華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

城山三郎より結城昌治

2007-06-28 02:58:12 | 本の話/言葉の問題

 しばらく休みだった「愚樵空論」が再開された(教えてくれたdr.stoneflyさん、ありがとう)。かすかにでも繋がり続けているのはむろん嬉しいことなのだが、はぐれてしまったた友人と再会できた喜びはそれにまさる。愚樵さん、またよろしく。

◇◇◇◇◇◇

 佐高信の『城山三郎の昭和』を読んだせいで(その話は前回書いた)、グスグズと間歇的に城山三郎について考えている。

 前回書いたように私は城山三郎の本を少ししか読んでおらず、それは彼の小説が主には伝記小説であるせいだと思っていた(個人的な好みとしては伝記小説より伝奇小説のほうが……)。だが少しずつ自分の記憶の淵に分け入っていくうちに、ほかにも理由があるかも知れないと気付いた。

 城山三郎の小説の主人公達は、実に颯爽としている。毅然としている。広田弘毅も石田禮助も。

 むろん、颯爽としていること、毅然としていることが悪いことであるわけはない。私もできれば「颯爽と」「毅然と」生きたいと思っているし、多くの人が同じだろう。だが必ずしも颯爽とも毅然ともできず、卑怯なことばかりしている。いや、他の人は知りませんよ。少なくとも私は、なんですが。それに対する忸怩たる思いが、常に影法師のように自分に付きまとっているのだ。私を駆り立てるのは、国という存在が重くなればなるほど自分はもっともっと卑怯になるのではないか、死んでも死にきれない恥をさらすのではないかという恐れだけである。

 城山三郎の主人公達は実にカッコいい。中には――タイトルは忘れたが、タクシー会社で自社の車が事故を起こしたときに被害者の見舞いや弔問に行くのが仕事で、その時だけ重役の名刺を持たされる定年近いサラリーマンを主人公にした何ともせつない小説もあったが……多くの主人公はビビってしまうほどカッコイイのである。

 戦争文学に分類される『硫黄島に死す』を読んだことがあるが、その時にも微かな違和感というか、軋みを感じた。結城昌治の『軍旗はためく下に』や大岡昇平の戦争文学が好きで(結城昌治のこの小説についてはかなり前に紹介した)、同じような味を求めて読んだものだから、余計にそう感じたのかも知れない。

 いや、私は「カッコイイ主人公」は嫌いじゃあない。むしろ好きな方かも知れない。子供の頃はカッコイイ主人公が活躍する冒険小説をわくわくしながら読んだし、司馬遷『史記』の刺客列伝その他の主人公達や、寺山修司の芝居の主人公達も好きだ。そう言えば偏愛する高橋和巳や山田風太郎その他もろもろの作家の小説の主人公たちも、(格好良さの種類はそれぞれ少しずつ違うけど)カッコイイと言えば実にカッコイイのである。バタイユとかグラスとかの小説も登場人物もカッコイイし。漫画(劇画、というのかな)『カムイ伝』の主人公達もカッコイイよなぁ。

 ただ……私が好むカッコイイ主人公達は、考えてみればそのカッコよさは非常にあやうい。「まっすぐ」「純粋」ではないのだ。自分がやっていることが正しいのかどうかはわかんねぇさ、でもこうするしかないんだよな――という、ほろ苦さに満ちている。城山三郎の小説の主人公たちには、その屈折がない(屈折があるのがいいことかどうかは、私はわかりませんが)。

 前回冒頭部分を紹介した城山三郎の「旗」という詩を、私はどうしようもないほど好きだ。問答無用で共感している。彼のものの考え方の原点のようなものも、「うん、わかる」と思うのだ。でも――それでもなお、彼の小説に対する違和感はどうしても拭えない。

 私は以前にも書いたことがあるが、司馬遼太郎が好きではない。その司馬遼太郎の小説と一脈(ほんの一脈、だけれども)相通じる匂いを、私は嗅いでしまう。それは間違っているという意見も多いだろう。確かに司馬遼太郎と城山三郎は、思想信条の根幹が違うことは違う。だから確かに間違っているのかも知れないが、これは私の感覚だからどうしようもない。司馬遼太郎だって、兵士として戦場に生き、戦争の愚を思い知って、二度とあんな世の中にしてはいけないと思っていたことは確か……であるらしい。言論の自由に対しても確固たる立場をとっていた。それでも私は、「歴史を動かしたヒーロー」に思い入れを持つ司馬遼太郎がどうしても好きになれない。城山三郎にも、ちょっぴりそんな匂いを嗅ぐのである。

 思想は変えられる、癖は直せる。だが感覚だけはどうしようもないのである。私は佐高信がけっこう好きなのだが、彼がなぜ城山三郎をここまで評価するのか疑問なほどだ。私はやはり……『硫黄島に死す』でカッコイイ主人公を書いた城山三郎より、『軍旗はためく下に』でとことんカッコワルイ群像を描いた結城昌治の方が好きである。

 なかなか毅然とできない人間でも、否応なく毅然とせざるを得ないことがある。そんなときは、颯爽とはいかないまでも毅然とした言動を貫きたい――これは私の何よりの願いである。そうありたい、と思っている……。

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旗振るな――『城山三郎の昭和』を読む

2007-06-26 23:51:21 | 本の話/言葉の問題

 最近少々疲れ気味で乗り物の中では居眠りしていることが多いのだが、今日は久しぶりに電車の中で本を1冊読んだ。駅前の書店で買った、佐高信『城山三郎の昭和』(角川文庫)。「本の旅人」に掲載されて3年ほど前に単行本として発刊されたもので、先頃……おそらく城山三郎死去に伴って文庫になったものである。とっくに読まれた方も多いと思うが、私はまとめて読んだのは今回が初めてである。

 作家論ではないし作品論でもないし、強いて言えば人物論か。城山を熱く評価している佐高信が彼の文章の原点について自分の思うところを語ったもので、雰囲気としては随想に近い。興味を抱かれたら一読をお勧めするが、さっと読める文章なので立ち読みでも充分読み通せると思う。

 私自身は、城山三郎の小説は一部の代表作?しか読んでいない。これは別に他意あってのことではない。城山は綿密に取材し、膨大な資料を集め分析して書くというタイプの作家で、彼の小説の多くはいわゆる伝記小説である。たとえば東京裁判におけるA級戦犯の中で唯一の文官であり、「軍人のほかに文官の死も要求されているのなら、私はそれを受け入れる。あの戦争を止められなかったという点だけにおいても私は有罪である」という意味のこと(字句として正確かどうかはわからない。いつもの通りうろ覚えのまま書いているのだが、ニュアンスとしては間違っていないはず)を言って絞首刑に処せられた広田弘毅を主人公にした『落日燃ゆ』はその代表だろう。つまりはフィクションというよりジャーナリズムの仕事に近く、その世界の片隅で飯食ってる私にはちょっと食傷ぎみだった……というに過ぎない。私は元来が、どちらかといえば「荒唐無稽な幻想の世界」が好きなのだ……。

 もうひとつ。たしか『落日燃ゆ』だったと思うが、天皇に「……と言われた」といった類の(軽い)敬語が使われていた。それが微かな違和感につながったのかも知れない。読んだのはもう随分前のことだから、確信をもって言えるわけではないけれども。むろん城山三郎には彼なりの判断があってのことだと思うが、私はノンフィクションおよびそれに近い文章で特定の登場人物に敬語を使うのは嫌いなので、何となく読みづらい感じがしたのだろう。(完璧なフィクションの世界で、一種の雰囲気作りとして敬語を使うのは話が別。たとえば『源氏物語』であれば、光君が○○とおおせられた、みたいな表現があっても「ア、ソウ」ですむのだが……)

 前置きが長くなった。それはそれとして――。私が同著のなかでもっとも心揺さぶられたのは、城山三郎の『旗』という詩を全文まともに読んだことだろう。城山は昭和2年に生まれて軍国主義教育を受け、敗戦の直前に未成年で海軍に志願した。そのことを終生の痛みとして抱え、「こんなことを二度と繰り返してはいけない」「人が、人の上に立ってはいけない」「思想信条の自由は守られねばならない」と死ぬまで叫び続けた彼の、原理原則を訴えた詩である。冒頭部分は非常に有名で、よくさまざまな文章に引用されるのでさすがに知っていたけれども、詩の全文を通してちゃんと読んだのは初めてだった。

 熱に浮かされたように旗を振り、その下に集うことを、城山三郎は嫌悪し続けた。カリスマも英雄も大嫌いで、数にもならぬ身としてしたたかに生きたいとだけ願い、最後のひとりになっても国のためになど死にたくないと思っている私は、少なくともその点には涙ぐむほどに共感できる。

 全部紹介したいところだが、それだと改めて「城山三郎とは何者か」「言論の自由とは何か」などを考えるさいの手掛かりになりにくいだろう。第一、長いから全部書き写すのはしんどい。……というわけで、この詩の冒頭だけを紹介しておく。少しでも関心を持たれたら、ぜひ立ち読みしてくだされ。あ、むろん買って行かれてもいいですよ。

 

――城山三郎『旗』より――

旗振るな/旗振らすな/旗伏せよ/旗たため

社旗も 校旗も/国々の旗も/国策なる旗も/運動という名の旗も

ひとみなひとり/ひとりには/ひとつの命

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ああ、愛国教育――教育3法成立(2)

2007-06-23 23:44:58 | ムルのコーナー

 3日前のエントリの続き。「教育改革関連3法」に関する、野良猫ムルと弟分であるトマシーナとの会話――

トマ「兄貴、お帰りなさーい。教育3法の話でさ、さっき兄貴は教育委員会が『指導の不適切な教員の、認定や研修をおこなう』ってことになったのを、共謀罪と一緒だって言ったよね。ほかにもどういうとこが怖いの?」

ムル「だからさぁ、言ったじゃんか。全部怖いんだって。『ここはいい』『ここがダメ』っていう話じゃあないんだぜ。法律とか制度の話になると、よくそういう議論になるだろ? でもそいつはちょいと違うんじゃねぇか、とおいらは思うんだよな。そりゃあさあ、弁当でもこしらえようってんなら、シャケの切り身はもっと大きい方がいいとか、漬け物はナスの芥子漬けよりキュウリの柴漬けの方がいいんじゃないかとか、かまぼこも入れた方がいいんじゃないかとか、そういう話は成り立つだろうさ。だけどよ、法律とか制度とかは『何のために』『何を規定するのか』ってことが一番大事でさぁ、そこんとこがおかしければ、部分的に『ま、いいんじゃない?』みたいなものがあってもダメなのさ」

トマ「また兄貴、変なたとえをして~~。でもお弁当だって、目的かどうかはしらないけど、作る時はどういう弁当にするかっていう青写真みたいなものはあると思うよ」

ムル「あは、そう言われりゃそうだよな。洋風弁当にしようとか、中華弁当にしようとか。幼稚園児向けの弁当と、高血圧のオッサン向けの弁当とでは、コンセプトっつうのかね、どんなもの作るかが違うだろうし。法律とか制度の問題の場合は特に、そこの基本部分をよーく睨んでみねぇとな。ところがさ、実際には枝葉の部分ばっかり議論の対象にされちまう。随分前に出来て、もうすっかり定着した消費税でもさ、ほんとは消費税そのものの是非がずっと議論されるべきなのに――いや、議論はされてるんだろうけど、それよりもすぐ何%が適切か、なんて話になっちまうだろ」

トマ「兄貴はすぐ話が逸れるんだよな……。教育関連法に戻してよ。つまり、そのコンセプトがおかしいというわけだね?」

ムル「うーん。アブナイ、と言った方がいいだろうなぁ。ケンポーカイセーに血道あげるグランパ・コンの首相が、シャカリキになった法律だぜ、これも。安倍内閣は数を頼んで、重要な法案を次々とごり押しで通してるだろ。いったい何を狙ってるんだって、思わねぇほうが不思議さ。おいら猫だからむつかしいことはわかんねぇけど、危ねぇぜってビビッとくる。こういう『ビビッ』って、大事だと思うんだよなあ」

トマ「でもやっぱり、具体的にたとえばどういうところが、って話をしないと、わかりにくいじゃん。基本がダメということは別にしてさ」

ムル「うん、そりゃそうだ。枝葉の部分をひとつひとつチェックすることで、危なさがはっきり見えてくるってことはあるわな。じゃあもうひとつ、ゲゲッと思ったところを挙げとこうか。そうだな……たとえば『愛国心の表記』ってやつはどうだ?」

トマ「学校教育法に、『我が国と郷土を愛する態度を養う』と付け加えたってやつね」

ムル「愛国心教育については今までおまえとさんざん喋ったし、華氏も書いてるから、今さら付け加えることはないよ。たださ、日本の国民はどんどん押しまくられてるなぁという気はする……。あちらさんは着実に、駒を進めているんだなって。王手をかけられた時は遅いんだぜ。将棋と違って盤面がはっきり見えないから、戦局が切羽詰まってきているのもわかりにくいんだけど」

トマ「まだ、何かできることはあるの?」

ムル「一揆を起こせ、と言いたいとこだけど……まぁそれは猫の寝言。ひとまずは目の前の参院選……なんだろうなあ……」

 

◇◇◇◇◇◇「愛国心」関連エントリを幾つか

愛国心はなぜ危険か」、「法律以前の問題?」、「教育改革って何だ?」、「愛国心教育に反対する・その他」、「教育基本法改定にムカつきながら抗議する」、「あなたに守ってもらわない決意」、「態度を養う怖さ」、「忠誠って……相手が違うでしょうが」、「恩という言葉のまやかし

◇◇◇◇◇◇

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「不適格」という脅し――教育3法成立(1)

2007-06-20 23:54:40 | ムルのコーナー

 自分でも何が何だかよくわからないほど忙しい。私はどちらかといえば寒さより暑さに弱い人間で、この時期になると本当は冬眠ならぬ夏眠に入りたいぐらいなのだが……。朝早く出て深夜に戻り、移動中に寝ているようなせわしない出張だのが続き、インターネットに繋いだのも数日ぶり。ついでに?自分のブログを開いて、更新していないとTBがわずかしか来ないことにやっと気付いた。考えてみれば、そりゃそうだ。TBというのは、こんな記事を書いたのでよかった覗いてくださいネ、というメッセージ。開店休業状態となれば「誰も立ち寄らない所に送ったってムダじゃん」的な気分になるだろう(そんななかで、律儀に送って下さるとむ丸さん、ありがとう。感謝でございます)。

 何もせずにTB下されと言っているのも、何かもの欲しげでヤなので……たまには簡単なメモでも。まとまってモノ考える気分的余裕はないんで、野良猫・ムルと、弟分のトマに喋らせることにしようか……。

◇◇◇◇◇

トマ「ねぇ兄貴、教育改革関連3法っていうのが成立したんだってね」

ムル「ああ、またしても強引に通しやがったみたいだな」

トマ「今の与党って、すごいよねえ。誰が反対しようと数の論理でどんどん通すんだもん。野党なんていちおう民主主義国家ですう、というアリバイのために置いてるというか、ものを言わせるだけじゃん、という気がしちゃう」

ムル「へへ。素朴な感想ってやつかい。でも今の国会見てたら、確かに野党の存在なんて所詮はアリバイじゃんという気分にもなるよなぁ。与党にあれだけの議席を与えた選挙民、つうの? 要するに日本人がツケを払わされ続けてるんだよな」

トマ「安倍内閣は、教育3法をこの国会の最重要課題だとか言ってたそうだね」

ムル「ある意味、そうなんだろうなあ。あの法律はさあ、教育と直接関わりのない国民はそんなに関心ないみたいなとこがあるけど、すっげー怖い法律なんだぜ。安倍内閣の体質がもろに出てる」

トマ「安倍内閣の体質?」

ムル「自民党の体質と言ったほうがいいかな。いや、それよりもっと端的に、時計の針を戻そうとしている連中の体質、と言うのかな」

トマ「どんなところが?」

ムル「うーん、どんなところがと言われても……怖さが山盛り、っていう感じなんだけどさ。ひとつふたつ例を挙げてみようか。たとえばさ、改正教員免許法で、教育委員会が『指導の不適切な教員の、認定や研修をおこなう』ってことになったろ? これって怖いことだと思わねぇかい」

トマ「うん」

ムル「今度、教員免許状の有効期間が10年、てことになったろ?」

トマ「うふふ、有効期間があるなんて、なんか運転免許みたいだねー」

ムル「免許の更新っていうのは、それ自体は悪いとは言い切れないさ。有効期間があったって別にかまわないとおいらは思う。たださぁ、その更新に、なんで国が介入してくるんだよ?という話さ。不適切だと認定された教師は免許状更新講習を受けられず、免許状が更新されないってことが起こり得る」

トマ「確かに『不適切』な教師っているかも知れないけど、上の方がそれを判断するのって怖いよね」

ムル「そうそう。不適切の基準がはなはだ曖昧だっていうのは、前々から言われてるけどさ。そりゃそうだよ。曖昧にしといた方が、いくらでも範囲を広げられてオカミには都合がいいもんな。そりゃ最初のうちはよ、誰が見ても『どうかと思うぜ』みたいな教師が槍玉に挙げられると思うよ。で、『普通の、真面目な教師には関係ないのね~』と思わせる。為政者がいつも使う手だな。共謀罪と同じさ」

トマ「で、そのうち上の方にとって都合の悪い教師に『不適切』の烙印が押されるっていうわけだね」

ムル「そんな乱暴なことが起きるはずがないっ、ていう意見もあるかも知れないけどよ。それは甘いと思うぜ。つい半世紀ちょっと前に日本でどんなことが起きてたか考えたら、ゾ~~ッとするじゃん。少なくとも『解釈次第でどうにでもなる可能性がある』というだけでも、大変なことだとおいらは思うな。為政者に『解釈権』なんか与えちゃあいけないんだ。為政者の権限なんてものはさ、出来るだけ小さくして、みんなで『監視』しとかなきゃ」

トマ「あは。国に監視されるなんて、話が逆だよねー」

ムル「人を見たら泥棒と思えなんてくだらねぇコトワザがあるけど、それを真似て言うなら、『為政者を見たらろくでもないことする奴だと思え』だな」

トマ「兄貴って性悪説のヒト、じゃない、ネコだね~」

ムル「人間含めて生き物については性善説、ただし権力握った連中については性悪説って言ってくれよな。権力は腐敗するなんていう言葉があるけど、確かにそうなんだよな~」

トマ「それにしても、解釈によってどうにでもなるっていうのは気持ち悪いよね」

ムル「そう。何が対象になるかわからなきゃわからないほど、萎縮するからな。朱元璋っていうオッサンがいてさ」

トマ「え? え? 誰それ。兄貴の友達イ?」

ムル「ばーか。600年以上も前の、明ていう国の皇帝。このオッサンが粛清に『文字の獄』を使ったんだ。文字の獄ってのは、いろいろな文書のなかにさりげなく体制批判が隠されているということで書き手を処罰する方法でさ。そういうのは何処の国でもあったし、特に中国は漢字の国だから昔よくあったそうだけど、このオッサンのは特にすさまじかったらしい。天に道あり、って文書を、道は盗と同じ音だから皇帝を盗賊扱いしたものだとか難癖つけたりしてさ」

トマ「ふ~ん。兄貴、ネコのくせにガッコ行って東洋史でもやったの~」

ムル「隠居ネコからの聞きかじりに決まってるじゃんか。だから詳しいことは知んねぇけどさ。ともかく何でもこじつけられちゃうというか、何が引っかかるかわかんないから、その頃の役人とかは完璧に萎縮しちゃったそうだ」

トマ「わかったわかった、知ったかぶりでむつかしいこと言わなくたっていいよ、兄貴。よーするに、オカミに解釈権持たせとくと、何がよくて何がいけないかわからないから、みんなおとなしーく上の顔色見るようになるんだって言いたいんだろ?」

ムル「やな奴だな、おまえ。何かどんどん華氏に似てきやがる。 ま、いいや。そーゆーこと」 

トマ「国はガッコの先生を、ハイハイということきく羊ちゃんにしたいんだねえ」

ムル「おいらは国民じゃねぇけど、他人事ながらだんだん不安がつのってくるぜ。……ちょっとその辺でメシあさってくるから、続きはその後で、な」

――続く

◇◇◇◇◇◇

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ものは言いよう

2007-06-11 23:32:04 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 貧乏ヒマなし状態も、いよいよ病膏肓に入りつつあるらしい。公私ともに細かな(しかも結構しょうもない)用事がこれでもかというほど山積みで、立ち食い蕎麦を掻き込む日々……。電車の中ではいつもウトウト寝てるような気もする。よくぞ乗り越さないものだ(一種の習性で、降りる駅が近づいたあたりで目が覚める。小心者の証明か)。疲労している時の常で、毎晩浅い眠りの中で膨大な夢をみたりもする(と言うよりむろん、正確に言えば目覚めても鮮やかに夢を覚えている)。昨夜はとうとう、仕事の資料を紛失して探し回る夢までみてしまった……何とまあギスギスとリアルな夢であることか。そのうち夜逃げの夢もみるかも知れない。

 パソコン立ち上げてもメールのチェックと仕事の処理で手一杯、自分のブログ開いたのも3日ぶりぐらいだ。TBくださった方、ありがとうございます。まとめて読ませていただきます。

 毎度の愚痴はこの辺にして……気分転換?を兼ねて少しばかり、頭をよぎったことをひとつだけメモ書きしておこう。

◇◇◇◇◇◇

 皆さんも始終経験なさることと思う。「ものは言いようだよなあ……」という驚き――眼が点になるというか、一瞬言葉を失うというか、開いた口がふさがらない思いを。

 たとえばストーカー行為は受けるほうには迷惑千万なわけだが、「好きで好きでたまらず、つい付きまとってしまいました」と涙ながらに言えば何となく同情を買ったりする。児童虐待が「しつけ」だったり、レッキとした侵略が「聖戦」だったり……。

 これもひとつの典型例。

【久間章生防衛相は7日午前の参院外交防衛委員会で、集会やデモの情報収集を認めた上で「(自衛隊の活動に関し)市民団体などの動きが国民全体の中で非常に多くなれば止めようとか、少なければ堂々とやれるとか、その判断材料になる。世間の動きを正確に把握することは悪いことではない。皆の動きを情報収集するのを悪いと思うこと自体がおかしい」と述べた】(琉球新報記事より抜粋)

 上記の発言は書いてあるように7日のもので、記事もそのすぐ後のもの。だから皆さんとうに御存知だと思うが、私は最近、情報のキャッチがいつも一拍ずつズレる感じなのである。で、今頃「よく言うよ」感で唖然としているというわけだ。

  ふうん……「民意」を虚心坦懐に受け止めるために情報収集したということですか。つまり「そんなことやっちゃ困る」という声が大きければ、反省して止めようということですか。じゃあ、どんなふうに判断したのか明確に示して欲しいものだ。今回は特にイラク派兵についての動向が主な監視対象になっていたわけだが、反対する声はあまり大きくない、国民の大多数は賛成しているのだと判断したわけですネ。いったいどこからそういう判断が出て来たものやら。

「監視」を情報収集というのも、「ものは言いよう」のうち。平家の陰口をきく者がないか眼を光らせて歩いた「赤袴のかぶろ」の活動も、入道相国清盛に言わせれば情報収集だったんでしょうねえ……。

 情報収集なんて言えば聞こえはいいけれども、水のように透明で公正無視の情報収集なんてあり得ない。ジャーナリズムの取材活動も、ある意味の偏見から免れ得ないのだ。ちなみにここでいう偏見は、必ずしも悪い意味ではない。人間誰だって、自分の眼を通してものを見、自分の思想信条や感性を背景にしてものを考えるのは当然のことではないか。普通使われる意味の「偏見」は極力廃する努力をすべきだとしても、自分の思想や感性まで無色透明にすることはできないし、またそんなことをする意味もない。そのことを我々は常に念頭に置くべきだと私は思う。

 自衛隊(私は国軍だと思っているが、いちおう自衛隊という名称を使っておく)は何のためにあり、そして何のために「情報収集」するのか。問題はその一点にある。言葉にゴマカされまい。

◇◇◇◇◇◇

 ほんともう、変に賢いエライサンにはかないません。いくらでも綺麗に言い換えることができる。その頭の良さを別の方面に生かしていただければ、もうちょいと世の中住みよくなると思うんですけどねぇ。

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「国」の正体――自衛隊が市民団体などを監視

2007-06-06 21:42:03 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 皆さん、すでに情報をキャッチしておられるだろう。そして背筋が寒くなり、うっかり腐りかけた牛乳飲んでしまったようなゲッという気分になっておられると思う。そう……「自衛隊が市民活動を監視」というニュースである。時事通信によれば監視対象は「市民団体やジャーナリストの活動」、中国新聞によれば「市民団体、ジャーナリスト、宗教団体などの活動」(報道記事は下に紹介)

 実のところ――あんまり驚かないというと変だが、そして充分怒ってもいるのだが、「そのぐらいやっているだろう」というのが、正直な感想でもある。軍隊(日本では自衛隊などと姑息な言い換えめいた名称を使っているが)は国を守るなどと言われるが、ここでいう「国」は枠組み、国家体制である。間違っても「国民」じゃない。

「国土」だって守らない。それはつい先頃の、辺野古の問題(米軍基地移設に先立つ現況調査に自衛隊が協力したという問題)を考えただけでもはっきりしている。美しい日本とか何とかのたまう人がおられるが、「うつくしい碧い海」を守る気はないのだ。

 そこにつどう人間よりも、枠組みの方が大切だなんてのはホントはおかしなことだ。たとえば「家庭」というものを考えてみればいい。家庭を守ると言うとき、守るべきは何か。家族(別に親子夫婦でなくてもいい、要するに共に暮らしている人間)、に決まっているでしょう。「家庭を守るために、全員が死のう!」なんて話は聞いたことがない。ところが話が「国」という大きなものになれば、そういう類のトンデモナイことが成り立つ。いやむろん、国の場合は実際にはひとり残らず死ぬわけではなく、ちゃっかり生き残る人達がいるわけだけれど。

 国体は永遠、国民は消耗品。産めよ増やせよと尻叩いて、家畜より簡単に増やせる消耗品だ。先の戦争でも、国民は「自分達がひとり残らず死んでも国は守る」という「気概」を持たされたそうだ。為政者の頭の構造は、その時代と少しも変わらない。為政者などいう輩は、人間の間にその種の存在が誕生してこの方そんなもので、未来永劫そうなのかもしれない。

 ともあれ国体が第一である以上、為政者はそれに反逆――とまではいかなくても、疑問を持ったり、国のやることにイチャモンつける人間は「正直なところ、いないほうがいいんだよなぁ」の存在である。本当はまとめてひっくくって島流しにでもするか、どこかに閉じこめてまとめて洗脳教育したいぐらいだろう。21世紀の今日、民主主義国家を自称している以上、まさかそんなことをおおっぴらに言えないから、口を閉じているけれども(だからこそ、国民の飼い馴らし方は、どんどん巧妙になっているのだなあ……)。

 話が混乱してきたが、為政者にとって守るべき(唯一のとまでは言わないが、少なくとも第一の)ものは国体であり、だから当然、国軍は国体を守るために存在し活動する。チョコマカうるさい動きがあれば監視し、そういう動きに参加する人間をリストアップするのはいわばあたり前のことだ。それを明らかにする証拠がまたひとつ出て来たことを、私は嬉しく思う。

 ――国民を監視する「国」など、私はいらない。

◇◇◇◇◇資料/ニュース紹介

【共産党の志位和夫委員長は6日、自衛隊関係者から入手したとする「内部文書」を公表し、「陸上自衛隊の情報保全隊が市民団体やジャーナリストの活動を監視している」と指摘した。文書は、自衛隊のイラク派遣に反対する団体、個人の調査結果が中心だが、年金制度や消費税に関する集会の報告もあった。同党は「表現の自由やプライバシーを侵害する行為で、憲法違反だ」としており、政府に同日、監視活動の停止を申し入れた。
 防衛省はこれに対し、「内部文書かどうか確認できないが、この種の資料は作成した。イラク派遣の反対運動が高まっていた時期で、対応を考えるのが目的。違法性はない」としている。】(時事通信・6月6日21時1分配信)

【文書は(1)陸自東北方面情報保全隊が収集した情報を週単位で一覧表として取りまとめた二○○四年一月から二月までの一部の「一般情勢」など(2)情報保全隊本部が作成した○三年十一月から○四年二月までの一部の「イラク派遣に対する国内勢力の反対動向」―の二種類。計十一部、百六十六ページで、個人名を黒く塗りつぶした上、報道陣に公表した。イラク関係だけでも、市街地などでの活動で監視対象となっているのは全国四十一都道府県の二百九十三団体・個人で、高校生も含まれ、参加者の写真なども添付されていたとしている。】(中国新聞記事より抜粋)

◇◇◇◇◇ 

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戦争協力の中で最も悲しいものは(2)――言語の罪・断片

2007-06-04 23:56:00 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 先日、戦前の雑誌を読んだ感想などをしょーもなくつらつらと書いた(5月30日エントリ)。翌日にでも続きを書くつもりだったが、ビンボーひまなしとはワタイのことよ、みたいな生活なので、そのまま放り出していた。別に放り出してもかまわない、というか続けて書いても何か意味や意義があるわけじゃあない、屁みたいなもんだけれど……頭の隅っこのほうでウダウダとうごめき続けているものがあるので、少しだけ文字にしておこうか……。

 先述のエントリで、吉本隆明の評論『四季派の本質』を思い出しつつ少し四季派の詩人達の話に触れた。繰り返しになるけれども、私はボードレールの『巴里と憂鬱』を訳し、自らも危ういほどの繊細さに満ちた言語感覚をもって詩を書いた三好達治が、『捷報いたる』などの戦争礼賛詩集を出したことに――10代のまだ多感な若者だった(笑)私は驚き、暗澹とし、その痛みを伴う感覚は今もなお消えていない。

 変な言い方だが、その三好の翼賛詩が彼の以前からの言語感覚で貫かれていたのであれば、私はあれほどのショックは受けなかっただろう。変な言い方だが……「敵ながらアッパレ」(何やソレ)と思ったかも知れない。だが彼の翼賛詩は本当に……無惨なほど俗悪だったのだ。

 ほんの少しだけ書いてみよう……

【はぢしらぬめりけんぱらはめりけんのくがの奥地におひやらひてん】(くが=陸。メリケンつまりアメリカ人を地の果てまで追いやるぞ、ってな意味でしょう。私は解説などするような素養ないですけど)

【神州のますらをすぐりあだの拠るわたのかぎりをおほひたたかふ】(わた=海、です多分。わだつみというやつ)

 先のエントリで戦前(戦中というのかな)の雑誌に投稿された短歌や俳句を少しだけ紹介した。多分多くの人が同じ感想を持たれるのではないかと思うが、ほんともう「流れに耳すすぎ」たいほど(夏目センセイばりに、石に嗽いだっていいけど)紋切り型で俗悪で、読んでいるこちらの方が恥ずかしかった。三好達治の詩歌だって、虚心に読めばそれらと何ら変わりはない。それどころか名前を伏せて投稿したらさすがに選に漏れるだろうと思うほど手垢にまみれ、詩人の言語感覚とはいったい何だろう、と私は頭を抱えずにはおれないたのだ。世の動きや為政者の思惑に容易に陵辱され、媚びを売る程度のものでしかないのか。単なる高踏的なオアソビなのか。

 ……オアソビが悪いとは言わない。私もオアソビは結構好きなのだが、斜に構え抜く背骨のないオアソビなど容易に権力のタイコモチになってしまうことを、彼らは知らなかったのだ(いや知っていたのかも知れないけれども、それならなおさらタチが悪い)。

 いや、違う。吉本ではないけれども、三好達治をはじめとする多くの詩人の言語感覚そのものの「罪」を、我々はいま確認すべき時がきているような気がする。

◇◇◇◇◇

 今日は思考過程のたわごとメモだけ……まだまだ(勝手に)続く。そろそろムルにバトンタッチした方が話が整理されるかも。

◇◇◇◇◇ 

 ← 碧猫さん作成のバナー。初めて知ったのはとむ丸さんのところ。いいなと思ったので、使わせていただきました。ありがとう。私は面倒臭がり屋で(センスもない、のだけど)バナーとか作れないので、作ってくださるかたにほんと感謝です。

 

 

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