華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

失って知るもの

2006-12-29 22:21:49 | 雑感(貧しけれども思索の道程)


 失って、初めて「なくしてはいけなかった」と気付くものは多い。失って、初めて「なぜもっと大切にしなかったのか」と後悔するものは多い。

 ひとりの男がいて、異性に夢中になった。わずかの暇を盗んで会わずにはおれず、一緒に飲み食いするものは安いだけが取り柄のサービスランチだろうが、ドトールのコーヒーだろうが美味しかった。そして相手の話す言葉に全身で耳を傾けていた。だが月日が経ち、側にいることが日常になってくると、次第に相手の存在を粗末にし始めた。むろん自分ではそんなつもりはなかったのだけれども。小さなアラが目についたり、もっと素敵な異性が何処かにいるような気がすることもあった。やがて絆が失われ、思い出だけが手の中に残った時、男は自分がいかに無神経だったかが初めてわかった。

 ひとりの少年がいて、両親がもらってきてくれた犬を可愛がっていた。引っ込み思案で体も弱かった少年にとってその犬は一番の友達で、犬と一緒なら淋しい道を歩くのも怖くなかった。時には自分も犬小屋にもぐり込んで抱き合って寝たりもした。だが月日が経ち、上の学校に進学して大勢の友達ができると、次第に相手の存在を粗末にし始めた。雑種で見栄えがしないことが恥ずかしかったりして、ろくに散歩にも連れて行ってやらなくなった。そしてある日、いやいや散歩に連れ出し、公園のフェンスにつないだままで友達と喋っていた時、綱がほどいて少年の方に駆け寄ろうとして犬は車にひかれた。その瞬間、少年は自分がいかに冷酷だったかが初めてわかった。

………………………………

 我々は多くのものを失いつつある。今年はたとえば教育基本法という、我々を守り育て、これからも我々と我々の子供達を支えてくれるはずのものを失った。まるで化粧だけは美しい妖婦に迷って、古女房を追い出すように捨てたのだ。「旧」と冠せられた教育基本法を読み直す時、私はひそかに涙をこぼさずにはおれない。おそらく何年後かに、我々は失ったものの大きさに呆然とせざるを得ないはずだ。我々は――いや、私は守れなかったのだ。その一点で、私は後世の日本人に(日本人というものがいつまであるかわからないけれども)激しく非難されるだろう。

 もうこれ以上、失いたくない。私を愛し、私が愛したものたちを。あと2日で2006年は終わる。年が改まるからといって別に何の感慨もないけれども、来年はもう、喪失の悲哀を舐めたくない。いや、そんな言葉は後ろ向きすぎる。取り戻せ。奪還せよ。私は深夜に独り、決意を新たにする……。



 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あなたに守ってもらわない」決意

2006-12-25 23:50:08 | ムルのコーナー


 深夜の公園――池のほとりで例によってムルとトマシーナのコンビ(注※)が喋っている。

(※ムル=都の東北を根城とするボス猫。華氏の代理であちこちに顔を出している。トマシーナ=ムルの腰巾着。オス猫だが飼い主の悪趣味で女性名を付けられた。愛称はトマ。)


トマ:ねえ兄貴、今年もそろそろ終わりだね。

ムル:ふん。いっちょまえなこと言うない。猫には暮れも正月もないのッ。それともおまえ、人間並みに年越し蕎麦でも食べたいのかよ?

トマ:いーじゃん、言ったってぇ。やっぱりさあ、人間の近くで暮らしてると、僕だって「今年は」とか「来年は」とかって考えちゃうもん。

ムル:で? まさか「今年の十大ニュース」なんて言い出すんじゃねーだろーな。

トマ:そんなことは言わないけどさ……。今年って、人間にとってヤな年だったんだろうね。て言うか、年々ヤな年になってて、今年もその地滑りを止められなかったというか、むしろ加速度がついてきたというか。

ムル:何かおまえ、華氏のバカに口調が似てきたな……。ま、いいや。なんでそう思うんだよ。

トマ:だってさ、数を頼んだ暴風が吹き荒れっぱなしって感じだったじゃん。特に総理大臣、ていったっけ、一番上の人が変わってからさ、僕なんかから見てもズルズルズルッと崖っぷちに押されて行ってるなあって。教育基本法はパッパッと変えられちゃうし、防衛庁が省になるし。そうそう、自民党が、いっぺん追い出した人を復党させたなんて話も聞いたし。

ムル:ああ、郵政造反議員の復党ってやつか。呼び戻す方も呼び戻す方、尻尾振る方も振る方。正体見たりって感じだったぜ。安倍というオッサンは何やら理屈行ってたけど、屁理屈と膏薬は何処にでもくっつく、ってやつだ。権力握ってる人間てのは、何でも正当化してしまえるんだよな~。それにしてもあれは敵失だったはずなんだけどな、そこを掴まえて押しまくれなかったのは情けねぇよなあ。

トマ:でね、今日は4人の死刑囚が、いっぺんに死刑執行されたんだって……。たくさんの人がブログで怒ってるって、華氏が言ってた。ほんと、ますます後味の悪い年になっちゃったよね。

ムル:4人いっぺんに死刑……かよ。何か乱暴な話、つーか慌ててやったっていう感じだよな。

トマ:4人同時執行って、9年ぶりなんだってさ……。ねえ兄貴、麗子さんたちと死刑廃止の話をしたの、覚えてる?

ムル:ああ、綺麗なおねえちゃん二人と、うるさい婆さんが3人でやって来た時のことだろ(9月28日付エントリ)。

トマ:あのとき兄貴、「死刑があるかないかは、国家が何によって支配されているかということです」という誰かの言葉を紹介してたよね。

ムル:ああ、安田弁護士の言葉だったかな。あのときの話でも言ったと思うけど、死刑って、国家の力がさほど強くない国、武力で支配されていない国から順に廃止されていくんだよね。安倍政権になっていっぺんに4人も死刑になったというところに、おいらは「強い国へ向かう意志」みたいなものを感じるな。

トマ:「美しい国」じゃなくって、「強い国」なんだね~。それともあの人、どっかの知事さんみたいにマッチズモに憧れてるのかな。強いことは美しい!!って雰囲気。そう言やあの人、お坊ちゃま風でケンカ弱そうだもんね。昔、自分の肉体がひ弱だってことにコンプレックス持ってボディービルやったりした小説家がいたそうだね。あげくの果てにナントカの会作って、最後は鉢巻き姿で演説して切腹したそうだけど。安倍って人もこっそりボディービルでもやってるのかしらん。

ムル:けけ、おまえもけっこう嫌味言うじゃんか。プライベートに何やってるか知らねーし、興味もないけどさ、強さへの変な憧れを持ってる奴って、ほんと始末悪いよなあ。そうそう、笑っちゃったのはさ。「この国を守る決意」つて言葉。

トマ:あ、それ知ってる知ってる。前に華氏のパソコンで覗いたことがあるよ。あの人のホームページに、おっきな字で書いている言葉でしょ。

ムル:そっ。あのオッサン、「この国を守る決意」でもって、競争があれば格差が生まれるのは当然と豪語し、教育に口を出し、愛国心を養わせ、憲法を改定しようとしているらしいや。「国を守る」であって、「国民を守る」じゃないところがポイントだよな~。

トマ:「国を守るというのは即ち国民を守ることだ。屁理屈言うな」とか、「国がダメになったら、国民全員が困るじゃないか」とかって言う人もいるんじゃない?

ムル:ふん、そりゃいるだろうよ。でもよぉトマ、「家」と「家族」は同じかよ。「東京都」と「個々の都民すべて」は同じかよ?

トマ:ぼ、僕に怒らないでよお~。めそめそ。

ムル:お、おい、泣くなよ、もう……。ガキはこれだから始末悪いや。

トマ:でもさ、「国民を守るために」憲法を変えて正式な軍隊を持とう、なんていう言い方もできるんじゃない?

ムル:そりゃそうだ。たださ、国民を守ると言った場合は、たとえアリバイ的にではあっても個々の庶民の隅々までキチッと守る姿勢を見せなきゃならないだろ。「役立たないと判断した人間」とかを切り捨てたりはできない。その点「国を守る」方はさ、少々の犠牲は付きものだとか、痛みが伴うとか、シレッとした顔で言えるじゃん。権力を持つ側が「平べったい概念」でものを喋り出す時って、要注意だとおいらは思うぜ。息をしている生身の存在が置いてきぼりにされるから。

トマ:この国って、きっと分かれ道に立たされているんだよね。

ムル:もう危ない方の道へ入っちゃった気もするけどな~。でも、まだまだ引き返せると思うぜ。人間も、足元を踏みしめる正念場じゃねぇかなあ。「国なんてなんぼのもんさ」ってうそぶいて、そっぽ向き続けた方がいい。

トマ:そんなこと言うと兄貴、猫だから無責任なこと言うって石投げられるよ……。猫には国も国境もないんだもん。

ムル:人間だって、ほんとは無いんだぞ、そんなもの。国なんてものは必要悪の幻想じゃん。「おいら、知らねーっ」と一遍言ってみたらいい。アンタに守ってもらわなくたっていいよ、って。ああだこうだと干渉され、うざったい縛りをかけられ、国益がどうのこうの、国の掟にそむく奴は非国民だのと言われるぐらいなら、国なんざなくたって一向にかまいませんよって。国が破れたって山河はあるそうじゃん。ましてや人間をや……えへ、ちょいと親鸞さんの下手な真似しちまった。

トマ:あなたに守ってもらう国なんかいらない。あなたに守って欲しくない……そうはっきり言うってことなんだね。

ムル:そうかもな。……おいら、そろそろ行くぜ。続きはまた今度話そうや。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

降誕祭前夜に

2006-12-24 23:30:20 | 箸休め的無駄話

 明日はクリスマスだという。私は(しつこいな……)信仰と縁遠い人間だからクリスマスだろうが花祭りだろうがめでたくも何ともないのだが、一応はメリイ・クリスマス。
(はるか昔、幼稚園の頃――花祭りは祝った覚えがある。花祭り、御存知ですか。正式には灌仏会。ゴータマ・シッダルタの誕生日ということになっていて、誕生仏に甘茶をかけたりする。なぜか私、幼稚園は仏教系だったのだ。いや、親も無信仰な人間だったのですが、一番近い幼稚園がそこだったので。何せ歩いて1~2分だったものですから、両親どもは送り迎えしなくてすむし、何かと便利と踏んだんですね。まったく安易な親たちである)

 今年ももう終わりだなあ……と思うと、ふと記憶に甦る詩がある。何かの区切り、節々に、つい思い出す詩と言ったもいい。私の好きな詩人のひとりである堀川正美の、『新鮮で苦しみおおい日々』。このブログでも一節を紹介したことがあるような気がするが、今日はその全文を――

◇◇◇◇◇

『新鮮で苦しみおおい日々』

時代は感受性に運命をもたらす。
むきだしの純粋さがふたつに裂けていくとき
腕のながさよりもとおくからの運命は
芯を一撃して決意をうながす。けれども
自分をつかいはたせるとき何がのこるだろう?

恐怖と愛はひとつのもの
だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。
精神と情事ははなればなれになる。
タブロオのなかに青空はひろがり
ガス・レンジにおかれた小鍋はぬれてつめたい。

時の締切まぎわでさえ
自分にであえるのはしあわせなやつだ
さけべ。沈黙せよ。幽霊、おれの幽霊
してきたことの総和がおそいかかるとき
おまえもすこしぐらいは出血するか?

ちからをふるいおこしてエゴをささえ
おとろえていくことにあらがい
生きものの感受性をふかめてゆき
ぬれしぶく残酷と悲哀をみたすしかない。
だがどんな海にむかっているのか。

きりくちはかがやく、猥褻という言葉のすべすべの斜面で。
円熟する、自分の歳月をガラスのようにくだいて
わずかずつ円熟のへりを噛み切ってゆく。
死と冒険がまじりあって噴きこぼれるとき
かたくなな出発と帰還のちいさな天秤はしずまる。

◇◇◇◇◇

 これは詩だから、ひとつひとつの言葉をしかつめらしく分析したり解説しても仕方ない(というより、言葉というものは本来そういうものであろう)。運命とは何か、精神と情事がはなればなれになるとは、あるいは残酷と悲哀がぬれしぶくというのはどういう意味かなどと解説しても仕方ない。むろん私には解説する力量もないけれども。(ついでだが……私は子供の頃から小説や童話や詩歌が好きで好きでたまらなかったがために、国文科や仏文科などの文学科を選ぶことが出来ず、社会科学系に進んだ。ひとつには作品の分析などというところから遠ざかって惚れた相手との身勝手なひとときを生涯楽しみたかったからであり、もうひとつはそれを超えて言語や言語芸術の魔力に迫るだけの才幹はない、と自分でわかっていたからである。ちょっとだけ専門用語を囓った凡手の分析ほど、噴飯なものはない。いや、それならいっそ理数系でもよかったのでしょうが、そっちは魅力もあまり感じなかったもので。いや、むろん能もないですがね、ならば社会科学に能があるかと聞かれれば、それだって相当疑問ですし)

 言葉というのはイマジネーションを喚起する「道具」(私はいま、この言葉に最大限の値打ちを込めて使う)である。果てしなく喚起され、体の隅々まで慄然とさせるイメージの群れ群れ。皮膚感覚、などという言葉があるが、あれは嘘だ。ほんものの感覚は、細胞のことごとくに電流を流すように全身を駈け巡る。

 この詩に初めて接したのは十代の半ば。ちょうどその頃に奔流のように多くの詩に接し、今でも記憶に留まっているものは数多い。そのなかでこれをふと取り上げたのは、先に言ったように「節目節目で否応なく思い出してしまう詩」だからである。

 特に……「してきたことの総和がおそいかかるとき」というフレーズ。したり顔で何かを言ったことや、小指の先ほど何かをしてそれで満足したことを否応なく思い出し、同時に自分の日常の厚顔無恥な言動ひとつひとつが甦る。全身の血がひくほどの羞恥のために思わず布団をかぶって胎児のように背を丸め、ガタガタと震えながら自分と向かい合わざるを得ない。

 私が「してきたこと」の総和が、今日も私におそいかかる。昨日も、今日も、そして明日も。

 この深い闇のなかで、かすかな灯火を見つけたいと四肢をあがく。私は塵のような存在に過ぎず、自分が生まれてきたことの意味など生涯わからぬだろうけれども、死ぬときに生まれてこなかった方がよかったと思うことだけは願い下げだ。私自身の命に意味があろうとなかろうとそんなことはどうでもいいが、自分が生まれてきた世界が美しいものであったと、少なくともほんとうに美しいものになろうとしていたことだけは信じて死にたい。そしてできることならば、自分が「してきたこと」がその世界にとっての邪悪に荷担せず、さらにできるならば――自分の力の及ぶ限り、邪悪であることに抵抗したのだという確かな手触りを感じて死にたいと。

 早世した父の享年を越えて以来、私はよく「死」というもの、ひいては「生きるということ」を考える。誰でも考えるであろう単純で本質的な課題だから、今さらのように言うこともないけれども。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教と基督教の宗派が教育基本法改定決議に抗議

2006-12-22 23:27:22 | 憲法その他法律

 改定教育基本法の可決を受けて、各県の教職員組合や市民団体・法律家団体のほか、宗教界からも抗議声明が出されている。現在私が知っている限りでは、抗議声明を出した宗教団体は2団体。日本同盟基督教団と、浄土真宗本願寺派(いわゆる西本願寺)である。

◇◇◇◇◇

 日本同盟基督教団は「改正手続きと内容に大きな問題がある」とし、「『改正教育基本法』成立に関する抗議と意見」と題する文書を総理大臣・文部科学大臣・法務大臣宛に提出した。要旨は次の通り。

○不正な世論誘導をおこない、国会では充分な審議を経ないまま数の支配で強行採決に持ち込んだことは大いに問題である。

○総理大臣と文部科学大臣は「政府が法律に従っておこなうのだから、不当な支配にはあたらない」と繰り返したが、それは教基法成立の歴史的背景を踏まえていない答弁である。先の戦争における苦い経験(思想統制)を踏まえて、教育に対する政府の役割を、介入することでなく環境整備に限定したのである。今後、国民の内心にかかわる教育内容に政府が介入するなら、日本は思想統制を是とする全体主義国家に転落する。

○伝統と文化を学び尊重するのは意義のあることだが、それを靖国参拝の教育プログラム化に結びつけないよう強く求める。

抗議文全文はhttp://202.238.75.100/kyodan2/index.php?plugin=attach&refer=%B6%B5%B2%F1%A4%C8%B9%F1%B2%C8%B0%D1%B0%F7%B2%F1&openfile=2006_12_18.pdf

◇◇◇◇◇

 浄土真宗本願寺派の「『教育基本法』改定決議に関する抗議」の文書を安倍総理宛に提出した。抗議文は短いので、全文掲載しておく。

【このたび、「教育基本法」改定案が第165回臨時国会において、衆参両院で可決されました。/すでに本年11月8日、浄土真宗本願寺派として、「教育基本法」の改定についてはまだ十分な論議が尽くされていない拙速の案であり、党派性を超えた国民的議論の積み重ねによる慎重な審議と対応が必要であるとの声明をお届けしたところであります。/しかしそれに反し、十分な議論が尽くされず可決されましたことに抗議いたします。/私どもは、宗教教育を中心として、教育に関わってきた長い歴史を有しています。その教育の当事者として、教育の最も根本となる「教育基本法」の影響力や現実的運用に思いを致すとき、今般の論議が尽くされていないなかでの改定案可決は、将来に禍根を残すものとの危惧の念を禁じえません。/今後、私どもは、教育行政を厳しく注視してまいりたいと思います。】

◇◇◇◇◇

 私は信仰を持たない人間である。いわゆる宗教書の類は読むが、それはまあ……単に何でも読む人間だからということに過ぎない。特に寺や教会や神社などには背を向けているので、現代の宗教の細かい分類については常識程度(常識以下?)のことしか知らず、日本同盟基督教団もプロテスタントの一会派だなという程度の理解しかない(日本同盟基督教団の方、すみません。でも何せプロテスタントというのは会派が多くて……)。

 だがそんな私でも、浄土真宗ぐらいはかなりはっきりと知っている。実のところ西と東(真宗大谷派)の違いはよくわからないんですが――いや、歴史的にどうこう、などというのは知識としてわかっていますがね、思想的な部分の根本的な差異が今ひとつ理解できなくて――、そこを抜きで考えれば、まあ、知っていると言ってもいいでしょう。日本が仏教国だとはとても思わないが、仏教は生活に密着して存在してきたので、誰でもいつのまにか知識が(どうでもいい知識ではあるけれども)積み重なるのだ。

 浄土真宗は、禅宗と並ぶ巨大な宗派。浄土真宗本願寺派だけでも全国に1万余の寺があり、大学から幼稚園まで関連の教育機関も多い。それだけに、影響力も大きいと言えるだろう。むろん寺の檀家が、みんな「仏教徒」であるはずはない。寺に墓があるから葬式の時だけそこの坊さんを呼ぶ、という人が多いと思う。また関連の学校――たとえば龍谷大学や京都女子学園などに学ぶ学生・生徒とその親に至っては、宗教にはあまり関心がない人達が圧倒的多数ではないだろうか。それでも――葬式や法事の時だけの縁だったり、たまたま行った学校の縁だったりという場合でも、縁は縁。多少なりとも影響を受ける(この場合の影響は、信仰との関連だけではない)し、少なくとも宗派の意見・見解は「関係ない世界の話」と聞き流すことはできない。

 その意味で、本願寺派の抗議声明は大きな意味を持つと思う。むろん日本同盟基督教団の声明を軽視しているわけではない(重ねて言うが、日本同盟基督教団の方、すみません)。ただ、縁につながる人の数から言えば、やはり本願寺派の方が圧倒的に多いはず。京都新聞が抗議声明のニュースを小さくではあるが報道したのも、むろん京都という土地柄ねあるだろうが、もうひとつは影響の大きさを考えたためだと思う。

 他の宗教団体にも、是非、抗議声明を出して欲しい。心への介入を見過ごせば、教祖あるいは開祖が泣くぞ。教育基本法の改定は、まさしく「思想統制」への第一歩であるのだから。創価学会さん、あなたもですよ。初代の牧口会長は、治安維持法違反と不敬罪で獄死しているでしょうが。  

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教育基本法」関連社説を読む

2006-12-20 23:49:21 | 教育

〈21日の追記〉

 昨日これを書いた時は信濃毎日新聞の社説を取り上げているのだが、私はうっかり同社は毎日と資本関係があると思い込んでいた。みやっちさんから「信毎は純粋な地方紙で、毎日とは資本関係はなかったはず」と指摘していただき、そう言えばそうだったかも知れないと慌てて調べたら……ご指摘の通りでした。みやっちさん、本当にありがとう。

 というわけで一部書き直しました。

◇◇◇◇◇◇さて、本文

 去る16日には、多くの新聞が社説で「教育基本法改定」を取り上げていた。駅売りで買える新聞は買い、手に入らないものはネットで検索して読んだ。やや遅ればせながら、その感想を走り書き的にメモしておく(※)。

 なお、多くの社説はWEB上で読むことが可能。末尾に、ここで感想を述べた社説のURLを記載しておいた。

◇◇◇◇◇◇

 改定を手放しで賞賛しているのは何処か、むろん皆さんもおわかりだろう。「『脱戦後』への大きな一歩」と手放しで評価しているのは、言わずと知れた産経新聞。

【改正法には、現行法にない新しい理念が盛り込まれている。特に、「我が国と郷土を愛する態度」「伝統と文化の尊重」「公共の精神」「豊かな情操と道徳心」などは、戦後教育で軽視されがちだった教育理念である。一部のマスコミや野党は愛国心が押しつけられはしないかと心配するが、愛国心というものは、押しつけられて身につくものではない。日本の歴史を学び、伝統文化に接することにより、自然に養われるのである。】

 随分前――私のごく若い頃から、産経新聞は完全に右、と言うか自民党寄りだと言われていた。それならそれでかまわないし、妙にブレるよりもいっそすっきりしているとも言える。諸外国では新聞は(うちは○○党を応援している、などと)旗幟を鮮明にしているのが普通。日本でも「うちは与党を支持します」という新聞があっておかしくない。ただ、問題はそういった新聞も「不偏不党」を旗印にしていること。「(とってくれと頼まれたなどの理由で)何となく購読している」読者を騙してはいけない。

 それにしても……現場で実際に押しつけられている状況を無視した、この文章の薄汚さ。こういう話の進め方を、牽強付会という。「(愛国心は)歴史を学び、伝統文化に接することにより自然に養われる」というのは、まあいいでしょう。私は愛国心のない人間であるが(非国民と言わたってかまわん)、生まれ育った国を愛するという場合はそういう面が強いのだろうなとは思う。だが、自然に養われるものならば、なぜ法律で縛りをかけねばならないのか。この社説を書いた論説委員には、「なぜ」という視点が欠けている。 二流人の私が言うのは面はゆいが、ジャーナリストを支えるのは「なぜ? なぜ? なぜ?」という噴き出すような疑問であるはず。翼賛ジャーナリズムは、ジャーナリズムの名に値しない。

 読売新聞も、 【教育の憲法」の生まれ変わりは新しい日本の教育の幕開けを意味する。この歴史的転換点を、国民全体で教育のあり方を考えるきっかけとしたい】と教基法改定を礼賛。

【見直しの必要性を説く声は制定の直後からあった。そのたびに左派勢力の「教育勅語、軍国主義の復活だ」といった中傷にさらされ、議論すらタブー視される不幸な時代が長く続いた。】

 中傷という価値判断を下すことによって、読売新聞は自らの立ち位置を明示したと言えよう。

【現行基本法が個人・個性重視に偏りすぎているため、「公共の精神」や「規律」「道徳心」が軽視されて自己中心的な考え方が広まったのではないか】というシタリ顔の文章を読むと、私は反吐が出そうになる。

 おまえら、それでもジャーナリストか。しつこく言うが、私はマスコミの片隅で喘ぎ喘ぎ生きている二流ないしは三流のジャーナリストだ。食い扶持を稼ぐために恥を忍ぶことなど日常茶飯事である。血の小便と涙とが一緒くたに流れるような、汚い仕事だってやるさ。それでも、売り渡せないものだけはある。私と同じ名もない庶民を騙したり、傷つけたりしないこと。権力側の視点と自分の視点を重ね合わせないこと。それだけは守るという誇りを失ったジャーナリストを、私はジャーナリストとは呼ばない。

◇◇◇◇◇

 いかん、いつもの通り仕事を終えての酒で酔ってるので(私は下戸なので少しのアルコールで酩酊する)、支離滅裂になってきた。

◇◇◇◇◇

 他の全国紙を見ると――朝日新聞は【長く続いてきた戦後の体制が変わる。日本はこの先、どこへ行くのだろうか。 】【二つの法律改正をめぐっては、国民の賛否も大きく分かれていた。その重さにふさわしい審議もないまま、法の成立を急いだことが残念でならない。 戦後60年近く、一字も変えられることのなかった教育基本法の改正に踏み切った安倍首相の視線の先には、憲法の改正がある。 この臨時国会が、戦後日本が変わる転換点だった。後悔とともに、そう振り返ることにならなければいいのだが。】 と、あいもかわらずインテリ評論家的な論調。一応批判的な立場に立っているふうではあるけれども、読む方としては「あ、そう」という感覚でしかない。私らは無知な庶民ですが、そのぐらいはアナタに言われなくたってわかってますよ。我々はつまらない評論を読むために新聞を読んでいるわけではない。いい加減にしなさい。

 おそらくどの新聞でもそうだと思うが、社説を書くのは「論説委員」。経営の一陣に食い込むほどは出世しなかったが、それなりに業績があり、文章も巧いベテランの記者が論説委員になる。彼らはいわば百戦錬磨の人間であると同時に、世の中の動きをシニカルに見ている面も強く、また自分の文章力に多大な自信を持ってもいる。しかも大半は高学歴で、知識も豊富だ。ある意味、始末におえない面もあるのだ。

 さて、もうひとつの全国紙、毎日新聞。【これで「幕」にしてはいけない】というタイトルを付けて、教育を政治利用した安倍内閣を批判。

【個別の徳目や親の責任などは自然な理想や考え方といえるだろう。ただ、列記しなくても、これらは現行法下の教育現場でも否定されてはいない。授業や生活を通じて学び取っていることではないか。網羅しなくても、生涯学習や幼児教育などの分野は社会に定着しており、是正が必要なら基本法をまたず個別にできるはずだ。列記されることで、これらの考え方が押しつけられたり、画一的な形や結果を求める空気が広がりはしないか。振興基本計画に忠実である度合いを各地方が競い合うことになりはしないか--。】と、朝日新聞よりはかなり歯切れがいい。


◇◇◇◇

 全国紙よりも健闘しているのは地方紙。なぜ地方紙の方が自由に元気にジャーナリズム精神にのっとった仕事ができるのかは以前に何度も書いたことがあると思うが……ややこしい話抜きで単純に言えば、全国紙は電通の全面的支配を免れ得ないからだ(細かい話はすっ飛ばしているので、そのつもりでお読みいただきたい。突っ込みはお断り。このエントリに限っては、揚げ足取り的な突っ込みは問答無用で削除します)。新聞にせよ雑誌にせよ、十万百万単位の読者の確保に血道を上げた瞬間に堕落への道を転がり落ち始めるのかもしれないと思う……。

 その「頑張っている」地方紙にしてさえなお、(私の読んだ限りにおいては)真っ向から激しく糾弾したところはなかった――。(ついでに言うと、それを非難しているわけではない。実のところ、おそらくさまざまな圧力のある中で、よしよし、よくここまで言ってくれた、地道に頑張ろうね、という思いも強いのだ。いささか身びいきかも知れないけれども)

 まず、東京新聞。同紙はけっこういい取材をしていい記事を書いており、私も応援の意味合いを込めてよく駅売りで買うのだけれども、社説に限ってはちょっとおとなしい……かな。

【公共の精神や愛国心は大切だし、自然に身につけていくことこそ望ましい。国、行政によって強制されれば、教育勅語の世界へ逆行しかねない。内面への介入は憲法の保障する思想・良心の自由を侵しかねない。新しい憲法や改正教育基本法はそんな危険性を内在させている】

信濃毎日新聞――【憲法の理想を実現するには「教育の力にまつべきもの」として、個人の尊厳を重んじる現行法から、基本的な考え方が大きく変わる。規範意識を植え付け、国が期待するあるべき姿を押しつける方向に教育がねじ曲げられないか、心配になる。】と、朝日新聞にやや似た評論家口調が少し気になる。

 だが、それに加えて【最も心配されるのは、子どもの内面に踏み込む方向が強まることだ。安倍首相は「内心の評価は行わない」としたものの、日本の伝統や文化を学ぶ姿勢や態度を評価することは明言している】【教育基本法改正は、憲法改正にもつながる。自民党の新憲法草案は個人の自由と権利の乱用を戒めている。このまま、国の関与が強まる道を選ぶのか。岐路に立っていることを自覚しなくてはいけない。】と、やや踏み込んで書いているところを読むと、少し期待したい気分も。

神戸新聞――【最大の特徴は「教育の目標」の条項で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」と記述し、初めて愛国心に触れたことだ。愛国心重視にこだわる自民党の姿勢を示したといってよい。改正の是非を問う論議でも、最大の論点はここだった。「国を愛するのは自然な心で、法律の枠で縛る必要があるのか」との声が少なくなかった。戦前、教育勅語を掲げて軍国主義教育に走った苦い歴史がぬぐいきれいからだ。こうした懸念への配慮を決して怠ってはならない。もう一つの特色は、前文に「公共の精神を尊び」の文言を掲げたことだろう。昨今の世相を見ても、公共心にもとる言動が以前より目立ってきたことは否定できないが、道徳の押しつけにならないよう教育をどう進めていくかが問われる。】

 中国新聞――【改正教基法は「公共の精神」を前面に打ち出し、教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明示した。国の関与を強める表現も盛り込まれた。能力対応の教育、家庭の責任、教員の養成と研修の充実も並ぶ。心の中まで踏み込み、運用次第では圧力が家庭にまで及ぶ可能性さえある。】

 うーむ。真面目に、そして一生懸命に書いたのだろうということはわかるが、やっぱり少々評論家的な匂いもしないでもない。マスコミを応援しいたい人には「厳しすぎる」と見られ、マスコミは「マスゴミ」であり敵であると認識する人には「甘い」と嘲笑されるのを承知で言うのですけれどね。(ちなみに私は自分の仕事柄もあって、マスコミの良心的な部分を最大限応援したいと思っているほうです)

 いきなり目を南に向けて、沖縄。

【一九四七年制定の教育基本法は憲法とともに戦後教育を支えてきた。制定以来初の改正には、戦後教育を否定する政治的な意味合いがある。】【沖縄は本土と異なる歴史を歩んできた。「愛国心」教育が少数派の沖縄の子どもたちに将来どのような影響を及ぼすのかも、危惧せざるを得ない。】(沖縄タイムス)

 琉球新報も、「教育が時の政権の思惑で変えられる」ことにおののきを露わにする。さすがに本国の犠牲になってつい30年余り前まではアメリカの支配下にあり、未だに日本の基地の多くを押しつけられている土地柄だけに、「祭りだ、ワッショイ」的な脳天気な愛国心には腰が引けている。

(唐突だがここで今日のエントリは終わり。起承転結なんか、なんも考えずに書きなぐっているだけなので御容赦。)

〈社説URL〉

産経新聞http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/shucho/061216/shc061216001.htm

読売新聞http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061215ig90.htm

朝日新聞http://www.asahi.com/paper/editorial20061216.html

毎日新聞http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/archive/news/2006/12/20061216ddm005070123000c.html

東京新聞http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20061216/col_____sha_____001.shtml

琉球新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-19725-storytopic-11.html

信濃毎日新聞http://www.shinmai.co.jp/news/20061216/KT061215ETI090004000022.htm

沖縄タイムスhttp://www.okinawatimes.co.jp/edi/20061215.html#no_1

神戸新聞http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000192399.shtml

中国新聞http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200612160178.html

◇◇◇◇蛇足的な余談

※遅ればせながら……と書いたところで、何が遅ればせなのだと自分自身の中で問う声があった。インターネット上では素早く情報が飛び交い、ブログでも“つい今し方の出来事”について書かれたエントリがたくさんある。だが、私たちブロガーは日々のニュースを追い、特ダネ競争に身をやつす新聞記者ではない。遅ればせだろうが何だろうがかまわないじゃないか。これは半ばは開き直りだけれども、半ばは自戒。今こそ本気で――むろん今まで本気でなかったわけではない。瀬戸際の本気で、と言えばいいだろうか――抵抗の意志を固める時であり、そのためには亀のような歩みであっても前に向かって歩み続けねばならず、記憶に刻むべきことはゆっくりとでも深く刻みつけておかねばならない……。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞について――ある記事を見てふと思ったことなど

2006-12-18 23:43:33 | 箸休め的無駄話

 私は新聞はあれば紙で読むという方である(全国紙のほか東京新聞ぐらいなら、常時打ち合わせに利用する喫茶店や、知人の事務所などでも読める)。紙の新聞は早晩廃れるなどと言われるご時世に古いようだが、割付――記事の配分の具合や見出しの大きさ、写真の大きさ、目立つ箇所にどんな記事があるかなどを見るのも結構おもしろいからだ。たぶん御存知の方が多いと思うが、新聞の記事は個々の記者が書いたものがそのまま載るわけではない。まずデスクがチェックし(※1)、整理部に送られる。

※余談1――新聞記者は短時間で取材して記事を書きあげねばならない必要上、文章をゆっくり推敲している時間はない。その文章を読みやすく直すのはデスクの仕事。不正確な部分や矛盾の感じられる部分があれば、書いた記者に尋ね、場合によってはすぐさま確認するよう指示したりする。昔からデスクという言葉はあり、机に貼り付いて仕事するのでそう呼ばれるらしい。新聞のほか週刊誌などでも、取材記事の多いところは普通、デスク職が置かれる。今はほとんどの記者がパソコンで記事を書くが、10年ちょっと前までは手書き原稿も多く、デスクはそれを赤色の鉛筆やボールペンでせっせと直していた(その作業を「朱筆を入れる」と言った)。もっとも――私は最近の新聞の現場は知らないけれども、雑誌などでは今でもプリントアウトした原稿に赤字を入れたりもしている。雑誌の記事は新聞記事より長いので、紙で読む方が楽なのかも知れない。

 整理部(最近は他の名称を使っている新聞社もあるようだ)では送られてきた記事の「価値」を判断をして、扱いを決める。どの記事をどのぐらいの大きさで扱うか、どの位置に置くか(トップに持ってくるか、隅の方に小さく入れるかなど)、写真をどうするかなどは整理部の判断によるのだ(※2)。場合によっては長すぎる原稿を短く切ることもある。見出しを付けるのも整理部の仕事である。ちなみに整理部の中には「校閲」という仕事があり、誤字脱字や用語の誤りをはじめとする「間違い」をチェックする(※3)。

※余談2――むろん新聞でも雑誌でも、デスクが手を入れたり整理部が判断を下すのは「記者の書いた記事」に限る。依頼して書いてもらった小説やエッセイ、評論などの署名原稿には当然、手を入れない(変換ミスなどによる明らかな間違いは別)。

※余談3――校閲者はさすがプロで、著名人の名前の間違いなどはむろんのこと、普通はほとんど気付かないようなミスも見つけ出す。私は以前、この道ン十年という校閲の専門家が、歴史上の年号の間違い(終戦の年などという、誰でもわかるものではない)や、記事に挿入された図面の間違いまで見つけ出すのを見てびっくりしたことがある。本人に言わせれば、「何となくカンが働く」のだそうである……。

 だから整理部はよく、「集まった記事はナマの素材。それを客に出せるよううまく料理するのが自分達の仕事」という言い方をしたりする。ともかく、我々の目に触れる紙面の構成を担当しているのは整理部なわけで、紙面の割付を見ればその新聞社の整理部の考え方や感覚がよくわかる。むろん整理部だけが独立しているわけではないから、それはイコール、新聞社の考え方や感覚、ということにもなるのだけれども(新聞社の方針を最も体現しているのが整理部であるとも言えるかも知れない)。

 たとえば教育基本法改定に反対するデモの記事が、社会面の下の方に小さく載っていた時。この記事はもともと記者がこれだけしか書かなかったのかな、それともデスクか整理部が切ったのかな、もしかすると「この記事はカット」と言われた記者が怒り、「小さくでも入れて下さいよ」と抗議したなんていう一幕があったかな。この見出しは随分そっけないけれど、アリバイ的に入れた記事だからかな、などと想像しながら読むのは結構おもしろい。変な読み方だけれども。

 どうでもいい話ばかり書いている……うっかり読んでくださった方は、いったい本論は何なのだ、とお怒りになるかも。でもどうか、怒らないでください。ブログは頭に浮かんだことを書き留める日記風の覚え書きである、というのが私のスタンスなのであります(開き直り)。

 ともかくそんなことで可能なら紙で読むのが好きなのだが、もちろん毎日何紙も読むことはできないし、第一、地方紙などは読みたくてもめったに読めない。だからWEB上でもしばしば記事をチェックする(速報をキャッチするのに便利であるし)。で、今日も見ていたら、ちょっとおもしろい(気になるとか、引っかかると言った方がいいかも知れない)記事をみつけたのでここで紹介する。

 毎日新聞・大分支局長の名入り記事。おそらく九州版の記事だろう。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061218-00000228-mailo-l44

◇◇◇以下、記事の抜粋◇◇◇

【教育基本法が、あっさりと「改正」された。審議が続いているというのに、各新聞は早い段階で「今国会成立へ」と報じた。教育への国の統制が強まらないか。愛国心が強制されないか。疑問を検証する記事は、「成立へ」と報じられてからはバッタリ減った。】

(続けて、支局長は『記者たちの満州事変』(著者・池田一之)の中の、次のような言葉を引用。)

【「日本の新聞は、結局、先読みなんだね。いい悪いではなく、現実がどこに向かうかを先読みしてしまう。満州事変がそうでしょう。(謀略と見抜いた記者はいたが)その時には満州事変はすでに既成事実化して、関心はもう関東軍の次の行動に移っていた」「既成事実を前提に先を読むから、どんどん後退するわけ。止めることができなくなる」】

【既成事実の「追認」と「先読み」。池田さんが指摘した新聞の悪弊は、治っていないと断ぜざるを得ない。教育基本法「改正」案が衆院を通過した後、大分市の街頭で手にした「改正」反対のビラには「国会前では連日、抗議のデモや集会が続いています」とあったが、それらの動きを伝えた新聞をほとんど見ない。タウンミーティングの「やらせ質問」発覚で、国民の声を聞いたという政府・与党の論理も崩れたはずだが、追及は弱かった。基本法「改正」を既成事実化し、成立時期の先読みに終始したのではなかったか。】

◇◇◇抜粋ここまで◇◇◇

 疑問を検証する記事は、「成立へ」と報じられてからはバッタリ減った。――って、あなた、そんなヒトゴトみたいな……というのが私の第一の感想。毎日新聞はある程度書いていた記憶もあるが(書いていたと言えば、朝日その他も少しは書いていたのだ)、同罪でしょう……。これを書いた支局長は真面目な人なのだろうけれども、ある種のインテリだなあ、とふと思ってしまった。ついつい評論家になってしまう。私は新聞に「評論」をしてもらおうとは思っていない。まず、事実を正確に報道してもらいたい。そして常に、庶民の側に立ち、庶民の視点を持って、権力を監視する役割を担って欲しいのだ。力と金のある側は、わざわざ新聞が味方しなくても、いくらでも自分達が言いたいことを主張し、知らせたいことを広報宣伝できる。いや、もちろん「うちは現政権を支持する新聞です」という所があってもかまわないのだが(その場合はそれを我が社の方針として明言していただきたい)、そうでないのなら、監視役であり続けて欲しいものだ。不偏不党なんて、逃げ口上ですよ。

 ただ、反省しているらしいことは認める。その反省がやっぱりアリバイ的言辞だったのかと言われないかどうかは、これからの紙面作り次第。しっかりと見ていますよ、毎日新聞さん。そして、いい記事があれば応援します。

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改定教育基本法採決に(ムカつきながら)抗議する

2006-12-15 22:15:27 | 憲法その他法律

 今日、夕方6時少し前に参院本会議で教育基本法改定案が可決された。

 全国各地の街頭でも署名活動がおこなわれていたし、皆さんも政党や議員にファックスを送るなどして反対の意思表示をしてこられたと思う。つい先日おこなわれた「教育基本法「改正」情報センターのアピールに対する市民緊急賛同署名」は、数日間で総数1万8000人余の署名が集まった。

 それでもなお。――反対する多くの声を無視して、与党は強引に押し切った。これを暴挙と呼ばないなら、暴挙という言葉がビックリするだろう。

 衆院で採決が強行されたときも腹が煮えくりかえったが、ずっと怒り続けているので胃潰瘍になりそうだ。安倍政権は健康に悪い。(そう言えば辺見庸さんが脳出血で倒れたとき、友人のひとりが「辺見さんは今の社会に腹を立て続けて血圧が上がって、それで頭の血管が切れたに違いない」と言ったのを思い出す)

 ともかく、怒っているのである。あまりの腹立たしさに、ほとんど絶句状態。言葉も出ない。(書けばおそらく、「教育基本法採決の強行に満腔の怒りを」 、 「教育基本法・可決へごり押しは教育に悪い」 などで書きなぐったのと同じような話になるだろう……)

 改定教育基本法成立を受けての安倍首相の談話なるものの要旨が、時事通信から配信されていた。

 《首相談話の要旨》【改正教育基本法の成立は誠に意義深い。このたびの改正では、これまでの教育基本法の普遍的な理念は大切にしながら、道徳心、自律心、公共の精神など、まさに今求められている教育の理念などを規定している。この改正は、新しい時代の教育の基本理念を明示する歴史的意義を有する。本日成立した教育基本法の精神にのっとり、個人の多様な可能性を開花させ、志ある国民が育ち、品格ある美しい国・日本をつくることができるよう、教育再生を推し進める。学校、家庭、地域社会の幅広い取り組みを通じ、国民各層の意見を伺いながら、全力で進める決意だ。】(21時1分配信の記事)

 多様な可能性!! 志!! 品格!! 美しい国!! アンタにだけは言われたくないよ、という言葉の洪水。国民各層の意見を伺いながらって、アンタね、「絶対反対」だけでなく「もう少し慎重に」という意見まで無視した揚げ句に、そりゃないよ。この人は歴史を勉強していないのではないかなどと疑われたが、もしかして国語もやっていないのか。キレイでそれらしい単語だけ寄せ集めたらこういう上っ滑りな談話になります、という絶好の見本。

「ファシストどもがほくそ笑む日。今日は2006年11月15日。この日を忘れまい」とnizanさんが書き留めておられた。私もこの日を忘れまいと思ったけれど、今日という日は11月15日以上に忘れまい。私の周囲でも「これのどこが悪いのか、さっぱりわからん」と首捻る人の方が多い教育基本法が虐殺された日。憲法とリンクする法律であるがゆえに、憲法殺しを目指す者たちによって、その前夜祭の生け贄として屠られた日だ。

 だがまだ、負けたわけではない。ハムニダ薫さんの言葉を借りれば、「絶対にあきらめない」。少しずつ少しずつ(無理せずボチボチと)、彼らを追いつめていきたい。最後に笑うのは彼らではない。

 

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供へのプレゼントお勧め本・「いくじなし」になろう

2006-12-14 06:05:52 | 本の話/言葉の問題

 昨日は日帰り出張。深夜に東京に戻り、それから徹夜。寝たほうがいいとは思いつつ、寝ると起きられない気もしてそのまま覚醒状態を維持。何かしてなければ寝てしまいそうなので、またしても半端なメモを書く……。ああ恥ずかすぃ。

〈友人の子供へのプレゼントとして〉

 私は知人の家を訪問するとき、そこに子供がいる場合は手みやげ代わりに本を持っていくことが多い。もらった方が嬉しいかどうかは知らないが、まあ嫌なら古書店に売ってくれてもいいし(いつだったか『百万回生きた猫』を2度も持って行ってしまい、そこの子に、この間ももらったけど~と言われたこともある……こっちは記憶力の悪さを棚に上げ、じゃあ友達にあげりゃいいじゃん、とゴマカしておいた)。

 先日、友人の家に行ったときは、中学3年生の子供へのプレゼントとして、森毅著『まちがったっていいじゃないか』(ちくま文庫)を持参した。この本は中学生を主な対象として書かれたものである。表現は非常に平易で、小学生でも5~6年生ならば(早熟な子供ならば4年生ぐらいでも)楽に読める。ただ友人が長く海外生活をしていたせいで子供の日本語は日本で生まれ育った子に比べてやや劣る(海外生活中も両親がずっと日本語を教えていたから基本的な部分は遜色ないが、微妙なニュアンスが少し分かりづらいところがあるのだ)ので、まずはこのぐらいから読んでみて欲しいと思ったのだ。

『まちがったっていいじゃないか』は、繰り返して言うが難しい表現はひとつも使われていない。言葉の平易さの程度だけ見れば、「うっ、嘘だぁ、信じられない!」とdr.stoneflyさんが腰抜かしておられたような、文部科学大臣の手紙と大差ないようにさえ見えるほどだ。だが森氏の紡ぎ出す言葉と、文部科学大臣の言葉とは、天と地ほどの差がある。それはおそらく、「自分自身の奥底から迸ってくる、自分の言葉」で語っている森氏と、「秘書か誰かにアリバイ的なものを作らせた」大臣との違いだろう。この文庫本が刊行されたのはおよそ20年も前であるが、幸か不幸かその中に綴られた言葉は今も輝きを失っていない。

〈筋金入りの腰抜け〉

 私は森毅という人の「筋金入りの腰抜けぶり」が結構好きだ。数日前に講演会の要旨を記事にした辺見庸氏が「一途で激烈な抵抗精神の持ち主」であるならば、森氏は「ノラクラとしながらも決して屈さない反抗心の持ち主」である。私はマスコミの片隅で生息する者のひとりとして、私などが一生かかっても到達できない地平を獲得した偉大な先輩である辺見庸氏を限りなく尊敬している。こういう激しさを死ぬまで持ち続けたいと思う。彼のように権力と鋭く対峙し続けることができれば、本望であるとも思う。だがそれと同時に、時には肩の力を抜いて、直球以外の球を投げたがっている自分があることも知っている。おそらく私は、この二極の間を永遠に彷徨いつつ生を終えるのだろう。

 息せき切った自分に対して、時々「まあまあ、ちょっと落ち着いて座りなはれ。さぶなったなぁ、一杯どないや」と言ってくれる本は数多い。この森氏の著作などもそのひとつである。

 ランダムにではあるが、『まちがったっていいじゃないか』から幾つかの文章を紹介しよう。

【やさしさの時代、と言われてきた。そこに少し皮肉な響きのあることが気になる。なぜなら、そうしたなかから「りりしさ」を求める声が生まれやすいからだ。ぼくの子どもの時代、ヒットラーの少年たちが現れた。それは、澄んだ瞳の、りりしい少年たちだった。ファシストは、澄んだ瞳で現れる。戦後では、ファシストというとひどい悪人のように言われていたが、そうではない。大部分は、むしろ「いい子」だからファシストになった。そうした純真な子どもたちをだましたので、悪いおとなのファシストかというと、それも大部分は人のいいおじさんたちだった。善人がファシストになること、それがファシズムというものだ】

【やさしさの世界よりも、ひとつの方向へ向けていさぎよく歩み出す、りりしさというのはかえって進みやすい。最初の歩みに勇気がいりそうだが、「勇気」ということばがの感覚さえが、歩みへの力になる。それに比べれば、やさしさの世界で暮らし続けるのは、むしろ気の張ることだ。(中略)それよりは、りりしさに憧れて、ひとつの方向に飛び立つ方がさっぱりしている。(中略)しかし、いまの時代、りりしさへ向けてとびたつのだけは抑えてほしい。やさしさの世界に生き続けることのほうが、大切なのである。そして、辛抱づよさのいることなのである。その辛抱がなくなったときに、ファシズムはやってくる】

【ぼくが戦争ぎらいなのは、自分が弱虫だったからかもしいれない。しかし、理屈をこえて戦争ぎらいだったような気がする。理屈の上での反戦よりは、こうした体質的なもののほうが根深い。それで、戦争というものよりも、戦争をする集団としての軍隊がなによりもきらいだった。これは体質的なものだから、国籍やイデオロギーを問わない】(注)

注/私も理屈や理論より、感性や体質のほうを重視する人間である。そのあたりはいずれまた書き留めておこうと思う。余談失礼。

【「正義の戦争」「正義の軍隊」もある、という考え方がありうる。たしかに、それはある。しかし歴史を少ししらべれば、たいていの戦争にはいくらかは「正義の戦争」であり、たいていの軍隊はいくらかは「正義の軍隊」であったことがわかる。歴史というのは、こうしたことを知るためにある。そして、もっとも暴力的だったのは、「正義」の名においてそれがおこなわれるときだった、ということもわかる】

【暴力にとっては、正義はいらない。むしろ害になる。最大の暴力としての、戦争だってそうだ。「聖戦」なんかより、ヤクザの縄張り争いのほうが、ずっと気持ちよい】

【ぼくの実感からすると、民主主義とはなまいきになることだ。(中略)身分の秩序をこえて誰もがなまいきになれること、それが民主主義だと思う。下級生のくせに上級生に文句を言うのではなくて、下級生だからこそ、その立場で上級生に文句が言えるのだ。(中略)人間は、どんな身分でも、どんな立場でも、自分の意見を述べる権利があり、自分を律する責任を持っている。それが民主ということだ。それを否定するものは、なんらかの形で差別になる。(中略)そうした民主を抑圧するものが、「なまいき」という表現である】

〈再度――たったひとりの「いくじなし宣言」〉

 さっと読まれて、皆さんいかがですか。私は(むろん人間はひとりひとり違うので、100%ではありませんけれども)根っこの部分で共感できるところが多かった。あ、同じような感性――という共鳴。

 先述のように難しい表現や専門用語はひとつもないから、小学校高学年程度の日本語力で充分に読める。子供への手軽なプレゼントに最適な本、のひとつでしはあるまいか(文庫本だから廉価だし)。皆さん、今年の子供さんたちへのクリスマス・プレゼントに(安っぽすぎるというのであれば、プレゼントの「おまけ」に)いかがです。むろんこれは子供だけでなく、高校生や大学生、さらには社会に出たオトナにも読んで欲しいと私は思う。平易な表現で何処まで深遠なことを伝えられるか、という手探りのためにも。

 ところで――さきほどちょっと言ったが、私は自分がきわめつけの腰抜け(まだ筋金入りの、でないところが情けない。そのうち筋金入りになりたい)であるせいか、森氏の腰抜けぶりにある種の憧憬を抱いてもいる。で、以前「ご一緒に『いくじなし宣言』しませんか」という駄文を書いた。今でもこの思いは続いている。ちなみに私はいくじなしだから(笑)、そういう同盟を立ち上げる気概も気力もありませんが。

 嗚呼、同志よ、未生の夢と現世の汚辱と来世の愛を共有した同志たちよ。いくじなしによる、いくじなしのための革命を。世界中のすべての「いくじなし」が、恥辱にまみれたままで煉獄に呻吟せずにすむ社会を。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

基本法採決阻止へ緊急ネット署名

2006-12-12 00:23:12 | お知らせ・報告など

 ペガサスさん から重要なTBをもらっていたのに、お知らせするのが遅くなってしまった(都知事の話なんか書いてるより、こういう情報を先に皆さんに知らせる方が大切だった……反省)。ハムニダ薫さんほか多くの方が書いておられるので既に多くの方が御存知のはずだし、私の所じゃあ多分あまり効果ないんだよな……という気もするけれど、1人でも2人でも多くの方に知っていただくために。

教育基本法「改正」情報センター で、「公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」というアピールを出し、それに対する市民緊急賛同署名を集めている。呼びかけ人は西原博史(早稲田大学教授)・廣田照幸(日本大学教授)・藤田英典(国際基督教大学教授)の3氏。

◇◇◇◇呼びかけ文(転載)◇◇◇◇

1 私たちは、126日に公表した「【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」の呼びかけ人です。

 私たちは、多くの問題を抱えた政府法案の今国会での採決を阻止し、政府法案の徹底審議を実現するために、この【アピール】への市民の方々からの賛同署名を広く募り、国会に提出することを決意いたしました。

 多くの市民の方々は、「何かおかしい」と思いながら、自分の声を国会に伝えることができず、もどかしさや、歯がゆさを感じていると思います。私たちは、この【アピール】を、多くの市民の方々が持っているはずのこのような思いを国会に届けるための媒介にしたいと考えました。

 今こそ、職業の壁を越えた市民と研究者との間の広い共同を実現し、「法案を採決するのではなく、その徹底審議を!」という広範な声を国会に強力に伝えるべきだと思っています。

2 そこで、教育基本法「改正」情報センターの協力を得て、電子署名により、私たちが呼びかけ人となった【アピール】への市民の賛同署名を集め、国会にそれを提出することとしました。情報センターHPからアクセスして、所定のフォームに入力すれば、署名をすることができます。署名の第1次集約を13日(水)午前10時とします。同日午後に参議院教基法特別委員会委員に手渡しする予定です。

3 電子署名の期間は限定されています。至急署名をしていただき、できるだけ多くの方にこの緊急署名をお知らせいただけるようお願い申し上げます。可能な限り多くの市民の方々の声を、私たちの【アピール】とともに国会に届け、今国会における政府法案の採決を阻止したいと考えています。皆様のご協力を心からお願い申し上げます。

◇◇◇◇転載おわり◇◇◇◇

署名集約まであと1日余り。皆さん、意思表示のひとつの形として、署名に参加しましょう。(12日午前0時現在、署名総数1万300人超)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都知事殿、もうこれ以上アナタに東京の舵取りはさせない

2006-12-10 23:39:30 | 東京都/都知事

〈あーあ、やはり三選出馬……〉

 石原慎太郎都知事が、7日の都議会本会議で三選への出馬を正式表明した。彼の三選出馬は数か月前からほとんど既定事実のようなもので、私は「出馬への意欲」の報道に接したときウンザリして、立て続けに記事を書いた。

注/「上からモラルのうさんくささ――都知事殿、三選に意欲など出さないでくだされ」と、「続・上からモラルのうさんくささ」)。

 その後も(前もだが)都民のひとりとしてなぜ石原都知事を拒否するか、容認できないかを発作的・間歇的に書きなぐり、とくらさんお玉さん が都知事の問題について書かれるさい、「華氏が怒る」などと(多分好意的に……と思ってますが……違うかな。笑)からかわれる始末。 nizanさん には「あなたの大好きな人について書きました」とご案内いただき、○○かな、△△かなと喜んで尻尾振って覗きに行ったら石原バナシだったのでズッコケたことも……(記事はおもしろかったです。ちなみに、11月30日のエントリ)。nizanさん、今度はホントに私の好きな人について書いてください。

 だから何と言うか、今さら驚きはしないけれども……でもやはり、「目の前に納豆があって絶対に食べなきゃいけないとわかっている」のと「実際に食べる」のは違う(私は納豆嫌いである)。目の前に突きつけられただけならば、突発的なことが起きて食べずにすむこともあるかも知れないし、ギリギリで逃れる算段も可能かも知れないのだから。やはりか、悪い冗談ではなかったのだな……あ~あ、と脱力するような、同時に腹が煮えくりかえるような感覚に襲われた。

〈石原都知事の見識のなさ〉

 同じ本会議で、知事は高額の海外出張や四男の都事業への関与問題について野党から追及された。毎日新聞の記事によると、会議後に知事は「共産党がネガティブキャンペーンをやって、世間は面白がってね。逮捕された福島県とかの知事と、何か一蓮托生(いちれんたくしょう)になっちゃうのは非常に不本意」と言ったそうだ。「よくないことをした」意識はむろんのこと、「ちょっとやりすぎたかも知れない」程度の気持ちも、この方にはないらしい。彼の辞書には「忸怩たる思い」という言葉はないのだろう。

 ちょうど出馬表明のあった日の夜から3日に分けて辺見庸講演会のメモを書いたが、講演を思い出しつつ書いていく中で、「恥」ということを考え続けた。辺見氏は恥というものを「この国では言葉としては残っているが、既に実態は失われた」と語っていた。……恥が失われていることの典型を、私はこの知事の言動に見る。

「うちの息子は立派な絵描きですよ。違法性があるなら指摘してもらいたい」と知事は怒るが、こんなものは法律以前の話。万が一、彼の四男が一流の芸術家であったとしても、「父親のコネで仕事をもらった」と言われるようなことはすべきではないし、させるべきでもない(一流の芸術家であるなら、わざわざ父親がらみの所で仕事しなくても、よそでいくらでもできるだろう)。

 この手の話は、一般企業でもよくあることは、ある。オメカケさんが経営するレストランだかクラブだかを社員達に接待や忘年会に時に使わせていた、なんていう心臓に毛の生えた社長もいたり。これだって、別に違法ではない。その社長さんに言わせれば、「あそこは安くて旨い。いろいろ便宜もはかってくれるからよいのだ」という理屈になったりするのかも知れないが……社員は釈然としない、と思いますね。

 だが――いっぽうで、(かなり前のことだが)こんな話も聞いた。地方の中規模企業の話だが、その会社でパンフレットだかPR誌だかを作ることになったとき、重役達は文章を社長の甥御さんに頼んではどうかと言い出した。社長の甥はフリーのコピー・ライター(広告宣伝関係の文章を書く職業)だったのである。重役達は要するに社長にゴマをすったのだろうが、社長はそれを即座に却下した。理由はふたつあり、ひとつは「自分の身内が参画すれば、(社の側の)担当者は遠慮して、言いたいことも言えなくなる。甥の方だって何となく私の意を迎える気分になるだろうし、お互いに顔色伺いながらやって、いい仕事ができるはずがない」。もうひとつは「伯父のコネで仕事させてもらったなどということは、彼のキャリアにとって汚点になる。コネではなく実力だったとしても、他人はそうは思わないし、本人もそうだと言い切れないだろう。私は、自分の甥に後ろめたい思いを引きずらせたくない」。これが見識――オトナの常識、というものだと私は思う。

 都知事は「余人を持っては代え難い」とも言ったとか。そりゃ、たとえば日本でたった1人(2~3人でもいいが)しか持っていない技術(特技)が必要とされ、その持ち主がたまたま……ということであったなら、息子でも孫でも関係ないでしょう。しかしそういう話ではないのだから、やはり「おかしい」と感じる方が自然である。

 都知事の四男問題については、「やっかみだ」「昔から芸術にはパトロンの存在が欠かせない」などと言って擁護する人もいる。そりゃ、私は高潔な人間ではありませんよ。嫉妬もするし、人の足も(多分)引っ張っている。でも、この問題は「やっかみ」とはまた別。金持ちが芸術家のパトロンになるのは結構ですが、というより個人の自由ですが、都民の税金でpatronageせんでくれ。ドロボー。都民税、返せーーーー。

〈東京都は死に瀕している〉

 もっとも四男問題も高額出張も、実のところ私はそれほど驚いてはいない。いや、むろん驚きましたよ。目が点になりましたよ。でも、「彼ならば、さもありなん」という受け止め方をしたのも事実。都知事はエリート意識……というより「選民意識」が私のようなその他大勢庶民から見ると信じられないほど強く、自分は常に正しいという信念を(何の根拠もなく)持ち続けて70代半ばに達した、ある意味で瞠目に値する人物。どんな育ち方をすればこういう男が出てくるのか、親の顔が見たい(笑)。

 彼の何処に拒否感を持つのかと聞かれればとても短い文章では言い切れない(話せば長くなりますが……という感じ)、ひとつだけ言うとあの人は戸塚ヨットスクールの戸塚宏の畏友で、彼の「軍隊式の教育」に諸手を挙げて賛同している男。自分の記事なんざ引用するのは面はゆいが、一番手っ取り早いので過去の文をコピーしておく(さぼっているのである)。

【どんなに言葉を飾ろうと、戸塚ヨットスクールでおこなわれたことは「リンチ」である。「1銭5厘(徴兵通知の郵送料)」で軍隊に引っ張られた経験を持つ高齢者達の体験を聞くと理不尽な暴力沙汰の話がよく出てくるが、それと同様のサディスティックな行為に過ぎない。号令かけられるままの一糸乱れぬ行動を要求し、日常の細部に至るまで規則づくめで縛り、違反したり間違えたりした場合は容赦なく殴り倒す。戸塚ヨットスクールを擁護する人達は「多くの少年達が立派に立ち直った」と言うが、それは立ち直った?のではあるまい。ものを考えるいとまも与えられず、感性は鈍磨させられ、否応なく飼い慣らされていったのだと私は思う。

 それに共感する石原都知事は、間違いなく「他者に対する暴力的な支配」を是とする立場にある。それも単に「オレの言うことに従え」ではなく、「心からオレ(の考え方)の前に跪け」であろう。支配する者は常に「心まで縛ろう」という方向にいくのだが、その行き方の速度や激烈さには当然、差がある。石原都知事はかなり極端な方で、普通の感覚ではほとんど信じられないほどに牙を剥き出しにしてくる。】

 出馬表明にあたって、知事は「首都東京の舵取りを、引き続き命がけでやっていきたい」とのたもうたそうである。あなたにはもう、舵取りしていただきたくない。あなたに舵取りを任せていれば、TOKYOは死ぬ。少なくとも、「美しくない東京」になりはてる。都民の皆さん、またしても石原を知事にしてはいけない。ここはもう小異を捨てて大同につき、反石原候補を(って、まだ有力候補は出ていませんが……)応援するしかないとも思ったりしている。

 そして全国の同志たちよ。都知事選は所詮は地方自治体首長選挙に過ぎないが、同時に「それだけではない」面も大きい。都知事選の敗北は、単なる一敗ではない。いや、別に東京がエライとか特別とか、そういう感覚で言っているのではありません。石原都知事は、「庶民に対して牙を剥いた男」の代表。彼を知事にするかどうか、ギリギリの所で都民の「見識」が――そして(何でだよ、知事選の選挙権なんかないぞ、と言われるのを承知の上で言うが)日本人の見識が問われているのです。私を含めた都民はアホかも知れない。おそらく、ダメな奴らなのだと思う。なぜ再選を阻止できなかったのかと、今でも私は脂汗が流れるほど悔しい。そういう庶民に、どうか全国から応援を!!

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辺見庸講演メモ(3)――作業仮説を立てる

2006-12-09 23:12:48 | お知らせ・報告など

 ひとさまの講演要旨メモを書き続けて3晩目。私は何してるんだろという気分もないではないが――まあいいや。今夜は「私たちはどうすればよいのか」という、辺見氏の提言を簡単に紹介する。なお初めてこのメモを覗いてくださった方は、できればメモ(1)およびメモ(2) にさっと目を通してから読んでいただけると、わかりやすいかと思う。

〈体内化した監視装置〉

 辺見氏は「不名誉が我々の日常に埋まり込み、どれがSchande(注1)かわからなくなっている」と語った。

注1/Schande=今夏、ギュンター・グラスが自分が少年時代にナチ党の武装親衛隊に所属していたことを告白したときに使った言葉。「メモ2」参照。

 恥を感じることがなくなり、「監視装置が既に体内化している」とも語る。たとえば、天皇制に関して何らかの疑問を持つなどの「不敬者」(注2)を公権力に代わって痛めつける。「そのありかをどこまでも辿ると、我々の神経細胞まで行く」と、辺見氏の知り合いの編集者が言ったそうだ。

「何処にも目に見える暴力はないが、みんなで監視している。むろん右翼とかはいますけれど、『不可視の監視装置』がその共犯になっているのです」

注2/不敬者=辺見氏は具体的には語らなかったが、たとえば「下賜される勲章」を拒否(辞退)する人などもそれに含まれるのだろう。

 時間の限られた講演なので、多少、話が飛んだりはしょられたりするのはやむを得ない。この「監視装置」についても辺見氏は具体例を挙げるなどして詳しく説明することはなかったが――要するに「上から言われたことにみんなが従うようさりげなく監視し合い、異分子を巧みに排除していくという動き方」を意味するのだろうと思う。自分ではあまり意識しない、しかし骨がらみになった日常のあり方・動き方。彼は以前、その著書の中で「草の根ファシズム」という言葉を使ったが、それとほぼ同じ意味を持っているだろう。

〈単独者であること〉

 辺見氏は、「自分で認められないことを、静かに、どこまでも拒み」「うたいたい歌をうたい、おどりたい踊りをおどりたい」という。こういうごく当たり前のことを、普通にやっている人はたくさんいるのだが、この国は次第次第にそれを許さなくなりつつある。

 それに抵抗するためにどうすればよいのか。「勇気を持てということではありません」。それより、「単独者であること」が重要だと辺見氏は言う。むろん、組織に属するなとか、集団行動をするなということではない。「組織の成員であっても、自分の言説に個人として責任を持つ。意志的な個人へと自己を止揚していく。これが本当の革命なのです」「その『単独者』を妨害する者が、敵なのです。敵は仲間の中にも、そして自分の中にもいるかも知れません」

 ひとりひとりが単独者であることをかなぐり捨てたゆえに、日本は「言ってることと、やってることが違うじゃん」「昨日と今日と、言ってることが違うじゃん」的な人間が輩出し、それに対して本人も周囲も平気という国になったのであるという。

〈RPGによってものを考える〉

 単独者になるために、辺見氏は「こういう場合どうするか、常に自分にあてはめて考える」という。いわばロール・プレーイング・ゲーム(RPG)をするのである。氏が自分のRPGの風景のひとつに織り込んでいるものとして、「1943年に中国でおこなわれた生体実験」がある。氏はそれについて著書の中で詳しく触れているので、読まれた方も多いと思うが――インテリジェンスもありユーモア感覚もある医師達が手術台を囲んでなごやかに談笑し、その台の上に健康な中国人の青年が乗せられようとしている風景だ。青年は当然、怯えて逃げようとする。証言記録によれば、その時に周囲を囲んだ20人の医師全員が青年を押し戻したという。

 辺見氏は「自分がその20人の医師の1人だったら」と考える。「私も青年を押し戻していたに違いない。誰でもそうしたと思います。その怖さです」「戦後60年で、そのSchandeや罪を忘れてしまった社会。本当に怖い社会です」

 RPGは非常に大切です、と辺見氏は強調した。たとえば教育現場。教師達があちこちで叩かれているが、「自分ならどうするか」と懸命に考えてみる必要がある、と。「作業仮説を立てて繰り返し考えていけば、変なことを承認したり、集団の波に巻き込まれたりはしなくなります」

〈単独者の表現とは〉

「単独者の表現は、立て板に水ではありません」と辺見氏は言う。そして挙げたのが、ひとから聞いたという1教師の話。彼は上から命じられたことをどうしても承認できず(それが何であったのかは氏の話には出てこなかった。君が代問題かも知れないし、何か校則に関することかも知れない。わからない)、ひとりで校長室に行った。組合として談判するのでなく、ガタガタ震えながらひとりで校長室に行ったのだ。泣くだけで何も言えなかったかも知れないが、「崇高なことだと思います」と辺見氏はポツリ、という感じで言った。

「単独者は目立ちません。ただ、自分の言葉で語り、微光を放っている。そういう人を、私も何人か知っています。この時代に単独者であることは簡単ではありませんが、贋金に対抗するホンモノの言葉を持てるのは単独者だけです。皆さんもそれぞれ単独者として、これからもやっていって欲しい」という意味の言葉で、辺見氏の講演は結ばれた。

◇◇◇◇◇

「単独者」と聞くとスゴイ感じがするが、私は自分なりに、「周囲の顔色をキョトキョトうかがうのをやめ、自分自身の頭で(ボチボチとではあっても一生懸命に)ものを考え、(リッパでなくても借り物ではない自分の言葉で)語ろうとし、自分がどうしても嫌だと思うことは(怖くても)静かに首を横に振るという生き方」だろうと解釈している(ムム……私がまとめると、どうも表現が平俗になっていかん)。

 私もいつの日にか、単独者であると胸を張れる人間になりたいと思う。

◇◇◇◇◇

 これで一応、メモは終了。ほかにも強く記憶に残る話は2つ3つあったが、背景その他かなり説明しないとわかりにくいなどの理由で、辺見氏の話以外にかなりの字数を要する気がする。全体の流れをまとめる上では割愛しても支障がないと(私が勝手に)思ったため、この記録には残さなかった。また機会があれば改めて紹介し、考えてみたい。

最後の注――地の文でところどころ野卑&粗雑な表現が見られるのは、辺見氏の「言葉」とは関係ありません。あくまでも、氏の言葉を受け止めて咀嚼しようとした私のアタマが悪いのです。何せ個人のメモなので、御容赦。

 

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辺見庸講演メモ(2)――重く、深い恥辱

2006-12-08 23:20:21 | お知らせ・報告など
 昨日に続いて、辺見庸講演会で語られたことを自分なりのメモとして書き残す。イントロダクションの部分などは昨日「辺見庸講演メモ(1)」として書いているので、できればそちらもさっと覗いていただけると話が通りやすいと思う。

〈グラスのShande、日本のShande〉

 皆さんも鮮明に記憶しておられるだろう。ドイツの作家であるギュンター・グラスが今年8月、自分が17歳の時にナチ党の武装親衛隊(ヴァッフェンSS)に入隊していたことを告白した。グラスは1999年にノーベル文学賞を受賞した世界的に名高い作家で、ドイツ社会民主党を支持し、反ファシズムの立場で多くの発言をしている。それだけに彼の告白はドイツ国内はむろんのことヨーロッパ全体を震撼させ、厳しい批判も相次いだ。当時の報道によると、「ノーベル賞を返還せよ」という声もあったそうだ。
 辺見氏もこのニュースに接して、「ぶったまげた」と言う。「グラスは『ドイツの良心の番人』と言われている人です。そのグラスがSSだった!?と驚き、詳しい人に聞いて回りました」
 何を聞いて回ったのか。……グラスは新聞のインタビューに答えて、「SSの一員であったことは、自分にとって恥である」と述べた。そしてその恥を隠していることをさらに恥じ、ついに公に告白したのであるという。
 日本語に残っているけれども、実態はもうない『恥』という言葉。それをドイツ語で何というのか、どういう語感であるのかを、辺見氏はドイツ語に詳しい人に尋ねたのである。

 その結果わかったのは、グラスは「Schande(シャンデ)」という言葉を使った、ということだった。同じく「恥」と訳される言葉として「Scham(シャーム)」があるが、後者がいわゆる「羞恥」であるのに対し、前者は「恥辱」の意味合いを持つ。シャンデはシャームよりも、はるかに重く、深い言葉なのである。
「告白しないままでノーベル賞を受けたのは確かによくないことですが、その過去と、さらに過去を隠していたことをシャンデと言い、晩節を汚すのを承知の上でグラスはあえて告白したのです」
 これが日本なら――と、辺見氏は考え込んだそうだ。
「グラスの告白によってヨーロッパは蜂の巣をつついたようになりましたが、日本で似たようなことは起こり得るでしょうか。たとえば有名な老作家が、若い頃に特高警察にいたとか、戦争を美化するものをたくさん書いたと告白した時、誰が驚くか。誰も驚かないでしょう。なぜなら、みんながそうだったからです」
「日本にはシャンデはない。著名な作家が東条英機の演説の草稿を作ったりしていましたが、これもシャンデとは思われていない」

 作家も報道者も争って戦争美化の役割を担ったが、それをシャンデとは思わず、「皆さん、戦後もご活躍で」と辺見氏は吐き捨てるように言った。後ろの方にいたのでその表情までは見えなかったが、唇が歪み、頬が引き吊っていたのではないだろうか。
「この国の言説の病的なまでの主体性のなさ、無責任さの根っこは我々にあるのです」と、辺見氏はますます苛立つような口調になった。「グラスが告白した時と似たようなことは、日本では起きないでしょう。そのこと自体が、シャンデであると思います。不名誉が我々の日常に埋まり込み、何がシャンデであるのかわからなくなっているのです。『恥を感じる』深いところが、侵されたのです」

〈勲章を貰うという恥〉

 辺見氏はまた、昭和天皇の戦争責任に言及した。「あの方は、広島・長崎の原爆投下について聞かれた時、『戦争なのだから仕方なかった』とお答えになったのです。そう言われて怒りもしなかったマスコミ、そして国民の延長線上に、今の日本があると思います」
 大元帥閣下(という言葉を辺見氏は使った)の戦争責任を曖昧にすることで、日本人は自らの責任をも曖昧にしたのである、と。文化人も左翼も同罪で、その中で「主体性」は完膚無きまでに崩壊させられたのであると。

 シャンデの不在について考えているうちに、辺見氏はひとつ、「勲章」の問題に行き当たった。最近文化勲章や紫綬褒章などを叙勲した人のリストを見て、びっくりしたのだ。たとえば『人間の条件』に出演した仲代達矢、原爆詩の朗読がライフワークだと言っている吉永小百合。……護憲集会に参加する加藤剛ももらっている。おまえさんもかよ、と辺見氏は愕然としたそうだ。
「護憲と言いながら勲章をもらうなんて私はとんでもないことだと思うのですが、世間ではそんなことは関係ないらしい。それをシャンデとする基盤を、この国は作れなかったのです」
 勲章は、今でも戦前と同様に「下賜」という言葉が使われる。戦前戦中戦後を通して、実はこの国は何も変わっていないと辺見さんはつくづく思うそうだ。
 しかも勲章は、勲何等などといって人の価値に等級を付ける。そんなものを、護憲を標榜する文化人や学者達が喜んで貰い、恥だとは全く感じない。それに抗議する声も、嫌悪を表す声もない。思想には潔癖さが大切であり、潔癖さを欠くのはシャンデである――という意味のことを、辺見さんは講演の中で何度か繰り返した。
 私も、普段はそれなりのことを口にしている人々が勲章を嬉々として貰っている図は、見るに堪えないと思うほうだ。そう……あれは恥辱的な振る舞いなのだと改めて思った。そして、それをすぐ忘れてしまう自分の軽薄さも恥だったのだと。
 
 恥知らずは文化人や学者だけではない。「たとえば、何万人もの先生が生徒に『君が代』を歌うようにし向け、同じ口で『緑の山河』(注)を歌う。それをグロテスクだとは、誰も思わない。そこにシャンデを感じる力をなくしていまった。だから、言葉が贋金、偽札になるのです」

注/1951年、公募によって日教組が国民歌として提唱したもの(だったと思う)で、今も教職員の集会などでよく歌われる。最初の部分は「たたかい越えて立ち上がる/緑の山河 雲はれて」。

(ついでながら、辺見氏はこの歌に関して、自分はさほど素晴らしい歌詞だとは思わないが……とチラッと付け加えた。辺見氏の感覚なら、確かにそうだろう。辺見氏の感覚とは違うが、私もあれはちょっとあっけらかんと健康すぎて、言葉が滑っているような印象がある)

 思想における潔癖さということを辺見さんは強調したが、ここで言われた「思想」は、何も哲学者などの思想のような――狭い意味のものではないと私は思う。私たちは誰でも皆、(少し稚拙だったり知識不足だったり充分に練られていなかったりするにせよ)自分なりの思想を持っている。いや、持っているはずだ。だが、いくら口先でペラペラと綺麗に語っても、日常を生きていく中でそれを裏切るような振る舞いをするのはシャンデである、そして人間は時には恥多い振る舞いをしてしまうこともあるが、それをシャンデであると感じ、深く自覚し、記憶し続けなければいけない――と、辺見さんは訴えたかったのではあるまいか。
 
◇◇◇◇◇

 次回は辺見氏が提案する、「我々の自由を侵してくる状況に抵抗し、贋金に成り下がった言葉に対抗しするための道筋」をメモしたい。 
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辺見庸講演メモ(1)――贋金になった言葉

2006-12-07 23:46:16 | お知らせ・報告など

 ここを覗いてくださった中にも、行かれた人はあるのではないか。本日、辺見庸の緊急講演会を聞きに行った。昨日は国会議事堂前のヒューマンチェーンに半ば野次馬的に参加した。私は6時ぐらいはたいていまだ仕事中で、2日続けてその時間帯に体を空けるのはちょっとしんどかったりするのだが、今日の講演会はどうしても行きたかったのだ。

 辺見氏はいま、書き下ろしの準備をしているとのことで、講演はその草稿に基づくもの。出版されてから読んでも、内容的には同じものを把握できるだろう。私は(生活などに追われてドタバタしていることもあって)あまり積極的に講演会などに行く方ではなく、特に後で活字になると予測されるものは滅多に聴かない。だが今回は講演の情報をキャッチした時点から、何とか時間を調整して行くつもりであった。

 皆さん御存知の通り、辺見氏は一昨年脳出血で倒れ、さらに癌も発見されて闘病中。著書の中でも「もう自分には時間がない」と明言し、命のギリギリの瀬戸際という感覚で発言を続けようとしている。その肉声を、きっちりこの耳にとどめておきたかったのだ。そんなことを言うといかにも野次馬的な物見高い感じでイヤラシく響くかも知れないが、私はそういうやり方で――むろん彼のようにきっぱりした姿勢はとれず、表現も出来ないけれども、大勢の無名の抵抗者の一人として世の隅で生きていくささやかな思いを、自分自身で確かめたかったのだ。ちなみに講演の中でも彼は「先は長くない」と言い、「しかし自分の(肉体的な)状況をアンフェアだとは思わない。自分が健常だと幻想を持っていた時よりも、生息していることに実感を持っている。『永遠の今』を自覚するようになった」と語っていた。

 開演(午後6時半)の直前に駆け込んだ時には、明治大学・アカデミーコモンのホール(1192席)はほぼ満席。少しばかりの空席も2~3分のうちに埋まった。講演が終了して席を立った時、後ろ扉の近くで立っていたらしい人達もちらっと目に入ったので、入場率は100%超えていたと思う。ざっと見たところ半ば以上は中高年だが、学生風の若い人達もかなり目立った。講演に先立って、「講師の血圧測定のため、途中で休憩を入れること」と「講師の体調によって緊急の休憩もあること」の2点に了解を求めるアナウンスがあり、辺見氏の体調が気遣われたが、幸い特段のことはなく講演は終了した。

◇◇◇◇◇

  私は昔から忘却力が旺盛で聴きっぱなしでは何でもすぐに忘れるし、思いついたことも片端から忘れていくので、何かあれば記憶が鮮明なうちに自分の覚え書きとしてメモ的な日記を書き留めておく習慣があった。ブログは公開しているとはいえ、基本的なスタンスは同じ。今回も、自分の頭にきっちりしまい込む目的で講演の要旨などをここにメモで残しておく。(録音したわけでも何でもないので、氏の発言を100%正確に再現することはできない。しかも私の耳と頭を経由しているから、あくまでも私が理解した範囲でしかないし、当然のことながら自分に関心のある部分が強く響いている。ただ、内容的には間違っていないはずである)

 講演のタイトルは「個体と状況について――改憲と安倍政権」だが、辺見氏は最初に「副題とは直接関係ない話をするかも」と述べた。「医師や友人達から免疫力を上げろと言われているのですが、副題にある名前を音声にすると一気に免疫力が下がりそうなので」と言って会場を笑わせたが、安倍首相や現政権だけの話ではなく、もっと根本的な問題について語りたいということだったのだろう。事実、休憩を除いて2時間半に余る講演の中では、現政権や改憲、教育基本法改定、共謀罪新設に関する直接の話はほとんど出なかった。だが、現在の状況に不安や恐怖を持っている人間が抵抗の姿勢を保ちたいと思うときに、地を踏む足の指に懸命に力を入れるための考え方の――ベクトルのありかたのようなものを、彼は我々に必死で訴えたように思う。 

〈言葉がダメージを受けている〉

 辺見氏は「よく言われることだが、ここ数年で社会の状況は本当に悪くなった。ほんの数年前には考えもしなかったことが、ごく平気でおこなわれている」と言う。その中で、一番ダメージを被っているものは何かと考えたそうだ。肉体か。風景か。情勢一般か。……そのいずれでもない。

「私は、一番ダメージを受けているのは『言葉』だと思います」というところから、彼の講演は本題に入った。彼は好きな作家であるヴァルター・ベンヤミン(注1)の書簡の中から、次のような言葉を紹介した。

【言葉もそれ自体の純粋さを通してのみ、人を神的なもののなかに導きます。手段となった言葉などは雑草です】【内奥の沈黙の核へ向かって言葉を集中的に向けていく場合にのみ、真の言葉の働きを得られるのです】

注1/ベンヤミン=ドイツの文芸評論家。1940年、ナチスの追っ手から逃亡中に自殺した。晶文社から著作集が出ており(その最後の方の巻が書簡集)、ついでだが私は彼の『言語と社会』と『文学の危機』が非常に印象に残っている。

「いま、娑婆で聞く言葉、新聞の言葉、テレビで流される言葉は、ベンヤミンの言葉を借りれば雑草。私に言わせればクソです。そういう使い方しかされていないことに、恐怖を感じています」(辺見氏)

 言葉は本来の神秘的な響きを失った。自分自身、自分の言葉をニセガネ、メッキだと感じると辺見氏は言う。市民運動などで何気なく使っている言葉にも、フェイクがたくさんあるとも言う。

 そして、現代日本でメッキでない言葉を使える(使うことが出来た)人として彼は3人ほどの表現者を挙げた。たとえば詩人の故・石原吉郎。辺見氏は彼の思想には賛同できないが、しかし彼の詩を読むと言葉の深さに感動するという(私はあまり記憶に残っていないのだが、家には彼の詩集もあるので、さっそく読み返してみようという気になった)。余談だが、確かにそういうこと――思想信条的には必ずしも近くないのだが、言葉の真摯さに感銘を受けるということ――は確かにある。これほど苦しんでものを考え、感動的な言葉を産み出す人が、なぜこんな思想と結びつくのかと悲しみにひしがれることも。皆さんも多分、あるだろう。

〈「美しい国」という語感に……〉

 話を講演に戻そう。辺見氏はフェイクの代表に「美しい国」という言葉を挙げた。

「この『美しい国』という語感に(注2)恐怖、戦慄を感じて欲しい。殺意も感じて欲しいのです」

注2/辺見氏は「言葉」でなく、「語感」という言い方をした。言葉は単に何かを表す道具ではなく生きたものであり、匂いや響きや質感を持っているがゆえに、この言い方を選んだのではないかと私は思う。

 私は言葉というものに妙に過敏なたちで、常に「私たちの言葉は奪われつつある」と感じており、厭らしいほどに軽い、媚びを滲ませた言葉・言葉・言葉に鳥肌が立つ。むろん辺見氏のように明快に語れなどしないが、自分自身の覚え書きのつもりでちょっと感じたことをブログに残してもきた(注3)。だから辺見氏の語ることは、実感としてよくわかった――。

注3/比較的新しいところでは、「都知事三選にNO! &石原慎太郎の文章を巡って」、 「対話というもの」 、「『美しい日本語』を殺すな」、 「『美しい日本語』を殺すな・2」 、「『自分探し』と『自己実現』を嫌悪する」 、「『自分探し』と『自己実現』を嫌悪する・2」 、「奪われた言葉たち」、 「ねえ君、それは個性とは言わないと思うが」 など。

 実はまあ、ここまで書いたのは講演の前奏曲のようなもの。ではなぜ、言葉がフェイクになりさがったのか。フェイクに抵抗するには、どうすればよいのか――という問題について彼は語っていき、そちらが講演の核である。それについては明日の夜、メモの続きを書きたい。ちょっと仕事の準備があるので、今日はここまで。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我々は宣戦布告された(UTSコラム再掲)

2006-12-06 23:14:59 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 このところ、週に2回は徹夜にしている気がする。楽しく遊んで徹夜……ならそれなりに喜ばしいのだが、ショウバイがらみというのが悲しい。他の多くの仕事もおそらくそうではないかと思うが、私の仕事もだいたい11月末から12月半ばまでの期間、むやみに詰まってくるのだ。今のところワーキング・プアとまではいかないが、だんだんそれに近くなっている感覚も……。  

 Under the Sun のコラムを転載してお茶を濁しておこう。 

〈我々は宣戦布告された〉

 12月1日に、「『現代用語の基礎知識』選・ユーキャン流行語大賞」なるものが発表された。大賞は「イナバウアー」と「品格」だそうである。どちらも私の中ではほとんど流行していないので(イナバウアーは、実物の映像を見たことさえない。品格の方は、自分自身と縁がない)「あ、そう」と言うだけだが……候補とされた60語を見ると、「美しい国」「格差社会」「勝ち組・負け組・待ち組」「偽装請負」「再チャレンジ」「貧困率」など気の滅入るような言葉がちらほら。空が確実に曇り続けているのだなあ、と改めて思ったりする。いや、既に冷たい雨が降り始めているのだろうか。

 前回のコラムで私は安倍政権を「ファシズム仕上げ政権」と呼んだ。「今年」という年自体に、私は同じ臭いを嗅いでいる。今年はファシズム仕上げの年――とまでは言えないけれども、少なくとも「ファシズム仕上げに向けての幕が上がった年」であったような。むろん、この国のファシズム化は随分前から徐々に準備され、ひそやかに進行していた。そして、年を追うごとに加速度がついてきた。1つの節目は、おそらく「国旗国歌法」が成立した1998年あたり。それまでは猫をかぶって一応はニコヤカな顔を見せていた「国家」が、露骨に牙を剥いてきた。

 今年は――改革という名の凶器でこの国に大きな傷跡を印した首相が退場し、入れ替わりにファザコンならぬグランパ・コンのデマゴーグが颯爽と(と、本人は思っているのだろう)舞台に登場した年。そしてその首相が「任期中の改憲を目指す」と、日本国憲法にはっきり宣戦布告した年。半世紀後の歴史の本に「国民は、いつか来た道を歩むのかどうか決断を迫られた」と書かれるであろう年。それに続く文章が「国民は引かれていく先が屠所であるとは気付かぬまま」になるか、「しかし国民は賢明な選択をし」になるかは、これからの私たち次第である。

 ひとつの希望は、これは私の単なる感触なのだけれども、昨今の与党の強引さにさすがに眉を顰める人が増えてきたこと。特に政治に関心が強いわけでもなく、どちらかと言えば保守的思想の持ち主であるような知人との世間話?の中でさえ、しばしばその種の話題が出る。やるがいい、庶民は愚かな羊だと高をくくっている政治家たちよ。もっと舐めて、もっとバカにして、庶民の(今は未だくすぶっている)怒りに火を付けるような発言をするがいい。最後に笑うのはおまえたちではない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「民主主義」殺害事件あるいは豚肉抜き豚汁の話

2006-12-02 23:37:18 | 現政権を忌避する/政治家・政党

 腹の立つことが多く、いちいち怒っていたら起きている間中ずっと腹を立てていなければいけないような具合。教育基本法の問題はむろんのこと、防衛庁・省昇格関連法案の衆院通過も、オギノフさん が「人間から『商品』へ」のエントリで怒っておられた労働ダンピング問題も、……そのうち怒るのに疲れて、世捨て人志願のモードに入るんじゃないかと本気で怯えるほどだ。まさか、不満を抱いた庶民が疲れるのを待っているのではないでしょうね……。

 一昨日「造反議員復党……これも教育に悪い」というメモを書いたが、これも腹立たしいことのひとつ。今夜はちょっと、想像インタビューをしてみよう。インタビュー相手は復党議員のひとり(特定の誰かをイメージしているわけではない。根っこはみんな同じなのだから)。

――このたび、めでたく復党なさったそうで。おめでとうございますと言っていいのか、ご愁傷様と言っていいのかわかりませんが。

議員「いきなり変なことを言うね、君は。めでたいことに決まっているだろう。これで一層、国政に力を尽くせるようになったのだよ。わっはっは」

――(アナタにそう、張り切っていただかない方がいいんですがね……)

議員「ん? 何か言ったかね」

――いえ、ただの独り言で。ところでセンセイは「安倍総理に感謝している。足を向けて寝られない」みたいなことをおっしゃったそうで。

議員「当たり前だろ。人間、恩義を忘れちゃいけない。恩知らずというのは人間のクズだよ、キミ」

――なるほど。で、安倍総理に頭を向けて寝られるとすれば、足は選挙民の方にお向けになるわけで?

議員「な、何を言うのかね。足を向けてうんぬんというのは、言葉のアヤじゃないか。そのぐらいのこと、学校で習わなかったのかね。だから日本の戦後教育はダメだと言うんだ」

――(あなたよりは日本語の使い方は正しいと思いますけどね。)でも結局のところ、そういうことでしょ。ところでセンセイ、復党なさるにあたって、センセイに投票した国民全員にひとりひとり、「私は復党したいのじゃが、かまわんかね」とお聞きになりましたか。

議員「また、そういう馬鹿なことを言う。キミは投票に行ったことがないのかね? 投票ってのは無記名なんだよ。投票した人間が誰かということもわからないのに、聞けるわけないだろ」

――いえ、いくら何でもそのぐらいわかっています。一人一人に意見聞くのは、不可能ですよ確かに。でも、理屈から言えばそういうことではありませんか? 

議員「キミは間違っている。国会議員っていうのはね、国民から委任状をもらって国政に携わっているのだよ。国民全員が集まって意見を出し合い、話し合うのは現実問題として無理だから、代表として議員を選出する。それが議会制民主主義だ。学校で習ったろうが」

――(学校学校ってうるせぇな、このオッサン。あんたよりは真面目だったと思うよ。)習いましたよ。でも白紙委任状を出すのだとは習いませんでしたね。自分の考え方や思想信条に出来る限り近い人を「代議員」として選び、代弁して貰う。議会制民主主義の基本はそういうことだと理解しています。

議員「私も白紙委任状を出せとは言っとらん。地元の後援会などを通して、国民の意見はよく聞いとるよ。それにだね、私に投票してくれた選挙民は、私のことをよく理解して、私なら国のために働けると信じて票を入れてくれたんだ。信頼関係というやつだよ」

――そうですか。信頼関係……ですか。水掛け論になるのでその話はやめますが、センセイは誓約書の中で「総理の所信表明を全面的に支持する」と書かれ、総理に忠誠を誓われたそうですね。これがどうにも納得いかないのですが、議員が忠誠を誓う相手は……忠誠って言葉は好きではないのですが、この際一応使うとしたら、相手は国民でしょう? もう少し狭めれば、自分に投票してくれた人々。忠誠誓う相手を間違えておられませんか。

議員「な、何を言うか。むろん私だって国民のことを第一に考えておるよ。当然だろ」

――(うわ、しらじらしい。)そうおっしゃるなら、そういうことにしておきましょう。ですがね、国民のことを考えるからこそ、総理の方針に対して反対するとか、苦言を呈するなどというのもアリじゃないんですか? たとえ安倍総理が戦後最高の素晴らしい首相であったとしても(自分で言ってて頭痛がしてきそうだな)ですよ、人間は間違いを犯すこともあるわけで。代議員が総理のイエスマンになってどうすんです?

議員「私は国民のことを考えるからこそ復党したんだし、国民のためを思えばこそ安倍総理を支持するんだ。私に投票した人達はわかってくれているはずだ」

――(わかってるはずって……ひとりひとりの意見なんか聞いてられないと言ったくせに。)要するに、ま、「自分を信頼せよ」ということですね。表面的には裏切ったように見えるけど、おまえ達のためにやってるんだから四の五の言わずに自分を信じなさいと。はぁぁ~。

議員「何だねキミ、ため息なんかついて失礼な。それに、裏切ったなどという剣呑な言葉を使って欲しくないね」

――私は日本は一応は民主主義国家だと思っていたんですがね、甘かったようですね。それともほそぼそと息づいてきた民主主義が、ついに殺害されたということですかね……。うわぁ、殺し屋~。

議員「日本は立派な民主主義国家じゃないか。成人は1人1票の権利を持ち、それによって政治に参加している。何処やらの国のような独裁国家ではない。そのぐらいのこともわからんのかね」

――でも、持っているのは投票する権利だけ。投票だけすればいい、後は任せておけ、時には考え方が大幅に変わったり、強引なことをするかも知れないが、庶民は黙っておとなしくしておれ、と。そりゃあ江戸時代なんかとは違っていますが、「議員が変節しようと何をしようと、国民は文句をつける筋合いはない」というのは「殿様が変なことをしても、お代官様が言うことをころころ変えても、民は文句付けられなかった」時代とそんなに変わらないような気が……。お任せ民主主義なんて、そんなのは「豚肉抜き豚汁」みたいなもんで。

議員「キ、キミは私ら国会議員を侮辱しに来たのかね!?」

――(ブジョクって、どっちが。主権者を舐めちゃあ、いけまへんで)

◇◇◇◇

 その時、秘書が入室。低い声で「先生、○○新聞(とある全国紙の名前)の方が来られて、もしお時間があったらお話し伺いたいと……」。

議員「おっ、そうか。じゃ、キミ、私は忙しいからこれで」

――え? 最初に約束いただいた時間の、まだ半分も経っておりませんが。

議員「忙しいと言ってるだろ」(と、席を立つ)

秘書「(慇懃無礼な声と態度で)先生はお忙しいので……ではどうぞお引き取り下さい」(おまえがインタビュー載せる弱小雑誌より、全国紙の方が大切なんだよという表情がありあり)

◇◇◇◇

余談――最後の蛇足的エピソードは実体験である。政治家、官僚、企業のエライサンなどの取材の場合、前もってきっちりアポイントメントをとって行ったにもかかわらず、大手新聞社やテレビ関係の飛び込み取材のために20分30分待たされたことも何度かあった(名もないフリーは辛いのだ)。言ってみれば私怨だが、これもやっぱり怒っていることの一つだったりする……。

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする