華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

絵本『せかいでいちばんつよい国』

2008-01-20 23:59:23 | 本の話/言葉の問題

 明日久しぶりに古い友人に会うので、その子供への贈り物にするつもりで3冊ほど絵本を買ってきた。うち2冊は私が昔から偏愛している絵本だけれども、1冊は書店で見つけて衝動的に買ったものである。

 で、チビさんに贈る前に、自分で読んでしまった。題名は『せかいで いちばん つよい国』。作者はイギリスの絵本作家であるデビッド・マッキー。

 絵本はまず、つぎのような文章で始まる。

【むかし、大きな国がありました。大きな国の 人びとは、じぶんたちの くらしほど すてきなものはないと、かたく しんじていました。この国の へいたいは、たいへん つよくて、たいほうも もっています。そこで 大きな国の だいとうりょうは、いろんな国へ、せんそうを しにいきました。「せかいじゅうの 人びとを しあわせにするためだ。われわれが せかいじゅうを せいふくすれば、みんなが われわれと おなじように くらせるのだからな」 】

 そのまんま、である。そう、現実に存在する大国に……。あまりのストレートさに、腹を抱えて笑ってしまうほどだ。

 そして――

【ほかの国の 人びとは、いのちがけで たたかいました。けれど どの国も、さいごには まけて、大きな国に せいふくされて しまいました】 

【しばらくたつと、まだ せいふくされていない国は、たったひとつに なりました。あんまり 小さい国なので、だいとうりょうは、これまで ほうっておいたのです】

 でも一つだけ残っているというのも気分が悪く、「大きな国」の大統領はついにその国に軍隊を進発させた。

 その結果、どうなったか? ――興味を持たれた方は、ぜひ書店で手にとって下さい。何せ絵本だから、ゆっくり絵を味わいながらでも10分以内で立ち読みできる。御用とお急ぎのない時に、できれば感想なども聞かせていただきたかったりもする。

 私自身は、その経過や結末に対して、ほんの少し 牧歌的過ぎるような印象を抱いた。もっともっと陰惨な話の方が、心に迫る気がしたのかも知れない。

 だが考えてみれば、ひとが生きるということ、そして「命の倫理」というのは、そんなに複雑でややこしいものであるはずはない。千年杉のような揺るぎない野太い命の倫理、生き物のモラルともいうべきものを、我々はこまっしゃくれた小手先の知恵でいじり回しすぎているのかも知れない。絵本や童話の類は(私はそういうものがこよなく好きであるのだけれども)、妙に斜に構えることをカッコイイように感じるがゆえにともすればやせ細っていく根源的な知恵を、我々に思い出させてくれるように思う……。

◇◇◇◇◇

 ゴタゴタ続きでじっくり本を読めず、このところ斜め読みばかりしている。ここで紹介した絵本を読む前に目を通したのは山田風太郎『風来忍法帳』(読むのは確か三度目ぐらいだけど)。やっぱり風太郎、好きだなぁ。「いいや、伽羅のかたきだ」(『外道忍法帳』)って、私も言ってみたかったりして。

 一昨日、ちょっとした拍子に本の山が崩れた。私の家は本がオタクっぽく溜まっていて、古書店の倉庫みたいだといつも友人達に言われる。もっとも、そんなこと言うと古書店のオヤジは怒ると思うけど……我が家はほんと、脈絡なく積み上げているだけだからして。本棚に収めきれない本が廊下だの部屋の隅だのに積み上げてあって、それが大々的に崩れてしまったのだ……。その整理に、一日かかってしまった。とほほほほ。本に埋もれて死んだら本望?……な、わけないっ!!

『風来忍法帳』は、その整理の途中で「ありゃ、こんなところに」と見つけた本のひとつでありました。あっ、まだ読んでない王権関係の本が溜まってた……。 

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地味な敵が怖い――『本格保守宣言』を読む

2007-11-24 05:41:50 | 本の話/言葉の問題

 適当に山積みしている本を掻き分けていたら、足元に新書版の本が1冊転がり落ちた。新潮新書『本格保守宣言』(著者・佐藤健志)である。たしか、2か月ほど前に斜め読みし、妙に気になっていたのだということを思い出す。

 帯には大きな文字でこう書いてある。〈ニセモノの「保守」にだまされるな〉

 まず、本書の一部を引用してみよう。

【保守とは、もともと政治的な立場を指す概念ではないのである。たとえば『広辞苑』は、この言葉の意味として、「たもち(、)まもること。正常な状態などを維持すること」をまず挙げ、「機械の保守」という表現を引き合いに出す。つまりは「保守点検」や「保守サービス」という場合の「保守」だが、より普遍的な形で定義するなら、次のようにまとめられよう。――特定のシステムに関し、年月の経過や環境の変化にかかわらず、望ましいあり方が持続的に成立するよう努めること。】(18ページ)

 著者は【歴史の大部分を通じて、人類はきわめて保守的だった】と書き、前近代においては抜本的・急進的な改革によって社会を変革することはほとんどなかった(ゼロではないが、きわめて少なかった)と述べる。したがって保守主義という概念も存在しなかったのであるが、18世紀後半になって「未来」や「進歩」の概念が成立し、急進主義が誕生するにいたったことで、そのアンチテーゼとして保守主義が生まれたのだというのが著者の認識であるようだ。

 この本の紹介をするのが主旨ではないから適当にはしょってしまう(興味を持たれた方は立ち読みでもいいがどうぞ)が、著者は「保守」を「社会の大枠の維持を心掛け、急進的な改革も過度の守旧も廃して」「何をするにあたっても作用と反作用を充分に検討して慎重に取り組む」ことである、と定義しているように思われる。社会システムを慌てて変革しようとすると人々の想定範囲が突き崩され、世の中が不安定になるからである(というのが著者の主張であるようだ)。要するに「バランスのよさ」が保守の生命線、ということであるらしい。

 だから――著者は、憲法改定を目論んだり、戦前の日本を肯定したり、愛国心をむやみに強調するのは「本格保守」ではない、と断言する。

 ますます話をはしょってしまうが……この本を読んだ時に感じたことを次第に思い出してきた。細かなことは別として、私がひっかかっているものは大きく分けてふたつある。

(1)せめてこの程度は
 私は……自民党支持という人々に対して、こんなことを呟いてしまった。「あんたら、せめてこの程度の認識を持ってんか」。著者は【人々が一丸となりすぎない体制の方が、じつは効率的】と言って国家主義を否定し、愛国心には適正範囲があると主張する。そのあたりで、私はふっと目眩のようなものを感じたのである。せめて……この程度のバランス感覚?の持ち主であればと。

(2)こういう「保守」が怖い
 だが、読み終えた私は「こういう『保守』こそが怖い」とも思った。これは私の、ごくごく素朴な印象である。著者は改憲しなくても戦争はできる、という意味のことさえ述べている。「望ましいあり方が持続的に成立する」というのは、基本的に大きな問題はない。こんなふうな持ちかけられ方をすると、つい頷いてしまう自分のアホさ加減がイヤになるが(賢い人にはかまわんで、ほんま)……だが、その「あり方」の像こそが問題なのではないか。

 安倍・前総理のように、神経に障るような挑発的な(もっと言えば、アホかいなと言いたいような)言動を繰り返す権力者は、実のところそれほど怖くない。私の周囲の「保守的と自称する人々」でさえ、眉をひそめていたぐらいだ。失言閣僚の面々にも、冷ややかな視線が向けられていた。

 安倍内閣はいわば、きわめてわかりやすかったのである。私の正直な気分としては、彼にもう少し政権を担当して、恥をさらしていただきたかった。ところが……坊ちゃまはプッツンしてしまい、次に妙に地味で温厚そうな人物が首相の座に着いた。これは手ごわいです。キャンキャン吠える犬よりも、落ち着いて構える犬の方が怖い。「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」……あ、ちょっと違うか。

 またしても脈絡なくなってきたけれども、……そろそろ言葉遊びはやめんとアカンなぁと、いえ、これは誰かに対して言っていることやおまへん。自分に対して言い聞かせとることなんですわ。保守とは何か、革新とは何か、なんてのはヒトサマと議論するネタとしてはおもろいけど、私みたいな生かじりがやってしまうと、二匹の蛇が互いの尻尾くわえて呑み合うような雰囲気になってしまいまするな。

 と、いうことで。またいずれ、もっとグチャグチャと書くかもですが。 

◇◇◇◇◇注

【】でくくった文章は、本からそのままの引用。「」は私なりのまとめや言い替えによる。


◇◇◇◇◇余談

 実はもっともおもしろかったのは、著者が『鏡の国のアリス』を取り上げ、その中でおこなわれるチェスのゲームを〈近代の比喩〉と述べている個所だった。空想(妄想、かも)を無限大にふくらませてくれる物語は数多いが、アリスの物語も確かにそのひとつではある。

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ひとは自分の経験を通してものを見る

2007-10-28 23:04:55 | 本の話/言葉の問題

 

 4日ばかり目玉が溶けるほど寝て暮らした……。「一杯のお茶と引き替えに世界が滅びてもかまわない(と思った)」という、ロシア作家の有名な一文をふと思い出す。まぁ、とてもじゃないがそんなカッコイイことは言えないのだけれども、ちょっぴり「目覚まし時計無視の熟睡と引き替えに……」という気分でありました。

◇◇◇◇◇

  先日、題名だけ紹介した家永三郎著『歴史家のみた日本文化』(発行・雄山閣)について、読みながら思ったことなどをメモ風に少しだけ書き留めておこう。【 】でくくった斜体の文章は、著書の引用である。

◇◇◇◇◇

 まずは内容の一部の紹介から――

「天皇制批判の伝統」という章の中に、こんな言葉があった。

ひとは常に自分の経験という色眼鏡を通して歴史を回顧するものである

いわゆる「国体観念」をこどものときからくり返し学校で吹きこまれてきた私たち戦前世代の人間は、天皇制を否定するものはごく少数の共産主義者だけであって、これに正面から批判的否定的な考え方が、共産主義出現の以前から日本の思想界の一隅に脈々としてつづいていたというようなことは想像もできなかった】という文の後に続く言葉である。(ちなみに著者は1913年生まれ)

 ある大学院の学生がおこなった「天皇制に対する意識」の社会調査について、著者は簡単に紹介している。それによると、40代から60代は天皇制を支持する人が多かったのに対し、80代では消極的・否定的反応を示す傾向が見られたという。ちなみに『歴史家のみた日本文化』が書かれたのは今から40年余り前、1960年代前半である。当時の80代は既にみな故人であるから、現在は「高齢者は天皇制に消極的・否定的」というわけではない。

 当時の80代は、明治20年以前の生まれである。まだ天皇制の権威が充分に確立していない頃に成長したため、天皇制に対して深い尊敬だの畏怖だのを持たずにすんだのだろう、と著者は語る。それに対して、著者自身を含む明治半ば以降に生まれた人々は、「国体の尊厳」で心理的にガンジガラメにされており、違った考え方もあり得るのだということに思い至らなかった――のだそうである。

 そして、大昔からずっと、日本人は皇室を崇めていたと思い込んでいた。表面的・形式的な文献だけ見れば、確かにそのように思えもした。

しかし、考えてみれば、古代や封建社会で書かれた文献というものは、すべて支配階級に属する人々か、そうでないまでも支配階級の文化の洗礼を受けた人々の手で書かれたものばかりであって

 被支配階級の人々が本当に皇室を崇めていたかどうかを明確に示す史料は、はじめから存在しないのだ、と著者は続ける。

(この後に、庶民の感覚を垣間見せる断片的な史料などが挙げられているが、紹介は割愛する)

◇◇◇◇◇

 冒頭に挙げた一文を、私は自分の頭のなかでこんなふうに読み替えた気がする。

「ひとは常に、自分が刷り込まれた価値観というプリズムを通してモノゴトをみる。歴史を見るときも、現実の事象を見るときも」 

 天皇陛下は神様です、太古の昔から日本人は天皇を尊崇してきたのですと教えられて信じ込んでいた「戦前世代」を、我々は嗤うことはできない。「日本文化って繊細だよね」でも「北朝鮮って怖いよね」でも、「自由ばかり主張するのは間違いだ」でも何でもいい、我々もいろいろなことを刷り込まれ、違った考え方が成り立つということに思い至らない。
 
 こんなことを言うと、おまえがギャアツク言ってること――たとえば愛国心は不要とか、憲法は改定するなとか、そういうのも刷り込まれてるんじゃねぇの?という批判もあるかも知れない。うん、あるだろうなきっと。

 しかしですね。うーん、さぼってここでも家永三郎の本から引用してみる。

支配階級はそれぞれの歴史的理由によって天皇の存在を必要としていた。だから天皇の地位はついに廃止されないで今日に至ったのであり(以下略)】

 支配階級、という言葉は違和感があるかも知れない。実は私もある。階級として鮮やかにカテゴライズされるものではなく、もうすこし輪郭の曖昧な、ぶよぶよしたつかみ所のないものだと思っているので……。だからここは、「オカミ、および表舞台の人達」と言い替えてみようか。

 オカミ、および表舞台の人達――は、自分達が是とする社会をつくるために(正しいか正しくないかということは、このさい関係ない。彼らにも彼らの考え方があり、私はそれを否認するけれども、否定しきることはできない)なりふりかまわず狂奔する。いや、なりふりかまわずってのは言葉のアヤでね、それなりにかまってるけれども。でも本質はやっぱり、なりふりかまわず――かな。で、彼らは金もある、地位もある、権力もある。大人と子どものレスリングみたいなものですよ。だからスタートとして、ともかく彼らの言うことは疑ってみる。それぐらいで、実はちょうどバランスがとれていると言っていい。

 声高に、シャワーのように浴びせかけられてくる価値観を、まず疑う。さもなければ、しらずしらずのうちにガンジガラメになるに決まっている。 

◇◇◇◇◇
 
「天皇制批判の伝統」の章のなかで、著者は、むろん明治政府が無から有を造りだしたわけではないと述べている。日本人の生活に深く根を張っていた天皇制の根源のようなものがあり、それが存在していたために、新しい天皇制の権威を築き得たのだという。では、天皇制の根源とは何か。

――というところでかなり酔いが回ってきたので、一時中断。続きは次回。 

◇◇◇追記(10月29日)◇◇◇

家永三郎って何者だ?というヒトのためにひとこと解説。(ある程度以上の年齢の人はよく御存知のはずだが、若い人は知らない……かもしれない)

5年ほど前に亡くなった歴史学者。東京教育大学で教鞭をとっていた。若い頃は体制翼賛傾向がつよかったことから変節漢とも批判されているそうで、そのあたりについては実は私はよくわかっていない。ただ、私の子どもの頃は「家永教科書裁判」(※)で名高く、私はこの裁判によって「教科書というもの」や、「国が教科書をチェックするということ」をボンヤリとではあるが考えさせられた記憶がある。

※教科書検定は違憲だとする訴え。南京大虐殺などについて記述した教科書が検定でハネられたことが、第一次訴訟をおこすきっかけだった。第一次から第三次まで三回の訴訟があり、30年以上を費やしてあらそわれた。第三次訴訟の最高裁判決が出たのは10年ほど前。

 

 

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城山三郎より結城昌治

2007-06-28 02:58:12 | 本の話/言葉の問題

 しばらく休みだった「愚樵空論」が再開された(教えてくれたdr.stoneflyさん、ありがとう)。かすかにでも繋がり続けているのはむろん嬉しいことなのだが、はぐれてしまったた友人と再会できた喜びはそれにまさる。愚樵さん、またよろしく。

◇◇◇◇◇◇

 佐高信の『城山三郎の昭和』を読んだせいで(その話は前回書いた)、グスグズと間歇的に城山三郎について考えている。

 前回書いたように私は城山三郎の本を少ししか読んでおらず、それは彼の小説が主には伝記小説であるせいだと思っていた(個人的な好みとしては伝記小説より伝奇小説のほうが……)。だが少しずつ自分の記憶の淵に分け入っていくうちに、ほかにも理由があるかも知れないと気付いた。

 城山三郎の小説の主人公達は、実に颯爽としている。毅然としている。広田弘毅も石田禮助も。

 むろん、颯爽としていること、毅然としていることが悪いことであるわけはない。私もできれば「颯爽と」「毅然と」生きたいと思っているし、多くの人が同じだろう。だが必ずしも颯爽とも毅然ともできず、卑怯なことばかりしている。いや、他の人は知りませんよ。少なくとも私は、なんですが。それに対する忸怩たる思いが、常に影法師のように自分に付きまとっているのだ。私を駆り立てるのは、国という存在が重くなればなるほど自分はもっともっと卑怯になるのではないか、死んでも死にきれない恥をさらすのではないかという恐れだけである。

 城山三郎の主人公達は実にカッコいい。中には――タイトルは忘れたが、タクシー会社で自社の車が事故を起こしたときに被害者の見舞いや弔問に行くのが仕事で、その時だけ重役の名刺を持たされる定年近いサラリーマンを主人公にした何ともせつない小説もあったが……多くの主人公はビビってしまうほどカッコイイのである。

 戦争文学に分類される『硫黄島に死す』を読んだことがあるが、その時にも微かな違和感というか、軋みを感じた。結城昌治の『軍旗はためく下に』や大岡昇平の戦争文学が好きで(結城昌治のこの小説についてはかなり前に紹介した)、同じような味を求めて読んだものだから、余計にそう感じたのかも知れない。

 いや、私は「カッコイイ主人公」は嫌いじゃあない。むしろ好きな方かも知れない。子供の頃はカッコイイ主人公が活躍する冒険小説をわくわくしながら読んだし、司馬遷『史記』の刺客列伝その他の主人公達や、寺山修司の芝居の主人公達も好きだ。そう言えば偏愛する高橋和巳や山田風太郎その他もろもろの作家の小説の主人公たちも、(格好良さの種類はそれぞれ少しずつ違うけど)カッコイイと言えば実にカッコイイのである。バタイユとかグラスとかの小説も登場人物もカッコイイし。漫画(劇画、というのかな)『カムイ伝』の主人公達もカッコイイよなぁ。

 ただ……私が好むカッコイイ主人公達は、考えてみればそのカッコよさは非常にあやうい。「まっすぐ」「純粋」ではないのだ。自分がやっていることが正しいのかどうかはわかんねぇさ、でもこうするしかないんだよな――という、ほろ苦さに満ちている。城山三郎の小説の主人公たちには、その屈折がない(屈折があるのがいいことかどうかは、私はわかりませんが)。

 前回冒頭部分を紹介した城山三郎の「旗」という詩を、私はどうしようもないほど好きだ。問答無用で共感している。彼のものの考え方の原点のようなものも、「うん、わかる」と思うのだ。でも――それでもなお、彼の小説に対する違和感はどうしても拭えない。

 私は以前にも書いたことがあるが、司馬遼太郎が好きではない。その司馬遼太郎の小説と一脈(ほんの一脈、だけれども)相通じる匂いを、私は嗅いでしまう。それは間違っているという意見も多いだろう。確かに司馬遼太郎と城山三郎は、思想信条の根幹が違うことは違う。だから確かに間違っているのかも知れないが、これは私の感覚だからどうしようもない。司馬遼太郎だって、兵士として戦場に生き、戦争の愚を思い知って、二度とあんな世の中にしてはいけないと思っていたことは確か……であるらしい。言論の自由に対しても確固たる立場をとっていた。それでも私は、「歴史を動かしたヒーロー」に思い入れを持つ司馬遼太郎がどうしても好きになれない。城山三郎にも、ちょっぴりそんな匂いを嗅ぐのである。

 思想は変えられる、癖は直せる。だが感覚だけはどうしようもないのである。私は佐高信がけっこう好きなのだが、彼がなぜ城山三郎をここまで評価するのか疑問なほどだ。私はやはり……『硫黄島に死す』でカッコイイ主人公を書いた城山三郎より、『軍旗はためく下に』でとことんカッコワルイ群像を描いた結城昌治の方が好きである。

 なかなか毅然とできない人間でも、否応なく毅然とせざるを得ないことがある。そんなときは、颯爽とはいかないまでも毅然とした言動を貫きたい――これは私の何よりの願いである。そうありたい、と思っている……。

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旗振るな――『城山三郎の昭和』を読む

2007-06-26 23:51:21 | 本の話/言葉の問題

 最近少々疲れ気味で乗り物の中では居眠りしていることが多いのだが、今日は久しぶりに電車の中で本を1冊読んだ。駅前の書店で買った、佐高信『城山三郎の昭和』(角川文庫)。「本の旅人」に掲載されて3年ほど前に単行本として発刊されたもので、先頃……おそらく城山三郎死去に伴って文庫になったものである。とっくに読まれた方も多いと思うが、私はまとめて読んだのは今回が初めてである。

 作家論ではないし作品論でもないし、強いて言えば人物論か。城山を熱く評価している佐高信が彼の文章の原点について自分の思うところを語ったもので、雰囲気としては随想に近い。興味を抱かれたら一読をお勧めするが、さっと読める文章なので立ち読みでも充分読み通せると思う。

 私自身は、城山三郎の小説は一部の代表作?しか読んでいない。これは別に他意あってのことではない。城山は綿密に取材し、膨大な資料を集め分析して書くというタイプの作家で、彼の小説の多くはいわゆる伝記小説である。たとえば東京裁判におけるA級戦犯の中で唯一の文官であり、「軍人のほかに文官の死も要求されているのなら、私はそれを受け入れる。あの戦争を止められなかったという点だけにおいても私は有罪である」という意味のこと(字句として正確かどうかはわからない。いつもの通りうろ覚えのまま書いているのだが、ニュアンスとしては間違っていないはず)を言って絞首刑に処せられた広田弘毅を主人公にした『落日燃ゆ』はその代表だろう。つまりはフィクションというよりジャーナリズムの仕事に近く、その世界の片隅で飯食ってる私にはちょっと食傷ぎみだった……というに過ぎない。私は元来が、どちらかといえば「荒唐無稽な幻想の世界」が好きなのだ……。

 もうひとつ。たしか『落日燃ゆ』だったと思うが、天皇に「……と言われた」といった類の(軽い)敬語が使われていた。それが微かな違和感につながったのかも知れない。読んだのはもう随分前のことだから、確信をもって言えるわけではないけれども。むろん城山三郎には彼なりの判断があってのことだと思うが、私はノンフィクションおよびそれに近い文章で特定の登場人物に敬語を使うのは嫌いなので、何となく読みづらい感じがしたのだろう。(完璧なフィクションの世界で、一種の雰囲気作りとして敬語を使うのは話が別。たとえば『源氏物語』であれば、光君が○○とおおせられた、みたいな表現があっても「ア、ソウ」ですむのだが……)

 前置きが長くなった。それはそれとして――。私が同著のなかでもっとも心揺さぶられたのは、城山三郎の『旗』という詩を全文まともに読んだことだろう。城山は昭和2年に生まれて軍国主義教育を受け、敗戦の直前に未成年で海軍に志願した。そのことを終生の痛みとして抱え、「こんなことを二度と繰り返してはいけない」「人が、人の上に立ってはいけない」「思想信条の自由は守られねばならない」と死ぬまで叫び続けた彼の、原理原則を訴えた詩である。冒頭部分は非常に有名で、よくさまざまな文章に引用されるのでさすがに知っていたけれども、詩の全文を通してちゃんと読んだのは初めてだった。

 熱に浮かされたように旗を振り、その下に集うことを、城山三郎は嫌悪し続けた。カリスマも英雄も大嫌いで、数にもならぬ身としてしたたかに生きたいとだけ願い、最後のひとりになっても国のためになど死にたくないと思っている私は、少なくともその点には涙ぐむほどに共感できる。

 全部紹介したいところだが、それだと改めて「城山三郎とは何者か」「言論の自由とは何か」などを考えるさいの手掛かりになりにくいだろう。第一、長いから全部書き写すのはしんどい。……というわけで、この詩の冒頭だけを紹介しておく。少しでも関心を持たれたら、ぜひ立ち読みしてくだされ。あ、むろん買って行かれてもいいですよ。

 

――城山三郎『旗』より――

旗振るな/旗振らすな/旗伏せよ/旗たため

社旗も 校旗も/国々の旗も/国策なる旗も/運動という名の旗も

ひとみなひとり/ひとりには/ひとつの命

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「自己責任」という言葉を使うな

2007-02-06 23:34:06 | 本の話/言葉の問題


 柳沢厚労相、今度は「若い人達は、子供は2人以上という健全な考え方を持っている」と発言した。まだ言ってるのか、このヒト。何もわかってないんだね。先日の「女性は産む機械、装置」発言も、ゴタゴタ言う奴が多いからいちおう頭下げておこうかと計算しただけで、何が問題なのか全くわかっていないということがアリアリ。健全だとか美しいとか、あんた達は判断する立場じゃないんだってば。

 ……ということで柳沢厚労相のことをしつこく書こうかと思ったが、あの顔を思い浮かべるだけでも不快なので(ついでに、擁護した都知事の顔まで浮かんだりしてさらに不快である)、別のことを書こう……。と言っても、楽しい話題じゃあないけれども。

◇◇◇◇◇

「不愉快な言葉」や「引っかかる言葉」は、たくさんある。世の中にはそれが満ち満ちていて、時折心が酸欠状態になりそうな気がしたりする(むろん逆の言葉、希望を感じさせてくれる言葉も多いのだが、最近ははもともと美しかったはずの言葉にまで泥を塗るようなヒトが多くて困る)。これまでも「嫌いな言葉」についていろいろ書き散らしてきた覚えがあるが、今日は日常会話の中で使われる言葉をひとつ取り上げてみる。

 たとえば「生活習慣病」。これも私としては非常に引っかかる言葉だ。もう何年も前から普通の言葉として定着しているふうで、私の母などでさえ「生活習慣病の予防」がどうのこうの――と、旬の野菜の話をするのと同じようなさらりとした口調で語る(もう、予防という段階ではないと思うが……)。

 だが私はいまだに違和感が拭えず、文字にする場合は「いわゆる生活習慣病」とか「生活習慣病と呼ばれる病気」という書き方をする。生活習慣病という言葉には、「アンタの生活習慣が悪いからだ」という価値判断が入っているからだ。

 以前は「成人病」と呼ばれていた。これも納得できる言葉とは言い難いが、まだマシだったと思う。この呼び方は、いったいいつ変わったんだっけ。正確なところは記憶に残っていないが、「自己責任」という言葉がじわじわと広がり始めた頃と軌を一にしていたような気がしてならない。

 そう言えば少し前に、「生活習慣病になったのは本人の責任。全然同情できない」という言葉を聞いたことがある。いや、政治家や有名人の「発言」ではない。私的な席で、何かのついでという感じでこんな発言が出たのを聞いたのだ。発言者は酔いに任せて、「そんな病気に健康保険を適用する必要はない」とまで言った。さすがに非難の声が上がり、本人も言い過ぎたと認めたけれども、「生活習慣病は本人の責任」あたりまでは同感に近い人もいたような感触を受けた。その時の何とも言えない不快さを、私は今も引きずっている。

 最近、メタボリック・シンドロームという言葉が広まっている。これも何だか「そうなったのは本人が悪い。もっと厳しく自己管理しろ」ふうな匂いがつきまとうが、職業性のストレスが多い人の場合、メタボは平均の2倍もに跳ね上がるという報告もあるのだ(医学関係の論文であるが、私は原文で読んだわけではなく引用を、それも翻訳されたものを見ただけだし、出典も忘れた。調べている時間がないので、すみません……。何せブログは私の覚え書きに過ぎないので。って、こればっかり言ってるな)。 

 ちなみにストレスの多い職業というのは、必ずしも「激務」とはイコールではない。むろん、残業に継ぐ残業でボロボロになったサラリーマンもストレスが多いことは確かだが(私は自分の親父が過労死した人間なので、この辺は自信持って言える)、労働時間が過剰でなくたってストレスの多い仕事はいくらでもある。正社員と同程度の責務を負わされながらも、報酬が低く、いつ契約を切られるかわからない不安に苛まれ、そして裁量権などほとんどないという派遣やパート・アルバイトの人達も、日々激しいストレスにさらされているのだ。

 話が混乱してきたが、生活習慣病だって――中には百も承知でわざと暴飲暴食続けたあげく、という人もいないとは言えないが――本人が好きこのんでなるわけではない。

 生活習慣病になるのも、リストラされるのも、子供抱えて路頭に迷うのも、過労死するのも自己責任。馬鹿言うんじゃないっ! この国はいつから、こんなうそ寒い国になったのだろう。「みんなで幸福になりたい」「ひとりでも不幸な仲間がいたら、辛くて耐えられない」という、生きとし生けるものの素朴な感覚を失ってしまったのだろう。いや、昔々っからそんなものは幻想だったのかも知れないけれど、人間には見果てぬ夢というものがあるはず。一歩でも近づきたい地平、というものがあるはずではないか。そんなものはないというのであれば、私は――人間をやめたい。やめて野良猫にでもなって、ムルと一緒に暮らしたい。


〈蛇足〉

 阿弥陀の本願に、たしか「すべての人が救われるまで、私は極楽浄土に行かない」というふうな言葉があった(原典調べて書いているわけではないので、言葉としてはかなり違っていると思う。私が受け取った感覚で書きなぐっているだけである。だから実際の文章と違っているなどのご指摘は御容赦願いたい。私は学者でも評論家でもないから、細かな字句は実のところどうだっていいのだ。いや、むろんきちっと書くときは、正確を期すべきだということぐらいはわかっているけれども、何せこれは寝言ふうのメモなので。正確な文章知りたい人は、個々にお調べくだされ)。

 私がごく若い頃に読んでひどく心に残り、何度も読み返した高橋和巳の『邪宗門』(これは既に絶版で、手元にもない。誰かが借りて行ってそのままなのだ。誰が持っていったかももう忘却の彼方だが、思い出したら返してくれ~)にも、同じような言葉があった。これは大本教をモデルにした小説なのだが、その教祖のお筆書きに、「すべての人が救われるまで……」という誓願があったのだ。 

 私はリッパな人間ではないから、とてものこと「すべての人が救われるまで」などと言う自信はない。無理矢理言えば自分自身のヘソが茶を沸かしそうになるが、最低これだけは言える。「私ひとりだけ、いい目を見るのは嫌だ。せめて、転んだ友人達の痛みを自分も分かち合い、彼らに手を延べて、一緒に歩いていきたい。たとえオロオロ、ウロウロとであろうとも」。



  
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「態度を養う」怖さ――外相を整えさせられまい

2007-01-16 23:32:47 | 本の話/言葉の問題

「教育再生会議」が、中間報告において「高校の社会奉仕活動必修化明記の方針を固めた」という。昨日それに関する記事を書いたところ、時々立ち寄ってコメントを残してくださるLooperさんが、またまたおもしろいコメントを書いて下さった。

【失笑改定教育基本法の『教育の目的』は、xxな「態度を養うこと」だそうですから、連中は、ボランティア精神の養成なんかどうだっていいのでしょう。腹の中じゃーどう思おうが、ともかく従順に「立ち回り」=「態度」を示す人を作ることが「教育の目的」なんですからね。】

 そう……「態度を養う」なのだ。改定教育基本法も、そして憲法改定案も、その基本は。「心を養う」でも、「精神を養う」でもなく。

 心にくびきは填められない、心に押しつけはきかない――ということを、彼らだって知っているのだ。だが同時に、彼らは知っている。「態度」ならば押しつけがきき、そして態度を枠にはめれば、いつの間にか心もそれに流されることを。利巧ですね、ほんとに感心する。

 何でも「形から入る」ということがある。理解できようとできまいと、疑問があろうとあるまいと、ともかくまずは形を整える。真似でもいいから形を整えているうちに、自然に中身もついていく、という考え方である。茶道や華道などは、その辺を非常に重視しているとも聞く(私はどちらとも無縁なので本当かどうか保証の限りではないが、やってる人間はそう言っている)。出家したときに頭を剃って墨染めの衣を着る、なんていうのも根底にそういう発想があるのかも知れない。髪なんざ剃ろうと剃るまいとシャカの思想を我がものとして生きるのに関係ないようなものだが、形を整えれば「否が応でもその気になる」ということだろう。

 そう言えば森田療法(Morita therapy)の創始者である森田正馬も、たしか「外相整えば内相おのずから熟す」とか言っていた(手元に本を開いていないので微妙に違っているかも知れないが、基本的なところは間違っていないはずだ)。少々無理をしても形を整えれば、気分もそれに引きずられていくということらしい。知り合いの精神科医は、ポツリと言った。「そりゃ僕も、朝起きたくないな、仕事行きたくないなーと思うことありますよ。でもね、無理矢理に起きてコーヒー飲んで着替えして、とにもかくにも家を出る。気が進まないときは、そうやって形を整えないと始まらないんですよね」

 心とか精神とかを我々は確固たるもののように思い、自分の砦として信じてもいる。一面では確かにそうなのだけれども、その半面でかなり脆弱な部分があるのも事実。 いや、むろん「そうじゃない」という人もおられるだろうが、少なくとも私は自分の「心」の脆弱さをしばしば感じる。たとえば知人の葬式に行けば――私は神も仏もあるか、天国も極楽もクソクラエという不遜な人間なのだけれども――仏教の葬式であれキリスト教の葬式であれ、少し厳粛な気分が全身に満ちあふれ、一瞬ではあっても「永遠」を信じそうになったりする。棺に花を捧げながら、「さようなら」と言っている自分に気付いたりする。

 いや、そこまで極端に非日常的な話でなくたっていい。つい先頃の「正月」には郷里から母親がお出ましになって、(かなり手抜きではあるが)おせち料理を作ってくれた。そのおせち料理を詰めた重箱を開け、何となくなつかしい田舎風の雑煮を食べると、我ながら不思議ではあるけれどにわかに正月気分になってしまった。形と言えば――私は普段は社会的立場も年齢もよくわからないジーンズ姿でうろついているけれども、重要な会議だの、冠婚葬祭の時などは(恥ずかしながら世間の常識に妥協して)一張羅のスーツに身を固める。そんな時、私は逆らっているつもりで実はけっこう形を重んじている自分を発見したりする……。

 態度は態度に過ぎない。だが、「面従腹背だよ。形だけ従ったふりしてりゃいいじゃん」というのは、あまりに楽天的すぎる。「外相」はいつのまにか「内相」を支配し、変容させるのだ。少しずつ少しずつ……あたかも滴る水が岩をうがつように少しずつ、だが一歩一歩確実に。おそらく70年ほど前の日本も、そうだったのだ。「うざったいなぁ。でもまあいいか、表向きだけそのふりしてよーか」という適当な気分で形だけ合わせているうちに、次第次第に心まで浸食されたのだ。

 重ねて言う……心というのは実はとても脆弱なものである。繊細であるがゆえに脆弱なのだ、と言ってもいい。熱く燃えていても、浸食してくるものに対しては弱い。いつのまにやら手足の先から染められてしまうのだ。

 だから私は今、「態度を養」おうとする動きに渾身で抵抗する。外相を整えさせられて、たまるもンか。

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子供へのプレゼントお勧め本・「いくじなし」になろう

2006-12-14 06:05:52 | 本の話/言葉の問題

 昨日は日帰り出張。深夜に東京に戻り、それから徹夜。寝たほうがいいとは思いつつ、寝ると起きられない気もしてそのまま覚醒状態を維持。何かしてなければ寝てしまいそうなので、またしても半端なメモを書く……。ああ恥ずかすぃ。

〈友人の子供へのプレゼントとして〉

 私は知人の家を訪問するとき、そこに子供がいる場合は手みやげ代わりに本を持っていくことが多い。もらった方が嬉しいかどうかは知らないが、まあ嫌なら古書店に売ってくれてもいいし(いつだったか『百万回生きた猫』を2度も持って行ってしまい、そこの子に、この間ももらったけど~と言われたこともある……こっちは記憶力の悪さを棚に上げ、じゃあ友達にあげりゃいいじゃん、とゴマカしておいた)。

 先日、友人の家に行ったときは、中学3年生の子供へのプレゼントとして、森毅著『まちがったっていいじゃないか』(ちくま文庫)を持参した。この本は中学生を主な対象として書かれたものである。表現は非常に平易で、小学生でも5~6年生ならば(早熟な子供ならば4年生ぐらいでも)楽に読める。ただ友人が長く海外生活をしていたせいで子供の日本語は日本で生まれ育った子に比べてやや劣る(海外生活中も両親がずっと日本語を教えていたから基本的な部分は遜色ないが、微妙なニュアンスが少し分かりづらいところがあるのだ)ので、まずはこのぐらいから読んでみて欲しいと思ったのだ。

『まちがったっていいじゃないか』は、繰り返して言うが難しい表現はひとつも使われていない。言葉の平易さの程度だけ見れば、「うっ、嘘だぁ、信じられない!」とdr.stoneflyさんが腰抜かしておられたような、文部科学大臣の手紙と大差ないようにさえ見えるほどだ。だが森氏の紡ぎ出す言葉と、文部科学大臣の言葉とは、天と地ほどの差がある。それはおそらく、「自分自身の奥底から迸ってくる、自分の言葉」で語っている森氏と、「秘書か誰かにアリバイ的なものを作らせた」大臣との違いだろう。この文庫本が刊行されたのはおよそ20年も前であるが、幸か不幸かその中に綴られた言葉は今も輝きを失っていない。

〈筋金入りの腰抜け〉

 私は森毅という人の「筋金入りの腰抜けぶり」が結構好きだ。数日前に講演会の要旨を記事にした辺見庸氏が「一途で激烈な抵抗精神の持ち主」であるならば、森氏は「ノラクラとしながらも決して屈さない反抗心の持ち主」である。私はマスコミの片隅で生息する者のひとりとして、私などが一生かかっても到達できない地平を獲得した偉大な先輩である辺見庸氏を限りなく尊敬している。こういう激しさを死ぬまで持ち続けたいと思う。彼のように権力と鋭く対峙し続けることができれば、本望であるとも思う。だがそれと同時に、時には肩の力を抜いて、直球以外の球を投げたがっている自分があることも知っている。おそらく私は、この二極の間を永遠に彷徨いつつ生を終えるのだろう。

 息せき切った自分に対して、時々「まあまあ、ちょっと落ち着いて座りなはれ。さぶなったなぁ、一杯どないや」と言ってくれる本は数多い。この森氏の著作などもそのひとつである。

 ランダムにではあるが、『まちがったっていいじゃないか』から幾つかの文章を紹介しよう。

【やさしさの時代、と言われてきた。そこに少し皮肉な響きのあることが気になる。なぜなら、そうしたなかから「りりしさ」を求める声が生まれやすいからだ。ぼくの子どもの時代、ヒットラーの少年たちが現れた。それは、澄んだ瞳の、りりしい少年たちだった。ファシストは、澄んだ瞳で現れる。戦後では、ファシストというとひどい悪人のように言われていたが、そうではない。大部分は、むしろ「いい子」だからファシストになった。そうした純真な子どもたちをだましたので、悪いおとなのファシストかというと、それも大部分は人のいいおじさんたちだった。善人がファシストになること、それがファシズムというものだ】

【やさしさの世界よりも、ひとつの方向へ向けていさぎよく歩み出す、りりしさというのはかえって進みやすい。最初の歩みに勇気がいりそうだが、「勇気」ということばがの感覚さえが、歩みへの力になる。それに比べれば、やさしさの世界で暮らし続けるのは、むしろ気の張ることだ。(中略)それよりは、りりしさに憧れて、ひとつの方向に飛び立つ方がさっぱりしている。(中略)しかし、いまの時代、りりしさへ向けてとびたつのだけは抑えてほしい。やさしさの世界に生き続けることのほうが、大切なのである。そして、辛抱づよさのいることなのである。その辛抱がなくなったときに、ファシズムはやってくる】

【ぼくが戦争ぎらいなのは、自分が弱虫だったからかもしいれない。しかし、理屈をこえて戦争ぎらいだったような気がする。理屈の上での反戦よりは、こうした体質的なもののほうが根深い。それで、戦争というものよりも、戦争をする集団としての軍隊がなによりもきらいだった。これは体質的なものだから、国籍やイデオロギーを問わない】(注)

注/私も理屈や理論より、感性や体質のほうを重視する人間である。そのあたりはいずれまた書き留めておこうと思う。余談失礼。

【「正義の戦争」「正義の軍隊」もある、という考え方がありうる。たしかに、それはある。しかし歴史を少ししらべれば、たいていの戦争にはいくらかは「正義の戦争」であり、たいていの軍隊はいくらかは「正義の軍隊」であったことがわかる。歴史というのは、こうしたことを知るためにある。そして、もっとも暴力的だったのは、「正義」の名においてそれがおこなわれるときだった、ということもわかる】

【暴力にとっては、正義はいらない。むしろ害になる。最大の暴力としての、戦争だってそうだ。「聖戦」なんかより、ヤクザの縄張り争いのほうが、ずっと気持ちよい】

【ぼくの実感からすると、民主主義とはなまいきになることだ。(中略)身分の秩序をこえて誰もがなまいきになれること、それが民主主義だと思う。下級生のくせに上級生に文句を言うのではなくて、下級生だからこそ、その立場で上級生に文句が言えるのだ。(中略)人間は、どんな身分でも、どんな立場でも、自分の意見を述べる権利があり、自分を律する責任を持っている。それが民主ということだ。それを否定するものは、なんらかの形で差別になる。(中略)そうした民主を抑圧するものが、「なまいき」という表現である】

〈再度――たったひとりの「いくじなし宣言」〉

 さっと読まれて、皆さんいかがですか。私は(むろん人間はひとりひとり違うので、100%ではありませんけれども)根っこの部分で共感できるところが多かった。あ、同じような感性――という共鳴。

 先述のように難しい表現や専門用語はひとつもないから、小学校高学年程度の日本語力で充分に読める。子供への手軽なプレゼントに最適な本、のひとつでしはあるまいか(文庫本だから廉価だし)。皆さん、今年の子供さんたちへのクリスマス・プレゼントに(安っぽすぎるというのであれば、プレゼントの「おまけ」に)いかがです。むろんこれは子供だけでなく、高校生や大学生、さらには社会に出たオトナにも読んで欲しいと私は思う。平易な表現で何処まで深遠なことを伝えられるか、という手探りのためにも。

 ところで――さきほどちょっと言ったが、私は自分がきわめつけの腰抜け(まだ筋金入りの、でないところが情けない。そのうち筋金入りになりたい)であるせいか、森氏の腰抜けぶりにある種の憧憬を抱いてもいる。で、以前「ご一緒に『いくじなし宣言』しませんか」という駄文を書いた。今でもこの思いは続いている。ちなみに私はいくじなしだから(笑)、そういう同盟を立ち上げる気概も気力もありませんが。

 嗚呼、同志よ、未生の夢と現世の汚辱と来世の愛を共有した同志たちよ。いくじなしによる、いくじなしのための革命を。世界中のすべての「いくじなし」が、恥辱にまみれたままで煉獄に呻吟せずにすむ社会を。

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奪われた言葉たち

2006-11-06 23:50:26 | 本の話/言葉の問題

〈言葉が食い荒らされている!〉

 昨日、辺見庸の『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社刊)を読んだ。辺見庸は2004年3月に脳卒中で倒れ、その後ガンも発見されて闘病中。「気まぐれな執筆もテーマのほしいままの選択ももはや許されないという気分になり、〈いつか〉を〈今すぐ〉に前倒ししなければならない、という衝迫にかられた」と著者は言う。同じ思いで書かれたものとして『自分自身への審問』(刊行は同じ)という本もあり、どちらもこれだけは言っておかねばという激しい思いと共に吐き出された言葉・言葉・言葉が読み手に息苦しいほどに迫ってくる。まだ読まれていない方にはぜひ一読をお勧めする。

  この本の紹介をしようかと思ったのだが、軽々しく感想めいたことなど書けないという気もして、茫然と立ち尽くしてしまう。今夜はひとまず、後書きを読みつつ思い至ったことなどを書いておきたい。

『いまここの在ることの恥』の後書きに、次のような一文がある。

【能弁はこの際、はなはだ怪しいこと。訥言はいっそ安心できるけれども、訥言を装った性根の腐った能弁だって大いにありえること。とりわけ、資本がほとんどの言葉を食いあらし、言葉とは資本の領地のお飾りどころか、言葉がそのまま資本と化する、この貧しい時代にあっては】

 辺見庸が語ることとはニュアンスが違うかも知れないが、私はいつも「自分達の言葉が食い荒らされている」「言葉が奪われている」という思い(恐怖)を抱き続けている。実は昨日、人と会った時にも「私達は言葉を奪われているのだ」という話が出たような記憶もある。……

 私はさほど敏感な人間ではないけれども、「言葉」にはかなり神経が尖る。言葉に敏感でありたいと思っている、と言った方がいいかも知れない。で、表現とか言葉とかいうものについて、何度かこのブログでもウダウダと寝言を書いてきた。たとえば「平易な表現ということ」「平易な表現には品性が露出する」等々。平易な表現というものについこだわる理由はこれらの記事の中に書いたけれども、ほかにもひとつ、「観念的な言葉」「重みを持った(はずの)言葉」が、いつのまにか奪われていると感じているのも理由であるかも知れない。

〈言葉が成り下がっていくさまは、あまりに悲しい〉 

 思えば、本来は「珠玉のよう」であったはずの言葉がひとつ、またひとつ、食い荒らされ、傷つけられ、泥まみれにされて卑しげに成り下がった。手垢にまみれた――などという言い方では、まだなまぬるい。

 たとえば「志」、たとえば「愛」。たとえば「品格」、「尊厳」、「自立」、「共生」、「アイデンティティー」、「社会参加」……。昨日のエントリでちょっと触れた「選択の自由」も、しかり。(しつこいようだが……少し前に記事に書いていろいろ批判を受けた「自己実現」などもしかり、かな。笑)

 少し前に、私がその感性に瞠目するブロガーのひとりであるぷらさんが、「愛と美しいの連発にはご用心!」という記事を書いておられた。そう、多分私のように独りよがりなストレートを投げるよりも、こういう表現をした方がわかりやすいのだ(反省)。「愛」と「美しい」だけではない。すべて、かつては限りなくうつくしく、人の心を打った言葉たちが、目を覆うばかりに薄っぺらいものに成り下がった。仲間を出し抜いてちょっといい目をみるのが志であったり、弱者を石もて追う時の武器が自立という言葉であったり、幻の国家に身をくねらせてすり寄るのがアイデンティティーであったり……。

 別に一日中、テレビの前に座っていたり、週刊誌の三文情報を読みあさらなくたっていい、ちょっと街を歩けばそこかしこに食い荒らされた言葉が満ちている。駅に貼られたポスターに、駅前で配られるティッシュに、マンション分譲中の看板に。時給数百円のアルバイト募集のチラシに「自己実現」や「社会参加」などの言葉が踊るに至っては、ほとんど涙が出る。以前は、自分が妙なところで過敏なのかと思っていた。だが最近は、そうではないと確信している。私達の言葉は――強姦され、売られたのだ。たとえば選択の自由という言葉が台所の隅にまで転がり、食事の後でコーヒーにするか紅茶にするかといったどうでもいいことにまで使われるようになれば、誰が真面目に選択の自由という問題を突き詰めて考えるだろう。

〈言葉は奪い返せるか〉

 うつくしかったはずの言葉が軽く軽くなっていくことに私はほとほと嫌気がさし、随分前に「言葉を奪い返そう」という記事を書いたこともある。だがここへ来て、奪い返すなど無理ではないか、という絶望感にほとんど目眩を感じてもいるのだ。ひとは言葉を使ってものを考える。だから言葉を支配するというのは、ひとの思考を支配することでもある。ここ10年か20年か知らないが、ともあれ何年かの間に言葉は虚仮にされ続けてきた。いったん虚仮にされた言葉が、再びその命と重みを取り戻すことが出来るのだろうか。

 取り戻せるはずだという思いと、不可能に近いという思いの間で、私は揺れ続けている。むろん「不可能な場合」でも、抵抗の方法がないわけではない。奪われた言葉ではない、別の言葉を次々と創出していけばよいのだけれども。

 ただ、私達は「言葉を奪われる」ことにこれからも一層敏感でありたいと思う。言葉の怖さを軽視した者は、それによって復讐される。 

  

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「自分探し」と「自己実現」を嫌悪する(2)

2006-10-30 23:54:28 | 本の話/言葉の問題

 数日前に「自分探しと自己実現を嫌悪する」という記事を書いた(この日はエントリが2つあり、同記事は下の方)。この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。

〈(2)へ向けての序〉

 この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。

 今日はその異論を紹介しながら、もう1度私の考え方を整理してみたい。ただ、私がいったい何を書いたのかわからないと、多分話がよく見えないだろう。でも普通は「いちいち前の記事なんか読んでられるか、面倒臭い!」になるはずなので、記事の一部をコピーしておく。

《「自分探し」や「自己実現」。私はこの言葉を聞くたびに、嘘くささと嫌らしさを感じて鳥肌が立つ。自分探し? 探さないとみつからないなんてわけ、ないだろ。自分は今ここに、厳然と存在しているのだから。そして逆の言い方をすれば、「私は何ものであるか」「何のために生まれ、そして生きているのか」などという根源的な問いに対する答えなど、簡単に見つかるとはとても思えない。私も考えてみれば結構な年月生きてきたけれども、いまだに「自分という存在(と、その意味)」はよくわからないままだ。おそらく、死ぬまでわからないだろう。問うことそのものが、生きるということであるのかも知れない。(中略)自己実現」も同じことだ。私がいま、ここにある。私は私以外の何者でもない。それが即、自己の実現であり、日々生活し、自分の頭でモノを考えていくほかに自己を実現する方法はないはずなのに、なぜ蜃気楼を求めねばならないのか。》

〈「自分」は探せば見つかるのか〉

 以下、紹介するコメントも、途中を略してある。全文お読みになりたい場合は、10月25日のエントリのコメント欄を見てください)

【>いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分なのだ     まことにごもっともなんですけれど、(中略)いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分だと腑に落ちていない自分。そんな自分は、自分探しをするほかありません。そうせずにはいられないのではないでしょうか? それがたとえ嘘であっても、自分が空っぽであることを誤魔化すために塗り固めなければならない、自分。自分探しがダメなら、空虚な自分は誤魔化しようがなくなります。(中略)

>「庶民」の足腰が弱まりつつある     のはその通りでしょう。庶民が庶民いられる共同体が破壊され、人は孤独を強いられるようになってきています。人はそんなに強くありません。強くなるとすると、それは自分探しの旅路の中でです。(以下略)】(愚樵さん) 
 
【ここでは一刀両断の下に斬られた「自分探し」。 しかし、私は好きですね「自分探し」。 いえね。この歳になると「生きることと死ぬこと」がギリギリの接点でせめぎ合う時を肌で感じるのです。 そんな時ふと思うのです。 「人間ってなんだろう???
生きるとは何か? そして、今ここにいる自分とは何か」って。 そうしたら矢張り自分探しをするのです。 簡単に手放せない自分ってものと対峙します。(中略)  人は死ぬまで自分のことは分からない。 釈迦は分からないことは考えるな、討論するなと言われました。 が、釈迦でない私は迷うし、たゆたう。 そしてこんな自分が好きだと受け入れるために浅知恵でのたうちまわりながら自分を探している者がいるということも、どうぞお知りおきください。 】(せとともこさん

 う~ん。お二人の意見は、わかる気がする。確かにそうかも知れないと思う(私はひとの意見を聞くと、結構そうだなあと頷いてしまう人間なのだ)。おそらく私達は、 
死ぬまで見つからないとわかりつつも、 「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」「自分に生きる意味はあるのか」という問いを続けているのだろう。言葉を変えれば、探し続けなければいられないのだろう。

 だが、それは「自分探し」ではない――と私は思う。少なくとも、世の中で広く言われている類のものではない。「本当の自分」というものが何処かにあるから探しましょう、見つかったらおめでとう、というものではあるまいと思ってしまうのだ。

「今ここに存在している自分が、掛け値無しの自分」と私は書いた。とは言え、その存在が腑に落ちているわけでもない。違和感もあり、これが自分かよと情けない思いもある。しかしそれでもなお、「今ここに存在している自分」と向き合い、付き合ってやる以外、荒野を旅する旅も始まらないのである。影法師を無くしたり探したりすることはできないように、私達は「今ここにある自分」以外の自分を探し出すことはできないのだ。そして「今ここにある自分」が自分であると思うからこそ、「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」等々の問いも命を持つのではないだろうか。

〈不安を煽るかけ声〉

「自分探し」と並んで――というより、自分探し以上に嫌いなのが「自己実現」である。自己実現という「言葉」自体には、何の色も着いていない。プラス・マイナスどちらの意味もない、と言ってもよい。その点を取り上げたコメントもあった。

【これは言葉の定義の問題だと考えています。】 (村野瀬玲奈さん)

 村野瀬さんはいつも私の記事の不備を補うコメントを書いて下さったり、貴重な情報を教えて下さる方である。本当に感謝しているのだが、今回のコメントだけは頷けなかった。むろん、言葉というものは――特に抽象的なそれは、人によって定義やイメージがかなり違う。たとえば「焼きサンマ」と聞けば人によって思い浮かべるイメージは少しずつズレるだろうが、まるきり違うということは多分ない。「君が代」と聞けば、誰でもあの歌を思い浮かべるはずだ(好き嫌いなど、対象に抱く感情は別)。 だが、「愛」「信仰」「労働」といった抽象的な言葉は、人によっては天と地ほど違っていたりするのだ。

 だが、私が前回の記事で書きたかったのは、定義の問題とはあまり関係ない話である。「自己実現」という「言葉」には罪?はない。私もこの言葉自体が嫌いなわけではない。ただ、世の中で声を揃えて叫ばれる「自己実現」が、そして自己実現、自己実現と煽り立てる風潮が何ともおぞましいのだ。

 自己実現という言葉がこんなに広く使われるようになったのは、いつ頃だろう。少なくとも私の子供の頃は、日常的に使われる言葉ではなかった。学生の頃はどうだっろう? 時には使われていたかも知れないが、今ほど氾濫していなかったのは確かである。いつの間にか巷に溢れ、学校にも職場にも家庭にもテレビの画面にも溢れ、公園のベンチの隅やダイニング・テーブルの上やベッドの中にまで転がっているような感じになった。それにつれて軽く薄っぺらくなり、ほんの少し努力すれば誰でも出来る、出来なければおかしいもののようになった。そして、人を「自分は自己実現できていないのではないか」という不安に陥れる。不安に陥った人間は、何らかの「具体的な依りどころ」を示したい者達の格好の餌食になるのだが。

 最後にしつこく、前回も書いた文を繰り返しておこう……。 

《自分探しをしようよ、自己実現しようよ、と煽る根底には、「勝ち組/負け組」などという不潔な言葉でひとを選別するのと同じ思想が流れている。首尾良く自分をみつけられたら勝ち、自己実現できたら勝ち。これは露骨な競争である。 》

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「自分探し」と「自己実現」を嫌悪する

2006-10-25 01:18:49 | 本の話/言葉の問題

〈長い前書き――ブログを読む楽しみ〉

 何かを読むことの楽しさのひとつは、自分の頭(?)が刺激を受けることだ。自分の中でボンヤリとではあれ「考えてみる」課題が増えたり、新しい視点や道筋のたどり方に気付いたり……。読む対象は、以前はほとんど「本」だった。私はインターネットを比較的早く利用し始めた方で、さまざまなサイトを開いて読む習慣は結構長いのだが、最近まではネットは単なる情報源という意味合いが強かった。仕事の必要性から始めたため、そうなったのかも知れない。

 だが去年自分でブログなるものを始め、少しずつTBを送ったり送られたりするようになってから、本のほかにブログを読む楽しみも増えた。ひとのブログを読んでいると、「ああ、こういう問題があったのか」「こんな見方(や感覚など)もあるのか」等々、刺激になること夥しい。

 で、刺激されると私の中で自然とスイッチが入り、同じ問題、あるいは関連した問題をボーッと考え始める。今頭の中で渦巻いているのは、とむ丸さんの「『自分探し』雑感」を読んで引き出されたことども。忘れないうちに、それを簡単にメモ書きしておこう。

〈気持ちの悪い言葉たち〉

 私は嫌いなものの多い人間である。国旗・国歌も(何処の国のものであっても)嫌いだし、制服も嫌いだし(※1)、勇ましい言葉やマッチズモも嫌いだし、上から目線でモノ言う奴も嫌いだし、想像力の乏しい奴も嫌いだし、変にこまっしゃくれた子供も嫌いだし、松下政経塾も嫌いだし、……むろん戦争も人殺しも嫌いだ。ついでに言うと納豆とゲテモノ、そして亀の子記号も(これは私が化学が完璧に苦手だったせいもあるが……)嫌いである。

(※1余談的注=私はこの年になるまで君が代を歌ったことはない。制服も――実を言うと学生時代のバイトで制服?というかお仕着せを着せられたことがあるが、その時以外には着たことはない。君が代を歌わずにすみ、制服を着ずにすむ所を選んで生きてきたのだ。ささやかで、ある意味つまらない意地の張り方かも知れないけれども)

 その山ほどある「嫌いなもの」のひとつが、「自分探し」および「自己実現」という言葉だ。もともと私は「綺麗に聞こえる言葉」が気持ち悪く、かつ大っ嫌いである(※2)。キンキラキンの衣装に身を固めて厚化粧し、そのくせ相手を値踏みするような冷たい眼をした「美人」に、流し目されたみたいでゾッとする。「大義」しかり「命を賭ける」しかり「無私の愛」しかり、そして「愛国心」しかり、「美しい国」しかり。

(※2余談的注=これは単なる性癖なのだけれども、私は言葉というものに妙なこだわりを持っている。そのこだわりについては何度か書いてきた。たとえば「言葉を奪い返そう」など)

〈私とは何か?は生涯の課題〉

 そして……「自分探し」や「自己実現」。私はこの言葉を聞くたびに、嘘くささと嫌らしさを感じて鳥肌が立つ。自分探し? 探さないとみつからないなんてわけ、ないだろ。自分は今ここに、厳然と存在しているのだから。

 そして逆の言い方をすれば、「私は何ものであるか」「何のために生まれ、そして生きているのか」などという根源的な問いに対する答えなど、簡単に見つかるとはとても思えない。私も考えてみれば結構な年月生きてきたけれども、いまだに「自分という存在(と、その意味)」はよくわからないままだ。おそらく、死ぬまでわからないだろう。問うことそのものが、生きるということであるのかも知れない。

 私とは――人間とは何か、というのはヒトが生涯を費やして答えていく課題であるにもかかわらず、少しばかりの努力をすれば簡単に解答が得られるように見せかけている、そのこと自体に私は限りなく危うさを感じる。

「自己実現」も同じことだ。私がいま、ここにある。私は私以外の何者でもない。それが即、自己の実現であり、日々生活し、自分の頭でモノを考えていくほかに自己を実現する方法はないはずなのに、なぜ蜃気楼を求めねばならないのか。

〈煽る言葉に踊らされるな〉

 いや、求めているのではあるまい。求めさせられているのだ。本当の自分というものが何処かに存在し、それを見付けられないのはアホだと言わんばかりの風潮。自己実現なるものが存在し、それをするのがスバラシイことであると煽り立てる風潮。

 私は自分探しにも自己実現にも縁のない人間だが、それゆえに断言できる。「自分探し」や「自己実現」なんて何の値打ちもない。そんな言葉に踊らされるのはもうやめようよ、と。自分探しをしようよ、自己実現しようよ、と煽る根底には、「勝ち組/負け組」などという不潔な言葉でひとを選別するのと同じ思想が流れている。首尾良く自分をみつけられたら勝ち、自己実現できたら勝ち。これは露骨な競争である。

 少し話が逸れるが、私は「オリジナリテイー」だの「アイデンティティー」などという言葉も好きではない。少なくとも私の場合に限って言えば――「そんなもん、あるかよ」である。自分がもう少し優秀な人間であったならそれらにこだわったかも知れないが、私は自分がその他大勢、ひと山いくらの人間だということぐらいは知っている。私の考えることも思いつくことも、別段、驚天動地のものではない。大勢の人が、同じようなことを考え、思いつくはずだ。

 それに(同じことを多くの人が知っている・考えている・分析している……etc)耐えられない場合、ひとは「自分探し」や「自己実現」の幻想にしがみつくのだろう。他人とは違うことを言いたい&やりたい、他人よりも何メートルか先を走りたい、拍手喝采されたい。……そういう渇きと喘ぎが、自分探しなる言葉に煽られる。

〈「約束の地」は存在しない〉

 いまここに存在する自分は、本当の自分ではない。本当の自分はもっと生き生きとして、自分の能力を最大限に発揮しているはずだ。何処かに「約束の地」があるはずだ。――そういった幻想を利用して「おまえは特別」「おまえは選ばれた民」と囁き、脆い自尊心をくすぐる者達がいる。

 いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分なのだ。自尊心なんか無ぇ、その他大勢のいくじなしで結構だ、他者から保証される約束の地なんか関係ねぇ――いうある種の開き直りなしでは、世の中は変わらないかも知れない。

「自分探し」等々、類似の言葉の氾濫の中で、私は「庶民」の足腰が弱まりつつあることをひしひしと感じる。あるいは「弱められつつあることを……」と言うべきか。

(疲れているので今日はここまで。機会があれば後日また、ボンヤリ考えたことの続きをメモすることにしたい)   

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「美しい日本語」を殺すな――上滑りな言葉たち(2)

2006-10-07 00:28:25 | 本の話/言葉の問題

 つい今し方、帰宅したばかりである(遊んでいたわけではない。近県に日帰り出張していたのだ。食い扶持を稼ぐというのは、まことにしんどいことだ)。「美しい日本語を殺すな」問題の続きを考えてみようと思ったが、忘れないうちに整理しておくべきものもあるし、頭も疲れていることだし、今夜は幕間という感じで簡単に思いつくままに書き留めておく。 内容的に(1)とかなり重複するかも知れないが、自分のためのメモということで……ま、いいか。

 世の中には、取り扱いに注意を要するものがたくさんある。……と言えばすぐ思いつくのは火薬だの銃器だのといった「危険物」だが、言葉もある意味で、いい加減に取り扱ってはいけないもののひとつだ。(私自身の感覚の中では、最も危険なものであったりする)

  以前、「愛国心はなぜ危険か」という記事を書いた。私はそこで愛国心とは「自らが帰属している(あるいは帰属していると考える)国」に対して、それを特別なものとして思い入れを持つこと。その思い入れの中身は「愛着心」と「忠誠心」の2種類がある」と定義し、問題は後者だと書いた。ついでに忠誠心に関する部分を引用しておくと――

【忠誠心というのは相手が何ものであれ、その相手だけに捧げられる(あなただけを愛する、というやつだ)。そして、忠誠を誓った相手のために、彼の敵を滅ぼすことに情熱を燃やす。忠誠心は一面美しいものであるらしく、王に忠誠を誓ったり、帰属集団に忠誠を誓って華々しく戦いそして死んでいった英雄達の物語は世界中に枚挙のいとまもないが、一歩下がって見てみれば「何だそれ」でしかない。忠誠心に燃えた人間達同士が殺し合って、いったい何してるんだ。いや、本気で忠誠心に燃えている人はいいとしても、巻き込まれて犬死にしたり家を焼かれた人間はどうなるんですか。】

 今でもむろんその定義づけなどは変わっていないが、言葉というものを考えているうちに、「愛というのは危険な言葉だな」とふと思った。1か月ほど前になるか、doll and peaceぷらさんが「『愛』と『美しい』の連発にご用心!」という記事を書いておられたのを思い出す。

 そう、「愛」も「美しい」も非常に危険な言葉だ。

 そもそも観念的な言葉というのは、常に危険なものである。なぜなら具体的なもの(いわゆる物質、だけではない)を指す言葉と違って、人それぞれで抱いているイメージや解釈が違うからだ。むろん、具体的なものを指す言葉であっても受け取り手の頭に浮かぶものが100%同じであるとは言えないが、観念的な言葉に比べればはるかに共有部分が大きい。

 そしておそらく――人間の精神的ないとなみと深くかかわり、解釈が個々人に任され、詭弁を弄する余地も多分にあり――すなわち極度の危うさと共に存在しているものであるがゆえに、かえってその言葉には「プラス・マイナス」の価値判断がつきまとう。それはあるいは、観念語を発見?した時の人間のおそれに由来しているのかも知れない。

 逆に「富士山」「学校」「猫」「携帯電話」「大江健三郎の『死者の奢り』」「本を読む」「コーヒーを飲む」……何でもいいけれども、すぐに具体的なものが浮かぶ言葉については、少なくてもそれ自体には価値判断はそれほどつきまとわない。

「愛する」や「美しい」のほか、「やさしさ」「思いやり」「希望」「恩寵」などなどの言葉は、圧倒的なプラス・イメージをもって私達に迫る。問答無用の感じ、と言ってもいい。だがそこにこそ、毒蛇のような危険性が潜んでもいるのだ。片思いの女に無理心中を迫った男は「愛していたから」と叫ぶ。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の女主人公は、ヨカナーンへの愛ゆえに彼の生首を望んだ。

 国を愛すると言い、美しい国と言う時、人々の心の底に去来するものはおそらく想像を絶するほどに千差万別であるはずだ。そのことをよく知った上で、あえてシレッとした顔で観念語を使う政治家を、私は信用することはできない。  

 最近、悲しいことに「美しい」という形容詞にあまり積極的なプラス・イメージを持てなくなっている。むろん、安倍総理のおかげである……。

 

 

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「美しい日本語」を殺すな――上滑りな言葉たち(1)

2006-10-05 23:06:44 | 本の話/言葉の問題
〈日本語の乱れ?〉

 このエントリの「序」(10月1日)で、私は次のように書いた。

【私が言葉に妙ちきりんなほどこだわりを持つのは、粗雑な言葉は――線路に置かれた石や道の真ん中の水たまりや、カメラのレンズにべったりついた指紋や、口に入れた途端にジャリッというアサリの砂のように――私が凝縮しようとしている世界にヒビを入れ、モノを考えようとする時の邪魔をするからである。最近はその粗雑な言葉が世の中を席捲し、私の神経をささくれ立たせる。】

 日本語が乱れている!!と怒る人はけっこういる。書店に行けば、その手の本が何冊もある。それはまあ、私もイイ年の大人が(生真面目な顔で)「僕のお父さんに聞いたところでは」などと言うのを聞くと何となく違和感があるし、ファミレスで食事して「1000円からお預かりします」と言われれば「1000円以下、780円ぴったしじゃ預かってくんないの?」と茶々を入れたくなったりはするが、そんなのはまあ、ご愛敬の部類であろう。洋の東西を問わずはるか昔から、「最近は言葉が乱れている」と嘆く人は多かったそうだ。言葉というのは変容していくものだし、いつの時代にもスラングが生まれては消えていき、その一部、組み入れられるべき理由や事情のあった言葉はスタンダードな言語体系に組み入れられていって、やがて多くの人々に共有される。それでいいじゃないか、と私は思っているのだ。

 だが、粗雑で上滑りな言葉だけは私は我慢できない。

〈創りあげたい国……ですか〉

「粗雑で上滑りな言葉」の代表は、最近(と言っていいだろうか? もしかすると最近というくくり方からはみ出すかも知れない)の「世の中をリードする人々」(言わずもがなであるが、カッコをつけたことに意味がある)の言葉、言葉、言葉である。ひたすら綺麗で、ひたすらポジティブで……そして中身を感じさせない。その代表の代表と言うべきなのが、政治家達の言葉。

 自民党・安倍新総裁のポスターが発表された。大きくひとこと、「創りあげたい 日本がある。」。素朴な眼で眺めてみると、何を言っているのかサッパリわからない。民主党だって社民党だって共産党だって、その他の党だって……「こんな国を創りたい」という理想があるはず。安倍さんの顔を小沢さんに変えれば、民主党のポスターとしても違和感なく通用する。

 でもこれはまあ、いいでしょう。キャッチフレーズだから。キャッチにしても本当はもう少し中身を垣間見せるものの方がよいのだが……。

〈イメージの湧かない言葉たち〉

 安倍総理は総裁選立候補にあたって、目指すべき国のあり方として次の4つを示した(当然、安倍政権はこれを目指して稼働したわけで、この4つの条件を満たす国を創りたいというわけだ)。
(1)文化、伝統、自然、歴史を大切にする国 
(2)「自由」と「規律」を知る、凛(りん)とした国 
(3)未来に向かって成長するエネルギーを持ち続ける国 
(4)世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国

 どうですか、この言葉だけで何か具体的なイメージが湧きますか。私はまったく湧きません。初対面で思想信条などがよくわからない人に「自分はこんな国がいいと思っているんです」と言われたら、「あ、そう。結構ですネ」と返事するだけだ。諸手を挙げて賛成、というわけではない。たとえばリーダーシップという言葉。私などは、世界の中でそんなもの発揮しなくてもいいじゃないか――と思う方なので、「?」を感じる。でもまあ、字面だけ見れば「いいんじゃないですか、これも」になるのだ。

〈心地よさの魔力〉

 ポジティブなイメージのある言葉を羅列されると、私達はつい「いいんじゃない?」と思ってしまう。
 たとえば「自分の言動には責任を持とう」――はい、そうですね。「自然を守ろう」――おっしゃる通りです。「お年寄りは大切に」――いいことですね。「夢」「希望」「未来」「信頼」「可能性」etc――はい、私だってそういう言葉に触れるとワクワクします。ムードに流されるというか、何となく醸し出される「心地よさ」に軽く酔うのですね。

 だが、巷に流れるはやり歌や映画の宣伝キャッチならムード・オンリーでもいいが、理念はそれでは困る。「何となくいいことを言っている」という雰囲気だけが蔓延するのが私は恐ろしい(もちろん自民党のサイトを見るなり安倍総理の発言に気を配るなどしていれば中身はわかるのだが、みんな日々の生活で忙しいのである。なかなか情報を丹念に集めてなどいられない)。

〈美人のイメージは人それぞれであるように〉

「美しいなどという形容詞で片付けてはいけません、どんなふうに美しいのか書きなさい、と小学校の時の作文指導で教わらなかったっけ?」と、誰かがブログで書かれていたような気がする(すみません、どなただったか忘れました)。

 そう……たとえば美人について書くときに、美しいという形容詞を一言も使わずに、読み手(聞き手)のなかにありありと美しい姿を再現させるのが表現力、なのだと私も教わった。たとえば「うちのお母さんはとっても美人なんだ~」と言われても、どんな顔なのかさっぱりわからない。人それぞれに何とかイメージを浮かべようとするだろうが、100人いれば100人、微妙に――場合によってはかなり大幅に違うはずだ。   

「美しい国」にせよ「凛とした国」にせよ、この言葉だけ示せば、人によって思い描くものは随分と違うだろう。「自由と規律」についても、安倍総理や我らが都知事は規律は「学校の式典では必ず国旗を掲げ、起立して国歌斉唱することによって」保たれると思っているようだが、「国旗掲揚・国歌斉唱する自由もあれば、しない自由もある。お互いを認め合うことで規律が生まれる」と考える人もいるだろう。

 どんなふうにでも解釈できる、ある意味で曖昧な言葉(どんな言葉も解釈は人によってグラデーションがあるので、解釈の幅の大きい、と言った方がよいかも知れない)、しかも雰囲気だけは綺麗な言葉をばらまくのは、やめて欲しいと私は切実に思う。

 次は、「おかしな言葉」や「品のない言葉」などについても考えてみたい。

――続く――

〈お断り〉
 この記事を読んで「左翼だって(または○○党だって、どこそこの国のトップだって)中身のない言葉をしゃべっている(またはしゃべったことがある)じゃないか。たとえば……」といった場違いな突っ込みはお断りします。むろん批判を受け付けないわけではありません。批判をくださる場合にはあくまでも記事の主旨や中身に沿ってお願いします。さもないと収拾つかなくなりますから。私はここでは、あくまでも「安倍総理の言葉」を取り上げているのです。安倍総理の言葉が中身がないとは思わないとか、具体的なイメージの湧かない言葉の方が良質である、というご意見でしたらどうぞ。ただしなぜそう思うかという説明なしで、「私は安倍さんの言葉、好きですよ。いいんじゃない?」のようなコメントの投げ込みは困ります。昨日のブログで書いた言葉を、もう1度繰り返しておきます。

【来られる方はもう「いつでも、どなたでも歓迎」というのが私の基本姿勢であるけれども、殴り込みを掛けているのか、コミュニケーションを求めているのかは、はっきりさせていただきたい。それによってこちらも挨拶のしようが違います。】


 
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「美しい日本語」を殺すな――上滑りな言葉たち(序)

2006-10-01 23:04:49 | 本の話/言葉の問題


〈ものを考えるときのスタイル〉

 皆さんは、何をしながらものを考えますか。いや、むろん「ものを考えるときはじっと座って宙を睨んで」という人もおられるだろうが、沈思黙考型は意外に少ないのではないか。少なくとも私の周囲にはあまりおらず、たいていは「何かしながら」である。数から言えば「散歩しながら考える」という人間と、「手を動かしながら考える」という人間が多い(要するに足か手かどちらかを動かしている、ということだな)。後者はたとえば、楽器をいじりながらとか、細工物をしながらとか、いたずら描きをしながらとか。変わったところでは、ジクソーパズルをしながらとか。ひとり、皿洗いしながら考えるのがベスト――というのもいる(ちなみにその友人は、うちに遊びに来ると必ず食器を全部洗ってくれる。なかなか便利な習性である)。あ、「ハサミでその辺の紙を細かく切りながら」というのもいた。これはあまり他人にとって役に立たない。

 どうやら端座して(座禅組んで、でもいいですが)よりも、何かをしながらの方がモノは考えやすいのかも知れない。よほど「モノを考える」ことが身についている人以外は、何かしらBGMかお囃子、と言うか空気の揺れ動きがあった方が頭が解き放たれるのだろう。

 私の場合、仕事上の資料をどんなふうに整理しようかとか、気の重い手紙にどう返事しようか等々、主題?が明確で目的や到達点がほぼ見えている時は「歩きながら」が多い。散歩もするし(ちなみに真夜中の散歩が趣味でもある)、狭い家の中を動物園の檻に入った動物みたいにぐるぐる歩き回ることもある。だが、何かを漠然と考え、思考をあちこちに飛ばすには、「字を読む」のが一番だ。


〈文字と私〉

 私は本を読むのが好きで――というより字を読むのが好きで、コーヒーでも飲みながら何か読んでいれば幸せ気分になる型の人間である(内容を理解できたかどうか、きちんと頭に入ったかどうかは別の話。わかっていない方が多いかも知れない。まあ、一種の病気です)。ほかにやることがない時に手元に読むものがない事態に耐えられず、そんな時は近くにあるものを手当たり次第読んでしまう。誰かが置き忘れたらしい週刊誌や新聞、などは序の口。先日は病院の待合室で読むものが切れ、気がつくと掲示板の前に立ってボンヤリと「乳児健診のお知らせ」「糖尿病患者の会のお知らせ」などという自分とは縁もゆかりもない貼り紙を読んでいた。電車で隣に座った学生さんが開いている教科書か何かを、ほとんど無意識のうちに横目でチラチラ読み始めてしまい、学生さんに気持ち悪そうな目で見られたこともある(さすがに私もシマッタと思ったが、言い訳するのも余計に変。降りる予定の所でもないのに、こそこそと次の駅で降りてしまった……)。

 読んだものが、頭に入らないことの方が多い――のはむろん私の理解力と関係あるのだが、ひとつは私にとって、文字を読むのは自分の頭の中を整えるための準備運動、という意味合いがあるからだろう。文字を追いながら、その文字列とは直接関係ない何やかやをあれこれと考えていることも多いのである。

 ぼーっと字を追っているうちに、次第次第に「言葉を用いて何かを考える」世界が整えられていく。さらにその世界が守られ続ける。


〈粗雑な言葉への嫌悪〉

 そんなわけだから、ある意味で「読むものは何でもいい」とは言える。だが「何か音楽が流れていないと、どうもモノを考えにくくて」という人がおられればわかると思うが、そういう人にとって最悪の場合は何でもいいだろうけれども、できれば好きな音楽の方がモノは考えやすいに違いない。

 私が言葉に妙ちきりんなほどこだわりを持つのは、粗雑な言葉は――線路に置かれた石や道の真ん中の水たまりや、カメラのレンズにべったりついた指紋や、口に入れた途端にジャリッというアサリの砂のように――私が凝縮しようとしている世界にヒビを入れ、モノを考えようとする時の邪魔をするからである。

 最近はその粗雑な言葉が世の中を席捲し、私の神経をささくれ立たせる。……実はその「言葉たち」のことを愚痴るつもりで書き始めたのだが、前置きが長くなったので本論は明日。タイトル見ればテーマはだいたいおわかりと思うので(苦笑)わさわざ書く必要ない、てなものですが、まあ多分、書くと思います……。
  

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結城昌治著『虫たちの墓』

2006-09-14 22:10:20 | 本の話/言葉の問題

〈20年ぶりの『虫たちの墓』〉

 1か月ほど前に、結城昌治『軍旗はためく下に』を紹介した。この小説は戦争体験者に取材した話がベースになっているのだが、同じ取材から生まれた小説はもう1編ある。『軍旗はためく下に』の翌年(1971年)に書かれた『虫たちの墓』である。3日ばかり前、急に必要になった本を探しがてら本を整理していると(本棚をいくつ並べても間に合わず、その前や、廊下にまで本を積み重ねているのだ。おかげで何が何処にあるのか自分でもさっぱりわからない。整理整頓能力ゼロなのである)、重ねられた下からこの本が出て来た。奥付を見ると、もう20年も前に買ったものだ。そう言えばその頃、結城昌治の本を読みあさったっけ。

  文庫本だからかなりヨレヨレになっている。「あ、こんな所に隠れていたのか」と懐かしくてその場に座り込んで読み始めてしまい(皆さんもよく、そういう経験しませんか)……結局最初の目的だった本はまだ見つけられないままだが……。もののついでに、この本もご紹介を。『軍旗はためく下に』と同じく、これは正面切った反戦小説ではない。登場人物達が明快な反戦思想や国家に対する批判などを語ることはほとんどないし(戦争や国家に対する嫌悪は満ち満ちているが)、彼らはある意味で卑怯で言い訳がましくもある。言い換えれば毅然としていない。ただ、それだけになお、この小説は「私達もその場にいたらそうであったかも知れない」姿をつきつけて切ない。

  既に絶版だが、お読みになりたければ図書館にはあるだろうし、買おうと思えばインターネットでも買えるはずだ。

 〈国家に裏切られた男〉

 これは「国家に裏切られた人間達」の物語である。主人公――というより狂言回しの役を振られているのは村井というごく平凡な中年の会社員だが、彼は同年代の多くの男と同じく、徴兵されて戦場に赴いた経験を持つ。しかも戦後、捕虜を殺した容疑でB級戦犯として捕らわれ、絞首刑を言い渡された男であった(サンフランシスコ条約の締結に伴って無期に減刑され、その後、日米関係の好転に伴って減刑が重ねられた)。

  その村井が、戦場で一緒に過ごし、現在もわずかに付き合いを続けている阿久利から「門馬が自殺したそうだ」と聞く場面で、小説は幕を開ける。そして葬式にも行ったという彼から、「西関が来ていた」と聞き、「もうたくさんだ」と思って逃げていた過去に呼び戻される。西関というのはかつて村井が属していた大隊の隊長で、村井(たち)は彼を殺してやりたいほど憎んでいたのだ。その西関と、門馬は戦後もひそかに関わりがあったらしい。門馬はなぜ死んだのか。なぜ、西関のことを隠していたのか。村井は否応なく、自分の過去への旅を始める。

 〈戦中・戦後を生きた群像〉

 小説では戦中と、戦後間もない時期における彼の体験――「波のうねりのように押し寄せてくる」「忘れかけていたさまざまな過去」が描かれる。だが彼を主人公と呼べるかどうか。村井と関わる登場人物達は、その出番の多寡にかかわらず、村井と同じぐらい、時には彼よりも強烈な印象と共に舞台を横切る。その意味で、彼はやはり主人公ではなく狂言回しと言うべきだろう。

  わざと体を壊して徴兵を逃れようとした「前科」によって(懲役1年の後、戦場に送られてきた)、ことあるごとにリンチの対象になり、ついに小銃をくわえて自殺した男。敵前逃亡した男。他の部隊がつくっている農園に芋を盗みに行って射殺された男。そして、村井たちの隊の捕虜になったアメリカ兵――村井は彼の「管理」を命じられて片言の英語でしゃべるうちに親しみを感じるようになり、「平和なときに知り合ったら友達になれたかもしれない」などと思ったりするのだが、「死を決した最後の総攻撃」の前に、捕虜を連れたままでは行動の邪魔になると判断した上層部の命令で斬首したのである。

  復員してみると家は空襲で焼け、両親も死んでいた。彼は叔父の家に身を寄せ、叔父の商売を手伝い始める。ちっぽけな闇商売で、むろん法律に反しているのだが、「国家は自分たちにもう、何の言う権利はないはずだ」と村井は開き直っていた。やがて恋もするが、捕虜殺害の件で関係者全員に逮捕令状が出ていると聞き、すべてを捨てて逃亡する。その逃亡の中でも彼は何人もの男女と出会う。かつての画家志望の仲間で(村井は美術学校の学生だったという設定)戦後はヤクザになり、縄張り争いで刺殺される男。彼をかばい、泊めてくれた夜の女。……

〈卑劣の類型〉

  村井は偽名を使い、露天でいい加減な品物を売る詐欺商売の仲間に入るなどして生き続けたが、ニセの戸籍を作ろうとしたのがきっかけで、ついに捕まってしまう。留置所で彼は、阿久利や門馬など、同じ隊に所属して捕虜処刑(殺害)事件に関わったもと兵士達と再会する。その時、彼らから、大隊長である西関が処刑事件の詳細をすべて喋ったのだと知らされる。ただし西関は「自分はマラリアで寝ていたため、何も知らなかった。後になって知らされた」と主張しているという。現場の兵士が早まって勝手にやったことだ、というわけである。むろんそれは嘘で、捕虜の処刑は軍司令官→師団長→連隊長→大隊長の順番でおりてきたのだが、彼らは口を拭って「知らない」と言う。現場に対して西関が直接命令を下したことを証言できる副官や、現場指揮官である中隊長、小隊長はすべて戦死しており、厳然と存在するのは捕虜処刑の事実だけ。直接に手を下した村井が主犯であり、立ち会った阿久利らは共犯というわけである。

  西関に下された判決は無罪。彼は自分一人が助かるために、調査官に迎合し、かつての部下達を売ったのである。だから村井は西関をずっと憎んでいたのだが、憎む理由は裁判のことだけではない。西関は戦争中も、兵士達の戦死の数を自分の手柄のように誇るくせ、自分は常に安全な所を身を置き、軍隊という組織の中でうまく立ち回ることばかり考えて恩給の計算に余念がないという男だった。彼のために、死ななくてもいい兵士までが大勢犬死にをした(やや類型的な書き方なのかも知れないが、著者はこれでもかというほど西関という男の卑しさを描いている。西関は個人ではなく、あるいは象徴として用意された人物であるかも知れない)。

 〈終わらない旅〉

  村井は過去を訪ねて憑かれたように歩き回り、門馬が隠していた暗い部分を知り、最後にはついに西関にも会う。だが、彼の旅は終わらない……。『虫たちの墓』の最終章の題は、「終わらない旅」である。

 やや蛇足だが、著書の中の文章を1か所だけ紹介しておく。

【日本は小さな島国だ。ヨーロッパのように、となりの国へ逃げるというわけにはいかない。逃げれば、たちまち捕まってしまう。だから例えばフランスのように、レジスタンスの運動は不可能だったし、反戦思想の持ち主はことごとく投獄された。いや、それよりも――と村井は思った。日本でも反戦運動が可能な時代があったに違いない。しかし、村井が生まれたときは、そういう時代が過ぎ去っていた。子供の頃から軍国主義で育てられ、国のために死ぬことを教えられて成長した。民衆が愚鈍だったというなら、村井もその一人に過ぎなかった。戦争の是非を疑うことすら知らず、ただ祖国のためと信じ、軍隊は嫌いだったが、当然の義務として戦列に加わった】

 飲み屋で学生から戦争について質問され、嫌ならなぜ拒否しなかったのかと尋ねられた村井が心の中で呟く言葉である。

  日本でも、反戦運動が可能な時代があったに違いない。――そうなのだ。ふつうの国が、半年や1年でいきなり軍国主義国家になったわけではない。長い戦前があり、その間に少しずつ地獄への道が拓かれていったのだ。後から見て「なぜ気がつかなかったのか、馬鹿だなあ」と笑うのはたやすいが、もしかすると私達だって、半世紀1世紀先の人々から同じように笑われるかも知れない。 「なぜ拒否できなかったのですか」と聞かれて、たとえば現在まだ乳幼児である者達や、これから生まれる子供達は、「国のために死ぬのが正しいことだと教えられて、そう信じていたのです」と答えられるかも知れない。だが私達には、そういう逃げ口上は用意されていないのである。……

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