華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

私もたぶん「負け組」。されど――

2005-10-27 03:56:22 | 格差社会/分断・対立の連鎖
いわゆる「負け組」が、コイズミやイシハラを支持しているのはなぜでしょうね、というコメントを戴いた。それに関して思ったことをひとこと。

勝ち組・負け組という言葉を、私は基本的に好きではない。と言うより、ほとんど憎悪していると言っていい。それはひとつには、私が少数の勝ち組に入るよりも負け組になって、カフカ『審判』の主人公のように犬のように殺されるほうが人間として美しいと思っているからであり、人間を勝ち負けで決めるモノサシに吐き気がするほど嫌悪を感じているからである。そしてもうひとつは多分、私が(やや屈折した重みをもって発言するのだけれども)負け組だからである。

おまえ達から見れば、私は負け組であろう。けれども、おまえ達からそれを嘲笑される筋合いはない。その感覚が、もしかすると私の原点であるかも知れない。

さて、負け組がコイズミやイシハラを支持してしまう心理。――私はコイズミもイシハラも大嫌いだが、自分が負け組だから、ついそういう方向にいきがちな心理はよくわかる。ドメスティック・バイオレンスの被害者になった女性のように、児童虐待の被害者になった子供のように、虐げられた弱者は支払ったものが多ければ多いほど、自分を虐待する者から離れられない。虐待を(愛)情の発現として受け止める以外に自分の不幸をなだめる手段はなく、いつか何ものかを取り戻したいと思って、不実な相手にすがりつく。

何でもいうこときくからね。ボクを(あるいはアタシを)見捨てないで。
見捨てないで。見捨てないで――のリフレインがこだまする。今の日本は既に、荒野に見捨てられた孤児達で満ちあふれているのかも知れない。……私もその孤児のひとりだ。
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ブロガー同盟とは……

2005-10-27 02:42:06 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
「内紛の芽が出ている」という(発起人氏に対する)トラックバックを読み、その言葉の響きを悲しく思った。同盟参加者が別のメンバーのプログに対して反対意見を持つことも、それを書くことも自由。そして反対意見を表明された場合でも、おまえはおかしいと声を荒げるのでなく、自分がものを考えるときの手掛かりのひとつにする。どんな立場、どんな意見、どんな発想も自由であり、それを表現し合う形で連帯していく。ブロガー同盟はそういう開かれた連合体、すなわち組織化反対のメールに書かれていた言葉を借りれば「緩やかな連合体」であろうと私は思う。

運動はどんな運動であっても、理想の実現を希求するあまり小異を排する方向、そして息せき切って急ぐ方向に向かいがちで、その結果としてやせ細っていくことがままある。そんな落とし穴に陥らず、飄々と、そして粘り強く歩き続ける連合体であって欲しい。そしてそういう連合体であれば、内紛だの主導権争いだのといった言葉とは無縁なはずである。

仲間は喧嘩もする。「もう喧嘩はすみましたか」と毛沢東は言ったそうで、喧嘩するときは徹底的に喧嘩しなければ理解し合えないものであるらしい。しかし喧嘩イコール仲間割れではない。これを内紛と見るかお互いを理解するための喧嘩と見るかに、連合の明日がかかっているのでは……などと脈絡なく考えている。
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反小泉そして反石原

2005-10-24 05:57:19 | 現政権を忌避する/政治家・政党
小泉純一郎が首相になったことと、石原慎太郎が東京都知事になったこと。この二つはほとんど相似形に見える。石原都知事が誕生したとき、知り合いの精神科医と「リコール運動をしようか」と――冗談口調で、その実かなり真剣に話をしたことを思い出す。

都立高校の教諭と話をした。その教諭は特に反小泉、反自民というほどでもないのだが、石原慎太郎が都知事になって以来、職場が次第次第に息苦しくなっているという。たとえば卒業式などでは、教師は校長からよく見える所にずらりと並ばせられる。そして「君が代」斉唱の時に口を開けていなかった教師は、後で注意を受けるそうだ。これはもちろん、ひとつの象徴的な事柄に過ぎない。

「非国民」という、ほとんど歴史の教科書でしかお目にかかれなかったような言葉が甦りつつあるような気がしてならない。彼らが自分たちの気に入らぬ人間を非国民と言うのであれば、私は喜んで非国民宣言をしよう。
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私は国を愛さない

2005-10-22 04:24:20 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
友人からメールが来た。
「現代ファシズム形成史を実体験しているような気がします」

街を歩けば表面的な日常風景が急変しているわけではない。だが私には、そのことが恐ろしい。少しずつ少しずつ蚕食されていくからこそ、私達はいつの間にか慣れてしまうのだろう。

茶髪がはやり始めた頃は、中高年層を中心に「何だあれは」と眉をひそめる人々が大勢いた。「髪を染めた学生は不採用」などという常識?さえまかり通っていた。だが茶髪が少しずつ増え、やがて職場でもごく普通になり……今は40代50代の女性の中にも茶髪が珍しくなくなった。

憲法改正も同じことかも知れない。最初は「何それ」「何で今、改正する必要があるのさ?」という雰囲気だったのが、次第に「改正がトレンド」そして「常識」になりつつある。私は「憲法は未来永劫、変えてはいけないもの」とは思っていない。必要があれば変えるべきだろう。しかし私には「今、変える必然性」がどうしてもわからない(いや、何を意図しているのかはわかるのですよ。わからないというのは、そういう人達の頭の中が、知識として理解できても感覚としてどうしてもわからない)。

自民党は「国を愛する国民の努力で国を守る」という趣旨の文章を前文に盛り込みたいらしい。国を愛するのも愛さないのもこちらの自由だ、ほっといてくれ。国というのはまあ親族みたいなもの。こちらが選択したわけではなく否応なくその中に投げ込まれ、関係性の中で自我を育てざるを得ない。愛せるかどうかは、関係性の紆余曲折にかかっている。親に虐待された子供は親を愛せないのと同様、国に虐げられた国民は国を愛せない。人間が a priori に何かを愛せるというのは、そうでないがゆえに造られた虚構、幻想である。

私はいま、国を愛してなどいない。正直なところ、「滅びてしまえばいい」とひそかに、そして冷ややかに思ってさえいる。だが生まれ育った風土、慣れ親しんだ言葉に対するいささか感傷的な執着はあり、それに引きずられて「必死のプロテクト」をしてみたいと思う。
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読みつつある本

2005-10-20 20:52:47 | 本の話/言葉の問題
今日買って来て、読んだ本と読みつつある本。
読んだ本『戦争のつくりかた』(りぼん・ぷろじぇくと)
絵本なので、電車の中であっという間に読めた。内容はちょっと真っ向勝負すぎるかなという感想もあるが、こういう古くさく見えるほど生真面目な絵本を見るとほっとする。

読みつつある本『ネオリベ現代生活批判序説』(白石嘉治・大野英士編)
まだ3分の1ほどしか読んでいないが、ネオリベラリズムを考える上で、いくつも貴重な手かがりが得られそうな気がする。

その中の一文――

いまや、ファシズムを「ファッショ」と呼ぶように、ネオリベラリズムを「ネオリベ」と侮蔑をこめて呼び捨てにするべきだろう。経済の専制と強度を増した統治権力によって、われわれの生が二重に切りつめられているのだから。
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反小泉同盟に賛同します

2005-10-17 01:48:07 | このブログについて
反小泉同盟に賛同します。ああいう自信過剰な男と、それに率いられた自分たちは選ばれた優秀な人間だと思っているような男女に、地獄に連れて行かれたくありません。
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初めてのプログ

2005-10-17 01:00:24 | このブログについて
これまでネット上で自ら発信した経験はないが、昨今の情勢を見ていると焦燥感が強まり、ついにプログを開設することにした。ブログは無数にあり、ひとりひとりのそれは砂の一粒に過ぎない。その他大勢の形で埋もれてしまうことはわかっている。また、世の中の状況に対して警鐘を鳴らす発言も多数あって、一つぐらい付け加えても……という気がしないでもない。しかし小さな声でも上げないよりは上げた方がよく、それが集まることで力になっていくのではないか。10年後、20年後に後悔しないために……。
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靖国違憲判決

2005-10-17 00:46:01 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
靖国参拝に対する違憲判決に、小泉首相は「遺憾の意」を表した。この男は三権分立など屁とも思っていないらしい。ひとりでひそかに参拝したというなら「私人としての行為」と言えるかも知れないが、公用車を使い、秘書官を伴って参拝して、私人というのは強弁に過ぎる。一国の首相ともあろう者が「ひとりでひそかに」参拝するのは不可能だというのであれば、参拝すべきではない。そもそも首相を頂点とする政治家は、我々庶民と違って「私人」の部分はごく少ないのである。
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