安倍首相が26日の衆参両院本会議で行う、初の施政方針演説の概要が固まったそうだ。最重要課題に掲げるのは「教育再生」。また憲法改正への意欲を強調し、改憲手続きを定める国民投票法案の早期成立に向けた期待を表明するという。
◇◇◇◇裏切るな民主党◇◇◇◇
hatakejinさんが、コメント欄で「結論は国会開会後に先送り 民主の国民投票法案対応」という共同通信の記事を紹介してくださった。どうもありがとう(何せ生活に追われている身なので、紙媒体のチェックもネット上の情報のチェックも漏ればかり。周囲の人間に対しては、息せき切って情報を追いかけるよりもモノゴトをゆっくり考えたいのだなどと時々えらそーなことを言ったりしているが、実はさぼってる面が大きい。こうやって教えていただくと本当に助かる)。
昨夜のニュースによれば、民主党は「法案への対応を協議。通常国会中に結論を出す考え」であるそうな。
民主党の動向に懸念を持っている人は多いのではないか。私は民主党にさほど大きな期待は抱いていない。私自身の感覚については何度か書いた覚えがあるが(たとえば小沢一郎氏が代表に選ばれた時のエントリなど)、保守二大政党になってどうすンだ、というのがいわば基本的な考え方である。ただ、これまでも書いたけれども「それでもなお、一定の期待をせざるを得ない」という気分も大きい。少なくとも当面は「少しマシ」でいい、「悪くない」程度でいい。恐るべきスピードで我々の生きている社会を変容させようとする為政者にブレーキをかける役割を期待したい、と言うかせざるを得ないのだ。無力な庶民としては。
だから与党に歩み寄る姿勢を見せられるとマジでびびるし、少しでも期待の持てそうな情報があれば懸命にすがりつく。ほんと……まるで不実な恋人(恋人、とも言えないか。価値観が違うことは百も承知だし、ほんとに自分のことを思ってくれているかどうかは甚だ疑問なのだけれども、でもそんな酷いことはしないよね、ひどい裏切りはしないよなあ、とちょっぴり信じておきたい相手、程度かな)の一挙手一投足に振りまわされる少年のように。
参院選に民主党から出馬予定のとくらさんは「今は、民主党も国民投票法案反対でいくべき」と言っておられる。ほんともう、頼むから国民投票法案の成立に向けた努力、なんかしないでよね。
◇◇◇◇むろん「護憲ありき」なのです(コメントへの返事)◇◇◇◇
20日のエントリ「国民投票法案を上程させるな・1」に対して、次のようなコメントが入っていた。それに対する私の返事を書いておく。
【改憲のための法案作り」だと批判されていますが、あなたのこの文章も「護憲ありきの屁理屈」にしか聞こえません。自分だけがフラットな立場から論じているような振りをするのは読んでいて痛いです。この手のサイトには同じような考えをもった人たちが集まるので、「やっぱりみんなそう思っているのか」と、自分たちの正当性を過剰に意識してしまうのでしょうが、実際には私のように考える人の方がマジョリティなのではないかという気がします。ま、結局この手の話は(改憲派も護憲派も)どんなに論理を振りかざしても、根本の自分の主張のゴリ押しにならざるを得ないのかもしれませんね。なぜなら、どちらの主張も論理的には成立するのですから】
署名は「通りすがりの者です」となっていた。HNのやりとりであるからこれでもかまわないようなものだが、私としてはできれば他の人と区別できる名前を名乗って欲しいという気分はある。さもなければ、「意見の交換」もできないではないか。コメント欄の存在理由の第一はコミュニケーションを求めていることだと思うので、できればこういう形は避けていただきたいものだが……(HNなんか適当に付けて適当に変えられるから意味ないじゃん、とも言えるけれども、そういうこと自体あまり好ましいとは思わない)
……まあ、それはいい。ともかく返事を書くことにする。
最初に断っておきますと、私は自分の言い分が多数派か少数派かなどということには興味ありません。多数派であれば嬉しいことは確かですが、「そんな変なこと言うのはこの国でたった一人だよ」という事態になっても、同じことを言い続けたいと思います。
私はブログというのは「個人が公開している覚え書き」に過ぎないと思っています。むろん中には非常に大衆性を持った、多くの人に訴えかけることのできるブログもあります(ほんの一例を挙げると、お玉さんのブログや、前出のとくらさんのブログなどですね)が、それは一部に過ぎない。もちろん数えていけば結構な数になると思いますが、全体から見ればやはりごく一部です。ほとんどのブログは「私的な覚え書き」ですよ。
私自身のことを言えば、私はブログを大衆運動の手段とは思っていません(ついでに言うと――以前自分探しと自己実現を嫌悪するという記事と、その続きを書いた ときに「ブログだって自分探し・自己実現の手段でしょ」というコメントが入ったが、すんません、自分探し・自己実現の手段でもないですよ。私は非力でヘタレな庶民ですが、ブログで自分探ししないといられないほど無明長夜を踏みまどっているわけじゃあない。そこまで落ちぶれてないよ――なんて言うと、う~ん、さすがに言い過ぎか)。
と言うより、自分のブログがそんな力を持てるとはまるきり思っていません。所詮は庶民の寝言、なのです。ある意味で無責任。いや、むろん書いていることについては責任持ってるつもりですが、責任の問題を徹底するならば、私は本名で、場合によっては住所その他も明示して書きます。無責任というのが言い過ぎなら、まあ、気軽に書き散らしている、と解釈していただきましょうか。そんなことは、文章をちらっとでも読んでいただければわかるでしょう。理路整然と持論を発表、なんぞしてるわけじゃないですよ(する力量もないけど)。
少し話が逸れてしまいましたね。つまり私が言いたいのは、これはイチ庶民が公開した覚え書き、なのです。多数派かどうかはさほど問題ではないし、もちろん自分がフラットな立場で論じているなんて毛頭思っていません(第一、論じるなんていう高尚なこともやってるつもりはないです)。開き直るわけではありませんが――独断と偏見に満ちた文章ですよ、所詮はね。フラットな立場でもの言っているように聞こえたならば、それは私の表現力の不足に過ぎません。
ただ、フラットな立場とか、中立的立場とかいうのが、本当にあり得るのだろうか。
少なくとも私は「フラットな立場」で「厳正中立」にものを言うことは出来ません。むろんテーマによってはそれも可能ですが、自分の思想信条や生き方にかかわるテーマについてはフラットもへったくれもないでしょう。痛いという感想を抱かれるのはむろん貴君の自由ですが、私の方は「そう言われても困るのだが」と目をパチパチさせてしまうのも、これまた事実です。
そう。私は「初めに護憲ありき」で発言しているのです。当たり前でしょう。
それを「改憲を前提とした法案を成立させようとする」「安倍内閣」と、どっちもどっちだと言われれば――そう、どっちもどっちであるかも知れません。「どちらの主張も論理的には成立する」というのも、おそらく貴君の言われる通りだと思います。
ただ、私はこれだけは言いたい。私は(好き嫌いでモノ言っちゃあいけないかも知れませんが)評論家的な物言いは嫌いです。今の時代――というより、おそらくはるか昔から――評論家になることはたやすい。周囲の誰彼よりも少し頭がよく、少し知識があり、少し表現能力があれば誰でもなれる。
そして――私は長年マスコミの片隅で働いてきた人間なのですが(大した仕事はしていません。ほんと片隅で生息しているだけです)、我々にとって最も危険なのは「評論家的になる」ことです。ジャーナリストは職業柄多くの情報を得やすいし、「ペン」を握っているゆえに、ついつい「ヒトゴトのように現状を分析して教えを垂れるような、えらそうな口調」になってしまう。でもそれは堕落にほかならない。
ついでですが、同じ危惧を(多方面から叱られるのは覚悟の上で言うと)私はインターネットで発信を続けている人達の一部に、たまに感じることがある。おそらく豊かな知識を持ち、分析力にも文章力にも優れているが故に、陥穽に陥ってしまう。(実のところ私も評論家ふうになってしまう自分に時々ドキッとする。私の場合は別にたいした知識も何もなく、おそらく職業病かなとも思ったりするのだが)
すべての事象は――とまでは言いません。しかし少なくとも自分が関心を持ち、考え続けたい事柄については、「ヒトゴト」のような物言いをしてはいけない、と私は思っています。独断偏見と言われようとも、そしていかに拙くとも、自分のスタンスと感性に依拠して語ること。それだけが、一人の人間が生きていくための砦であると私は思うのです。