不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

生活扶助切り下げに反対する

2007-11-21 23:25:36 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 ようやく超多忙な仕事が一段落したと思ったら……身内の葬式があったり、別の身内の者が末期がんでそろそろ危なくなったり、「はあ??」という感じの人間関係のゴタゴタに巻き込まれたりして、落ち着かない日々が続いている。

 PC立ち上げてもメールをチェックするだけで終わることが多く、少し余裕があってもTBいただいたブログを読むのが精一杯。こんがらがった頭をまとめつつ、ブログを書いてみるという時間がなかなか作れない。

 ……てな話はどうでもいいけれども。

 アッテンボローさんから、「生活扶助の切り下げに反対する緊急集会」の記事をTBしていただいたので、急遽お知らせする。いま、厚生労働省は生活扶助の減額を計画中。それに反対する緊急集会が11月29日におこなわれるという案内と、賛同のお願いである。詳しいことは、ぜひこの記事を御覧いただきたい。

 いわゆる生活保護について、冷ややかな眼を向ける人は少なくない。怠けているんじゃないかとか、甘えている的な物言いをする人は、私の周囲にもいる。

 その、うそ寒さ。

 すべての国民に最低限の文化的生活を保障するというのは日本国憲法の理念であるが、同時に「人間社会の普遍的なモラル」であると私は思う。「自分さえよければいい」ではなく、「つながりのあるすべての人達が泣かずにすむようにしたい」。そうきっぱりと言えて、はじめて人間は自らの存在の崇高さを誇りうる。

 真夜中の走り書きになってしまったが、私はいま心底、怒っている。自己責任という一見美しい言葉の背後にある冷血と、それを是とする社会とに。人間が、人間であるということを誇れるかどうかの瀬戸際にあって、我々は試されているのだ。

 友よ。同志たちよ。我々は――他者を蹴落とし、他者を卑しめ、ひとりヌクヌクと暮らすことを絶対的な恥であると再度認識したい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

働けなくなった人間は死ねという国

2007-02-27 22:33:00 | 格差社会/分断・対立の連鎖

〈4万5000人のリハビリ難民〉

 河北新報に、「リハビリ日数制限から1年 治療求めさまよう患者」という記事が掲載された。昨日「Yahoo!ニュース」の国内トピックス欄に上げられていたので、読まれた方も多いと思う(私も河北新報を取っているわけではなく、むろんそこで発見した)。記事の一部を、次に引用してみる。

【医療制度改革の一環として、厚生労働省が昨年4月、保険診療で受けられるリハビリに日数制限を導入した。ところが、日数制限後、リハビリ継続が必要な患者の受け皿となる訪問リハビリや病院外施設の整備、専門職の育成が進んでいない。このため、「リハビリ難民」とも呼ばれる患者が生まれ、治療打ち切りに対する不安や悲痛な叫びが広がっている。(中略)厚生労働省が、リハビリ患者の受け皿とみていた介護保険適用のリハビリサービスは、認知症予防や自宅に引きこもりがちな高齢者のレクリエーションが中心だ。「身体機能の回復を目指すものになっていない」と指摘する関係者は多い。(以下略)】

 同記事によれば、リハビリを打ち切られた患者は全国で推計4万5000人にのぼるという(全国保険医団体連合会の昨年9~11月の調査)。

 昨年、「リハビリテーション診療報酬改定を考える会」(※注)が署名運動を展開した。それに応じて、多くのブロガーが署名の呼びかけをおこなったことも、まだ記憶に新しい。そして44万人の署名が集まり、6月30日に厚生労働省に提出されたのだが、それから250日近くを経ても未だに厚労相は知らぬ顔である。

※注/上記の会のHPには、打ち切り被害実例の報告や、患者・家族・医療関係者のメッセージなども寄せられている。

〈75歳以上の高齢者を分離する医療制度〉

 リハビリ日数制限の話を考えている最中に、ふと思い出したのは2008年度から導入されることに決まった「後期高齢者医療(保険)制度」。75歳以上の高齢者を独立した健康保険に加入させる仕組みである(むろん、それまで加入していた国民健保などは脱退)。保険料は年金などからの天引きで、厚労省の試算によると月額平均6200円ほどになるそうだ。

 この制度は「医療制度改革」(!)の一環としてかなり前から検案されていたもので、政府・与党社会保障改革協議会の「医療制度改革大綱」によれば、「高齢者自らが負担能力に応じて保険料の負担をすることを基本としつつ、保険制度間の公平な負担が確保されることを目指す」ものであるという。

 大雑把な言い方をすれば、医療を受ける人達の中では高齢者、特に後期高齢者と呼ばれる75歳以上の人達の割合が非常に高い。そんなのは不公平だから、彼らは彼らで別の保険制度を使ってもらおうぜ、ということである。

 しかも、である。厚労省は後期高齢者医療制度において、「定額制」を中心とする方針を固めているという。 定額制というのは、病気の種類によって決められた額だけ払うというもの。ちなみに現在の診療報酬は診察や投薬などの診療行為を加算していく「出来高制」が中心で、ごく一部に「定額制」が採用されている。

 定額制にすれば、大して必要のない薬まで出したりしなくなるので医療費の抑制に効果があるし、「薬漬け」が無くなるから患者にとっても大いに結構、と言われている。それはある意味で正論なのだが、問題はそれは「どんな考え方を背景にして(またはどんな考え方と結びついて)出て来たのか」である。

 意見というのは、何でもそうだ。たとえば「信仰の自由は保障されるべきだ」というのは誰が聞いても納得できる正論である(納得できない人もいると思うが、まあ大多数は納得すると思う)。でも、それを「首相が靖国神社に参拝するのも信仰の自由。とやかく言う筋合いはない」という話と結びつけて語られると、ちょっと待てよと言わざるを得ない。 

 うーん、たとえがちょっと変かも知れない。ではこんなたとえはどうだろう。「健康管理は大切。自分の体は自分で守らなきゃね」というのは、ほとんどの人が頷くであろう正論。でも、「生活習慣病になるのは本人が悪い。自己責任なんだから、そんな病人の医療費を保険でまかなう必要はない」と思っている人が言うのと、「健康管理は大切だが、どんな病気でも、誰もが罹患する可能性はある。第一、生活に追われている人ほど健康管理だって困難なのだ。メタボリック・シンドロームだって、職業性ストレスの高い人は平均の2倍だと言うし。病気になった時は、皆で支え合うべきなのだ」と思っている人が言うのとでは全然違う。(ついでだがこのあたりの話を2月6日のエントリにも書いた)

〈病人や老人はお荷物なのか〉

 これも変かもしれないが、言いたいことは何となくおわかりいただけただろうか。私は厚労省が後期高齢者の医療を定額制にしたがっているのは、ひとえに「安上がりにしたいから」だと思っている。多くの方が既に言われたり、新聞などでも書かれたりしているはずだが、定額制にすれば、病院側はその範囲内でなるべく安上がりにしようとするのは火を見るより明らか。むろん良心的な病院(や医療者)は大勢いると思うけれども、いくら良心的でも、自腹を切ってまで治療に当たることはできまい。いや、たまにはそういうこともあるだろうが……自腹切ってばかりでは病院が潰れてしまう。

 要するに、国にとって後期高齢者は「お荷物」なのだな。いや、金と社会的地位があり、さらに政府を支持してくれる後期高齢者は別だろうが。厚労省は、さすが「産む機械」うんぬんと豪語した大臣をトップに抱く官庁だけある。子供作りにも労働にも役立たなくなった(兵士にも役立ちませんね)お荷物には、あまり長く生きて欲しくないのだろう。リハビリ日数を制限したのも、本当はリハビリテーションの必要な人達は「国家のお荷物」だと思っているからだ。

 誰だって障害を持つ可能性はあるし、生きていれば間違いなく1つずつ年を取る。そして高齢者になれば、誰だってあちこち故障が出てくるのは当然の話ではないか。それを支え合うために、私達は皆がそれぞれに金を出しているのだ。ちなみに私は今のところあまり病院に行くことはなく(ちょくちょく病気はするが、たいてい2~3日寝込めば治ってしまう程度の軽い病気だ)、健康保険料は払う一方に近い。しかしそれを惜しいとか、バカらしいと思ったことは一度もない。いつか私も大きな病気をするかも知れないし、私はしなかったとしても、母や、友人達が医療を受けるかも知れない(あ、母はもういろいろと受けているのだった。近々、白内障の手術をすると言うし)。

 すべての人間が、出自や性別や年齢や、そして健康状態によって差別されない国。美しい国というのは、そういう国を言う。

◇◇◇◇◇

 戸倉多香子さんを応援します(民主党支持ではありませんが)。

 

 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

えっ、過労死は自己管理の問題?

2007-02-08 22:44:51 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 一昨日「自己責任という言葉を使うな」という記事を書いた。私が「生活習慣病」という言葉が嫌いな理由――をウダウダと書き殴ったのだ。この言葉がいつから一般に使われるようになったのかよく覚えていないが、「自己責任」なる言葉の蔓延と軌を一にしているのではないか、というのが私の感触である。そして、

【生活習慣病になるのも、リストラされるのも、子供抱えて路頭に迷うのも、過労死するのも自己責任。馬鹿言うんじゃないっ! この国はいつから、こんなうそ寒い国になったのだろう。】

 と書いたのだが……その矢先に、「過労死も自己責任」と言わんばかりの奥谷禮子氏の発言をめぐって、衆院予算委員会で論議があったそうだ。この問題に関してみやっちさんが「過労死は自己管理不足?」と題するエントリをTBしてくださったが、ほかにも大勢の方が目を剥いておられるだろう。わかっちゃいない人が、ここにもいた。

〈遺族の前で同じことを言ってごらん〉

 奥谷氏は人材派遣会社の社長で、厚生労働大臣の諮問機関である「労働政策審議会」の委員のひとりである。問題になったのは『週刊東洋経済』1月13日号のインタビューで、「経営者は過労死するまで働けなんて言いません。過労死を含めて、これは自己管理だと思う」と語った部分など。ちなみに奥谷氏はホワイトカラー・エグゼンプションの積極的推進論者で、分科会では「労働者を甘やかしすぎ」などの発言をしているという。

 むろん、経営者は「過労死するまで働け」とは言わないだろう。死ぬ気で働け、みたいなことを言った人はいたような気もするが。昔々の為政者だって、民にどんどん死なれちゃ困るから(労働力が減るし、ヤケを起こされても面倒なので)「生かさぬよう殺さぬよう」という微妙なバランスで絞っていた。

「過労死などされたら寝覚めが悪いから、なるべくしないで欲しい」と思っているはずだ。経営者だって鬼でも悪魔でもないのだし、社員はドレイだとも機械だとも思っていないだろうから(ドレイや機械扱いする、ということはあるにせよ)。「なるべく死なないように働いて欲しい。でも万一過労死という事態が起きても、競争に勝ち抜くためには、それはそれでやむを得ない。名誉の戦死、の扱いをしてあげるから、迷わず成仏してネ」というあたりが、最も本音に近いのではあるまいか。

 ブログで以前父のことを書いた覚えがあるが、私の父は40歳を目前にして過労死(くも膜下出血で死亡)している。だから自己管理の問題などと言われると、猛烈に腹が立つ。

 父は朝は早く夜は遅く、日曜もしばしば出勤していた(当時は休日は土日でなく日曜だけ)。帰宅が深夜近くなる日が続き、3日ぐらい父の顔を見なかったことも稀ではない。むろん昼食のみならず夕食もほとんど外食。何を食べていたのか知らないが、要するに栄養バランスの悪いものばかりだったろう。結核の既往があり、あまり丈夫でない人だったから、母は働き過ぎを心配したらしいが、もう少ししたら楽になるというのが彼の口癖だったようである。だが、彼は死ぬことでしか楽になれなかった。

 疲れていたと思う。それならたまの休日はゆっくり休めばいいようなものだが、彼にとって休日は子供と遊ぶ日だった。特に遠出するわけではなかったが、公園だの、電車で2駅か3駅程度の遊園地だのに行き、帰りには本屋によって好きな本を選ばせてくれたのを覚えている。一緒に犬の散歩に行き、雨の日はよく、家の中でゲームをした。

 私の父が死んだのは、自己管理が悪かったのですか。そうですか。

 社会に出てからも、周囲で何人もが過労死した。たとえば去年も知人のひとりが(この人とは友人というほどの仲ではないので、後で知らされたのだけれども)。勤め先の銀行が合併し、仕事が過剰になった上、職場の人間関係はややこしくなり、さらに通勤は遠距離になるなどで心身の疲労が重なったあげくのことだった。辞めたい、と家族に漏らしたこともあるそうだ。それでも高校生の子供がいて、家のローンがあって、この年で辞めたら次の職場はみつからないだろうとしう不安もあり、働き続けた末に彼は突然死んだ。過労死寸前まで働き、鬱病になって自殺した人もいる。奥谷さんあなた、彼らの遺族の前で、とうちゃんは自己管理が悪かったんだよと言えるか。

「勝ち組」の言葉だなあ、とつくづく思う。奥谷さん、あなたのような人であれば、きっちりと自己管理できるかも知れない。しかし選択肢が限られ、えらい方たちのおっしゃる自己管理なんて絵に描いた餅だよという労働者も世の中には多いのです。競争に勝った人達はすぐ、自分の能力が優れていたから、人一倍努力したから、徹底的な自己管理にも努めたから、今の自分があると言う。負けた人間は能力が、努力が、なかったからだと。

 そりゃ、能力はあるのだろうし(少なくとも私よりはあるな、ウン)、努力もしただろう。自己管理もしたのでしょう。それは認める。だが勝ち組なるものに入れなかった人達が、能力も低く努力もせず、自己管理もできないダメ人間のような言い方をするのは不遜を通り越して、人間としての基本的な部分が疑わしい。 

 

◇◇◇エントリと関係のない雑談◇◇◇

 nizanさんが、高橋和巳『邪宗門』にかかわるエントリをTBしてくださった。ありがとう。あ、朝日文庫で手に入るのですか。誰かがかっぱらって行ったことばかりしつこく覚えていて、どこかで文庫になっていることなど考えてもいませんでした(汗)。私もこの本は愛読書の1つで、初読はnizanさんと同様10代の終わり頃。その後、何度か(といっても3度ぐらいだが)読み返した。

 鮮明に残っているシーンのひとつが……(これも何度か書いた覚えがあるが、まあいいや。読んでくださってる人少ないし)……戦争中、弾圧されて解体させられた「ひのもと救霊会」の人達がちりぢりになり、その一部の人達が素人劇団をやっていた時の話。その劇の中に、「国には国の掟あれど、我らにはまた我らの道」というセリフがあった。劇の筋立ては陳腐で、演技もヘタクソという設定になっていたが、それだけになお、このセリフの部分は私の中に強烈な印象を残し――今も残っている。

 国には国の掟あれど。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「敵をつくる」という企て

2006-11-25 23:10:51 | 格差社会/分断・対立の連鎖


〈集団は敵の存在によって結束する〉

 組織なり集団なりの結束を固めるのに、「敵を作る」という方法がある。もう少し穏当な?方法としては「ライヴァルを作る」。学校対抗のスポーツの試合などがあると、「○○校に負けるな」と燃え、みんな結構、にわか愛校者になったりする。企業などでも幾つかチームを作って競争させると、チームごとに結束が固まり、他のチームに負けまいと「一丸となって」頑張ったりするようだ。

 ライヴァルというのは普通、プラス・イメージを持つ言葉として使われるようだけれども、ライヴァル同士の関係は常に「互いに切磋琢磨するいい関係」であるとは限らない。むしろ競争意識がエスカレートして、敵愾心や憎悪が育っていくこともまれではない。あいつにだけは負けたくないと思うから、時には汚い手を使っても勝とうとする。何とかして相手の弱味を見つけ、足を引っ張ろうとする。相手の悪い噂を聞くと嬉しくなり、何かでつまずくとひそかに喜ぶ。(そんなのは「本当のライヴァルじゃない」と言われる方があるかも知れないが、本当のライヴァルとは何かといった話はここでは一応無視する)

 ましてや「敵」に至っては。

 突然妙なたとえになるが(私はいつもそうなのだ)、駅前に商店街があり、そこの商店主達はさまざまな問題を巡ってしょっ中もめていた。政治的な立場の違いから仲が悪いという商店主達もいたし、単に気が合わずいがみ合っている人達もいた。だが、駅前に巨大スーパーマーケット進出の計画があるという確かな情報が流れた途端に、商店主達は「突然出現した敵」に恐れおののき、「その敵と戦う」ために結束した。……こういう話はいくらでも転がっている。

〈外にも敵、中にも敵〉

 自分達にとってマイナスになる存在、自分達の集団に脅威をもたらすもの、倒すべき相手。すなわち「敵」を想定すれば、その敵と戦うという目的の下で人々の仲間意識は強まり、お互いが味方であるという幻想が濃くなり、……同時に「敵」の姿は否応なく肥大し、まがまがしく飾られ、「トンデモナイ奴ら」という認識が深まっていく。ある意味で、そうやって「敵」は「放っておけば自分達の生存が脅かされる、凶悪な存在である」という幻想を持ち続け、育て続けない限り、人間は(目の前にある具体的な人間やモノ以外には)憎悪を持ち続けられないのかも知れない。

 たとえばカルト教団などがこの手をよく使うことは、よく知られている。そして国家も。他の国家を敵と認定し、それらの国を「鬼畜」とか「悪の枢軸」と呼ぶ。同じ人間ではない、という認識である。

 敵は「国の外」だけではない。「国の中」にも作られる。あいつらは悪い奴だよ、あいつらは人だよ、非国民だよ。だから早くつぶさなければ、みんなの生存(安心な暮らし)が脅かされるんだよ……。

 近年創設された・または創設されようとしている法律と、改定されようとしている法律は、すべて「敵づくり」――「敵と向き合う地域社会作り」を目指すものだ。たとえば2003年に成立した有事法制関連3法はまさしく「外の敵」を想定したもの(戦争を想定したもの)であるし、2004年に成立した国民保護法もそれに準ずる(戦争のほかにテロも想定しているが、武力攻撃事態に対処する法律という面では同じ枠組みの中にある)。

 そして内部の敵の監視――共謀罪はその最たるものだが、教育基本法改定案も根っこは同じだ(1999年成立の国旗国歌法なども同様)。踏み絵を用意し、踏まない、あるいは踏むのを躊躇する人間に「おかしい奴」「危険な奴」というレッテルを貼り、彼らに対する憎悪の気持ちをそれこそ「涵養」していく。自国の国旗や国歌に崇敬の念を持つのは当然などと言われ、そのうち祝日には日の丸掲げるのが当たり前という社会になったりすると、私はほんとに困るのですが……。

 敵――排除し、倒すべき存在を作るよりも、互いに手を差し伸べ、みんなで共に歩める社会を私は作りたい。もともと「(国民の)固い結束」「一致団結」なんてうそ寒くて嫌いだが、万が一それが必要であったとしても、敵を作ることで強めたいなどとは私はさらさら思わない。

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当然予測されたことだが気が滅入る

2006-10-12 21:46:25 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 こういうニュースに接すると、いつものことながら気が滅入る。

【北朝鮮の核実験実施は、在日社会にじわりと影響を及ぼし始めた。核実験実施から3日目となる11日、全国の朝鮮学校にはこれまでに脅迫や嫌がらせ電話など16件の被害が相次いでいることが判明し、学校は警戒を強めて独自の対応を取り始めた。北海道朝鮮初中高級学校(札幌市)には、北朝鮮が核実験を実施した9日以降、「北朝鮮に帰れ」「バカ野郎」などという嫌がらせや無言の電話が計11件あったほか、東北朝鮮初中高級学校(仙台市)でも、10日に無言電話が3件あったという。また、栃木朝鮮初中級学校(小山市)にも9日、男の声で、「子どもの安全を考えるなら休校しろ」との脅迫電話がかかってきたという】(10月11日付・読売新聞)

 身近に敵視する相手を見出し、バッシングして溜飲を下げる。古今東西を問わず常に見られることだけれども、そういうバカらしさを互いに戒め合うのが「人類の発展」ではないのか。

 以前「テポドン騒ぎ――陰でほくそえむのは誰か」「世界の孤児を作ってはならない」という記事を書いた。今回の北朝鮮の核実験に関しても、私の基本的な考え方は同じである。 

コメント (39)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

44万人の署名に厚労省答えず

2006-09-02 20:39:43 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 リハビリテーション医療の打ち切り制度撤廃運動については、皆さんもよく御存知であろう。今年4月の診療報酬改定で、リハビリテーション医療が「原則として発症から最大180日で打ち切り」と決まったことに対し、「リハビリテーション診療報酬改定を考える会」が反対運動を起こした。同会の代表は免疫学者の多田富雄氏。多田氏は4年前に脳梗塞で倒れ、重度の右半身マヒや言語障害などで現在もリハビリテーションを受けている。リハビリを受けても急性期のように目立った回復は望めないが、止めれば機能低下して瞬く間に寝たきりになる。「今回の改定は、『障害が180日で回復しなかったら死ね』というのも同じことである」と、呼びかけの言葉の中で書いている。なお、Under the Sun でも会の署名活動の紹介がおこなわれた。

 私も自分が署名すると同時に周囲に呼びかけたが、憲法や教育基本法の問題よりはるかに反応?がよかった。誰でも1人や2人は、脳卒中や交通事故などでリハビリが必要になった人を身近に知っているだろう。ヒトゴトではないと思えるはずで、当たり前と言えば当たり前だ(本当は憲法や教育基本法も重大な問題なのだが、日々の暮らしの中で具体的に何かが見えなければつい鈍感になってしまうのはよくわかる)。職場などで積極的に署名を集めた知人も少なくない。

 そして――約44万人の署名が集まったが、署名提出後64日を経た9月2日現在、まだ厚生労働省の反応はない。つまり無視されっぱなしというわけである。会ではリハビリ打ち切り被害実例の登録を開始して、患者本人や医療者らによる被害の実態報告を集め始めた(会のサイトで閲覧できる)。リハビリ科自体がなくなったという報告もあり、被害はこれから加速度的に拡大していくはずだ。

 人間は哀しいことに、どんな悲惨な状況にでもある程度「慣れ」てしまう。だから「リハビリ医療は最大180日で打ち切り」という事態も、このまま5年、10年続けば「そんなものだ。仕方ない」と受け入れてしまうかも知れない。だから、そうなる前に――私達はもっと声を上げなければいけないだろう。 

 リハビリ医療の日数制限は、今の日本の政治の「内心」をはっきりとわからせてくれる。高齢者や病人・障害者などの存在はうっとうしいだけ。大きな声では言わないけれども「金食い虫」「お荷物」と思っているのだ。「国を守る」ために使う金はあっても、「国民すべてを守る」ために使う金は惜しい。国のために有用であってこその国民、なのだ。

 再チャレンジなどという浮ついた言葉が踊っているが、(前にも書いたような気がするが)あれは「何度でも競争しろ」ということ。何度も競争させられ、そのたびに負けて傷が深くなっていく人間が多いことなど考えてもいない(あるいは考えていないふりをしている)。要するに競争している(させられている)間は自分が負け組であると認識しにくい、その錯覚を狙っている面もあるだろう。

「あすなろ あすなろ あすはなろう」という歌があった(むかし学校で歌われた文部省唱歌、というやつだろうか)。頑張って明日はヒノキになろうという歌詞だったと記憶しているが、この歌を知ったとき、どうしてわざわざヒノキにならねばならないのかと首をひねったのを覚えている。そんなのアスナロが可哀想じゃん、と。アスナロはアスナロ、カメはカメ、スズメはスズメで結構ではないか。ヒノキになる競争をしましょうと言われた時、「やーだよ」と舌を出す。それも抵抗のひとつの形だと私は思う。

 

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・医療と「市場原理・競争原理」

2006-08-01 00:49:20 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 昨日のエントリに、「消費アドバイザーの眼」・「tsurezure-diary」お二方からTBをいただいた。共に、診療報酬ランク付けのニュースに関する記事である。

 詳しいことはお二人の記事を読んで戴いた方がよい(簡潔に紹介されており、さらに書かれた方の意見も非常に参考になる)のだが、一応、ここでもごく簡単に紹介しておこう(実は私は、このニュースはキャッチしそこねていた。TBを送っていただいて、心から感謝している)。

 ニュースの中身は、厚生労働省の諮問機関である中央社会保険医療協議会(中医協)が、今月末から「医師の技量に応じた診療報酬ランク付けの検討を始める」というもの。現行の診療報酬は医師の技量と関わりなく一律になっており、そのため医師の能力向上が妨げられている上、腕のいい医師に高額の謝礼を払う慣習が無くならない。だから診療報酬に差を付けるべきだ――というのである。厚生労働省は医師の技量に応じて初・再診料や手術料にランクを付け、最高ランクと最低ランクでは2倍程度の開きが出るようにしたいと考えているようだ。

 ついに来たか――というのが真っ先に浮かんだ感想である。昨日のエントリで、私は仕事で取材した一人の医師の次のような言葉を紹介した。

「診療報酬の規定も取り払うべきだ。報酬は病院、または医師の側が自由に設定すべきである。たとえば外科医が手術1件1000万円と提示したとする。それでも彼が
優秀な医者であれば、1000万円払っても手術して欲しいという患者はいくらでもいるはず。逆にヤブであれば、1回1万円でいいと言っても患者は来ないだろう。腕を磨けば「1回手術して1000万円」の収入を得られるとわかれば、医者はみんな必死で努力する。結果として、医療の向上に役立つ。「優秀だろうとヤブだろうと診療報酬は同じ」などという状況で、誰が本気で努力するだろうか」

 彼と話をしていて単細胞の私はひたすら腹が立ったのだが、どうやら彼のように考える人々は少なくないらしい……。しかし……「技量に応じたランク付け」というのは本当に可能なのだろうか。そして万一可能だったとすれば?

【診療報酬に2倍の差がつくってことは、貧乏ならば泣く泣くランク下の医師に診てもらうしかなくなる場合もありうる。ってことは、貧乏でお金が払えなかったばかりに医療事故や診療ミスの起こる確率が高い医師を選ばざるを得ず、(中略)これが「改革」の成果だよ。】(「消費生活アドバイザー」黒川葉子さんの文より)

 そう……。それを「当然」と思うか、「おかしい」と思うかの戦いなのだ、これは。何度も繰り返しているようだが、金さえあれば最高の(医療を含めた)サービスを受けられ、金がなければ最悪のたれ死ぬような社会は、私は「まっとうな社会ではない」と心の底から思うのだ。

「貧富にかかわらず、すべての人が平等に医療を受けられる」ということ――これが日本の健康保険制度の思想であったはずで、私はこれは胸を張って自慢できる制度(愛国心の薄い私が言うのは、自分でも何だかこそばゆいけれども。笑)だと思っている。それを根底から崩すような「改革」が、庶民に敵対するものでないはずはない。

「全員が60点、70点のサービスを受けつつ、全員100点を目指して少しずつ少しずつ前進し続けるか」「100点から0点までの格差を認めるか」――私達はいま、その選択を迫られている。

 私は迷うことなく「たった一人でも0点に甘んじるほかない社会よりは、みんなが辛うじて合格点の社会」を選ぶ。平等というのは究極のところ、そういうことだ。泣く人を減らすためならば、今より少し生活がダウンしてもいい。煙草を減らさざるを得ず(私はハタチ前からのスモーカーなのだ……何と反社会的な人間であることか)、ビールを発泡酒に変えざるを得ないとしても、そんなことはかまわない。さあ皆さん、我々はそういう覚悟?を迫られる局面にいるのです。

〈余談めいた追記〉

 私は15人のイトコがいる(ほとんどが母方のイトコ達。母はきょうだいが多かった――6人きょうだいの4番目で娘としては末――上、兄弟の一人は5人もの子持ちなので、イトコがやたらに多いのだ)が、その中で3人が医療関係者の仕事に就いている。1人は医師、2人は看護師である(ちなみに看護師の1人は男性で、現在老人保健施設に勤務)。さらにイトコの息子が2年ほど前に医師になったし、医療関係者の友人も多い。だから医療職が激務であることは充分知っているつもりだし、その専門性には敬意を払ってもいるつもりだ。しかし、だからと言って「命を削るような仕事、高い専門性を要する仕事だから、他の職業人よりもはるかに高給をとって当然」とは思わない。むろん超過勤務等々に対する手当は手厚くあるべきだけれども、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という私の基本的な考え方からすれば、「すべての仕事は(その価値も、そして受け取る報酬も)本来、平等である」と思う。自分の能力を生かしきって他者の幸福に寄与できれば、それ以上の報われ方はあるまい……。
 

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医療と「市場原理・競争原理」

2006-07-31 03:21:59 | 格差社会/分断・対立の連鎖

1.企業経営の診療所がオープン

 新聞などで報道されているので既に皆さん御存知のはずだが、「構造改革特区」の制度による「株式会社の診療所」が7月29日にオープンした。再生医療ベンチャー企業「バイオマスター」が経営する美容外科診療所、「セルポートクリニック横浜」(神奈川県横浜市)である。

 構造改革特区というのは、「経済の活性化や地域の活性化のため、地域の特性に応じ、区域を限定して規制緩和をおこなう」もの(だそうである)。2001年に「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」が策定され、その翌年「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」の中で構造改革特区の導入が決定された(参考資料として、末尾に基本方針の一部を掲載しておく)。

 たとえば現在の法律では、「医業非営利の原則」により、営利目的で医療機関(病院や診療所)を開設することは禁じられている。民間企業が設立主体となるのは、「職員とその家族などのための福利厚生施設」の場合のみ認められているのだ。日立、マツダ、NTTなど幾つもの企業が病院を持っているが、それらはすべて「職員の福利厚生施設のひとつ」であり、地域への貢献などという名目で一般の患者も受け入れている形である。だが、プランを国に申請して認可されれば、企業が堂々と営利目的の医療機関を開設できるようになった(ただし保険を使わない自由診療のみ)。「セルポートクリニック横浜」は、その記念すべき第一号というわけだ。


2.ひと昔も前からの要求

「小泉改革」がスタートする以前から、経済界は医療への「市場原理」「競争原理」の導入を求めていた。たとえば日経連は1996年頃から民間企業の参入を認めるよう公に文書も提示して要求し続けており、その意味ではいま日本中に吹き荒れている「改革」は決して小泉純一郎という変人?が登場したためにハプニングのように出て来たものではなく、その前からひそかに望まれ、計画されていたものと言えよう(小泉首相でなければもう少し遅れたか、あるいはもう少し目立たぬ形で進められたかも知れないが)。

 私の周囲には医療問題に関心の深い人が多いのだが、実は彼らの間でも今回の診療所開設はさほど大きな話題になっていない。それはおそらく、この診療所が美容外科だからではないか。「豊胸? 顔のシワ取り? そんなもの医療じゃない」「やりたきゃ勝手にやれ」という冷ややかな感覚があるように思う。だが、いずれは他の医療分野にも企業が参入してくるのは目に見えている。


3.ある医師の取材体験から

 経済界のみならず、医療界にも「市場原理・競争原理の導入」を是とする人は少なくない。私は仕事で、そのひとり(あちこちで発言している、知る人ぞ知る医師)に話を聞きに行ったことがある。質問をはさみながら相手の言うことをじっくり聞いたのだが、途中であまりの噛み合わなさに音を上げたのを覚えている。喧嘩するのが趣旨ではないので懸命に抑えたけれども、取材を終えても不愉快きわまりない気分が続き、その夜は友人と飲んで悪酔いした(記事の中ではむろん発言はそのまま紹介したが、地の文は少々皮肉になった。おそらく彼の方も、二度と私の顔を見たくないだろう……)。

 彼の意見は、およそ次のようなものであった(その時のメモが何処にあるか探さないと出てこないので、細かな言葉使いは再現できない。ただし内容は正確である)。

○法律を改正して、企業が病院を経営できるようにすべきだ。人間は「利益を上げたい」と思うからこそ頑張るのであり、「病院だから儲けてはいけない」というのはおかしい。
○診療報酬の規定も取り払うべきだ。報酬は病院、または医師の側が自由に設定すべきである。たとえば外科医が手術1件1000万円と提示したとする。それでも彼が
優秀な医者であれば、1000万円払っても手術して欲しいという患者はいくらでもいるはず。逆にヤブであれば、1回1万円でいいと言っても患者は来ないだろう。腕を磨けば「1回手術して1000万円」の収入を得られるとわかれば、医者はみんな必死で努力する。結果として、医療の向上に役立つ。「優秀だろうとヤブだろうと診療報酬は同じ」などという状況で、誰が本気で努力するだろうか。


4.「金」は人間の尺度なのか

 この人は「すべてカネ」なんだな……と私はつくづく思った。そりゃまあ、私だってカネが欲しくないわけではない。あれば嬉しい。道で100円拾ったら、わくわくしたりする(セコイ!)。しかし人間の仕事は――何だか使い古された言い方で自分でも気が引けるのだが――カネだけじゃないだろう、とやはり私は思うのだ。私の仕事などなにほどのものでもないけれども、「これは」と思う仕事は足が出てもやる(おかげで食うためにセコセコとゴースト・ライターなどせねばならず、まったくもってナサケナイ)。そしてカネはそこそこ飢えないだけあれば充分で、使い道に困るほど欲しいとは思わない。

 そりゃまあね、私は優秀な人間じゃないし、医者のような社会的エリートから「おまえと一緒にすんな!」と言われても仕方ないかも知れない。でもねえアンタ、人間、金を尺度にするようになっちゃあオシマイよ。寝言言ってんじゃねえッ!

 いかん、ついつい感情がモロに出た(苦笑)。話を戻す……。


5.「多様な選択肢」の幻想

 前述の医師は、「医療がすべて自由競争になれば、全体の質が上がるだけでなく、患者のほうも選択の幅が広がっていい」という意味のことも言った。「多様な選択肢」というのは、いまの社会でよく使われる言葉だ。ほとんど耳にタコが出来ている。だが、多様な中から好き放題に選べる人間がどれだけいると言うのか。私を含めた多くの庶民は、「選択肢はたしかに多様に示されているけれども、実は選べるものは限られている」のではないか。

 以前、記事の中で書いたことがある。
「選んだつもりで、選ばされているのだ」
(自分の文章が、一番気軽に引用できるのである……)


6.人間が生きるベースの部分に競争原理を持ち込むな

 酔って眠気がさしてきたので、話を急ぐ。百歩譲って「市場原理、競争原理」が正しいとしても、それをすべてのところに応用できるか。私は、最低限「命」に関わる部分には導入してはいけないと思う。いわゆるゼイタク品なら結構ですよ。競争して下さい(私はハナっから買う気はないし)。しかし医療や福祉、教育その他、人間の「文化的な最低限の生活」を保証する部分、生きていくベースになる部分にそれを持ち込んではいけない。金があれば最高の医療が受けられ、なければのたれ死ぬしかない社会を選ぶよりは――いささか極論ではあるけれども、私は「みんなでのたれ死にに直面する社会」を選びたい。

 ガキじみた理想主義者と言われてもいい、私は「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会を夢見ている。子供の頃から夢見てきてこの年(笑)になったのだから、おそらく死ぬまで変わるまい。そのあたりのことは、あらためて書き留めておきたいと思う。


〈資料〉「構造改革特区の目的」
――構造改革特区推進のための基本方針(2002年9月20日・構造改革特区推進本部決定)より抜粋

 経済の活性化のためには、規制改革を行うことによって、民間活力を最大限に引き出し、民業を拡大することが重要である。現下の我が国の厳しい経済情勢を踏まえると、一刻も早く規制改革を通じた構造改革を行うことが必要であるが、全国的な規制改革の実施は、さまざまな事情により進展が遅い分野があるのが現状である。こうしたことを踏まえ、地方公共団体や民間事業者等の自発的な立案により、地域の特性に応じた規制の特例を導入する特定の区域を設け、当該地域において地域が自発性を持って構造改革を進めるために、構造改革特区を導入する。構造改革特区の導入により、特定の地域における構造改革の成功事例を示すこととなり、十分な評価を通じ、全国的な構造改革へと波及して、我が国全体の経済の活性化が実現するとともに、地域の特性が顕在化し、その特性に応じた産業の集積や新規産業の創出等により、地域経済の活性化にもつながる。
コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「再チャレンジ」などいたしません

2006-06-30 02:43:18 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 ポスト小泉の本命などと持ち上げられている安倍官房長官についてハムニダ薫さんが火を付けられた「《安倍晋三、統一協会合同結婚式に祝電》をネット上に広げようキャンペーン」がブロガーの間で盛り上がり、現在も「あんな男が首相になったらオシマイだ」という声が相次いでいる。

 私も「いよいよこの国も末期症状を呈してきたか」と開いた口がふさがらない一人。上記のキャンペーンも尻馬に乗って、じゃなかった微力ながら応援しているのだが、ここではそれと別の話を書いておきたい。「再チャレンジ」の問題である。

 そのことは6月12日のエントリの中で少しばかり触れたので、まずは(さぼって)それを再録しておく。UTSの素楽さんのコラムをまねたリサイクルである(笑。猫に喋らせた体裁になっているので、言葉が汚いのは御容赦のほど)。

【「再チャレンジできる社会」だの何だのって言ってるけどさ、あの人が考えてる再チャレンジって、要するに「何度でも競争しろ」っていうだけじゃん。「イチ、抜~けた」ってのはダメ。負けても負けても、立ち上がれって。スポ根ドラマじゃねえ、っつーの。で、「チャレンジし続けている限り、あんたは負け組ではないのですよ~オーホホホ」なんて、適当にひとをなだめようとしてるんだよな。こんなイヤったらしい飼い慣らしを嬉しがるなんて、人間てほんとバカだよな。】

 チャレンジということそのものには、何の罪もない。 結構なことである。だが本来は(たぶん)権利を主張するとか課題に取り組むとかいう意味だったはずのチャレンジという言葉が、いつのまにやら椅子取りゲームで勝つことという薄汚い意味にすり替えられてしまった。言葉が奪われていくさまを、まざまざと見せつけられた思いがする。かなしく、そして悔しい。

 スミレほどに小さい存在でありたい、という意味のことを漱石は呟いた(正確な言葉は忘れた)。富国強兵にひた走る当時の社会においてタワゴトに過ぎなかったその呟きは、今もなお――いや、一層にタワゴトとして嗤い飛ばされている。競争から降り、風や水の吐息と自分の息をひとつに合わせて、ささやかに生きることは悪なのだろうか。駆り立てられるままに眦を決して戦いの太鼓に昂揚しなければ、生きていくことを許されないのだろうか。

 チャレンジというのは私にとっては、自分の中で自分の命と言葉を探るためだけに使う言葉である。官房長官殿、そして何度でも武器を執って戦えとけしかける人々よ。あなたがたのいうチャレンジの貧しさに、私はたとえ殺されても(なんて言うのは、いくじなしの私には卒倒するほど勇気がいるのだけれども)組みしない……。

◇◇◇

ついで……と言うのは変だけれども、同じ6月12日のエントリで「言葉」についてもちょっと書いていたので、それも再録しておく(リサイクルもいいところだ……恥)。再チャレンジ、再チャレンジとのたまう安倍官房長官が、いかに言葉を薄汚いものにしているかという部分である。

【(中略)教育基本法改正案を「21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案」とかさ(※)。どーっこが、日本の香りなのかね~。中身のからっぽな、キレイキレイな言葉をずらずら並べただけじゃん。漂ってくるのは嘘っぽい香りだけ。

(中略)どれも言葉だけ聞けば、別に文句のつけようはないことじゃん。ま、オイラなんざ「郷土や国を愛する気持ち」とか「道徳心」とかのあたりは、ちょいとゲゲゲだけどね。まあ、ごく素直に「いいんじゃないすか?」と思う人は多いだろうし、それはそれでかまわないと思うんだよねっ。でもさ、こういうキレイな言葉ほど、中に汚いものを詰め込めるんだよな~。汚いものを隠せる、っつうか。たとえばさ、「愛する」なんてすっごくキレイな言葉でしょ。でも、そういう言葉で嗜虐心とか支配欲とか、その他いろんなものにフタしちまう奴が世の中、いっぱいいるじゃん。バラの花には棘がある、じゃないや、桜の樹の下には死体が、でもない……ええい、何でもいいや。ともかくキレイな言葉ほど気をつけた方がいい、とオイラは思ってんの。腐りかけた食べ物をそのまま出されたら誰でも眉ひそめるけど、いっぱい香料ふりかけて、豪華な皿に盛って、ついでに綺麗なトッピングでもされて出されたらさ、わかんなかったりするじゃん。

※「(現行法との)最も大きな違いは、現行法では抜け落ちていた、『公共の精神を尊ぶ』『伝統・文化の尊重』『郷土や国を愛する気持ち』『生命や自然の尊重』『道徳心』『自律の精神』などを書き込んだこと。21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案だと思う」(夕刊フジ・6月2日インタビュー記事より)】

ああ、言葉、言葉! 私達はここまで言葉を奪われてしまったのか。

仁義礼知信忠孝悌、『南総里見八犬伝』の霊玉の刻まれていた文字は(私の個人的感覚では忠だけは例外だが、その他は)もともと人間の基本的なモラルと深くかかわっていたはずなのに、権力者の側に奪われた途端に地獄に堕ちた。私達がそれを奪い返せるのは、いつの日のことだろうか…。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「多様性」と格差は無関係

2006-03-03 02:13:18 | 格差社会/分断・対立の連鎖
格差の存在について、小泉首相の発言はあいかわらず強気。2月28日の衆院予算委員会では、「どの国にも、どの時代にも格差はある。そういう中でどのように活力を持った国にしていくか。違いや多様性を認めながら、お互いの力を、能力を高める社会をつくることが望ましい」と述べたそうである。

「違いや多様性を認めながら……」は大いに結構。その部分は、私も大賛成である。しかし、「違いや多様性」がなぜ「格差」に結びつかなければいけないのか。それが私にはどうしても「理解できない」。頭が悪いと言われてもいい、負け組の泣き言と言われてもいい、理解できないと私は死ぬまで執拗に繰り返したい。

「どの国にも、どの時代にも格差はある」
それはそうかも知れない。だが、この言葉には「今、現在の時点で見渡す限り」という注釈がつかねばならない。「喜八ログ」さんの所でコメントをやりとりした時、喜八さんがこんなことを書いてくださった。
「たとえば数百年前の人たちに「普通選挙」を説いても「なんだ? それ?」となったでしょう」(http://kihachin.net/klog/archives/2006/02/horitakeaki.html)

そう……たとえば私たちが何百年も前に生きていたら、「人間が月へ行く」ことは単なる空想に過ぎなかっただろうし、ギリシア・ローマ時代(でも何でもよいが)の奴隷身分に生まれていたら「おまえも主人と同じ尊厳を持つ人間である」と言われてもキョトンとするだけだったろう……。過去のどの時代にも、そして現在の何処の国にもないからといって、イコール、それが空想ということはできない。私たちはしばしば理想と空想とを混同してしまうけれども、「非常に困難な道であっても不可能ではない」ことは空想とは言わない(いや、私は空想も非常に好きなのであるが、それとは話が別)。そして……たとえ自分が死ぬまでに到達できないとわかっていても、私は自分の理想の方に顔を向けていたい。

突然、ピョートル・クロポトキンが『相互扶助論』の中で、生き物の世界には相互闘争(生存競争)の原理のほかに相互扶助の原理があり、生存と進化のためには後者の方がはるかに重要である。生き物は優勝劣敗、弱肉強食の原理によって進化するのではない――という意味のことを述べていたのを思い出した(意味、である。言葉の使い方は少し違っていたかも知れない)。もう1度、クロポトキンや幸徳秋水でも読んでみよう……。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「格差社会」に対する素朴な違和感

2006-02-14 04:06:23 | 格差社会/分断・対立の連鎖
これは私のごく素朴な感覚である――。

「私は格差が出ることは悪いこととは思っていない」という小泉首相の発言(1日午後の参院予算委員会における答弁)に対して、多くの批判の声が上がっている。怒り、あきれ、激しく批判したブログも枚挙にいとまがない。

その一方で、「格差がつくのは当然ではないか」という意見も少なくないようだ。もしかすると、「格差は努力による競争の結果である。全く格差がつかないのであれば、人間、努力する甲斐がない。ただ、格差が固定するのはよくないし、セーフティーネットもきちんと整備すべきである」というのが、最も多数を占める常識的?な意見であるかも知れない(アンケートをとったわけではないので、実際のところはわからないが)。

だが、私は――固定しようとすまいと(むろん、固定しないより固定する方がはるかに問題なのだけれども)基本的に、「格差が出るのは悪いこと」だと思っている。10日ほど前にブログで書いた文章を、もう一度載せておくと……

【能力のある人間、あるいは競争の勝者は金も力も手に入れることができ、能力のない人間、あるいは敗者は地べたをはいずり回っていろ、という考え方には組みしない。「少数の年収ン千万円(ン億円?)の人間と、多数の食うや食わずの人間がいる社会」よりも、「みんながそこそこに食べていける社会」の方が私にとっては居心地がいい。「年をとって介護が必要になった時、自費で最高の手厚いケアを受けられる人がいる一方で、介護保険の自己負担分が払えないためろくにサービスを利用できない人もいる社会」よりも、「みんながほぼ平等なケアを受けられる社会」を選びたい】

努力すれば「それなりの報い」を受け取れるはず、というのは本当に正しいのだろうか。報いがなければ誰も努力しなくなる、というのは本当だろうか。人間は、そんな安っぽいものだろうか。

私は長年働いてきたけれども、「流した汗」及び「自分自身の満足」と、受け取った対価とは必ずしも比例していない。むしろ反比例したことの方が多いかも知れない。これはどうしてもやっておきたいと思えば「手弁当」で働いたような気がするし、それによって金を儲けて美味しいもん食べようとか、喝采してもらおうともあまり思わなかった(むろん思いがけずお金が入れば嬉しいし、褒めてもらえれば嬉しくて単純に舞い上がってしまうけれども、それはいわば偶然にもらってしまったオマケのようなものだ)。

食べるために、気乗りのしない仕事はたくさんやってきた。著名人のゴースト・ライターをしたことも何度もある。ちなみにゴースト・ライターというのは、貧乏なフリー・ジャーナリストの貴重な収入源のひとつなのである。古典芸能や伝統工芸関係の方などの自伝を書いたり、忙しい評論家の本を代筆したり……。もちろん、いくら何でも自分の思想信条に反する仕事はしないが、財布の軽い時は「ま、いいか」程度のものを引き受けてきた(たとえば海外で長く生活した方の体験談とか、金魚の上手な飼い方、程度のもの――もちろんこれは適当な例であって、金魚の飼い方などはゴーストしたことない)。そういった場合は、せちがらいほどビジネスライクにお金を戴くが、自分から望んだ仕事については「最悪、持ち出しになってもかまわない」と思っている。ついでに言うとゴースト・ライターであっても、「これは記録に残しておくべきだ」と思う内容であれば、報酬は二の次である。

私は二流の(厳密には三流以下かも。笑)、そして無名&貧乏なジャーナリストのままで終わるだろうが、それでも一向にかまわない。恥ずかしいことはしなかったよな、時々自己嫌悪に陥ったりしたけれども、言いたいことは言ったしやりたいことも(自分の能力の範囲で)やったよな、と思えれば充分だし、金も食っていくだけあれば充分である(飢え死にはイヤだけれども)。だから……私はつい、疑ってしまう。「努力や能力に応じて格差が生まれるのは当然」という人は、実は自分のやっていること(仕事)が後ろめたいのではないか、と。

脈絡のない話になってきた。ついでに脈絡ないまま続けるが、少し前に一人の友人と激しく論争したことを思い出す。彼は国立大学の教官なのだが、給与の安さをぼやくものだから、「贅沢言うな」と難詰したのだ。君は自分が望んだ職業に就き、コツコツと自分が望む研究を続けている。そして君は食うに困っているわけでもなく、必要な本を買うのに躊躇するわけでもなく、さらに言えば君の収入は、同じ年齢の人々の平均収入よりも多い。それで何が不満なのか――と。

彼は、自分の能力と業績に対して、報酬が少なすぎると思っているようだった。確かに彼は昔から私など足元にも及ばない秀才だったし、その研究の成果によって社会に貢献していると思う。……それでなぜ不満なのだろうと、鈍才の私は思ってしまうのである(彼との論争は、まだしつこく続いている……。古い友人で、お互いわかっているところが多いので、決定的な決裂には至っていないけれども)。

むろん私は(自信を持って言うが)凡人だから、「金なんていらねーよ。ペッ」と澄ましているわけではない。物質的な欲望はたっぷりある。衣食住にはあまり金のかからない人間だけれども、買いたい本はいっぱいあるし(前出の友人に、おまえさんの生き方を全うするなら図書館で読むべきだと言われてしまった。苦笑)、劇を見たり、たまには旅行にも行きたい。1年ぐらい働かないで暮らせるといいなあ、などと思ったりもする。だからしっかり宝くじを買ったりもしているのだ。しかし……これだけは確かに言えるのだけれども、必死で生きている隣人たちの何ものかをかすめ取ってまで、いい思いをしたいとは思わない。そんなことは――ごく単純な感覚として――気分が悪いではないか。
「金が欲しい、女が欲しい。ただそれだけで人を殺した」(ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』。封切り時に観たわけではないので、念のため。笑)みたいな走り方はしたくない。

いい加減に、余談はやめよう。……
ひとはなぜ、「どちらが優れているか」という競争をし、「これだけ成果をあげたのだから、いい思いをして当然」と思うのだろう。生きても、たかだか百年に過ぎないのに。起きて半畳、寝て一畳なのに。「能力のある人間」がその能力を「自分のもの」と思わず、「たまたま人より勝っているところがあるのは天恵(私は確信犯的無神論者なので神の恵みとは言わない。天恵というのも本当は変かも知れないが、仮の言い方として使っておく)。明日を夢見るために、気前よく提供します」と言える世界……はユートピアなのだろうか。
コメント (26)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・「理解できない」のは私のほうである

2006-02-04 02:11:40 | 格差社会/分断・対立の連鎖


1日午後の参院予算委員会で、小泉首相はこんな答弁もおこなった。
構造改革に伴う経済格差拡大への批判が強まっていることに関し、「わたしは格差が出ることは悪いこととは思っていない」と断言。さらに社民党・福島党首の「貧困層が増えているという認識はあるか」という質問に対し、「どの時代でも成功した人と成功しない人がいる。貧困層をなくす対策と同時に、成功をねたむ風潮や能力のある人を引っ張る風潮は厳に慎んでいかないと、社会の発展はない」と述べたという。
うーん、理解できない(笑)。

私は基本的に、「格差が出るのは悪いこと」だと思っている。能力のある人間、あるいは競争の勝者は金も力も手に入れることができ、能力のない人間、あるいは敗者は地べたをはいずり回っていろ、という考え方には組みしない。「少数の年収ン千万円(ン億円?)の人間と、多数の食うや食わずの人間がいる社会」よりも、「みんながそこそこに食べていける社会」の方が私にとっては居心地がいい。「年をとって介護が必要になった時、自費で最高の手厚いケアを受けられる人がいる一方で、介護保険の自己負担分が払えないためろくにサービスを利用できない人もいる社会」よりも、「みんながほぼ平等なケアを受けられる社会」を選びたい。

その意味で、私は税金は原則として累進課税方式を採るべきであり、さらに言うと累進税率は可能な限り高い方がいいと思っている。高額所得者の中に「稼いでも稼いでも税金でもっていかれる」という人がいるが、払った残りは一般庶民の平均所得よりはるかに多いはずで、それでいいじゃないかと私などは思う。「税金を払った残りの所得」――いくら私でも全員同じであるべきだなどとまでは言わないが、その最高と最低の差はなるべく小さい方がいい。私が貧乏人だから気楽なことを行っているのかも知れないが、「そういう社会のほうがまっとうだ」と思うのである。

税金の話については実のところ「難しいことは全然わからない」ので、ボロが出ないうちにやめるとして(もう出ているかも知れない)――

「成功」は金に結びついて当然、という考え方も私にはそれこそ「理解できない」。人が何かをやろうとし、努力し、成し遂げたとする。その時、彼は自分が汗水垂らしたこと、そして幸運にも成し遂げられたこと自体で、すでに「むくわれている」のではあるまいか。アインシュタインが相対性理論を確立したのは、それで金儲けして悠々自適の老後を送りたかったからではあるまい。松本清張がびっくりするほどたくさんの小説を書いたのは、印税で儲けて別荘を建てたりベンツに乗ったりしたかったためではあるまい。近所のオニイチャンが社会福祉士の資格を取り、会社を辞めて老人ホームに勤めたのはその方が収入が多いから、ではあるまい。

もうひとつ――「能力」というのは何だろう、とも私は考える。ある本に、「能力主義に反対するのは勇気がいる」という意味のことが書かれていた。おまえは能力がないからそんなことを言うのだ、と思われるからだそうである。確かにそうかも知れない。しかし私はそう思われても一向に痛痒を感じないので、「人間の能力に線引きをするのは反対」「人間を能力なるもので差別するのは反対」と大声で言う。人間の能力にはほとんど無限のバラエティーがあり、それを比較するなど誰にもできるわけはない。権力を持つ人間や既得権を失いたくない人間が「能力」と言うとき、それは「彼らにとって有益な能力」であるに過ぎない。

そして三つ目の「?」。
成功をねたむ風潮とは、いったい何を指すのだろう。「累進税率は高いほうがいい」「能力なるものによる差別反対」といった発言の陰には、妬みがひそんでいるのだろうか? うーん、と胸に手をあてて考えてみた。私は凡人だから、むろん嫉妬だの羨望だのという感情をしっかり持っている。しかしどう首をひねっても、別に金持ちや「成功した人々」を妬む気持ちはないし、ましてや足を引っ張ろうとも思わない(そんなしょーもないことをする暇があったら、もっと自分にとって有効なことに時間を使う)。3度の飯を美味しく食べられ、他者に後ろめたい思いを抱かずにすみ、あまり拘束されずに生きていければそれでよく、それ以上のことはさほど望んでいない。多くの人々が、そうなのではあるまいか。

もしかすると小泉首相の頭をよぎったのは、「小泉チルドレンと呼ばれるセンセイがたのトンデモ発言を、我々庶民が嗤うこと」だったのだろうか? あれは妬みではなく、あきれかえってものも言えない、という庶民の声だったのだけれども……なあ。

まとまりのつかない文章になってしまったが(いつもそうなのだけれども)……強いことがエライのだ、競争に勝つのがエライのだ、優秀なことがエライのだ、という風潮にはいい加減おさらばしたい。弱くて悪いか。負けて悪いか。優秀でなくて悪いか。逃げ支度して悪いか。私たちはそろそろ開き直ってもいい頃だ。直対応していると、相手の土俵に引きずり込まれる……。
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犠牲にされる側

2006-01-18 00:34:14 | 格差社会/分断・対立の連鎖
少し前のニュースになるが、今月10日、ブッシュ大統領がイラク問題に関する演説の中で「2006年はより厳しい戦いと、さらなる犠牲が予想される」と述べ、「勝利に向けた一層の前進が見られるだろう」とも付け加えたそうである。ブッシュ大統領の「戦争中毒」ぶりは前々からよく知られているところ。今さら何を聞いても驚かないが、「犠牲」という言葉が出てくるたびにやはり神経のどこかに痛みが走る。

――あなたが一人で力み返って、自分一人が犠牲になるというなら、それはかまいませんよ。勝手にして下さい(むろん、他の誰にも迷惑のかからないやり方で、犠牲とやらになって欲しいものですが)。しかし、「犠牲になる」のはあなたではない。――

「貴い犠牲」とか「○○を実現するためには犠牲がつきもの」などと平然と言うのは、常に犠牲を強いる側である。犠牲にされる側は、「何でこんな目に……」と髪をかきむしりながら殺されてゆく。もちろん、貴い犠牲なるものを信じさせる方向への巧みな誘導が存在するわけで、それを信じて死んでいく人々もいるのだが……。しかし、繰り返して言う。犠牲を讃えるのは(犠牲を賛美し始めるのは)いつも命令する側、人を駒のように動かす側、自分は傷つかずにいられる側の人間である。

犠牲、などいう言葉は聞きたくない。人が、人の生活が、人の生きている場所が、何ものかの生け贄になることなどあってはならない。



コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松下政経塾――純粋培養された人間を信じない

2005-12-23 23:14:20 | 格差社会/分断・対立の連鎖


またしても酔言――
民主党の前原代表は、松下政経塾の出身。松下政経塾とは何だろう、と時々考えることがある。私は個人的な感覚として松下幸之助という人物が好きではなく(或る意味で立派な人なのだろうが、キレイゴトの人物、という気がしてならない)、松下系列の企業にも多々疑問を持っているので、松下政経塾にも以前からずっと胡散臭さを感じていた。

この塾はむろん、「崇高な理念」と「使命感」に基づいて設立された――のであろう。しかし崇高な理念や使命感は、必ずしも正しいとは限らず、喘ぎながら地を這うように生きている庶民(私もその一人であることを宣言する)の味方であるとも限らない。崇高な理念や使命感はしばしばエリート意識と通底し、非エリート・弱者・黙ってうつむく人間を踏みつける。

私は「純粋培養」された人間を信じない。食べるために志操を曲げたことがあり、卑怯な振る舞いをしたこともあり、そのことに密かに傷ついて眠れぬ夜を過ごしたあげく、震えながら「譲れないギリギリの線」を自分の中に焼き付けた人間しか信じない。

話が逸れた。年末年始の休みに、松下政経塾についてもう1度ゆっくり考えてみたいと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「分断して統治」されまい

2005-12-03 02:10:25 | 格差社会/分断・対立の連鎖
「分断して統治せよ」は、古来、権力側の基本的な手口であるらしい。支配される階層を細かく分ける。そしてそれぞれの階層に「自分は○○よりは上である」という小さな満足感を味わわせる。階層同士を小さな利害の対立で争わせ、競争させる。21世紀になっても、そのあきれるほど素朴で、かつ陰湿な構図はちっとも変わらない。よほど有効な方法なのだろう。

「生活苦しいけど、オレはリストラされるとこまでは行ってないもんな。ホームレスとかにはならないもんな」「テレビばっかし見ている主婦や年寄りとは違うもんな」「能力のある人間が勝つのは当然じやない? ニートとかって、要するに意欲も能力もないだけでしょ」

もともと弱い立場の者達が分断されて勝てるわけがないのだが、分断された側が「弱い立場」と気づきにくいのがミソと言えばミソ。弱い立場の者達=マイノリティ、と何となく思われているのだ。障害者であるとか失業者であるとか、年金生活の高齢者であるとか。実は(むろん私も含めて)大多数は、勤め先が倒産すれば明日から路頭に迷い、もしも職場で「君が代斉唱」が強制されたとしてそれに「いや~私は」とシブイ顔をすれば窓際に追いやられるかも知れず、そしてたとえばもし徴兵制が敷かれれば否応なく引き立てられ、おろおろと戦場に赴いて犬死にする弱者に過ぎないのに。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする