華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

私にとってのブログの意味。そしてコメントについて

2006-10-04 06:26:26 | このブログについて
〈明け方の書斎(仕事部屋)にて〉

――明けるのか、明けぬのか――この宵闇に、誰がいったい私を起こした。――(誰かの詩の一節)

 午前6時過ぎ。夜がしらじらと明け、窓の外では雨に濡れた落葉樹の梢が恥じるように頭を垂れている……。ついこの間まで、この時間には既に日中の暑さを予告するような抑えた熱気が窓を叩いていた。その頃からまだ1か月と経っていないのに、空気は確実に冬へ向かって衣替えを始めているではないか。おう、季節よ。ひとのいとなみなど笑い飛ばして太古から繰り返してきた季節のペエジよ。冬の時代を予感しておののくヒトの吐息を、おまえは知っているのか。おう、季節よ。憎しみと裏切りのつづれ織りをはねのけて、おまえは未生の愛を囁くのか。

 私はたいてい8時半頃まで寝ている人間だが(飛び起きて顔を洗いコーヒーを飲み、ドタバタ飛び出すという生活が長年続いているのだ。ちなみに私が大学を出て就職した先は始業時間10時。交通の便を最優先して住まいを選んだので、9時半に出れば間に合ったのである)、今日は仕事の都合で朝7時に家を出ねばならない。その準備で4時頃まで起きていたので、そのままついでに本を読みながら徹夜をしてしまった(2時間強の仮眠で起きるというのは、けっこう辛いのである)。パタリと本を閉じた瞬間に私の袖にしがみついた、まとまりもつかぬおぼろな想念を(かなり慌ただしくではあるが)メモしておこう。

〈私にとってブログとは〉

 ブログについての考え方は、ブロガーごとにそれこそ千差万別であろう。それが当たり前だ。

 私の場合で言えば下書きは一切せず、思いつくままに書き留めておく覚え書きである。(多くの場合、酔ってもいる。1日の労働を終え、明日の仕事の準備もし終えてホッと一息ついた夜中に書くものだから、自然にそうなる。おかげで誤変換も多々)。実は今も「美しい日本語を殺すな」という記事を書こうと思って、その前にヒトコト書き留めておきたくなったのである(日本語うんぬんのエントリは、時間の余裕があれば今夜にでも)。

 何かの問題について論考しようとか、大々的に世の中に訴えようなんて大それたことなんざ思ってやしない。ふと思いついたことをメモし、友人達に暇がある時に見てもらい、共に考えていければ――というだけのことだ。みんなそれぞれに忙しいから、是非読めと押しつける気もさらさらない。読んでもらえればラッキイ、という程度である。

 だから本来は個人通信のような形で、限られた友人だけに配信する方がいいのかも知れない。実際、「○○通信」と名付けたものを定期的にメールで送ってくる友人も3人ほどいる。「実際に顔を合わせて言葉をかわし、(思想信条は少しずつ違うけれども)響きあう部分があった友達だけに読んでもらえばいい」というのが彼らのスタンスだ。

 私も、そのような形式を採った方がよかったのかも知れない。別に、全世界に向けて発信しようなどとは思ってもいないし、庶民のネゴトに過ぎない私のメモで世の中を動かせるなんて、勘違い的なことなんざ1ミリも思っちゃあいない。ましてや、ネット上のコミュニケーションに全幅の信頼を置いているわけでもない。

 私は――もしかすると子供の時からパソコンを使いこなしていた世代ではないからかも知れないが、人間が本気でコミュニケーションできる範囲はそんなに広くない、と思ってもいるのだ。私はこのブログで既に何度も書いているように、マスコミの片隅で働いている人間である。社会人になって以来ずっと、幻のような「(想定された)読者」を相手にして語りかける仕事を続けている中で、次第に「コミュニケーションという幻影」にうんざりしてきたのかも知れない。コミュニケーションというのは、そんなキレイキレイな甘いもんじゃあねぇ。 

 実際に1年ほど前までは、私にとってインターネットを利用したコミュニケーションというのはMLで意見を流したり、個人通信に対して意見を送ったりする形でしか存在しなかった。むろんそのほか友人との個別のメールのやりとりは始終おこなっていたけれども――要するに「仲間内のコミュニケーションに、インターネットを便利な道具として使っていた」に過ぎない。それで充分だ、と思ってもいたのだ。

 それなのに昨年の衆議院選挙が終わって少し経った頃、私はブログという形で自分の拙い考えを全面公開するに至った。そのことは実のところ、自分でも恥ずかしい。と同時にアホらしくもある。所詮は庶民のネゴト。もっと言えば精神的マスターベーションである。まとまりのつかぬ覚え書きを綴りながら、クククッと嗤う自分がいる。

〈微かな繋がりを求めて〉

 それでも私がほそぼそとブログを続けているのは、やはり私も――微かにではあっても繋がっている仲間、が1人でも多く欲しいからだろう。ブログを始めてから、私は多くの出会いを持った。それはあるいは幻影かも知れないけれども、「一人ではない(らしい)」と知ることの快を私は知った。いや、むろん私にも、実生活上における仲間は何人もいる。しかしみんなそれぞれに自分の生活に忙しいわけだから、常にコンタクトをとり続けているわけにはいかない。そんなことはむろん百も承知であるけれども、はち切れそうなほどに頭を占めている何ものかを聞いて欲しい、一緒に話して欲しいと思う――それが自分自身の中にも存在していることを、ブログを始めて私は初めて思い知った。

 所詮は庶民のネゴトさ――というスタンスは、今も変わっていない。ブログの世界には常時3000、4000……どころか1日1万件に迫るアクセスがあり、オピニオン・リーダーの役割を果たしているカリスマ・ブロガーもいるそうだが、私は逆立ちしてもそんな存在にはなれっこないし、(負け惜しみと言われればそれまでだけれども)なる気もない。私はカリスマというのは危険なものだとも思っているのだ。数人でもいい、いや1人でもいい。忙しいなか読んでくださり、手を差し伸べてくださる友人が得られれば、私はそれだけで本望である。

 そういう「人と人との繋がり」をこそ私は求めていたのだ。こんなことを言うと非常にヤラシイのだけれども、それを抜きにするならば私は本業だけに専念する。今のマスコミは「マスゴミ」などと言われるぐらいでホントなさけない限りなのだが、良心が死に絶えたわけではない。息も絶え絶えな良心を守り育てる仕事に専念した方が、ある意味、よっぽどいいのだ(私は三文ジャーナリストだから自分で企画を立ち上げてキャンペーンを展開する力はないが、パシリの形で協力する程度のことは何とかできる)。だが……こちらで想定した枠組みの中だけで語る時に漏れてくるたくさんの声や思いと連帯したいと切望し、私は1円にもならぬブログを始めた。そしてそろそろ、1年になろうとしている。我ながらあきれたものである。

〈差し伸べた手の見えないコメントは不快〉

 繰り返すが、私のブログは評論でも論考でもない。単なるネゴトである。ただし、時空を超えて存在する(と私が勝手も思っている)友人に向けて発信された――。だからその微かな発信に対して返事をいただければ涙ぐむほどに嬉しいけれども、どんな返事でも嬉しいわけではない。これまたあたり前の話であろう。

 こんな過疎ブログ(私はブログというものをそれほど過大評価していない。いや、メジャーなブログは別ですよ。うちのようなその他大勢ブログの場合、の話です。自分の意見を述べる手段の一つにしか過ぎず、他にいい方法があればさっさと鞍替えするつもりだ)にもコメントを下さる方がおられるというのは、ギョッとするほど嬉しいとは言え、差し伸べようとする手の見えないコメントにはひたすら当惑する。

 何かの意思表示に対する対応は――大きく分けてふたつある。1つは「もっと話をしてみたい」と手を差し伸べるもの。もう1つは差し伸べる手のないもの、である。後者も細かく分ければいろいろな種類がある。たとえば――
○意思表示した人間の意見や感性そっちのけで、ひたすらに主題とズレた持論を述べるもの。
○言葉尻を取り上げて「おかしいだろ!」「説明しろよ!」などと居丈高に責め立てるもの。
○「これはどうなの?」「これは?」と記事の内容とは直接関係ない質問を浴びせかけるもの。
○たとえば「昭和3年とあるがこれは昭和5年の誤りである」といった具合に、細部のあら探しに終始するもの。

 いや、もちろん私もブログを書くときにいちいち資料を確かめているわけではないので、間違いは山ほどある。記憶力にもまったく自信ありませんしね(私はコンピュータじゃねぇ)。それを指摘していただくのは非常にありがたいし、「違ってますよ」と言われればスンマセンと謝って訂正する。だが、「やーい、間違ったじゃねぇか。おまえのいい加減さが暴露されたよな」みたいに言われるのははっきり言って不愉快である。

 ひたすら滔々と持論を展開する型のコメントも、正直なところあまりありがたくない。もちろん私のエントリに深く関わる問題について真摯に語ってくださるならよいのだが、私の記事を落語の枕程度に使って、直接かかわりのない話について延々と持論……というのは読む私も疲れる。ひとつだけ自慢すると(ほかにはなーんも自慢できることがないのだ。泣)私は「文章」を読むのは職業としても、また私の趣味としてもかなり慣れている。読む速度はかなり速いほうだし、難解?と言われる文章や癖のある文章でも、理解できるかどうかは別として、読むこと自体はまったく苦痛ではない。その私が苦痛だというのは、相当なものだ――と思っていていただいてよいだろう(ちなみに私は仕事の一つとして、新人の記者の記事を読んだりしている。ひとりよがりな文章を指摘するのが目的である)。悪文とか、そういう意味ではない。「耳をふさぎ、言いたいことだけを言いつのる」感じがするから苦痛なのだ。口が悪いとか、言葉が汚いとか言っているわけではない。そんなものは、ある意味でどうでもいい。

 私自身、実のところ「言いたいことを言いつのる」傾向はある。ごく若い頃から自己チューだったし、私の住んでいるマスコミの世界は双方向コミュニケーションの世界ではないからだ。だが、それをかなしいと思い、私はブログを始めたのである。だからこそ、「手を差し伸べようとする」姿勢の感じられないコメントは不快なものでしかない。人と人のコミュニケーションは、相手の言い分に虚心に耳を傾け、それについての感想を述べるところから始まる。まずは共感したところ。そして次に、自分が疑問に思うところや、自分なりの意見。おまえも人の言うことを虚心に聴いてないじゃないか、とは言わないように。ここはあくまでも私が管理している私のブログである。狭かろうと荒れ果てていようと一国一城、というやつですね。喧嘩支度で入ってくるのは、殴り込みでしょう。

 来られる方はもう「いつでも、どなたでも歓迎」というのが私の基本姿勢であるけれども、殴り込みを掛けているのか、コミュニケーションを求めているのかは、はっきりさせていただきたい。それによってこちらも挨拶のしようが違います。
 
 あ、いかん。そろそろ出かけねばならない。中途半端になったが、続きは改めて書きたい。(具体的にどういうコメントがどうこう、という点にも時間がなくて触れられなかったが、それも改めて)
 
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7 コメント

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共感する方が楽しいですよね ()
2006-10-04 10:24:15
こちらのブログをいつも読ませていただいています。あまり書き込みをしないので熱心な読者ではないかも知れませんが。



僕の場合は、自分の考えをまとめる目的で文章を書くことが多いのを感じています。文章を書くことによって、書く前にはぼんやりしていたことが、書いた後にはっきりと意識されることが多いので、書くことが好きで書いているという感じでしょうか。



それをブログという形で公表するのは、誰かに読まれることで、自分の考えの客観性が見えてきたり、自分の説明の拙さが分かったりすることが大きいかなと思っています。説明が拙いのは、そのことをまだよく理解出来ていないからだろうと解釈しています。本当に理解出来ていれば、それを人に説明するときにもっとうまくできるだろうと思うので、自分の理解の深さを測る目的もあって文章を書いているという感じでしょうか。



他の人の文章を見るときも、僕の観点は、その人が、論じている問題をどれだけ深く考えているかに注目しています。そしてその点で共感出来るところを見つけたとき、繰り返しそこを訪れる楽しみを見つけたと感じています。共感出来る人を多く発見すると、世の中には優れた人、高く評価出来る人はたくさんいるものだと思えて、未来が明るくなる感じがします。



人によっては、ブログのあらを探して文句をつける目的で人の文章を読んでいるように見える人がいます。実にもったいないことだなと思います。人のあらを探すような読み方は、少しも自分を進歩させないと思うからです。人のアラというのは、自分の中の欠点を投影したときに見えるものですから、自分自身を貶めていることにもなると思うのですが、なかなかそれには気づかないようです。



こちらのブログで書かれていることには大いに共感を持って読んでいます。それをいつも書き込んでいければいいのでしょうが、なかなかきっかけがないと書き込みまで行かないところがコミュニケーションの難しさかも知れません。今回のエントリーは、書き込みたい気分が高くなったものでした。
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共感しました (遥か群衆を離れて)
2006-10-04 12:36:53
世の中には色々な考えをもつ人々がいます。そして社会が成り立っています。「死刑廃止論」に対するコメントを読んでいたとき、ちょっと、違和感を持ちました。

ネット上には、若い人、年配の人、色々な人のブログがあります。しかし、同じような趣味、同じような考えの人だけで集まっているブログが多いです。ですから、どうしても、そうよね、そうよね、で話がまとまってしまいます。インターネットがこれだけ普及しているのにこの国は相変わらずなんです。本好きな人だけ集まって、ファイアーマンを恐れていたって社会は良くなりません。いえ、良くするためにブログを書いていらっしゃるわけではないのですよね。

人と人とのつながりには相容れない人とのつながりもあります。でもそれを拒否したら社会が成り立ちません。それは、今の日本が直面している問題でもあります。あらゆる場面における二極化です。「所詮、あなたと私は違う」。今は、そのような考え方が小学校の子供たちにも及んでいます。

ブログに対する不愉快なコメントも、頓珍漢なコメントも、レベルが低いと思われるコメントも、それが現実なんだと受け止めて頂けたらと思います。せっかく発信する場をお持ちなのですから、この力を前向きに捉えていただけたらと思います。





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はじめまして!^^ (ココロ)
2006-10-04 23:51:52
何回か勝手にTB送らせていただきました。ココロです。はじめまして!^^



帰宅して最初に読んだのが今日のこのエントリーでした。なんだか‥じんわり心に響きました。たとえ一生顔を合わせることがないとしても同じ地球上で同じ時間を共有しているのはスゴイことだと思います。



人の批判しかできない人は、自分は何もしないっていうことが多いですね。ましてや、人のために何かをするなんてことはもうとう有り得ないのかもしれません。哀しいことですが。



でも、そんな人ばかりではないのが世の中の面白いところですから、私もブログをやっていけるかな?って、このごろ思っています。これからもよろしくお願いします!^^
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活字を読む楽しさ。 (布引洋)
2006-10-05 14:47:05
読んだ本の中に一つでも、何か美しい言葉や感動する言葉、知らなかった事実が有れば少しだけ幸せになれる。

新しい視点が見つけられれば法外の幸せを感じる。

自分が今までに考え無かった考えに出会えた時、人は幸福を感じる。



自分が感じているのだから人も感じるはずだと思っていたが、この考えは大きな勘違いだったらしい。

人は今まで自分が信じていた世界を否定されると怒りを覚えるらしい。

昔は地動説を唱えた学者達は火あぶりにした。

今でもアメリカでは天地創造を信じない人や進化論を子供達に教えようとすると一部狂信者達の嫌がらせを覚悟しなければならない。



文章を読むのは楽しい。華氏さんの文章は本人は覚え書きと言うけれど読み易い。何故かと言うと理論や前後の辻褄が有っている。

辻褄の合っている文章は読みやすいが其の逆の文章は読み辛い。苦痛を感じる。

読み始めると止められない因果な性分で、読み辛いものでも読んでしまう。



結果読んで腹を立てる。

何で私がこんな支離滅裂、脈絡が混乱した幼稚な小学生並みの駄文を読まねばならないのか。

小林や西尾、藤原等の受け売りの靖国カルト信者の寝言を読まされる筋合いは無い。

彼等靖国文化人の稚拙な理論は本で十分に読んだ。

もう十分だ。止めて欲しい。!

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もうすごく前の話です・・・。 (こば☆ふみ)
2006-10-06 00:01:00
華氏さま こんばんは!徹夜明けは辛いですね(^^)大丈夫ですか?

もう大分前の高校3年生の頃、同級生15人くらいで渓谷にキャンプしました。賑やかなキャンプファイヤーからチロチロと燃えるかがり火になり・・・夜通し話し合いました。

今夜も「華氏さんブログ」を読みながら「充足したキャンプの朝」のことを思い出しました。

疑いなく心から繋がっていた頃を・・・。

これからも書き続けてほしいです。

ではでは。

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お詫び (遥か群衆を離れて)
2006-10-06 23:49:05
華氏451様

今晩は、それから、申し遅れましたが、はじめまして。

10月2日にどこかのページから、はじめてこちらへ参りました。いきなりコメントを書いてしまって不愉快な思いをなさったかと思います。申し訳ありませんでした。どこかの掲示板状態のようなコメントを見ているうちに一言書きたくなってしまって、、、。

今日「愛国心」の記事の激論を拝見して、華氏さんが「新しい視点を学べる」とおっしゃっているところを見つけました。そうなんですね。決して異論を排除しているわけではないのですね。おまけに、浅間山荘事件も書いてあって、確かに「殴りこみ」に見えたのかも。私はなぜかコメントを見ているうちにあの事件を思い出したのです。

「分断、格差」のところも拝見しました。

私は一年以上前から某掲示板で「教育の格差」について戦ってきました。凄かったですよ。徹底的に打ちのめされますから。「公立の学校で意図的に勉強をさせないようにしている」ということを書いた時、何百という荒らしにあいました。組織的に動いている人たちがいるようです。

教育現場での問題で、よく日の丸や君が代の強制が挙げられますね。大人たちがそんなことで揉めている間に子供たちに「教育の格差」が進められていたのです。きっと多くの人々はご存知ないのでしょう。右とか左に分断されて足元にある問題に気がつかないうちに大変なことになっているんです。

意見の違いを超えて手を繋げる世の中になってほしいです。華氏さん応援しております。

(またまたわけのわからない文章ですみません)

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私もお詫び (ひげたま)
2006-10-07 21:16:32
華氏さん、こんばんわ。

たまにコメントをつけたり、トラックバックを送ったりしています、ひげたまです。

華氏さんの記事は共感するところが多く、本が好きという共通点もあり居心地が良いのでついつい居座ってしまい、挨拶もそこそこに勝手なコメントをしたりしていました。

私自身は非常識だとは思っていませんでしたが、今回のエントリーを読み、反省しました。申し訳ありませんでした。



自分のblogでは、ちょっと華氏さん達とは違ったことを書いていたりもするので、「お仲間」とはとてもいえませんが、もし暇つぶしにでもお越しいただいた時にコメントなんていただけると、うれしいです。



何か便乗みたいで恐縮ですが、なかなかこういったことを言うタイミングがないので、日ごろお世話になっている感謝も込めまして、コメントさせて頂きます。

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