華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

共謀罪――「目を付けられたら最後」

2006-04-28 00:34:53 | 憲法その他法律


共謀罪から、私がふと連想したものについてちょっと書いておきたい。連想したのは――「別件逮捕(別件拘留)」という言葉だ。本命の事件が逮捕要件を満たさない場合に、要件を満たす他の事件で逮捕・拘留する方法。別件は、多くの場合、軽微な犯罪である(むろん、そうでない場合もある)。

たとえば友人同士の賭け麻雀や街角の立ち小便。やった経験のある人は少なくないはずだ。普通はその程度で手錠を掛けられることはないが、一応「違法な行為」だから、その気になれば逮捕は可能である。ほかに飲み屋のツケを払っていないとか、職場の同僚の作業着をちょっと借りる気で持ち出してそのまま忘れていたなどの行為も、犯罪名をつけようと思えばつけられる。たとえばある大きな事件で、警察が誰かに嫌疑をかけた。だが証拠はないという時、そういう軽微な犯罪で引っかけたりする。そして誰でも――とまでは断言しないが、多くの人はいざとなれば逮捕される程度の些細な違法行為を犯しているはずだ。

「日本はアブナイ!」のmew-run7さんは、共産党員がマンションで議会報を投函していて逮捕された話等々を引いて、「国は自分の都合で法律を使う」と警鐘を鳴らしておられる。(http://mewrun7.exblog.jp/3311957)
また「とりあえず」のluxemburgさんも、かつてオウム真理教の信者が工具をポケットに入れていただけで逮捕されたなどの話を例にとって、「共謀罪が新設されると、このエンタテインメントはもっともっと派手になるだろう」と書かれていた。(http://luxemburg.exblog.jp/d2006-04-26)

私がまだ読んでいないだけで、おそらく多くのブログで、同様の危惧が表明されているのではないか。

別件逮捕というのは警察が目をつけた相手を、「普通は問題にされない程度の違法行為」や、「かなり無理矢理に違法と解釈した行為」で引っ張って行くということである。共謀罪が成立した場合、その適用は別件逮捕の場合の軽微な犯罪と似たものになるはずだ。

たとえば複数のサラリーマンが酒を飲みながら社長の悪口を言い、憂さ晴らしに「あの社長の真っ青になった顔が見てみたい」「あそこの子を誘拐して身代金を要求するってのはどう?」「あ、それおもしろい」と話していたとする。共謀罪が存在したとしても、いくら何でもその程度ですぐに逮捕されることはないだろう。だが、そんな話をしていたサラリーマン達が国の政策にとって都合の悪い市民運動などをしていたとすると、「共謀罪」で引っかけられるかも知れないのだ。9条の会に参加していたり、米国産牛肉輸入再開に反対している皆さん、危ないですよ。

企業が都合の悪い社員、たとえば企業にとって目障りな組合運動をしているとか、会社の方針に逆らうなどの社員を切るために、共謀罪を利用することも出てくるだろう。たとえば経営者側に意を含められた社員がその目障りな社員に近づいて「犯罪」の話を持ちかけ、合意があった時点で「通報」するとか……。まさか、と笑っていられるうちはよいのだけれども。

26日の「共謀罪に反対する大集会」(日弁連主催)で、『共謀罪 その後・第一話』と題するビデオが上映された。これはある週刊誌の編集部員の通報によって、編集長と副編集長、イラストレーターが「首相に対する名誉毀損の共謀」で逮捕されるという話。笑い事ではないと私などは顔が引きつった。そんな引っかけられ方をすれば、ほんの少しでも反権力の記事を載せていたメディアは息の根を止められる。

いずれにせよ目をつけられたら最後、いつ引っかかるかわからない「共謀罪」。目をつけられないよう、触らぬ神にたたり無し、と皆が息を潜めて暮らす世の中がもうすぐやって来る。

〈追記〉
共謀罪の本質やその恐ろしさについては大勢の方が書いておられるし、日本弁護士連合会などのサイトでは法律専門家の立場から綿密な解説と分析がおこなわれている。そういう所を読んでいただければよい。

共謀罪に関するTBセンター
http://utshome.exblog.jp/1887155
日弁連ホームページ
http://www.nichibenren.or.jp/

〈28日夜の追記〉
どうやら採決は見送られたようだが……ほっとしている場合じゃなーい!

〈29日の夜の追記〉
共謀罪、共謀罪と何度かブログに書いている。共謀罪については大勢の方が私なんぞよりはるかに読みでのある記事を書いておられる。それらを読んで戴いたり日弁連などのサイトなどを見ていただく方がよほどいいし(って……下にも書いてるなあ)、ウチのようなささやかなブログが何かの力を持つなどとも思っていないが、これはやむにやまれぬ庶民の悲鳴。窒息させてくれるな! やめてくれ!!……と、私は今日も「声なき声」をあげる。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「共謀罪に反対する大集会」参加者500余名

2006-04-27 01:12:56 | お知らせ・報告など


昨日・26日、日本弁護士連合会(日弁連)が主催する「共謀罪に反対する大集会」に参加してきた。弁護士会館(東京・霞ヶ関)の講堂に集まった参加者は、500名余。ここを覗いてくださった方の中には私以外にも出席された方が何人もおられると思うが、そうでない方のために簡単なご報告をしておく。

〈野党3党が共闘を表明〉
会場には野党の国会議員8名が参集。「与党の共謀罪を廃案にすべく、3党が共闘する」と表明した。
民主党――菅直人・平岡秀夫・高山智司・千葉景子 各議員
社民党――福島みずほ・保坂展人 各議員
共産党――仁比聡平・赤嶺政賢 各議員

〈各団体、個人からの意見表明〉
グリーンピース・ジャパン事務局長、アムネスティ・インナショナル日本事務局長、全国労働組合総連合組織局長ら団体を代表する人々や、映画・音楽などの関係者らが、それぞれの立場から「なぜ共謀罪に反対するか」という意見を述べた。

〈発言の中から〉
いくつかの言葉をご紹介しておく。正確に伝えるためにはそれぞれの発言を要約して載せるべきだが、要約すると「全員、結論はほぼ同じ」になる。むしろ部分的ではあっても共謀罪を考える上で参考になる「言葉」をそのまま載せた方がよいだろうと判断した。再現した言葉はメモによるものなので、語尾などは違っていることをお断りしておく。

吉岡桂輔・日弁連副会長(開会挨拶より)
「犯罪というのは、すべて“被害”があって初めて犯罪と呼ばれるのだが、共謀罪には被害がない。しかも“犯罪に資する行為”を罰するというのだから、予備よりもはるかに対象範囲が広く、これは近代的法体系をくつがえすものである」

※共謀罪の与党修正案に対する日弁連会長の声明は下記

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/060421.html

菅・民主党代表代行
「解釈に幅のある法律を作ると、どのようにでも適用できる。むろん凶悪な犯罪にはしっかりした対応が必要だが、必要な法律と、拡大解釈されうる法律とは区別しなければならない」

平岡・民主党議員
「我々は、与党案を抜本的に見直した修正案を作った。これは与党案の問題点を世の中の人達に広く見てもらおう、文書として示そうということで出したものである」

千葉・民主党議員
「与党はこのような法律を作ることばかり熱心で、人権を守る法律など全然作る気配もない。その流れに非常に危惧を覚えている」

仁比・共産党議員
「与党のルール破りの姿で、与党の反国家性が浮き彫りになった」

寺中誠・アムネスティ・インターナショナル日本事務局長
「現在でも、国によってはアムネスティの活動そのものが犯罪になる。たとえばネパールで私の友人が、政権に反対するデモを共謀した罪で逮捕されたといったこともある。世界を見渡せば監視し合う社会は珍しくないが、そういう社会では市民運動が真っ先に封じられてしまう」

森達也氏(映画監督)
「今の日本の流れは“民意”によるもので、ちゃんとした敵がいない。そのためレジスタンスしにくいのが大きな問題だと思う」

朴哲鉉氏(映画監督)
「私は、ひょっとすると日本の憲法には表現の自由を保障する条文がないのかと思いました(笑)。どこの国でも、国がおかしくなってくると、こういう法律が出てくるような気がする」

外山雄三氏(指揮者・作曲家)
「共謀罪というと、私は自分が子供だった頃の灯火管制を思い出す。隣組が見張っていて、“誰それの家で灯りが漏れている。あれはアメリカに通報しているに違いない”などと言っていた。またああいうことになるのか」(注/氏は1931年生まれ)

〈与党が連休前の強行採決を急ぐのは?〉
ということについて、保坂展人・社民党議員のおもしろい言葉があった。
「与党が28日の裁決強行にこだわっている理由は、たったひとつです。“連休があるから、みんな忘れてくれるだろう”」
問題意識が広まり、多少は報道もされ、強行採決に眉を顰める人達が大勢いたとしても、ゴールデン・ウイークで浮かれている間に忘れちゃうだろう、ということだ。そう思われているとすれば、我々はよほどバカにされきっているのである。う~ん、ますます頭に来た。

さて、明日は問題の28日――。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・芸は売っても身は売らぬ――共謀罪がやって来る

2006-04-23 13:54:00 | 憲法その他法律
私の乗っている船は、いったい何処に行くのか。私は何処へ連れて行かれようとしているのか。星は空に満ちているけれどもそれを読み取る力はなく、羅針盤はどうやら故障しているらしい。

共謀罪がGW前に成立か、というとんでもない事態になっているが、街に出ればその風景はあいかわらずぬるま湯のような穏やかさ。この国は、致命的になるまで症状が現れない、タチの悪い病気にかかって、静かに腐ろうとしている。

「(普通の庶民が共謀罪で逮捕されるなんて)そんなこと、あるわけないじゃん」「考え過ぎだよ。被害妄想じゃないの」「心を縛る法律だの、オカミに都合の悪いことを“犯罪”にしてしまうだのって、それは一部の左の連中が大げさに言ってるだけさ」

……そんなふうに笑い飛ばすお人好しの国民は、近い将来、もの言えば唇寒い世の中になった時にまた「騙された」と言うのだろうか。1度だけなら騙されたという言い訳もきくだろうが、何度も同じ手で騙されたらそれは自分達のアホさ加減の証明でしかない。

それにしても、恐るべき急ぎ方だ。行け行け、今が千載一遇のチャンス、という声が聞こえる。私達にももう時間はない。

〈お知らせ〉
Under the Sun で「共謀罪に関する緊急アンケート」を実施中。皆さん、ご協力下さい。アンケート結果は各メディアや政党に送られます。
http://utseqt.exblog.jp/1896549
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸は売っても身は売らぬ。もちろん心も売りませぬ

2006-04-22 16:31:53 | 憲法その他法律

ヤな世の中になった。あるいはヤな世の中が続いていると言うべきか。与党の教育基本法“改正”案が決定したと思ったら、次は共謀罪が審議入り。以前、「足音が聞こえる」などと書いたことがあるが、それが日々大きくなり、こっちに近づいてきているような実感がある。

「愛国心」(※1)を強要しようとする教育基本法も、社会に都合の悪い(とオカミが判断した)ことを考えて話し合うだけで処罰しようとする共謀罪も、どちらも「人の心や思想」を縛るもの。「法」というものの権限を超えている。私は法律の専門家ではないから法の正確な定義はわからないが、21世紀の法治国家に生きている者として、法律とは「集団の構成員が支障なく暮らしていくための最低のルール」「自由を阻害されたり踏みつけにされたり、あるいは他者の自由を阻害したり踏みつけたりしないためのルール」だと思っている。それ以上のことを、法律に望んだ覚えはない。

※1/「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という表現になっているが、そんな猫なで声出されても気持ち悪いだけだ。衣の下に鎧を隠したりせずに、堂々と「愛国心」と言いなさい。そのほうがわかりやすいから。

法は構成員を守るためにあるはずなのに、時として支配のための道具になる。いや、支配の道具として使おうとする者達が出てくる。「あいつは犯罪者だ」「ルールを守れない奴だ」「反社会的人間だ」「変なこと考えている奴だ」、果ては「非国民だ」……。ともすれば守り手を欲しがる弱い庶民(むろん私もそのひとり)を、遵法者と違法者にするどく分け、人と人とのかかわりをみみっちく、薄汚くしてゆく。

「心は売り渡さない」などと偉そうにそっくり返っているけれど、これがいつまで続けられるやら。私は弱い人間で、「千万人といえども我ゆかん」などと孟子サンみたいなことは言えませぬ。いや、単に白い目で見られたり陰口きかれるぐらいなら――「千万人」はちょっとしんどいが、ある程度の人数なら多分平気だ。平気でないかも知れないが、びくびくしながらも、まあ無視していられる。少数でも味方がいれば、さらに心強い。だが、とっつかまって塀の向こうに放り込まれたり、そこまでいかなくても仕事を失って路頭に迷うようなハメになったら、泣く泣く踏み絵を踏んでしまいそうなイヤな予感がする。だから!――そんなことになる前に、何としてでもこのゾッとするような流れをせき止めたいのだ。

……ちまちまとブログなんか書いてる場合じゃないんだよな、とふと思ったり。むろんブログの中には大きな影響力を持つものがたくさんあり、それはそれで有効な活動のひとつであると思う。だが私のはいわば「その他大勢」で、死ぬまで続けていたって反権力運動に寄与するわきゃあない。自分自身の考えをまとめるには有効だし、多くのブロガーとのコミュニケーションを通して発見するものも多いが、どちらにせよ「自分のためのもの」。精神的マスターベーションの延長である。

「書を捨てよ、街に出よう」じゃなかった、「ブログを捨てよ、街に出よう」かな? と思いつつ、今日もこうやって書いてしまった私はいったい何だろう(嫌な情報が多いので、少し気分が疲れ気味。陽春だというのに……)。


教育基本法や共謀罪について自分が考えていることについては、今までも何度か書いた。基本的な考え方は変わっていないので(大したこと言ってるわけでもないし)、繰り返して書くのはナンであるが、このエントリの参考として3月17日付けの記事をコピーしておく(註と、治安維持法関係の資料は省略)

◇◇◇◇(長ったらしいコピー)
共謀罪の審議は先送りされているが、それも「今のところは」である。共謀罪については本やブックレットが出されているし、多くのブログでも触れておられる。法案の内容・問題点などは専門の法律家や、一貫して反対運動をおこなってきた団体の書いたものを見ていただいた方がいいと思うので、私がここでシタリ顔でいろいろ言う気はない。

私が書いておきたいのは、たったひとつ――「やっぱり、これもか……」と恐怖を感じている、ということだ。

共謀罪というのは「犯罪の計画や合意に関する罪」であり、対象となる犯罪は600を超える。「内乱」「内乱予備・陰謀」に始まり、「強盗」「窃盗」「詐欺」「背任」「恐喝」「横領」、そして「選挙の自由妨害」「防衛秘密漏洩」「偽りその他不正の行為による消費税の免税等」「業務上過失致死傷等」「組織的な威力業務妨害」……エトセトラ。「決闘」などというのもある(それにしても、業務上過失致死傷の共謀罪とはいったいどういうことだろう。これは業務上過失致死にしようぜ、と相談して人を殺したら、それは過失ではないと思うが……)。刑法その他のあらゆる法律で、軽微なもの以外はすべて対象になると言ってよい。

法律の専門家によれば、「犯罪」には4つの段階があるそうだ。最初が「共謀」で、犯罪の合意。次が「予備」で、具体的に準備すること。3番目が「未遂」、そして最後が「既遂」である。たとえば会社で気にくわない上司がいて、殺意を抱いたとする。飲み屋で集まったときにさんざん愚痴をこぼし、「あいつ、ぶっ殺してやりてえ」「そうだそうだ、やっちゃおうぜ」と意見が一致し、夜道で待ち伏せしてナイフで刺そうか、お茶に青酸カリ入れようかなどと話し合えば「共謀」。ちょっと本気になってナイフ買ったりすれば「予備」。刺そうとしたけれど手が震えて袖をちょっとかすっただけ、というのは「未遂」。本当に殺してしまえば「既遂」である(非常にいい加減なたとえであるけれども)。

その犯罪の内容がどうであるか(つまり犯罪として正当に?認められ得るものであるかどうか)は別として、「既遂」であれば法にのっとって裁かれるのは――原則として当然であろう。場合によっては、未遂も裁かれるであろう。しかし「予備」や、さらに言えば「共謀」まで裁くのは法の越権ではないか。

共謀罪を成立させようとやっきになっている側は、これは暴力団やテロ組織などを取り締まるためのものですよ、善良な(!)庶民とは縁遠い話ですよ、と甘い声で宣伝している。いやはや、巧いことを言うものである。我々善良な(笑)庶民は、ついついこういう言葉にフラリとしてしまう。だが――

よく比較して語られるものとして、1925年に公布・施行された「治安維持法」というとんでもない悪法がある(資料1、2参照)。これはそもそも、「左翼思想」を取り締まるためのものだった。当時は「アカ」イコール「おぞましい連中」と考えている(実は思い込まされている)人達が多かったから、「そういう危険分子を取り締まる法律なら、いいんじゃないの?」という感覚で受け入れられたようだ。だがしかし、当初は左翼運動だけをターゲットにしていたこの法律は、拡大解釈によって濫用され、さらに幅広く「国家にとって好ましくない思想(を持つ人々)」の弾圧に使われた。治安維持法違反に問われた人や団体として、有名なところでは、哲学者の三木清(獄死)や大本教などがあり、「横浜事件」など雑誌の編集者達が逮捕拘禁された例もしばしば取り上げられる。

「暴力団やテロ組織による、市民生活を脅かすような犯罪を未然に防ぐためのものてすヨ」などという甘言に騙されてはいけない。……むろん法律ができても、明日、いきなり市民運動の団体や同好サークルなどが共謀罪にひっかかって逮捕されることはないだろう。最初はおそらく、善良な市民(私もしつこいな……)の多くが納得するような形で適用されるだろう。しかし、そうやって安心させながら、包囲網は縮められていく。そして気がついた時には、我々の「思想」や「心」はガンジガラメにされているのだ。

たとえ社会的にNOと言われることであっても、「考え」たり「合意」するだけで罪になるはずはない。たとえば――あまりいい例ではないが、ペドフィリア(小児性愛)。実際に小さな子供をだまくらかしたり脅迫したりして性的関係を強要すればそれは犯罪だが、ひそかに妄想したり、ペドファイル(小児性愛者)たちが集まって空想話を楽しんだりすることにまで私は禁止しようとは思わない。「日本は神の国である。民衆は神の子孫である天皇を元首として敬うべきで、それに反対する“非国民”は殺してもいい」といった考え方も同様。私はむろん徹底的に否定するけれども、考え方が存在すること自体は「勝手に思ってなさい」てなものだし、同志を募って組織を作っても、まさかそれだけでとっつかまえて死刑にしようとまでは思わない。

何を考え、何を夢想して、同じことを思う人々と合い語らおうとも、すべては我々の自由である。具体的に人の権利を侵害したり人を傷つけたりしない限り、後ろ指さされることはいっさい無い。そういうごく基本的なところが侵されようとしているのだと私は思う……。私たちは――いや、私は、何だかんだ言いながら結構小心に世渡りしている。危ない橋は、できれば渡りたくない。日常生活は、遵法精神にのっとって送っているつもりである。そんな人間だから、危ない橋が身の回りに無数に架けられるのは息苦しくてたまらない。橋を渡るまいとして、ますます小心に、ますますいじけていくに違いないのである。

そして一番肝心なのは、「なぜ今、共謀罪なのか」ということだ(むろん共謀罪の法案はつい最近できたものではないけれども、比較的新しいものではある※)。共謀罪は戦前の治安維持法より、悪法という意味においてはるかにまさると法律の専門家の人達は言う。そうかも知れない。いや、確かにそうなのだろう。治安維持法よりも緻密で、初めに書いたように軽微な犯罪以外すべてに網をかけているのだから。

そのことは承知の上で(というより、専門的に研究している人達の正確な解説に任せて)、私は大雑把なことだけを言おうと思う。ブログで何度か書いたような気もするが、今しゃにむに「改正」や「成立」をもくろまれている法律は、すべて根っこの部分で通底している。「国あっての人民である」「国を愛せ」「国を守れ」というかけ声と共に、「国家」という幻想をあたかも太古の昔から確定していた実体のように我々の心に焼き付けようとしている者達がいる。だから、ひとつとして譲ってはならず、ひとつとして負けてはならない……。一昨日「飼い慣らされまい」というタイトルで文を書いたが、「不逞なことを、集まってこっそり話すだけでも罪に問う」のは飼い慣らしの方法のひとつであり、それもかなり飼い慣らしが進んだ時に有効になってくる方法だ(飼い慣らしが進んでいなければ、普通、テメエ何言ってやがると反発を食らうはずである)。そうか、既に飼い慣らしは相当の段階まで進んだという判断があるのだな……と私は思わずにはおれない。

以前、こんなことを書いた覚えがある(大したこと言える人間ではないので、何を書いても結局のところだいたい似たような話になってしまうのだ)。
【憲法改定国民投票法案も憲法改定も、「あれはいいが、これはダメ」という話ではないのだ。おまえの考え方、おまえの姿勢、おまえの依って立つところすべてが「NO」なのだと言わねばならない】

憲法改定はノーだが共謀罪はイエスとか、共謀罪も対象をもっと限定すればイエスであるとか、そういう問題ではないのだ。今の日本は、まさしく「戦前」なのである。
(了)◇◇◇◇◇
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「二人の太郎」の付け足し――ユーモアそして含羞

2006-04-19 00:44:05 | 本の話/言葉の問題
前のエントリ「二人の太郎」で、司馬遼太郎への違和感と、山田風太郎が好きだという話を書いた。そのしょうもない話に付け足しをするのは自分でも恥ずかしいが、なぜ「司馬遼太郎がダメで、山田風太郎がOKか」についてもう一度(かなり粗っぽく)考えてみた。

で、ぼや~っと頭に浮かんできたことのひとつが、「司馬遼太郎の小説にはユーモアがない」。

ユーモアという言葉は誤解を招くかも知れない。底にかすかに流れている「戸惑ったような微苦笑」、「接する者をほっとさせてくれる、あるかなきかの微笑」という表現をすればいいだろうか。

「悪ふざけをしたり、笑いをとろうとすることがミエミエな冗談を言う」ことと、ユーモアとは関係がない。いや、冗談や軽口が悪いわけではない。むしろ他者とのコミュニケーションで欠かせないとも思っているのだが、それが必ずしもユーモアとイコールでないのが難しいところ。

実は私も文章を書くときにくだらない冗談を交えてしまうことがままあり、わざとらしいよなあ、と後で思ったりする。わざとらしいのは、戸惑ったような、やさしい微苦笑に支えられていないからだ。

ユーモアは、心の余裕から生まれるのだろう。心の余裕と言うとまたまた誤解を招きそうだが――要するに「自分が何かを主張することで、いっぱいいっぱい」ではない、あるいは「臆面もなくものを言うことに対する含羞」がある、ということだ。笑い転げさせてくれる表現でも、ニコリともしない生真面目な表現でも、ユーモアを感じさせるものと感じさせないものがある。私もいつか、本当の意味でユーモアのある表現を身に着けたいと思う……。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二人の太郎――司馬遼太郎と山田風太郎

2006-04-18 02:35:31 | 本の話/言葉の問題

これは単なる好みの問題である……。そのつもりでお読みいただきたい。

〈司馬遼太郎への違和感〉
先年物故した司馬遼太郎――国民作家と呼ばれ、愛読者も多いが、実のところ私はあまり彼の小説が好きではない。おもしろいことはおもしろい。巧いとも思う。だが、どうしても違和感を拭えないのだ(そう言いながら何冊も読んでしまうところが活字中毒のゆえん……。いや、何処に違和感を感じるのか首をひねり、つい読んでしまったのだ)。

もっとも、初めて接した時から違和感があったわけではない。最初に彼の小説を読んだのは、多分、中学2年生の頃。図書館に行くなどしてオトナの小説を読みふけり始めてから少し経ったあたりで、彼の初期の小説に触れた。その時は、「ぼーけんしょうせつ」を読む感覚でおもしろく読んだ(もちろん難しくてわからない所もたくさんあったはずだが、彼の小説は筋を追うだけなら子供にもわかりやすい)。ただし、続けて何冊も読もうとまでは思わなかった。わくわくさせてくれる作家の小説は、ほかにもいくらでもあったから。

まとめて読んだのは、社会人になってからだ。きっかけは忘れたが、『峠』か『城砦』を読んだような気がする。もしかするとその頃、司馬小説の何かが映画かテレビドラマにでもなったのかも知れない。そうやって一種のブームが巻き起こると書店にコーナーが出来るから(流行を追う気はないけれども、そういう時はついつい、ちょっと読んでみるかという気になる)。おもしろいという感想を抱いた点は、子供の時と同じだった。だが同時に、かすかな、軋むような違和感を持った……。

違和感を持つ理由のひとつは、おそらく、登場する主人公達があまりに颯爽としているからだ。ここでちょっと強調しておくと、私は「颯爽とした主人公」は好きなのである。子供の時から冒険小説や伝奇小説が大好きだったし(今も好き)。ついでながら、司馬遼太郎があやかってぺンネームを付けたという司馬遷の、『史記』も好きである。だが、司馬小説の主役クラス(主人公および副主人公たち)は、あまりに――そう、「臆面もないほど颯爽と」しすぎている。司馬遼太郎は「漢(おとこ)の典型をひとつずつ書いていきたい」と言ったそうだ。何を書こうと作家の自由であるが、私は彼の小説を読んで、「ふ~ん。これが彼の考えたオトコの典型なのか」といささか鼻白む。

今風の言葉を使えば、司馬小説の主役は「勝ち組」である。いや、現在使われているような意味の「勝ち組」ではない。戦いに敗れて殺されたり、暗殺されたり、志半ばで仆れたりする者達も多い(主人公はそういう人物の方が多いかも)。しかし彼らは「胸を張って大義や志に生きた」者達なのである。また余計な付け足しをすると、私は「大義」や「志」は結構好きだったりする(好きなものの多い人間なのである)のだが、これらは高らかに歌い上げるものではないとも思う。ある種の危険をも孕んだ言葉だから、自分の心の隅っこに、鍵をかけてひそかに仕舞っておく方がいい。むろん司馬小説の主人公達が「大義、大義」「志、志」と暑苦しく連呼しているわけではない。いくら何でも、そのぐらいはわかっている。ただ、全体の雰囲気をそう「感じる」のだ。さりげない、しかし執拗で圧倒的な「大義や志」の洪水。これには異論も多いと思うが、感覚は自分でもどうしようもないのである。

巻き込まれて踏みつけられ、懸命に抵抗し、あるいは抵抗しきれずに「犬のように」死んでいった者達の視点が、ここにはない。そういった人々を主人公にしていないから悪い、と言っているわけでは無論、ない。そんな無茶苦茶な無いものねだりをする気はない。英雄豪傑が主人公でも一向にかまわないのであるが、そういう小説(物語)であっても地を這うような視点を持つことは可能だし、実際にそういう小説・物語はいくらでもある。

違和感のもうひとつの理由は、企業の経営者や政治家など、「大声でものを言うことができ」、「それを強引にでも多くの人々に聞かせることの出来る」人々、別の言葉で言えば「勝ち組」「成功者」(または、自分でそう思っている人々)の中に司馬小説ファンが多いから――かも知れない(もちろん勝ち組や成功者以外のファンも大勢いるのだが、経営者あたりが愛読書を聞かれた時、司馬遼太郎を挙げる例が多いのも事実である)。誰がどんなふうに読もうと、作者自身とは何の関係もなく、責任もない、とも言える。だが、「どんな人に、どんなふうに読まれるか」ということは、その作家の資質や作品の位置を考える上での参考にはなる。

パスティシュ小説の名手・清水義範の小説に、ある企業の会議の模様を描いたものがある(題名は忘れた。私は記憶力はダメだが忘却力には自信がある)。この作品の登場人物が、「司馬小説の主人公ふう」に喋るのだ。絶妙の文体模写(会話体模写、と言うのかな)に、読みながら笑い転げてしまった。たかが一企業の、それも企業の存亡を賭けた、といった深刻なものでもない会議の席上で、「戦国・維新の英傑」ふうの喋り方をするという、あまりの落差にも笑いが止まらなかった。エライサン達はその滑稽に気づかず、1オクターブ高い言葉にひたすら酔っている。そう……司馬小説は、人間の「英雄願望」をくすぐり、酔わせて思考停止させてしまう魔力がある。それは彼の、小説家としての非凡な才能の証左でもあるのだけれども。

私の勝手な思い込みかも知れないが、司馬遼太郎は非常な勉強家であると共に、新聞記者の資質を色濃く持っていた人だと思う(元来そうであったのか、新聞社に勤めている間にそうなったのかはわからないが)。それもかなり優秀な。対談を読むと、相手の言葉の引き出し方の巧みさに脱帽するし(実はこれは非常に難しいことなのだ。単なる聞き手ではどうしようもないし、かといってひとりで突っ走って持論を展開してもダメ)、『街道をゆく』では主観と客観のほどよい兼ね合いや、滑らかな語り口に感心した。彼はある種のルポルタージュを書いたり、初期のような伝奇小説を書き続けたりした方がよかったのかも知れない……。歴史上の人物を取り上げた史談小説に手を染め、それによって大家になってしまったところに、実は作家・司馬遼太郎の悲劇があるとかも知れない……などと思ったりもする。

〈そして、山田風太郎〉
同じ太郎と名のつく作家では、私は山田風太郎のほうが好きだ(この人も既に故人)。彼の小説を初めて読んだのは、多分、司馬小説を初めて読んだ時よりも少し後(手当たり次第の乱読人間なので、何をいつ読んだかといったことは、特別な何かがない限りよく覚えていないのだ)。兄貴のものだという『忍法帖』シリーズを学校に持ってきたのがいて、授業中に何人もで回し読みをした。その時は、伝奇ポルノを読む感覚でニヤニヤしながら読んだのだけれども(余談――中学の終わり頃から高校にかけて、ご多分に漏れずポルノ、というかエロティシズム小説を読みふけった。もちろん半ば以上は低劣な?好奇心に駆られてのことだったに違いないが、大人が読ませたがらない小説の中にはきわめて良質な、人の心の闇や原初的な感覚などを垣間見せ、人間の一筋縄ではいかなさを理解させるものがいくらでもある。当時読んだ本の中のいくつかは、今でも私の愛読書である)。

『忍法帖』以外を読んだのはいつのことか。これまた情けないことに、よく覚えていない。大学生の頃から少しずつ読み、いつの間にか大半読み終えた、というところだろう(ついでながら、忍法帖シリーズも大人になってから改めて読み返した)。『室町少年倶楽部』『婆娑羅』『神曲崩壊』『地の果ての獄』等々、どれも読むたびに衝撃を受けたことだけはよく覚えている。

たとえば『エドの舞踏会』――これは西郷継道に命じられた若い武官が、鹿鳴館の舞踏会への参加をしぶる高官達の夫人を説得して回るというのがいわば小説の額縁。回っているうちに、夫人たちに関わるさまざまな事件を見聞きし、時には巻き込まれる。そして、もと芸者であったりする夫人たちのしたたかさ(夫である高官たちの大義や志――血肉になっていないからこそ1オクターブ高くならざるを得ない大義や志――を笑い飛ばすしたたかさ)に圧倒されるのだ。中でも出色なのは、森有礼夫人を巡る話。欧化主義の筆頭である森有礼は、夫人に西洋風の生活スタイルを強要し、夫人が妊娠すると、胎教のために西洋人(多分フランス人だったと思う)を――家庭教師としてだったか、単なる話し相手だったか、そのあたりは覚えていないが――屋敷に出入りさせる。だが、夫人本人はそういう暮らしが(夫の理想とするところを頭では理解しているつもりでも)嫌でたまらず、子供の頃に聞いた日本の子守歌を懐かしむ。それを知った高官夫人達は、森有礼夫人のために一肌脱ごうとする……。未読の方の興味を削ぐといけないので詳しくは書かないことにするが、森夫人が出産した時に驚くべき事実が明らかになるのだが、それをかばう高官夫人達の言葉が何とも言えず皮肉だ。

何だか読書ブログみたいになってきた。本の話などは「役立ちますよ」というご紹介以外はあまりグダグダ書くもんじゃないと思っている(本を読むのはきわめて私的な歓びであるし、個々の読者ごとに感覚のズレがあるのは当然で、それをどうのこうのと言っても不毛なだけである)ので、いい加減なところでやめよう。……私が山田風太郎の小説に魅了されるのは、主人公達が「大上段に」構えていないからである。大義名分なんて関係ねえよ、と彼らはうそぶく。もちろん「大義」や「志」がないわけではないが、彼らのそれは、あくまでもささやかで、声高に言うようなものではない。ほとんど意識されていない、と言ってもよい。

『外道忍法帖』(タイトルはこれで間違っていないと思う)の主人公は「(自らの)大義」のために敵と戦う。そして小説の最後で敵の首領と相打ちになるのだが、その時「○○のために」と高らかに言いかけて、ふと言葉を変える。
「いいや、伽羅のかたきだ」
伽羅というのは主人公が愛した(と言っても一般的な意味で愛人とか恋人というわけではないのだが)女性の名前である。【夢見たものはひとつの幸せ/願ったものはひとつの愛】と歌った詩人の世界が、ここにはある。疑問を持ちながらも帰属する集団のために忠実に働き続けた『忍法双頭の鷲』の主人公達も、最後には自分達を使い捨てようとする権力に反抗し、愛する女性と共に地の果てまでの逃避行に旅立ってゆく……。

追記/Under the Sun の日替わりコラムで、月曜日のコラムを担当している。人手が足りないということで、執筆態勢が整うまで当面のお手伝いができればと腰軽くやり始めただけだけれども。実はそこでこの話を書こうかと思ったのだが、間に合わなかった。結局はわけのわからない話になってきたので、間に合わなくてよかったのかも……。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

99条の危機と愛国心――『改憲問題』を読んで

2006-04-15 04:28:20 | 憲法その他法律


今日(とっくに深夜零時を回っているので正確には昨日)、電車の中で、愛敬浩二著『改憲問題』(ちくま新書)を読んだ。

〈ちょっと前置き〉
実は憲法問題を論じた本はやや読み飽きて(飽きちゃいけないのだが)。ここ2か月ほど雑誌に載った短い文ぐらいしか読んでいなかった。最近は憲法問題について書いた本が多数刊行されている。それは喜ばしいことであるけれども、同じテーマの本が次々と刊行される時によく見られる例で、正直なところ、やや玉石混淆の感もなきにしもあらず。いい加減なものが多いというのではない。ある程度の売れ行きが見込めるということで、かなり慌てて作ったようなものが時々見られるのだ(同じテーマの本が多数出ると、書店ではそれがひとかたまりで置かれ、顧客は“ついでに”という気分で2~3冊まとめて買ったりする。で、単独でポツンと置かれていたらめったに売れないような本も、ドサクサ紛れ?で売れたりする)。たとえば、「そのことはもう、いろんな人が言ってるぞ」という本。むろん、ほかの人と同じことを言ってはいけないわけではない。ただ、同じ論理を展開して同じ話をするのでも、読み手としてはその本だけの味が欲しい。味というのは変な言い方だが、つまりはその本を読んだことによって、1つでも2つでも何か新たにモノを考える手掛かりが欲しいのだ。何かしらの発見が欲しい、と言ってもよい。見出しなどを工夫していかにも発見ありそうに見せているけれども中は発見ゼロ、という本も残念ながらある……(偉そうなことを言えるほどの者ではありませんが、お金出して買って、時間を費やして読む読者の気持ちとして、言ってもいいかな?)。

〈簡単な感想〉
前置きが長くなった。ちくま新書『改憲問題』の話を書こうとしていたのだ。電車の中で読む本が欲しくて、駅前の書店でさっと前書きなどを読んだだけで買ったのだが、期待した以上におもしろかった。前述の話に関連して言うなら、特別に「個性的な」(!?)議論が展開されているわけではない。ある意味、それが当たり前だ。現憲法を支持し、改憲に反対する時に理由は既にこれまでに語られ尽くしている(尽くしていないかも知れない。ほかに誰も気づかぬユニークな理由があるかも知れないが、主なところ、基本的なところは既に明示されていると言ってよい)。後はそれを――法律や政治学の専門家ならば、どれだけ裏付けと説得力のある言葉で正確に語れるか、専門家以外ならば、基本的な知識を身に着けた上でどれだけ自分の経験や思想信条に基づいた借り物でない自分の言葉で語れるか、だけである。

同書は政治思想学の大学教授が、1年生のゼミで学生達に「改憲問題」について議論させ、学生達の意見に答える形で講義を進めていくという書き方になっている(著者は名古屋大学の教授だが、本の主役として登場する教授や8人のゼミ生達は架空の人物)。その点が、まずおもしろい。学生達はほとんどが「改憲賛成派」であるが、考え方はそれぞれ違っている。押しつけ憲法は変えるべきという積極的改憲派。自衛隊の位置づけをもっと明確にすべきだが、自民党案には賛成できないという学生。改憲といえば9条だけが問題にされるのはおかしい、新しい人権などを盛り込むのはいいことだという学生。解釈でイラク派遣などを正当化できる9条は、軍事大国化路線の歯止めにならないから明文改憲すべきという学生……。「巷の代表的な改憲論」が、学生達の発言の形で語られる。そうか、こういう改憲論もあったっけと改めて頭の中がまとまるし、それに対しする教授の答え(講義)を読んで、自分ならどう答えるかと考えることもできる。地域の9条の会など活動で憲法問題に関する素朴な感想・疑問を呈され、どう答えればわかりやすいかと悩んだ経験のある人には参考になると思う。

興味が湧かれたら読んでいただくのが一番だが(大学1年生のゼミという設定なので、文章も内容も難解ではない。斜め読みなら立ち読みでも読める)、私が印象に残った部分をところどころピックアップしておこう。長い引用は読まれる方も引用する方もしんどいので、サワリの部分だけ……。なお、カッコ内註は省略した。

【改憲の是非をめぐる現在の論議について、私がひどく違和感を持っている事柄が二つある。第一に、改憲に反対する人々は日本国憲法を神棚に祀って、その良し悪しを議論することさえ許さないという俗説が広まっていることである。しかし、私自身は『未来永劫、改憲を一切許さない』なんて考えたことはないし、そのような発言をする憲法学者に会ったこともない。ちなみに、私のスタンスは単純である。(中略)1950年以来、改憲派が出してくるどの改憲案よりも、日本国憲法は『よい憲法』だと判断するから、改憲に反対して現行憲法を支持する。ただ、それだけの話である】(まえがきより)

【『グローバル・スタンダード』とは決していえないアメリカ・イスラエル並みの『先制的自衛権』を日本も行使すべきと平気で論じる人々が、9条改定の推進派でもある事実は、軽視してよい問題ではない。日本は自国の利益のために他国を殴る『普通でない国』になろうとしている】(P.74)

【9条改定の是非を議論する際には、『戸締り論』のように日本や国際社会の現実から乖離した抽象論から議論を始めるのではなく、日本の軍備の実態や国際社会の動向を踏まえた現実的な問題提起をしてほしいと思う】(P.77)
著者はここで、「攻め込まれたらどうするんだ」といった抽象論を退けている。自衛軍というのは、単なる自衛隊の現状追認ではない。

【自民党の改憲案だけでなく、民主党の改憲案も、財界の改憲案も、読売改憲試案も、そして、アメリカの要求さえもすべて、自衛隊を『正真正銘の軍隊』にしたうえで、海外での軍事行動を可能にすることを目論んでいる。よって、あなたも今池さんと同様の感想を持つのであれば、端的に現代改憲一般に反対したほうが賢明といえる。それぞれの改憲案のニュアンスの差異を検討して、『どの改憲案なら、受け入れられるかしら?』なんてことを考えるのは、まさに改憲派の思う壺である】(P.97)
今池さんというのは、登場する学生のひとり。

【深刻なのは、『新憲法草案』が正式に憲法となれば、改憲派は緩和された改憲規定を利用して、次々と改憲をくり返すおそれがあることだ】(P.183)
草案中、緩和された改憲手続き(96条1項)について語られた部分から抜粋した。私も前々から、実はこれが一番おそろしい。第一弾では反対の多い部分を引っ込め、第二弾、第三弾で徐々に締め上げてくるのではないかと、かなり本気で疑っている。

〈そして、99条の危機について〉
最後の章では、改憲問題を考える上で自分としては絶対におろそかにしたくない問題、として「愛国心」の問題を取り上げている。著者が憲法の中で最も好きなのは、9条ではなく99条であるという。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

国民は憲法を尊重・擁護する義務を負わず、政府や議会やひとりひとりの公務員に「尊重し、擁護せよ」と要求する権利を持つ。この考え方こそ、立憲主義憲法の神髄であると著者は強調する。それに対し、自民党草案を初めとする現在のすべての改憲案は、憲法を「国民の行為規範」として捉えている。著者は、改憲の思惑を巡って9条だけに注目すると、大切なことを見失いかねないと警鐘を鳴らす。その思惑とは――憲法を「国家を縛るルールから、国民支配の道具に変えること」であり、これは個人と国家の関係を根底から覆すものであるという。

「公益および公の秩序」のために喜んで動員される国民を作るために、99条が変えられようとしている。著者は、改憲派が憲法や教育基本法に盛り込みたがっている「愛国心」の問題も、その文脈で理解すべきであるという。単なる「年寄りや右翼の」古くさい夢、ではないのだと。

そうか、そうなんだよな……と腕組みしてしまった。「国家を縛るルール」としての憲法ならば、国を愛する心を国民に強制できるはずがない。「国民を縛るルール」だから、「自ら守る気概を共有し」みたいな話になるのだな……(草案で99条がなくなるわけではない。なくす方向へ向かっているのは条文そのものではなく、その理念である)。

※99条の理念については多くのブロガーの方が書いておられ、TBいただいたこともある。私も「憲法は我々の権利」であると思っているが、その憲法の基本的な形(性格と言えばいいか?)そのものが危機に瀕していることも、常に忘れずにいたい。



コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ「愛国心」の時代――教育基本法“改正”案決定

2006-04-14 01:38:22 | 憲法その他法律
教育基本法改定について12日の検討会で自民・公明両党が合意に達し、13日午後の教育基本法改正協議会で同法改正案を正式決定した。両党の党内手続きを経て政府が月内に改正案を作成、ゴールデン・ウイーク前後に国会提出される予定であるという。教育基本法改定を巡って、最も難航したのは「愛国心」の表現。自民党は「国を愛する心」、公明党は「国を大切にする心」という表現を主張していたが、最終的に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という表現で合意した。

新聞等では戦前への回帰を危惧する公明党に配慮してこのような表現になった――と報道しているが、どんなに飾りをつけ、オブラートにくるんでも、愛国心は愛国心。今でさえ「国を愛して何が悪い」(いえ、悪いとは言ってません。個人の自由です)とか「国を守る気概」(あなたがひとりで持つのは勝手ですが、他人に強要しないでくださいネ、頼むから)などとのたまう人達がいるのに、まかり間違って麗々しく法律の条文に書かれてしまえば、それがお墨付きになる。国を(それがどんな国であっても)愛するのが正しいことである、という価値観が固定されるのだ。

法律は「その社会の構成員が、支障なく暮らしていくためのルール」を決めるものである。心のありかたや価値観や好みの方向を、統治する側に都合のいいように決めるものでは決してない。

よく言われていることで、今さら私が言うのもナンであるが、教育基本法改定は(むろん同法ばかりではないが)憲法改定へ向けた大きな一歩。こんなふうに一方的に押しまくられ、飛車をとられ角をとられ、気がついたら王将は裸で盤の隅に追い詰められていたという事態には立ち至りたくない。


◇◇◇◇いささか長い追記◇◇◇◇
(教育基本法改定を巡って書くつもりだったが、疲れているので追記でごまかす)

教育基本法改定に関しては、2月21日のエントリ『足元が揺れている』『続・足元が揺れている』で書いた。それを一部、コピーしておく。

〈改定を推進する理由について〉
【要するにもう古くなって時代に合わない箇所があると述べ、同時に子どもを巡る問題が多出しているので教育を考え直さねばならない、と言っているわけだ。この中で気になるのは、半世紀もそのまま……という箇所(憲法に対するのと同じようなことを言っているなあ……)。これが「建築基準法」や「墓地、埋葬に関する法律」など(何でもよいが、要するに具体的な数字や手続きなどを定めた法律)なら、社会状況の変化に伴って変える必要も出てくるだろう。しかし、ものごとの「基本的な考え方」を定めた法律は、車のモデルチェンジではあるまいし、そうころころ変えるものではあるまい。国家の根本が変われば、むろん改定の必要が出てくるだろうが。】

〈愛国心の表記について〉
【以前、ブログで「私は国を愛さない」という記事を書いた。その中で確か、「国を愛するのも愛さないのもこちらの自由だ、ほっといてくれ」と書いた覚えがある。いささか乱暴な言い方だが、国というのは「先天的に無条件で」「常に何があっても」愛せるものではない。その点、親子兄弟や親族、夫婦愛人関係と同じである。自分を虐待した親は愛せないし、親戚にはひとりやふたり、顔も見たくない輩がいる。愛し合って共棲した男女(同性同士でもかまわないが)でも、さまざまな理由で憎み合いを始めることもある。国家も同じで、いくらそこに生まれ育ったからといって、気にくわない国家、自分を踏みつけにする国家など愛せるわけがない。少なくとも私はそんなマゾヒスティックな心情は持ち合わせていない(郷里も同じで、石持て追われた故郷や、ひとに言うのが恥ずかしい故郷を、どうして愛することができようか)。逆に誇りに思えるような国であれば、「どうぞ嫌ってくれ」と頼まれても愛するだろう。わざわざ「愛する心(大切にする心)を養う」などと言わねばならぬこと自体、おかしなことなのである。国が愛国心を押しつけてくるとき――その裏には、「どんな国であろうとも愛せ」(そんなアホな)という恫喝が臭っている。】

◇◇◇1日後の短い追記◇◇◇
さきほどluxemburgさんのブログ「とりあえず」の13日付けエントリ、『ブロードバンド長屋――愛国心床屋政談』を読んだ。教育基本法改定と愛国心の問題について、落語仕立てで書かれたもの。長屋の住人のトボケた対話を通して、何が問題なのか、我々は何に気づいていないのか、を過不足なくまとめてあるのに脱帽した。私がしかめっ面して書いたものより、これを読んでいただくようお勧めする。
(http://luxemburg.exblog.jp/d2006-04-13)


コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉への規制は言葉で破る

2006-04-11 00:29:08 | 本の話/言葉の問題
「イラク派兵反対! 憲法守れ!」の意見広告運動をなさった方(呼びかけ人の1人)とお目にかかる機会があった。賛同者1700名が名前を連ね、一昨年3月18日に毎日新聞全国版に7段の意見広告を掲載している。その時の話であるが、意見広告に「憲法違反のアメリカ追従イラク派兵に反対し、即時撤退を求めます」という一文があった。この文について、広告部の審査でストップがかかったという。理由は、憲法違反であるかどうかについては法的根拠がない(司法で決着がついていない)から。
「抗議して戦う方法もあるが、イラク派兵1年目の意見広告を出すことの方が重要だと思ったので、表現を変えることにしました」と、その方は言っておられた。相談の結果、先の一文は「憲法を踏みにじるアメリカ追従のイラク派兵に反対し……」という表現で掲載されることになったが、呼びかけ人たちは「マスコミの自主規制がそこまで来ているとは……」とショックを受けたという。

その話を聞いて、私は「そういったマスコミの姿勢に対する抗議は必要だが、それはそれとして、『踏みにじる』という表現はなかなかいいと思います」と言った。

1つには、「違反」より「踏みにじる」のほうが、ある意味でインパクトがあるからだ。イメージの喚起力がある、と言ってもよい。「違反」「堅持」「反対」「同意」等々、漢字2文字なり3文字4文字なりで構成された言葉は、ものごとを論理的に語ったり定義づけたりするには有効だけれども、同時にそれだけでは「意味するところの中身」について各人の考え方が少しずつズレることも否めない。たとえば「労働」。これを(1)「賃労働」の意味で捉えるか、(2)「何らかの生産活動」として捉えるか、(3)「暮らしをいとなむための活動」として捉えるか――(ほかにも捉え方はいろいろある)では、それぞれ中身が違ってくるのは一目瞭然。主婦労働は労働か、托鉢僧は労働しているのか、テレビタレントは労働者か――等々への答えは、労働の意味の捉え方によって異なる。だからこういった言葉を使う時には(お互い暗黙の了解がある場合以外は)意味するところを明確にする必要があり、私達は意識するかしないかにかかわらず、普段からそのような習慣を持っているはずだ。真正面から説明するか、前後の関係やその他の言葉の使い方との絡みで何となく説明するかは別として(むろん往々にして、うまく明確にできなかったということはある。また、わざとその点を曖昧にすることもあるが、それは別問題である)。

だが、書き言葉であれ語り言葉であれ、全体が短い場合には、中身まで明示するのはかなり難しい。その場合、なるべく聞き手との間のイメージのズレをなくすための、別の努力が必要とされる。方法は幾つか考えられるが、ひとつは「比較的イメージのズレが少ない表現を選ぶ」ということだ。たとえば単に「労働」と言うよりは、「賃労働」なり「働くこと」なりという表現の方が、それぞれの中身を掴みやすい。単に「愛国心」と言っていただくより、「国を守る気概」「忠君愛国」などと言っていただいた方が「ご冗談でしょう」と言いやすい。その意味で、「違反」より「踏みにじる」の方がわかりやすいと言えるのではないか。

もう1つは、言論の統制・封殺にはまだまだ穴があるということだ。人によっては楽天的すぎると思われるかも知れないが、幸いにもまだ、国家総動員法の下、精神総動員運動が展開された頃の状況にまでは至っていない(規制する側も、やや人目を気にしているところが窺える)。だからまだ、網目をくぐったり逆手にとったりする余地は充分にある。アレは駄目、コレは駄目と規制されれば、「なら、これはどうよ?」と突きつけていくことができる。言葉には理論の裏打ちが欠かせないが、それを根っこの部分で支えるのは感性(この字を書くたびに、ほんとに恥ずかしい……のだけれども)だと私は思っている。そして感性は、無限に言葉を創造していくことができる。「戦前」を感じさせる世の中になってきたが、しかしまだ間に合う。ガンジガラメになってしまう前に、私は1つでも多く「抵抗の言葉」を探し、共有していきたいと思う。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主党新代表決定――何と申しますか

2006-04-08 00:42:26 | 現政権を忌避する/政治家・政党
7日午後の民主党両議員総会で、投票の結果、小沢一郎氏が新代表に選ばれた(小沢氏の得票119票、菅直人氏72票、無効票なし)。これが何を意味するのか、ちょっとゆっくり考えてみたいと思うが、とりあえずはニュースに接しての感想――。

ゆっくり考えてみたいというのは、小沢新代表就任をどう評価すればいいのか、実のところかなり迷っているからだ。小沢一郎という政治家をどう思うかと言われれば、私自身は違和感と共にかなりの警戒心を持ってもいる。その詳細は省くが――簡単に言うとたしかに小泉政治には真っ向から反対し、共生社会の実現を掲げているけれども、考え方の根本は「力への信奉」や「国家の絶対視(国民より国家が大事、とまでは言っていないけれども、国家というものの存在を非常に大切に思っている)」がある(と私は思う)からだ。「日本人の精神の荒廃」を嘆き、武士道に惹かれる人で、その辺が感覚的にどうも合わないということもある。「保守本流」の人、なのだろう。あたかもミニ・小泉のようにさえ見えた前原前代表よりはマシだが、いわゆる保守系の大政党が2つできて、いったいどうするんだ……。

しかし、である。それでもなお、現状では野党第一党の民主党に「期待」せざるを得ないのだ。このさい(と言うか、当面は)「マシ」でいい、「悪くない」程度でいい。小泉政権の暴走にマッタをかけてくれるだけでもいい。その役割を一応、小沢自民党に期待……してみる……ほかない。無力な庶民としては。

先に小沢新代表に違和感と警戒感を持っていると言ったが、彼には次のような発言
もある(せめてプラスに考えられるところを探した)。

【大体、イラクの武装勢力の行動を「テロ」といえるのか? 一般民衆の支持のない武力抵抗は確かにテロだが、多くの民衆に支持された武力抵抗はテロとはいえない。イラクの現状を分析する限り、これはテロという次元ではなく、第二次世界大戦中のナチスドイツ占領軍に対するフランス民衆のレジスタンスや、イスラエル占領軍に対するパレスチナ人たちのインティファーダのような、イラク市民による「抵抗運動」といえるのではないか。まさに、イラクは戦争状態にある。戦争ならば兵隊も民間人も関係ない。日本が「米国の忠犬」と見なされている以上、首相がいくら「日本の民間人を狙うのは許せない」といっても、それは単なる感傷論、情緒論でしかない】(2004.4.16 『夕刊フジ』)

【憲法が諸悪の根源のように主張する人々がいるが、憲法が変われば一夜にしてすべての問題が解決するのか。そのようなとらえ方は、政治的思考の停止にほかならない。憲法というものは、国民が互いにより良い生活をしていくための最高ルールだ。だから、時代が変わって、国民が変えた方がいいと思うところがあれば変えたらいい。しかし、それだけのことだね。日本国憲法の基本理念は、平和主義、国民主権、基本的人権、国際協調の四原則だが、どれも不都合はない。時代が変わっても、普遍の原理、理想として掲げていてなにもおかしくない。日本国憲法の成立のプロセスは議論すればいろんな問題が出てくるが、中身とは別問題だ】(2005.1.14『週刊金曜日』本多勝一のインタビューに答えて)

ごく普通の、比較的大多数の指示を得られる発言、と言っていいだろう。小沢新代表は、以前は「改憲論者」だった。しかし2番目の発言その他を見ると、「今、変える必然性はない」と主張しているらしい(個別自衛権を認める立場なのでその点は私の考え方とズレるが、このさい、その程度のズレは許容範囲)。もしかすると彼は今でも内心は改憲論者であり、「しかし小泉政権の目指すような対米従属改憲はノウ」と考えて改憲論をいったんひっこめているだけかも知れない(そんな気がする。気、だけだが)けれども、それでもいい。しつこく言うが、このさい、それでもかまわないのである。ひとまず紹介した2つの発言に代表される路線で、(多くの人々が今の社会についてかなり切羽詰まって考えるまでの時間稼ぎの意味も含めて)「小泉政権と対決」してくれるなら……。

〈付け足し1〉
私は菅直人氏が民主党の代表になっていたとしても、(前原前代表よりはるかにマシではあるけれども)民主党がガラリと変わるのは難しい、と思っている。ひとつは考え方の方向が違う人達を党内に大勢抱えているから。単純に、右とか左とか言っているわけではない。たとえば、「尊敬する人・松下幸之助」と明言する松下政経塾出身の人達と、「身を立て、名を挙げ、やよ励めよ」的価値観を持たない人では、ものごとの考え方の基本が違うに決まっている。私としては民主党は2つないしそれ以上に割れてくれるのが理想なのだが、それが無理ならばせめて次善(三善、四善ぐらいかも)の策として、「間近に迫った法律改正などを阻止する」「首相の靖国参拝を阻止する」程度の役割を果たして欲しい。話はそれからである。

〈付け足し2〉
民主党新代表選出を前にして、小泉首相は新聞のインタビューに答え、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言ったそうである。むろん君子は自民党、小人は民主党。しかしね……首相殿、自民党が「和して同ぜず」の君子集団だとは、私にはどうしても信じられないんですがね……。去年の衆院選を見たって、ほら、完全に「同じて」たじゃないですか。(ほんと、よく言うよこの人。論語の解釈が混乱して子供の教育に悪いから、黙ってた方がいいと思う)

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・言葉を奪い返そう(コメントへの返事)

2006-04-07 22:43:07 | 本の話/言葉の問題
前回掲載した記事『言葉を奪い返そう』に対して、田中三郎さんという方からコメントをいただいた。それに対してコメント欄で返事を書き始めたのだが、途中で気が変わり、新しくエントリを設けておくことにした。言い訳めいてしまう点はイヤなのだが、私にとって大事なことなので少しまとめておこうと思う。

田中三郎さんのコメントは以下の通り。
【初めまして。
>ひとえに発言者が「我らが都知事」であるためだ。
>おまえな、アッチの言葉とおまえの言葉は、前提となる部分、核の部分が違うんやで……と。
要するに、都知事は悪いやつだから、良いことを言っても無視しろ!と言いたいのでしょうか?
それにしても、アッチとコッチという二元的思考は単純で危険ですね。戦前の愛国者と非国民、冷戦時代の左翼と右翼・・・・。そういった曖昧さを切り捨てた思考が対立や軋轢を生み、戦争につながっている気がします】(転載終わり)

このコメントに対する私の返事――
田中三郎さん、はじめまして。たしかに私は乱暴な言い方をしています。私は評論家でも政治学者でもなく、またブログはあくまでも個人の覚え書き。ブロガーの中にはブログを通して大々的に運動を展開しようとか、あるいはブログ・ジャーナリズムの場でオピニオン・リーダーを目指そうと考えている方もおられますが、私はそういう気は毛頭ありません(そんな実力もありませんし)。つまりはささやかな個人通信に過ぎません。自分がものを考える手掛かりとして気楽に書いておりまして、発信を通していろいろな方のご意見を聞く機会があれば喜ばしいという程度。そういうお気軽ブログですので、あえて乱暴な言い方をすることも多々あります。私自身が頭が単純・粗雑であるとか、考え方が乱暴であると思われるのはよいのですが(事実ですし)、護憲を語る奴はみんなそうだという誤解だけはなさいませんように。地道に、そして誠実に記事を書いておられる方は大勢おられます。

それはそれとして、
> 要するに、都知事は悪いやつだから、良いことを言っても無視しろ!と言いたいのでしょうか?

……とは言ってないです(そう聞こえたとしたら私の表現力不足。反省)。私は都知事の考え方の基本について、相容れないものを感じております。したがって彼が「○○を大切にしよう」といった発言をする時、その「大切にする根拠や、やり方」は、私がそう思うものとは違っている。その点をはっきりさせておきたいということです。なお、別に、悪い奴だとも思っていません。嫌いですが、だからといって悪人とか非国民などという言い方でくくろうとも思いません。悪とか罪とかいう観念で語ろうとは思わないのです。私とは絶対に合わないな、と思うだけです。

たとえば私は納豆が嫌いなのですが、だからと言って納豆は撲滅すべき食品だなどとは言わない。モノにたとえると話が変になるので人間の話をしますと……そうですね、歴史上の人間で言えば――誰でもいいんですが、たとえばインカを征服したフランシスコ・ピサロ。歴史の本を読んでいる我々は、ピサロの話に接して「ヤな奴だな」と思っていればすみますが(むろん、好きだという人もいるかも知れません)、当時のインカの人々にとってはそれですむ話ではなかったでしょう。ピサロおよび侵略してきたスペイン人達に対して「おまえの“神”と我々の“神”」は違う。「おまえの“正義”と我々の“正義”は違う」と叫んだ、あるいは叫びたかったはずです。

石原慎太郎氏が広い影響力を持った「文化人」(あまりいい言葉ではありませんね)ではなく、ましてや都知事でもなければ、「嫌い」ですみます。しかし都民である私にとっては、間接的にではあれ自分の暮らしに関わってこざるを得ない(力を持つ)人物。だからこそ、私は「言葉の中身が違う!」としつこく言い続けるのです。彼は「心の東京革命」なるものに熱心ですが、彼のいう「心」と、私が考える「心」とは、少なくともこの三次元の世界では永遠に交わるとは思えないのです。クラインの壺にでも放り込めば、交わるかも知れませんけれども。

二元的思考が危険だというのは、まことにおっしゃる通り。汗顔の至りというほかありませんが、ただ、私が書いた「アッチ」と「コッチ」は、右と左、愛国者と非国民、善人と悪人、正常と異常、というような「アッチとコッチ」ではありません。「アッチ」は明日は「コッチ」になるかも知れず、「コッチ」が「アッチ」になることもあるでしょう(ですからあえて、このような小児語的な言葉を使いました)。コッチというのは、互いに言葉をかわし、認めあえるところは認め合い、何とか了解点をみつけられると思える人々。アッチというのは、残念ながら交わらないだろうと思える人々、という程度の感覚です。私は多くは「コッチ」の人ではないかと思っていますし、一見「アッチ」に見えても実はそうではない、という人も少なくないと思います。

アッチとコッチ、などという単純な対立図を描くのはいかにも幼稚で、まずいかも知れない。しかし私の場合「どうしても譲れないもの」はあり、その部分で思想信条が完全に対立する時だけは――やはり「アッチ」なのです……。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉を奪い返そう――あなたの「言葉」と、私の「言葉」

2006-04-06 02:37:56 | 本の話/言葉の問題
言葉というものについて、時々考えることがある〈時々、だけれども。しょっちゅう考えていたら、生活に追われている小心者の私は身が保たない〉。

このブログで前回、次のような文章を書いた。
【平和というのは言葉によって定義づけられた概念だからである(戦争、愛国心、命の尊厳、なども同様)。人と人の間で共有されはするけれども、お互いが思い描いているものの色合いはかなり違っていたりする】
【言葉で定義づけられた概念だけを共有して話していては、いつまでたっても言葉遊びの域を出ず、何も前に進まないということは結構多いのだ】

誰でも経験することだと思うが、同じ言葉を使っていても中身が違うことはままある。昨日、石原慎太郎都知事が産経新聞に連載しているエッセイを何本かまとめて読んだ(あんな人の言うことに対して、いちいち怒ってたらキリがないヨ、という人もいる。だが私はあえて彼の発言に注目しているのだ。接するたびに気分悪いけれども、冷笑を浮かべているだけですむ相手ではないと思うからである)。そのひとつのタイトルが、『いかにして、心意気を取り戻すか』。その冒頭で、彼は次のように語っていた。

【昨年末ある総合雑誌が当節失われてしまった日本語についての特集アンケイトを行っていた。私が問われたなら「心意気」あるいは「こころざし」と答えたろう】(1月9日発売の新聞に掲載)

言葉としては「ご説ごもっとも」。私は「志」はあまり好きではない(ひとつには自分が志の低い人間であるため。もうひとつは、ちょっと綺麗すぎて胡散臭いからだ)が、そういう表現に嫌悪があるわけではない。そういう言葉が使われていただけで反感持つなどということはないし、前後の関係で感動することも少なくない。「心意気」の方は嫌いじゃない――と言うより、比較的好きだったりする。日々のさまざまな場面で、結構、「意気に感じ」たりもしている。だからもしもこれが新聞の読者投書欄に見られた記事であったり、しばしば訪問しているブログの記事であったり……等々ならば「ウンウン」と頷いたであろう。

私が吐き気催すのは、ひとえに発言者が「我らが都知事」であるためだ。
《あんたの「志・心意気」と、私の「志・心意気」は違うんだよ!》
どのぐらい違うかといえば、「結婚したい」という人が2人いて、片方は「家庭は巨大な権力から個々人を守る最小単位の砦である」と考えており、もう片方は「メシ作ってくれる人がいると便利」と考えている、というぐらいに。

ということで、ちらっと考えたことを2つ。


1)言葉だけにごまかされまい

心意気、平和、幸福、品性、自由、平等、博愛(おっと。フランス革命だ)……何でもいいけれど、プラスの価値を持つ(と思われる)言葉は思想信条にかかわらず誰もが口にする。だからこそ、それだけでは「何も言っていない」に等しいと私は思う。口にしたのが誰であるか、こそが問題なのだ。

「正しいことは誰が言っても正しい」という考え方がある。一面で、これは正しい。「地球は太陽の回りを回っている」「兎は亀より脚が速い」といった話なら、ノーベル賞受賞者が言おうと前科数犯の窃盗常習のオッチャンが言おうと、はたまた自民党総裁が言おうと共産党の書記長が言おうと正しいのである。しかし、言葉に価値基準や考え方が含まれる場合は、「誰が言っても正しい」とは私は思わない。

我々は、しばしばここのところを間違える。プラスの価値を含んだ(と思われる。私もしつこいな……)言葉を聞くと、その言葉についつい素直に反応してしまう。「心意気? いいこと言うじゃん」と思ってしまう……。だからこそ、私は声を大にして言う……というより、一生懸命自分に言い聞かせる。おまえな、アッチの言葉とおまえの言葉は、前提となる部分、核の部分が違うんやで……と。


2)言葉を奪い返そう

そんな綺麗な言葉をアッチが使うなんてモッテノホカ、という考えも出てくる。私はこの国の不幸は、アッチ側の方に「巧みに言葉をあやつる人間が多いこと」だとかねがね思っていた。頭がいいのかどうかは知らないけれども(いや、我らが都知事とかは、私よりは知能指数高いんでしょうけれど……ね)、言葉のめくらましに通じていることは確かだと思う。ご説ごもっとも、の話を、豊富な?知識を駆使して展開してくれる(本当に知識が豊富かどうかは別。少なくとも豊富に見せる術は心得ている。でもまあ……私よりは豊富かも。ナサケナイ)。だから今、彼らから「言葉」を奪い返すことを真剣に考えた方がいいような気がするのだ。言葉なんて実のところ何ほどのものでもないけれど、すこぶる強力な道具ではある。アッチに好き勝手に使わせておく手はない。綺麗な言葉の裏に潜む、人間の素朴な感覚に反する棘に敏感でありたい。おまえにそんな言葉を使われたくない、と言いたい。「初めに言葉ありき、言葉は神なりき」という見方は私の感覚からはかなり遠いけれども(確信犯的無神論者なので……)、言葉の力はおそらく、ふだん感じている以上のものがある。相手に言葉を奪われたままでは身動きとれないのだ。



コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

負けられないと思う日に

2006-04-04 00:08:05 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
こんなことは、あまり言いたくない。言ってはいけない、という気もする。だが言う……。

私はいわゆる「護憲派」なのだけれども、立ち位置を同じくする同志と共に歩いていて、時々ふと「ん?」と思うことがある。いや、思想信条的にどうこうというわけではない。「訴え方」のセンスの問題、といえばいいだろうか。「9条を守ろう」も「共謀罪反対、教育基本法改定反対」も「世界中から戦争をなくしたい」も、(少なくとも私の規準では)絶対に正しい。しかし……どれほどまっとうなことであっても、ナマの形で訴えるだけではなかなか人の心を捉えられない……かも知れない……などと思ったりする。

以前2~3度、自分が好きな本の話を書き散らしたことがある。反戦を考える時に何らかの手掛かりを掴めそうな本を、ごく一部、紹介させてもらったこともある。その時、「何といっても『戦争のつくりかた』でしょう」というコメントを戴いたのを覚えている。私も『戦争のつくりかた』(りぼん・ぷろじぇくと)はおもしろく読んだ。非常によくできた本だと思うし、これを制作した方達の真摯な情熱には、掛け値無しで頭が下がる。

だが――これは好みの問題になってしまうのだけれども、私は1月21日のエントリ【子供がいたら読ませたい】で皆さんにご紹介した本の方が……やはり好きなのだ。『戦争のつくりかた』は、「戦前」がどのように熟していくかを小学生にもわかるように書いた本(絵本)であるが、読後の感想は「なるほど、そうか!」で終わってしまう……(あるいは、終わってしまうかも知れない。人によるだろう)。

【子供がいたら読ませたい】では、たとえば『ニャンコ、戦争へ』という童話(菊地秀行・文、平松尚樹・絵 ※1)を紹介した。人間を戦場に送るのは非人道的?という考えから、代わりに猫(!)が徴兵されるという話である。現実にはあり得ないお伽噺であるけれども、それゆえに描かれた世界は読み手のイマジネーションを刺激する。主人公の飼い猫は戦争に狩り出されて片目を失い、脚を失い、ついに命まで失う。「ヒゲ一本戻ってこなかった」というくだりを読んだ子供達は、泣くだろう。そして泣きながら、「どうして? どうして?」と聞くだろう。その時、大人たちは、それぞれの言葉で話を始めることができる……。

※1/絵本、と言うべきかも知れない。平松さんの絵が、文字で書かれなかった部分まで十二分に表現している。

同じく【子供がいたら読ませたい】で触れた『邪宗門』(橋和巳著)。十代の頃に読んだ本だが、「国には国の掟あれど、我らにはまた我らの道」という台詞が今もって私の心のどこかに刻印されている。

「戦争はいけない」「平和は何よりも大切」あるいは「人間は平等だ」といった感覚は、私達の多くに共有されているものである(小泉首相でさえ、平和は大切に決まってるでしょ、などと発言しているのだ……)。実際、「戦争したーい」とか「世の中の役に立たない奴は粛清しちゃえ」などと思っている人間は、いるとしてもごく少数のはず。大多数は「平和を愛し」「戦争を忌み」「命を尊いと思い」「他人を踏みつけにしてまでいい思いをしたくない」人達である。だが、そういう人達の何割かが(もしかするとかなりの多くが)「集団自衛権を認めるべきだ」、「日本も(国を守るために)正式な軍隊を持った方がいい」あるいは「人間の能力に差がある以上、多少の格差はやむを得ない」などと思ってもいる。

そういう人達に語りかける時……「平和を守るために」という言葉がときおりむなしく響く。なぜならこの場合、平和というのは言葉によって定義づけられた概念だからである(戦争、愛国心、命の尊厳、なども同様)。人と人の間で共有されはするけれども、お互いが思い描いているものの色合いはかなり違っていたりする。

ひとつ、たとえ話をする(私はこれが得意……というより、すぐ手っ取り早く何かにたとえてしまう癖があるのだ。おそらく頭が散漫で、真っ向勝負できるほどの知識を持たないからだろう。悪い癖かも知れないと反省しつつ……)。

中年のオッサン10人に、「セクハラはよくないと思うか」と聞いてみたとしよう。おそらく10人が10人、「悪いに決まっている」と自信をもって答えるだろう。だがそのうち何人かは、実際の生活の中でセクハラをやっていたりするのだ。自分の言動を、セクハラとは思っていないのである。

看護師10人に、「患者はみんな平等に扱われるべきだと思うか」と聞いてみたとする。おそらく10人が10人、「当然である」と答えるだろう。多分、それは嘘ではない。内心「違うよ」と思いながらも、建て前としてイエスと答える看護師もいるかも知れないが、そういう人はまあ例外に属するだろう。だが、現実の医療の現場では、患者は必ずしも平等に扱われていない。看護師達は、ある時はそれに気づいておらず、ある時は「(理想とは異なるが、諸般の事情があって)やむを得ない」と思っている。また、場合によっては「一見不平等に見えるが、実はこちらの方が真の平等である」という主張もアリだろう(※2)。

※2/医療のある場面においては、平等・不平等の見方が難しいのは事実だ。たとえば重症軽症を問わずすべての患者に同じ看護時間を割くのが平等な扱い、とは言えまい。そういう問題はまた別である。

言葉で定義づけられた概念だけを共有して話していては、いつまでたっても言葉遊びの域を出ず、何も前に進まないということは結構多いのだ。むろん言葉遊びには言葉遊びのおもしろさがあるが、政治や社会のことを語るときにはそれでは困る。もちろん、憲法などについて語る人達がいつもそうだ、と言っているわけではない。むしろ具体的にわかりやすく、懸命に語っておられることが多いのだが、時として言葉の迷路に踏み迷っているような感もあり、非常にもったいないと思うのだ。

教育基本法その他の改定や共謀罪、さらには憲法改定さえ現実の問題として迫りつつある現在、我々はこれまで以上に「あらゆる手」を講ずる必要がある。のっけから「憲法改定反対」「9条を守ろう」と言うだけではなく(それも大切ではあるけれども)、憲法の問題などにあまり興味のない人(考えるのが面倒だという人、忙しくて考えてられないという人)にも、そして「改憲してもいいんじゃない?」という人にも、訴えていかねばならない。「改憲してもいいなんて思うのは無知だ」「憲法の問題を考えないのは間違っている」などと高飛車に言わず(※3)、それこそあらゆる手段を採り、あらゆる語り方で。

※3/残念なことに、改憲反対の運動をしている中には高飛車な言い方で相手を反発させ、わざわざアッチ側に追いやる人もいないではない。もったいない! 運動の中には「主義主張を大声で訴え、少しずつ浸透させるのが目的」で、「当面の課題については負けてもいい」(あるいは勝ち負けなど問題ではない)ものもある。だが、憲法改定に代表される「この国のあやしげな動き」に反対する運動は、決して負けられないのである。近未来の子孫達から、「馬鹿な連中だった」と罵られないために。負けられない運動である以上、味方は1人でも増やさねばならない。むろん、大切な問題を適当にゴマカシて、数だけそろえるようなことはしてはならないけれども。  

迂遠なようだが、いきなり「9条」の話をしなくてもいい。愛国心教育の話でもいいし、消費税の話でもいいし、障害者自立支援法の話でもいいし、イラクの話でもいいし、雇用の話でもいいし、米国産牛肉の話でもいい……相手が何かに関して「変だ」と思っている時、それが話のとっかかりになる。

本を勧めるのも、「今の世の中は変だ」「人間のまっとうな生き方とはどういうものか」などを考えてもらう(一緒に考える)のに役に立つ。その本としては、憲法を真っ向から論じた本や、政治評論、法律の本、社会思想などを論じた類の本もむろんいいけれども(と言うより、基本的な知識を身に着けるために最低限のものは読んでおくべきだと思うけれども)、それだけでは「豊富な知識が身についただけ」になりかねない。知識は道具であり、その道具をうまく使えるかどうかは使い手の感性にかかっている(と私は思う)。感性という言葉が気持ち悪ければ(実は私も、書きながら少し気持ち悪かったりする。かなり手垢まみれの言葉なので)、思考回路のあり方でも、ものごとの認識の仕方でも、本質を捉える感覚でも何でもいいが。先の話で言えば、「セクハラは悪いに決まっている」と言いながらセクハラやってしまい、「えっ? どこがセクハラなんだよー」と目を丸くする男は、要するに鈍いのだ。包丁を研ぐように、少し自分を研ぐ必要がある。その砥石になるのは、良質の(文部科学省推薦の良質さではない。念のため)小説や童話や詩や、聞き書きの記録文、写真集その他、「真っ向から思想を論じているわけではないが、多くのことを、さまざまな形で感じさせ、考え込ませる」本ではないかと私は思う……。

受け売りの考え方やものの見方は、なかなか自分自身の中に深く根を張らない。揺らがないのは、どれほど拙くても自分自身でぼちぼちと考え、断片的にであっても自分の言葉で整理したものだけである。

以上、まとまりのつかない本日の雑感――(まったくまとまりがつかない文章になって、大恥)。

コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする