華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「美しい日本語」を殺すな――上滑りな言葉たち(序)

2006-10-01 23:04:49 | 本の話/言葉の問題


〈ものを考えるときのスタイル〉

 皆さんは、何をしながらものを考えますか。いや、むろん「ものを考えるときはじっと座って宙を睨んで」という人もおられるだろうが、沈思黙考型は意外に少ないのではないか。少なくとも私の周囲にはあまりおらず、たいていは「何かしながら」である。数から言えば「散歩しながら考える」という人間と、「手を動かしながら考える」という人間が多い(要するに足か手かどちらかを動かしている、ということだな)。後者はたとえば、楽器をいじりながらとか、細工物をしながらとか、いたずら描きをしながらとか。変わったところでは、ジクソーパズルをしながらとか。ひとり、皿洗いしながら考えるのがベスト――というのもいる(ちなみにその友人は、うちに遊びに来ると必ず食器を全部洗ってくれる。なかなか便利な習性である)。あ、「ハサミでその辺の紙を細かく切りながら」というのもいた。これはあまり他人にとって役に立たない。

 どうやら端座して(座禅組んで、でもいいですが)よりも、何かをしながらの方がモノは考えやすいのかも知れない。よほど「モノを考える」ことが身についている人以外は、何かしらBGMかお囃子、と言うか空気の揺れ動きがあった方が頭が解き放たれるのだろう。

 私の場合、仕事上の資料をどんなふうに整理しようかとか、気の重い手紙にどう返事しようか等々、主題?が明確で目的や到達点がほぼ見えている時は「歩きながら」が多い。散歩もするし(ちなみに真夜中の散歩が趣味でもある)、狭い家の中を動物園の檻に入った動物みたいにぐるぐる歩き回ることもある。だが、何かを漠然と考え、思考をあちこちに飛ばすには、「字を読む」のが一番だ。


〈文字と私〉

 私は本を読むのが好きで――というより字を読むのが好きで、コーヒーでも飲みながら何か読んでいれば幸せ気分になる型の人間である(内容を理解できたかどうか、きちんと頭に入ったかどうかは別の話。わかっていない方が多いかも知れない。まあ、一種の病気です)。ほかにやることがない時に手元に読むものがない事態に耐えられず、そんな時は近くにあるものを手当たり次第読んでしまう。誰かが置き忘れたらしい週刊誌や新聞、などは序の口。先日は病院の待合室で読むものが切れ、気がつくと掲示板の前に立ってボンヤリと「乳児健診のお知らせ」「糖尿病患者の会のお知らせ」などという自分とは縁もゆかりもない貼り紙を読んでいた。電車で隣に座った学生さんが開いている教科書か何かを、ほとんど無意識のうちに横目でチラチラ読み始めてしまい、学生さんに気持ち悪そうな目で見られたこともある(さすがに私もシマッタと思ったが、言い訳するのも余計に変。降りる予定の所でもないのに、こそこそと次の駅で降りてしまった……)。

 読んだものが、頭に入らないことの方が多い――のはむろん私の理解力と関係あるのだが、ひとつは私にとって、文字を読むのは自分の頭の中を整えるための準備運動、という意味合いがあるからだろう。文字を追いながら、その文字列とは直接関係ない何やかやをあれこれと考えていることも多いのである。

 ぼーっと字を追っているうちに、次第次第に「言葉を用いて何かを考える」世界が整えられていく。さらにその世界が守られ続ける。


〈粗雑な言葉への嫌悪〉

 そんなわけだから、ある意味で「読むものは何でもいい」とは言える。だが「何か音楽が流れていないと、どうもモノを考えにくくて」という人がおられればわかると思うが、そういう人にとって最悪の場合は何でもいいだろうけれども、できれば好きな音楽の方がモノは考えやすいに違いない。

 私が言葉に妙ちきりんなほどこだわりを持つのは、粗雑な言葉は――線路に置かれた石や道の真ん中の水たまりや、カメラのレンズにべったりついた指紋や、口に入れた途端にジャリッというアサリの砂のように――私が凝縮しようとしている世界にヒビを入れ、モノを考えようとする時の邪魔をするからである。

 最近はその粗雑な言葉が世の中を席捲し、私の神経をささくれ立たせる。……実はその「言葉たち」のことを愚痴るつもりで書き始めたのだが、前置きが長くなったので本論は明日。タイトル見ればテーマはだいたいおわかりと思うので(苦笑)わさわざ書く必要ない、てなものですが、まあ多分、書くと思います……。
  

コメント
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