yamamoto さん(ペガサス・ブログ版)からトラックバックいただいた記事――ドラマ『水戸黄門』を「道徳ポルノ」と断じた記事を、思わず膝を叩きながら読んだ。私は日常最低限しかテレビを見る習慣がなく(だからしばしば時代の流れに遅れたりもする……)、実のところ『水戸黄門』も1度も見たことがない。どういうドラマであるか大枠を知っている、という程度であるが、何となく不愉快な印象を持ち続けてきた。それが何に起因しているのか明快に言語化してもらい、感謝している。
(道徳ポルノという表現は、実に秀逸であると思う。道徳ポルノに比べれば、普通のポルノグラフィーのほうがよほどいい。いや、ポルノグラフィーは――ものによるけれども、少なくとも一部のポルノグラフィーは、権力側が押しつけようとしている倫理を笑い飛ばす力がある)
『水戸黄門』に人気があるのは、勧善懲悪ドラマであるからだろう。身の回りの悪に憤慨しつつ自分の無力を嘆いている庶民が、「スカッとする」のである。だがそれゆえにこそ、このドラマは罪が深いのであろう。
1つにはyamamoto 氏が言っておられるように、それが「最高権力の権威に依存した、安易な懲悪と道徳」であるからだ。誰かにすがって「悪い奴をやっつけてもらおう」という、縮こまった「しもじも意識」を助長する。
もう1つは、これが「ガス抜き」になってしまうということだ。一時的に「スカッとする」ことで、もやもやと蓄えられてきた抵抗の意識が何となく拡散し、薄められる。冗談ではない。
テレビドラマや映画などには、我々を飼い慣らす毒(と言うより麻薬)を秘めたものも少なくない。意図的にそのように作ったものもあるだろうし、制作者はあまり深く考えておらず、「はやりだから」「売れるから」と思って作ったものが結果的に毒を含んだ、ということもあるだろう。
今日はとりあえずここまでにして、「テレビや映画に潜んだ毒」については改めてきっちり考察したい。余談だが、以前、自分の思想信条とも絡んで、仕事で「雑誌や映画、流行歌などを媒介にした洗脳」を追ったことがある。それももう1度振り返って、ブログでまとめておきたいと思う。
(道徳ポルノという表現は、実に秀逸であると思う。道徳ポルノに比べれば、普通のポルノグラフィーのほうがよほどいい。いや、ポルノグラフィーは――ものによるけれども、少なくとも一部のポルノグラフィーは、権力側が押しつけようとしている倫理を笑い飛ばす力がある)
『水戸黄門』に人気があるのは、勧善懲悪ドラマであるからだろう。身の回りの悪に憤慨しつつ自分の無力を嘆いている庶民が、「スカッとする」のである。だがそれゆえにこそ、このドラマは罪が深いのであろう。
1つにはyamamoto 氏が言っておられるように、それが「最高権力の権威に依存した、安易な懲悪と道徳」であるからだ。誰かにすがって「悪い奴をやっつけてもらおう」という、縮こまった「しもじも意識」を助長する。
もう1つは、これが「ガス抜き」になってしまうということだ。一時的に「スカッとする」ことで、もやもやと蓄えられてきた抵抗の意識が何となく拡散し、薄められる。冗談ではない。
テレビドラマや映画などには、我々を飼い慣らす毒(と言うより麻薬)を秘めたものも少なくない。意図的にそのように作ったものもあるだろうし、制作者はあまり深く考えておらず、「はやりだから」「売れるから」と思って作ったものが結果的に毒を含んだ、ということもあるだろう。
今日はとりあえずここまでにして、「テレビや映画に潜んだ毒」については改めてきっちり考察したい。余談だが、以前、自分の思想信条とも絡んで、仕事で「雑誌や映画、流行歌などを媒介にした洗脳」を追ったことがある。それももう1度振り返って、ブログでまとめておきたいと思う。