華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「水戸黄門」的洗脳装置――ペガサス・ブログ版を読んで

2005-12-28 23:31:45 | マスコミの問題
yamamoto さん(ペガサス・ブログ版)からトラックバックいただいた記事――ドラマ『水戸黄門』を「道徳ポルノ」と断じた記事を、思わず膝を叩きながら読んだ。私は日常最低限しかテレビを見る習慣がなく(だからしばしば時代の流れに遅れたりもする……)、実のところ『水戸黄門』も1度も見たことがない。どういうドラマであるか大枠を知っている、という程度であるが、何となく不愉快な印象を持ち続けてきた。それが何に起因しているのか明快に言語化してもらい、感謝している。

(道徳ポルノという表現は、実に秀逸であると思う。道徳ポルノに比べれば、普通のポルノグラフィーのほうがよほどいい。いや、ポルノグラフィーは――ものによるけれども、少なくとも一部のポルノグラフィーは、権力側が押しつけようとしている倫理を笑い飛ばす力がある)

『水戸黄門』に人気があるのは、勧善懲悪ドラマであるからだろう。身の回りの悪に憤慨しつつ自分の無力を嘆いている庶民が、「スカッとする」のである。だがそれゆえにこそ、このドラマは罪が深いのであろう。
1つにはyamamoto 氏が言っておられるように、それが「最高権力の権威に依存した、安易な懲悪と道徳」であるからだ。誰かにすがって「悪い奴をやっつけてもらおう」という、縮こまった「しもじも意識」を助長する。
もう1つは、これが「ガス抜き」になってしまうということだ。一時的に「スカッとする」ことで、もやもやと蓄えられてきた抵抗の意識が何となく拡散し、薄められる。冗談ではない。

テレビドラマや映画などには、我々を飼い慣らす毒(と言うより麻薬)を秘めたものも少なくない。意図的にそのように作ったものもあるだろうし、制作者はあまり深く考えておらず、「はやりだから」「売れるから」と思って作ったものが結果的に毒を含んだ、ということもあるだろう。

今日はとりあえずここまでにして、「テレビや映画に潜んだ毒」については改めてきっちり考察したい。余談だが、以前、自分の思想信条とも絡んで、仕事で「雑誌や映画、流行歌などを媒介にした洗脳」を追ったことがある。それももう1度振り返って、ブログでまとめておきたいと思う。
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松下政経塾――純粋培養された人間を信じない

2005-12-23 23:14:20 | 格差社会/分断・対立の連鎖


またしても酔言――
民主党の前原代表は、松下政経塾の出身。松下政経塾とは何だろう、と時々考えることがある。私は個人的な感覚として松下幸之助という人物が好きではなく(或る意味で立派な人なのだろうが、キレイゴトの人物、という気がしてならない)、松下系列の企業にも多々疑問を持っているので、松下政経塾にも以前からずっと胡散臭さを感じていた。

この塾はむろん、「崇高な理念」と「使命感」に基づいて設立された――のであろう。しかし崇高な理念や使命感は、必ずしも正しいとは限らず、喘ぎながら地を這うように生きている庶民(私もその一人であることを宣言する)の味方であるとも限らない。崇高な理念や使命感はしばしばエリート意識と通底し、非エリート・弱者・黙ってうつむく人間を踏みつける。

私は「純粋培養」された人間を信じない。食べるために志操を曲げたことがあり、卑怯な振る舞いをしたこともあり、そのことに密かに傷ついて眠れぬ夜を過ごしたあげく、震えながら「譲れないギリギリの線」を自分の中に焼き付けた人間しか信じない。

話が逸れた。年末年始の休みに、松下政経塾についてもう1度ゆっくり考えてみたいと思う。
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国民投票法案成立への一つ穴の狢たち

2005-12-21 02:08:54 | 憲法その他法律

憲法改正国民投票法案を来年の通常国会で提出し、成立を目指す方向で自民・公明・民主の3党が合意。年明けから本格的な調整に入る、という。自民党はメディア規制を原則自由とする考えを示して民主党に歩み寄ったと報道されているが、私は自民党はこの程度の歩み寄りは必ずする、と思っていた。いや、彼らにとってはこれは実質的には「歩み寄り」でも何でもない。そのぐらいのことで民主党が点を稼いだ気になるなら、「おやすい御用」なのである。

もともと、民主党にはさほど期待を持っていなかった。前原代表が選ばれたから、というわけではない。寄り合い所帯で、しかも右寄りのメンバーを多数抱え込んだ政党であるがゆえに、ずっと胡散臭いものを感じ続けていたのだ。それが前原体制になって以降、胡散臭いどころか「冗談じゃない」政党に衣替えしつつある。

自民党の土俵に乗って、各論について「意見」を言い、少しばかり「聞き入れてもらって」悦にいるような野党は百害あって一利無し。国民に2大政党制とやらの幻想を抱かせるだけ罪である。

ところで公明党は公明党で、9条改正の容認を示唆したそうだ。党の立場としては9条1項2項堅持だが、お得意の「加憲」とやらで国際貢献と自衛隊に関する新たな条項追加の案を出す考え、であるとか。

ひとつ穴の狢たちが、舞い上がっている。もはや、私達に残された時間は多くないのかも知れない。ツケを払わせられる前に、私にできることは何だろう。

(明日仕事で遠出するのでいったん中断する。国民投票法案については、改めてしつこく書いていきたい)
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身捨つるほどの

2005-12-20 20:14:32 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
これは――徹夜で朦朧とした状態でふと漏れた寝言

10代半ばの頃、寺山修司の歌集を貪り読んだことがある。

マッチ擦る つかのま 海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

身捨つるほどの祖国も故郷も、ない……なあ、私には。それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわからないけれども。

できれば国籍など持たずに暮らしたいと夢見た。国境のない世界を夢見た。あるいは査証なき旅人としてさまよい続けたいと夢見た。それは今も変わらない。

だからこそ魂が還っていくところを求める。私は無神論者だから神の国にも浄土にも行く気はない。しかしどうやら、「ようこそお帰り」と言って迎えてくれる所は欲しいらしい。そして……汚れた手を広げて迎えて欲しくないのであるらしい。

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王殺しの幻想(反天皇制)

2005-12-16 22:58:26 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
「天皇制に関する脈絡のないメモ」
天皇制の問題、王権の問題については長いこと(散漫にではあるが)考えてきた。いずれきっちりした形でまとめるつもりだが、とりあえずは断片的なメモをブログに記しておこうと思う。

1)陛下という呼称

天皇制に疑問を持ったのは、いくつの時だっただろう。ほんの小さな子供の時だったのは確かなのだが。「なぜこの人を陛下という特別の呼び方で呼ぶの」と。

突然話が逸れるが、随分前、或る社会問題について仏教やキリスト教など複数の宗教の関係者が共同して開いた集会の取材に行ったことがある。その集会で講演(基調講演ではなかったと思う。もう忘れたが)をした天台座主、つまり天台宗のトップを紹介する時に、司会者が「○○猊下」と言ったのを聞いてひどく違和感を持ったことを今でも覚えている。そう言えばローマ法王も「猊下」だな……。

呼称は人間を鮮やかに分け隔てる。陛下でも閣下でも猊下でも、あるいは旦那様でもご主人様でも先生様でもいいが、のっけから「あなたは私より上の人間です」と表明するような呼称を使えば、自然と目線は上目遣いになり、言動は卑屈になる(と、少なくとも私は思う)。上下関係を明らかにする呼称や、「特別な人」のために使われる呼称は、ヒトを飼い慣らす格好の道具でもあるのだ。

2)たとえイイヒトであっても

まだ昭和天皇が健在だった頃。天皇の戦争責任の話をしていた時に、側で誰かが「でも、とても真面目でイイ人みたいだよ」という言葉を発した記憶がある。確かにそうかも知れない。亡昭和天皇は、「イイヒト」であったかも知れず、現在の天皇もきわめて「イイヒト」であるのかも取れない。私は個人的に付き合っているわけではないから、わからないけれども。

しかし天皇という立場と、彼個人がイイヒトであるかどうかは何の関係もない。ルイ16世は「国王である」という、ただそれだけのためにギロチンの露と消えた。「朕は罪なくして死ぬ」と言ったとか言わないとか……ともあれそういう話が伝えられているが、「王の椅子に座っていること」それ自体が彼の罪であったのだ。その椅子の罪を背負って、彼は死なねばならなかった。

日本は「王殺し」の経験を持たない、という。はるか古代はどうであったか知らないが、少なくとも天皇制が確立して以降は、たしかに日本には「王殺し」の経験がない(権力争いで島流しされたの暗殺されたの、憤死したのというのは話が別。民衆が王殺しをしたことはない)。もしかすると、これは軽視できないことであるかも知れない……とも、子供の頃から思い続けてきた。

3)常に無害な存在ではない

天皇制については、私の周囲にも「別にとりたてて害はないし、あってもいいんじゃないか」と言う人が多い。たしかに現在のところは害はないかも知れない。しかし「貴い血」というのは、いったん何かがあれば必ず利用される。多くの人間は(むろん私も含めて)高貴な存在というキーワードを秘めたお伽噺が好きだから。それはおそらく、「働けど働けど楽にならない」暮らしにくたびれ果てた末に見た、無邪気な蜃気楼なのだけれども。
「魂には幻想を、肉体には暴力を」――いみじくもネチャーエフが看破したように、我々名もない民衆は常に幻想に憧れる。だからこそ、幻想の孵化装置は注意深く除いておかねばならないのだ。

4)女性・女系天皇?

最近、巷でも「女性天皇」「女系天皇」が話題にのぼっている。私は(もともと天皇制はなくなった方がいいと思っているわけで)あまり興味がないのだが、「女性・女系天皇は認めない」という方向に進んだ方がおもしろいかも知れない、と思ったりする。天皇家の縁続きであるということで何処からか引っ張り出された男が天皇になるとき、国民は改めて「天皇家とは何なのか」「血統とは何か」と考え込むのではあるまいか。


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国民投票法案、そして

2005-12-16 19:49:20 | 憲法その他法律
誰が何と言っても、憲法改定(改正、とは言わない)国民投票法案の提出→成立は憲法改正への第一歩である。自民党憲法調査会の船田元会長は「民主党の主張を入れて」メディア規制の緩和を目指す方向を表明した、という。ボーッと聞いているとつい「ふーん。少しはよい方向に向いたのかな」と錯覚しそうになるが、トンデモナイ。

強者は最終的な収穫のためには平然と妥協する。どうでもいいことについては、いくらでも歩み寄るような顔をする。いや、メディア規制の問題がどうでもいいこと、と言っているわけではない。彼らにとっては「どうでもいいこと」のうちに入るのだな、と思うだけである。以前ブログで書いたような気がするが、この点は「憲法改定」自体についても同じことが言える。

そして怖いのは、強者が計算づくで歩み寄ったにもかかわらず、歩み寄られた側?が「一定の成果があった」ように感じてしまうことである。

ある国に暴君がいた。国民に背骨が折れるほどの重税をかけるのはむろんのこと、屋敷の補修に狩り出すわ、近隣の国と戦争を起こすわ、働けなくなった老人は姨捨山に捨てろと言うわ。さらに「結婚式と葬式以外は酒を飲んではいかん」「犬は飼ってもいいが猫はダメ」「カツラとサングラスの使用禁止」等々、しょーもないことにまで口を出して無茶苦茶を言う。やがて革命や暴動の機運が少しずつ高まり、同時に全国愛飲者同盟による「酒は好きなときに飲ませろ運動」や、全国高齢者連合による「年寄りを捨てろとは何ごとだ運動」などが起きた。暴君はそういった動きを見て、「働けなくなった年寄りでも、責任を持って扶養する者がいれば捨てなくてよろしい」「結婚式と葬式以外でも酒を飲んでよろしい」といった新しいお触れを出した。で、国民はちょっといい気分になった……。

調子に乗って馬鹿話を続ける。「子どもは親のいうことに絶対に従うべきだ」という信念を持っている親父がいて、かなり大きくなった息子だか娘だかに「親が決めたルール」を押しつけようとした。いわく、届いた手紙はすべて親に見せよ。いわく、夜10時までに帰宅せよ。いわく、日曜日は庭とトイレの掃除をせよ。いわく、就職や結婚に際しては親の意見を優先せよ……エトセトラ。息子あるいは娘はむろん驚いて「ちょっと待ってよ」と抵抗する。親父もさすがに締め付けが厳しすぎると思ったのか、太っ腹なところを見せようとしたのかは知らず、手紙は見せなくていいとか、事前に事情を話せば帰宅時間は夜10時以降でもいいなど、息子あるいは娘の意見を入れて大幅に譲歩した。母親は「お父さんも柔らかくなったわね」とニッコリし、息子あるいは娘も「意外とものわかりイイじゃん」と呟いた……。

だが。暴君は倒さねば何らの解決にもならないし、親父についてはそのパターナリズムこそが問題なはずなのである。

冗漫な馬鹿話はやめよう。
相手の土俵に乗ってはいけない、相手が準備した土俵で戦ってはならない。憲法改定国民投票法案も憲法改定も、「あれはいいが、これはダメ」という話ではないのだ。おまえの考え方、おまえの姿勢、おまえの依って立つところすべてが「NO」なのだと言わねばならない。その意味で、民主党は明らかに間違えた。「何でも反対ではなく、対案を出していく」と表明した瞬間に、民主党は力を失ったのである。相手が出してくるものをちまちま修正し、それによって国民にあたかも「ものごとがよい方向に向かっていると思わせる」――極端な言い方をすれば、「アリバイ作りの共犯者」になってしまった。

憲法改定芝居・本公演の幕が上る時が近づいてきた。ともすれば絶望的になりがちな気分を励ましながら、私は「NO」を大声で宣言する。私は言葉の本来的な意味でのインテリではないし、文化人でも、ましてや著名人でもない。何の力も持たない一介の負け組庶民にしか過ぎないが、それでものっそりと立ち上がる。後世から軽蔑され、憐れまれないために。名もない庶民のパッションが歴史を作る、歴史を変えることを信じつつ。脆弱な抵抗の手段しか持たず、風の音にも怯え両脚を震わせながらも「でも……」と小さな声で呟く無名の庶民のパッションこそが、明日を約束するのだということを信じつつ。
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自己チュー人間ゆえの切実な「NO」

2005-12-13 00:59:53 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
幼稚園からこのかた、制服というものを着たことがない。
君が代なる歌をうたったことがない。
指示・命令されて動くこと、頭ごなしに統一行動を強制されること、そして何かを禁止されることに生理的に耐えられず、組織というものや権力というものになじめぬまま生きてきた。そのために支払ったものは多かったが、代わりに〈泥中に尾を引く亀、程度ではあるけれども〉自由であった。

崇高な理想があるわけではない。おそらく切ないほどの思いで人類の幸福を祈っているわけでもない。一杯の茶と引き替えにこの世が滅びてもかまわないと思わず言ってしまうほどのジコチュー人間に過ぎないけれども、だからこそ私のささやかな自由を侵し――そしてすべての人々のささやかな日々に影を落とすものは誰であれ何であれ許さない。

基本は自分の世界、孤絶した観念の蜃気楼を守りたいだけなのだけれども、弱肉強食の世の中では、右へ右へと動いていく世の中では、それが守れないことを神経のどこかで鋭く感じ、それゆえに私は今の日本に対してNOを叫ぶ。「世界の中心で愛」など叫びたくもないが、この「NO」だけは叫びたい。
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9条守ろう!ブロガーズ・リンクに賛同します

2005-12-09 10:20:36 | 憲法その他法律
憲法9条は我々が目指すべき崇高なユートピア。それを曲げることを含め、憲法改定には「絶対にノー」です。前文も、そして改訂要件のハードルを下げることも絶対のノー。
とりあえず急いで賛同表明を。
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「分断して統治」されまい

2005-12-03 02:10:25 | 格差社会/分断・対立の連鎖
「分断して統治せよ」は、古来、権力側の基本的な手口であるらしい。支配される階層を細かく分ける。そしてそれぞれの階層に「自分は○○よりは上である」という小さな満足感を味わわせる。階層同士を小さな利害の対立で争わせ、競争させる。21世紀になっても、そのあきれるほど素朴で、かつ陰湿な構図はちっとも変わらない。よほど有効な方法なのだろう。

「生活苦しいけど、オレはリストラされるとこまでは行ってないもんな。ホームレスとかにはならないもんな」「テレビばっかし見ている主婦や年寄りとは違うもんな」「能力のある人間が勝つのは当然じやない? ニートとかって、要するに意欲も能力もないだけでしょ」

もともと弱い立場の者達が分断されて勝てるわけがないのだが、分断された側が「弱い立場」と気づきにくいのがミソと言えばミソ。弱い立場の者達=マイノリティ、と何となく思われているのだ。障害者であるとか失業者であるとか、年金生活の高齢者であるとか。実は(むろん私も含めて)大多数は、勤め先が倒産すれば明日から路頭に迷い、もしも職場で「君が代斉唱」が強制されたとしてそれに「いや~私は」とシブイ顔をすれば窓際に追いやられるかも知れず、そしてたとえばもし徴兵制が敷かれれば否応なく引き立てられ、おろおろと戦場に赴いて犬死にする弱者に過ぎないのに。

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