忠誠心なるものについて、ふと考えている。これを人間が誰でも持っている基本的なモラルのように言う人もいるが、はたしてそうだろうか。
仁義礼智信忠孝悌――といえば、ご存じ里見八犬伝。え、知らない? 困ったな。思い切りはしょって言ってしまえば、この八つの文字を一つずつ刻んだ珠を持ち、その文字を名前に持つ八人を主人公とする、江戸時代の伝奇小説であるが……。ともかくこの八つは、人間の最低限のモラルと言われてきたらしい(仁義八行、と言うそうな)。だから人間じゃない(人間の心を持っていればとても出来ない)ということで、遊郭の亭主などを忘八と呼んだりもしたと何処かで読んだ。
そんな話はどうでもいいのだが……このうち、仁・義・智・信、あたりはまぁわかる。礼もまぁわかる。礼儀と解釈すると私のようないい加減な人間にはいささか、いや、かなりうっとうしいけれども、人と接するときのデリケートな思いやり、みたいなものですか。そう言えば誰だったか、儒教で最も大切なモラルは礼だと言っていた人がいる。太宰治だったけか。
悌も、ま、何とかわかる。年長者に対して従順ということらしいが(長幼序あり、というやつだなあ)、同時にきょうだいの仲がよいという意味もあるようなので、そちらだと思えば特に問題はない。孝は……個人的にはあまり好きな言葉ではないけれど、目くじら立てるほどのものでもないだろう。
だが、どうしてもわからないのが忠。これは実は非常に異質なモラルと言ってよい。
仁義礼智信悌孝……は、上からやかましく言うことではないと思うけれども(と言うより、時の権力者がやかましく言うときは何か裏があると疑った方がいい)、その概念自体には何の罪もない。いや、罪などと言うのは変か。ひとが自由にのびやかに生きようとするのを妨げたり、ひととひとの間を引き裂くようなものではない、と言った方がいいだろう。人と人とが関わる時の、ある意味、ごくあたりまえのモラルを表現しているに過ぎない。もしかするとすべての生き物が関わるときの……であるかも知れない。権力者は常にそれらを自分達の都合よく利用しようとするけれども、「それは牽強付会っつうもんやで、おっさん」と笑い飛ばすことはいくらでも可能だ。
たとえば、私が「忠」以外で最も違和感を覚える「孝」にしても。私は特に親孝行な人間ではないが、親の方は多分、親不孝な子を持って私は不幸せだと嘆いたりはしていないと思う。正面切って問いただしたことはないが、おそらくそのカンは間違っていないはずだ。適当に距離を持って付き合い、互いにそれなりに気に掛け合っている、要するにフツウの親子である。ちょっと話が逸れてしまうが、私の友人の一人が自分の子供達について(彼は二人の男の子を持っている)「産まれてきて、親子の関わりを楽しませてくれただけで充分だ。親の恩なんてものがあるとしたら、僕はそれを過剰なほど返して貰った。もう何もいらないや」と言っていたのを思い出す。だから彼は、親孝行うんぬんなどというしかつめらしい話を聞くと笑いが止まらないという。親子って……子供のいない私が言うのはおかしいけれども、おそらくそういうものだ。
六親和せずして孝子ありって、老子も言ってるよね? あ、大道廃れて仁義ありとも言ってたっけ。いずれにせよ、モラルが声高に言われるのはそれが衰微していることの証左だというわけで、そんな世の中は住みにくいと思うけれども……ともかく――ケッタイな爺さん達が躍り出てきてぎゃあすか喚いたとしても、「勝手に言ってろ」と冷笑していられる。
だが、「忠」だけはそんなわけにはいかない。これは人と人との関わりの中で、それをはぐくむために生まれ、そして育てられたものではなく、人為的に創られたものだからだ。誰かが人と人の関係がすべて対等であるということを承伏できなくなった時に、ピラミッド型の関係を正当化し、守るために。多くの人々を飼い馴らすために。
考えてみるがいい。対等な関わりの中で、「忠」などというモラルの入る余地があるかどうか。愛する異性(同性でもいいけど)との関わりを表現するときに、忠誠心などという言葉が出てくる余地があるか。親子の間でも――親子は完全な意味で対等とは言いにくいけれども、それでも忠誠心などという概念は入り込まない。
忠誠心、などというと古くさい感じがして、実のところ、現代人には受け入れられにくい。少なくとも若い人達には(たまに古い表現が好きな人がいて、あえて使ったりする例もあるけれども)。でも、この言葉は形を変え、化粧を変えて今も生きている。忠誠心と聞くと肩をすくめる人でも、ロイヤリティーと言われれば納得したりして。愛国心なんていうのも、中身は「国に対する忠誠心」にほかならない。
仁義礼智信忠孝悌、のなかでオカミが最も重要視しているのは、忠である。そのことは間違いないと私は確信している。あとのモラルはすべて、ベースに忠が存在した上でのもの。だから、うさんくさい色を帯びるのも当たり前だ。戦前の教育勅語についていまだに「いいことも言っていた」なんぞと寝言を言う人もいるが、先っぽで良いこと言ってたって、モトがおかしければしょうがないでしょう。
今の日本は――かなり前から、だけれども。あるいはずっと昔から、かも知れない――先っぽをいじり回し、ちょっと綺麗で清潔そうな言葉なり振る舞いなりがあれば「いいこと言ってるじゃん」「いいことやってるじゃん」と手を叩く。モトがダメなんだよ、とそろそろ声を大にして言わなければ、取り返しがつかなくなるような気がして私はかなり怖いのだけれども。
好きなのは信かな?忠は私の中に存在しないので・・かわりに反とか乱は時としてありかも
「仁義礼智信忠孝悌いざとなったら玉をだせ~~♪」
ってな歌もあったよな・・・
そんな風に言われると不快にお思いかもしれませんが、少し聞いて下さい。「忠」をある特定の人物への従属心だとすれば、それはおふたりとも当てはまらないと思います。でも、本当に「忠」ってそんなものですか?
私は「忠」とは、社会への忠誠心なんだと思っています。「忠」の概念が確立された時代の中国では、社会体制は封建性であり、主人に忠誠を誓うことがそのまま社会へ忠誠だった。それだけの話ではないでしょうか。
現在は民主主義の社会です。とすれば、現代における「忠」とは、民主主義の原理への忠誠心のはず。基本的人権、立憲主義などなど、これらの原理への尊重こそが現代の「忠」の形だと私は思いますし、そう考えれば、おふたりとも立派に「忠の人」です。
「逍遥録-衒学城奇譚-」の発掘屋です。
今節の「Under the Sun」のコラム、suyapさんが4日の担当になっていましたが、まだアップされていないようです。
華氏さんは7日の担当をお願いしていますので、suyapさんが間に合わなくても、コラムをお願いします。
※「八犬伝」の8つのモラルの元は中国からきたもので、元々の順番は「忠信孝悌礼義……」だったようです。
つまり主君に仕えるって意味の「忠」が一番尊いとされてたようですが、コレはやはり儒教からきたのでしょうかねぇ?
またちょっと凶作になれば、よそを襲って上記をする側になるか、自分の子供が何人も餓死するかを選ばなければならない…。
人間はその歴史のほとんどを、そんな世界で過ごしてきたのです。現在の地球にもそんな世界は広く残っているのです。
現在の先進国は例外なのでは。
また、人間の始まり自体が「群れ」動物として、血縁を中心に多分百人前後が集まって、群れを襲う肉食獣と戦ったり、群れどうし戦ったりしていたのでは。
共同体を守る、共同体のリーダー…家、族、…への忠誠は、ただ生きるためでも当然では。
僕はその状況を肯定してはいません。
世界全体が、誰もが餓死せず、奴隷にされず、殺し殺されず生きられることを望んではいます…が、どうすれば、その状態の地域に秩序と安定と必要な豊かさをもたらすことができるのでしょう?
たとえば・・・
その男が住んでいた家は何の変哲もない普通の一軒家。両親が買ったものらしい。家族はその男と妹、そして両親の四人家族。
夜、妹が風呂からあがり、鏡の前で髪を乾かしていると、鏡に映った自分の後ろに誰かが立っている。誰かが、などとなまやさしいものではない。髪がボサボサで顔が半分焼けただれた女が明らかに自分の後ろに立っているのが鏡の中にハッキリと見える。しかもその女と目が合ってしまった!
「きゃーっ!!」っと叫んであわてて振り向くと・・・しかし、そこには誰もいない。恐怖で泣きじゃくる妹・・。
また、その私の後輩がある夏の夜、ベッドで寝ていると突然金縛りにあった。彼が言うには金縛りなんてしょっちゅう起こることらしいが、その夜の金縛りはいつもと違っていた。
なにかベッドに重さを感じる。仰向けの体勢のまま身体も顔も動かせないが、感覚的に、自分の腰の両側に二ヶ所、そして両肩の付近に二ヶ所、明らかにベッドがへこんでいるのが分かる。
「何やこれは・・。何でベッドがへこんどるんじゃ・・。」と彼が思った瞬間、なぜか顔の真上から、妙になま暖かい風を感じた。ふわっと風が顔に当たる。しばらくしてもう一回、そして更にもう一回。
そう、彼は次の瞬間、この状況の全てを理解した。今、霊が四つん這いになって自分の上にまたがっている! ベッドが四ヶ所へこんでいるのは、その霊の両ヒザと両手が置かれている部分なのだと! 顔に感じる風は、霊が自分に顔を近づけて息を吹きかけているのだ。
「うっわあぁぁぁ!!」と声をあげようとしたが声も出ない。どうしようもない、何も出来ない。彼はなすすべもなくその状況を耐えしのいだ。
時間にしてどれぐらいだろう。そしてようやく金縛りが解け、ベッドのへこみも風もそれと同時に消えてしまった。「助かった・・」と思った瞬間冷や汗がどっと出た。もちろんその夜は一睡も出来ず朝を迎えることになった。
また、ある別の日の深夜、家族がみんな寝静まった頃、彼は自分の部屋でテレビを見ていた。するとどこからともなく、いや、よく聞くと洗面所の付近から何か音が聞こえてくる。
「パン、パン、パン」というか「パチ、パチ、パチ」というか、何か拍手に似たような音だ。「あぁ・・また何か起こるんか・・。」怪奇現象慣れした彼はピンときた。
しばらく耳をすましていると音がピタッとやんだ。一応テレビの音も切ってみた。シーンとした静寂が家の中を襲う。このまま寝てもよいのだが、何かそれでは釈然としない。「一応確認に行くか。」彼は部屋のふすまを開け、洗面所へ向かった。そして洗面所の電気をつけてみると・・
なんとそこには、洗面所の壁一面に「人間の血の手形」がつけられていた! あの、相撲取りが手のひらにインクをつけて色紙にパーンとつけるような、あの手形が、赤い色で壁一面に何十となくつけられている!!
「ぐわあぁぁぁ!!」ビビリあげた彼はすぐに家族全員を叩き起こした。妹は恐怖に歪んだ顔をして駆けつけて来た。お父さんとお母さんは眠そうな顔をしてぼちぼち歩いて来て一言言った。
「何ね~、これは。あんたら、また変ないたずらしたねー。誰が掃除すると思っとるんね。」助けを求めたのに逆に怒られてしまった。
変なものが見えたり感じたりするのは、その私の後輩と妹だけで、両親は全く何も感じないらしい。この奇怪な手形もどちらかのいたずらだと思っている。
「台所に、かんたんマイペットあったじゃろ。あれ持ってきんさい。」とお母さんに言われて彼は「かんたんマイペット」と一応「キッチンマジックリン」も持ってきた。
「まったく、もぅ。」とプツプツ言いながら掃除する両親と、恐怖に顔を歪めながらマジックリンを手形に吹き付ける私の後輩とその妹。「あんなに怖い掃除は今までなかった。」と彼は言っていた。
あれからもう、何年も経つ。大学を卒業して以来、彼には会っていないが、今でもその家に住んでいるのだろうか。
近世・近代を通じ、日本という社会の思想的主柱となったのは儒学でございます。
ですので、まあ江戸時代の作家がその思想に基づいた物語りを行っても不思議ではありませんし、近代日本がその思想に基づいた政策を行っても不思議ではありません。
人は生まれた瞬間からその属する共同体の中で教育されますから、その信じているものが真に自然な心情であるか否かの検証など不可能でございます。何らかの観念、行動が自然であるがゆえに肯定すべき、という言説は、自然がすなわち神であり絶対の正義であった時代のものでございます。具体的にはソクラテス大先生様の時代でございますね。
だが、これも日本国が国民の自由を保障しているからだ。
日本国がなくなってしまえば、君たちは自分たちの言動で明日、秘密警察に逮捕され、銃殺刑になるかもしれないんだよ。
いいかい、自由への対価は高くつく。自由を享受する者は自由のために死なねばならんのだよ。愛国心とはそういうことさ。
愛国心ある者は、日本のために死ぬ覚悟あるが、君たちにはないだろう?
愛国心のなき者は、日本国籍を今すぐ捨てて、どこの国からも保護を受けない人間として生きていけ。そうしたら、君たちを見直してやるよ。
Google にて拝見
「ビジネスを活かす・私の聖書体験」のご案内
ご笑覧ください。
http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/
ハァやれやれ。突き詰めていけば児童虐待はやっぱりウヨク的思考者すなわち小林よしのり信者ダッタンデスネ~! いや~民主党には是非頑張って彼らをやっつけて欲しいもんですね。