないが)。どこの国のものであろうと、「国歌」というもの自体があまり好きになれないのである。そうなのだ、私がオリンピックが嫌いなのは、表彰時にそれぞれの国旗が翻り、国歌が流れるからなのだ。国を代表して来ているのだから当然だろう、と言われるかも知れないが――本当に当然だろうか?

選手たちが国威を背負って競技する。参加国がとったメダルの数が大騒ぎされる。だから――私はオリンピックを観たくないのであった。ごく素朴で、単純な話である。

表彰時に国旗が翻らず(旗は五輪旗だけでじゅうぶんであろう)、選手個々人が申請した「自分が好きな曲」が流れる。故郷のわらべ歌であったり、広く知られているクラシック曲であったり、場合によっては映画やTVアニメの主題歌でも……。軽薄!と思われるかも知れないが、オリンピックが「国の威信を賭けたもの」でなくなり、「国境を越えたスポーツの祭」に戻るためには、そのぐらい軽くなった方がいい。(むろん、自分は音楽として君が代が好きで好きで、という日本人選手がいて、あえて君が代を選ぶならそれはそれでかまわない。国歌を選ぶべきだというような無言の圧力がかかる心配は別として。……いや、そうなれば国歌というものの問題性が明らかになって、かえっていいかも知れない)

そんなオリンピックなら、観てもいいのだけれども。

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ひそかに「戦前責任」を感じるすべての友人達へ

2006-02-25 03:50:20 | 戦争・軍事/平和
「戦前責任」という言葉がある。既によく御存知の方が多いと思うが、念のため簡単に説明しておこう。(もしかするとかなり前から用いられていたのかも知れないが、私の場合は)長崎大教授・橋眞司さんの造語のように記憶している。数年前だったかなと思って一応確認してみたところ、1998年の長崎原爆忌で使ったのが最初だそうである。何ともう、一昔前ではないか……。以下、1999年に発表された橋さんの言葉を紹介する(全文を御覧になりたければ、YahooかGoogleで検索してください)。

【責任とは、道徳的人格としてのひとが自らの自由な意志決定にもとづく行為の諸結果を自らの上に引き受けることである。そして、戦争こそ人間がなし得る最大の破壊的事業であるのだから、人が担うべき責任のうちでもっとも大きく重いものは戦争責任であろう。しかし、その戦争責任というのが感じることのもっとも難しいものなのである。とくに、戦後50年以上を経過して、今日の若者が戦争責任と言ってもこころに響くものがないというのも怪しむに足りない。ところで、私は昨年夏の長崎原爆忌のラジオ放送で、戦前責任という言葉を使って、若い世代の戦争に対する責任を指摘した。そして長崎の諸大学で出会う学生たちに、君たちにも戦争責任はある、と言ってきた。私の言う意味はこうだ。今、二十歳前後の君たちには先の戦争に関する戦争責任、そして戦後責任はないと言えるであろう。だが、次の新しい戦争の準備を着々と進めさせない、さらに、新たな戦争を引き起こさせない、という戦前責任はある、というのである】(引用終わり。以下略)

最近、この「戦前責任」という言葉がひどくリアリティを持って迫ってくるようになった。21日付けのエントリ「足元が揺れている」「続・足元が揺れている」でも書いたが、私の耳には最近、とみに「足音」が聞こえてくるようになった。むろん私もまた「戦争を知らない子供達」である。戦前の日本がどんな道を辿ったのかということについては、大半が書物から得た知識であり、それにごく一部、戦争経験者の体験談が混じっているに過ぎない。しかし幸いなことに、すべての(と私はあえて言う)人間には自分が実体験していないことでも、その気になれば鮮やかに追体験できるという能力がそなわっている。

足音を聞いている人々は、決して少なくない。古い友人達からのメールも、ある種の怯えを表現する言葉が増えてきた。「現代ファシズム形成史を実体験しているような気がします」というメールをくれたのは、大学で教師の卵を育てている友人。「久しぶりに帰国してテレビで小泉首相を見た。あの論理も何もない感情的な喋り方がブッシュ大統領の演説と双子のように似ていてゾッとした。アメリカもおかしいが、日本も狂っている」と言うのは、仕事で長くアメリカに滞在していた友人。「日本には何の未練もない。国を捨てたいと真剣に思い、移住を考えている。敵前逃亡と笑わば笑え」と言ったのは美術で飯を食っている友人だ。

ごく若い頃、戦争体験を聞いて回ったことがある。その時、「なぜおかしいと思わなかったのか」「なぜ戦争を阻止できなかったのか」という類の、教条的な言葉を吐いた自分を今、恥じる。「まさかあんなことになるとは思わなかった」という言葉が、今、骨身にしみてわかるような気がする……。

だが、私達は同じ愚を繰り返すわけにはいかない。一度目は悲劇、二度目は喜劇という。何十年か後に生まれてくる人々に、「あいつらはとことん馬鹿だった」と言われたくはない……。9条をかなぐり捨てることの意味、小学生から「国を(アプリオリに)愛するよう強要される」ことの意味、報道に規制をかけられることの意味……等々を、私たちが思い知った時は既に遅いのだ。

私は自分の弱さ、卑劣さをよく知っている。挙国一致体制になって――集団自衛権ナントカとやらでよその国を傷つけに行く同胞達を激励しなければ非国民と言われ、君が代斉唱を拒否することが罪になり、テロを想定した住民訓練に参加しなければご近所から白い目で見られる……そんな時代が来たとき、私は自分の思想信条を守り通せる自信がない。私は小林多喜二のように強くないから、逮捕されて長期間拘留され、座っている椅子を蹴飛ばされるなどの脅しをかけられただけで、「へへッ」と恐れ入ってしまうだろう。言ってはならぬことを、ペラペラと喋ってしまうだろう。そう……遠藤周作の多くの小説に登場した、心弱い棄教者たちのように(※)。

※私は遠藤周作の思想的なベクトルには共鳴できないが、10代の頃に『海と毒薬』『沈黙』などいくつかの小説を読んで、心のある部分がぞくっ……としたことを覚えている。

だからこそ、手遅れにならないうちにはっきりと「NO」を表明しておきたいのである。自分が醜悪な人間にならないために……。
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続・足元が揺れている――彼らは本気だ

2006-02-21 03:03:43 | 憲法その他法律

前のエントリに引き続き、教育基本法改定案について少し考えてみたい(これは単純で素朴な感想である。私は教育者でも法律家でもないので、専門的なことはわからない。深い知識に裏打ちされた考察や正確な分析をお読みになりたい方は、教育基本法改正に反対あるいは賛成する団体・個人のサイトが数多くあるのでそちらをお勧めする。だらしない話ですみません……)。

自民党は、教育基本法改定の必要性について次のように主張している。
【制定から半世紀以上を経たにもかかわらず、これまで一度の改正もなされてきませんでした。この間、核家族化・少子化の進行など社会状況は大きく変化し、高校・大学進学率の著しい上昇など教育のあり方も変容しており、時代に適合しきれていない面が出てきています。一方、経済的な豊かさを達成してきた過程で、現在の社会を築いた世代を尊敬する意識が失われ「自分さえ良ければ」という自己中心的な子どもが増えてきました。国民の間での自信喪失とモラル低下、青少年による凶悪犯罪の増加、学力の問題が懸念され、教育現場では、いじめ、不登校、学級崩壊など深刻な危機に直面しています。今こそ、教育の根本にさかのぼった改革が求められているのです】(同党公式サイト上で公開された文書より抜粋)。

要するにもう古くなって時代に合わない箇所があると述べ、同時に子どもを巡る問題が多出しているので教育を考え直さねばならない、と言っているわけだ。この中で気になるのは、半世紀もそのまま……という箇所(憲法に対するのと同じようなことを言っているなあ……)。これが「建築基準法」や「墓地、埋葬に関する法律」など(何でもよいが、要するに具体的な数字や手続きなどを定めた法律)なら、社会状況の変化に伴って変える必要も出てくるだろう。しかし、ものごとの「基本的な考え方」を定めた法律は、車のモデルチェンジではあるまいし、そうころころ変えるものではあるまい。国家の根本が変われば、むろん改定の必要が出てくるだろうが。

そのほかの部分は、実のところ「あ、そう」という感じである。ニュース報道のマクラか商品パンフレットの表紙か何かに使われるような類の、ほとんど何も語っていない文章だから。したがって、これだけ読めば「別にいいんじゃないの?」と思う向きもあるかも知れないが、教育基本法は本当に変える必要があるのか。どう読んでも、私には何処がそれほど不都合なのかわからない。

中央教育審議会の答申(これに基づいて文部科学省が仮要綱案を作成した)によると、たとえば「第五条(男女共学) 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない」について、男女共学の趣旨は既に浸透しているので後半は削除するのが適当であるという。このあたりが「古くて時代に合わない」と言いたいのだろうが、あって悪いものではないというのが私の感想。「ね、古いでしょう?」というためにいじった感じがしてならない。

以下、答申と文部科学省作成の仮要綱案(改正案の骨子)から、問題――というか、気になる箇所をふたつみっつ挙げてみる。


○「愛国心」をはぐくむ

まず怖いのはここである。前出の公式サイト上の文書には、「郷土愛と愛国心をはぐくみ、公共心・道徳心あふれる日本人を育成し、家庭や地域の教育力を回復させるため、教育基本法の改正に取り組むとの方針を打ち出しました」と書いてあった。その基本的な考えに基づき、改正案には愛国心の養成が盛り込まれる。言葉については自民党と公明党の間で違いがあり、前者は「国を愛する」、後者は「国を大切にする」という表現を主張しているが、はっきり言って五十歩百歩に思えて仕方ない。

以前、ブログで「私は国を愛さない」という記事を書いた。その中で確か、「国を愛するのも愛さないのもこちらの自由だ、ほっといてくれ」と書いた覚えがある。いささか乱暴な言い方だが、国というのは「先天的に無条件で」「常に何があっても」愛せるものではない。その点、親子兄弟や親族、夫婦愛人関係と同じである。自分を虐待した親は愛せないし、親戚にはひとりやふたり、顔も見たくない輩がいる。愛し合って共棲した男女(同性同士でもかまわないが)でも、さまざまな理由で憎み合いを始めることもある。国家も同じで、いくらそこに生まれ育ったからといって、気にくわない国家、自分を踏みつけにする国家など愛せるわけがない。少なくとも私はそんなマゾヒスティックな心情は持ち合わせていない(郷里も同じで、石持て追われた故郷や、ひとに言うのが恥ずかしい故郷を、どうして愛することができようか)。逆に誇りに思えるような国であれば、「どうぞ嫌ってくれ」と頼まれても愛するだろう。わざわざ「愛する心(大切にする心)を養う」などと言わねばならぬこと自体、おかしなことなのである。国が愛国心を押しつけてくるとき――その裏には、「どんな国であろうとも愛せ」(そんなアホな)という恫喝が臭っている。


○新たな理念

前文や各条項に「新たな理念」を盛り込むことが適当とされ、「教育の目標」として次のような条文案が創設された。
「教育は以下を目標として行われる。▽真理の探究、豊かな情操と道徳心のかん養、健全な身体の育成▽1人1人の能力の伸長、創造性、自主性と自律性の涵養▽正義と責任、自他・男女の敬愛と協力、公共の精神を重視し、主体的に社会の形成に参画する態度の涵養▽勤労を重んじる▽生命を尊び、自然に親しみ、環境を保全し、良き習慣を身につける▽伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与する態度のかん養」 (愛国心も、ここにしっかり入っている)

大きなお世話、ではないだろうか。答申では「自己実現」という言葉が使われていた。近年やたらにはやっているこの言葉が私は大嫌いなのだが(そんなものは人間、生きていれば否応なくたどることであって、麗々しく言うことじゃないだろう、と思うのだ)、それはそれとしてなぜ法律で(それも“基本”法で!)言われなければならないのか。創造性の涵養にせよ伝統文化の尊重にせよ、勤労の重視にせよ……法律で言われることではないと私は思う。法三条ではないれど、私はそもそも法律というのは、「ごく基本的なこと」だけを決めるべきであり、落語の小言幸兵衛ではあるまいし、個人の生き方や考え方にちまちまと口出すべきではないと思っている。たとえば伝統・文化の尊重――尊重する人がいてもいいし、さほどシンパシイを感じない人がいてもかまわないではないか。人の心の自由にまで網をかけようとする狙いがチラチラと見え透く気がして、私は心底ゾッとするのである……。(話は少しそれるが、伝統・文化の尊重というならば、日本語教育にもう少し力を入れたり古典を読ませたり、古くから存在する工芸や風習などに接し、考える機会を設けてもよさそうなもの。それらをうっちゃておいて伝統文化と大声で言うのは、要するにこれから向かおうとする道程にふさわしい伝統文化だけが頭にあるのだろう……)


○家庭教育に関する規定

「家庭は子どもの教育に第一義的に責任があることを踏まえて、家庭教育の役割について新たに規定することが適当」 として、新たに家庭教育という条項案を設けた。さらに、教育は学校・家庭・地域が協力連携しておこなうとも規定している。
これまた大きなお世話、である。というよりも、学校・家庭・地域の三位一体が目指されているようで何とも怖い。ひょっとすると学校の式典などで起立して君が代を斉唱するにあたり、家庭でも国家国旗の大切さを教えてくださいね、などと言われるのではあるまいか(子供がいなくて本当によかった……と、ふと私の自己チュー部分が顔を出す)。家庭教育にまで口を出す法律は、最低である。そこまで法律で縛り、指針を出さなければ、まともに子供を教育することも出来ない国民だと言われているのも同じことだ。みんな、もっともっと怒っていいのである。


疲れてきたのでそそくさとまとめる。私は現在の教育基本法の前文と第一条は過不足ないものだと思っている。これで、何が不足なのか。これ以上、国が何かを押しつけるのは個人の尊厳を侵害することではないか……と。

〈現教育基本法前文〉われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

〈同・第一条〉(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


追記/今注目の(笑)武部勤幹事長が少し前、大阪市内で開かれた同党衆院議員の会合で「日本は精神的に非常に退廃してしまったと言って過言ではない。教育を見直さなければならず、教育基本法改正も今国会でと思っている」と述べたそうである。アンタにそんなこと言われたくない、顔を洗って出直して来いッ……とブーイングする人は多いのではないか。

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足元が揺れている――彼らは本気だ

2006-02-21 02:31:54 | 憲法その他法律
安倍晋三官房長官は16日夜、小泉首相と自民党総務会メンバーらとの会食に同席し、その席上で「ライブドア事件の原因は規制緩和と言われるが、それは間違いで、教育が悪いからだ。今国会で、教育基本法改正を目指したい」という意味のことを述べたそうである。

その報道に接した時、最初に浮かんだのは「彼らは本気だ」という言葉だった。何が? むろん、国の色合い(または姿)を変えることに、である。いや、今まで冗談だったとか、あまり本気でなかったなどと言っているわけではない。国を変えようとする意図と動きは絶えずあり、現に変えられつつあった。しかし、その動きはこれまでたいてい、目立たぬ形で少しずつ……であったような気がする。目立たぬように少しずつという言い方には、異論があるかも知れない。ギクリとする事件や現象や判決や法制度の改変などはいくらでもあったのだが、散発的であったため、足元が揺らぎ始めたと実感するには至らなかった(少なくとも私は)。だから日本も軍隊を持つべきであるの、愛国心をはぐくむべきであるの、という声高な主張を聞いても、肩をすくめて友人達と顔を見合わせ、「やれやれ……」と笑っていられた。

その動きが、ここ数年の間に急速に力をみなぎらせてきたのである。始まりは、私の個人的感覚では1999年の「国旗国歌法」の成立であった(そういえば、この年に石原都政が始まっている! 嫌な年だったんだな……)。ちなみに君が代嫌いで、君が代の聞こえる所には行かない(たとえチケットもらっても大相撲の千秋楽にはいかない)、聞こえるかも知れない所にはいない(オリンピックも観ない)私にとって、あれはショックな法律である。もっとも、あの法制化の頃は、まだ「少しずつ」の名残があった。日本中で激しい反対運動も展開されたが、常日頃から「日の丸・君が代」の問題に目を光らせている人たちを除き、敏感に反応したのは主に現場の教師や生徒、及び子どもを学校に通わせている親たち。教育現場と接点のない人たちの間では、大きな話題にならなかったのも事実である。だが、あの頃から確実に「足音」が聞こえ始めた。自民党内に憲法改正プロジェクトチームが作られ、中央教育審議会において教育基本法改定の検討が開始され……。

2003年には有事法制関連三法(武力攻撃事態対処関連三法)が成立、憲法改正国民投票法案や教育基本法改正案も、上程は秒読みに入っている。個人よりも公益(というと聞こえがいいが、要するに国益)を優先させる体制が一気に整えられようとしている(ほかに、メディア規制法なども問題の多い法案だ)。「彼らは本気だ」と思うゆえんである。与党が圧倒的な力を持った好機を逃さず、しゃにむに王手をかけようとしているのだ。

憲法改定に反対する人たちは、多くの場合、有事法制にも断固として反対する。だが、そのほかの法律に関しては「よくわからない」という人もおられる。むろん、誰でも社会の動きや法律のことばかり考えて生活しているわけではない。法案をいちいち細かく検討したり、勉強する時間もない(私にしても、ザッと読んだという程度だから偉そうなことは言えないのである。細かいところは読む端から忘れているし)。ただ、今まで小さく揺らし続けて土台が弱ったところに、決定的な一撃を加えようとしている――国の色合いを変え、我々の周囲に見えないバリアーを築こうとしている動きの中での法改正は、同じ根っこを持っているのが当たり前だ。すべてセット、なのである。

たとえば、阿部官房長官が成立に意欲を見せたという教育基本法の改定。これに関しても多くのブログで詳しい紹介や考察がおこなわれているので、私まで書くことはないようなものだが……一応、気になっている点を少しだけ書きとめておくと――
○「愛国心の育成」を盛り込もうとしていること
○家庭教育の役割を規定しようとしていること
○「口当たりのいい言葉」と「余計なお世話」が多いこと

それぞれについての私の感想は、別途、書くことにする。

(それにしても、ライブドア事件まで教育のせいにするとは……。利用できるものは何でも利用するということか。転んでもただでは起きないと言うべきか)。
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再掲/子どもがいたら読ませたい

2006-02-20 08:01:08 | 本の話/言葉の問題
1か月ほど前のエントリの再掲である。私は「人間のイマジネーションは良質の(※)本を読むこと(プラス、良質の劇や映画を観るなど)で培われる」「人間の立ち位置の基本も、それらに影響される」と素朴に信じている。だから乾くように本を求め、明日の主人公である子供達にもそうあって欲しいと勝手に思っている。実はこのエントリの続きを書こうと思ったのだが、ここ数日むやみに多忙で私的な文章を書けなかったので、前座の感覚でひとまず古い話を甦らせておく……。ピックアップした本を読んでおられる方は多いと思う。自分はこう思う、こう読んだ、という考え方を聞かせていただければ幸甚である(このエントリには何人もの方からコメントをいただいたが、残念ながら取り上げている本に関するご意見はなかった。できれば伺いたい……のである。自分の考え方をもう1度見直してみるために)。むろん、何言ってやがるという批判も大いにありがたい。落ち着いたら、またぼちぼちと続きを書きたいと思う。

※良質=オカミやオトナが言うところの良質では勿論ない。

――以下、再掲
とむ丸さんがコメントの中で、『あたらしい憲法の話』をよその子供の誕生祝いに贈ったと書かれていた。子供に良質の(ここでいう良質は、文部科学省推薦の良質とはむろん違う)本を贈る・本を読ませるというのは、非常に意味のあることだと思う。憲法9条、イラク派兵、新自由主義、競争社会……等々について、それ自体をテーマにして語るのも大切だが、良質の本にはおそらく「そういうことに敏感になる感性」を育てる力がある。

そして読ませる本は……むろん『あたらしい憲法の話』や、『戦争のつくりかた』(この絵本は、以前、ブログでほんの少し紹介した)など戦争と平和の問題、国家権力の問題などをストレートに扱った本もいいけれど、そのほかに、さりげない形でメッセージを伝えてくる本、いつの間にかそういった問題を考えさせられるような本、もいい。(子供のいる人には当たり前の話で、何言ってるんだと笑われるかも知れないが、当方は子供と縁がないもので……御容赦)

というわけで、もし自分に子供がいたら読ませたい本、子供のいる家に手みやげに持って行きたい本を、ランダムに挙げてみた。

〈小さな子供には〉

『せかいいち美しいぼくの村』(小林豊)
アフガニスタンの小さな村が舞台で、主人公の少年は戦争に行った兄の代わりに家の手伝いをしている。……が、彼の村は最後には破壊され、あとは砂漠になってしまった。

『トビウオのぼうやはびょうきです』(いぬいとみこ)
水爆実験で傷ついた魚たちの話。有名な童話で何種類か絵本にもなっているようなので、子供の本棚におさめている人も多いのでは。

『弟の戦争』(ロバート・ウェストール)
繊細で、他者への圧倒的な共感力を持つ少年(主人公の弟)が、湾岸戦争のイラク少年兵と一体化してしまう(少年兵が弟に乗り移る)。戦争を実体験する弟の恐怖と怒りを、家族は目の当たりで見ながら……。

『ニャンコ、戦争へ』(菊地秀行・文、平松尚樹・絵)
昨年秋頃に話題になった絵本で、私は最近読んだばかり。作者のホラー小説の文体が今ひとつ好みではないため敬遠していたのだが、この絵本は読んでみてよかった。人間が自分達の代わりに猫を兵士にするという設定の話で、主人公の飼い猫も徴兵され……。


〈少し大きな――そろそろ大人になりかけた子供には〉

『軍旗はためく下に』(結城昌治)
軍令違反で処刑される兵士たちを描いた連作。平凡な、特に反戦思想を持っているわけでもなく状況に流されている臆病な男達が、軍隊の中で虫けらのように圧殺されていく。同じ作者の『終着駅』も子供に読ませてみたい。

『夷狄を待ちながら』(J.M.クッツェー)
クッツェーは南アメリカ出身のノーベル文学賞受賞作家だが、それで読んだわけではない。私の好きな『ゴドーを待ちながら』(ベケット)とよく似たタイトルなので、つい惹かれて買ってしまった。舞台は何処とも特定されない「辺境の街」。そこへ、これも漠然としか描写されていない「夷狄」が攻め込んでくると「帝国」はいう……。お伽噺の世界のようで、細部はリアルで、ちょっとゾクッとする。続けて読んだ『マイケルK』(内戦を背景にしている)も読み応えのある小説。

『邪宗門』(橋和巳)
治安維持法に基づいて弾圧され、解散させられた大本教がモデル……とも言われるが、それはまあどうでもいい。お国のためにならない思想が押しつぶされるありさまを描いた小説。「国には国の掟あれど、我らにはまた我らの道」というセリフ(教団の信徒が演じる素人芝居の中で使われる台詞)が今でも妙に記憶にこびりついている。

『三たびの海峡』(帚木蓬生)
日本に強制連行された朝鮮の男性が主人公。日韓の問題を個人対個人の問題に矮小化した一面があるという批判も聞かれるし、私個人としては少し感傷過多の部分(この作者の特徴でもある)が気になったりするが、子供に読ませたいことには変わりない。日本は加害者でもあったということを改めて思い出させられる。

『ぼくの見た戦争 2003年イラク』(橋邦典)
これは写真集(文もあるが)。あとがきの中で「自分は、善人、悪人を判断するつもりはない。ただ、これらの写真を通して、戦争というものの現実を知ってもらえれば」という意味のことが書いてある。
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「南無浄瑠璃光」

2006-02-16 00:56:51 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

山尾三省、という詩人がいた。屋久島で農業に従事しながら詩を書き続け、2001年に胃ガンで亡くなった。アニミズム思想によって現代社会に抵抗し続けた詩人で、御存知の方は多いと思う。私は実のところ、彼の詩は特に好きというわけではない。多分、あまりに静謐すぎ、優しすぎるのかも知れない。だが、いくつか気になる作品はある。

今回紹介するのは、これ。
【南無浄瑠璃光
 われら人の内なる薬師如来
 われらの 日本国憲法第九条をして
 世界の すべての国々の憲法第九条に 取り入れさせたまえ
 人類をして 武器のない恒久平和の基盤の上に 立たしめたまえ】

題は「劫火」。抜粋ではない。この5行だけである。死の2か月ほど前に書かれたもののようで、おそらくほとんど絶筆に近いものと言ってよいだろう。

詩人は、「妻子にあてた遺言(伝えておきたいこと)」の中でも、同様のことを書いている。遺言は3か条あり、1つ目は故郷・東京の神田川の水をまた飲めるようにして欲しい。神田川の水が飲めるようになった時は、文明が再生の希望をつかんだ時であると思う。2つ目は世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすべて取り外してほしい。自分達の手に負える発電装置で電力をまかなうのが、幸福な生活の第一条件であると思う――と述べている。
そして3つ目に挙げたのが、「最近、ぼくが呪文のように心の中で唱えていること」――南無浄瑠璃光、以下の言葉である。最後の1行は、遺言では「武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え」となっている。

前掲の詩はわずか5行の、比喩も描写もない単純なものだが、それだけに「祈り」というにふさわしい。憲法9条を守る運動で、この祈りをスローガンとして大々的に掲げ、広めていく団体があってもいいのではないか(むろん既に使っている団体はいくつもあって、私が知らないだけかも知れないが……)。
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「格差社会」に対する素朴な違和感

2006-02-14 04:06:23 | 格差社会/分断・対立の連鎖
これは私のごく素朴な感覚である――。

「私は格差が出ることは悪いこととは思っていない」という小泉首相の発言(1日午後の参院予算委員会における答弁)に対して、多くの批判の声が上がっている。怒り、あきれ、激しく批判したブログも枚挙にいとまがない。

その一方で、「格差がつくのは当然ではないか」という意見も少なくないようだ。もしかすると、「格差は努力による競争の結果である。全く格差がつかないのであれば、人間、努力する甲斐がない。ただ、格差が固定するのはよくないし、セーフティーネットもきちんと整備すべきである」というのが、最も多数を占める常識的?な意見であるかも知れない(アンケートをとったわけではないので、実際のところはわからないが)。

だが、私は――固定しようとすまいと(むろん、固定しないより固定する方がはるかに問題なのだけれども)基本的に、「格差が出るのは悪いこと」だと思っている。10日ほど前にブログで書いた文章を、もう一度載せておくと……

【能力のある人間、あるいは競争の勝者は金も力も手に入れることができ、能力のない人間、あるいは敗者は地べたをはいずり回っていろ、という考え方には組みしない。「少数の年収ン千万円(ン億円?)の人間と、多数の食うや食わずの人間がいる社会」よりも、「みんながそこそこに食べていける社会」の方が私にとっては居心地がいい。「年をとって介護が必要になった時、自費で最高の手厚いケアを受けられる人がいる一方で、介護保険の自己負担分が払えないためろくにサービスを利用できない人もいる社会」よりも、「みんながほぼ平等なケアを受けられる社会」を選びたい】

努力すれば「それなりの報い」を受け取れるはず、というのは本当に正しいのだろうか。報いがなければ誰も努力しなくなる、というのは本当だろうか。人間は、そんな安っぽいものだろうか。

私は長年働いてきたけれども、「流した汗」及び「自分自身の満足」と、受け取った対価とは必ずしも比例していない。むしろ反比例したことの方が多いかも知れない。これはどうしてもやっておきたいと思えば「手弁当」で働いたような気がするし、それによって金を儲けて美味しいもん食べようとか、喝采してもらおうともあまり思わなかった(むろん思いがけずお金が入れば嬉しいし、褒めてもらえれば嬉しくて単純に舞い上がってしまうけれども、それはいわば偶然にもらってしまったオマケのようなものだ)。

食べるために、気乗りのしない仕事はたくさんやってきた。著名人のゴースト・ライターをしたことも何度もある。ちなみにゴースト・ライターというのは、貧乏なフリー・ジャーナリストの貴重な収入源のひとつなのである。古典芸能や伝統工芸関係の方などの自伝を書いたり、忙しい評論家の本を代筆したり……。もちろん、いくら何でも自分の思想信条に反する仕事はしないが、財布の軽い時は「ま、いいか」程度のものを引き受けてきた(たとえば海外で長く生活した方の体験談とか、金魚の上手な飼い方、程度のもの――もちろんこれは適当な例であって、金魚の飼い方などはゴーストしたことない)。そういった場合は、せちがらいほどビジネスライクにお金を戴くが、自分から望んだ仕事については「最悪、持ち出しになってもかまわない」と思っている。ついでに言うとゴースト・ライターであっても、「これは記録に残しておくべきだ」と思う内容であれば、報酬は二の次である。

私は二流の(厳密には三流以下かも。笑)、そして無名&貧乏なジャーナリストのままで終わるだろうが、それでも一向にかまわない。恥ずかしいことはしなかったよな、時々自己嫌悪に陥ったりしたけれども、言いたいことは言ったしやりたいことも(自分の能力の範囲で)やったよな、と思えれば充分だし、金も食っていくだけあれば充分である(飢え死にはイヤだけれども)。だから……私はつい、疑ってしまう。「努力や能力に応じて格差が生まれるのは当然」という人は、実は自分のやっていること(仕事)が後ろめたいのではないか、と。

脈絡のない話になってきた。ついでに脈絡ないまま続けるが、少し前に一人の友人と激しく論争したことを思い出す。彼は国立大学の教官なのだが、給与の安さをぼやくものだから、「贅沢言うな」と難詰したのだ。君は自分が望んだ職業に就き、コツコツと自分が望む研究を続けている。そして君は食うに困っているわけでもなく、必要な本を買うのに躊躇するわけでもなく、さらに言えば君の収入は、同じ年齢の人々の平均収入よりも多い。それで何が不満なのか――と。

彼は、自分の能力と業績に対して、報酬が少なすぎると思っているようだった。確かに彼は昔から私など足元にも及ばない秀才だったし、その研究の成果によって社会に貢献していると思う。……それでなぜ不満なのだろうと、鈍才の私は思ってしまうのである(彼との論争は、まだしつこく続いている……。古い友人で、お互いわかっているところが多いので、決定的な決裂には至っていないけれども)。

むろん私は(自信を持って言うが)凡人だから、「金なんていらねーよ。ペッ」と澄ましているわけではない。物質的な欲望はたっぷりある。衣食住にはあまり金のかからない人間だけれども、買いたい本はいっぱいあるし(前出の友人に、おまえさんの生き方を全うするなら図書館で読むべきだと言われてしまった。苦笑)、劇を見たり、たまには旅行にも行きたい。1年ぐらい働かないで暮らせるといいなあ、などと思ったりもする。だからしっかり宝くじを買ったりもしているのだ。しかし……これだけは確かに言えるのだけれども、必死で生きている隣人たちの何ものかをかすめ取ってまで、いい思いをしたいとは思わない。そんなことは――ごく単純な感覚として――気分が悪いではないか。
「金が欲しい、女が欲しい。ただそれだけで人を殺した」(ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』。封切り時に観たわけではないので、念のため。笑)みたいな走り方はしたくない。

いい加減に、余談はやめよう。……
ひとはなぜ、「どちらが優れているか」という競争をし、「これだけ成果をあげたのだから、いい思いをして当然」と思うのだろう。生きても、たかだか百年に過ぎないのに。起きて半畳、寝て一畳なのに。「能力のある人間」がその能力を「自分のもの」と思わず、「たまたま人より勝っているところがあるのは天恵(私は確信犯的無神論者なので神の恵みとは言わない。天恵というのも本当は変かも知れないが、仮の言い方として使っておく)。明日を夢見るために、気前よく提供します」と言える世界……はユートピアなのだろうか。
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「世論調査」のいかがわしさ

2006-02-10 02:22:54 | マスコミの問題
新聞などで、時々「世論調査の結果」なるものを発表している。この調査に協力を要請された経験を持つ方は、大勢おられると思う。私は昨年の衆議院総選挙の前に、生まれて始めて体験した。多分、週末だったと思う。夜の8時か9時、のんびりとコーヒー飲んでいるところに電話がかかってきた。「夜分、失礼いたします。○○新聞の者です」と言葉は丁寧。「総選挙に関して世論調査をおこなっております。お時間はとらせません。ごく簡単な質問にお答え戴くだけですので、ご協力お願いできますでしょうか」。声からすると、20歳そこそこ。アルバイトで雇われた学生さん、という感じである。

私はこの手の調査やアンケートには疑問を持っている(理由は後述のやりとりの中で話している)ので、「申し訳ありませんがご協力出来ません」と即座に断った。そうしたらまあ……粘ること、粘ること。以下、記憶をたどって一部を再現してみる(シ=新聞社の世論調査で電話をかけてきたひと)。
シ「えっ……でも、皆さんにご協力戴いているのですが……」
私「他の方は知りません。少なくとも私はお宅の新聞に、世論調査に応じると言った覚えはありません」
シ「調査対象は、無作為で選ばせていただいたのです」
私「選ぶのはそちらの勝手ですが、応じないのは私の自由です」
シ「でも、世論調査というのは非常に意義のあることで……」
私「あなた方がそう思われているからといって、誰もが同じように考えているわけではありませんよ」
シ「あの、ほんとに簡単な質問に答えていただけばいいんですけど。5分もかかりませんので……」
私「それがおかしいと言っているのです。本当に国民の意識を調査する気があるなら、そんな簡単なことですむはずがないでしょう。どの政党に投票しますかとか、郵政民営化賛成ですか反対ですかとか、数分でちょこちょこっと聞いて、それで世論を把握できたと思う方がおかしい。そう思いませんか」
シ「でも、あまり長い時間をとっていただくのは申し訳ないですし」
私「そう思うなら、はなっからやらなきゃいいんです」
シ「しかしですね。先にも申し上げましたように、世論を調査し、報道するというのは私共の使命ですし……」
私「私は新聞にそんなこと頼んでませんよ。安易な方法でアンケートとって、それを一面でデカデカと載せた調査結果とやらも、その分析とやらも、私は読みたくありません」
シ「そう言われましてもですね……」
私「第一ね、電話で尋ねられて、私が正直に言うとは限らないでしょう。虫の居所が悪くて、デタラメ答えるかも知れない。そういう可能性の上に立ったものを、麗々しく報道と言って欲しくないです」

……というような問答のあげく、やっと電話が終わったのだが、10分ぐらいしてまたかかってきた。今度は先の青年よりちょっと年上かな?と思われる男性で、「先ほどは失礼がありましたようで」と気持ち悪いほど低姿勢。「決して怪しい者ではございません。確かに○○新聞の者です。本社のナントカカントカにお問い合わせいただいても結構です」。ある種のイタズラ電話と間違えられたとでも思っているのか。

私「別にイタズラだと思ったわけではありませんよ。ホンモノだろうがイタズラだろうが、私の答えは同じなのですが」
シ「そのことでございますが、先ほどの者が説明不足で、きちんとご理解戴けなかったようですので……」
……と言って、世論調査の意義がどうの、新聞の使命がどうの、読者に求められているものがどうの、と滔々と述べ始める。ほとんど立て板に水というやつで(マニュアル読み上げているのではないかと思ったほどだ)、半ば感心しながら聞いたが、さすがにくたびれた。それで「理解してるつもりですよ、あなたのおっしゃっていることは」と、おそらくうんざりしたような声を出したと思う。「でも、ご協力できないと言っているんです、私は。どうしても調査したければ、他の人を選んでください」

それから、先ほどと同じような問答を繰り返したあげく、その日はそれでおしまいだったのだが……何ともはや、次の日の夜、またしてもかかってきた。今度は(声や喋り方からして)おそらく30代半ば以上。「いろいろ失礼がございましたようで」と言葉は先の2人と同様丁寧だが、電話口から漂ってくる気配は押しつけがましい。「無作為抽出しているので、調査の公正を期すためにもぜひご協力いただきたい」と、まるでそれが国民の義務とでも言わんばかり。先の2人に対するのと同様の話を繰り返したが、耳に入っているのかどうか、「本当に簡単な質問なので、ご心配なく。時間はとらせません」としつこく言うので、ついに私は「時間の問題じゃありません」と声を尖らせた。
「考えてみて下さい。昨日からこうやって3人の方と話している時間を合計したら、30分じゃきかないはずです。忙しくて時間をとられるのが嫌だというだけなら、5分以内ですむという質問にさっさと答えていますよ。そういう安易な紙面作りにはご協力できない、と言っているのです。長年やっていることだからと言って、右から左へ業務として流して欲しくないのです。マスコミって、そんなものではないでしょう。私と同じようなことを考えている方は多いと思います。それでも何となく言いづらかったり、面倒な気がして、黙って調査に協力なさっている方が多いのではないでしょうか。○○新聞ですとおっしゃれば、誰でも喜んで協力していると思われては困ります」

相手は「わかりました」と言い、「どうも失礼いたしました」と付け加えて電話を切った。ムッとしていたかも知れない(多分、していただろう)。頭に来て机をドン!と叩いたかも知れない。「たまに、こういうわからず屋がいるから困るんだよな」と、酒の肴にされたかも知れない。言うだけ無駄……であったかも知れないのだけれども。

(これを周囲に話すと、みんな腹をかかえて笑った。「オタクみたいなのは、そんなにいないだろうな~多分」。電話世論調査などと言われれば「ヤだ」と言いそうな奴が多いのだが、わざわざ時間かけて問答する気はないらしく、「ノーとひとこと言って電話切るだろうな」。アルバイトの青年イジメたくないから、「ごめん。猛烈に忙しい、手が離せない」と言って逃げ回る、という人も。あ、むろん、「真面目に答えちゃうかも」という人もいる)

私はヒネクレてるのか……泣。でも、私はもう少しヒネクレようよ、と呼びかけたい。マスコミに対して、もっとしっかりしなよ、巨大メディアの権威なるものにあぐらをかいていると、肝心のところで感覚が麻痺してしまうよ、と言い続けるために。





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日本のマスコミは駄目なのか

2006-02-09 02:15:53 | マスコミの問題
昨日、「辺野古における米兵の暴行事件」に関するお知らせを掲載した。この事件について、本土のメディアは(今のところ)全く報道していない。そのことに関連し、日本のジャーナリズム界に対する怒り・憤慨のコメントも寄せていただいた。

……というところから、ほんの少しばかり、「マスコミ」について考えてみた。本当はもっときっちり考えて書かねばならないテーマなのだが、今回は“自分が考えるためのとっかかり”という程度に、いくつかの問題(というほどのものではない。単に、頭の隅に引っかかっていることども)を思いつくまま1つ2つピックアップしてみる。

〈電通という存在〉
これは……実のところ私のブログなどで軽く取り上げられる問題ではない。だから「ふ~ん」程度の感覚で読んでいただきたいのだが――誰でも御存知の通り、新聞も雑誌も(多くの場合)購読料だけでは維持していけず、広告収入に頼っている。したがって(途中のややこしい話はすべて飛ばして言うと)大手広告代理店の意思を無視することは出来ない。電通からの記事差し止めの要望(高圧的な形ではなく、ソフトな形でやってくる)を蹴った編集長やデスク(編集次長)が飛ばされたといった話は、決して珍しくはないのである(むろん、電通に逆らったから飛ばされた、というわかりやすい構図にはなっていない。“きっと、あのせいだぜ”と現場で囁かれるに過ぎないのだが)。「頑張れないのはダラシナイ。しっかりせんかいッ」と批判することはたやすいが、私は自分が小心な弱者であるがゆえに、頑張りきれない現場を大声で批判することはできない……。身びいき、と言われればそれまでであるけれども。広告収入で支えられている以上、メディアは電通の(電通の背後にある力を)無視しきれない。

現在の巨大メディアの「駄目さ」の理由の一つは、この点、つまり「購読料など読者の応援だけで支えられていない」ことだと思っている。広告収入によって安定しているからこそ、私のようなフリー・ジャーナリストも原稿料を頂戴して辛うじて生活していけるのだが、私は……もしかすると自分の生活が危なくなるかも知れないことを覚悟の上で、やはりこう言わねばならない時期が来たと……思う。「原稿料は、そりゃもう戴ければ嬉しいです。有り難いことです。でも、場合によっては戴けなくてもかまいません。尻尾を振って、生きていこうとは思いません」……と。そんなことを言うのは、小心者の(って、何度も言ってるなあ。でもホントなのです)私にはとても恐ろしいことなのだけれども。

だから……このブログを覗いてくださる方たちに、お願いしたい。マスコミ現場の人間の多くは、小心翼々とした庶民です。それでも、震える脚を踏ん張りながら、何かの形で少しでも報道すべきことを報道していきたいと思っている人間が大勢います。彼らを応援し、励ましてください――と。誰かが動かなければならない。どちらかが動かなければならない。とすれば、「情報の受け取り手」の方から動いてもいい。報道を、真に「受け取る側」の手に取り戻すために。

もちろん「巨大メディアをヒモ付きの形から解き放つ」、「ヒモつきではないメディアを育て、守る」ということも大切であるが、今日はその話までは触れない(そろそろ疲れているので……)。

〈新鮮さという幻想〉
新しいこと、派手なこと、目立つことばかりをメディアが追いかけ始めたのは、いつのころだろう。もしかすると、マスコミなるものが誕生した時から、それは宿命的に存在したのかも知れないが。

「もう古いよ」「まだそんなことに引っかかっているの?」というのは、マスコミ界で耳にタコができるほど聞かれる台詞である。ニュースは日々ティッシュペーパーやコンビニ弁当のように消費され、たちまちのうちに古びていく。トイレの汚物のように次から次へと流され、昨日のことすらすでに遠い過去。いつから日本のマスコミは――いや、発信する側も受け取る側も含めて、こんなに気ぜわしくなってしまったのだろう(このあたりは酔っていない時にまともに取り組んで考えてみよう。私なりに。哲学者や社会学者等々の著書や、著名文化人の発言……などを引用すれば簡単に結論が出せるのだろうが、いま、私はそういうことをしたくない。自分のアタマで自分なりに、ということが何より大切であると思うからだ)。

こう書きながら、私は自分にも「新しいことに飛びつき」たくなる部分があることにはっきりと気づいた。日々のニュースを追いかけ、あんなことがあったよ、こんなことがあったとさ、と目の色変えて言いたがる……。こんなことを言うとちょっと語弊があるかも知れないが、「何でも知っている」態度をとりたがることを止め、自分に関心のある(身近に感じられる、と言ってもいい)事柄をしつこく追及していくことが大切なのかも知れない……。


ちょっと中途半端になったが、以下、また改めて。(マスコミについて言いたいことはたくさんあるが、自分自身にとってあまりに重い課題ゆえに思わず口ごもる……。しかし、多くの声のひとつとして囁いておきたいという衝動を抑えきれなくなってきた)



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お知らせ/辺野古における米兵の暴行事件

2006-02-08 01:48:19 | お知らせ・報告など

このところ、ひとさまからのメッセージの「お知らせ」が続く。別にさぼっているわけではないのだが、私が「ふと考えたこと」を書くよりも、こういうニュースを広く知らせた方が意義があると思うので……。

ジャーナリスト・近田洋一氏が、「沖縄版アブグレイブ事件・辺野古海上基地建設現場で起きた米兵による屈辱的犯罪行為に対する抗議とメディアの報道を」という呼びかけをおこなっている。

――以下、転載――
【初めて事件を知ったのは知人のジャーナリスト・森口豁(かつ)氏の次の発信です。
「信じられないようなことが辺野古で起きた。本土(広島)から辺野古の浜を訪ねた一人の青年が、3人の米兵に小突き回されたり、四つん這いにされたうえ、浜を断ち切る有刺鉄線に結わえつけられた平和を願うメッセージを取り除くよう強要されたという。1月22日午後7時頃のことだ。
 アピール(抗議文)と、基地反対協議会の平良夏芽さんからのメールを読むと、青年が受けたの心の傷の大きさと、沖縄米兵の占領者意識ののっぴきならない激しさをひしひしと感じる。
 二人のメールにはこうある(一部略)。
『今朝、弁護士と共に本人からの話を現場をたどりながら聴きました。1時間以上に渡って、こづき回され、他の人が書いてあった「普天間基地はアメリカに持って帰れ」というメッセージを四つん這い状態で消させられ(膝をつくと、背中を押され再び四つん這いにさせられたそうです)。またこれも他の人が結んでいた平和のメッセージリボンをはずさせられ、最後には、砂の上に「SORRY」と書かされた屈辱は、相当のものです』(平良さんのメール)

『今回、私が被った事件は絶対に許せないものです。私は沖縄のことを知らずに旅をしていたものです。那覇に立ち寄った時に辺野古に関連するチラシをもらいました。そして、辺野古まで来ました。辺野古に着き、辺野古の浜辺に有刺鉄線が引かれ、砂浜が基地に奪われているのを見てとてもショックでした。そして、それを知らない多くの人達に知って欲しいと思いました。その有刺鉄線には「基地は要らない」というたくさんの人達のメッセージや思いがリボンに書かれてしばってありました。米兵は私に対してそのリボンを引きちぎるように命令し、強要しました。私は多くの願いが込められたリボンを引きちぎる行為を許すことは出来ません。そして私自身がその行為を強要されたことに強い怒りを感じています。私は私が米兵にされたことを皆さんに訴えます。TVには写らない沖縄があるということを、沖縄の現状は60年続く戦争状態にあることを、日本中が戦争状態にあることを。このことを知らない多くの人達に知って欲しい。 沖縄は(日本に)返還されたと聞きました。しかし、私が見た沖縄はいまだに植民地状態にあります。こういう状態を多くの人々が知らなければとこのようなことが起こらないために』(Hさんのアピール)

 なんと不気味な事件だろう。米兵の憎悪の激しとその陰湿さ、執拗さは尋常ではない。イラクやアフガン体験が、彼らの精神を荒廃させ、人間性を喪失させているのだろうか。しかし例えどのような理由であれ、このような行為は絶対に許せることではない。 気になることが3つある。その一つは、今回もまた犯人が「3人」だったこと。95年の少女暴行事件も「3人」だった。他にも3人組による事件はあった。
「3人は社会の始まり」という。人間3人一緒なら理性を働かせる者が一人ぐらいはいるのが普通だ。ところがそうはならない。僕はそこに沖縄の闇の深さを感じる。二つ目は、アメリカ人、とりわけ兵士たちの対日意識の問題。彼らの心の中に「ブッシュと小泉」のような“従属関係”、つまり「日本人は何もかもアメリカに従うもの」だとする共通認識がめばえているのではないか、という点だ。だとすれば、日米同盟の悪しき終着点、というべきだろう。コトは深刻だ。 そして3つ目はマスコミの問題。今度の辺野古の事件を僕は沖縄からのメールでしか知ることができなかった。本土のマスコミでは報道されていないからだ。いったいなぜ報道しないのだろう(了)」

 僕は驚愕し、仲間に報告、現地と連絡を取り、次のことを確認しました。
①事件はフェンスのこちら側(民有地)で起きた。報じたのは沖縄2紙と地元放送局だけ②那覇防衛施設局は抗議文書の受け取りを拒否②米軍は「事件はなかった」と全面否定③所轄の名護署は告発の受け取りを拒否していたが、2月に入ってようやく受理④抗議行動は続いているいが本土メディアは依然無視の状態。

 僕はイラクのアブグレイブ刑務所で起きたレイプ・恐るべき屈辱的な暴力を想起します】
――転載終わり(簡単に事件を紹介するという趣旨から、一部割愛または文章の順序入れ替えをした。近田氏、森口氏には御容赦を乞う)――


私もメディアの片隅に棲息する者として、恥ずかしく思う。……いや、本土の住民として、ほとんど言葉を失って立ち尽くす。先日このブログで『沖縄は基地を拒絶する』という本を紹介した。その中に、「沖縄は日本の軍事基地なのだ」という一文があったことを思い出す。本土にとって、沖縄は治外法権の場所なのだろうか。陰の部分、見たくないものをいっしょくたに放り込んでおく、便利な開かずの間なのだろうか。

本土メディアは報道しない。……(その末端をはいずり回っている)私にそれを責める資格はないと言われればそれまでだけれども、巨大メディアには世界中の、そして日本の津々浦々のニュースが刻々と入る。それを取捨選択する過程において、この事件が軽く見過ごされてしまったのだ。ライブドアも結構、アメリカ産牛肉も結構。でも読者がワッと湧くような「大きな事件」に一斉にむらがる体質だけはそろそろ変えて欲しく、変えねばならず、そして変えるのは私たちである。

このちっぽけなブログを読んでくださる方に、私は訴える。メディアに対して、皆で「報道して欲しいこと」を突きつけよう。報道しなければ不買運動を起こすぐらいの意気込みで(私は発信する側でもあるので自分の立ち位置がビミョーに微妙なのだが、それはこのさい目をつぶっていただくとして)。国は国民のために存在し、政府は我々のために存在し(小泉首相とてわれわれの公僕、サーバントなのである!)、そして――国民、いや庶民の耳目となるのがメディアの使命なのだから。
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お知らせ/「もうひとつの戦争展」

2006-02-05 01:37:06 | お知らせ・報告など
「草の根メディア9条の会」で配信された「お知らせ」を転載する。

【きょうは、私も携わっている「平和のための戦争展」運動の分野で起きている由々しきうごきについてお伝えします。それは、私たちの「戦争展」に対抗するかたちではじまった「もうひとつの戦争展」をめぐるうごきです。事態はここまできているという意味で、気持ちを引き締めていきたいと思っております。
各方面に流していただくとともに、こうしたことがほかで起きていないかどうかもわかりましたらお教えいただきたいと思います。
なお、本日の『しんぶん赤旗』5面(国民運動のページ)に、「もうひとつの戦争展」に関する記事が掲載されました。あわせてお読みいただければ幸いです。

2002年の夏、愛知で「あいち・平和のための戦争展」の開催にぶつけるかたちで、同じ日程、同じ会場で開催され、全国的にも反響をよんだ「もうひとつの戦争展」が、その後も全国各地に、静かに広がっています。
昨年だけでも以下の通りです。
・7月21日(木)~22日(金)広島県広島市
・7月30日(土)~8月3日(水)福井県福井市
・8月4日(木)~7日(日)愛知県豊橋市
・8月5日(金)~7日(日)東京都世田谷区
・8月11日(木)~15日(月)長崎県長崎市
・8月11日(木)~16日(火)愛知県名古屋市
・8月12日(金)~16日(火)岡山県岡山市
・8月21日(日)~28日(月)静岡県掛川市
・9月7日(水)~13日(火)静岡県浜松市

この他にも埼玉県の川口市では「激動の明治・大正・昭和展」という名称で、かつての侵略戦争を美化する展示会が開かれています。また「新しい歴史教科書展」なるものもひらかれているとの話しも耳にしました。こうしたうごきは、放置しておけば広がりこそすれ、おさまることはないと思います。さらに見過ごせないのは、昨年12月16日(金)~18日(日)、兵庫県民会館2階大展示室で行われた「もうひとつの戦争展――靖国神社:移動遊就館――日露戦勝100周年・終戦60周年」と題した展示会を、兵庫県、兵庫県教育委員会、神戸市、神戸市教育委員会が後援していることです。
この展示会は、チラシで「靖国神社・遊就館が、パネルになってやってくる」とうたい、内容としては、遊就館から借用した展示パネル35枚のほか、日露戦争のパネル20枚、天皇・皇后のサイパン慰霊・奉迎活動5枚が展示され、併設講演会では兵庫県近衛会会長などが話をするというものです。こうした内容の展示会を県や市、それぞれの教育委員会が後援したということで、現地の母親連絡会、小中学校の教職員組合、高校の教職員組合などが抗議し、後援の撤回を求めましたが、現時点では神戸市は後援の撤回を拒否しています。

これは重大な事態です。放置しておけば、必ずや全国的に波及する恐れさえあります。とくに私どもの埼玉では、「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長である高橋史郎氏を教育委員に迎え、その高橋氏が主宰する「師範塾」の理事長に就任するとのウワサさえある上田県知事のもとで、もしこうしたうごきがあれば、それこそ「我が意を得たり」として後援しかねない「条件」があります。黙過できない状況です。それでなくても、全体としていまこの国は、かつての侵略戦争を、やむをえなかった戦争、アジア解放の正義の戦争として描き出すなど歴史の偽造に大わらわです。「兵庫で起きたできごと」として見ているわけにはいきません。

神戸市や兵庫県などへの抗議・要請を行うとともに、私たちの「戦争展」をはじめとする平和のとりくみを、もっともっと大きく広げることが急がれています】(転載終わり)

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続・「理解できない」のは私のほうである

2006-02-04 02:11:40 | 格差社会/分断・対立の連鎖


1日午後の参院予算委員会で、小泉首相はこんな答弁もおこなった。
構造改革に伴う経済格差拡大への批判が強まっていることに関し、「わたしは格差が出ることは悪いこととは思っていない」と断言。さらに社民党・福島党首の「貧困層が増えているという認識はあるか」という質問に対し、「どの時代でも成功した人と成功しない人がいる。貧困層をなくす対策と同時に、成功をねたむ風潮や能力のある人を引っ張る風潮は厳に慎んでいかないと、社会の発展はない」と述べたという。
うーん、理解できない(笑)。

私は基本的に、「格差が出るのは悪いこと」だと思っている。能力のある人間、あるいは競争の勝者は金も力も手に入れることができ、能力のない人間、あるいは敗者は地べたをはいずり回っていろ、という考え方には組みしない。「少数の年収ン千万円(ン億円?)の人間と、多数の食うや食わずの人間がいる社会」よりも、「みんながそこそこに食べていける社会」の方が私にとっては居心地がいい。「年をとって介護が必要になった時、自費で最高の手厚いケアを受けられる人がいる一方で、介護保険の自己負担分が払えないためろくにサービスを利用できない人もいる社会」よりも、「みんながほぼ平等なケアを受けられる社会」を選びたい。

その意味で、私は税金は原則として累進課税方式を採るべきであり、さらに言うと累進税率は可能な限り高い方がいいと思っている。高額所得者の中に「稼いでも稼いでも税金でもっていかれる」という人がいるが、払った残りは一般庶民の平均所得よりはるかに多いはずで、それでいいじゃないかと私などは思う。「税金を払った残りの所得」――いくら私でも全員同じであるべきだなどとまでは言わないが、その最高と最低の差はなるべく小さい方がいい。私が貧乏人だから気楽なことを行っているのかも知れないが、「そういう社会のほうがまっとうだ」と思うのである。

税金の話については実のところ「難しいことは全然わからない」ので、ボロが出ないうちにやめるとして(もう出ているかも知れない)――

「成功」は金に結びついて当然、という考え方も私にはそれこそ「理解できない」。人が何かをやろうとし、努力し、成し遂げたとする。その時、彼は自分が汗水垂らしたこと、そして幸運にも成し遂げられたこと自体で、すでに「むくわれている」のではあるまいか。アインシュタインが相対性理論を確立したのは、それで金儲けして悠々自適の老後を送りたかったからではあるまい。松本清張がびっくりするほどたくさんの小説を書いたのは、印税で儲けて別荘を建てたりベンツに乗ったりしたかったためではあるまい。近所のオニイチャンが社会福祉士の資格を取り、会社を辞めて老人ホームに勤めたのはその方が収入が多いから、ではあるまい。

もうひとつ――「能力」というのは何だろう、とも私は考える。ある本に、「能力主義に反対するのは勇気がいる」という意味のことが書かれていた。おまえは能力がないからそんなことを言うのだ、と思われるからだそうである。確かにそうかも知れない。しかし私はそう思われても一向に痛痒を感じないので、「人間の能力に線引きをするのは反対」「人間を能力なるもので差別するのは反対」と大声で言う。人間の能力にはほとんど無限のバラエティーがあり、それを比較するなど誰にもできるわけはない。権力を持つ人間や既得権を失いたくない人間が「能力」と言うとき、それは「彼らにとって有益な能力」であるに過ぎない。

そして三つ目の「?」。
成功をねたむ風潮とは、いったい何を指すのだろう。「累進税率は高いほうがいい」「能力なるものによる差別反対」といった発言の陰には、妬みがひそんでいるのだろうか? うーん、と胸に手をあてて考えてみた。私は凡人だから、むろん嫉妬だの羨望だのという感情をしっかり持っている。しかしどう首をひねっても、別に金持ちや「成功した人々」を妬む気持ちはないし、ましてや足を引っ張ろうとも思わない(そんなしょーもないことをする暇があったら、もっと自分にとって有効なことに時間を使う)。3度の飯を美味しく食べられ、他者に後ろめたい思いを抱かずにすみ、あまり拘束されずに生きていければそれでよく、それ以上のことはさほど望んでいない。多くの人々が、そうなのではあるまいか。

もしかすると小泉首相の頭をよぎったのは、「小泉チルドレンと呼ばれるセンセイがたのトンデモ発言を、我々庶民が嗤うこと」だったのだろうか? あれは妬みではなく、あきれかえってものも言えない、という庶民の声だったのだけれども……なあ。

まとまりのつかない文章になってしまったが(いつもそうなのだけれども)……強いことがエライのだ、競争に勝つのがエライのだ、優秀なことがエライのだ、という風潮にはいい加減おさらばしたい。弱くて悪いか。負けて悪いか。優秀でなくて悪いか。逃げ支度して悪いか。私たちはそろそろ開き直ってもいい頃だ。直対応していると、相手の土俵に引きずり込まれる……。
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「理解できない」のは私の方である

2006-02-04 00:13:08 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
あーあ、また出ました、お得意の台詞――「理解できない」。

小泉首相は1日の参院予算委員会答弁で靖国神社参拝問題について「(中韓両国が)参拝するのがいけないと言い、それに同調する日本人が大勢いる。これが私には理解できない」と述べた。あいかわらず強気ですなあ……どこからそんな強気が出てくるのか、私のほうこそ理解できない。誤りを指摘されると、(それが好意によるものであったとしても)自分という存在自体がすべて否定されたように感じ、ヒステリックに過剰反応する人が世の中にはいる。そういう人であっても、世間的な付き合いの範囲であれば(正直言ってメンドクサイけれども)それなりに付き合っていくことは可能。だが……いやしくも一国の首相となると、振り回される国民の方は「メンドクサイなあ」ではすまないのである。

人と人がコミュニケーションしようとする時、その基本には「あなたを理解したい」という姿勢がある。立ち位置はちょっと違うかも知れない、立ち位置がほぼ一緒でも細かいところはいろいろ違うかもしれない。それでも、私は貴君のいうことを真面目に聞きたい、貴君にも聞いて欲しい。そうすれば、お互いに気づかなかったことに気づけるかもしれない。別の何かを発見できるかも知れない。――こういった人間同士のかかわり方を、「理解できない」という言葉はビシャリと拒絶する。問答無用、というやつだ。ならば、我々も「問答無用」のスタンスをとるほかあるまい……。

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「平易な表現」には品性が露出する

2006-02-03 23:55:51 | 本の話/言葉の問題
「麻生太郎様――あなたはパシリになりたかったのですね」という昨日のエントリに、複数の方からコメントいただいた。本当にありがとうございます(内心、こういうこと書いてもしょーがないんだよなー、そろそろやめようかなあなどと思っている「その他大勢ブロガー」にとって、コメントやTBいただけるのはとても励みになるのだ。さらに何か考えていく上で貴重な手がかりになるし)。

それを読ませていただきながら、ふと思ったのだが――どうやら、ヒトは「わかりやすい言葉」を使うときに、そのヒトの品性が露出するらしい。何日か前に、「平易な表現ということ」という記事を載せた。そのときにはほとんど意識していなかったのだが、難しい文章は、使われている単語の難しさや華麗な表現ゆえに、読む方はつい「ははーっ」という感じになってしまう〈難易な文章が悪い、と言っているわけではない。主題によって、どうしても難解になってしまうことはあり得るのである――言わずもがなですが、念のため〉。

ただ、「日常語で書かれた平易な文章」は、わかりやすいがゆえに――繰り返しになるけれども「語り手の品性」があざやかに現れる〈私も注意しよう……〉。麻生センセイも難解な言葉を使い、古今東西の政治学者やら経済学者やら哲学者やらの著書でも山のように引用し、「何言ってるのかさっぱりわからん」言い方をすれば、ここまで「何だ、こいつ」と思われなくてすんだかも知れない。ご愁傷さま、である。

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