華氏451度

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「愛国心」はなぜ危険か

2006-09-21 01:23:50 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

〈前口上〉

愛に関するメモ――愛国心に興味はない」「愛国心・お客さまコメント(番外)」など、「愛国心」関係のエントリで、コメンテーターの議論が続いている。 さまざまな意見をいただくこと、知識や情報を提供していただくこと、そして活発な議論を展開していただくこと――原則としてすべて大歓迎である。賑やかなのは大いに結構。ただ、ポカンと口開けて横で見ている間に、どんどん話が拡散してきているので、昨日、次のようなコメントを入れた。

【議論のテーマが「愛国心」そのものから少しずつ逸れてきているような気配が……。むろん人権の問題も共謀罪の話も愛国心問題と根っこの所でつながっていますが、それを言えばきりがない。たとえば先日ご紹介した『虫たちの墓』紹介の記事を読み、戦争に関わる問題として東京裁判についてのコメントを入れる――ご自身の感想にからめて軽く触れる程度ならいいのですが、唐突な感じで持ち出してこられたり、コメント欄で東京裁判論争が始まったりするのはちょっと違う気がします。私はせっかくいただいたコメントはなるべく読みたいと思っていますので、あまり広げてくださらぬよう、お願いします(関係ない話が出て来た時に、すぐにストップかけなかった私が悪いのですが……すみません)。】

 これからも、そういうことでよろしくお願いします。愛国心の問題はきっちり煮詰めていきたいと思うので、「国を愛するのは自然なことでしょ」といった粗雑なご意見や、言葉尻を捉えてうんぬんするようなことは御勘弁を。

〈愛国心の定義〉

 愛国心というのは人によって受け取り方が違うので、まず愛国心の定義をはっきりてせるべきだという提唱があった。どんな言葉であれ、その解釈や感じ方は人によって違う。ひとつひとつについて定義づけながら話を進めていかねばならないとすると、もともと言葉に変なこだわりのある私なんざ、それこそ何も書けなくなってしまう虞もあるのだが……「愛国心」に限っては議論の方向性を明らかにするためにも、定義した方がいいだろう。まずは一応、私の愛国心の定義を書いておく。

私が解釈している辞書的定義/ごく単純に「自分が生まれた国、あるいは育った国、住んでいる国等、自分自身がそこに帰属していると考える国」に対して、特別な思い入れ(愛着する心)を持つこと。

(自分の国という簡単な言い方をしないのは、生まれた国、育った国、いま所属している国等が異なる人もいるから。たとえば小泉八雲が自分は愛国心を持っていると言ったら、その対象は母の祖国であり彼が生まれた国でもあるギリシアか、父の祖国であり幼児期から育ったアイルランドか、最も長く生活したアメリカか、それとも最後に国籍を持った日本か。何処でしょうね)

私自身の愛国心の定義/「自らが帰属している(あるいは帰属していると考える)国」に対して、それを特別なものとして思い入れを持つこと。その思い入れの中身は「愛着心」と「忠誠心」の2種類がある。

〈問題は忠誠心〉

 愛着を持つというメンタリティは、誰も否定・非難することは出来ない。子供が「うちのお母さんは世界一すばらしい人」と思ったり、特定の土地が好きで好きでたまらなかったり、伝統芸能を大切に守りたいと思ったりすることについては、基本的に(あくまでも基本的に、である)問題はない。

 問題は「忠誠心」の方にある(それはまあ、持ちたい人は持ってもかまいませんけれども)。そして国家に代表される人間の集団においては、しばしば「愛着」よりも「忠誠」が重視される。愛国心なるものの危険性は、そこにある。

 よく「自分の国を愛するのは自然なことじゃないか」と言う人がいる。愛着を感じる、という意味だけならばあるいは「自然なこと」に近いかも知れない。私は愛着心も比較的薄い方だが、それでも日本の文化の中で育った人間として、ヘソの緒でつながっている感覚はある。イヤな国にはなって欲しくない。

 しかし、本当に「ごく自然なこと」であれば、なぜわざわざ「愛する心を育て」なければいけないのか。答えは簡単で、実は自然なことでも何でもないからだ。前にも書いたような気がするが、誰も絶対に立ち小便や違法駐車するわけない所に「立ち小便禁止」「駐車禁止」の張り紙などするわけがない。そういった張り紙があるのは、そこでする奴がいる、という証拠みたいなものである。「愛国心教育」の必要性を声高に叫ぶ人々がいるのは、自然に任せていては生まれにくいものだからであり、その場合の愛国心の中身は間違いなく忠誠心の方である。

 コメント欄で「アメリカでもドイツでも国旗に礼を払うのは学校で教えます。国家ならば当然の行為でしょう」と書かれた方がおられるが、そう、まさにその通り。国旗にせよ国歌にせよ忠誠心を養うための小道具であり、だから私はいかなる国のものであっても国旗や国歌は好きになれないのだ。

〈忠誠心にNOを〉

 忠誠心というのは相手が何ものであれ、その相手だけに捧げられる(あなただけを愛する、というやつだ)。そして、忠誠を誓った相手のために、彼の敵を滅ぼすことに情熱を燃やす。忠誠心は一面美しいものであるらしく、王に忠誠を誓ったり、帰属集団に忠誠を誓って華々しく戦いそして死んでいった英雄達の物語は世界中に枚挙のいとまもないが、一歩下がって見てみれば「何だそれ」でしかない。忠誠心に燃えた人間達同士が殺し合って、いったい何してるんだ。いや、本気で忠誠心に燃えている人はいいとしても、巻き込まれて犬死にしたり家を焼かれた人間はどうなるんですか。

 愛国心、などという曖昧な言葉がいけないのかも知れない。いっそ「忠国心」と言っていただければ、わかりやすいと思うのだが。

コメント (17)
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